K-1誕生
1993年5月、フジテレビの「Live UFO 93」内のイベントとして、「K-1 Grand Prix93 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント」が開催された。
K-1 グランプリ開始である。
この第1回大会では、ピーター・アーツ、モーリス・スミス、佐竹雅昭の3人が優勝候補といわれた。
しかし決勝戦は共にノーマークだったブランコ・シカティック vs アーネスト・ホースト。
そしてブランコ・シカティックの拳がアーネスト・ホーストを打ちぬいた。
2度目の引退
角田信朗は、決勝戦の前のスペシャルマッチでアンディ・フグと対戦。
以前、負けたときの反省から、踵落としをすべて封じて、接近戦に持ち込んだが、その接近戦でもアンディ・フグの膝蹴りを頭部にもらいKO負けした。
1993年6月、「聖戦」において角田信朗は、アンディ・フグに続いて正道会館に移籍したイギリスの黒豹、マイケル・トンプソンと対戦。
後回し蹴りをボディにもらってKOされた。
1993年10月、「カラテワールドカップ93」には、アンディ・フグ、マイケル・トンプソン、サム・グレコという極真の世界大会でも活躍した空手家たち、UFCで大暴れしたケンカ屋、パトリック・スミス、ムエタイチャンピオン、チャンプア・ゲッソンリットも参加した。
角田信朗はマイケル・トンプソンと再戦。
マイケル・トンプソンが体を回転させた瞬間、前回、ボディに後ろ回し蹴りをもらった忘れようにも忘れられない痛い記憶が角田信朗にボディをカバーさせた。
しかしマイケル・トンプソンの蹴りは中段から軌道を変えて上段へ変化し、角田信朗のこめかみへ。
角田信朗は意識を失い倒れた。
失神KO負けだった。
負けたら引退と決めていた角田信朗は引退した。
(2度目の引退)
角田信朗は、カラテワールドカップを含めて正道会館の全日本大会には、第1回大会から12回連続出場した。
光と影
1994年3月、アンディ・フグが、前年のK-1王者、ブランコ・シカティックと対戦。
倒し倒されの激闘の末、不屈のスピリットで勝ってしまう。
アンディ・フグは、まだグローブマッチを3戦目でボクシングを本格的に習得したのは後のことである。
1994年4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で大山倍達は死去した。
70歳だった。
大山倍達は遺言書で松井章圭を後継者に指名。
松井章圭は極真会館の館長となった。
大山倍達はあまりに偉大な存在だった。
極真のほとんどの支部長は大山倍達に憧れ、この道に身を投じた。
その絶対的存在、精神的支柱を失った極真は、この後、分裂を繰り返していく。
1994年6月、大山倍達の遺族が記者会見を行い
「遺言に疑問があるので法的手段にでる」
と発表。
彼女たちは大山倍達の本葬時にも抗議活動を行った。
そして5名の支部長がこれを支持し、松井章圭の下を離れ、大山智弥子未亡人を館長とする新組織を結成した。
これが「遺族派」、松井章圭を長とする組織は「松井派」と呼ばれた。
1995年4月、35人の支部長が「支部長協議会派」を結成。
松井派は一時、12名までに減った。
世界各地でも分裂が生じ、支部の取り合い選手の引き抜きが行われた。
8月、支部長協議会派と遺族派が合流。
「大山派(現:新極真会)」と呼ばれた。
極真空手の各種大会が、松井派と大山派(現:新極真会)によって開催されるようになる。
松井館派と大山派は、互いに正当性を主張し合った。
1994年、「K-1 GP94」で佐竹雅昭は決勝でピーター・アーツと接戦した末に2位となった。
しかし昨年のK-1チャンピオン、ブランコ・シカティックに勝ち優勝候補だったアンディ・フグは、がパトリック・スミスに秒殺された。
ショッキングなシーンだったが、これによりK-1に「Revenge(リベンジ)」というテーマが加味された。
劇的で華々しいK-1の裏で、角田信朗は道場での指導、K-1の海外との交渉、ルールディレクターなどの業務に携わった。
ちょっと多めに縫っといてもらえますか
第二子、長男、賢士郎が生まれたとき、角田信朗は九州へ駆けつけ出産に立ち会った。
そして医師が切った産道を縫い合わせるとき、
「先生、すいませんけどちょっと多めに縫っといてもらえますか」
といって女性看護師に怒られた。
焼香を断られる
1995年4月24日、芦原英幸が「ALS(筋萎縮側索硬化症、ホーキング病)」と2年半、闘病した末に50歳で亡くなった。
ALSは手や足、のど、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気。
しかし筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害を受ける。
その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなり、力が弱くなり、筋肉がやせていく。
一方で通常、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれる。
1年間で新たにこの病気にかかる人は人口10万人当たり約1-2.5人という難病である。
訃報を聞き、角田信朗は石井和義らと四国、松山へ駆けつけたが、故人の遺志ということで、線香を上げることは許されなかった。
生前、芦原英幸は
「石井を許すことはできない」
といっていたという
侠(おとこ)の挑戦
仕事と指導に追われる毎日を送る角田信朗にある男が挑戦状をたたきつけた。
12年前、る第3回全日本拳武道選手権大会1回戦で角田信朗に敗れた村上竜司である。
村上竜司は翌年の同大会に優勝。
その後、日本を代表する空手家になった。
またキックボクシングでもマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟のヘビー級チャンピオンにもなった。
「角田よ!
ワシと戦らずに引退するんかい!?
ワシの挑戦を受ける勇気があるんやったら名乗り出てこんかい!」
角田信朗は挑戦を受けるため復帰に向け準備を始めた。
(2度目の復帰)
6時、以前は走り込みだったが、両膝の故障を考え自転車を1時間。
朝食後、昼まで仕事を行い、13時から実に7年ぶりのグローブマッチに向けトレーニング。
17時からは指導を行った。
22時に道場を閉めて、食事をし寮に戻り歯を磨いて寝た。
1ヶ月もすると体重は97㎏から85㎏まで落ちた。
Wノブアキ
1995年6月、アンディ・フグの故国、スイスでK-1発の海外大会が開かれることになり、角田信朗も現地へ飛んだ。
そしてチューリッヒのハレンスタジアムで大観衆を集め「K-1 Fight Night」は開催された。
翌日、アンディ・フグにボクシング指導をしていた平仲信明が角田信朗を観光に誘った。
角田信朗は断り、今からジムに行って練習するといった。
すると平仲信明も同行するといい、ホテルから歩いて10分ほどのアンディ・フグのジムに向かった。
しかしジムは日曜日で閉まっていた。
練習場所をなくした2人はトボトボと帰ったが、ホテルの駐車場で練習を開始。
角田信朗はシャドーでアップ。
その後、平仲信明が持つミットへパンチを送り込んだ。
ストップウォッチもタイマーもないので特訓は延々と続いた。
「いいねえ!師範代!
パンチあるよ。」
終わったとき、駐車している車で時間を確認するとWノブアキは2時間以上もやっていた。
竜司 ありがとう
1995年7月、名古屋レインボーホールで行われた「K-1 Legend 翔」で、スペシャルワンマッチとして角田信朗はジョー・サンと対戦。
1度ダウンするも、その後一気にジョー・サンを追い込んで左アッパーを突き上げKOした。
1995年9月、横浜アリーナで行われた「K-1 Revenge2/カラテの逆襲」で、角田信朗は世界タイトル5冠王、キック界のマイク・タイソン、スタン・ザ・マンと対戦。
2Rにローキックでダウンし、セコンドが試合を止めてTKO負けとなった。
その後、角田信朗は、ブルース・ドラゴン・ジョー、上田勉、チャンプア・ゲッソンリットと戦いを重ねた。
1997年7月20日、「K-1 Dream97」で、ついに角田信朗と村上竜司戦が、12年前は愛媛県新居浜の小さな体育館だったが、今回はナゴヤドームの3万人の前で行われた。
角田信朗はリング中央で向かい合い村上竜司にいった。
「竜司、ありがとう」
村上竜司の挑戦宣言のおかげで角田信朗は1日1日を、1分1秒を真剣勝負で生きることができた。
ゴングが鳴ると村上竜司はいきなり跳び上がって膝蹴り。
そして壮絶な打ち合いが始まりKO決着が期待されたが、2人は共に最終ラウンドまで倒れず判定で角田信朗が勝った。
村上竜司は2ラウンド以降、角田のパンチで記憶を失っていた。
K-1 Japan
1998年、「K-1 Japan」シリーズが開始される。
10月、「K-1 Japan 神風 ~日本対世界対抗戦~」で角田信朗は先鋒を務めた。
サザンオールスターズのマンピーのG★スポットにノッて、石橋貴明に「踊る肉団子」といわせた軽快なステップで入場。
195㎝120㎏のバート・ベイルを右のフックでなぎ倒した。
立ち上がったバート・ベイルを攻めまくりスタンディングダウンをとる。
レフリーはカウントは8で止めたが、最初のダウンで肩を脱臼したバート・ベイルは続行することができず角田信朗のTKO勝ちとなった。
しかしその後、宮本正明、長井満也、中迫剛、武蔵は負けた。
翌日、角田信朗は頭を丸め、正道会館とK-1の仕事、そして選手としてトレーニングをハードにこなした。
2ヵ月後、疲れがひどく尿の色が黒くなるなどしたため病院で精密検査を受けると、肝臓と腎臓がほとんど機能していないことが判明。
このままでは命にも関わるという。
医師は2ヵ月の絶対安静と入院、また選手としてリングに復帰することはあきらめるよう命じた。
「40歳の現役ファイター」を目指し1日1日真剣に生きていた角田信朗はショックを受けた。
病院内の移動は歩けるのに「疲れる」という理由で車椅子。
売店に行くことも病室のシャワーを浴びるのも禁止。
1日ベッドで寝ていた。
こうしてクリスマスも正月も病院で過ごすと、医師が驚く超人的回復をみせ、現役復帰の許可を得て1999年2月に退院した。
まさかの黒澤浩樹
退院後は60㎏のベンチプレスも重く感じるほど体力が落ちていたが、ゆっくりとコンディションをつくっていき4月には平均的なレベルまで押し戻した。
そして6月の「K-1 Japan 札幌大会」でのダンカン・ジェームス戦に向けハードなトレーニングを再開した。
ある日、大阪の総本部で昼から行われるプロ部門の練習中に石井和義から寝耳に水の電話が入った。
7月の「PRIDE.7」で黒澤浩樹と空手ルールで戦わないかという。
黒澤浩樹。
伝説の超人である。
極真空手第16回全日本大会に21歳で初出場し初優勝。
翌年の17回大会も圧倒的な強さで決勝に進出したが松井章圭に惨敗。
しかしその殺傷能力は圧倒的で、負けた黒澤浩樹の強さを否定する者は皆無だった。
ベンチプレス200㎏以上、スクワット400kgを挙げ、そのローキックは殺人的な破壊力を秘めていた。
角田信朗にとっても憧れの選手だった。
