皆さんは覚えているだろうか。サッカー王国静岡で結成され、連戦連勝を飾った「PJMフューチャーズ」を。
その後、佐賀県鳥栖に移転し、日本代表クラスを迎え入れる補強を行い、マラドーナ兄弟の招聘にも奔走した期待のサッカーチームだった。
しかし、Jリーグ昇格は叶わず、スポンサーが離れ、チームは解散を余儀なくされた悲運のチームでもあった。
2017年2月4日現在からちょうど20年前に起きた、”企業スポーツ”であるJリーグの現実をまざまざと突きつけられたサッカーチームを特集する。
※下記は2月4日の「今日は何の日」?へのリンクです。
本稿のPJMフューチャーズ、サガン鳥栖のできごとも記載されています。サクッと読めて過去のできごとを知れるお手軽な”年表的”記事です。良ければご一読くださいませ。
2月4日の「今日は何の日」? - Middle Edge(ミドルエッジ)
J1を目指した伝説のサッカーチーム「PJMフューチャーズ」
浜松の伝説的サッカークラブ「PJMフューチャーズ」 Super Water CHA!CHA!CHA!

「PJMフューチャーズ」ユニフォーム

1987年に創設され、破竹の勢いで連勝を重ねた!
鳥栖フューチャーズとは - goo Wikipedia (ウィキペディア)

1994年のメンバー

「鳥栖フューチャーズ」フラッグ

「鳥栖フューチャーズ」ユニフォーム

1996年までホームスタジアムとして使用していた佐賀県総合運動場陸上競技場
佐賀新聞ニュース/The Saga Shimbun :フューチャーズ解散、サガン鳥栖誕生

1997年2月1日の佐賀新聞。見出しは「鳥栖F運営会社が解散」

「サガン鳥栖」歴代ユニフォーム
「マラドーナ兄弟」のプレーが実現する予定だった!
実現一歩手前まで進んだ補強があった。
PJMフューチャーズ時代、監督の桑原勝義が協会にプロリーグ入りを要請しに行ったところ「ディエゴ・マラドーナを連れてきたら考えなくもない」と言われたという。それを聞いて、本気になった桑原はイタリアまで飛んで本人を追い掛け回して直談判まで持ち込んだ。
その頃のマラドーナはイタリア生活に疲れていた上に、1990 FIFAワールドカップでアルゼンチンがイタリアを下したために苛烈なバッシングに遭っており、「日本でプレーする」という言質まで取るが、マラドーナの麻薬スキャンダルが発覚し、マラドーナのJリーグ入りは消滅した(その他、1991年には名古屋グランパス入りも有力視された)。

ナポリ時代の兄ディエゴ・マラドーナ
一方、弟であるウーゴ・マラドーナは、兄の所属していたイタリア・セリエAのナポリに在籍したが、カレカなど大物外国人選手がいたため、外国人枠から漏れ、兄弟でのプレーを期待されながらも、チームを転々としていた。
そんな中、1992年にPJMフューチャーズ(当時本拠地・浜松市)に入団。
当時のPJMフューチャーズは将来のJリーグ参入とディエゴ・マラドーナ獲得を掲げ話題となっていたが、ウーゴの移籍は「兄を呼び入れる為の布石だ」とファンやマスコミの間で推測された。
結果として兄弟でのプレーは前述の兄の薬物問題によって実現する事はなかったが、ウーゴ自身はアルゼンチンJrユース代表経験者らしく、戦力として充分に貢献した。

1994年頃の弟ウーゴ・マラドーナ
在籍した主な選手

弟ウーゴ・マラドーナ ※画像はアビスパ福岡時代

松永成立 ※画像は横浜マリノス時代

ステファン・タタウ

松田悦典(右) ※左は三浦和良

米山隆一 ※画像は1994年頃
90年代のJリーグでは、PJMフューチャーズ以外にも、1998年の横浜フリューゲルス解散もあった。
地域に根差した運営を図りながらも、結局は母体企業の経営に左右されてしまう”企業スポーツ”なのだなと色々考えさせられた。
「横浜フリューゲルス消滅」合併発表後、一度も負けずに天皇杯優勝!同時に解散となりました・・・。 - Middle Edge(ミドルエッジ)