夜、寝ていると2階から誰か降りてきたので布団の中から、
「お疲れさまでひゅ」
と寝ぼけながらいうと
「お前、立っていえよ」
と厳しくいわれた。
それが合宿所の寮長、田村潔司だった。
合宿内の序列は、1番上がすでに第2次UWFでデビューを果たしている田村潔司、垣原堅人。
次にUWFインターナショナルの第1回入門テストに合格した金原弘光、
その下に1年先輩の高山善廣がいて、入門したての桜庭和志は、当然1番下。
風呂は先輩から順番に入るため、1番最後で、外出するときは寮長の許可が必要だった。
入門2日目は日曜日で、高田延彦が
「みんなで海に行くぞ」
といって海でバーベキュー。
帰りの車で高山善廣に、
「1ヵ月前に日体大の柔道部のヤツが入って、すぐに辞めた。
お前はナメんじゃねえぞ」
とクギを刺され、3日目の1992年9月1日、練習生として本格的な練習と仕事が始まった。
合宿所と道場は離れているため、免許がない桜庭和志は、朝、果物やプロテインを体に入れた後、同部屋の高山善廣の運転する車で通勤。
道場に入ると、まずリングの上に落ちているラップを回収。
それは先輩の中野龍雄が、練習中に腹に巻いていた使用済みのラップ。
その後、道場全体を掃除し、11時に合同練習が始まるが、そのときいるのは若手だけ。
準備運動やスクワット、ジャンピングスクワット、四股、ランジ、腕立て伏せ、腹筋、ブリッジなど基礎トレーニング。
その間に先輩が入ってきて、アップをした後、若手を捕まえてスパーリングを始める。
UWFインターナショナルの道場の練習は、高田延彦が新日本プロレス時代に体験した過酷のものだったが、桜庭和志にとっては、
「トレーニングの量が増えたことと、打撃と関節技がある以外は、基本的にアマレス時代と変わりなかった」
練習は、14時くらいに終了。
ちゃんこ番のときは、13時に練習を終わらせて、材料を買い出し。
メニューは、基本的に鍋だが、それに何か1品加えなければならず、桜庭和志は、よく麻婆豆腐をつくった。
15時に食事が始まると、75㎏の桜庭和志は、
「90kgになったらデビューさせてやる」
といわれながら、ドンブリ飯5杯をノルマとし、食べ終わると食器洗い、大きな洗濯機を何回も回して、ものすごい量を洗濯をした。
「鍋は、普通のポン酢とかで食う水炊きから、味噌、塩、しょうゆ、カレー鍋とか、数種類を回して食べる感じでした。
あと宮戸さんに教えてもらったソップ炊きなんかつくるようになりましたね。
メインに鶏ガラをガーッと入れるんですよ。
水炊きのときは僕はポン酢派でしたけど、鍋にニンニクをたくさん入れて、タレとして鰹節と青のり、卵の黄身を入れて食べた人もいました」
過酷な練習の中、たまに飲み会があれば、気を失うまで飲まされた。
あるとき宮戸に食事に連れて行ってもらい、すごく盛り上がって終わったのは、夜中の3時。
桜庭和志は、少しでも多く寝るために合宿所ではなく道場まで車で送ってもらった。
しかし泊まろうと思っていた道場に明かりがついており、コッソリ中をのぞくと先輩が気合を入れて練習をしていた。
中に入れば絶対に相手をさせられるので、1時間半、外で身を隠し、先輩が練習が終わって帰るのを待った。
またあるときは動けなくなるほど飲んだ後、スタッフに車で合宿所まで送ってもらったが、着いても起きないために車内に放置された。
翌朝、車内で目覚めた桜庭和志は、
「なんか閉じ込められている。
ヤバイ!」
パニックになってガラスを蹴って割り、這うように脱出。
それをみた誰かに通報し、やってきた警官に名前を聞かれた桜庭和志は、高田延彦が身元引受人となって向かえ来るのを恐れ、友人の名前を答え、警官が車をチェックしている間に逃走した。