そんな経緯もあって引退後は道場に行けなくなった桜庭和志だが、履歴書には
「レスリング部主将」
とちゃっかり書いて送り、就職活動。
1社目の都内スポーツジムの面接を受け、内定をもらった。
1発合格を決めた桜庭和志は、卒業後、働きながら体を大きくしてプロレスラーになるつもりだった。
しかしレスリングができない大学は、まったく意味がなくなり、何もしない日々を過ごした結果、2教科4単位が不足し、留年が決定。
スポーツジムは、
「1年待つから」
といってくれたが、なぜか就職するのが嫌になり、
「田舎に帰りますから」
とウソをついて断った。
そして大学にたまに行きながら、日々をアルバイトとパチンコと酒に費やした。
格闘技界では、第2次UWFが崩壊。
前田日明は、選手だけで新団体を立ち上げようと準備を進め、スタッフを確保。
選手を集めて、一致団結を呼びかけたが、宮戸優光が人事を独断で決めたことに異を唱えた。
前田日明は、3日後に再招集をかけ、
「前回、俺の決めたことに不服そうなヤツガいた。
これからやっていくにあたって俺を信じてくれなきゃ困る。
全部俺が連れてきた人だし、俺のことを信じてやってくれないとすごくやりづらい。
1人でも信じないなら、俺はやらない」
鈴木みのるは、すぐに
「自分は信じます」
といったが、宮戸優光は、
「無理やり上からいわれて、はい、やりますとはいえません」
安生洋二も
「自分も同じ意見です」
前田日明が、
「俺のことが信用できないのか?
さっきいったけど1人でも信じてくれないならやっていけないんだよ」
というと宮戸優光と安生洋二は、
「信用するか、信用しないかっていっても、そんなのわかりませんよ」
「前田さんのいうことだけを一方的に信用するのは不可能です」
「今日はいわせてもらいますけど、前田さんは僕らを単なる下っぱだと思ってるでしょ」
「なんか強制されてるみたいで嫌だなぁ」
すると前田日明は、
「わかった。
じゃあ解散だ」
「そんな、ないっスよ」
と鈴木みのるはいったが、前田日明に
「いや、できない」
といわれると泣き始めた。
宮戸優光と安生洋二は、すぐに帰り、その後、一緒にロイヤルホストで食事。
高田延彦、山崎一夫、船木誠勝、田村潔司らは残って、
「前田さん、これだけでやりませんか」
と説得したが、前田日明の返事は同じ。
帰りのエレベーターで船木誠勝は、
「俺たちだけでやりませんか。
1回やったら、たぶん前田さん、来てくれますよ」
といったが、高田延彦は。
「前田さんがやらないっていうんだから無理だよ」
このとき前田日明は、本当に解散する気はなく、
「こういえば反省して1週間ぐらいしたら向こうから頭を下げにくるだろう」
と思っていたが、その1週間の間に想定外のことが起こった。
まず宮戸優光と安生洋二が、船木誠勝をエースにして若手だけで団体をつくろうとした。
しかし船木誠勝と鈴木みのるは、藤原喜明と一緒にやることを決め、「プロフェッショナルレスリング藤原組」を結成。
すると宮戸優光と安生洋二は、次に高田延彦にコンタクト。
高田延彦は、それを受け入れ、山崎一夫と中野龍雄、そしてUWFで自分のファンクラブの会長をしていた鈴木健を誘って「UWFインターナショナル」を設立することに。
1人ぼっちになってしまった前田日明は、 一時期、本当に部屋に引きこもってしまったが、
「考えてもしゃーない。
とりあえず体を動かそう」
とトレーニングを開始。
開局間近だったWOWOWがスポンサーとなり、格闘技団体「ファイティング・ネットワーク・リングス」を所属選手、自分1人という状態でスタートさせた。
こうして第2次UWFは、
・藤原組
・UWFインターナショナル
・リングス
の3つに分裂した。
大学5年生になって初めてプロレス団体の入門することを真剣に考え、
「リングスにいくつもりはまったくなかった。
練習相手がいないと強くなれないけど、リングスには日本人選手がほとんどいなかったからです。
後は藤原組でもUWFインターでも、どっちでもよかった」
という桜庭和志は、週刊プロレスでUWFインターナショナルが練習生を募集の記事を発見。
年齢制限は22歳までとあり、7月になれば23歳になってしまう桜庭和志は、あわてて顔と体の写真を撮って、履歴書を送付。
しばらくすると電話がかかってきて
「試験するので道場に来てください」
といわれた。
入門テストは。7月の終わりに行われ、23歳になった桜庭和志が道場に行ってみると受験者は自分1人。
数人に見守られながら、近くにあった急な坂道を3本ダッシュ。
それが終わると道場でスクワット、腕立て伏せ、ブリッジを行った。
テスト終了後、試験監督の宮戸優光に
「今すぐ大学辞めて入門するなら採ってやる。
1ヵ月間考えて、8月31日までに返事をくれ」
といわれ、
「大学なんてとっととやめて、1ヵ月間遊ぶしかない」
とすぐに大学を辞めた。
それを電話で報告すると親は
「卒業してから行けばいいじゃないか」
と激怒。
親戚から何度も電話がかかってきた。
1992年8月29日、1ヵ月間、飲んで遊んだ桜庭和志は、車を持っている後輩に頼み、荷物を持って中央大学の寮を出て、UWFインターナショナルの合宿所へ。
そこは普通の一軒家で、表札には「高田」て書いてあった。
高田延彦が向井亜紀と住むために建てた家を合宿所として提供したもので、2階に2部屋、1階はLDK(居間、食事する場所、台所が1つのなっている)という間取りで、風呂は高田延彦のサイズに合わせてなのか大きめになっていた。
桜庭和志がドキドキしながら中に入ると金原弘光がいて、
「草むしりしといて」
といわれ、これが初仕事となった。
草むしりが終わった頃、高山善廣が帰ってきて、1階のリビングルームで同部屋になった。
夜、寝ていると2階から誰か降りてきたので布団の中から、
「お疲れさまでひゅ」
と寝ぼけながらいうと
「お前、立っていえよ」
と厳しくいわれた。
それが合宿所の寮長、田村潔司だった。
合宿内の序列は、1番上がすでに第2次UWFでデビューを果たしている田村潔司、垣原堅人。
次にUWFインターナショナルの第1回入門テストに合格した金原弘光、
その下に1年先輩の高山善廣がいて、入門したての桜庭和志は、当然1番下。
風呂は先輩から順番に入るため、1番最後で、外出するときは寮長の許可が必要だった。
入門2日目は日曜日で、高田延彦が
「みんなで海に行くぞ」
といって海でバーベキュー。
帰りの車で高山善廣に、
「1ヵ月前に日体大の柔道部のヤツが入って、すぐに辞めた。
お前はナメんじゃねえぞ」
とクギを刺され、3日目の1992年9月1日、練習生として本格的な練習と仕事が始まった。
合宿所と道場は離れているため、免許がない桜庭和志は、朝、果物やプロテインを体に入れた後、同部屋の高山善廣の運転する車で通勤。
道場に入ると、まずリングの上に落ちているラップを回収。
それは先輩の中野龍雄が、練習中に腹に巻いていた使用済みのラップ。
その後、道場全体を掃除し、11時に合同練習が始まるが、そのときいるのは若手だけ。
準備運動やスクワット、ジャンピングスクワット、四股、ランジ、腕立て伏せ、腹筋、ブリッジなど基礎トレーニング。
その間に先輩が入ってきて、アップをした後、若手を捕まえてスパーリングを始める。
UWFインターナショナルの道場の練習は、高田延彦が新日本プロレス時代に体験した過酷のものだったが、桜庭和志にとっては、
「トレーニングの量が増えたことと、打撃と関節技がある以外は、基本的にアマレス時代と変わりなかった」
練習は、14時くらいに終了。
ちゃんこ番のときは、13時に練習を終わらせて、材料を買い出し。
メニューは、基本的に鍋だが、それに何か1品加えなければならず、桜庭和志は、よく麻婆豆腐をつくった。
15時に食事が始まると、75㎏の桜庭和志は、
「90kgになったらデビューさせてやる」
といわれながら、ドンブリ飯5杯をノルマとし、食べ終わると食器洗い、大きな洗濯機を何回も回して、ものすごい量を洗濯をした。
「鍋は、普通のポン酢とかで食う水炊きから、味噌、塩、しょうゆ、カレー鍋とか、数種類を回して食べる感じでした。
あと宮戸さんに教えてもらったソップ炊きなんかつくるようになりましたね。
メインに鶏ガラをガーッと入れるんですよ。
水炊きのときは僕はポン酢派でしたけど、鍋にニンニクをたくさん入れて、タレとして鰹節と青のり、卵の黄身を入れて食べた人もいました」
過酷な練習の中、たまに飲み会があれば、気を失うまで飲まされた。
あるとき宮戸に食事に連れて行ってもらい、すごく盛り上がって終わったのは、夜中の3時。
桜庭和志は、少しでも多く寝るために合宿所ではなく道場まで車で送ってもらった。
しかし泊まろうと思っていた道場に明かりがついており、コッソリ中をのぞくと先輩が気合を入れて練習をしていた。
中に入れば絶対に相手をさせられるので、1時間半、外で身を隠し、先輩が練習が終わって帰るのを待った。
またあるときは動けなくなるほど飲んだ後、スタッフに車で合宿所まで送ってもらったが、着いても起きないために車内に放置された。
翌朝、車内で目覚めた桜庭和志は、
「なんか閉じ込められている。
ヤバイ!」
パニックになってガラスを蹴って割り、這うように脱出。
それをみた誰かに通報し、やってきた警官に名前を聞かれた桜庭和志は、高田延彦が身元引受人となって向かえ来るのを恐れ、友人の名前を答え、警官が車をチェックしている間に逃走した。