黒澤浩樹は「PRIDE.1」でイゴール・メインダートと総合格闘技ルールで対戦し、1ラウンドで、投げられたときに踏ん張ってしまい、膝の靱帯を断裂。
その後も戦い続けたがレフリーに止められTKO負けした。
その後、大山倍達没後の極真空手のあり方に疑問を感じ、退会。
黒澤道場を立ち上げた。
そして長期間のリハビリとトレーニングを経て、復帰戦の相手が角田信朗だった。
「押忍。
わかりました。
いまスパーリング中ですので稽古に戻ってよろしいでしょうか」
そういって電話を置いた角田信朗はヘビーバッグにローキックを叩き込んだ。
1999年6月、角田信朗は、ダンカン・ジェームス戦は5Rフルラウンド戦い判定勝ち。
2ヵ月間寝たきり状態から8ヵ月ぶりの試合でフラフラだった。
以後、1ヶ月、黒澤浩樹戦に向け準備に入った。
1999年7月、「PRIDE.7」が横浜アリーナで行われ、黒澤浩樹 vs 角田信朗が行われた。
レフリーは添野義二だった。
黒澤浩樹のローキックは強烈だった。
角田信朗もパンチを返すが、黒澤浩樹のプレッシャーにズルズルと退がり続けた。
判定だが黒澤浩樹の圧勝だった。
2000年1月、黒澤浩樹は「K-1 Japan 長崎大会」でグローブデビュー。
わずか数十秒でKO勝ちした。
2000年3月、角田信朗 vs 黒澤浩樹のリマッチが行われた。
ただし今度はグローブをつけての対戦だった。
丸坊主の角田信朗はサザンオールスターズの「マンピーのG★スポット」で入場。
対する黒沢浩樹は元世界ヘビー級統一チャンピオン、アイアン・マイク・タイソンの兄弟子でありトレーナーをしていたケビン・ルーニーを伴い入場。
ピーカーブーの構えから頭を小刻みに振るヘッド・ムーブで前に出る黒澤浩樹。
角田信朗はコーナーを背負いながらも余裕をもってその攻撃を受けた。
ボクシング技術の差は歴然だった。
黒沢浩樹が前に出た瞬間、角田信朗は左足をスライドさせ、重心を真下に落とし、体重を左足にシフトしながら右のパンチを放り投げ、黒澤浩樹のテンプルを打ち抜き、1R1分53秒、KO勝ちした。
カクタンディ(角田アンディ)
2000年、角田信朗とアンディ・フグは仲がよく2人は自らのユニットを「カクタンディ」といった。
アンディ・フグは自分の子供が生まれたとき、角田信朗に名前を考えてくれと頼んだ。
できれば名前に日本風の響きを入れたいという。
自身の娘は「ユリア(友里亜)」、息子は「ケンシロウ(賢士郎)」とマンガ「北斗の拳」からかんたんに名付けた。
しかし他人の子供となるとそうはいかない。
日本風といってもスイス人に「〇〇ザエモン」や「〇〇ノスケ」などというのも変。
角田信朗はノートに「あ」から順に思いつく名前を書き出していった。
200個以上書き出した結果、「Seiya」という名前が気にいった。
発想の源は、マンガ「聖闘士聖矢」ではなく、空手の稽古で「セイヤ!」と気合を入れることだった。
毎年6月にはスイスで「K-1 Fight Night」が行われ、その度に角田信朗はアンディ・フグのプールつきの豪邸に招待された。
遊んでいるとき、セイヤが友里亜にパンチと蹴りを出すのをみた角田信朗はアンディ・フグがいないときにセイヤのホッペをつねった。
「コラ。
お父ちゃんが強いからって調子に乗るなよ。
だいたいプールや子供部屋とか贅沢やねん/
こっちは借家住まいやねんぞ」
2000年8月24日。
朝の走り込みを終え大阪の四天王寺の家に帰った角田信朗に電話が入った。
「落ち着いて聞いてください。
アンディが今病院にいます」
「えっ?
ケガでもしたんですか?」
「いえ、白血病です。
今もう危篤状態です。
すぐに来てください」
角田信朗はすぐに新幹線に飛び乗った。
「何が白血病じゃ。
アンディ、アホかお前」
遅い新幹線に歯ぎしりした。
東京駅から日本医科大学付属病院へ着いた角田信朗は8階まで階段を一気に駆け上がった。
石井和義が待っていた。
「館長、一体どういうことですか?!」
「行こうか」
石井和義は諭すように静かにいった。
病室には「武道聖矢」という名札がかかっていた。
たくさんの人に囲まれたベッドの上でアンディ・フグは横たわっていた。
鼻や口にたくさんの管が入り意識はなかった。
「お前、何やってんねん」
ベッドの横のモニターには150近い心拍数が示されていた。
150という心拍数は短距離を全力疾走するときの数値である。
その病名は「AML(Acute Myeloid Leukemia、急性前骨髄球性白血病)」だった。
血液中には赤血球、白血球、血小板などの血液細胞がある。
これらは骨髄にある造血幹細胞から増殖、分化してつくられる。
急性骨髄性白血病は、このような血液をつくる過程の未熟な血液細胞である骨髄芽球に何らかの遺伝子異常が起こり、がん化した細胞(白血病細胞)が無制限に増殖することで発症する。
アンディ・フグの場合、まず全身の免疫機能が低下し、肺の中がカビだらけになり自発呼吸が困難になった。
血液を凝固させる成分が壊死しているため主血があっても止まらない状態で、後頭部には大量の主血があった。
アンディ・フグは前日の深夜から高熱を発し、いつ息を引き取ってもおかしくない危篤状態が続いていたが病魔と戦い続けていた。
しかし医師によると生還の見込みはないという。
角田信朗は思った。
「こいつ戦っとるなあ。
史上最強の敵と必死で戦っとるなあ。
ちょっと休んだらええのに。
カラテスピリッツやいうて」
「よっしゃ、思う存分戦えや
今度はどんなことがあっても絶対に止めんからな」
過去にマイク・ベルナルドに滅多打ちにされるアンディ・フグをみてレフリーをしていた角田信朗が試合を止めたことがあった。
周囲からは止めるのが遅いといわれた。
あれだけの強打を受け続けながら最後まで膝をつかなかったアンディ・フグとレフリーでありながら、その姿をみてファイターの誇りを傷つけることをためらった角田信朗だった。
16時、「アンディ・フグ危篤」の報道が流れ、病院に関係者が続々と訪れた。
17時半、一旦身内だけにしてあげようということになり角田信朗も外に出た。
18時、医師に呼ばれ再び病室に入るとモニターの心拍数は40まで低下していた。
「アンディ!アンディ!
お前何やってるんだよ。
もう1回チャンピオンになるって俺に約束したじゃないかよ。
アンディ!」
(平仲信明)
「アンディ、お前、まだまだやらんとあかんことがいっぱいあるやろうが」
(石井和義)
「アンディ、アンディ」
「アンディ、ネバーギブアップ」
「アンディ、カラテスピリッツ」
全員がアンディに語りかけた。
「ピーッ」
心電図の波が消え直線となり電子音が響いた。
角田信朗は叫んだ。
「アホか、アンディ。
何しとるんじゃ。
レフリーがやめいうまで勝手に休んだらあかんのじゃ」
するとなんの疎性措置をしていないのアンディの心臓は鼓動を始めた。
「よっしゃよっしゃ。
そういうことや!
アンディやればできるやないか」
しかしすぐにその鼓動は弱まっていった。
「あかん!あかん!
アンディ、立ってみい。
コラァー」
いったいどこにそんな力が残っているのか。
アンディ・フグの心臓は3度止まって、人々の声に応えるように再び動き出した。
4度目の停止したとき、戦いを続行させようとする角田信朗を医師が止めた。
「もう休ませてあげましょう」
アンディは最後まであきらめず勇猛果敢に戦い続ようとした。
レフリーの角田信朗もその戦いを止めなかった。
セコンドの平仲信明もタオルを投げなかった。
壮絶な戦いはドクターストップで幕を閉じた。
2000年8月24日18時21分。
35歳の鉄人は伝説の男となった。
テレビをつければ角田信朗がいる
2001年1月、角田信朗は正道会館の最高師範6段を石井和義から授与された。
同月、「K-1 RISING 2001 〜四国初上陸〜」で柳澤龍志と対戦しドロー。
3月、テレビの仕事に対応するため大阪を離れ東京へ拠点を移した。
「おはスタ!」のK-1押覇道
NHK教育テレビの「天才てれびくんワイド」
その他多くのバラエティ番組やスポーツニュースなどに出演。
テレビをつければ角田信朗がいるという現象が起こった。
8月、「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」で角田信朗はマウリシオ・ダ・シウバに判定勝ちした。
2001年は2試合し「40歳まで現役」という目標を達成。
自分へのご褒美としてランボギーニ・ディアブロを購入した。
道場の近くでは道場生に車が当たらないように監視させながら駐車した。
脱税
2002年、角田信朗はNHK朝の連続ドラマ「まんてん」で映画「マルサの女」で女性国税局査察官を演じた宮本信子と共演していたが、同年12月、株式会社ケイワンが法人税法違反の容疑で強制捜査を受けた。
2003年2月3日、石井和義は証拠隠滅教唆容疑で逮捕された。
(5月22日に保釈金4,000万円を支払い保釈)。
引退試合は師弟対決
石井和義を欠いた「K-1」は、イベントプロデューサー:谷川貞治、競技統括プロデューサー:角田信朗の新体制で動き出した。
そしてボブ・サップがK-1デビュー。
アーネスト・ホーストを2度も倒した上、そのキャラクターは大人気となった。
谷川貞治はボブ・サップと総合格闘技でも大活躍していたK-1ファイター、ミルコ・クロコップの対戦を企画。
同時期、角田信朗は武蔵をはじめとするK-1の日本選手の戦いぶりを
「賞味期限切れのファイター」
と批判した。
2003年4月、5月に行われる「K-1 ラスベガス大会」でミルコ・クロコップと対戦予定だったボブ・サップが眼窩底骨折で試合ができないことが判明。
谷川貞治は急遽、角田信朗に引退試合をラスベガスでやることを提案した。
42歳の角田信朗は事情が事情だけに断ることができず、ただ対戦相手は過去に負けたスタン・ザ・マンかディック・フライを指名した。
しかしスタン・ザ・マンもディック・フライもオファーを受けなかったため、対戦相手がなかなか決まらず、「賞味期限切れ」といわれた武蔵が「体で教えてもらう」と名乗り出た。
2003年5月2日、本来、角田信朗 vs 武蔵の試合は、K-1アメリカ予選の決勝戦前にスーパーファイトとして組まれていた。
しかし生中継の時間内に決勝戦を終わらせるため、全選手は入場時のパフォーマンスを禁止され試合後も速やかに移動するように指示された。
引退試合を花道から盛り上げ、試合後のパフォーマンスとスピーチを用意していた角田信朗は自分の試合を決勝戦の後に回してもらった。
そしてラスベガスのミラージュホテルのグランドボールルームに残った客はまばらだった。
角田信朗はロッキー4の「ハーツ オン ファイヤー」で入場した。
試合開始後、角田信朗は芦原英幸に褒められた後ろ回し蹴りを繰り出した。
「オリャ!」
「ハッ!」
まるで空手の試合のように2人は声を出しながら打撃を繰り出し合った。
武蔵は、オーソドックスの構えからは矢のようなパンチ攻撃を繰り出しサウスポーになれば強烈な左ミドルキックで相手を潰す2刀流である。
2ラウンド、武蔵の左ミドルをもらった角田信朗は後退した。
そして左ミドルを警戒し右肘でボディをカードする角田信朗の顔面に武蔵のハイキック。
角田信朗は体ごともっていかれ膝をついた。
立ち上がった角田信朗に武蔵は再び左ミドルキックを炸裂させた。
角田信朗はうめき声をあげてマットに倒れた。
その瞬間、過去の苦しかったことがフラッシュバックし角田信朗はカウント9で立ち上がった。
ここで2ラウンドが終わった。
3ラウンド、角田信朗は前に出ることしか考えなった。
パンチでラッシュを仕掛ける角田信朗を武蔵は左膝一発でマットに沈めた。
それでも立ち上がり攻める角田信朗に武蔵のカウンターの右フックで2度目のダウンを奪う。
試合は3ノックダウン制で、あと1ダウンで自動的に負けとなる。
「オリャ!」
角田信朗は気合を入れた。
武蔵の膝とパンチで何度もスリップダウン。
それでもすぐに立ち上がった。
最後は武蔵の左ハイを顔面にモロにもらい倒れそうになるが、執念でこらえてダウンせず不屈の闘志をみせた。
日本人だけでなく残っていたアメリカ人客も角田信朗の熱いファイトに歓声と拍手を送った。
勝者がコールされるとき、島田裕二レフリーまでもが感涙。
ボブ・サップもリングに上がり角田信朗のファイトを讃えた。
マイクを持った角田信朗は流ちょうな英語で
「武蔵は次世代のK-1チャンピオンになると信じてます。
だからみんな武蔵とK-1をサポートしてください。
日本で応援してくれたファン、今日の試合を会場で見てくれた家族に感謝します。
アイラブユー!」
とアピール。
最後はグローブをマットに置いてリングを降り、夫人、娘、息子と抱き合った。
(3度目の引退)
3度目の現役復帰 何度倒れても立ち上がる男
2004年1月14日、脱税と証拠隠滅教唆について東京地方裁判所は石井和義に懲役1年10か月の実刑判決を下した。
2005年3月19日、「K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL」で角田信朗は身長差32cm、体重差100kg以上という体格差のある曙と対戦。
2度のダウンを奪われ判定負け。
(3度目の復帰)
2005年5月27日、「K-1 WORLD GP 2005 in PARIS」で角田信朗はマーベリックと対戦し、右フックで1RKO勝ち。
2005年9月23日、「K-1 WORLD GP 2005 in OSAKA 開幕戦」で角田信朗はジョージ・ザ・アイアンライオンに判定負け。
2007年6月11日、石井和義は静岡刑務所に収監された
2008年8月7日、模範囚であったため刑期が短縮され石井和義は出所した。
2015年5月15日、フジテレビで放送された「気まずい2人が久しぶりに会ってみました」に角田信朗と武蔵が出演。
引退試合を戦った武蔵は、角田信朗の早すぎる復帰について違和感を感じたことを語った。
ボディビル
格闘技の現役時代の角田信朗の171㎝95㎏という体格は異常なほどの筋肉の大きさを示している。
また引退後もトレーニングと稽古を続けた角田信朗は50歳を過ぎてからボディビルの大会に出場した。
2015年9月26日、53歳の角田信朗はグアムで行われた「日本グアム親善 ボディビル選手権」に出場。
男子ボディビルミドル級(80㎏以下)で優勝、マスタークラス(40歳以上)で3位。
2016年7月10日、「ボディビルフィットネス選手権大会」では、男子マスターズ(50歳以上)優勝、男子75㎏超級優勝、オーバーオール(年代別優勝者から選ばれる)優勝の3冠に輝いた。
現役時代の95㎏から20㎏近い減量と空手の動きを取り入れたポージングを行った。
松ちゃんにフラれる
2017年1月16日、角田信朗は自身のブログで、ダウンタウンの松本人志と確執があったことを明かした。
その上で、真実が本人に伝わって関係修復につながることを願った。
かつて日本テレビ系「ダウンタウンDX」や浜田雅功が司会を務めるフジテレビ系「ジャンクSPORTS」に頻繁に出演していたが、
「ある事件をきっかけに ボクは ダウンタウンの番組に 全く呼ばれなくなってしまったのです」
という。
ダウンタウンの番組で企画された「芸人対抗・叩いて被ってジャンケンポン選手権」に制作サイドからレフリーとして出演依頼があったが
「当時K-1は ジャッジやレフェリングに様々な問題提起が為され 物議を醸していた時期でした。
ミスジャッジの存在や、それこそ武田幸三引退試合のボクのレフェリング然り、世界に広がる競技を統括する最高責任者のボクが果たしてそんな状況下でバラエティー番組に出て ≪叩いて被ってジャンケンポン≫のレフリーを務める事が格闘技ファンから許容されるだろうか…そんなジレンマがありました」
2009年10月、角田信朗は武田幸三vsアルバート・クラウス戦のレフリーを務め、引退試合だった武田幸三がダウンし続行不可能ともみえる試合をストップしなかった。この試合は論議を呼び、角田信朗は自らレフリー活動を3カ月自粛した。ダウンタウンの番組からのオファーは、このあたりの時期に出されている
角田信朗はK-1イベントサイドからも自粛要請があり泣く泣く出演依頼を断った。
それから約1年後、「ダウンタウンDX」から出演依頼が舞い込み、
「あの時に松ちゃんからのお申し出に応える事が出来なかった御詫びをやっと直接出来るチャンスが来た」
と喜んだが、収録当日に、収録が突然中止となった。
「村司マネージャーから帰ってきた答えは 松本さんが台本を見て 角田の名前を見つけた途端に 収録は中止や!! ということになった…というものでした。
ショック!
要するにあの時、ボクがオファーを断ったことに 未だご立腹だ、というのです」
共演予定だった和田アキ子から
「あんた一体何があったん!?」
と電話がかかってきたという。
「ボクは今でもダウンタウンが大好きで 番組は欠かさず観て 笑うたびに一抹の寂しさも痛感しています。
あの時強引にでも松ちゃんの控え室に乗り込んでいって直接経緯を説明すれば絶対にこんなふうにはなっていなかったろうという想いは強いで」
「このブログに書くことでこの真実が回り回って松ちゃんのもとに届くことを祈っています」
とラブコールを送った。
1月22日、松本人志は「ワイドナショー」で角田信朗の主張に反論。
「角田さん側はOKやったんですよ。
レフリーの衣装まで全部決めてるんですよ、打ち合わせで。
ところが、「ガキ使」の収録って水曜日なんですが、2日前の月曜日にドタキャンされたんですよ」
「僕が怒っているとか、そういうことではなくて、番組の問題とか、吉本(興業業)とか、もっといえば日本テレビとの問題なので。
僕が共演NGとか、そんな小っちゃい話では、もうないんですよ。
なぜここに来て急に、8年たってから僕を名指しでおっしゃってるのか、よく分からないんですよ」
同日、角田信朗はブログで
「この度は、私自身の思慮に欠ける突然の発信で、松本人志氏、そして関係各位の皆様に、大変不愉快な思いをさせてしまった事を、心よりお詫び申し上げます」
と謝罪。
番組ドタキャンの事実を認め
「私の認識が甘く、松本氏を始め、お仕事に携わられた多数の方々にご迷惑をおかけ致しましたこと、誠に申し訳ありません。
改めて謝罪致します」
とした。
以後6か月間、角田信朗は芸能関係の仕事を自粛した。
