戸塚哲也
1961年4月24日生まれ。東京都出身。
都立世田谷工業高校自動車科卒。元日本代表。
【個人データ】
身長:174cm
体重:70kg
ポジション:MF

ヴェルディ時代の戸塚哲也
【所属クラブ】
・読売クラブ(1979-1992) ※ユースにはそれ以前から所属
・ヴェルディ川崎(1992-1994)
・柏レイソル(1994)
・ワールドブリッツ小山(1996)

「カルビーJリーグカード」裏面
ブラジルから来た侍・ラモス瑠偉!元DFだけど日本リーグで得点王!お茶漬けのCMも! - Middle Edge(ミドルエッジ)
18歳と1日で日本サッカーリーグデビュー!
読売クラブの下部組織出身。
1979年4月25日の東洋工業戦において、18歳と1日で日本サッカーリーグデビューを飾る。これは当時の最年少出場記録でもあった。
1981年にスペインのバレンシアCFにサッカー留学を行う。
帰国後、後楽園球場で行われたハレルヤ蹴球団との試合で30mのミドルシュートを決め、決定力の高さを実証した。
戸塚哲也 - フレッシュアイペディア
19歳で日本代表に選出!
1980年、19歳の若さで日本代表に初選出される。
「1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選」では、風間八宏、金田喜稔といったテクニシャンと共に中盤を形成。しかし、中国に敗れ予選突破は成らなかった。
その後も代表へ度々選出され、背番号10番を背負う事もあったが、1983年に個人的な理由から辞退した事で、それ以降数年間代表へ招集される事はなかった。
しかし1985年に行われた「1986 FIFAワールドカップ・アジア予選」では、当時の監督・森孝慈の強い要望もあり、日本へ帰化したジョージ与那城と共に最終予選東京・ソウルでの韓国戦2試合に出場した。
しかし、日本は2連敗で悲願のワールドカップ出場を逃している。
この頃の戸塚は、読売クラブでは好調さを維持していただけに、早くから戸塚が参戦して代表に溶け込んでいたらと、当時を振り返り惜しむオールドファンは少なくない。
国際Aマッチ、18試合出場で3得点だった。

日の丸を背負ってプレイ!
≪戸塚が日本代表を辞退した理由≫
日本代表を辞退するサッカー選手|My Back Pages
Jリーグが開幕し、ヴェルディ川崎でプレイ!
ラモスは読売クラブ時代に居残り練習をしていた時、戸塚や都並敏史らユース世代を交えて遊んでいたという。
戸塚は根っからの読売っ子で、Jリーグが開幕してもヴェルディでプレイを続けた。
しかし、当時32歳だった戸塚は、三浦知良ら現役日本代表を多数擁し、クラブの黄金時代を謳歌するチームにおいて、次第に出番を失うようになった。ヴェルディでは17試合出場で1得点だった。
戸塚と同じくヴェルディに在籍していた北澤豪は、スタメン選手は11以下の背番号という決まりがあったため8番をつけてはいたが、実際に好きな背番号は憧れの戸塚がつけていた「14」だったという。
そして、1994年に出場機会を求め、当時ジャパンフットボールリーグに在籍した柏レイソルに期限付き移籍、その年のJリーグ昇格に貢献した。
その後、1996年に栃木県社会人サッカーリーグのワールドブリッツ小山に移籍。監督兼任でプレイし、天皇杯の栃木県代表へと導いた。
なお、1997年にはビーチサッカーの日本代表として、ポルトガルで行われた世界選手権世界大会に出場している。

ヴェルディ川崎時代
生まれてくるのがちょっと早かった!?Jリーグ開幕前の名プレイヤー - Middle Edge(ミドルエッジ)
引退後
現役引退後はサッカー解説者、指導者として多方面で活躍。
2006年からFC岐阜監督に就任し、JFL昇格に導き、2007年に監督へ就任したFC Mi-O びわこでもJFL昇格に導いている。
そして、2008年に戸塚はびわこの監督を退任し、FC町田ゼルビアの監督に就任。
チームは関東サッカーリーグ1部で優勝。戸塚は3年連続のJFL昇格成功を目指して全国地域リーグ決勝大会に参加。地域リーグ決勝大会で優勝しJFLへの参入が決まるとともに、自身も異なるチームで3年連続でJFL昇格に導いた。
そのことから「JFL昇格請負人」の異名を持つ。

FC町田ゼルビアの監督時代
80年代、日本サッカー冬の時代に活躍した名MFの戸塚哲也。
その細かく繊細なボールタッチに魅了された。Jリーグの開幕がもう5年早ければ!とスポーツで禁じられている”タラレバ”を考えてしまう。もっと一般的な知名度があってもおかしくないスター選手だった。
戸塚の息子・泰貴は、現在人気のあるSuchmos(サチモス)というバンドに所属している。TAIKING(タイキング)という名でギターを担当。
息子の活躍をきっかけに、若い人にも父親・哲也のプレイを知ってもらえたら嬉しい。