Jリーグ"オリジナル10"の名古屋グランパスがJ2降格!
3日、明治安田生命J1リーグ2ndステージの最終節が各地で行われた。接戦となっていた残留争いは、名古屋グランパスが来季J2に降格することで決着した。
名古屋はJリーグが設立された1993年からリーグに参加してきた10チーム、いわゆる”オリジナル10″の一角で、2010年には年間王者のタイトルも獲得している。
99年にJ1、J2の2部制が導入されて以来常にJ1で戦い続けてきたが、クラブ初のJ2降格となった。
かつての在籍選手には、今期監督を務めた小倉隆史やリネカー、ストイコビッチ、福田健二といった名プレーヤーがいた。

初のJ2降格が決定した名古屋グランパスのイレブン
最終節を迎えた時点でジュビロ磐田、ヴァンフォーレ甲府、アルビレックス新潟、名古屋の4チームが残留を争っており、この4チームのうち1チームが降格するという状況だった。
降格圏の16位に位置していた名古屋は、ホームですでに降格の決まっている湘南ベルマーレと対戦。
しかし、前半だけで0-2とリードを奪われる苦しい展開となった。後半立ち上がりに1点を返したが再び突き放されて1-3の敗戦に終わり、勝ち点を伸ばすことはできなかった。
名古屋と勝ち点で並んでいた新潟もホームでサンフレッチェ広島に0-1で敗れたが、得失点差で新潟がマイナス16、名古屋がマイナス20となり、名古屋が16位のまま降格することが決まった。ベガルタ仙台に1-0で勝利した磐田、サガン鳥栖に0-1で敗れた甲府は新潟とともに残留を決めた。

今期のユニフォーム
ゴールキーパーで長らくチームを支えてきた楢崎正剛は、チームの公式サイトでファン・サポーターに対し、「どんな厳しい状況の中でも、いつも力をくれますし、今日も試合前から良い雰囲気を作ってくれました。本当に感謝しかありませんし、それに応えられなかった自分たちの不甲斐なさと力の無さに悔やむばかりです。本当に申し訳無い気持ちと「ありがとう」という気持ちしかありません。」とコメントしている。
これにより、J2に一度も降格したことのない”オリジナル10″は、鹿島アントラーズと横浜F・マリノス(99年に横浜マリノスと横浜フリューゲルスの合併により誕生)の2チームのみとなった。

号泣する名古屋の楢崎(右)と力なくうつむく闘莉王(左)
Jリーグ黎明期、世界の大物が数多く在籍した「名古屋グランパス」
愛知県全県をホームタウンとする名古屋グランパスエイト。
トヨタ自動車工業サッカー部(1939年に創部)が母体。1991年のJリーグ発足時に加盟した10チームの一つ(オリジナル10)。
スポンサーがトヨタ自動車であることからJリーグ屈指の資金力を持ち、日本人を含む各国代表クラスの有力選手を獲得することも多く、また若手を含む多くの外国人選手をJリーグの舞台に招き入れている。

Jリーグ黎明期、屈指の大物外国人 ゲーリー・リネカー
Jリーグ開幕前年の1992年には、イングランド代表として1986年のメキシコワールドカップに出場し、得点王を獲得したゲーリー・リネカーと契約した。
当時、Jリーグには大物外国人助っ人が数多く来日したが、その中でもトップクラスの実績を誇ったプレーヤーだった。
なお、当初はディエゴ・マラドーナの獲得を目指していたが、マラドーナの麻薬所持疑惑により白紙撤回され、スキャンダルのないクリーンなイメージのリネカーを獲得した経緯がある。
1994年にはピクシーと呼ばれ、長くサポーターに愛されることになるドラガン・ストイコビッチを獲得。彼の華麗なプレーはファンを魅了した。
1995年はASモナコで監督として結果を残していたアーセン・ベンゲルが監督に就任。
攻撃のキーマンにストイコビッチを据え、高い位置からプレスをかけてボールを奪い、攻守の切り替えを素早く行うという組織的な戦術で、年間総合3位、天皇杯優勝を獲得した。

名古屋グランパス監督に就任したアーセン・ベンゲル

前列左から4番目がストイコビッチ
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