2017年元日、天皇杯決勝。
川崎フロンターレの監督として臨んだ最後の試合。惜しくも鹿島アントラーズの前に屈し、チームに初のタイトルをもたらすことは出来なかった風間八宏。
来季からはJ2に降格した名古屋グランパスで指揮を執る。
落ち着いた口調で淡々と話す彼だが、実は熱い男だった。
現役時代を振り返りながら風間八宏の哲学に迫っていく。
風間八宏
風間八宏 プロフィール
1961年10月16日生まれ。静岡県静岡市清水区出身。
元サッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。
長男の風間宏希、次男の風間宏矢もサッカー選手。
【個人データ】
・身長 173cm
・体重 67kg
・ポジション MF
・利き足 右足
サンフレッチェ広島時代
【学歴】
1977年-1979年 清水市立商業高等学校 ※通称「清商(きよしょう)」
1980年-1983年 筑波大学
【所属クラブ】
1984年 ジョイフル本田
1984年-1985年 バイエル・レバークーゼンII
1985年-1988年 FCレムシャイト
1988年-1989年 ブラウンシュヴァイク
1989年-1992年 マツダSC
1992年-1995年 サンフレッチェ広島F.C
1996年-1997年 FCレムシャイト
風間八宏 来歴(高校時代まで)
母子家庭の長男として育つ。母親は磯料理を営み息子3人を育てた。
名門・清水市立商業高校 (後の静岡市立清水商業高等学校)時代から才能を存分に発揮。
大滝雅良監督をして「教える事は何もない」と言わしめたほど。大滝にこれまでの指導法を変えるほどの影響を与えた。(※後年、風間と大滝は共に「清水スペシャルトレーニングセンター」を立ち上げ、若年層の育成にも努めている。)
3年連続で静岡県高校ベストイレブンに選出された。
現・静岡市立清水商業高等学校
その才能は静岡県に留まらず、日本で開催された「1979 FIFAワールドユース選手権」の日本代表に高校生ながら選出された。仙台向山高の鈴木淳、帝京高の名取篤とともに高校生トリオとして名前を馳せた。
ちなみにこの大会ではアルゼンチンが初優勝。80年代に世界を驚かせることになるディエゴ・マラドーナがゴールデンボール(MVP)に選ばれている。
仙台向山高出身の鈴木淳
帝京高出身の名取篤
風間八宏 来歴(大学時代以降)
日本代表時代
1989年にドイツから帰国。
日本サッカーリーグ2部のマツダSCに入部した。翌1990-91シーズンに1部復帰を果たす。
1992年、Jリーグ発足に伴ってサンフレッチェ広島F.Cとして改組。
Jリーグ開幕戦で風間は、開始1分でゴールを上げ、これがチーム第1号ゴールであり日本人選手としてJリーグ初ゴールとなった。
同年、NICOSシリーズの第1節においても、リーグ戦で日本人初めての直接FKによるゴールを決めている。
1994年にサンフレッチェ広島が初優勝!
風間八宏の哲学
若い頃の風間八宏
マツダ時代
サンフレッチェ広島時代
名将として名を馳せている風間八宏
以上、80年代日本サッカー冬の時代にドイツリーグで自らの可能性に賭け、挑戦し続けた風間八宏の特集だった。
Jリーグ黎明期に活躍した選手として知られるが、以降も独自の哲学を貫き、監督として一定の成功を収めている。
風間には「修正」という概念が無いそう。現状に戻すより、目指すは「進化」だという。
Jリーグ開幕時の10チーム、「オリジナル10」のひとつだった名古屋グランパス。
その伝統あるチームを1年でJ1に復帰させられるか。風間の手腕が試される。