鹿島の貴公子レオナルド!華麗なリフティングからのゴールはJベストゴールに!
Jリーグ黎明期に、ジーコに誘われ鹿島アントラーズに入団。相手ゴール前でリフティングを駆使してDFをかわしながら決めたゴールは今も語り草になっている。1994年のワールドカップでは、肘打ちにより退場してしまった、貴公子・レオナルドを特集する。
19歳で日本代表に初選出された戸塚哲也!読売クラブでのプレイに支障が出るからと代表を辞退!
読売クラブ、ヴェルディ川崎で活躍したMF戸塚哲也。読売クラブではラモスやジョージ与那城とブラジル流のサッカーを構築。繊細なボールタッチでゴールを量産した得点王でもあった戸塚哲也をまとめる。
ブラジルから来た侍・ラモス瑠偉!元DFだけど日本リーグで得点王!お茶漬けのCMも!
1977年に来日して以降、長らく日本サッカーを支えたラモス瑠偉。現役時代は柔らかなボールタッチから放たれるループシュートなど印象に強く残るプレーが多かった。日本サッカーリーグ時代からJリーグ開幕、ドーハの悲劇のラモス瑠偉を中心にまとめた。
1997年2月4日、PJMフューチャーズ解散によりサガン鳥栖が誕生。マラドーナ兄弟のプレーも実現手前だった!
2002年のアジア開催W杯を見据えて、優秀な選手を輩出しようという桑原勝義氏を中心としたプロジェクトから生まれた「PJMフューチャーズ」。佐賀県に移り、スポンサー離れにより解散し。サガン鳥栖が誕生した。マラドーナ兄弟の招聘も実現可能だった。
小中高とサッカーエリートだった三浦文丈!清商では全国制覇!マリノスでも優勝に貢献!
静岡県清水市出身の三浦文丈。藤田俊哉らと清水市立商業高等学校(通称、清商)時代は全国制覇を達成。筑波大学を経て入団した横浜マリノスでも主力として活躍。その後、京都パープルサンガ、ジュビロ磐田、FC東京とチームを移籍した。三浦文丈のサッカー人生を振り返る。
どうも!ナカガーこと「なかがわひろき」です。もうン十年マンガを描いたりお手伝いをしたりしてきました。 そんな僕の記憶のブラックボックスを開けてみようかと…。 初回は長年僕が思っていた「キャプテン翼」と「浜田省吾」と「Jリーグ」の関係を!
Jリーグ日本人初ゴールの風間八宏!94年のサンフレッチェ広島初優勝に貢献!
清水市立商業高等学校の頃から周囲に才能を認めさせ、ドイツでもプレーした風間八宏。Jリーグの黎明期はサンフレッチェ広島で活躍し、初優勝にも貢献した。Jリーグの日本人初ゴールは風間八宏ということをご存知だろうか?
盧廷潤(ノ・ジュンユン)。韓国では非難を受けるも誠実な人柄が好きだった!
韓国代表として初めてJリーグでプレーしたサッカー選手である盧廷潤(ノ・ジュンユン)。がっちりとした体格と得意のスピードを活かした突破力で中盤を活性化させた。ワールドカップにも韓国代表として2大会に出場している。
W杯得点王・薄毛のスキラッチ!ジュビロ時代には武田修宏を殴り前歯を折った!
1990年のイタリアW杯でイタリア代表のフォワードとして活躍し、得点王に輝いたサルヴァトーレ・スキラッチ。1994年に当時ジュビロ磐田の監督を務めていたハンス・オフトの意向により、Jリーグにやってきたスキラッチをまとめた。
1998年にゴン中山が達成した4試合連続ハットトリックの「ギネス記録」がついに破られる!
1998年に中山雅史(愛称:ゴン中山)がジュビロ磐田在籍時に達成した4試合連続ハットトリックのギネス記録が破られた。記録を更新したのは、クロアチアのサッカー選手FWスティパン・ルチヤニッチ。なんと5試合連続ハットトリックを達成したとのこと。
TUBEのギタリスト春畑道哉が、ソロデビュー30周年で記念アルバムを発売!アルバム表題曲のMVも公開!
TUBEのギタリスト春畑道哉が、ソロデビュー30年目・50歳を迎える節目に、30周年アルバム 「Play the Life」を発売した。また、レスリー・キー監督によるアルバム表題曲「LIFE」のミュージック・ビデオとメイキングの一部が公開された。
名古屋グランパスがJ2降格!Jリーグ開幕初年度から参加し続けた"オリジナル10"の1チームだった
接戦となっていた残留争いは、名古屋グランパスが来季J2に降格することで決着した。クラブ初のJ2降格となった。かつては今期監督を務めた小倉隆史やリネカー、ストイコビッチ、福田健二らが在籍していた。また、90年代前半にはマラドーナ獲得の話もあった。
フランスW杯直前、Jリーグデビューから11日後の高校生が日本代表デビュー!市川大祐!
1998年のフランスワールドカップを前に、高校生ながら代表へ招集された清水エスパルスの市川大祐。同じく10代だった天才・小野伸二と共に日本代表の試合に出場。カズと同じく、惜しくもワールドカップ直前に代表落ちするも日韓ワールドカップで活躍した。
「第13回日本サッカー殿堂」にJリーグ黎明期に鹿島アントラーズで活躍したジーコが選出される!
日本サッカー協会は第13回日本サッカー殿堂を発表。個人部門ではJリーグ黎明期に鹿島アントラーズで活躍し、その後日本代表監督も務めたジーコが選出された。今回から新設のチーム部門は1936年、ベルリンオリンピック出場の日本代表チームを選出した。
1993年5月に開幕を迎えたサッカー・Jリーグ。これまでは代表戦でさえ閑古鳥が鳴くほどサッカーは低迷しており、クラブチームなどは招待客ばかりだった。それを一変させたのがJリーグ。日本サッカーのターニングポイントともなった1993年から20年強。Jリーグの今と昔の違いを振りかえっていきましょう。
浦和レッズと言えば、日本一の観客動員を誇るサポーターを有し、リーグ戦でも常に優勝争いをする強豪チームとなりましたが、1993年Jリーグ開幕時は「Jリーグのお荷物」と言われるほど最弱チームだった。レッズサポーターにとって屈辱の時代とも言うべき90年代の浦和レッズを振り返ってみましょう。
アジアの大砲として恐れられた高木琢也 センタリングを上げればヘディングで決めてくれました!
Jリーグ初期に、日本代表としてもサンフレッチェ広島の選手としても活躍した高木琢也。恵まれた身体で、打点の高いヘッドが持ち味でした。また、ヘディングだけでなく、足元の技術もありました。そんな彼を特集します。
生まれてくるのがちょっと早かった!?Jリーグ開幕前の名プレイヤー
Jリーグが開幕してからは、サッカー人気は定着。特に代表選はチケット入手困難なほどです。しかし、今から30年ほど前は、代表選ですら閑古鳥が鳴いているほどでした。その頃に活躍した選手を「生まれてくるのがちょっと早かった!?Jリーグ開幕前の名プレイヤー」を題し、プレイバックしていきましょう。
1993年に日本初のプロサッカーリーグである華々しくJリーグが開幕を果たし、天才と評された選手や、海外のスタープレイヤーがJリーグのピッチに立ちましたが、なかには期待外れと言わざるを得ない結果で終わった選手も。ここでは、そんな「Jリーグ初期の期待外れで終わった選手たち」にフューチャーしていきます。