角田信朗  冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

角田信朗 冷徹なリングでモロに感情を露出させる愛と涙と感動のファイター!

K-1や空手のトーナメントでの優勝経験ナシ。 なのに正道会館の最高師範代であり、メディアへの露出度も多い。 特筆すべきは彼の試合は、その人間性や感情があふれ出てしまうこと。 これは選手としても、レフリーとしてもそうで、インテリとむき出しの感情を併せ持つ愛と涙と感動の浪花男なのである。 最近、ダウンタウンの松本人志との騒動が話題になり、角田信朗の人間性を批判する人もいるが、私はその批判している人の人間性を疑っています。


タイソンとゴリとゴジラと角田信朗

角田信朗は静岡県沼津市の大平小学校では、成績はオール5だった。
しかし大阪府羽曳野市立高鷲小学校に転校後、変わってしまった。
「よろしくどうぞ」
関東弁で丁寧にあいさつする少年に大阪は牙をむいた。
自己紹介をして1時限目の授業を受けた後、わざわざ4年6組から角田信朗のいる4年4組まで、マイク・タイソンのような顔をした通称:タイソン桑木とその子分がやってきてメンチを切りながら(にらみながら、ガンを飛ばしながら)いった。
「オカン(母親)にいうなよ」
「・・・・」
角田信朗は恐怖でなにもいえなかった。
この威嚇行為は3日間、休み時間ごとに続いた。
そして4日目の下校後、家にいた角田信朗にお迎えが来た。
「かーくーだーくん、遊ぼ」
玄関にはニヤニヤ笑タイソン桑木が立っていた。
恐怖にすくむ角田信朗を母親は友達ができたことを喜び送り出した。
タイソン桑木と数人に囲まれ角田信朗は歩きだした。
会話は一切なかった。
数分後、角田信朗は袋小路に連れてこられ、いきなりタイソン桑木に殴られた。
そして倒れたところを全員に蹴られ唾をはかれた。
見上げるとみんな笑っていた。
その中には、通称:ゴリと呼ばれていた水谷という女子も混じっていた。
家に帰った角田信朗は玄関に入るなり泣き崩れ、土間を叩いて悔しがった。
以後、チクリ(密告)を警戒したのか、タイソン桑木の威嚇はなくなった。
(大人になってからテレビ番組の企画で角田信朗は彼らと再会。
当時のことを笑い話にして、タイソン桑木とは腕相撲をして勝ち、ノーサイドとなった)

また転校前の学校と、転校後の学校では教科書が違っていた。
以前の学校ですでに習っていたことは問題ないが、自分はまだ習っていないが他のみんなはすでに習っていることもあった。
角田信朗がわからなくても、かまわず授業は進んでいくため、勉強についていけず成績は急落し、通知表にはみたこともない2や3が並んだ。
自信を失った角田信朗は友達をつくらず、休み時間には1人でゴジラの絵を描いた。
周囲も疎み、道徳の時間には
「何故、角田君を仲間外れにするのか」
が議題となった。
(それこそ1番の仲間外れやんか!)
と思いながら黙って下を向いていた。

ブルース・リー

中学生になり、角田信朗はブルース・リーにハマった。
鍛え抜かれた肉体。
ほんもののアクションシーン。
圧倒的な強さと哲学的思想を併せ持つ武道家。
彗星のごとく現れたスーパーヒーローは、たった4本
(未完成の「死亡遊戯」を含めれば5本)
の作品を残し32歳で他界。
しかも死因は謎。
角田信朗は、学生服の白いカラーを外し、金色のボタンを黒色に替え、ズボンの裾に自分でホックを縫い付けて細く足首に巻き付け、学生服をカンフー着に改造した。
すりこぎ2つと鎖を買ってヌンチャクをつくった。
そして回し蹴り、後ろ回し蹴りを練習。
167㎝50㎏のガリガリボディを改造するためブルワーカーを購入した。

そして映画「ドラゴン怒りの鉄拳」のテーマ曲「Fist of Fury」を、中学で習いはじめたばかりの英語力で必死に歌詞カードを読んで歌った。
学生服をカンフー着にし、レコードをかけながらセリフをまねし完全になりきった。
そして学校の授業でも英語が得意になった。

散髪屋で順番待ちをしていたときにみていた週刊プレイボーイに
「ブルース・リーのカラテはねえ、ありゃあ君ぃ、シャモのケンカだよ」
というコメントが見出しに掲載されていた。
「俺の尊敬するブルース・リー先生に何をいう!」
角田信朗は許しがたいコメントの主を紙面に探した。
するとそれは極真空手の大山倍達だった。

ブルース・リーの映画とマンガ「空手バカ一代」によって空手ブームが起こっていた。
中学3年生の角田信朗は、剛柔流空手の通信教育を始めた。
しかし筆記試験でむなしくなり3ヵ月でやめた。
次に有段者になるとカンフー着のような上着を着ることができるという少林寺拳法を習い始めた。
当時の少林寺拳法の試合では「乱取り」と「組演武」があった。
角田信朗は、グローブと胴当てをつけたスパーリングで顔面をボコボコにされた。

ケンカ空手か?人食い熊か?

極真空手をドキュメントタッチで描いた映画「地上最強のカラテ」は大ヒットしたが、角田信朗はブルース・リーのカンフーを「シャモのケンカ」呼ばわりした大山倍達を否定していたので観にいくことはなかった。
「空手バカ一代」のマンガもアニメもみなかった。
しかし「地上最強のカラテPART2」のキャッチコピー「極真ケンカ空手か?人食い熊か?」にやられてしまい、ついに映画館に足を運んでしまう。
2m100㎏のウィリー・ウィリアムが、2m50㎝、320㎏の灰色熊と戦うシーンをみて、ブルース・リー信仰は失せた。
決してブルース・リーを否定するわけではないが極真空手には幻想ではないリアリズムがあった。
すぐにマンガ「空手バカ一代」を全巻揃え、読破。
大山倍達の著書もむさぼり読んだ。

空手バカとなる

角田信朗は奈良県立生駒高校に進んだが、人生の中心は空手バカ一代だった。
極真空手の道場に入る前に
「極真の稽古は地獄稽古」
「黒帯に到達できるのは入門者500人に1人。
時期によっては1000人に1人という狭き門」
という極真空手の稽古に耐えられる体づくりをしなければならないと思った角田信朗は、マンガ「空手バカ一代」の中で大山倍達や芦原英幸が行っていたトレーニングを実践した。
庭に成長の早い葦の種をまいて、毎日、その上を飛び越える訓練を行った。
しかし腰の高さくらいまで伸びると、
「庭が汚ない」
といって母親が苅ってしまった。
両親に買ってもらったバーベルとベンチプレス台をガレージにおいてトレーニングを開始。
ベンチプレスは40㎏からスタートし、重さを少しずつ重くしていく。
やがて挙がらなくなると、キリを持った弟にお尻を刺させた。
「ウギャー」
痛さでバーベルを胸の上に落してしまい死にかけの兄と
「アハハハッ」
と笑う弟だった。

高校入学時50㎏だった角田信朗の体は徐々に変化した。
腕立て伏せは、拳立て伏せから指立伏せに、そして親指2本でできるようになった。
極真空手の猛者はスクワットを1000回こなすと書いてあったので、これにもチャレンジ。
最初は200回だったが、太腿をパンパンに張らせ激痛を感じながら回数を増やしていった。
学校でも休み時間になるとトレーニング。
校庭に木材が落ちていたら手刀で折った。
家に帰ると走り込み。
そしてバーベル。
鉄下駄をはいて蹴りの練習。
葦の上を飛び。
気合と共に仮想敵に突きや蹴りを繰り出した。
高校2年生の誕生日にサンドバッグを買ってもらい、家にはかけるところがなかったので表の電柱にかけて延々と叩いた。

極真会館芦原道場

体ができてきた角田信朗はいよいよ極真空手に入門しようと思った。
そこで雑誌で家の近くの極真の道場を調べてみたが、何故か大阪の道場だけ載っていなかった。
その頃、マンガ「空手バカ一代」で主人公の大山倍達をしのぐ人気を得た四国支部長:芦原英幸は、関西にまでその支部を広げた。
そのため縄張り争いが起きて、総本部から四国以外に支部を出さないように釘を刺されている頃だった。
角田信朗は中学時代に少林寺拳法の試合で大阪府立体育館に来たとき、隣接する大阪球場で「極真空手会員募集」のポスターをみたのを思い出した。
自宅のある奈良県大和郡山からナンバの大阪球場まで電車で40分到着。
入り口には「国際空手道連盟 極真会館 芦原道場」とあり、道場では200名が稽古をしていて、気合と熱気があふれ出ていた。
角田信朗はそれから1週間、この道場に通い見学し続けた。
そして自宅の庭道場で、真似をして稽古した。
見学していて特に印象的だったのがキックミットだった。
弟にキャッチャーミットをはめさせ、その上に座布団を3枚重ね巻き自転車のゴム紐で縛りつけキックミットとし、そこに技を叩き込んでいく。
サンドバッグと違ってミットの持ち手が動くことでより実戦的な稽古ができたが、高校受験を控えた弟は手が震えてペンが持てず勉強ができなかった。

奈良県文化会館で大山倍達の講演会が行われたとき、角田信朗は6時間目の授業をサボっていった。
約1時間の講演後、1枚2000円のサイン会があり、帰りの電車賃が足りなくなるが列に並び、色紙にサインをしてもらい握手もしてもらった。
その手はグローブのように厚かった。
角田信朗は色紙を抱え家まで1時間半歩いて帰り、ガレージのトレーニング場に色紙を神棚のように飾った。

1979年2月、芦原道場奈良支部ができた。
近鉄奈良駅からバスで15分くらいのところにある鼓阪小学校の教員であり茶帯の坂部保が、週3回、体育館で教えていた。
角田信朗はすぐに入門した。
しかしこの道場は、技術を重視した合理的な稽古だった。
地獄稽古に向け数年間で50㎏から63㎏まで増量していた角田信朗は物足りず、坂部保のアドバイスを得て、ナンバの大阪球場の道場へ出稽古に行った。
ちなみに鼓阪小学校は明石家さんまの出身校である。

師 石井和義

ナンバの大阪球場の道場は、正式には「極真会館芦原道場大阪支部」といい、石井和義が指導していた。
石井和義は、愛媛県で生まれ、テレビドラマ「キイハンター」の千葉真一の影響で高校で器械体操を始めた。
やがて偶然みかけた宇和島の芦原道場に入門し、わずか2年で黒帯になった。
大学受験に失敗し、大阪に住む兄の家に住み浪人。
アートスクールに通いながら東京芸術大学を目指した。
(ちなみに石井和義の父は画家。
横山大観の弟子で横山と一緒に中国本土へ渡り淡彩画を学んでいたが、終戦後、その夢が閉ざされ、自転車屋を営んだ)
しかしアートスクールの学生はみんな絵が上手く、石井和義は進学を諦め大阪の貿易会社に就職していた。
1975年、22歳の石井和義は芦原英幸に関西での極真空手の普及を命じられた。
大阪球場内の文化教室で極真会館芦原道場大阪支部を設立し、当初は昼はサラリーマン、夜は空手の先生という生活を送った。
神戸、京都、奈良、堺市、岡山と拡大させていき、会社を辞め空手に専念。
月々の収益、数百万円を芦原英幸に送ったが、石井和義の月給は11万円だった。
27歳のとき、貯金を食いつぶしてしまったため昇給を懇願し、12万円に昇給してもらった。

またこの道場には、マス大山空手スクール出身第1号で極真空手の全日本大会でも活躍していた前田比良聖や、空手歴半年の緑帯でいきなり極真空手の全日本大会の決勝まで進んだ中山猛夫もいた。

石井和義の指導は、
「いいですかぁ?」
「わかりますかぁ?」
「じゃあやってみて下さい」
と丁寧で理論的、
そして
「わぁすごい!」
「強い突きだね!」
とホメ上手だった。
稽古後、角田信朗も石井和義に声をかけられた。
「上手いねえ。
何かやってたの?」
そして石井和義は
「みんなでお茶でも飲みにいかない?」
と周囲をお茶に誘い、角田信朗にも
「君もどう?」
といった。
「押忍、ありがとうございます
ただ自分は明日試験がありますので今日はこれで失礼します」
「えー、君、大学生なの?」
「押忍、いえ、高校生であります」
「高校生!?
老けた顔してるねえ。
子供でもいるのかと思ったよー
ハハハ。」

「極真会」から「芦原会館」へ

芦原英幸は3週間に1度くらい関西を訪れ、角田信朗が練習する奈良支部でも指導を行った。
稽古後、芦原英幸が角田信朗にいった。
「お前、明日時間あるか?」
角田信朗は授業があったが
「押忍。
大丈夫です」
と答えた。
「俺、奈良は初めてじゃけん、明日ちょっと案内してくれよ」
翌日、角田信朗はホテルに迎えに行き、東大寺や奈良公園などを案内した。
奈良公園で足に釣り糸が絡まってしまって動けなくなった鳩を見つけた芦原英幸は、鹿せんべいを売っていたおばちゃんにはさみを借りて、糸を丁寧に外した。
芦原英幸は大山倍達の命で四国で極真空手を広めるため東京からやってきた当初は、道場生も少なく、アルバイトをしながら指導していた。
脚をケガしてもお金がないので医者にも行けず杖をついて指導した。
腹が減って道場生の頭がカツ丼にみえることもあったが、努めて明るく振舞い、決して弱さはみせなかった。
そんなときに栄養失調の捨て犬を拾い、どこに行くにもつれていき、犬も芦原英幸から離れなかった。
自分がいなければ生きていけない犬の存在と厳しい稽古をがんばる道場生が芦原英幸のがんばる原動力となり、そして練習後のバカ話が楽しくて仕方なかった。
角田信朗は鬼のように強いケンカ10段がみせるやさしさに感動した。

1979年、芦原英幸は愛媛県の田舎の小さな町道場からスタートし徐々に道場を増やしていき、ついに県庁所在地の松山市にも道場を建てた。
しかし東京の極真会館本部からは
「立派すぎる」
といい評価は得られず
「そんな道場が建てられるなら月々の送金額を増すように」
といわれた。
また芦原英幸は愛媛県支部長だったが、愛媛県が北部と南部に分けられ愛媛県北部支部長になった。
そして愛媛県以外の活動を慎むようにといわれた。
「空手バカ一代」による空手ブームにより、全国に極真空手の支部が増え、新しい支部長も増え、縄張り争いが起き始めていた。
芦原英幸は、大山道場が懐かしかった。
池袋の小さな道場は、ただただ強さを求め熱気に溢れていた。
強かった先輩たち。
狂ったような猛稽古。
芦原英幸はやっと自分の居場所を見つけたとうれしかった。

1980年3月、東京で支部長会議が行われ、議事予定になかったが、ある支部長から「芦原英幸除名」が発議された。
芦原英幸は言い放った。
「何を最初から茶番やっとるんよ。
面倒くさいことタラタラ続けよって。
最初から目的は決まっとったんやろ。
館長(大山倍達)、そうでしょう。
この芦原を破門にするため、何もかもあんたが企んどったことは分かっちょったわ。
館長、こんだけの人間集めて芦原を脅かそうとかビビらせようなんて考えちょったら甘いですけん」
「ワシが邪魔やというんなら、館長、これだけの支部長がおりますけん、ここで芦原を殺してくださいよ。
このデカいガラス窓を蹴破って一人一人窓の外に放り投げてやってもいいんですよ。
ほらお前ら、黙っちょらんで向かってこいや。
何が極真の支部長や。
誰一人戦えるもんなどおらんやないけえ。」
「館長、ワシがこの窓蹴破るといっちょるんです。
こんな腰抜け支部長は置いといて、館長が芦原を外に放り出してくださいよ。
アンタ「牛殺しの大山」といわれちょるんでしょ。
何頭もの牛を殺したんでしょ。
熊も退治したって聞いてますけん、ワシみたいなヒヨっ子潰すのなんて簡単やないんですか。
破門だ除名だ手回しのいいことせんでも、今ここで決着つけてくださいよ」
しかし極真会館相談役の柳川魏志に諫められ会場を去った。
そして1980年9月、極真会館本部から「永久除名処分」の通達状が届いた。
通達状が届いたその日、芦原英幸は1人で喫茶店にいってこれからのことを考えた。
極真を離れたら、かなり道場生が減ることが予測された。
しかし四国、九州、中国、関西のほとんどの道場生が残ってくれた。
「ようし、見とけよ。
いろいろあったけど芦原についていってよかった、信じてついていってよかったといつか思えるようにしちゃる」
芦原英幸は自分の空手を「芦原空手」、道場を「芦原会館」と名づけ再出発した。
墨をすって筆で半紙に「芦原會館」と書いた。
次にシンボルマークを作成した。
空手のステップのラインを枠組みに、サバキで最も重要なポジショニングと制空圏の重要性をシンボライズさせた。
「サバキでスランプに陥ったら、このマークを拡大してその中心に自分が立っているのをイメージする。
力だけで相手をコントロールしようとしてはいけない。
常に柔らかく、無駄な力を省き、より滑らかに捌くことを意識して取り組めば、このマークの意味することが必ずいつかわかってくるから」
こうして角田信朗の道着の胸文字は「極真会」から「芦原会館」に変わった。
今まで夢として追いかけてきた「地上最強の極真カラテ」だったが、もうその門下生ではなくなった。

小指を立てた突き

角田信朗は、生駒高校で英語の試験では95点以下をとったことはなかった。
全教科の平均点も90点前後をキープ。
そして首席で卒業し関西外国語大学に進学した。
鍛え続けた体も高校入学時50㎏だったものが70㎏になっていた。
大学では月水金は極真カラテ同好会で稽古。
残り3日を学内の施設でウエイトトレーニングを行った。
またエグザス(現:コナミスポーツ)でインストラクターのアルバイトをした。

通常はエグザスだったが、夏だけは京阪電車の牧野駅前のヤングプラザプール、通称:ヤンプラで監視員のアルバイトをした。
最初は硬派でストイックに仕事をこなしたが、目の前のたくさんの水着姿の女性に魂が徐々に浸食されていった。
かわいい娘をみつけると
「今日はちょっと水温低いから長いこと入ってると風邪ひきますよ」
などと仕事を装い近づきナンパ。
大学2年生の夏に初体験を終えた。
ウエイトトレーニングで80㎏近くまでビルドアップした肉体は年上のお姉さまにウケがよかった。
道場では
「角田の突きは小指が立っとる」
といわれた。

「極真会」から「芦原会館」、そして「正道会館」へ

1982年、関西を中心に一大勢力を築き上げた石井和義は、ケンカ十段:芦原英幸の芦原会館から独立し正道会館を立ち上げた。
芦原空手側からみれば、大量の指導員と門下生が引き抜かれ
「クーデター」
といわれた。
角田信朗の道着の胸文字は「極真会」から「芦原会館」、そして「正道会館」へ短期間で変わった。
6月、京都大学、神戸大学、甲南大学、大阪芸術大学、桃山学院大学、松山商科大学、関西外国語大学、関西学院大学という石井和義が指導していた関西の大学が集って「第1回西日本学生空手道選手権大会団体戦」が行われた。
角田信朗は関西外国語大学チームの副将として出場。
1回戦、後ろ回し蹴りを相手の脇腹に炸裂させたが、体がくの字になった相手の顔に右手が当たってしまい、「技あり」と「顔面殴打(反則)」を同時にとられる。
試合が続行され後ろ蹴りを繰り出したが、またしても右手が相手の顔面を直撃し、2コの反則で反則負けとなった。
結局、関西外国語大学チームは4位。
角田信朗は1勝2敗に終わり「反則魔」といわれた。

正道会館は、6か月後の12月に「第1回ノックダウンオープントーナメント西日本空手道選手権大会」を開催。
角田信朗は、1回戦、後ろ回し蹴りを相手の脇腹に炸裂させKO勝ち。
2回戦も勝ち。
3回戦に脇腹に突きを食らってKO負けした。
この関西初のフルコンタクトカラテのオープントーナメント(正道会館にかかわらずすべての他流派や団体に所属する者でも参加を受け入れる大会)は、少年マガジンで大人気だった「1・2の三四郎」でも告知され、立ち見が出るほど大盛況だった。
石井和義の空手というマイナーだったものをメジャーに盛り上げていく才能は、28歳のこの頃からすでに発揮されていた。

石井和義は翌年の1982年10月にいきなり第1回全日本選手権を、しかも西日本最大の収容人数を誇っていた大阪府立体育館で開催。
5000人を超える大観衆が見守る中、1年遅れで芦原会館を退館し正道会館に移籍した中山猛夫が圧倒的な力で優勝した。
角田信朗は1回戦は勝ったが、2回戦の試合前に行われる杉板の試し割りが大会唯一の失敗に終わり、負けた。
この後、角田信朗は、正道会館の全日本大会に連続12回出場することになる。

パンチのある男

大学で教職課程を選択していた角田信朗は、3年ぶりに母校:奈良県立生駒高校に戻り、教育実習を行った。
私語を慎むように注意しても聞かない生徒がいたら、教室の後ろの小さな黒板に拳で穴を空けた。
授業は静かに進行したが、黒板の弁償費は30万円もかかった。

学生時代に納得のいくまで空手をやり抜いてみようと思った角田信朗は1年間大学を休学。
アルバイト先のスポーツクラブでは本格的な競技エアロビクスを行った。
また関西外国語大学ボクシング部キャプテンで、高校ではインターハイ群馬代表にもなった坂井武に出会い、週2回、ボクシング部へ出稽古。
顔面に青タンをつくり鼻血を出しながらパンチのテクニックを習得していった。
また時間が許す限り正道会館総本部に行き、中山猛夫師範に金魚の糞のようにひっつき、左レバー打ち(左ボディブロー)、左レバー蹴り(左ミドルキック)でガードを下げさせ顔面を蹴って倒すという技術を盗もうとした。

正道会館神戸支部長

しかし角田信朗は、第2回全日本大会、第3回全日本大会を共に3回戦で敗退。
第3回全日本大会では、関西外国語大学でも道場でも後輩の佐竹雅昭が全日本初出場でベスト4に入るのを目の当たりにした。
1年休学して5年間、大学に通って空手に専念した角田信朗は就職を考え始めた。
教員採用試験は受けなかったし、大学からもらった大手の一流商社の話は、
「ウーン、商社マンか。
少なくともクマを倒すような空手家になることは無理だな」
と断った。
角田信朗はできるだけ空手に携わって生きていく方法の1つとして、アルバイトをしていたエグザスへの就職を考えていた。
しかしそんなときに正道会館が神戸支部をオープンさせることになり、その支部長にならないかという話が舞い込んできた。
「空手に専念して食っていける!」
角田信朗は2つ返事で受けた。
そして1985年3月、英語教員免許を取得し関西外国語大学を卒業し、4月には正道会館神戸支部長に任命され、単身神戸に赴いた。
道場は神戸三宮の新築テナントビルの3階を借り切り、道場スペースとトレーニングスペースを併設した立派で近代的なものだった。

この正道会館神戸支部の道場にはオーナーがいた。
谷本竜子。
「20歳のときにケニアのナイロビ空港を計画した」
「阪神高速道路を計画したのはウチや」
「南紀白浜サファリパークを造ったんはウチや」
などという謎の、任侠っぽい60歳前後と思われる女性だった。
神戸東灘の家は要塞のような豪邸。
グルメで食べることに月1000万円近く使っていた。
谷本竜子は、初めて角田信朗に会ったとき
「あんた!
ウチに恥かかすなよ!」
といった。
年末の全日本大会について
「あんた、何位になるつもりや?」
「押忍。
出来るならベスト8に入賞したいです」
「何?
チャンピオン違うんかい」
と露骨に嫌な顔をし
「ベスト8に入れへんかったらどうするつもりや?」
「押忍。
頭丸めて辞表出します」
「ホォーッホッホッホ」
と豪快に笑った。
また知り合いの社長に、全日本大会のチケットを100枚単位で押しつけ、
「ここへ振り込んどき!」
なにかあれば
「ウチは惚れたわけでもない男のためになんでこんなことせんとあかんのよ」
と角田信朗をヒールを履いたまま蹴った。
道場の初期投資費用は軽く1000万円以上。
家賃が月々150万円。
仮に200名の道場生を集めても、月会費5000円×200=100万円で赤字。
利益を上げるためには、多くの道場生を集めなければならない。
強い弟子を育てなければならない。
自分も全日本で勝たなくてはならない。
経営などまったくわからない角田信朗はとにかく必死のパッチでがんばった。

1985年12月、第4回全日本大会で角田信朗は、当初の目標ベスト8を超えてベスト4に進出。
準決勝で優勝した川地雅樹に、3位決定戦で今西靖明に共にローキックで倒された。
「ハイハイ、今日道場閉めたらご飯食べにおいで」
試合翌日、谷本竜子に自宅に呼ばれていくと、日本料理店吉兆から取り寄せられた料理、100g10万円のステーキ、1本50万円のワインが用意されていた。
「あんた、よぉがんばったやないの」
笑顔の谷本竜子に声をかけられ、目から涙があふれ出た。
正道会館神戸支部は約300名にまで道場生を増やした。

他流試合

角田信朗は総本部を離れたため強い相手との組手が少なくなり、ウエイトトレーニングに力を入れ、得意技、中山猛夫直伝の左ボディブローを磨いた。
少林寺出身で極真空手の全日本大会でベスト8入りした田中正文館長が主催する第3回全日本拳武道選手権大会に出場し2位になった。
2回戦から準決勝まで4試合すべてが左のレバー打ちによる一本勝ちだった。
1回戦で角田信朗の必殺の左ボディブローに耐えて倒れなかったのが村上竜司だった。
角田信朗を含め、正道会館は「挑戦」をテーマに、他流派の空手トーナメントにも参戦し「他流試合」を行った。
他流派の試合に出ると、どうしても判定では勝ち抜くい。
「じゃあ、倒せばいいんだ」
と「倒す空手」を追求。
やがてありとあらゆる流派の大会を総ナメにし「常勝軍団」と呼ばれるようになった。

正道会館神戸支部存続の危機

正道会館神戸支部はトロフィーの数も道場生も増やし、順調だった。
谷本竜子が海外出張から帰ってくるため、角田信朗は大阪伊丹空港に出迎えに行った。
しかしゲートから出てきた谷本竜子を10名ほどの屈強な男たちが取り囲んだ。
角田信朗は助けにいこうとしたが腕をつかまれた。
「角田くんやな?
兵庫県警の捜査一課や。
君、大人しくしてくれよ?
君が暴れたときのために表に機動隊が30人待機してるんや」
角田信朗は説明を求めたが
「谷本さんは逮捕された。
身柄は拘束されたので彼女とは今日は会えないから帰ってくれ」
とだけいわれた。
翌日、角田信朗は事情聴取のため兵庫県警に呼び出された。
丸一日、聴取され、ポリグラフ(嘘発見器)にかけられ、両手10本の指の指紋を採取された。
県警の事情聴取は道場生にも及んだ。
谷本竜子は証拠不十分ですぐに釈放され、事件は不起訴となったが、300人いた道場生は30名にまで減った。
また石井和義は、これ以上、谷本竜子から援助を受けることはできないと判断し、三宮の大道場は閉鎖された。
道場生はさらに減り15名になった。

角田信朗は練習場所を探した。
最初は週3回、神戸市中央体育館を借りたが、使用量が1回1万円。
月会費5000円×15名=7万5000円。
週2回でも赤字になる。
角田信朗は、正道会館の理事長からの依頼で、奈良県の薬湯健康ランドの警備員の仕事をした。
この薬湯健康ランドがオープンしたため地元の同業者から依頼され嫌がらせをしたり、みかじめ(用心棒代)を要求する暴力団。
酔った客の迷惑行為。
角田信朗は、道場の稽古のない日は泊まり込み、24時間体制で、何かトラブルが起きたら現場に駆けつけた。
ズボンの下には金的カップをつけ乱闘に備えた。
実際、刺青をいれた人の入店を断ったとき、いきなり金的を蹴られたこともあった。
手を出されたら極力相手にダメージを与えないように気をつけながら制したが、その後は報復を警戒し、車に乗るときなど周囲に気を配った。
この仕事の報酬は日当1万5000円。
半年ほど続けた。

半年の用心棒稼業で得たお金は新道場開設につぎ込んだ。
元門下生のお肉屋さんに、ある物件を紹介された。
それはたくさんから借金してたくさんの抵当権(お金を貸す際に不動産や動産(自動車や機械、船舶、飛行機など)に設定する担保)がついて所有権も分散しているという建物でだった。
2階建ての家屋で、1階はお肉屋さんが牛を解体するのに使っていた作業場、2階は事務所と居住スペースだった。
1階のガラス窓には銃弾を撃ち込まれた弾痕があった。
お肉屋さんは家賃はあるとき払ってくれたらいい、ないときは気持ちだけでいいという。
角田信朗は、作業場にこびりついた血と脂を洗剤とブラシで洗い流し、要らないものを奥にしまい、人工芝を敷いた上にトランクルームに預けてあったトレーニングマシンを置いたトレーニングマシンスペースと畳を敷いた道場スペースをつくった。
2階も掃除をして自分が住んだ。
こうして1ヶ月かけて蓄えをすべてつぎ込んで改装した道場をスタートさせた。
門下生を集め家賃を払っていけばいいと思っていた矢先、お肉屋さんから電話が入った。
「角田君。
君、先月家賃1円も入れてないやろ?
それはあかんわ。
先方(所有権を主張する債権者)から1ヶ月以内に出ていってくれっていうてきてるわ。
わしの顔潰さんとってや!」
確かに1万円でも入れておくべきだったと反省しつつ、あまりのことに角田信朗はついついケンカ腰になって言い返した。
「ちゃんと元通りに直して明け渡せ!」
お肉屋さんのおっちゃんもヤクザ口調になった。
汚かった部屋を貯めたお金と自分の体を使ってキレイにしたら「元通りにせよ」である。
再度、トレーニングマシンをトランクルームに戻し、何もない状態で明け渡すと、
「元通り違うやないかい!」
と電話が入った。
(なんやとぉ?)
角田信朗は片づけておいた備品をぶちまけ、天ぷら油をまき散らした。
悲惨な状態で出場した第5回全日本大会。
前年4位の角田信朗には「神戸の猛牛」というニックネームがつけられていたが3回戦で敗退した。

角田信朗は、ラーメン屋で働き、王子公園近くに部屋を借りて、近くの安いレンタルスペースで週3回の稽古、陸上トレーニング、そして三宮のジムでトレーニングした。
ラーメン屋の営業時間は17時から5時。
仕事後、そのまま寝ず王子公園陸上競技場サブトラックで走り込み。
その後、食事をとって、カーテンが買えないので窓にアルミホイルを貼って朝日をカットした部屋で5~6時間寝た。
週3日はレンタルスペースで空手の稽古。
この日はラーメン屋に入るのは22時。
それ以外の日は、ラーメン屋に入る前に三宮のジムでウエイトトレーニングとエアロビクス。
エアロビクスはインストラクターが好きになって週5回も通っていたが、2時間ブッ通しでやっているうちに運動能力が改善された。

角田信朗は、建設現場のアルバイトも行った。
セメントやブロック、角材をかついでビルの階段を上がり、コンクリートをハツって(砕いて)ガラを袋に入れてトラックに積み込んだ。
(学校の先生になっておくべきだった・・・)
(商社に就職しておくべきだった・・・)
(エグザスのインストラクター・・・)
後悔が頭によぎれば
「吾、事において後悔せず」
と大山倍達も感動したという宮本武蔵の言葉を心で唱え、角材をかついで階段を7階の現場まで上りながらワンフロアごとにスクワット。
角材を床に下ろすときも数回持ち上げてショルダープレスしてから下した。
汗まみれで仕事を終えると事務員の女性に1万円札をポーンと投げられた。

毎週土曜日の夜は三宮の街に繰り出し1000円で歌い放題飲み放題カラオケパブで歌いまくりベロベロに酔っぱらった。
道場生と夜の街をナンパして歩くこともあった。
タンクトップを着て道場で腕立て伏せをやって筋肉をパンパンにして歩いた。
時間がたって筋肉の張りが消えてきたら路地裏に入って再び腕立て伏せ。
再びパンパンにした。
そして第6回全日本大会はベスト8に進出したものの、準々決勝で今西靖明のパンチのあまりの痛さに背を向けてしまう。
闘魂の権化:今西靖明は容赦せずに怒涛の攻撃で追い込み、角田信朗は人間サンドバッグとなり場外へ押し出され再び敵に背中をみせたところで試合が終わった。
屈辱的な負け方だった。

グローブマッチ

佐藤塾の松井宣治、長谷川一之。
士道館の村上竜司、シアマク・マハダビ。
白蓮会館の杉原正康館長。
誠心会館の青柳誠司館長。
真樹道場の安里昌明。
正道会館の佐竹雅昭、柳澤恥行、今西靖明。
極真空手を除くすべての実戦空手の各流派のチャンピオンが集い「梶原一騎追悼記念興行・格闘技の祭典、空手リアルチャンピオン決定トーナメント」が開かれた。
そして大方の予想を覆して柳澤恥行が佐竹雅昭に勝って優勝した。

空手リアルチャンピオン決定トーナメントの2ヵ月後、角田信朗は、極真空手の第1回世界大会の優勝者である佐藤勝昭の佐藤塾が主催するポイント&KO全日本大会に出場。
他流試合にのぞんだ。
そして1回戦から準決勝まで5試合を嫌味なくらいに圧倒的な強さで勝ち進み2位となった。
試合後、
「すごいですね。
どんな稽古してるんですか?」
とストイックそうな佐藤塾の選手に聞かれ
「週3回の空手の稽古と(恋をしたインストラクターに会いたくて通う)週5回のエアロビクス」
とはいえなかった。

1988年、正道会館は全日本大会を一新させた。
まず畳の上だった試合場がリングに替わった。
選手は畳の外に逃げることができず、よりアグレッシブで完全決着が期待された。
また本戦、延長戦、再延長戦を戦い差が出なかった場合、体重差10㎏以内であれば、グローブをつけて顔面パンチありで延長戦を行うことになった。
大会前、角田信朗は、就職していた元関西外国語大学ボクシング部キャプテン:坂井武や大阪帝拳でWBA世界Jrバンタム級チャンピオン:渡辺次郎を育てた安達哲夫トレーナーにコーチしてもらってパンチに磨きをかけた。
そして2回戦まで本戦で判定勝ち。
3回戦は左ミドルキックでKO。
準々決勝で、昨年、背中をみせて屈辱の敗退を喫した今西靖明と対戦。
開始30秒、今西靖明のパンチが角田信朗の顔面をとらえダウンさせてしまうアクシデントがあった。
ドクターは止めようたが角田信朗が続行を懇願し、1試合挟んでから改めて試合が行われた。
角田信朗は今西靖明の猛攻を体を捻って打点をズラシして殺し、必殺の左フックを右肩に叩き込んだ。
通称:肩パンチを嫌がって今西靖明が右のガードを開くと、角田信朗はそのガードの内側にパンチを入れた。
左ボディブローで一瞬、今西靖明の体が沈み、後退。
その後も角田信朗は今西靖明の攻撃に対して必ず左の肩パンチを返した。
そして試合はグローブマッチに突入。
角田信朗のパンチに今西靖明はそむけてしまう。
1年前の真逆の展開。
角田信朗はあらゆる角度からパンチを浴びせラッシュ。
技ありを奪う。
そして最後は左フックで肩パンチと同じ反応を起こし右ガードが開いた今西靖明に右アッパーをねじ込み、再び閉じたガードの外から左フックでフィニッシュ。
今西靖明は鼻血を出しながら倒れていった。
昨年からの目標「打倒!今西先輩」を果たした角田信朗は、リングを降りると同時に倒れた。
今度こそドクターと石井和義がストップしようとしたが、角田信朗は再び続行を望んだ。
「角田、わかった。
お前の骨は俺が拾ったる」
石井和義はそういって本部席に戻った。

準決勝の相手は佐竹雅昭だった。
心を鬼にした佐竹雅昭の容赦ない攻撃の前に角田信朗はマットに膝をついた。
試合場ではエアロビクスのインストラクターが涙を流して観ていた。
しかし彼女は3ヵ月後に結婚した。

西太后

1989年、角田信朗は芦原空手の先輩が経営する不動産会社に就職した。
そしてこの年の第8回全日本大会で現役を引退しようと決めた。
仕事は宅建業(宅地建物取引業、自らが行う宅地や建物の売買や交換、売買や交換、貸借をするときの代理や媒介を業として行う)だったが、角田信朗は宅建の試験に受からず、物件を1つも成約させることはできなかった。
それでも会社は角田信朗をバックアップし定時で帰れるようにした。
角田信朗は自らの神戸支部と大阪の総本部で稽古を行った。
そして第8回全日本大会で角田信朗は3回戦まで圧倒的な強さで勝った。
4回戦の相手は、田上敬だった。
軽量級の選手で、直前の稽古で角田信朗は左ボディブローでKOしていた。
楽勝かと思われたが、田上敬久はひたすら攻め続け、前進し続けた。
角田信朗は何もできずあっさりと本戦で負けた。
最終的な結果は6位。
「あんな試合してるようじゃ、もうあきませんわ。
これで引退しますわ」
角田信朗はサバサバした表情でリングを降りた。
浪花の出戻り男、1度目の引退だった。

「ちょっとあんた!
何やのん、あの試合?」
翌日出社すると、いきなり女性社員にいわれた。
天野雅子、通称「西太后」と呼ばれ恐れられていた女性で昨日の試合を観戦していた。
年齢は角田信朗の5つ上で
「あんたが小1のときウチは6年や
ウチが1年のときアンタはヨチヨチや
べチャッと踏んだら終わりや
そんときからあんたはウチには勝たれんようになってんねん」
「あんた!
またそのへんの腐ったイソギンチャクみないなしょーもない女の口ばっかり吸うてんと、据え膳食わずに真っすぐ帰れ!」
と歯に衣着せぬ毒舌でズバズバいう人だった。
「何やのんって、しょうがないですやんか。
燃えへんのやから」
「ちょっとあんた!
今なにいうた?」
「天野さん、お言葉を返すようですけど、仕事のことや人生のことは先輩やと思って聞かせてもらいますけど、空手に関しては天野さんがどうこういわはんのお門違いやと思いますよ」
「あんたな、今まで神戸で色んな苦労しながら空手を忘れずやってきたんと違うんか?
あんたが引退するいうもんウチは別に止める筋合いも何もない。
そやけどな、ウチも社長もあんたが空手がんばって大会出るいうから、残業もさせんと稽古行くのも優遇してきたったわなあ。
ひとつも売り上げ上がらんのに。
これ普通の会社やったら、空手?寝ぼけたこというてんと、サッサと仕事して成績上げてこいで終わりやで?
あんたが成績に満足するか否か、そんなことはどうでもええ。
そやけど応援してくれてる人間の気持ち考えたら、あんたを支えてくれてきたたくさんの人たちに対して、人間として感謝の気持ちがあるんやったら、勝っても負けても全力で試合するんが礼儀違うんか?」
「・・・・・・・」
「ヘラヘラしながら引退しますわって。
冗談やない。
ウチはあのとき人前でもかまわんから引っぱたいたろ思たわ!」

極真空手の全日本大会でベスト4

西太后の言葉に打ちのめされた角田信朗にトピックスが舞い込んだ。
翌年1990年6月2日に行われる極真空手の第7回全日本ウエイト制大会に正道会館も出場するというのだ。
これまで極真を破門された芦原英幸の弟子である石井和義の正道会館と極真会館と交流がなかった。
しかしこの度、大山倍達は「空手界の大同団結」を呼びかけ、正道会館の選手の出場が認められたのである。
夢の「地上最強の極真カラテ」に挑戦できるのである。
角田信朗の心は燃え上がった。
出社すると社長と西太后に正道会館の全日本大会での不甲斐なさを詫びた。
そして極真のウエイト制大会への挑戦を報告した。
社長は快く受け入れ、これまで通りのバックアップを約束した。
角田信朗は週3回は神戸支部、残り3日を大阪の総本部で稽古した。
大阪へ行く日は18時に仕事を終え、大きなバッグを抱えて阪急電車に乗り19時からの代表選手の特訓に参加した。
正道会館の試合ではOKだが極真空手の試合のルールでは禁止されている「掴み」を禁止した組手が延々と続き、その後は一気に5連打する地獄のキックミット5連打。
最終電車に間に合うギリギリまで稽古は続いた。
通常ならJR環状線の天満駅から1駅乗って大阪駅までいき、神戸線に乗り換える。
角田信朗の家は阪急電車の王子公園駅から徒歩5分。
しかし阪急電車は終わっているので、JRで灘駅まで帰り、そこから家まで40分歩いた。
そして翌朝8時45分に出社した。
浪花の出戻り男、1度目の復帰であった。

神戸支部での稽古を王子公園で陸上トレーニングに替えることもあった。
ウォーミングアップで、腕立て伏せ50回&ジャンピングスクワット50回×10セット。
それが終わるとインターバルダッシュ。
とどめは王子公園の入り口から山へ向かって伸びる500mの坂を地獄ダッシュ。
200mくらいで息ができなくなり、残り300mは無酸素状態。
ゴールするとよだれと鼻水だらけになった。
最初は1本もできなかったが、極真ウエイト制大会までに5本こなせるようになった。

1990年6月2~3日、極真会館が主催する第7回オープントーナメント全日本ウエイト制空手道選手権大会が大阪府立体育館で開催された。
他流試合において、すべての大会で上位を独占し「常勝軍団」といわれた正道会館だったが、極真空手は心技体共にレベルが違った。

軽量級、中量級、重量級の3階級に12名の選手を送り込んだが、2日目の準々決勝に進めたのは重量級にエントリーした柳澤恥行と角田信朗だけだった。
そして柳澤恥行は、この大会で優勝する岩崎達也に判定負けした。
残るは角田信朗だけだった。

角田信朗の次の相手、準々決勝の相手は、井口勝利だった。
「ゼッケン210番!角田伸朗選手!」
試合場に上がり正面を向くと大山倍達と目が合った。
大山倍達はニヤッと笑った。
試合が始まると井口勝利の蹴りに角田信朗はクイックローを返した。
蹴られたら蹴り返すような攻防が何度が続いた後、肩を狙った角田信朗の左のパンチが流れて顎に入り、井口勝利が倒れた。
角田信朗は頭を下げた。
再開後、ポイント勝ちも考え、手数重視となりつつある空手のトーナメントであるが、角田信朗と井口勝利は打ち合った。
魂がこもった戦いだった。
井口勝利は100㎏を超える巨体からムチのようにしなった左ハイキックを出した。
角田信朗はそれを捌いて、井口勝利の体を時計回りに回した。
そして右フックをボディに打ちながら右足を外に踏み出した。
左半身に意識を集中させた井口勝利の右側の顔面に角田信朗は腰を残してヘッドを走らせた左ハイキックを叩き込んだ。
井口勝利は丸太のように倒れた。
強靭な精神力ですぐに立ち上がろうとしたが夢遊病者のようによろめいた。
劇的な1本勝ちだった。
角田信朗は試合場の上で泣いた。
セコンドも正道会館の選手も社長も西太后も泣いていた。
この奇跡の一戦で気持ちが途切れ抜け殻となってしまった角田信朗は準決勝で敗れた。
しかし他流派の選手が極真空手の全日本大会でベスト4に入ったことは快挙だった。
表彰式で、講演会以来、12年ぶりに大山倍達と握手を交わした。
「君ねえ、秋の無差別と世界大会にも出てこい!」

ケガで極真の全日本大会出場を辞退

角田信朗は、試合3日後までは軽いジョギングだけにしたが、10月の正道会館の全日本大会と11月の極真会館の全日本大会に向け、再びハードトレーニングを開始した。
そして正道会館の第9回全日本大会の6週間前に自宅前で縄跳びを跳んでいるとき
「バシィー」
という衝撃が右膝に走り倒れこんだ。
歩けないまま這って部屋に戻りタクシーを読んで病院へ直行した。
右膝内側半月板完全断裂だった。
すぐに膝に内視鏡を入れて断裂した部分を摘出する手術を受け1週間入院した。
車椅子でオペ室へ向かうとき女性看護師に
「すいません。
手術中の呼吸はヒーヒーフーでいいんですよね」
とボケたが寒い顔をされた。
第9回全日本大会は3回戦で後川恥之に負けた。
(後川恥之は佐竹雅昭を破って優勝)
とても大山倍達の期待に応えらえる状態ではないので角田信朗は、11月の極真会館の全日本大会の出場を辞退した。

vs USA大山カラテ & アウトボクサーの嫁

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1991年、角田信朗は右膝のため陸上競技トレーニングはできなくなった分、ウエイトトレーニングやエアロビクスに力を入れた。
その目標は、6月の極真の全日本ウエイト制だった。
第5回世界大会の選考会を兼ねたこの大会に勝って極真の世界大会出場を目論んだ。
そして4月の佐藤塾全日本大会で2位。
5月、「USA大山カラテ vs 正道カラテ 5対5マッチ」が開催された。
先鋒戦、次鋒戦が引き分けとなり、中堅戦で角田信朗はギャリー・クルグビッツと対戦。
延長戦で角田信朗の跳び膝蹴りでギャリー・クルグビッツはひっくり返った。
そして大将戦では、角田信朗を極真カラテの世界に引き込んだ男、クマ殺しのウィリー・ウィリアムスが佐竹雅昭と対戦した。

試合を終え会場を出る角田信朗に女性が声をかけた。
「とっても感動しました。
握手してください」
「ああ、ありがとうございます」
「今日はもう大阪にお帰りですか?」
「いえいえ今日はもうこんな時間に帰るの無理なんで、一泊して明日ゆっくりして帰ろうかなと」
「えー、明日はゆっくりされるんですかぁ?」
「え?、ええ。
ああ、よかったらディズニーランドでも一緒に行きますか?」
「いいですよ!」
こうして2人は翌日待ち合わせた。
女性は最初のデートから35分も遅れ、角田信朗は舞浜へ向かう地下鉄のエスカレータで、すでに女性の手を握り、電車のなかでは肩に手をかけた。
お互いに図々しいと思いながら、ディズニーランドでは、接近戦を望む角田信朗を女性はまるでK-1の武蔵のように絶妙の距離を保ち続けた。
新幹線のホームで別れるとき、電話番号を交換し2ヵ月後のお盆休みに再開することを約束した。
しかし次の週の日曜日、女性は大阪までやってきた。
そしてお盆休みには角田信朗は、この女性、飯干恭子の実家にいき親族にあいさつした。

ツノダはどうしたのかね

6月、極真全日本ウエイト制大会で、角田信朗は初日の予選を突破こそ、2日目の2回戦で敗れ、午後に開催される開会式に出ることはできなかった。
開会式で大山倍達は
「おい、ツノダはどうしたのかね、ツノダは?」
と角田信朗を探した。

RINGS(リングス)

秋の正道会館の第10回全日本大会は、オランダのジェラルド・ゴルドーやピーター・スミット、ソ連のアマチュアボクシングスーパーヘビー級チャンピオン、スラブ・ヤコブレフなども参戦。
大会直前、角田信朗は左膝の内側の靱帯を断裂するケガをし、右のローキックでスラブ・ヤコブレフを沈めた後、棄権した。

試合後、呼ばれていくとそこには石井和義と前田日明がいた。
前田日明は、UWF崩壊後、異種格闘技の「RINGS(リングス)」を立ち上げていた。
キャッチコピーは「世界最強の男はリングスが決める」
石井和義が唐突にいった。
「角田さぁ、12月にリングスさんの大会が有明コロシアムであるんやけど、出てみない?」
「押忍?」
「佐竹と一緒に。
いいよねえ。
返事しとくよ?」
大山倍達が世界でケンカ旅行を行ったことを思い出し引き受けてしまう空手バカであった。
角田信朗は前田道場や新宿のスポーツ会館でやっていたサンボの練習に参加し組み技の練習をした。
そしてリングスのデビュー戦の対戦相手は、オランダのケンカ屋、ヘルマン・レンティング。
タックル狙いのヘルマン・レンティングとパンチを当てたい角田信朗、間合い地獄に陥り引き分けとなった。

第2戦は、キックの帝王、ロブ・カーマンだった。
しかし角田信朗がリングスに参戦するとに社長は否定的だった。
「俺は角田が武道家として空手をやることに関してはこれまで応援してきた。
そやけどプロレスをやるとなったら話は別やで」
大阪から東京の試合に出るには、前日に移動し、試合をしてから翌朝1番の新幹線で帰って出社しても最低2日は休まなくてはならない。
角田信朗は会社に欠勤届を出したが社長の承認印は出発日になってももらえなかった。
角田信朗の空手はロブ・カーマンに何もできなかった。
アクシデントでロブ・カーマンのパンチが顔面に入り角田信朗はダウンし鼻から大量に出血した。
顔面への攻撃は掌底のみなので、これはロブ・カーマンの反則だった。
ドクターがストップしようとしたが角田信朗は続行を希望。
しかしなす術なくタックルを仕掛け、それを潰されたところに膝を落とされ負けた。
病院で鼻の骨が折れていることがわかり手術と10日間の入院をすすめられたが、社長の承認をもらえないまま会社を2日も休んでいる角田信朗は翌朝、出社。
「どこ行っとったん。
顔腫らして」
「・・・・リングスの試合です。
欠勤届は事前に提出していますが」
「聞いてないで」
「・・・・・・・」

1992年3月5日、リングスで角田信朗は、オランダの柔道王、ルディ・イウォルドをTKO。
その3日後の1992年3月8日、角田信朗と飯干恭子は結婚式を挙げた。
最後に親族を代表して角田信朗の父親があいさつしている最中、酔った前田日明が
「お〇〇〇」
と女性器の俗称を絶叫。
同じく泥酔した角田信朗もスイートルームに投げ込まれ、2次会は新郎不在で行われた。

クマ殺しと引き分け

結婚式の3週間後、正道会館主催で「格闘技オリンピック」という格闘技イベントが行われた。
前田日明が第1試合をつとめ、メインは佐竹雅昭 vs モーリス・スミス。
そしてセミファイナルは、角田信朗 vs クマ殺し、ウィリー・ウィリアムスだった。
角田信朗を空手の世界に引き込んだキャッチコピー「極真カラテか?人喰いクマか?」
16年後、伝説のクマ殺しが目の前にいた。
そして2分3ラウンドを戦い引き分けた。

正道会館師範代

1992年6月25日、リングス宮城大会「獅子吼」で角田信朗は長井満也に判定負けした。
試合終了後、悔しさから
「戦うサラリーマンは今日で返上です。
会社辞めて格闘技に専念します」
と発言してしまう。
翌日、出社し、
「お話があります」
と社長にいうと
「おお、辞めるんやろ」
とあっさりいわれた。
そして30歳にして大阪天満の正道会館総本部の師範代となった。

鉄人の踵と怒りのゴッドハンド

1992年7月30日、正道会館の「格闘技オリンピックⅡ」に極真空手史上最強の外国人、世界大会2位、鉄人アンディ・フグが参戦。
踵落しで柳澤恥行を粉砕した。
アンディ・フグの正道会館への移籍に大山倍達は怒り、極真会館は正道会館と絶縁した。
(大山倍達没後、解消)
絶縁して約1年後、石井和義から角田信朗に電話が入った。
「お前、スーツ持ってるか?」
「押忍」
「じゃあスーツに着替えて東京行きの新幹線に今からすぐ乗って、乗ったら電話してこい」
「お、押忍?」
「プーップーップーッ」
電話は切れた。
わけもわからず着替えて新幹線に乗ってからかけ直した。
「押忍。
いま新幹線に乗りました。」
「あーそお。
ご苦労さん」
「自分はどうさせていただいたらいいのでしょうか?」
「ホテルニューオータニでね、梶原一騎先生の7回忌の記念式典やってるんだけど、角田、俺の代わりに出席してきてよ」
「お、押忍!!!???」
「極真の人たちもみんな来てるらしいよ」
「押忍!!
館長!そんな大事な席に自分のような者では館長の代わりは勤まりません!!」
「なにいってんの。
みんなお前が来るの待っとるで」
「押忍!!
しかし館長!!
極真会館さんからは絶縁状が届いている状態なのに、そんなところへ自分が行って大丈夫なんでしょうか!?」
「プーップーップーッ」
悲惨だった。
東京駅からタクシーでホテルニューオータニへ。
遅れて会場に着いた角田信朗は恐る恐る会場のドアを少しだけ開けて中をのぞいた。
「すぐ目の前に極真会館の黄色のブレザーを着た50名ほどの屈強な男たちがビッシリと出席していた。
しかも正面では大山倍達が挨拶をしている最中だった。
(ヤバい)
角田信朗は静かにドアを閉めた。
(こんな敵陣に、絶縁状を回されている組織の幹部がノコノコ入っていったらどうなるのだろう?)
思案に暮れ、もう1度少しドアを開けて中をみようとしたとき、中からドアが押されて開き梶原一騎の弟の真樹日佐夫が出てきた。
「いやあ、角田君来てくれたのか」
その声に会場の中の全員が角田信朗をみた。
「ちょうどいい、大山総裁に紹介するよ」
「押忍。
いえでも・・・」
真樹日佐夫に押されブレーキを踏んだままアクセルを踏んだ車のように角田信朗はズズッズズッと大山倍達の前まで来た。
「いやあ総裁。
紹介します。
正道会館の角田君」
「お、押忍。
せ、正道会館の、か、角田であります。
ごぶたさ、いやご無沙汰しております」
大山倍達は右手で握手しながら左手で角田信朗の頬をパチパチ叩いた。
「いやあ!
もう1度会おう!」
(もう1度会おうか。
今会ってるのに)
角田信朗は心の中でツッコんだ。
ゴッドハンドとの3度目の、そして最後の遭遇だった。


バトルサイボーグ

1992年10月29日、リングス名古屋大会「メガバトルーナメント'92」の1回戦で角田信朗はディックフライにKO負け。

アンディ・フグの踵落としにローキック

カラテワールドカップ2回戦で角田信朗はアンディ・フグと対戦。
正道会館に来て以来、鬼のような強さをみせていたアンディ・フグに対し、その踵落としを踏み込みながら頭上でブロックし、そのまま片足状態のアンディ・フグをローキックで倒した。
「さすが角田」
「イケルかも・・」
とも思われたが、その後はアンディ・フグの猛攻が続き、最後は後ろ蹴りをボディにもらってKOされた。

ユリア・・・永遠に

角田信朗は第一子、長女、友里亜が生まれたとき、東京新宿区高田馬場にオープンした道場に単身赴任中で出産に立ち会えなかった。
このとき元ボクシング世界チャンピオンの平仲信明も佐竹雅昭のパンチを教えるために上京中で、2人は道場に布団を敷いて寝泊まりしながら格闘技の夢を語り合った。

角田友里亜は、熊本県高森町で酒かすを使った料理で観光PRするため結成した女性4人組ユニット「酒粕ガールズ(SKG)」のメンバーでもある。

K-1誕生


1993年5月、フジテレビの「Live UFO 93」内のイベントとして、「K-1 Grand Prix93 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント」が開催された。
K-1 グランプリ開始である。
この第1回大会では、ピーター・アーツ、モーリス・スミス、佐竹雅昭の3人が優勝候補といわれた。
しかし決勝戦は共にノーマークだったブランコ・シカティック vs アーネスト・ホースト。
そしてブランコ・シカティックの拳がアーネスト・ホーストを打ちぬいた。

2度目の引退

角田信朗は、決勝戦の前のスペシャルマッチでアンディ・フグと対戦。
以前、負けたときの反省から、踵落としをすべて封じて、接近戦に持ち込んだが、その接近戦でもアンディ・フグの膝蹴りを頭部にもらいKO負けした。

1993年6月、「聖戦」において角田信朗は、アンディ・フグに続いて正道会館に移籍したイギリスの黒豹、マイケル・トンプソンと対戦。
後回し蹴りをボディにもらってKOされた。
1993年10月、「カラテワールドカップ93」には、アンディ・フグ、マイケル・トンプソン、サム・グレコという極真の世界大会でも活躍した空手家たち、UFCで大暴れしたケンカ屋、パトリック・スミス、ムエタイチャンピオン、チャンプア・ゲッソンリットも参加した。
角田信朗はマイケル・トンプソンと再戦。
マイケル・トンプソンが体を回転させた瞬間、前回、ボディに後ろ回し蹴りをもらった忘れようにも忘れられない痛い記憶が角田信朗にボディをカバーさせた。
しかしマイケル・トンプソンの蹴りは中段から軌道を変えて上段へ変化し、角田信朗のこめかみへ。
角田信朗は意識を失い倒れた。
失神KO負けだった。
負けたら引退と決めていた角田信朗は引退した。
(2度目の引退)

角田信朗は、カラテワールドカップを含めて正道会館の全日本大会には、第1回大会から12回連続出場した。

光と影

1994年3月、アンディ・フグが、前年のK-1王者、ブランコ・シカティックと対戦。
倒し倒されの激闘の末、不屈のスピリットで勝ってしまう。
アンディ・フグは、まだグローブマッチを3戦目でボクシングを本格的に習得したのは後のことである。

1994年4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で大山倍達は死去した。
70歳だった。
大山倍達は遺言書で松井章圭を後継者に指名。
松井章圭は極真会館の館長となった。
大山倍達はあまりに偉大な存在だった。
極真のほとんどの支部長は大山倍達に憧れ、この道に身を投じた。
その絶対的存在、精神的支柱を失った極真は、この後、分裂を繰り返していく。
1994年6月、大山倍達の遺族が記者会見を行い
「遺言に疑問があるので法的手段にでる」
と発表。
彼女たちは大山倍達の本葬時にも抗議活動を行った。
そして5名の支部長がこれを支持し、松井章圭の下を離れ、大山智弥子未亡人を館長とする新組織を結成した。
これが「遺族派」、松井章圭を長とする組織は「松井派」と呼ばれた。
1995年4月、35人の支部長が「支部長協議会派」を結成。
松井派は一時、12名までに減った。
世界各地でも分裂が生じ、支部の取り合い選手の引き抜きが行われた。
8月、支部長協議会派と遺族派が合流。
「大山派(現:新極真会)」と呼ばれた。
極真空手の各種大会が、松井派と大山派(現:新極真会)によって開催されるようになる。
松井館派と大山派は、互いに正当性を主張し合った。

1994年、「K-1 GP94」で佐竹雅昭は決勝でピーター・アーツと接戦した末に2位となった。

しかし昨年のK-1チャンピオン、ブランコ・シカティックに勝ち優勝候補だったアンディ・フグは、がパトリック・スミスに秒殺された。
ショッキングなシーンだったが、これによりK-1に「Revenge(リベンジ)」というテーマが加味された。
劇的で華々しいK-1の裏で、角田信朗は道場での指導、K-1の海外との交渉、ルールディレクターなどの業務に携わった。

ちょっと多めに縫っといてもらえますか

第二子、長男、賢士郎が生まれたとき、角田信朗は九州へ駆けつけ出産に立ち会った。
そして医師が切った産道を縫い合わせるとき、
「先生、すいませんけどちょっと多めに縫っといてもらえますか」
といって女性看護師に怒られた。

焼香を断られる

1995年4月24日、芦原英幸が「ALS(筋萎縮側索硬化症、ホーキング病)」と2年半、闘病した末に50歳で亡くなった。
ALSは手や足、のど、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気。
しかし筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害を受ける。
その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなり、力が弱くなり、筋肉がやせていく。
一方で通常、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれる。
1年間で新たにこの病気にかかる人は人口10万人当たり約1-2.5人という難病である。
訃報を聞き、角田信朗は石井和義らと四国、松山へ駆けつけたが、故人の遺志ということで、線香を上げることは許されなかった。
生前、芦原英幸は
「石井を許すことはできない」
といっていたという

侠(おとこ)の挑戦

仕事と指導に追われる毎日を送る角田信朗にある男が挑戦状をたたきつけた。
12年前、る第3回全日本拳武道選手権大会1回戦で角田信朗に敗れた村上竜司である。
村上竜司は翌年の同大会に優勝。
その後、日本を代表する空手家になった。
またキックボクシングでもマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟のヘビー級チャンピオンにもなった。
「角田よ!
ワシと戦らずに引退するんかい!?
ワシの挑戦を受ける勇気があるんやったら名乗り出てこんかい!」
角田信朗は挑戦を受けるため復帰に向け準備を始めた。
(2度目の復帰)
6時、以前は走り込みだったが、両膝の故障を考え自転車を1時間。
朝食後、昼まで仕事を行い、13時から実に7年ぶりのグローブマッチに向けトレーニング。
17時からは指導を行った。
22時に道場を閉めて、食事をし寮に戻り歯を磨いて寝た。
1ヶ月もすると体重は97㎏から85㎏まで落ちた。

Wノブアキ

1995年6月、アンディ・フグの故国、スイスでK-1発の海外大会が開かれることになり、角田信朗も現地へ飛んだ。
そしてチューリッヒのハレンスタジアムで大観衆を集め「K-1 Fight Night」は開催された。

翌日、アンディ・フグにボクシング指導をしていた平仲信明が角田信朗を観光に誘った。
角田信朗は断り、今からジムに行って練習するといった。
すると平仲信明も同行するといい、ホテルから歩いて10分ほどのアンディ・フグのジムに向かった。
しかしジムは日曜日で閉まっていた。
練習場所をなくした2人はトボトボと帰ったが、ホテルの駐車場で練習を開始。
角田信朗はシャドーでアップ。
その後、平仲信明が持つミットへパンチを送り込んだ。
ストップウォッチもタイマーもないので特訓は延々と続いた。
「いいねえ!師範代!
パンチあるよ。」
終わったとき、駐車している車で時間を確認するとWノブアキは2時間以上もやっていた。

竜司 ありがとう

1995年7月、名古屋レインボーホールで行われた「K-1 Legend 翔」で、スペシャルワンマッチとして角田信朗はジョー・サンと対戦。
1度ダウンするも、その後一気にジョー・サンを追い込んで左アッパーを突き上げKOした。

1995年9月、横浜アリーナで行われた「K-1 Revenge2/カラテの逆襲」で、角田信朗は世界タイトル5冠王、キック界のマイク・タイソン、スタン・ザ・マンと対戦。
2Rにローキックでダウンし、セコンドが試合を止めてTKO負けとなった。

その後、角田信朗は、ブルース・ドラゴン・ジョー、上田勉、チャンプア・ゲッソンリットと戦いを重ねた。

1997年7月20日、「K-1 Dream97」で、ついに角田信朗と村上竜司戦が、12年前は愛媛県新居浜の小さな体育館だったが、今回はナゴヤドームの3万人の前で行われた。
角田信朗はリング中央で向かい合い村上竜司にいった。
「竜司、ありがとう」
村上竜司の挑戦宣言のおかげで角田信朗は1日1日を、1分1秒を真剣勝負で生きることができた。
ゴングが鳴ると村上竜司はいきなり跳び上がって膝蹴り。
そして壮絶な打ち合いが始まりKO決着が期待されたが、2人は共に最終ラウンドまで倒れず判定で角田信朗が勝った。
村上竜司は2ラウンド以降、角田のパンチで記憶を失っていた。

K-1 Japan

1998年、「K-1 Japan」シリーズが開始される。
10月、「K-1 Japan 神風 ~日本対世界対抗戦~」で角田信朗は先鋒を務めた。
サザンオールスターズのマンピーのG★スポットにノッて、石橋貴明に「踊る肉団子」といわせた軽快なステップで入場。
195㎝120㎏のバート・ベイルを右のフックでなぎ倒した。
立ち上がったバート・ベイルを攻めまくりスタンディングダウンをとる。
レフリーはカウントは8で止めたが、最初のダウンで肩を脱臼したバート・ベイルは続行することができず角田信朗のTKO勝ちとなった。
しかしその後、宮本正明、長井満也、中迫剛、武蔵は負けた。
翌日、角田信朗は頭を丸め、正道会館とK-1の仕事、そして選手としてトレーニングをハードにこなした。
2ヵ月後、疲れがひどく尿の色が黒くなるなどしたため病院で精密検査を受けると、肝臓と腎臓がほとんど機能していないことが判明。
このままでは命にも関わるという。
医師は2ヵ月の絶対安静と入院、また選手としてリングに復帰することはあきらめるよう命じた。
「40歳の現役ファイター」を目指し1日1日真剣に生きていた角田信朗はショックを受けた。
病院内の移動は歩けるのに「疲れる」という理由で車椅子。
売店に行くことも病室のシャワーを浴びるのも禁止。
1日ベッドで寝ていた。
こうしてクリスマスも正月も病院で過ごすと、医師が驚く超人的回復をみせ、現役復帰の許可を得て1999年2月に退院した。

まさかの黒澤浩樹

退院後は60㎏のベンチプレスも重く感じるほど体力が落ちていたが、ゆっくりとコンディションをつくっていき4月には平均的なレベルまで押し戻した。
そして6月の「K-1 Japan 札幌大会」でのダンカン・ジェームス戦に向けハードなトレーニングを再開した。
ある日、大阪の総本部で昼から行われるプロ部門の練習中に石井和義から寝耳に水の電話が入った。
7月の「PRIDE.7」で黒澤浩樹と空手ルールで戦わないかという。
黒澤浩樹。
伝説の超人である。
極真空手第16回全日本大会に21歳で初出場し初優勝。
翌年の17回大会も圧倒的な強さで決勝に進出したが松井章圭に惨敗。
しかしその殺傷能力は圧倒的で、負けた黒澤浩樹の強さを否定する者は皆無だった。
ベンチプレス200㎏以上、スクワット400kgを挙げ、そのローキックは殺人的な破壊力を秘めていた。
角田信朗にとっても憧れの選手だった。

黒澤浩樹は「PRIDE.1」でイゴール・メインダートと総合格闘技ルールで対戦し、1ラウンドで、投げられたときに踏ん張ってしまい、膝の靱帯を断裂。
その後も戦い続けたがレフリーに止められTKO負けした。
その後、大山倍達没後の極真空手のあり方に疑問を感じ、退会。
黒澤道場を立ち上げた。
そして長期間のリハビリとトレーニングを経て、復帰戦の相手が角田信朗だった。
「押忍。
わかりました。
いまスパーリング中ですので稽古に戻ってよろしいでしょうか」
そういって電話を置いた角田信朗はヘビーバッグにローキックを叩き込んだ。

1999年6月、角田信朗は、ダンカン・ジェームス戦は5Rフルラウンド戦い判定勝ち。
2ヵ月間寝たきり状態から8ヵ月ぶりの試合でフラフラだった。
以後、1ヶ月、黒澤浩樹戦に向け準備に入った。

1999年7月、「PRIDE.7」が横浜アリーナで行われ、黒澤浩樹 vs 角田信朗が行われた。
レフリーは添野義二だった。
黒澤浩樹のローキックは強烈だった。
角田信朗もパンチを返すが、黒澤浩樹のプレッシャーにズルズルと退がり続けた。
判定だが黒澤浩樹の圧勝だった。

2000年1月、黒澤浩樹は「K-1 Japan 長崎大会」でグローブデビュー。
わずか数十秒でKO勝ちした。

2000年3月、角田信朗 vs 黒澤浩樹のリマッチが行われた。
ただし今度はグローブをつけての対戦だった。
丸坊主の角田信朗はサザンオールスターズの「マンピーのG★スポット」で入場。
対する黒沢浩樹は元世界ヘビー級統一チャンピオン、アイアン・マイク・タイソンの兄弟子でありトレーナーをしていたケビン・ルーニーを伴い入場。
ピーカーブーの構えから頭を小刻みに振るヘッド・ムーブで前に出る黒澤浩樹。
角田信朗はコーナーを背負いながらも余裕をもってその攻撃を受けた。
ボクシング技術の差は歴然だった。
黒沢浩樹が前に出た瞬間、角田信朗は左足をスライドさせ、重心を真下に落とし、体重を左足にシフトしながら右のパンチを放り投げ、黒澤浩樹のテンプルを打ち抜き、1R1分53秒、KO勝ちした。

カクタンディ(角田アンディ)

2000年、角田信朗とアンディ・フグは仲がよく2人は自らのユニットを「カクタンディ」といった。
アンディ・フグは自分の子供が生まれたとき、角田信朗に名前を考えてくれと頼んだ。
できれば名前に日本風の響きを入れたいという。
自身の娘は「ユリア(友里亜)」、息子は「ケンシロウ(賢士郎)」とマンガ「北斗の拳」からかんたんに名付けた。
しかし他人の子供となるとそうはいかない。
日本風といってもスイス人に「〇〇ザエモン」や「〇〇ノスケ」などというのも変。
角田信朗はノートに「あ」から順に思いつく名前を書き出していった。
200個以上書き出した結果、「Seiya」という名前が気にいった。
発想の源は、マンガ「聖闘士聖矢」ではなく、空手の稽古で「セイヤ!」と気合を入れることだった。
毎年6月にはスイスで「K-1 Fight Night」が行われ、その度に角田信朗はアンディ・フグのプールつきの豪邸に招待された。
遊んでいるとき、セイヤが友里亜にパンチと蹴りを出すのをみた角田信朗はアンディ・フグがいないときにセイヤのホッペをつねった。
「コラ。
お父ちゃんが強いからって調子に乗るなよ。
だいたいプールや子供部屋とか贅沢やねん/
こっちは借家住まいやねんぞ」

2000年8月24日。
朝の走り込みを終え大阪の四天王寺の家に帰った角田信朗に電話が入った。
「落ち着いて聞いてください。
アンディが今病院にいます」
「えっ?
ケガでもしたんですか?」
「いえ、白血病です。
今もう危篤状態です。
すぐに来てください」
角田信朗はすぐに新幹線に飛び乗った。
「何が白血病じゃ。
アンディ、アホかお前」
遅い新幹線に歯ぎしりした。
東京駅から日本医科大学付属病院へ着いた角田信朗は8階まで階段を一気に駆け上がった。
石井和義が待っていた。
「館長、一体どういうことですか?!」
「行こうか」
石井和義は諭すように静かにいった。
病室には「武道聖矢」という名札がかかっていた。
たくさんの人に囲まれたベッドの上でアンディ・フグは横たわっていた。
鼻や口にたくさんの管が入り意識はなかった。
「お前、何やってんねん」
ベッドの横のモニターには150近い心拍数が示されていた。
150という心拍数は短距離を全力疾走するときの数値である。
その病名は「AML(Acute Myeloid Leukemia、急性前骨髄球性白血病)」だった。
血液中には赤血球、白血球、血小板などの血液細胞がある。
これらは骨髄にある造血幹細胞から増殖、分化してつくられる。
急性骨髄性白血病は、このような血液をつくる過程の未熟な血液細胞である骨髄芽球に何らかの遺伝子異常が起こり、がん化した細胞(白血病細胞)が無制限に増殖することで発症する。
アンディ・フグの場合、まず全身の免疫機能が低下し、肺の中がカビだらけになり自発呼吸が困難になった。
血液を凝固させる成分が壊死しているため主血があっても止まらない状態で、後頭部には大量の主血があった。
アンディ・フグは前日の深夜から高熱を発し、いつ息を引き取ってもおかしくない危篤状態が続いていたが病魔と戦い続けていた。
しかし医師によると生還の見込みはないという。
角田信朗は思った。
「こいつ戦っとるなあ。
史上最強の敵と必死で戦っとるなあ。
ちょっと休んだらええのに。
カラテスピリッツやいうて」

「よっしゃ、思う存分戦えや
今度はどんなことがあっても絶対に止めんからな」
過去にマイク・ベルナルドに滅多打ちにされるアンディ・フグをみてレフリーをしていた角田信朗が試合を止めたことがあった。
周囲からは止めるのが遅いといわれた。
あれだけの強打を受け続けながら最後まで膝をつかなかったアンディ・フグとレフリーでありながら、その姿をみてファイターの誇りを傷つけることをためらった角田信朗だった。
16時、「アンディ・フグ危篤」の報道が流れ、病院に関係者が続々と訪れた。
17時半、一旦身内だけにしてあげようということになり角田信朗も外に出た。
18時、医師に呼ばれ再び病室に入るとモニターの心拍数は40まで低下していた。
「アンディ!アンディ!
お前何やってるんだよ。
もう1回チャンピオンになるって俺に約束したじゃないかよ。
アンディ!」
(平仲信明)
「アンディ、お前、まだまだやらんとあかんことがいっぱいあるやろうが」
(石井和義)
「アンディ、アンディ」
「アンディ、ネバーギブアップ」
「アンディ、カラテスピリッツ」
全員がアンディに語りかけた。
「ピーッ」
心電図の波が消え直線となり電子音が響いた。
角田信朗は叫んだ。
「アホか、アンディ。
何しとるんじゃ。
レフリーがやめいうまで勝手に休んだらあかんのじゃ」
するとなんの疎性措置をしていないのアンディの心臓は鼓動を始めた。
「よっしゃよっしゃ。
そういうことや!
アンディやればできるやないか」
しかしすぐにその鼓動は弱まっていった。
「あかん!あかん!
アンディ、立ってみい。
コラァー」
いったいどこにそんな力が残っているのか。
アンディ・フグの心臓は3度止まって、人々の声に応えるように再び動き出した。
4度目の停止したとき、戦いを続行させようとする角田信朗を医師が止めた。
「もう休ませてあげましょう」
アンディは最後まであきらめず勇猛果敢に戦い続ようとした。
レフリーの角田信朗もその戦いを止めなかった。
セコンドの平仲信明もタオルを投げなかった。
壮絶な戦いはドクターストップで幕を閉じた。
2000年8月24日18時21分。
35歳の鉄人は伝説の男となった。

テレビをつければ角田信朗がいる

2001年1月、角田信朗は正道会館の最高師範6段を石井和義から授与された。
同月、「K-1 RISING 2001 〜四国初上陸〜」で柳澤龍志と対戦しドロー。
3月、テレビの仕事に対応するため大阪を離れ東京へ拠点を移した。
「おはスタ!」のK-1押覇道
NHK教育テレビの「天才てれびくんワイド」
その他多くのバラエティ番組やスポーツニュースなどに出演。
テレビをつければ角田信朗がいるという現象が起こった。
8月、「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」で角田信朗はマウリシオ・ダ・シウバに判定勝ちした。
2001年は2試合し「40歳まで現役」という目標を達成。
自分へのご褒美としてランボギーニ・ディアブロを購入した。
道場の近くでは道場生に車が当たらないように監視させながら駐車した。

脱税


2002年、角田信朗はNHK朝の連続ドラマ「まんてん」で映画「マルサの女」で女性国税局査察官を演じた宮本信子と共演していたが、同年12月、株式会社ケイワンが法人税法違反の容疑で強制捜査を受けた。
2003年2月3日、石井和義は証拠隠滅教唆容疑で逮捕された。
(5月22日に保釈金4,000万円を支払い保釈)。

引退試合は師弟対決

石井和義を欠いた「K-1」は、イベントプロデューサー:谷川貞治、競技統括プロデューサー:角田信朗の新体制で動き出した。
そしてボブ・サップがK-1デビュー。
アーネスト・ホーストを2度も倒した上、そのキャラクターは大人気となった。
谷川貞治はボブ・サップと総合格闘技でも大活躍していたK-1ファイター、ミルコ・クロコップの対戦を企画。
同時期、角田信朗は武蔵をはじめとするK-1の日本選手の戦いぶりを
「賞味期限切れのファイター」
と批判した。

2003年4月、5月に行われる「K-1 ラスベガス大会」でミルコ・クロコップと対戦予定だったボブ・サップが眼窩底骨折で試合ができないことが判明。
谷川貞治は急遽、角田信朗に引退試合をラスベガスでやることを提案した。
42歳の角田信朗は事情が事情だけに断ることができず、ただ対戦相手は過去に負けたスタン・ザ・マンかディック・フライを指名した。
しかしスタン・ザ・マンもディック・フライもオファーを受けなかったため、対戦相手がなかなか決まらず、「賞味期限切れ」といわれた武蔵が「体で教えてもらう」と名乗り出た。

2003年5月2日、本来、角田信朗 vs 武蔵の試合は、K-1アメリカ予選の決勝戦前にスーパーファイトとして組まれていた。
しかし生中継の時間内に決勝戦を終わらせるため、全選手は入場時のパフォーマンスを禁止され試合後も速やかに移動するように指示された。
引退試合を花道から盛り上げ、試合後のパフォーマンスとスピーチを用意していた角田信朗は自分の試合を決勝戦の後に回してもらった。
そしてラスベガスのミラージュホテルのグランドボールルームに残った客はまばらだった。
角田信朗はロッキー4の「ハーツ オン ファイヤー」で入場した。
試合開始後、角田信朗は芦原英幸に褒められた後ろ回し蹴りを繰り出した。
「オリャ!」
「ハッ!」
まるで空手の試合のように2人は声を出しながら打撃を繰り出し合った。
武蔵は、オーソドックスの構えからは矢のようなパンチ攻撃を繰り出しサウスポーになれば強烈な左ミドルキックで相手を潰す2刀流である。
2ラウンド、武蔵の左ミドルをもらった角田信朗は後退した。
そして左ミドルを警戒し右肘でボディをカードする角田信朗の顔面に武蔵のハイキック。
角田信朗は体ごともっていかれ膝をついた。
立ち上がった角田信朗に武蔵は再び左ミドルキックを炸裂させた。
角田信朗はうめき声をあげてマットに倒れた。
その瞬間、過去の苦しかったことがフラッシュバックし角田信朗はカウント9で立ち上がった。
ここで2ラウンドが終わった。
3ラウンド、角田信朗は前に出ることしか考えなった。
パンチでラッシュを仕掛ける角田信朗を武蔵は左膝一発でマットに沈めた。
それでも立ち上がり攻める角田信朗に武蔵のカウンターの右フックで2度目のダウンを奪う。
試合は3ノックダウン制で、あと1ダウンで自動的に負けとなる。
「オリャ!」
角田信朗は気合を入れた。
武蔵の膝とパンチで何度もスリップダウン。
それでもすぐに立ち上がった。
最後は武蔵の左ハイを顔面にモロにもらい倒れそうになるが、執念でこらえてダウンせず不屈の闘志をみせた。
日本人だけでなく残っていたアメリカ人客も角田信朗の熱いファイトに歓声と拍手を送った。
勝者がコールされるとき、島田裕二レフリーまでもが感涙。
ボブ・サップもリングに上がり角田信朗のファイトを讃えた。
マイクを持った角田信朗は流ちょうな英語で
「武蔵は次世代のK-1チャンピオンになると信じてます。
だからみんな武蔵とK-1をサポートしてください。
日本で応援してくれたファン、今日の試合を会場で見てくれた家族に感謝します。
アイラブユー!」
とアピール。
最後はグローブをマットに置いてリングを降り、夫人、娘、息子と抱き合った。
(3度目の引退)

3度目の現役復帰 何度倒れても立ち上がる男

2004年1月14日、脱税と証拠隠滅教唆について東京地方裁判所は石井和義に懲役1年10か月の実刑判決を下した。
2005年3月19日、「K-1 WORLD GP 2005 in SEOUL」で角田信朗は身長差32cm、体重差100kg以上という体格差のある曙と対戦。
2度のダウンを奪われ判定負け。
(3度目の復帰)

2005年5月27日、「K-1 WORLD GP 2005 in PARIS」で角田信朗はマーベリックと対戦し、右フックで1RKO勝ち。

2005年9月23日、「K-1 WORLD GP 2005 in OSAKA 開幕戦」で角田信朗はジョージ・ザ・アイアンライオンに判定負け。
2007年6月11日、石井和義は静岡刑務所に収監された
2008年8月7日、模範囚であったため刑期が短縮され石井和義は出所した。

2015年5月15日、フジテレビで放送された「気まずい2人が久しぶりに会ってみました」に角田信朗と武蔵が出演。
引退試合を戦った武蔵は、角田信朗の早すぎる復帰について違和感を感じたことを語った。

ボディビル

格闘技の現役時代の角田信朗の171㎝95㎏という体格は異常なほどの筋肉の大きさを示している。
また引退後もトレーニングと稽古を続けた角田信朗は50歳を過ぎてからボディビルの大会に出場した。
2015年9月26日、53歳の角田信朗はグアムで行われた「日本グアム親善 ボディビル選手権」に出場。
男子ボディビルミドル級(80㎏以下)で優勝、マスタークラス(40歳以上)で3位。
2016年7月10日、「ボディビルフィットネス選手権大会」では、男子マスターズ(50歳以上)優勝、男子75㎏超級優勝、オーバーオール(年代別優勝者から選ばれる)優勝の3冠に輝いた。
現役時代の95㎏から20㎏近い減量と空手の動きを取り入れたポージングを行った。

松ちゃんにフラれる

2017年1月16日、角田信朗は自身のブログで、ダウンタウンの松本人志と確執があったことを明かした。
その上で、真実が本人に伝わって関係修復につながることを願った。
かつて日本テレビ系「ダウンタウンDX」や浜田雅功が司会を務めるフジテレビ系「ジャンクSPORTS」に頻繁に出演していたが、
「ある事件をきっかけに ボクは ダウンタウンの番組に 全く呼ばれなくなってしまったのです」
という。
ダウンタウンの番組で企画された「芸人対抗・叩いて被ってジャンケンポン選手権」に制作サイドからレフリーとして出演依頼があったが
「当時K-1は ジャッジやレフェリングに様々な問題提起が為され 物議を醸していた時期でした。
ミスジャッジの存在や、それこそ武田幸三引退試合のボクのレフェリング然り、世界に広がる競技を統括する最高責任者のボクが果たしてそんな状況下でバラエティー番組に出て ≪叩いて被ってジャンケンポン≫のレフリーを務める事が格闘技ファンから許容されるだろうか…そんなジレンマがありました」
2009年10月、角田信朗は武田幸三vsアルバート・クラウス戦のレフリーを務め、引退試合だった武田幸三がダウンし続行不可能ともみえる試合をストップしなかった。この試合は論議を呼び、角田信朗は自らレフリー活動を3カ月自粛した。ダウンタウンの番組からのオファーは、このあたりの時期に出されている
角田信朗はK-1イベントサイドからも自粛要請があり泣く泣く出演依頼を断った。
それから約1年後、「ダウンタウンDX」から出演依頼が舞い込み、
「あの時に松ちゃんからのお申し出に応える事が出来なかった御詫びをやっと直接出来るチャンスが来た」
と喜んだが、収録当日に、収録が突然中止となった。
「村司マネージャーから帰ってきた答えは 松本さんが台本を見て 角田の名前を見つけた途端に 収録は中止や!! ということになった…というものでした。
ショック!
要するにあの時、ボクがオファーを断ったことに 未だご立腹だ、というのです」
共演予定だった和田アキ子から
「あんた一体何があったん!?」
と電話がかかってきたという。
「ボクは今でもダウンタウンが大好きで 番組は欠かさず観て 笑うたびに一抹の寂しさも痛感しています。
あの時強引にでも松ちゃんの控え室に乗り込んでいって直接経緯を説明すれば絶対にこんなふうにはなっていなかったろうという想いは強いで」
「このブログに書くことでこの真実が回り回って松ちゃんのもとに届くことを祈っています」
とラブコールを送った。


1月22日、松本人志は「ワイドナショー」で角田信朗の主張に反論。
「角田さん側はOKやったんですよ。
レフリーの衣装まで全部決めてるんですよ、打ち合わせで。
ところが、「ガキ使」の収録って水曜日なんですが、2日前の月曜日にドタキャンされたんですよ」
「僕が怒っているとか、そういうことではなくて、番組の問題とか、吉本(興業業)とか、もっといえば日本テレビとの問題なので。
僕が共演NGとか、そんな小っちゃい話では、もうないんですよ。
なぜここに来て急に、8年たってから僕を名指しでおっしゃってるのか、よく分からないんですよ」
同日、角田信朗はブログで
「この度は、私自身の思慮に欠ける突然の発信で、松本人志氏、そして関係各位の皆様に、大変不愉快な思いをさせてしまった事を、心よりお詫び申し上げます」
と謝罪。
番組ドタキャンの事実を認め
「私の認識が甘く、松本氏を始め、お仕事に携わられた多数の方々にご迷惑をおかけ致しましたこと、誠に申し訳ありません。
改めて謝罪致します」
とした。
以後6か月間、角田信朗は芸能関係の仕事を自粛した。

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「ブートキャンプ」のビリーは、軍隊の隊長ではなく空手家だった

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2000年代にブレイクした軍隊式ワークアウト「ビリーズ・ブートキャンプ」の隊長ビリー・ブランクスは、実は軍隊の隊長ではなく、空手のチャンピオンだった。彼の子供の頃からの障害や70~90年代の空手家としての活躍。ブランクスの結婚と離婚、日本人女性との再婚について触れていく。そして、現在68歳のビリー・ブランクスの活動や画像を紹介。


石井慧! オリンピック金メダル獲得後、石井節炸裂!!「屁のツッパリにもなりません」「ウツでも金」福田康夫首相は「すごい純粋さが伝わってきました。そして腹黒くないからこそ政治家として人気が出ない」

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山下泰裕が持っていた全日本選手権最年少優勝記録を破り、井上康生、鈴木桂治、棟田康幸とのライバルに競り勝って北京オリンピックに出場し、金メダル獲得。「屁のツッパリにもなりません」「すごい純粋さが伝わってきました。そして腹黒くないからこそ、政治家として人気が出ない」


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葛飾区商店街連合会は、2025年10月10日より『キャプテン翼』とのコラボイベント「シーズン2」を亀有・金町・柴又エリアで開催。キャラクターをイメージした限定メニューやスタンプラリーを展開し、聖地巡礼と地域活性化を促進します。


キン肉マン愛が英語力に!超人たちの名言・名場面で学ぶ『キン肉マン超人英会話』発売

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人気アニメ『キン肉マン』の「完璧超人始祖編」の名言・名場面を題材にした英会話学習書『キン肉マン超人英会話』が、2025年11月29日(土)にKADOKAWAより発売されます。超人たちの熱い言葉を通じて、楽しみながら実用的な英語表現をインプットできます。TOEIC満点保持者やプロレスキャスターなど、豪華プロ集団が監修・翻訳を担当した、ファン必携の英語学習本です。


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開催直前!TOKYO MX開局30周年記念「昭和100年スーパーソングブックショウ」が10月16日に迫る。古舘伊知郎と友近がMC、豪華ゲストと共に贈る一夜限りの昭和ベストヒットに期待高まる!


ギタリスト 鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブを東阪ビルボードで開催!

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ギタリスト 鈴木茂が、『鈴木茂「BAND WAGON」発売50周年記念ライブ~Autumn Season~』を11月13日にビルボードライブ大阪、16日にビルボードライブ東京にて開催する。今回は、1975年にリリースされた1stソロアルバム「BAND WAGON」の発売50周年を記念したプレミアム公演となる。


【1965年生まれ】2025年還暦を迎える意外な海外アーティストたち!

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2025年(令和7年)は、1965年(昭和40年)生まれの人が還暦を迎える年です。ついに、昭和40年代生まれが還暦を迎える時代になりました。今の60歳は若いとはと言っても、数字だけ見るともうすぐ高齢者。今回は、2025年に還暦を迎える7名の人気海外アーティストをご紹介します。