いつまでも若々しく見えるラモス瑠偉だが、実は2017年2月9日に還暦を迎えている。
1957年2月9日にブラジルのリオデジャネイロから山側に70-80キロほど入るメンデスという小さな町で生まれた。
1977年に来日して以降、長らく日本サッカーを支えた侍。現役時代は柔らかなボールタッチから放たれるループシュートなど印象に強く残るプレーが多かった。
めでたく還暦を迎えたラモス瑠偉を特集する。

ヴェルディ川崎時代のラモス瑠偉
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2月9日の「今日は何の日」? - Middle Edge(ミドルエッジ)
1977年に来日し、日本サッカーリーグで得点王に輝いたラモス瑠偉
1977年1月、ラモス瑠偉(以下、ラモス)はサンパウロ州1部リーグのサアジFCに所属していた19歳の時に、当時読売サッカークラブ(以下、読売クラブ)でプレーしていたブラジル出身の日系二世の与那城ジョージにスカウトされ、日本に渡ることを決意した。
1977年4月に20歳で来日し、読売クラブに入団した。当時はラモスの細身の身体つきから「エンピツ」と呼ばれていた。

20歳!!

来日した頃

与那城ジョージ(左)とラモス瑠偉(右)
ブラジル時代はDF(スイーパー)だったが、来日後はFWとしてプレイした。
このコンバートは的中し、1979年には2試合連続ハットトリックを含む14得点7アシストを記録し、得点王・アシスト王の二冠に輝いた。
1981年にバイク事故を起こしたため、足を大怪我し、1982年シーズンに復帰したものの1得点のみに終わる。しかし、1983年には復活し、10得点で得点王を獲得した。

颯爽とピッチを駆け抜ける!
1985年に名門サントスFCらを招き、キリンカップが行われた。日本代表と共にクラブチームである読売クラブが参加した。
サントスFCはキングカズこと三浦知良が所属したことでも有名(カズの在籍は1986年2月から)。当時の日本サッカーのレベルを考えれば雲の上の存在とも言えるチームだった。
他にはウルグアイ代表、マレーシア代表が参加した。
この大会で読売クラブは単独チームとして世界のプロ相手に善戦し、ラモス自身もテクニックが高いことを十分に証明した。
この大会で、日本代表は海外のチームに勝てないどころか、読売クラブ戦にすら惨敗した。当時日本代表レギュラーの約半分が読売クラブ出身であった。
来日時は度々問題を起こし、1年間の出場停止も!
読売サッカークラブへの加入動機は、「なんとしてでもサッカーで金を得る」ためであったが、来日からまもなくホームシックに陥り、ブラジルに帰りたいと涙するなど感情を素直に表すラモス。
感情の起伏の激しい性格で、それは試合中であろうとも変わらなかった。
1978年1月14日、当時人気低迷が続く日本サッカーリーグにおいて「黄金カード」とされた対日産自動車サッカー部戦。試合中ラモスがファウルをし、レッドカードを受けた。この際、相手選手はラモスのファウルを大げさにアピールし、痛がる演技。その後、ラモスがレッドカードで退場する際に、当の相手選手が笑っているのを見て激怒。その相手選手をグラウンドで追い掛け回したことで、異例ともいえる1年間の出場停止処分を受けている。

読売クラブ時代
1993年Jリーグ開幕!ヴェルディ川崎の中心選手として活躍!!
1993年5月15日に開幕したJリーグ。それまで野球に比べ、マイナースポーツの感があったサッカーが一躍人気スポーツとなった。
ミサンガを腕に巻き、顔にペイントする若者でスタジアムは溢れかえった。そんな一大ブームの中、一番の人気チームが、読売クラブからチーム名を変えたヴェルディ川崎であった。
当時36歳で大ベテランであったラモスは、日本サッカーリーグ時代から変わらず中心選手として活躍した。カズや北澤、武田、柱谷と日本代表クラスを揃えたヴェルディ川崎において、中盤に君臨し、長短さまざまなパスを配給した。
また、自身の得点感覚も健在で、1994年のサントリーチャンピオンシップの対サンフレッチェ広島の第2戦では、後半35分にゴール前のこぼれ球を見事にコントロール。キーパーをあざ笑うかのように、いかにもラモスらしい柔らかなループシュートを決めて優勝を決定づけた。
ちなみに、この試合はともにクラブを支えた盟友加藤久の引退ゲームでもあった。

ヴェルディ川崎の”10番”といえばこの男しかいない!
日本代表では”ドーハの悲劇”を経験!オフト監督とは軋轢も!!
1989年11月に日本国籍を取得したラモス。
翌1990年のアジア競技大会時に、日本代表に初選出され、1991年のキリンカップ初優勝に貢献した。
1992年にオランダ人のハンス・オフトが、外国人として初めて日本代表監督に就任。
同年夏のダイナスティカップで優勝し、秋に行われたAFCアジアカップでも優勝に導き、日本国外で行われる国際的な大会で日本サッカー界初となるビッグタイトルをもたらした名監督であった。
この頃の日本代表はキーパーが松永成立、DFの中央に井原正巳と柱谷哲二、サイドに堀池巧、都波敏史もしくは勝矢寿延、MFに森保一、吉田光範、ラモス、北沢豪、FWに高木琢也、三浦知良、福田正博、中山雅史らが中心として活躍していた。

日本代表でも「10番」だった

ハンス・オフト監督
しかし、オフトの目指すサッカーは、ラモスが求める自由度の高いブラジル流サッカーとは異なり、規律と組織を重視したものであった。
自己主張の強いラモスは、オフトへの批判をマスコミ上で展開。それにより一時期代表を外されかねない危機もあったが、1992年9月26日、オフトとの30分程度の個人面談(通訳の為に小倉純二専務理事が同席)で和解している。
そして、1993年10月のアジア最終予選、最終戦のイラク戦で後半ロスタイムに同点とされ、ほぼ手中にしていた悲願のワールドカップ初出場を逃す”ドーハの悲劇”を経験した。
同年の5月に「36歳85日」の日本代表最年長得点記録(2011年時点)を打ち立てるなど、まだまだ衰え知らずといったラモスであったが、自身はたとえ本大会出場を果たしたとしても、代表から引退する意思を持っていたという。

”ドーハの悲劇” ピッチに座り込んで動けないラモス
1998年に現役を引退
1998年11月14日に日立柏サッカー場で行われた柏レイソル戦で現役を退いた。
41歳9ヶ月5日という最年長出場記録は2009年に中山雅史に抜かれるまではJリーグ記録だった。
翌1999年8月には国立霞ヶ丘競技場でラモスの引退試合が開催された。
カズや武田、北澤らヴェルディ川崎のOBなどで構成するチームの一員としてJリーグ選抜と対戦。この試合はJリーグとして初の公認引退試合であった。
この試合は4万8千人もの観衆を集めた。ラモスは「初めてここでプレーした時は400人ぐらいだったが、きょうは一人の選手のためにこんなに多くの人が来てくれた。夢のようです」とコメント。また、「生まれかわっても、日本に来て早く帰化してワールドカップへ出たい」と情熱的なラモスらしく涙と共に語った。

引退セレモニー後、日の丸を持ちながらグラウンドを一周した
献身的にラモスを支えた日本人妻
1980年10月、当時23歳のラモスは後に妻となる21才の初音さんと出会った。当時美大生だった初音さんを友人から紹介された。ラモスはその時「胸がドキドキして、足が震えましたね」と一目惚れだったと明かしている。
ラモスは1981年8月2日にバイク事故を起こす。左足のすねを複雑骨折し選手生命が危ぶまれる程の大怪我であった。この時のラモスは非常に取り乱し、病院に駆け付けた初音さんが手をつけられないほどだったという。ポルトガル語で喚き散らし周囲にあたり散らしていた。
入院生活を送る中、往復に4時間以上かけて見舞いに訪れる初音さんに対し、ラモスは「二度と来るな!顔も見たくない。帰れ!!」と怒りをぶつけるも、翌日また看病に訪れた初音さんに「(内心)降参した」とラモスの方が折れ、この献身的な看病に感激して結婚を決意した。
結婚した時にラモスは「あの事故の時に初音ちゃんは僕を笑顔で守ってくれた、だから今度は、どんなことがあっても初音ちゃんを笑顔で守る」と誓ったという。

初音さんとラモス
ラモスが日本への帰化を決めたきっかけも初音さんだった。
最初、読売クラブのコーチから帰化を勧められるが、これは外国人枠3人を超える4人もの外国人が在籍していたクラブ事情があったためで、その時自身の人生が天秤にかけられているように感じて始めはムッとした。また、いずれはブラジルで初音さんと所帯を構えようと漠然と考えていたこともあり、帰化に前向きではなかったものの、熟考した結果「妻(初音)の両親は快く一人娘をガイジンの俺にくれた、俺はとんでもない馬鹿野郎だった。何かの形で日本に恩返ししないとこれでは筋が通らない。」と猛省。その後、日本国籍取得の申請を届け出た。
帰化した時点では日本代表に選ばれるとも思っていなかったため、日本代表に初招集された時には、夢のようで嬉しくて涙がこぼれたとも述べ、もうブラジル人ではなく日本人になったのだと実感したと語っている。
ちなみに本名の「Ruy」の当て字「瑠偉」は初音さんの考案によるもの。

結婚後も、ラモスを支え続けた初音さんだったが、ある日突然病に倒れた。
ラモスがビーチサッカー日本代表監督を務め、忙しくしていた頃、初音さんは脇腹に激痛を訴えて緊急入院する。その時の診断結果は転移性肝ガンで、「おそらく持って1ヶ月」という宣告を受けた。
ラモスは初音さんに「出血がしばらく収まらないから、入院だって」と伝え、ガンの告知は一切せずに看取ることを決断した。ラモスは献身的な看病を行ったが、病室の一歩外では人知れず涙を流していたという。
2011年7月17日、なでしこジャパンがW杯で優勝する様子を病室で初音さんと見ていたラモス。すると初音さんは「次はあなたの番ね。私退院したら、イタリアに応援に行くわ」と、8月に控えていたビーチサッカーのイタリアでのW杯に行くと言う初音さん。ラモスは「わかった、約束するよ」と答えたが、その後初音さんの病状はさらに悪化、入院からわずか10日で亡くなることとなり、約束が果たされることはなかった。52歳だった。

初音さんを亡くした後に、ビーチサッカーW杯で指揮をとるラモス
エピソード
ラモス瑠偉 - フレッシュアイペディア

現在もフットサルの発展を支援、指導を続けている
90年代は数多くのCMに出演!!
上記のJリーグカレーのCMはカレーを食べた少年に、ひげが生え、髪の毛が伸びラモスになってしまう内容。
「日本人ならお茶漬けやろ!」のCMしかり、当時はラモスをCMで見ることが多かった。
70年代後半から90年代前半までの日本サッカーを支えたラモス。華麗でいて、気合いも伴った熱いプレーでサッカーファンを魅了した。
しかし、ひとつの疑問。ラモスの時々出る関西弁はなんなんだろう(笑)