日本格闘技界の救世主、桜庭和志は、自然豊かな秋田県南秋田郡昭和町で生まれた。
ガンコで意地っ張りで忍耐強い人が多い東北地方で幼稚園に通っていた桜庭和志は、ある日の午前中、便意を感じたがガマン。
幼稚園にはトイレがあったが、その後も、意地になって便意と戦い続け、帰る時間になると、
「ここまできたら家に帰ってからウンコをしよう」
と覚悟を決め、モジモジしながら帰る準備。
しかし集団降園だったため、自分だけ走って帰るわけにいかず、途中で、
「もう絶対に無理」
という状態に。
人の本性はピンチのときに現れるというが、このとき桜庭和志は
「いいや、しちゃえ」
と桜の散り様のごとき潔さをみせた。
お尻から生暖かいモノが流れ出し、この日は雨で長靴を履いていたため、中に流れ込んでグチュグチュと音がしたが、平然を装い、誰にも気づかれずに帰宅。
「人をダマす快感、人にウソをつく重要性を、このときに学んだ」
小学校では、人見知りはしないが積極的に話しかけることもなく、いつも同じ仲間と遊び、夏は用水路で泳ぎ、冬、稲刈りが終わった田んぼに雪が積もると、
「ワープ」
といって真ん中を歩いた。
近所は玄関のカギをかけない家が多く、小学1年生の桜庭和志が友達の家に遊びに行ったとき、返事がなかったために上がってみるとお金が置いてあった。
すると桜庭和志は、数百円だけ、テイクダウンならぬテイクアウト。
自分の家でも母親の財布や貯金箱から、数百円を抜き取って、駄菓子屋へ。
駄菓子屋でお金を払わずにお菓子をテイクアウトすることもあり、店に入ってチョコレートを取ると、すぐに外に出て自宅裏の小屋に隠し、夜ご飯を食べた後、デザートを楽しんだ。
そしてチョコの匂いがしないか息をチェックした後、家へ。
「こういうスリリングな状況で食べるチョコレートは異様なまでに美味しいから不思議」
犯罪はエスカレートし、小学校2年生のとき、家の貯金箱を丸ごとテイクアウト。
さらにある日、1000円札が入った封筒を発見すると、抜き取って妹に
「これでお菓子買いに行こうぜ」
といった。
しかし妹が親に通報。
部屋に隠していた貯金箱も発見されてしまい、
「お前だろ、盗んだのは!」
といわれ、泣きながら
「違うよ」
と否定したが、罰として水風呂に入らされ、正座をさせられて両手をついて
「ごめんなさい」
最終的に自分がアウトになってしまった桜庭和志は、その後、盗みをすることはなかったが、何か悪いことがある度に、
「ウンコ漏らしたことバレたのかな?」
「他人のウチから金盗んだことバレたかな?」
とドキドキして心が痛んだ。
小学校4年生まで、ほぼ毎日、寝小便をしていたという桜庭和志は、小学校5年生になるとバスケットボール部に入った。
中学校でもバスケットボール部に入ったが、練習は、かなりキツくなり、授業が終わった後、21~22時まで練習し、帰宅が23時になることもあった。
それでもバスケットが好きだった桜庭和志は、早めに登校し、授業が始まるまで体育館で自主練習し、このとき人生の教訓を得た。
1人で行うシュート練習をしていて、楽しくやっているときは不思議なくらいシュートが入るのに、退屈になって楽しくなくなると入らなくなり、入らないことにムカついて意地になると、さらに球筋が乱れることに気づいたのである。
「これは重要な発見。
好きなことを楽しくやっているときは、上達するのは驚くほど早い。
でも嫌いなことや、イヤイヤ練習しても向上しない。
練習は、楽しみながらやった方が絶対にいい。
怒るならサルでもできる。
なんでも楽しくいきましょう」
中学校1年生の夏、本屋で1冊のマンガに遭遇。
それは梶原一騎原作、宮田淳一作画の「タイガーマスクⅡ世」
表紙に虎のマスクをかぶった本物の人間が写っており、
「なんて手が込んでいるんだ!」
また本物のお客さんがギッシリ入っており、
「撮影用のために体育館にわざわざ人を集めて撮ったのか。
よくこれだけたくさんの人を集められたな」
と感心。
バスケットボール部だった桜庭和志には、それが佐山聡という恐るべき身体能力を持つプロレスラーで、空前のプロレスブームを引き起こしていることなど、まったくわからなかった。
しかし10日後、新聞のテレビ欄で
「タイガーマスク vs ダイナマイト・キッド」
という文字を発見し、
「エエッ、本当にいるの?」
と驚いた。
アントニオ猪木率いる新日本プロレスの中継番組「ワールドプロレスリング」は、金曜21時に放映されていたが、秋田県では深夜。
しかし
「観ないわけにいかない」
と夜更かし。
するとタイガーマスクがダイナマイト・キッドに体固めでに勝利。
桜庭和志は、マンガの中のヒーローが現実のリングの中で戦っていること、そして華麗な空中殺法や蹴り、投げ技を繰り出すタイガーマスクの強さに感動した。
「跳んだり跳ねたり、動きの1つ1つが美しい。
とにかくカッコいい!」
「この世にこんなに面白いスポーツがあったとは!」
一気に引き込まれてしまい、以後、毎週、深夜のワールドプロレスリングを鑑賞し、週刊プロレスを購入。
学校ではプロレス好きとプロレス談義に花を咲かせ、秋田県で新日本プロレスの興行があれば観戦した。
憧れのタイガーマスクに掟破りのマスク剥がしを行う「虎ハンター」小林邦明に本気で怒り、アントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳、長州力、ハルク・ホーガン、スタンハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアントの迫力のある肉体と戦いに熱狂。
この時点で、
「将来の職業は、プロレスラー。
それが無理なら、パイロット」
に決定した。
中学2年生の夏、タイガーマスクが突然、新日本プロレスを辞めてしまい、さらに「欽ちゃんのどこまでやるの!?」でマスクを脱いでテレビで素顔をさらし、中学校3年生のなると新日本プロレスを脱退した前田日明、藤原喜明、高田延彦、そして元タイガーマスクの佐山聡らによる、UWFが活動を開始。
UWFは、従来のプロレスのように凶器攻撃や場外乱闘、ロープに跳んだり、恐らく相手の協力がないとできないブレーンバスターがなく、あるのは関節技とキック、そして完全決着。
しかもフィニッシュは地味な寝技が多く、まるで真剣勝負のようだった。
テレビ局との契約もスポンサーもいない超弱小団体だったが、超前衛的なUWFは、若者を中心に強烈に支持された。
桜庭和志も、テレビ中継のないUWFのビデオを借りて熱心に観て、
「もしプロレスラーになるなら新日本プロレスでも全日本プロレスでもなくUWFしかない」
と思った。
バスケットボール部でレギュラーになったが、試合には勝てず、進路を決める時期になると、1歳上で同じ東北(青森県)出身の船木誠勝が中学校卒業後に新日本プロレスに入門していていたこともあり、
「プロレスラーになりたいんです」
と希望。
しかし担任の教師と親は、
「プロレスラーになるのはかまわないけど高校くらい出ておけば」
とやんわり反対。
バスケットボール部の練習が厳しかったので持久力には自信があったが、懸垂は2回、腹筋は3回しかできず、パワーには自信がなかった桜庭和志は、その年、秋田県で行われたインターハイで2位になった秋田市立秋田商業高校レスリング部に入ることを目指した。
秋田商業高校レスリング部監督、茂木優は、プロ野球選手になりたいという夢を持って秋田商業高校に入学したものの野球部に入れず、レスリング部に。
高校3年生のとき、インターハイの個人73kg級の3回戦で山口県代表の長州力と対戦し、引き分け、計量判定で勝利し、その後、優勝。
国士舘大学時代にオリンピックに出場して9位になり、その後、母校のレスリング部の監督となった。
全国2位のレスリング部で、先輩が強いのは当たり前だったが、1年生も、ほぼスポーツ推薦入学で、一般入試で入学した桜庭和志は、中学で柔道の東北チャンピオンだった同級生に投げられまくった。
しかしまったく格闘技経験がなかったため、投げられても楽しく、技の1つ1つに興奮し、
「格闘技に触れられることが快感」
筋力トレーニングは苦手だったが、ほぼ毎日、行っているうちに、腕立て伏せ、懸垂、、ロープ登りなどができるようになると、うれしくて仕方がなかった。
授業の後に行われる通常の練習は、1日3時間~3時間半。
月に1回、1週間の合宿があって、このときは朝、8㎞のランニングやダッシュ。
3年生になると、2日に1回、朝練もあった。
「朝練は始発の電車に乗らないと間に合わないんですよ。
だから家で朝メシが食えないんですね。
朝6時くらいの電車に乗って、1時間くらい練習して、授業が始まる前おにぎり食って・・・」
指導者や先輩が、スポーツ推薦で入った同級生を積極的に指導する中、まったく目立たず、あまり相手にされない桜庭和志は、見よう見まねで技を行い、うまくできないと、その理由を考え、コツコツと反復するなど、自然と自主性が磨かれた。
するとまずタックルがうまく入れるようになり、次にどんな場状態でもタックルを出せるようになった。
スパーリングも、
「休まず攻める」
「亀(うつ伏せ)になってから攻める」
など常にテーマを持って行った。
パワーもスピードもない桜庭和志は、バスケットボールで培ったフェイントを多用し、少しの動きで相手をダマし、スキを突き、
(ダマされてやんの!)
と最高の気分に。
初試合は入部2ヵ月後、1年生の6月で、推薦入部で入った同級生に勝利して、
「マジでうれしかった!」
その一方で摩擦や打撲を繰り返すことで、まず右耳が餃子のようになった。
一般に
「耳が潰れる」
「耳がわく」
といわれる皮膚と軟骨の間に血液がたまって腫れた状態で、タックルに入るのを左右逆にすると、左耳も餃子化。
投げられるのがイヤで膝からマットに落ちるのを繰り返しているうちに右膝の後十字靱帯を断裂。
その後、左膝の内側側副靱帯も痛めてしまう。
それほど熱心にレスリングに取り組む桜庭和志について、茂木優監督は、
「彼(桜庭和志)は、62~63㎏だったんですが、飲み込みの早さは普通ですかね。
並み以上、そこそこでした。
器用な方ではなかったけれど、懐が深く、やりにくいレスリングをしていた。
頭角を現したのは2年生から3年生に入れ替わるころで、片足タックルがよかった。
あとリーチも長いから、グラウンドがよかった」
レスリングに熱中しながら、桜庭和志は、テレビでワールドプロレスリングを観て、週刊プロレスも隅から隅まで熟読。
ビデオでUWFもチェックしていたが、高校1年生の9月、不仲が噂されていた佐山聡と前田日明の不隠試合が起こり、10月になると佐山聡がUWFからの脱退し、「ケーフェイ」を出版。
「ケーフェイ (Kayfabe)」 とは、プロレス界の隠語で、詐欺、インチキ、捏造などという意味で、佐山聡は、この本でプロレスの裏側を暴露しつつ、自身の理想の格闘技について語った。
その格闘技の名前を、
「シューティング」
と呼び、それは、
「シュートとは撃つこと。
つまり殺すことだが、これを格闘技に当てはめるとノックアウトかギブアップで勝負を決める」
という意味で、その格闘技を行う選手を、
「シューター」
とし、自身のジム「スーパータイガージム」でシューターの養成を開始。
これが現在の総合格闘技団体「修斗」となった。
稼ぎ頭の佐山聡を失ったUWFは、新日本プロレスと業務提携を結び、前田日明や高田延彦らUWF勢と新日本プロレス所属のプロレスラーの抗争戦が始まったが、多くのUWFファンは、
「UWF崩壊」
と落胆した。
桜庭和志が高校2年生になった春、前田日明とアンドレ・ザ・ジャイアントの不隠試合が起こり、その半年後には前田日明とキックボクサーであるドン・中矢・ニールセンの異種格闘技戦があり、2戦共に勝利した前田日明は
「格闘王」
と呼ばれた。
高校3年生の6月、佐山聡が日本初の総合格闘技のアマチュア大会「第1回プリシューティング大会」を開催。
プリ(事前)と名づけたのは選手のレベルがまだ低かったためで、入場料は500円。
・上半身は裸
・下半身は、シューティングタイツ、ニーパッド、レガース、サンボシューズ着用
・頭部は、目の周りを透明な板で覆った「プロテクトマスク」を着用
・顔面への攻撃は掌底のみ
・寝技は、打撃禁止、かつ膠着を防ぐため30秒以内
というルールで、約40名の選手が、58kg級、62kg級、66kg級、71kg級、76kg級、82kg級の6階級に分かれて戦い、スーパータイガージムのインストラクターで、マンガ「グラップラー刃牙」の主人公、範馬刃牙のモデルとなった平直行は、76kg級で優勝した。
その5ヵ月後、新日本プロレスのタッグマッチで、前田日明がサソリ固めをかけて両手が使えない長州力の顔面を蹴って病院送りにして、無期限出場停止処分となった。
(長州蹴撃事件)
レスリングには、体のどの部分への攻撃も許されるフリースタイルと、腰より下をつかむことを禁じられているグレコローマンスタイルがあるが、高校3年生の桜庭和志は、UWFスタイルを導入。
佐山聡が使っていたタイガードライバー(相手の頭を抱えて、小さなブレーンバスターのように投げる)を練習し、試合でも使った。
「佐山さんは、足を後ろに振り上げて投げていた。
だから足の重さを使えばできるかなと思ってやってみたら、投げることができました。
結局は、タイミング!」
そしてインターハイの団体戦で準優勝し、個人でもグレコローマン69㎏級で全国3位になった。
桜庭和志は、プロレスは大好きだったが、レスリングが面白すぎて、プロレスラーではなく大学生になることにした。
面接と作文だけで入った中央大学のレスリング部の道場には、歴代部員の名札がかかっており、その中には石井庄八、笹原正三、池田三男、渡辺長武、中田茂男などオリンピック金メダリストもいた。
さらに桜庭和志は、
「鶴田友見」
という名札を発見。
ミュンヘンオリンピックのグレコローマン100㎏超級に出場した全日本プロレスの「ジャンボ鶴田」だった。
中央大学レスリング部員は、全員、寮で生活。
そこは1年は奴隷、2年は平民、3年は殿様、4年は神様といわれる縦社会だった。
「忙しいったらありゃしない。
1年生は、朝の7時、そして夜の8時半に寮を掃除しなくてはいけない。
門限は、1年生が8時半で、2年生は10時半。
3、4年生は、柵を乗り越えて遊びに行ったり飲みに行ったりと、もうフリー状態。
でも1年生は、夜も雑務が残っているので遊びに行くなんて無理。
練習が終わるのが、8時くらいで、それから掃除して洗濯して晩メシ食うと、すでに10時過ぎてる。
寝る前も必ず一仕事しなくてはいけない。
思春期の男性には絶対に欠かすことのできない、重要な任務だ
寮での集団生活においてコレをいかに遂行するか
コレはコレで大問題だった
僕は要領よく、みんなが寝静まってからコッソリと・・・」
寮では、通常、1年生から4年生が1人ずつの4人部屋だったが、電話がある部屋だけ、1年生が2人と、2、4年生が1人ずつという変則的な構成で、桜庭和志は、この「電話部屋」に入れられた。
電話を取るのは、1年生の役目で
「3回以上なる前に取らなくてはならない」
というルールがあり、破ると長時間正座。
電話は、早朝や夜中にも鳴ることがあるため、桜庭和志は電話番のときは緊張して熟睡できず、
「電話ノイローゼで髪の毛が抜けた」
1年生の桜庭和志は、使い走りをしたり、コキ使われながら練習。
強い先輩にモマれてメキメキと実力を上げ、1年生の夏の全日本学生選手権で日体大の太田拓弥(アトランタオリンピック銅メダリスト)に勝利。
「桜庭は背が高くてリーチがあって体が柔らかい。
ウナギみたいにつかみどろころがなくて、5回タックルをとられて、1-5の判定で負けたはずです」
という太田拓弥に、秋の新人戦で飛行機投げでリベンジされたが、2年生の春、東日本新人戦フリースタイル68kg級で優勝。
ちなみに90㎏級で優勝したのは、1つ下の藤田和之(日本大学)で、桜庭和志は、
「顔が大きい」
と思った。
そんな順調な大学レスリング人生だったが、2年生の夏から監督が、練習を筋力強化などフィジカル重視に変えたため、スパーリングが大好きで、
「フィジカルトレーニングは補強」
と思っていた桜庭和志は、モチベーションが急激に低下し、練習がつまらくなってしまった。
腕立て伏せ、腹筋、スクワットなどの反復回数は数百回になり、ランニングの量も異様に増え、
「あ~あ、ここ陸上部じゃないんだよ」
「スパーリングで実戦的な練習したほうが絶対強くなれるのに」
と思いながら、2年生の桜庭和志は黙って指示に従って練習。
3年生になって外出が自由になると、飲みに出るようになったが、ある日、終電を逃してしまい、小学生で盗みをやめた桜庭和志は、捨てられていた自転車に乗って寮へ。
寮まで数百mのところでパトカーに呼び止められ、交番に連行され、数時間後、身元引受人として同級生に向かえ来てもらった。
「すごく恥ずかしかった」
という桜庭和志は、以後、盗みに続き、落ちているものを拾うこともできなくなった。
一方、格闘技界では、大学入学直後に新日本プロレスを解雇された前田日明、そして新日本プロレスとの契約を蹴った高田延彦、山崎一夫、さらにUWFの入門生だった安生洋二、宮戸優光、中野龍雄の6人がUWFを再始動させ、
「第2次UWF」
と呼ばれた。
旗揚げ戦(1988年5月12日、後楽園ホール)のチケットは、発売から15分で完売。
2戦目の北海道・札幌中島体育センターも5000人の超満員。
3戦目、「真夏の格闘技戦 THE PROFESSIONAL BOUT」も、東京、有明コロシアムを12000人の超満員にして、メインで前田日明がジェラルド・ゴルドーと対戦。
伝説の武道家、ジョン・ブルミンから極真空手を学んだジェラルド・ゴルドーは、196cmの長身から繰り出す強烈な突きとしなるような蹴りで第4回世界大会でBEST16。
同じくジョン・ブルミンの道場で学んだヨハン・ボスは、ボス・ジム、(K-1で4度優勝したアーネスト・ホースを輩出)を、トム・ハーリックは、ドージョーチャクリキ(K-1で3度優勝したピーター・アーツを輩出)を設立したが、ジェラルド・ゴルドーもドージョー・カマクラという道場を開き、教えるだけでなく自身もキックボクシングの試合に出場し、戦い続けた。
パンツ、レガース、シューズ、素手の前田日明は、トランクスにグローブ、腕に「極真」というタトゥーを入れたジェラルド・ゴルドーの速いパンチとキックを被弾。
打撃に苦しみながら、組みついて投げ、寝技に持ち込み、関節を極めようとすると、長身のジェラルド・ゴルドーは、すぐにロープにエスケイプし、再びスタンドに。
4R、右ハイキックをもらった前田日明がフラつくとジェラルド・ゴルドーは、トドメの右ハイキック。
これはヨロめきながらよけた前田日明によって空振り。
3発目の右ハイキックは、前田日明がキャッチして倒し、脚を極めようとしたが、ロープに逃げられてしまう。
立ち上がった後、ジェラルド・ゴルドーは4度目の右ハイキック。
前田日明は、これをカウンターで食らい、腰を落とし、タタラを踏みながら後退。
するとジェラルド・ゴルドーは、5度目の右ハイキック。
これをキャッチした前田日明は、リングに引き倒し、ロープに向かってほふく前進するジェラルド・ゴルドーをリング中央に引き戻し、関節を極めてタップさせ、4R、1分10秒、劇的な逆転勝利。
この日の有明コロシアムは、TBS「プライムタイム」、フジテレビ「FNNスーパータイム」などTVのニュース番組でも取り上げられた。
この後も月1回の行われるUWFの興行は、常に満員。
真の強さを追求して、総合格闘技を行おうとするUWFに若者は熱狂。
仕事を休んでテレビで放送されないUWFを観に行くファンを「密航者」と呼ぶなど、一種の社会現象となった。
29歳の前田日明は、「笑っていいとも!」やワイドショーなど多数のTV番組に出演。
ビッグコミックで前田日明の自伝的マンガ「格闘王への挑戦」、月刊フレッシュ・ジャンプで「新格闘王伝説・前田日明物語・獅子の時代」が連載開始。
プロレスをスポーツとみなし取り上げなかった一般新聞や「スポーツグラフィック ナンバー」「アサヒグラフ」なども、
「リアルファイト」
「真剣勝負」
「旧体制に反発し勝利した物語」
として伝えた。
しかし実際は、勝敗はあらかじめ決められていてアドリブで戦うという真剣勝負にみせたプロレスだった。
競技として真剣勝負の総合格闘技を創ろうしている佐山聡は、
「関節技は一瞬で極まる。
極まれば、数秒間ガマンしたり、ロープに逃れるのは不可能」
「UWFは真剣勝負とか格闘技とか、そういう言葉使っちゃダメだよね。
格闘技のニオイが少しするプロレスですよとかいわなきゃ。
普通のファンにはわからないようにやっても僕らがみればすぐにわかりますから」
とUWFを批判。
UWFの有明コロシアム大会直後、広島県高田郡で修斗の合宿を行い、参加した10名の選手は
「お前らに心臓はいらないんだ」
というスローガンと竹刀を持った佐山聡のスパルタ指導の下、朝、昼、夜と3回に分けて1日8時間以上、練習。
第2次UWFが旗揚げし、爆発的なブームを巻き起こす中、スーパータイガージムは、80万円の家賃が重荷となり、同じ天下茶屋の数軒先の4階建てのビルに移動。
4階と屋上を借り、4階は事務所、ロッカー、シャワー。屋上は、道場とトレーニングジムにした。
屋上は、鉄骨を組んで、下にはマットを敷いて、サンドバッグを吊り、トレーニング器具を置き、上面はテント、側面はビニールシートを張った。
夏になると熱がこもったのでビニールシートを四角く切って窓をつくったが、秋になると風が冷たくなると鏡を置いてふさぎ、冬は凍えながら練習。
狭くてボロいジムで真剣勝負の格闘技を練習する修斗は、世間ではUWFの2番煎じとみられていた。
イヤな練習をガマンして継続していた桜庭和志は、大学3年生の秋、4年生が引退するとレスリング部で自分より強い人間が1人もいなくなり、11月には、レスリング部の主将に任命された。
そして3年生の1月、第2次UWFがフロントと選手の確執が原因で崩壊すると、桜庭和志と監督の関係が悪化。
思うように練習ができない桜庭和志は、ケガをきっかけにタバコを吸い始め、飲酒量も増加。
監督が自分がいないところで部員に、
「桜庭はダメなヤツだ」
といったのを知ると
「コソコソ陰口叩きやがって!」
と髪の毛を逆立て、直接、監督の家に電話をかけ、ウップンをブチまけた。
大学4年生になる頃には、レスリングへの情熱が完全に冷め、5月の大会の後、
「監督と顔を合わせるのがイヤ」
と適当な理由をつけて主将を返上。
そんな経緯もあって引退後は道場に行けなくなった桜庭和志だが、履歴書には
「レスリング部主将」
とちゃっかり書いて送り、就職活動。
1社目の都内スポーツジムの面接を受け、内定をもらった。
1発合格を決めた桜庭和志は、卒業後、働きながら体を大きくしてプロレスラーになるつもりだった。
しかしレスリングができない大学は、まったく意味がなくなり、何もしない日々を過ごした結果、2教科4単位が不足し、留年が決定。
スポーツジムは、
「1年待つから」
といってくれたが、なぜか就職するのが嫌になり、
「田舎に帰りますから」
とウソをついて断った。
そして大学にたまに行きながら、日々をアルバイトとパチンコと酒に費やした。
格闘技界では、第2次UWFが崩壊。
前田日明は、選手だけで新団体を立ち上げようと準備を進め、スタッフを確保。
選手を集めて、一致団結を呼びかけたが、宮戸優光が人事を独断で決めたことに異を唱えた。
前田日明は、3日後に再招集をかけ、
「前回、俺の決めたことに不服そうなヤツガいた。
これからやっていくにあたって俺を信じてくれなきゃ困る。
全部俺が連れてきた人だし、俺のことを信じてやってくれないとすごくやりづらい。
1人でも信じないなら、俺はやらない」
鈴木みのるは、すぐに
「自分は信じます」
といったが、宮戸優光は、
「無理やり上からいわれて、はい、やりますとはいえません」
安生洋二も
「自分も同じ意見です」
前田日明が、
「俺のことが信用できないのか?
さっきいったけど1人でも信じてくれないならやっていけないんだよ」
というと宮戸優光と安生洋二は、
「信用するか、信用しないかっていっても、そんなのわかりませんよ」
「前田さんのいうことだけを一方的に信用するのは不可能です」
「今日はいわせてもらいますけど、前田さんは僕らを単なる下っぱだと思ってるでしょ」
「なんか強制されてるみたいで嫌だなぁ」
すると前田日明は、
「わかった。
じゃあ解散だ」
「そんな、ないっスよ」
と鈴木みのるはいったが、前田日明に
「いや、できない」
といわれると泣き始めた。
宮戸優光と安生洋二は、すぐに帰り、その後、一緒にロイヤルホストで食事。
高田延彦、山崎一夫、船木誠勝、田村潔司らは残って、
「前田さん、これだけでやりませんか」
と説得したが、前田日明の返事は同じ。
帰りのエレベーターで船木誠勝は、
「俺たちだけでやりませんか。
1回やったら、たぶん前田さん、来てくれますよ」
といったが、高田延彦は。
「前田さんがやらないっていうんだから無理だよ」
このとき前田日明は、本当に解散する気はなく、
「こういえば反省して1週間ぐらいしたら向こうから頭を下げにくるだろう」
と思っていたが、その1週間の間に想定外のことが起こった。
まず宮戸優光と安生洋二が、船木誠勝をエースにして若手だけで団体をつくろうとした。
しかし船木誠勝と鈴木みのるは、藤原喜明と一緒にやることを決め、「プロフェッショナルレスリング藤原組」を結成。
すると宮戸優光と安生洋二は、次に高田延彦にコンタクト。
高田延彦は、それを受け入れ、山崎一夫と中野龍雄、そしてUWFで自分のファンクラブの会長をしていた鈴木健を誘って「UWFインターナショナル」を設立することに。
1人ぼっちになってしまった前田日明は、 一時期、本当に部屋に引きこもってしまったが、
「考えてもしゃーない。
とりあえず体を動かそう」
とトレーニングを開始。
開局間近だったWOWOWがスポンサーとなり、格闘技団体「ファイティング・ネットワーク・リングス」を所属選手、自分1人という状態でスタートさせた。
こうして第2次UWFは、
・藤原組
・UWFインターナショナル
・リングス
の3つに分裂した。
大学5年生になって初めてプロレス団体の入門することを真剣に考え、
「リングスにいくつもりはまったくなかった。
練習相手がいないと強くなれないけど、リングスには日本人選手がほとんどいなかったからです。
後は藤原組でもUWFインターでも、どっちでもよかった」
という桜庭和志は、週刊プロレスでUWFインターナショナルが練習生を募集の記事を発見。
年齢制限は22歳までとあり、7月になれば23歳になってしまう桜庭和志は、あわてて顔と体の写真を撮って、履歴書を送付。
しばらくすると電話がかかってきて
「試験するので道場に来てください」
といわれた。
入門テストは。7月の終わりに行われ、23歳になった桜庭和志が道場に行ってみると受験者は自分1人。
数人に見守られながら、近くにあった急な坂道を3本ダッシュ。
それが終わると道場でスクワット、腕立て伏せ、ブリッジを行った。
テスト終了後、試験監督の宮戸優光に
「今すぐ大学辞めて入門するなら採ってやる。
1ヵ月間考えて、8月31日までに返事をくれ」
といわれ、
「大学なんてとっととやめて、1ヵ月間遊ぶしかない」
とすぐに大学を辞めた。
それを電話で報告すると親は
「卒業してから行けばいいじゃないか」
と激怒。
親戚から何度も電話がかかってきた。
1992年8月29日、1ヵ月間、飲んで遊んだ桜庭和志は、車を持っている後輩に頼み、荷物を持って中央大学の寮を出て、UWFインターナショナルの合宿所へ。
そこは普通の一軒家で、表札には「高田」て書いてあった。
高田延彦が向井亜紀と住むために建てた家を合宿所として提供したもので、2階に2部屋、1階はLDK(居間、食事する場所、台所が1つのなっている)という間取りで、風呂は高田延彦のサイズに合わせてなのか大きめになっていた。
桜庭和志がドキドキしながら中に入ると金原弘光がいて、
「草むしりしといて」
といわれ、これが初仕事となった。
草むしりが終わった頃、高山善廣が帰ってきて、1階のリビングルームで同部屋になった。
夜、寝ていると2階から誰か降りてきたので布団の中から、
「お疲れさまでひゅ」
と寝ぼけながらいうと
「お前、立っていえよ」
と厳しくいわれた。
それが合宿所の寮長、田村潔司だった。
合宿内の序列は、1番上がすでに第2次UWFでデビューを果たしている田村潔司、垣原堅人。
次にUWFインターナショナルの第1回入門テストに合格した金原弘光、
その下に1年先輩の高山善廣がいて、入門したての桜庭和志は、当然1番下。
風呂は先輩から順番に入るため、1番最後で、外出するときは寮長の許可が必要だった。
入門2日目は日曜日で、高田延彦が
「みんなで海に行くぞ」
といって海でバーベキュー。
帰りの車で高山善廣に、
「1ヵ月前に日体大の柔道部のヤツが入って、すぐに辞めた。
お前はナメんじゃねえぞ」
とクギを刺され、3日目の1992年9月1日、練習生として本格的な練習と仕事が始まった。
合宿所と道場は離れているため、免許がない桜庭和志は、朝、果物やプロテインを体に入れた後、同部屋の高山善廣の運転する車で通勤。
道場に入ると、まずリングの上に落ちているラップを回収。
それは先輩の中野龍雄が、練習中に腹に巻いていた使用済みのラップ。
その後、道場全体を掃除し、11時に合同練習が始まるが、そのときいるのは若手だけ。
準備運動やスクワット、ジャンピングスクワット、四股、ランジ、腕立て伏せ、腹筋、ブリッジなど基礎トレーニング。
その間に先輩が入ってきて、アップをした後、若手を捕まえてスパーリングを始める。
UWFインターナショナルの道場の練習は、高田延彦が新日本プロレス時代に体験した過酷のものだったが、桜庭和志にとっては、
「トレーニングの量が増えたことと、打撃と関節技がある以外は、基本的にアマレス時代と変わりなかった」
練習は、14時くらいに終了。
ちゃんこ番のときは、13時に練習を終わらせて、材料を買い出し。
メニューは、基本的に鍋だが、それに何か1品加えなければならず、桜庭和志は、よく麻婆豆腐をつくった。
15時に食事が始まると、75㎏の桜庭和志は、
「90kgになったらデビューさせてやる」
といわれながら、ドンブリ飯5杯をノルマとし、食べ終わると食器洗い、大きな洗濯機を何回も回して、ものすごい量を洗濯をした。
「鍋は、普通のポン酢とかで食う水炊きから、味噌、塩、しょうゆ、カレー鍋とか、数種類を回して食べる感じでした。
あと宮戸さんに教えてもらったソップ炊きなんかつくるようになりましたね。
メインに鶏ガラをガーッと入れるんですよ。
水炊きのときは僕はポン酢派でしたけど、鍋にニンニクをたくさん入れて、タレとして鰹節と青のり、卵の黄身を入れて食べた人もいました」
過酷な練習の中、たまに飲み会があれば、気を失うまで飲まされた。
あるとき宮戸に食事に連れて行ってもらい、すごく盛り上がって終わったのは、夜中の3時。
桜庭和志は、少しでも多く寝るために合宿所ではなく道場まで車で送ってもらった。
しかし泊まろうと思っていた道場に明かりがついており、コッソリ中をのぞくと先輩が気合を入れて練習をしていた。
中に入れば絶対に相手をさせられるので、1時間半、外で身を隠し、先輩が練習が終わって帰るのを待った。
またあるときは動けなくなるほど飲んだ後、スタッフに車で合宿所まで送ってもらったが、着いても起きないために車内に放置された。
翌朝、車内で目覚めた桜庭和志は、
「なんか閉じ込められている。
ヤバイ!」
パニックになってガラスを蹴って割り、這うように脱出。
それをみた誰かに通報し、やってきた警官に名前を聞かれた桜庭和志は、高田延彦が身元引受人となって向かえ来るのを恐れ、友人の名前を答え、警官が車をチェックしている間に逃走した。