石井慧は、大阪市と京都市の中間、大阪府茨城市で生まれ、約4㎏(3950g)という巨体は、高校教師をしている両親が用意していた靴が入らず、その後も桁外れの体重の増え方を示した。
共働きの両親に代わって昼間は祖母、淑子が世話をしていたが、4歳の石井慧が保育園に入って3ヵ月後、保育士とケンカして、
「やめさせてもらいます」
石井慧の物怖じしない、思ったことをいい、我が道を行く性格は、おばあちゃん似だという。
家族で海に行ったとき、水中メガネでみる海の生物にすっかり魅了され、海に顔をつけたまま、はるか沖までいってしまい、家族はあちこちを捜索。
「夢中になるとなにもみえなくなるです」
(母、美智子)
普段は非常に財布の紐が固い石井慧だが、夏祭りでカブトムシやクワガタを売る屋台を発見すると5000円を握り締めて購入し、ベランダをケースでいっぱいにして楽しそうに育て、京都の田舎にある母、美智子親の実家にいくと、同級生より3回りくらい体が大きい体で肉食獣のように虫、魚、動物を追いかけた。
父、義彦、義彦は、高校から柔道を始め、日体大に進学。
卒業後、高校で体育教師と柔道部の顧問をしながら、修道館(大阪城公園内にある柔道場)でも柔道を教えた。
母、美智子も日体大出身の体育教師で元ハンドボール日本代表。
日体大の先輩後輩である2人は同じお好み焼き屋さんに通っていて、店のおばちゃんが母、美智子に
「いい人知ってるし、紹介するわー」
といって引き合わさせたのがきっかけ。
父、義彦、義彦は、
「とにかく骨太にしたい」
と石井慧に、納豆、海苔、じゃこ、野菜たっぷりの味噌汁、そして茶碗のご飯を小指ほどに握り締めた握り飯を食べさせた。
礼儀には厳しいが、勉強ができなくても怒らず、自分が中学生の頃から集めてきた切手シートを息子と娘がちぎって遊んでいるのをみたときも怒らずに寝込んだ。
また決して強制はせず、実は柔道をさせたくて、石井慧に柔道着のパジャマを着せ、修道館にもつれていったが、無理に練習させたり、柔道着も着させることもなく、好きに遊ばせた。
家では、さりげなく柔道の試合をみたり、柔道や格闘技関係の本やマンガをリビングに置き、石井慧が
「野球がしたい」
というと
「人が投げたボールを棒で打って拾いにいかせるんやぞ。
お前、そんなことやりたいんか?
男は1対1やろ」
というなど、さりげなく誘導し、
「柔道がしたい」
というのを待った。
強制はしないが、諭すのはうまく、飼い犬の散歩にいかない石井慧に
「お前が散歩に連れていかんかったら、この子はオシッコができひん・・・」
と物語風に語りかけ、情にモロい石井慧は、最後には泣き出し、散歩に出かけた。
茨木市立大池小学校で、石井慧は体は大きかったが、運動音痴で競走ではビリ。
野球でバットを振ってもボールと数十cm離れ、Jリーグがブームになり友達とサッカーチームを結成したとき、ゴールキーパーになったが、あまりの下手さに
「明日から来んでいい」
といわれた。
一方、妹、愛は、スポーツ万能で、初めてスケート場にいったとき、スイスイ滑ったが、石井慧は母、美智子の腰にしがみついて離れることができなかった。
「混ぜるな危険と書いてある洗剤をみると混ぜたくなる」
という石井慧は、比較的、理科が得意だったが、基本的に勉強はできず、近所の塾に入ったが、あまり真面目に勉強せず、塾から苦情が出てやめることに。
母、美智子が
「お世話になりました」
と頭を下げる横で、
「こんなところでやってられるか、ボケ」
といい、後でハタかれ(殴られ)、より厳しい個別指導の塾に入れられた。
父、義彦の密かな願いと誘導のかいあって、石井慧は小学校4年生から柔道を開始。
練習は週2回。
火曜と金曜の夕方から1時間半、市の体育館で行われた。
茨城市内に柔道部がある中学校で3校だけで、小学校だけで終わるケースが多く、この道場も礼儀と体力をつけさせるような練習内容だった。
石井慧は、この道場で目立つ存在ではなく、むしろ一緒に入った妹、愛のほうが、そのセンス、バネ、技のキレで指導者を驚かせた。
父、義彦は、柔道のほかにも水泳やラグビー、ハンドボールなどなんでもでき、全日本サンボ選手権大会(1979年8月、第8回大会、 90kg級)で優勝したこともあった。
しかし
「ピカイチじゃなかった」
という。
「だからこそ慧には器用貧乏になって欲しくなかった」
とドンくさい息子に、まず
・片足でかけるのではなく両足でかける体落し
・小技として支え釣り込み足
・右利きだったが左組み
を教えた。
石井慧は、柔道の動きや技を習得するのに人の倍以上の時間がかかったが、父、義彦は、
「メッチャ上手になったやん」
とウソをつく罪悪感に耐えながらほめ、
「いい意味でスキンシップ、悪くいえば身体検査」
とマッサージしながら体の大きさや筋肉をチェック。
よく鍋料理をつくって野菜、魚肉を多く食べさせ、チャーハンには、たくさんの種類の野菜を小さく刻み、ご飯と同じくらい投入。
石井慧は
「飲めるだけ飲め」
といわれ、牛乳を飲めるだけ飲んで吐き出した。
父、義彦親の影響で料理に興味を持ち、大きくなると
「オムライスは、フライパンでケチャップを炒めて水分を飛ばしてからご飯を入れるとパラパラになる。
卵は白身と黄身を分けて、白身は思い切り空気を入れて泡立て、黄身は潰す程度で混ぜて焼くとフワッとなる」
というほど上手になったが、この頃は中華料理風に炒めた卵とニンジンを
「ウンパオ!」
と名づけて食卓に出したが、ニンジンが生のままで不評だった。
石井慧が小学校5年生のとき、父、義彦は、強豪、清風中学をお受験させることを決意。
スポーツ推薦はなく、純粋に学力で入るしかないが、
「携帯電話持ち込み禁止」
「頭髪は刈り上げ指定」
など生活指導に厳しい私立中高一貫校の偏差値は63。
上位10%、40人のクラスで4番以内に入る成績でなければ難しい。
父、義彦は進学塾に入れようとしたが、塾の講師は石井慧の成績をみて、
「無理です」
といった。
父、義彦は
「最初からそんなこというてどないするんじゃ。
落ちても文句はいわんし、家でも勉強をやらせるから」
とゴリ押し。
以後、2年間、石井慧は、平日は学校が終わった後、22時まで、休日は9~22時まで塾で勉強。
しかしなかなか成績は上がらず、塾のテストでいい点を取ると講師にカンニングを疑われたり、
「清風に合格できたらハワイ旅行、プレゼントするわ」
といわれたりしながら通い続け、周囲には
「オレ、清風にいくねん」
小学校6年生になると160cm、85kgになったが、勉強だけしていたのでクラスの自分より背が高い女子に腕相撲で負けた。
中学受験は、小学6年生の1月に終了。
小学校の卒業アルバムには
『自分の夢は?』
「柔道でオリンピックに出たい」
『もしも生まれ変わったら?』
「今よりも強くなりたい」
『もし魔法が使えたら?』
「悪魔と友達になる」
1999年、石井慧は清風中学に進学し、石井慧は、茨城市から大阪市天王寺まで電車通学を開始。
同級生の柔道部員は6人だけ。
いずれも小学校から本格的にやっている猛者ばかりで、中には全国大会で上位に入った者もいた。
当然、石井慧は1番弱かったが、とにかくサボらなかった。
例えば打ち込みを100回やるとき、速い人は5、6分で終わってしまう。
そのとき石井慧は、まだ20~30本残っていたが、最後まで手を抜かずにやった。
同級生に投げられたり、寝技で負けても
「これで1つ強くなった」
と前向きに考え、練習を続けた。
高野山真言宗の教えをベースに仏教の教えも学校教育に取り入れる清風中学では、般若心経を唱えたり写経を行い、食事のときは
「水一滴にも天地の恵がこもっております。
米1粒にも万人の力が加わっております。
ありがたくいただきます」
と挨拶する。
いいと思ったことは必ず実行する石井慧は、家でも
「米1粒も残してはいけない」
と思うあまり、食べ過ぎて吐いた。
学校で
「電車の中ではお年寄りに席を譲りなさい」
といわれると早速、実行。
しかし譲ったのは、それほど高齢ではない女性で、少し心外な表情。
体育の授業が終わった後、教室に戻ると学生ズボンがない。
探したがみつからず、石井慧は半パン姿で阪急電車に乗って帰宅。
祖母、淑子が
「どうなっとるんや」
とクレームを入れると、教師は学校中を探し、体育館の倉庫のマットの間に隠されてあったズボンを発見。
おそらくデブで弱い石井慧に対する陰湿な行為だったが、その後、精神的にも肉体的にもたくましくなっていき、誰もそんなマネはしなくなった。
そしてそれに伴い勉強の成績は低下。
母、美智子は担任に
「受験の貯金が切れてきましたね」
といわれた。
父、義彦は、高校の勤務が終わると清風中学にいって練習が終わった石井慧を連れて、実業団や大阪拘置所、修道館などで稽古。
そして史上最強の柔道家といわれる木村政彦の言葉、
「3倍努力」
やゴッドハンドといわれた空手家、大山倍達の言葉
「技は力の中にあり」
を自分が思いついたように教え、たとえ相手が自分より小さくても、釣り手を上から持つことを禁止し、基本通り、相手の鎖骨の辺りを握り、
「下から下から」
と下からいく柔道を指導。
ある日、修道館で練習していた石井慧は、柔道を始めたばかりの大人に乱取りを申し込まれ、ほぼ素人の相手を投げることができず、思わず、
「チッ」
と舌打ち。
すると父、義彦が
「お前なにやっとるんじゃ!」
と激怒。
「お前はあの人の半分も生きていない。
そんな人からお願いされて、一生懸命練習をやっておられるのに・・・」
石井慧は泣きながらその人に謝りにいった。
清風中学時代、石井慧は1年365日、1日も練習を休まなかった。
休んでいないことが自信となった。
年末年始は東京の国士舘高校や奈良の天理高校にいって出稽古を行った。
出稽古で気をつけていたのは
「1番強い人とやる」
ということ。
乱取りが始まったらすぐに1番強い人に向かってダッシュ。
前にいって
「お願いします」
と頭を下げた。
もし断られたり、その人とできなければ次に強い人へ。
とにかく強い人、上の人とやるようにした。
その結果、中学3年生のときに団体で全国優勝、個人戦でも3位となった。
2002年、石井慧は清風高校へ進学。
清風高校柔道部にはOBである秋山成勲が練習に来ることがあった。
秋山成勲は、大阪府大阪市生野区生まれの在日韓国人4世。
3歳より柔道を始め、清風高校から近畿大学へ。
大学卒業後、韓国の市役所に勤務しながらオリンピック出場を目指したが、キョポ(自国外に住む同胞)への激しい差別を経験し、日本に戻って日本国籍を取得。
平成管財へ入社し、81kg級でオリンピック出場を目指していた。
(翌2003年に全日本体重別優勝、世界選手権で5位。
しかし2004年、全日本体重別準決勝で敗退してオリンピック代表を逃した後、総合格闘家へ転向)
石井慧は秋山成勲との乱取りで過呼吸になったが、
「過呼吸で死んだヤツはおらん」
といわれ続行。
「秋山先輩には技を教えていただいたことはないのですが、柔道に対する気持ち、心構えなどを教わりました。
とにかくどんな練習でも全力を注げ。
10本練習するとしたら10本全部できるようなペース配分ではなく、4本でバテてもいいから1本に100%の力を出せと」
高校1年生の夏、石井慧は競争が激しい大阪の予選を勝ち抜き、インターハイに出場。
清風高校柔道部は強かったが、石井慧ほどマニアックに練習する人間はおらず、道場で自分より強い人間がいなくなった石井慧は、
「強くなれない」
「人生がダメになる」
と焦った。
周囲には中高一貫の清風を出てから強い大学へいけばという意見もあったが、石井慧は
「今いかないと意味がない」
とすぐに強い相手がいる環境を求めた。
父、義彦が転校先を探すと国士舘高校でスポーツ推薦で入学した生徒が退学し、欠員が出たことがわかった。
2003年1月1日、石井慧は国士舘高校へ転校。
初めて大阪の実家を離れ、東京都世田谷区にある国士舘高校の寮に引っ越し。
自分の部屋に小さな神棚を設置し、清風中学時代、大きな試合に勝ったときにもらった曼荼羅と校長室に飾ってあった仏像を飾った。
しかし
「神様を頼ってはいけない。
敬わないと意味がない」
といい、周りに理由を聞かれると
「敬うというのは神様をご供養するという気持ち。
お疲れ様という気持ち」
と説明した。
国士舘高校柔道部には強い先輩がいた上、ロサンゼルスとソウルオリンピックの金メダリスト、斉藤仁が指導する国士舘大学で練習する機会も多かった。
国士舘高校柔道部の練習は、基本的に6時から朝練と16~20時までの夜練。
石井慧は、国士舘高校の授業では寝て、夕方前にスイッチON。
誰よりも早く道場にいき、すさまじい気迫で練習し、指導者の話に熱心に耳を傾けた。
20時頃、練習が終わると寮に戻って食事をし、21時以降は外出禁止となるが、石井慧は
「21時から練習させてください」
と直訴。
国士舘高校柔道部監督、岩淵公一が
「休まなくては強くなれない。
食って寝て体ができるんだ」
といって休むように指示すると
「はい。
わかりました」
と返事しながら、次にコーチのところにいき
「21時から練習させてください」
こうして21時から道場横のトレーニングルームで行うウエイトトレーニングも日課となり。
「下半身を鍛える」
といって23時や24時にグラウンドを走ることもあった。
そして朝は5時に起きてランニングしてから、6時から朝練に参加。
授業で体を休ませ、道場には誰よりも早くいき、20時に全体練習が終わった後、21時から深夜までウエイトトレーニング。
こうして平日は誰よりも早く、誰よりも遅くまで練習し、日曜日は必ず休んだ。
「国士舘高校は、そのとき事実上高校で1番強い学校だったので、練習に行ったときは周りに有名な選手がいることが凄いと思いました。
そこで練習するのが本当に楽しくて、柔道に夢中になっていました」
という石井慧だが、その引き換えに転校後1年間は試合に出ることができなかった。
(親の転勤など例外はあるが、転校から1年間は公式戦に出場停止。
理由は、学業優先。
勉強よりスポーツを優先することを善しとしないというのが表向きの理由だが、実際は強豪校による引き抜き対策といわれている)
試合に出られないことで精神的に不安定になり、頻繁に実家に電話。
ツラそうなそうな息子に母、美智子親が、
「帰っておいで」
というと
「そんなんできるわけないやろ」
と怒った。
あるとき国士舘高校の先輩、棚橋正典が、泣きながら携帯電話で親と話す石井慧を目撃。
奇妙だったのはもう片方の手にも携帯が握られ、2台の携帯を持って話していたこと。
後で
「なんで2台持っていたの」
と聞くと、
「1台は電話しながら投げるためです」
すぐにモノに当たってしまう石井慧は20台くらいの携帯を破壊してしまい、父、義彦、義彦に
「携帯に罪はないやろ」
と諭された。
癒しを求める石井慧は、
「犬を飼いたい」
とミニチュアダックスフンドを購入。
マラソン選手のアベベ選手から
「べべちゃん」
と名づけ、ペット禁止の寮で飼い始めたが、すぐにバレて、大阪の実家にドナドナされた。
試合前、レギュラー選手はコンディショニングのため練習を流して行ったり、乱取りの相手はわざと投げられたりすることもあり、指導者もそれを黙認していた。
しかし石井慧はまったく手を抜かず、ケンカ腰で乱取り。
場外に出て壁にぶつかってもやめようとしなかった。
国士館大学に出稽古にいけば鈴木桂治に向かってダッシュ。
講道館の強化合宿にいけばキョロキョロ見回して、井上康生を見つけた途端にダッシュ。
そして目の前で
「お願いします」
と頭を下げた。
それは相手が試合前でもおかまいなしだったので
「ケガさせたらどうするんだ」
と周囲に止められることもあった。
国士舘高校の試合は、観覧席で制服を着て応援。
全国大会で優勝する部員もいて、不安で不安で仕方なく、かつそういった強い同級生や先輩に勝ちたくて仕方なかった。
「試合に出れず、置いてけぼりになったような気持ちになってチワワのようにビビッていました。
表向きは土佐犬のようにしてましたけど・・・」
高校2年生の1月、公式試合出場停止処分が解けた石井慧は全国高校柔道選手権に出場。
試合10日前、ハムストリングスの靭帯が切れかかっていることが判明したが、
「ケガは病気じゃない」
と練習を継続。
それは
「病気のまま練習を続けると弱くなるがケガはそうではない」
という意味だったが、試合当日、個人戦を寝技を多用しながら勝ち進むも、世田谷学園高校の選手に負け、
「もうダメです。
自分はダメだ」
といって大泣き。
試合後、寮に帰っても泣き続けた。
翌日、団体戦の決勝戦で世田谷学園高校と対戦。
国士舘は先方から中堅まで抜かれたが、副将の石井慧は、4人を抜いて、大将戦を引き分け。
代表戦となって、国士舘は石井慧が出て優勢勝ちし、優勝。
春の選手権では、鬼気迫るような練習とトレーニングを繰り返し、試合3日前、
「俺は世界で1番強い」
といってはばからなかったが、2日前になると
「アカン、俺、負ける」
と弱気になり、試合前日、棚橋正典に
「先輩、寂しい。
一緒に寝て。
この部屋にいて励ましてください」
と頼んだ。
試合出場停止中は情緒不安定で、たとえ夜中であろうと頻繁に実家に電話をかけていた石井慧。
電話がない日、両親は
「よかった」
と胸をなでおろしていたが、試合に出られるようになった途端、なしのつぶてとなり、逆に心配になってきた。
たまにしか行けない東京で母、美智子は、寮の部屋を掃除しようとしたが、きれい好きの石井慧によって整理整頓されていてあまりやることがない。
冷蔵庫に食べ物を入れていると、冷凍庫で自分が送った手紙の束を発見。
「なんでこんなとこ入れてるの?」
と聞くと
「大事なモンは冷凍庫やろ」
といわれた。
また母、美智子はベッドの下からノートを発見。
表紙に「苦しいとき」と書いてあり、中には
「試合に出れない悔しさを思い出せ」
など悔しかった出来事、格言、思ったなどがズラズラ書かれてあった。
石井慧のノートへの書き込みはずっと続き、まだ強化選手になれず自費で全日本の合宿に参加したとき、選ばれた選手しか飲み物が配られなかったときは、
「ポカリスエットをもらえなかった悔しさを忘れるな」
そんなセコい恨みツラみと共に、後に「石井節」といわれる自由奔放な発言も書かれてあり、石井慧にとって初心を忘れず、自分を奮起させる原動力になる大事なネタ帳だった。
また父、義彦は、
「お父、義彦さん、やろう」
と高校2年生の息子にいわれ、久しぶりの乱取りをして投げられまくった。
初めて負けて、
「昨日ビール飲み過ぎた」
といったが、これが最後の乱取りとなった。
高校3年生になった石井慧は、インターハイ優勝、アジアジュニアと世界ジュニア選手権をオール1本勝ちで優勝。
そして講道館杯で前年チャンピオン、2歳上、天理大学の穴井降将と対戦した。
穴井降将は、天理高校1年生から団体戦のレギュラーとして活躍し、2年生時にインターハイ個人戦100kg級で優勝と成績で石井慧を上回っていた。
試合開始から181㎝の石井慧は自分の柔道をさせてもらえず、187cmの穴井降将に反則や技によってポイントを奪われた。
しかし終盤、豪快な大外刈りが炸裂させて逆転勝利。
同大会3人目の高校生チャンピオンとなった。
(翌年も連覇)
その後、全柔連の強化選手に選ばれた石井慧は、穴井降将と再会。
「こんにちは。
調子どうですか?」
と話しかけ
「お前に負けてから調子悪いわ」
といわれた。
以後、穴井降将は、空気を読まないが憎めない石井慧を食事に連れていったり、いろいろなアドバイスするなど面倒をみた。
この後、石井慧は、国士舘大学に進学するのだが、そこには柔道の鬼、斉藤仁がいた。
ここで少し時を遡り、当時の状況を確認すると、斉藤仁は1984年のロスオリンピックを無敵の強さで優勝するも、そこから4年間、相手の反則技で肘を、練習で膝を大ケガするなど地獄を経験。
豪快さはなくなったが、相手をよく観察し、寝技に持ち込むなどして1988年のソウルオリンピックで金メダルを獲得し、2連覇。
柔道家として幅を広げた斉藤仁は、現役引退後、母、美智子校の国士舘大学で指導者となった。
体育学部の授業では
「筋肉は使わないと弱くなりますが、使いすぎるても弱くなります」
と合理的、科学的な体育を優しく教えるが、柔道部では一切の妥協を許さない稽古を実践。
あまりの怖さと厳しさに音を上げる柔道部員も多かった。
1992年、全日本代表の重量級コーチに就任。
国際大会で豪快な投げで1本勝ちした後、喜びのあまり、寝転んだままなかなか起き上がらない日本人選手に
「何やってるんだ」
と激怒。
『見事な1本勝ちなのに、なぜ怒るの?』
と理解できない外国人に対して
「寝転んでいたら相手に失礼です」
と説明。
1999年、斉藤仁が監督になって10年後、国士舘大学が初めて日本一に。
このとき鈴木桂治は1年生。
国士舘高校時代、斉藤仁をみて
「なんというか、次元の違う怖さなんです」
(鈴木桂治)
行きたくないと思っていた国士舘大学に進み、実際に斎藤仁の指導を受けるようになると、その柔道のレベルの高さに驚く。
斉藤仁は「もっと走れ」とか「もっとウエイトトレーニングをしろ」など、トレーニングに関しては、あまりうるさくないが、柔道、特に技術について厳しく、それは決してかんたんに覚えられるようなものではなかったが、とにかく1つのことができるまでトコトン反復させられた。
例えば、背負い投げでも1つの投げ方だけでなく、少し変化させた多くの種類があり、1つできれば
「じゃあ、次はこれやってみろ」
とドンドン課題が与えられるが、途中で間違えると
「そんなんじゃねえ!」
と怒鳴られる。
「あと、膝をこれだけ曲げてみて」
といわれても、道着の中の脚が太すぎて、これだけがどれだけかわからない。
仕方なく感覚的に曲げるが1回でドンピシャになることは少なく、何回も曲げて、ようやく
「おお、そこ」
となる。
そして指示通りに身体を使うと投げやすくなったり、相手が軽く感じられた。
身体の動きを覚えるために同じことをひたすらやらされ、それは「何回やればOK」「ここまでやればOK」ではなく、斉藤仁がOKというまでやり続けなければならない。
16時に練習が始まり、練習が終わる21時まで延々、同じことをやらされることもあった。
そして
「続きはまた明日」
といわれて寮に戻るのだが、たまに22時の点呼のときに
「柔道着を持って来て」
とマネージャーから呼び出しがかかり、道場にいくと斉藤仁がいて、27時近くまで練習することもあった。
27時近くまでというのは「27時を過ぎると朝練はナシ」というルールがあったため、斉藤仁は26時55分になると
「よしっ、今日はここまで。
続きはまた明日」
部員はフラフラになって寮に戻り、授業で寝た。
自称「段取りくん」、
「指導者は細かくなくてはダメ」
という斎藤仁は、選手のためにどういう環境をつくればいいのか真剣に考え、準備など細部まで気を配った。
しかしフレンドリーなコミュニケーションなどなく、部員は
「はい」
という返事、そして実行あるのみ。
「斉藤先生に会った人は、よく優しいですねといいますけど、そんな先生をみたことがない。
柔道部員がみていたのは、私たちは「歌舞いている」といっていたのですが、怒りのあまり歌舞伎の隈取ろをしたような顔になった斉藤先生ばかりだったのです。
本当に鬼以外のなにものでもない」
(鈴木桂治)
2000年、斉藤仁は全日本代表監督に就任。
「日本代表という集団は柔道家のトップ中のトップ。
練習は誰よりも量をこなし誰よりも質を求めなくてはいけない」
といい全日本の合宿は、
・早朝トレーニング
・午前
・午後
・夜
の4部制となり、量も内容もハードになった。
その妥協を許さない厳しい稽古のやり方に、篠原信一は
「理不尽、イソジン、斉藤ジン」
井上康生は
「いい意味で異常」
と悪口。
斎藤仁は、それを知ると嬉しそうに怒った。
2003年春、全日本体重別選手権100kg級の決勝で、鈴木桂治が3歳上の井上康生を決勝で破って優勝。
(2連覇)
直後、全日本選手権(無差別)の決勝で、井上康生は鈴木桂治に内股で豪快に1本勝ち。
(3連覇)
秋の世界選手権の100kg級の代表に井上康生が選ばれると、納得できない鈴木桂治はメディアの取材に不満を漏らした。
すると斉藤仁から電話がかかってきて
「文句があるなら来年の全日本で勝て!」
その後、世界選手権で、井上康生が100kgで、棟田康幸が100kg超級で、鈴木桂治が無差別級で優勝。
石井慧にとって清風高校の先輩である秋山成勲が銀色、矢嵜雄大が赤色に髪を染めて出場し、話題となった。
2004年4月4日、全日本体重別選手権100kg級で鈴木桂治は準決勝で敗退。
優勝は井上康生。
2004年4月29日、 全日本選手権(無差別)では、鈴木桂治が井上康生に勝って優勝。
3位は棟田康幸。
2004年8月、アテネオリンピック100kg超級で鈴木桂治が金メダルを獲得
100kg級の井上康生は、準々決勝で背負い投げで1本負け。
敗者復活戦も3回戦で大内刈りを返され1本負け。
オリンピック2連覇の夢は叶わなかった。
2005年、日本柔道の重量級戦線がこういった状況の中、石井慧が国士舘大学に進学した。
練習マニアの石井慧も斉藤仁の指導は
「本当にキツい」
と恐れた。
しかし道場で
「負けると思ったら負ける。
ダメだと思ったらダメになる。
勝てると思っている中に無理かもしれないという気持ちがあれば、絶対に無理になる。
すばしっこくて強い者だけが勝つのではない。
自分はできると信念を持っている人が勝つ。
世の中をみろ」
というナポレオン・ヒル(アメリカの作家、成功哲学の第1人者)の格言を発見すると
「これは自分の言葉にするしかない」
と自分の部屋に持って帰り、その後、道場で騒ぎが起こすなど悪意のない傍若無人ブリを発揮した。
国士舘大学柔道部は103名。
朝練2時間、16~19時までの午後練がノルマ。
午後練習は、練習前のウォーミングアップはアップテンポな音楽が流れ、部員達はそれに合わせてモチベーションを上げ、そこから3時間以上、練習。
石井慧は、その後、夜の2時間のウエイトトレーニングも日課とし、ときに警視庁や他大学、片道2時間ほどかかる小川直也(バルセロナオリンピック95kg超級銀メダリスト)の小川道場へ出稽古。
「小川選手とは明治大学の出稽古で一緒に練習したときに『自分の柔道と似ている』と声をかけてもらったことがあって。
柔道現役時代の小川選手のビデオをみていると確かにそうだと思いました。
自分には瞬発力はないけれども、スタミナのある小川選手のような柔道を目指そうと思いました」
そして日曜日は必ず休み、読書やゲーム、買い物や寺社めぐりを行った。
国士舘大学の義方寮で石井慧の部屋は二間あり、1つは生活空間、1つは儀式の部屋となった。
儀式の部屋は、高校時代、1つだった神棚が2つにグレードアップし、像、絵、書などさまざまなものを
「神様同士がケンカをしないように」
配列。
自分はもちろん、両親、先輩、後輩にも
「入るときと出るときに失礼しますといってもらっていいですか」
と礼を求め、先輩がなにかの拍子で榊(サカキ)を押してしまったとき
「何してんの」
と声を荒げ
「どう?
曲がってない?
もっと右?」
とミリ単位で修正し、先輩がクシャミをすると神様にツバがかからなかったか心配。
儀式の部屋の壁にナポレオン・ヒルの言葉と共に貼られた仏画は、清風学園時代に柔道部の部室に張られてあったもので作者は柔道部OB。
毘沙門天の石像は、八王子の宝生寺でもらったもの。
石井慧は、清風時代の仏教教育の影響か、戦国武将の上杉謙信を崇拝。
柔道着には、「刀八毘沙門天王」の刺繍を縫いこんだ。
刀八毘沙門天王は、戦国武将の上杉謙信が、自身がその生まれ変わりと信じた神様の名前。
三面十臂像、四面十二臂像など様々あるが、刀を8本持って獅子に乗り、頭上に如来を頂く像が多い。
「謙信はあの時代、周囲の武将が血気盛んに天下取りを目指していた中、世の平静のことも考えた。
その余裕がすごい」
寮で「戦国無双」というアクションゲームをやるときは、必ず上杉謙信を選択。
「武将たちには今にないカッコよさがあります」
と一見古風な日本男児だが聴く音楽はレゲエ。
「特にKEN-U(東京を中心に全国で活躍する日本人シンガー)が好きです。
ウォーミングアップのときに聴くと燃えてきます」
読書もし、歴史小説からアスリートが書いたエッセイまで幅広く読み、中でも他競技のアスリートが書いた本には参考になるという。
「イチロー選手の「夢をつかむイチローの262のメッセージ」を読んでいてハッとさせられることがありました。
普段うまくいっている人が急にうまくいかなくなったら人は精神的にアカンかったのか、疲れがたまっているからだと思いがちです。
でもイチロー選手は技術がダメだったからだと書いていたんです。
これはシビアに響きました」
お菓子やジャンクフードはまったく口にせず、プロテインをはじめとするサプリメント、卵の白身や納豆にハマるなど強くなるため、勝つための食事の研究と実践に余念がなかった。
例えばミキサーに
・生卵4個
・ハチミツ
・レモン果汁
・豆乳
・ピーナツバター
・牛乳
・バナナ1本
・オリーブオイル
・プロテイン
を入れた特製プロテインは
「オリーブオイルは良質なリンパ液を増やすので、ちょっとたらすだけで全然、違うんです」
という。
健康意識も高く、あるとき父、義彦が電話が出ると、石井慧は困った様子で
「お父、義彦さん、今、人が吐いたタバコの煙吸ってしまった。
背が止まってしまう」
といった。
儀式の部屋の部屋でプロテインの粉をこぼしてしまったときは水で濡らしたティッシュで丁寧にふき取ったが、先輩の部屋でこぼすと水をかけて指で踏んで消そうとし、
「お前、そのプロテインはどこにいくねん」
と怒られた。
月8万円を仕送りを受け、
「貯金が趣味」
という石井慧はマメに貯金通帳の残高をチェックし、ハム&ご飯など低予算で効率良く栄養を摂取。
一方、後輩と行きつけのトンカツ屋にいくと巨大エビフライ2本、大盛りしょうが焼き、そしてビールをグビグビと飲み、豪快にオゴった。
当初、アルコールは
「酒はポイズン」
といってまったく飲まなかったが、やがてONとOFFを切り替えたり、気分転換するための重要アイテムとなり、酒や肴について描かれる漫画「酒のほそ道」にもハマり、そこで学んだウンチクを語りながらガバガバ飲んだ。
そしてお金がなくなると実家に
「なんか忘れてへんかな?」
「そろそろかな、生活費」
などと催促メール。
1度に渡すとすぐに使ってしまうことに気づいた母、美智子、美智子は、4万円を2回に分けて送金。
すると石井慧は
「母、美智子上、慧はつらく大変な思いをしております」
などと
「父、義彦上」
「母、美智子上」
「パパ」
「ママ」
と呼称を巧みにコントロール。
祖母、淑子には
「伏見警察のものですが・・・」
とオレオレ詐欺風に電話。
「慧やろ。
どうしたん?」
と見破られると
「おばあちゃんも大変やろうけど、イマドキの大学生に5000円はないわ」
と開き直り、母方の祖母が亡くなったときは
「おばあちゃん、僕には世界でおばあちゃんがたった1人になってしもうた。
だからお小遣いください」
ととおねだり。
2006年4月、全日本選手権の準決勝で大学2年生の石井慧は、時間稼ぎをするような勝ち方をしてしまい、斉藤仁に
「あんなのはお前の柔道じゃあないだろう」
と渇を入れられ、
「殺されるかと思った。
出来ればやり直したい」
と気持ちを入れ替え、決勝戦では、国士舘大学の先輩であり、アテネオリンピック100kg超級金メダリストの鈴木桂治と対戦。
両者ポイントが奪えないまま時間が過ぎていき、旗判定では鈴木桂治有利かと思われた残り6秒、石井慧が大内刈りで有効をとり、勝利。
山下泰裕が持っていた全日本選手権最年少優勝記録、19歳10ヵ月を19歳4カ月に更新した。
山下泰裕は公式戦559戦528勝16敗15分。
その勝率は、9割7分2厘。
203連勝、外国人無敗という記録も持つ上、非常に1本勝ちが多い柔道家だった。
180cm、128kgのナチュラルな体型で、キャラは真面目。
石井慧は、アスリート的な肉体を持ち、1本勝ちが少なく、笑いをとるためなら嘘もいとわない極度のお調子者。
しかし山下泰裕も
「柔道はルールあるケンカ」
といっており、ハードな闘争心の持っている点では完全に一致していた。
「山下さんが生きているうちに(連勝)記録を抜きたい」
(石井慧)
石井慧の妹、愛は、東京女子体育大学に進学。
石井慧は同じ東京にいる妹に
「困ったことがあったらお兄ちゃんにいいや」
と電話。
妹、愛は、仕送りを大事にしながら、つつましく生活を送ったが、あるとき
「お兄ちゃん、ピンチ。
ご飯食べさせて」
と電話。
すると
「アカン、明日からヨーロッパ遠征や。
(ガチャンッ!ツーツーツー・・・)」
あるとき海外旅行のいくことになった妹、愛は、お小遣いもらうために兄のところへ。
「ミナミの帝王」の竹内力が好きな石井慧は、
「トイチ(10日で1割の金利)やぞ。
取立ては厳しいおまっせ」
といいながら10万円を渡し、トイチの意味がわからない妹は、
「エッ、くれんの」
といってもらった。
そして妹は大学在学中、水球のゴールキーパーとして日本一になった。
2007年4月29日、嘉納杯があり、全国10地区の代表と前年優勝の石井慧、準優勝の鈴木桂治、そして推薦2名を加えた37名が出場。
前年、史上最年少優勝を果たした石井慧の2連覇か?
鈴木桂治が王座奪回か?
大胸筋腱断裂という大ケガを負って、同大会3年ぶりの出場となる井上康生の復活か?
棟田康幸 の初優勝か?
役者と話題は揃い、日本武道館は3階席まで埋まった。
大学3年生の石井慧は、1~3回戦まで技でポイントが奪えず、苦戦しながら準決勝に進出。
相手は、初対戦となる井上康生だった。
石井慧は左組、井上康生は右組のため、互いに釣手は取れるが、引き手 が取れない。
石井慧は、下から握った釣手のみで体落を連発し、数度、井上康生を腹這いにさせた。
一方、井上康生は、内股を狙い続け、そのスピードと破壊力に、石井慧は、両手を放して反撃を放棄しながらなんとかしのいだ。
そして井上康生の攻撃の機会を与えないように必死に攻め、旗判定で勝利。
しかし勝つために相手と極力組まない姿勢や片手での体落は「かけ逃げ」と批判された。
決勝戦の相手は、鈴木桂治。
初戦、大藤尚哉に小内刈から小外刈の連続技で1本勝ち。
続く穴井隆将は判定勝ち。
準々決勝の高井洋平は、小外刈,小内刈で有効2つをとって勝利。
準決勝の相手は、棟田康幸に勝った125kgの片渕慎弥だったが、開始28秒、小内刈りで1本勝ち。
キレのある足技で5年連続となる決勝進出を果たした鈴木桂治-は、2連覇を狙う後輩、石井慧に対し、小外刈などの足技に加え、大外刈、内股と浅いながらも技をしかけ た。
石井慧は、終始、腰を引いた姿勢になり、組際に双手刈や朽木倒などを試みた。
残り1分、石井慧は片腕で背負投げ。
鈴木桂治-は、それを上から潰して寝技で入り、そのまま試合終了。
判定で鈴木桂治が勝利し、2年ぶり3回目の優勝を果たし、石井慧は2位。
この大会は5ヵ月後に行われるブラジル世界選手権の代表選考会も兼ねていたが、石井慧は選ばれなかった。
2007年9月、ブラジル、リオデジャネイロで世界選手権が行われ、男子は73kg以下級の 金丸雄介の銅、無差別級の 棟田康幸の金とメダルは2つのみに終わった。
2007年12月9日、北京オリンピック代表選考会の1つ、嘉納杯の100Kg超級決勝で石井慧は、ブラジル世界選手権5位の井上康生に優勢勝ちし、初優勝。
3日後の12日、国際合宿が都内で行われ、石井慧は井上康生らと共に参加。
翌年2月のオーストラリア国際、3月のカザフスタン国際への出場が決まっている石井慧は、午前、午後の2部練習で汗を流し、世界王者のテディ・リネールとも激しい乱取りを行った。
2008年1月、井上康生が東原亜希と結婚。
石井慧は、
「井上先輩はきれいな奥さんにおいしいご飯をつくってもらってますけど、僕は学食。
ハングリーさで負けません」
とコメント。
2月、オーストリア国際100kg超級に出場。
1回戦、高校3年生時に隅返で負け、前年の世界選手権無差別級、銀メダルのユーリ・ルイバク(ベラルーシ)ルイバクに大内刈りで1本勝ち。
2回戦から準決勝までオール1本勝ち。
決勝で世界選手権、銅メダルのピエール・ロバン(フランス)に優勢勝ちし、優勝。
3月、カザフスタン国際100kg超級で石井慧は、3試合オール1本勝ちで優勝。
嘉納杯、オーストラリア、カザフスタンと3大会連続優勝という強烈なインパクトを与えた石井慧は、
「自分の可能性に対する自信しかない」
井上康生、棟田康幸ら同階級のライバルに対し、北京オリンピック代表争いに名乗りを上げた。
カザフスタン国際の後、1週間にわたって行われた韓国合宿は
「速い組み手」
をテーマに2003年の90kg級世界王者、黄禧太(ファン・ヒテ)の指導を受けた。
黄禧太は、強引でアグレッシブな柔道を行い、立ち姿勢から倒れ込みながらのわき固め、相手の脚を掴んでの小内巻込などギリギリの技も使うため、反則負けが多い柔道家だが、石井慧は好きで、よく試合の映像をみていた。
しかし2008年3月25日、石井慧は練習中に左大殿筋を断裂。
北京オリンピック代表選考会でもある全日本選抜柔道体重別選手権大会は欠場となり、オリンピック出場に赤信号。
4月5日、その全日本体重別では、
60kg級 平岡拓晃
66kg級 内柴正人
73kg級 金丸雄介
81kg級 小野卓志
90kg級 泉浩
100kg級 鈴木桂治
100kg超級 井上康生
が優勝。
石井慧は、
「気づいたら屋上の上に立っていて死のうと思っていた」
という。
しかしこの後、
「対戦したことがない。
代表合宿でも乱取りをしてくれない」
という棟田康幸や、
「五輪世界全日本と3冠を達成したスターで尊敬してやまない先輩。
初めてみたときからどうしたらあんなにみんなに好かれるのだろう、どうしたらあんなに八方美人になれるのだろうと自問自答をくりかえしてました」
という井上康生に対し、異例のアポなし出稽古を慣行。
そして断られ、
「自信を取り戻した」
という。
4月29日、全日本選手権で大学4年生の石井慧は、準決勝で北京オリンピック代表争いで一歩リードされている世界選手権金メダリスト、棟田康幸と対戦。
自分より体重は重いが背は低い棟田康幸に対し、
「間合いを取り、懐にもぐり込ませず、焦りを誘う」
「組み手で負けないように、攻め手で負けないように、先、先に動く」
という作戦を立てて実行。
攻められない棟田康幸は「注意」をもらい(有効を奪われ)判定負け。
全日本柔道連盟強化委員長、吉村和郎は、
「自分で状況を判断して組み手を変えないと。
相手に合わせてしまった。
勝負への執念で甘さがあった」
とい棟田康幸の戦い方に柔軟性を欠いていたことを指摘した。
決勝戦は、3年連続で、石井慧 vs 鈴木桂治。
国士館大学ではメンタルトレーニングの一環で、試合前にプリントが配られ、様々な設問に答えて提出。
その中には
「1回戦はどうするか?」
などという設問もあり、心構えや作戦を記入しなければならない。
決勝の欄に、鈴木桂治と当たると予想していた石井慧は、
「監督が(鈴木桂治)にしゃべるかもしれないので書きません」
と記入。
後で山内直人監督に呼ばれ、
「お前、なんだ。
俺が鈴木にいうとでも思っているのか」
と怒られた。
しかし決勝の畳に向かうと山内直人監督が鈴木桂治の背中を叩いているのを目撃し、
(やっぱり書かなくてよかった)
試合開始後、石井慧は一気に前に出て気迫をみせ、体格で優る鈴木桂治は後退し、防戦に回った。
30秒、
「闘争心が足りなかった」
という鈴木桂治が足技を飛ばしたとき、
「1発飛び込んで攻めようと思っていた」
という石井慧は、懐に飛び込み、大外刈りと見せかけてからの大内刈りで「有効」を奪う。
すかさず寝技に入り、粘る鈴木桂治を上四方固めで抑え込み、28秒で逃げられたものの、さらに「技あり」を奪った。
鼻血を出した鈴木桂治の処置で少し中断した後、試合再開。
残り時間は4分23秒。
両鼻にティッシュを詰めた鈴木桂治が前に出てくると、石井慧は完全に守りに入る。
残り1分25秒、あまりの守勢に主審が副審を呼んで協議を行い、石井慧は「注意」をもらい(有効を奪われ)、ポイント差は技あり1つ。
残り18秒、「待て」がかかって、再び主審が副審を呼んで協議し、石井慧に「警告」を与え、ポイント差は有効1つ。
テレビ解説をしていた篠原信一は、
「逃げまくってます」
と全日本選手権の決勝で前代未聞の逃走劇を批判。
石井慧が飛びかかってくる鈴木桂治の攻撃をしのぎ、かけ逃げっぽい体落としを放って寝ころび、「待て」がかかったのは、残り2秒。
立ち上がった後、反則が来るが注目されたが来ず、終了のブザーが鳴ると、石井慧は顔をクシャクシャにして涙を流し、同大会2年ぶり2度目の優勝。
「ホッとした気持ちと悔しい気持ちと2つある。
握力も続かないし、足が動かなかった。
練習が足らなかった」
石井慧に勝ちに徹する戦いぶりに批判の声も上がったが、なりふりはかまっていられなかった。
勝利への執念でライバルを上回った石井慧は、選考委員会にも認められ、大逆転でオリンピック出場を決めた。
ちなみに井上康生は、準々決勝で高井洋平に敗れ、これが最後の試合となった。
残り10秒で放った内股を透かされて押さえこまれ1本負け。
「自分自身の力を出し切った。
悔いはない」
「最後まで1本を取る柔道がやりたかったので、最後まで攻撃できてよかった」
と話す井上康生の清々しさは、石井慧と好対照だった。
石井慧は、オリンピックまでは木村政彦の「3倍努力」を超える「5倍努力」を目指した。
5時半から自主練。
6時、大学の朝練とウエイトトレーニング。
10時から警視庁で6分×10本。
大学で戻って食事をして昼寝
16~20時から国士館大学で練習。
そのまま明治大学の夜間練習へ。
23時に練習が終わり、立ち食いそば・うどんチェーン店「富士そば」で食事をして終電で帰宅。
電車で移動中にはイメージトレーニング。
試合のイメージは
「外国の選手をボコボコに投げ、圧倒的に勝つ」
しか行わないが、試合後のイメージは斉藤仁に「褒められるバージョン」と「怒られるバージョン」の2種類があった。
寮に戻るのは深夜。
1日の締めは柔道着の洗濯で、どんなに遅くなっても自分で洗う。
「道着の洗濯は自分でします。
地べたに置かないし、きれいにたたみます。
きれいな道着で練習しないと身につかないと思うので」
石井慧にとって柔道はスポーツではなく、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの戦いだった。
小学校時代に切れた白帯は、日付を書いて保管し、高校時代から使っている黒帯は
「これが切れたら自分も死ぬ」
という守り神的存在だった。
そして寝るのは2時を過ぎた。
「練習だけじゃなく、寝るのも食べるのも練習。
みんなが酒を飲んだり遊んでいるときに体を気遣うのも練習です。
みんなが夜遊んでいるとき低反発の布団と枕で寝て冷房も強烈にせずに寝る。
それだけで練習なんです。
24時間練習していると。
父、義彦親は『18度以上は冷房やない』といっていましたが、それも我慢してました」
2008年6月、オリンピックまで2ヵ月の段階で石井慧は右足親指を脱臼。
極度の不安に見舞われ、抗ウツ剤を服用。
関東一円の毘沙門天を巡り、上杉謙信を祀った山形県の上杉神社にも足を運び、クスリだけでなく神まで頼れるものにはすべてすがった。
柔道着を入れたスポーツバッグには数十個のお守りがぶら下がっていたが、このバッグもヒグマのごとき執念で手に入れたもの。
あるとき寮で先輩、棚橋正典が持っていたノースフェイスのバッグに一目ぼれ。
「先輩、それください」
と頼んだが断られ、以後、1年間、ことあるごとにくれくれとねだり続け、。あまりのしつこさに棚橋正典は
「大切な人からのプレゼントだからあげられない」
と説明。
しかし石井慧は
「じゃあ(バッグをくれた)そいつと僕、どっちが大事なんですか?」
棚橋正典が
「じゃあ、新しいの買ってやるよ」
というと
「えっ!
じゃあ、これの赤色をお願いします」
と顔をクシャクシャにして喜んだ。
高校時代、1年間試合に出られずメンタルを病んでいたとき、寮で犬を飼おうとしてバレ、犬が大阪の実家へドナドナされるという苦い思い出がある石井慧は、鳴くことがなく、しかも縁起がよい亀を飼おうとペットショップへ。
そこで白い蛇を発見し、即決。
「権現さん」
と名づけて部屋で飼い、守護神と崇め
「おはようございます」
と挨拶。
部屋に入ってくる他人にも挨拶することを求めた。
権現さんは北京へも同行した。
この後、ケガを不安視するマスコミに対して、石井慧は
「ウツでも金!」
とコメント。
多くの悩める人を勇気づける名言となり、地元、大阪の茨城市で行われた後援会主催の激励会でも
「どうも。
今や飛ぶ鳥を落とす勢いの石井です」
と挨拶した。
2008年7月、母、美智子が学校の授業でバレーボールをしていて生徒と接触し、右大腿骨を骨折。
石井慧は、ニヤニヤしながら見舞いにいき、
「ほんま時間がないねん」
といってすぐに帰った。
8月8日、北京オリンピック開幕。
8月11日、バトミントン女子ダブルス準決勝で日本代表が中国に勝った後、ラケットを放り投げるのをみて、石井慧は
「あいつら強くならん。
なんで捨てるねん」
と怒り、周囲に
「競技も発想も違う」
と諭された。
8月14日、退院した石井慧の母、美智子が北京行きの飛行機に乗った日、男子柔道100kg級、鈴木桂治は、1回戦でツブシンバヤル(モンゴル)に1分26秒、もろ手刈りで1本負け。
敗者復活戦でも1回戦でベールラ(ドイツ)に34秒、横落としで1本負け。
2階級制覇を目指した2度目のオリンピックは120秒で終わった。
柔道競技は体重が軽い順に行われるため、残るは100kg超級の石井慧のみ。
ここまで日本男子柔道が獲得したメダルは、66kg級の内柴正人の金メダル1個のみ。
初戦負け、2回戦負けした選手が5人もいた。
石井慧は選手村を抜け出し、国士舘大学の仲間がいるホテルに移動。
このホテルには両親もいたが
「プレッシャーになる」
と会わず、いつもの寮の雰囲気で、仲間の1人が日本から持ってきた格闘ギャグアニメ「ジャングルの王者ターちゃん」のDVDを鑑賞し。
「強ぇなあ」
を連発。
北斗の拳では
「ケンシロウよりラオウ」
グラップラー刃牙は
「範馬勇次郎よりもビスケット・オリバ。
オリバよりジャック・ハンマー」
キン肉マンではネプチューンマンとビッグ・ザ・武道のコンビ技
「クロスボンバー」
が好きだという石井慧にとって強さとは
「わがままを押し通せること」
だった。
「我慢して最後の最後に世界チャンピオンになったりすればドラマになると思うんです。
でも本当に強かったら我慢をしなくていいと思うんです。
例えば本当のNo.1がボロボロの服を着ていても恥ずかしくないんです。
許されるんです。
わがままを貫き通せる力が強さなんです。
自分を貫くこと。
誰に何をいわれようと、ヒールになろうと、自分のわがままを通したことが強さだと思う」
8月15日、北京オリンピック柔道競技最終日。
試合当日の1回戦の前に控室で斎藤仁に怒られ
「すごいのは怒られ慣れすぎてまったく聞いていない。
右から左に・・」
という石井慧は、試合前、ヘッドホンをつけて映画ロッキーの「Theme of Rocky 」、映画ザ・ラスト・オブ・モヒカン」のサントラ曲でヒクソン・グレイシーの入場曲でもある「For Battle」、レゲエ曲、HIBIKILLAの「あっぱれ!JAPAN」 を聴いてサイキングアップ。
そして180cm、110㎏と100kg超級では小柄な石井慧は、
1回戦、190cm、145kgのパオロ・ビアンケシ(イタリア)を腹這いに倒した後、しつこく押し、反転させて「有効」をとり、その後、鮮やかな内股で1本勝ち。
2回戦、イスラム・シェハビ(エジプト) に大内刈り で1本勝ち。
3回戦、アテネオリンピック銀メダルのタメルラン・トメノフ(ロシア)に 横四方固めで1本勝ち。
準決勝、ラシャ・グゼジャニ(グルジア)を 大内刈りでポイントを奪って抑え込み、上四方固めで1本勝ち。
と4連続1本勝ち。
しかし、
「準決勝に俺が怒るといいことがある」
というジンクスを持つ斎藤仁は、石井慧に
「ちょっと来い」
といい、
「なんだあの柔道は!」
といって怒り、殴った。
決勝戦の相手は、世界選手権金メダルのテディ・リネール (フランス)に破ったアブドゥロ・タングリエフ(ウズベキスタン)
石井慧の相手にいいところを出させない、攻めさせない柔道で、アブドゥロ・タングリエフは「指導」を2回もらい、敗北。
石井慧は優勢勝ちでオリンピック初出場で金メダルを獲った。
畳を下りた直後、インタビューを受け、
『五輪のプレッシャーは?』
「自分が全日本選手権のチャンピオンなんで、自分が負けたらもう日本の負けだって、斉藤先生から耳にタコができるくらいいわれてたんで、勝ててよかったです。
まあオリンピックのプレッシャーなんて、あの、まあこんなんいうたら失礼ですけど、斉藤先生のプレッシャーに比べたら、もう屁のツッパリにもなりません」
『五輪の畳はどうでしたか?』
「滑らなかったです。
これで慢心することなく、自分はスポーツやってないんで戦いだと思ってるんで、帰ってまた空気イスをしたいと思います」
『今は何がしたいですか?』
「いましばらく、あのぉ~遊びたいッス。
(何かに気づいたような顔をして)
アッ、練習したいッス」
その他にも
「これが国士舘の柔道ッス!!」
「生きて日本に帰ることができます。
勝てたんです」
「柔道最高!」
などと石井節を炸裂させ、テレビの解説をしていた篠原信一は
「どちらかというと石井はあまりしゃべらない方がいいですね」
といって笑った。
直後、石井慧は斎藤仁に、
「ちょっと来い」
呼ばれ、声のでトーンと眉間の辺りをみて
(怒られる!)
と思ったが、その通りだった。
この後、各テレビ局のスポーツ番組にハシゴで出演。
午前3時、選手村に戻らず、
「腹減った」
と金メダルを下げたまま国士舘の仲間の部屋に乱入。
ビールとつまみを腹に入れた後、5人で雑魚寝。
翌日、行われた記者会見で、
「これから石井の快進撃が始まります」
『ゆっくり休めましたか?』
「ボクが休むのは死ぬときです」
『(陸上男子ハンマー投げの)室伏広治選手と握手した印象は?』
「オスとして室伏選手にひかれて闘ってみたい気持ちがあります。
自分の方が握力が強かった」
「屁の突っ張りにもなりません」
は、新語・流行語大賞の候補60語にノミネートされたが、斎藤仁は、
「北京オリンピックは、自分が描いていた最悪のイメージがピタッとはまってしまった。
最後に石井慧が勝ったけれども、それまでの負け方がひどかった。
メダルにも絡めなかったっていうのはね。
金丸(雄介)は肩脱臼しちゃったし、小野(卓志)もどうしようもなかった。
(泉)浩なんか論外、完全な減量失敗。
負け方でも次につながる負け方もあるけど、あれは次につながらない。
泉はカイロ世界選手権で優勝して、ちょっと慢心になっていたのかもしれません。
だからそれを考えたら4日連続で負けた後に石井はよく勝ったと思う。
石井の「他人は関係ねぇ」というあの性格が、あの場面でうまくハマった。
考え方や人間性を除いたら、石井は素晴らしいと思いますよ。
自分の目的や目標を達成するためなら、人の足を引っ張ろうがお構いなし。
その貪欲さと、それに向かう実行力に関しては、本当に頭が下がる」
とコメント。
山下泰裕監督下で重量級コーチを2期8年、監督として2期8年、合計16年間、柔道日本代表を指導し続けたが、北京オリンピックの後、篠原信一に監督のバトンを渡した。
石井慧は、
「日本に帰ったら自分探しの旅に出ようかと。
柔道着を手に日本全国の渡り歩く道場破りツアーをします。
帰ってくる頃には柔道着はボロボロでしょう」
といったが、実際、帰国後、律儀に全国にいる恩人や仲間を訪ねる、お礼ツアーを行った。
大阪の実家に戻ったとき、祖母、淑子にブランドものの財布をプレゼント。
「お世話になった人に挨拶にいくのにお土産を持っていきたい」
という息子に母、美智子は近所のケーキ屋を勧めた。
すると石井慧は
「お母さん、僕は顔がさすから表に出られへん」
と遠まわしに買ってきてくれといった。
しかし結局、自分でケーキを選びたくなり、すぐそこのケーキ屋まで母、美智子の運転する車で移動。
内心、
「有名人気取りしやがって」
と思っていた母、美智子は、息子が入った途端、店が騒がしくなって、店の前まで人だかりができてしまうのを目撃。
石井慧はサインや写真撮影などに律儀に対応し、車に戻るまでかなり時間がかかった。
8月26日、総理大臣への優勝報告会で他競技の選手らと共にに首相官邸を訪問することになった石井慧は、
『首相とは何か会話されますか?』
と聞かれ、
「福田首相とゆとり教育のこととか、ちょっとイチから話し合わないとダメだなあと。
握手するときにガツンといいたいですね」
そして福田康夫首相から直接記念品を手渡された際、1人だけ自ら求めて握手した。
報告会後、
「斎藤先生がいなかったのでプレッシャーなく、福田首相と握手することができました。
最近は毎日のように『頼むからちゃんとしてくれ』といわれているので、後で怒られると思います。
福田総理は、他の総理と違って、すごい純粋さが伝わってきました。
そして腹黒くないからこそ、政治家として人気が出ないのかなと・・・」
2008年8月30日、石井慧はNHKスペシャルで取材で
「自分のように海外のJUDOを取り入れ対応できた選手が強くなる。
信長が鉄砲を手に入れたように・・」
と発言。
これをみた先輩の斉藤制剛は
「慧、もうこれ以上話すな」
とアドバイス。
石井慧にとって斉藤制剛は、
「制剛先輩は自分が調子の悪いとき、毎日声をかけてくれたり、ご飯に連れていってくれました。
試合でも勝てず辛い時期も、試合前にも自分の部屋に泊まりに来てくれたりしていたんです。
制剛先輩がいたからどんなにツラくても乗り切れたのだと思いますし、9歳も年上の人と関われたことで精神的に大人になれた気がします」
と国士舘で最も尊敬し、頼りにしている先輩。
一方、斉藤制剛は、「烏合の衆」を
「とりあいのしゅう」
と読んでしまう後輩のバカがバレるのを心配した。
報告会から数日後、9月1日21時30分、福田康夫首相が緊急記者会見を開き、
「内閣総理大臣・自由民主党総裁を辞職する」
と発表。
翌9月2日、国士舘大学で優勝報告会が行われ、石井慧はDAIGOのウィッシュポーズを決め、学長と握手。
福田康夫首相の突然の辞任について聞かれると
「僕は握手しただけで相手のことがすべてわかる。
薄々こういう風になるんじゃないかなと思っていた。
以心伝心で『思いとどまるように』気を送ったけど届かなかった」
さらに
「次の首相は麻生(太郎)さん。
腹の中で何か考えている。
日本はよくならない。
僕が(首相に)なったほうがよい」
とコメント。
そして
「大阪育ちなので皆さんを楽しませないとダメかなと思っている。
いまは絶好調、有頂天です」
と妙な責任感を示した。
2008年9月6日、大相撲の幕内力士、まだ未成年の若ノ鵬の落とした財布の中から大麻成分を含むロシア製のタバコが見つかった。
若ノ鵬は、解雇され、その後、ロシアへ帰国。
相撲協会は日本アンチ・ドーピング機構の指導のもと、力士に抜き打ちで尿検査を実施。
その結果、露鵬と白露山(実の兄弟)から大麻の陽性反応が出た。
石井慧は
「スポーツをやっていると凄いプレッシャーとか、凄く苦しいことがあるんで。
それ(大麻)を吸っていたとしても一概に責めてはいけないと思う。
ロシアから出てきて言葉も通じないところでメンタル的に薬に頼ってしまうというのもあると思います」
と力士を擁護する一方、日本相撲協会について
「ちょっと天狗になってると思います」
この後、露鵬と白露山は解雇され、北の湖は理事長を辞任。
9月10日、母校、清風学園で行われた報告会で、人生を生きていくためアドバイスとして
「1つは絶対に保証人にならないこと。
2つ目は煙草を吸わないこと。
健康や財を失いますから。
3つ目はネクタイをきっちり上まで締めること。
それに人から安心、尊敬、信頼される人になることです」
などとコメントしている。
また
「金メダルは小川道場に寄付します。
あるいはモハメド・アリのように川に捨てます」
といい、実際に金メダルをプロレスラーでもある小川直也の道場に寄贈。
これまで日本で「柔道家」といえば、すごく強くて、すごく礼儀正しくて、すごく控え目という印象だったが、石井慧は、ビッグマウスの上、笑いをとりにいった。
政治や他の武道などジャンルを問わず、ナイスコメントを連発させ、「石井節」は社会現象になった。
大相撲同様、日本伝統の古い体質を持つ全柔連は、頭を悩ませた末、石井慧のテレビ出演禁止を決定。
石井慧は
「自分の持ち味が1番出る」
と生出演を望み、オファーがくれば予定を空けるつもりだったがストップをかけられてしまった。
しかしマスコミはコメントを求めて石井慧に殺到。
『銀行が破綻しましたが?』
とマイクを向ける記者もいて、なんでもありの状態だった。
そういった石井慧の快進撃を応援する人もいたが
「うぬぼれるな」
「天狗になっているのはお前だろう」
と快く思わないアンチも多かった。
オリンピック後、石井慧はこれまでいったことがない高級な寿司や焼肉の店につれていってもらい、分厚い祝儀袋をもらうなど、確かにリッチになった。
しかし自由奔放で破天荒な発言は、オリンピックの後、急に出始めたわけではなく、むしろ金メダルを取った後もなんら変わりがなく、周囲の状況が変わったというのが正しい。
また元々、トロフィーやメダルには執着がなく無頓着で、適当にしまって壊してしまったり、全日本の銀メダルを
「1回負けと一緒」
と捨てたこともあった。
それも
「勝つまでのプロセス、強くなるためのプロセスが重要」
「そういうものがあることでうぬぼれたり勘違いしてしまう」
という考えによるものだった。
9月24日、北京オリンピックで日本男子柔道は、メダル2個という過去最低の結果に終わったが、石井慧は、そのもう1人の金メダリストで国士舘の先輩、8歳上の内柴正人と都内の特別支援学校訪問する予定だった。
しかし石井慧は、大遅刻して
「自分の部屋で瞑想してました」
といって笑いをとった。
翌日、同じメンバーで行われた国士舘高校での報告会に、石井慧はまたもや遅刻。
「優勝できたのは、皆さんの応援のおかげではなく、自分の才能のおかげです」
と発言。
これを不快に思った内柴正人は、イベントの最後に行われた生徒との記念撮影で石井慧と一緒に写真に入るのを拒否して退場した。
内柴正人はブログで
「途中で帰ってきました!
脱走だす。
石井があまりにも偉い人なんで!」
「オリンピックのことを『ちっぽけ』とかいうし遅刻するし、なんか一緒にされたら困るからね」
「気分が悪い!」
と吐き捨てた。
同ブログで内柴正人は石井慧が金メダルを獲得したとき
「おめでとうだぜ、コノヤロウ!!!」
と祝福し、その後、
「またあいつの減らず口が炸裂し始めるような気が。
いわなきゃいいこというし、いわなきゃいけない事いわないし」
「インタビューはなんていうのだろう」
と調子にノリやすい後輩の心配をしていた。
それは見事に的中。
世田谷区の町内会が主催する運動会に参加した石井慧は、障害物競走で最初の網をくぐらずに1位でゴール。
「ズルい」
と子供にいわれると
「何もいえねぇ」
と北島康介のモノマネで対応。
そして
「他人を蹴落としてでも自分がノシ上がる心を持たないと日本がダメになる。
今日はそういうことを指導しに来ました。
ズルしてでも勝つぞぉー!」
「五輪では自分の敵はいなかった。
相手がかわいそうでした」
「自分にとって五輪は踏み台なんで」
などのビッグマウスに加え、
「1本にはこだわらない。
勝てばなんでもいい」
と発言は、一部の柔道関係者に不評を買った。
武道としての「柔道」とスポーツとしての「JUDO」にまつわる問題は、以前からいわれていたが、一般の人からも
「石井の柔道は外国人みたい」
「石井の柔道は日本人らしい美しさがない」
と批判されると、石井慧は
「日本人らしい柔道って何ですか?」
「美しさを追求するなら体操でもやっていればいいじゃないですか」
「殺し合いなら生き延びたほうがよい。
そういう意味で自分の柔道をする、しないということ自体、余裕をかましていると思います。
平和ボケしてはいけません」
と反論し
「僕にとって柔道はケンカです」
といい切った。
そしてそんな石井慧にサムライを感じたファンも多かった。
石井慧は、2008年10月に東京で行われる世界団体選手権、11月に尼崎で行われる全日本学生柔道体重別団体、12月の嘉納杯、フランスで行われる世界無差別柔道選手権に出場する意欲をみせていたが、オリンピック後の8月末、すでに格闘技への転向を決意していた。
電話で打ち明けられた父、義彦は猛反対。
父、義彦親だけでなく斎藤仁の大ファンである母、美智子親、そして石井慧の周囲の多くは、柔道を続けてほしいと願った。
しかし石井慧は、
「このままロンドンオリンピックに出て、勝っても負けてもまだ26歳で、まあ、次のオリンピック目指すじゃないですか。
そしたら(その後は)たぶんどっかの大学の教員になって、それで全日本柔道連盟とかに入ったりして、全柔連で上を目指して。
それは立派な人生だと思うんですけど自分はそんな人生は耐えられないと思いました。
あんま面白くないです」
斉藤仁は、全日本柔道連盟の強化委員会が新しい体制となり、強化指定選手の見直しを行う11月中旬までに進路を決めるようにいった。
2008年10月6日、東京武道館で世界柔道団体選手権大会が行われたが、出場エントリーしていた石井慧は股関節痛を理由に欠場。
(男子日本代表は、1回戦でブラジルに負け、敗者復活トーナメントでも韓国に勝った後、ロシアに負けた)
この日、スポーツ報知が一面で
「石井、プロ格闘家へ」
と石井慧のプロ総合格闘技への転向を報じた。
上京していた両親は、その報道を東京武道館に向かう途中で知り、父、義彦は
「そこまで話が進んでいるのか」
と驚いた。
大会翌日、両親は頼まれていた布団と衣装ケースを持って国士舘大学の義方寮へ。
そして父、義彦は
「必ず大学を卒業することを約束させる」
母、美智子は
「何の相談せずに転向なんか考えやがった頭をハッタんねん!」
と決めて部屋で待機していたが、NHKの7時のニュースで
「石井慧、格闘技に転向」
と報じられるのをみて驚愕。
そのとき石井慧は、相変わらずトレーニング室で黙々とウエイトトレーニング。
その後、集まった報道陣を気づかれないように両親と石井慧、後輩たちは裏口から脱出。
寮から800m離れた仙川駅の近くにある「とんかつ 仙川 」に入った。
寮の門限である22時が迫る中、石井慧はショウガ焼きを食べ、父、義彦に
「どうするんや」
と聞かれると
「いくんや」
と答え、後は後輩たちとポケモンのゲームの話に終始。
ポケモンマスターになることを目指し、ゲームもコツコツがんばっていた。
翌日、記者会見が行われ、石井慧は疲れた表情で登場。
プロ格闘家転向の決意を固めたという報道に対し、
「いっていない。
プロになる気はないです」
という一方で
「卒業のことで頭がいっぱい。
焦らずゆっくり考えたい」
と明言は避けた。
石井慧の憔悴した表情に観ている者は
「やはりかなり悩んだろうな」
「さすがに疲れてるな」
と思ったが、実は徹夜でポケモンゲームをしたためだった。
斉藤仁は
「本人から何も聞いていない」
とした上で
「己が決める人生。
本人のみぞ知る。
自分が反対できるところじゃない」
父、義彦はゲーム疲れしている息子をみて、真剣に心配したことがアホらしく思え、最終的に
「アイツの決めた道は全力で支えてやる」
と決め、取材には
「本人と直接話していないので一連の報道の内容についてはよく理解していない。
しかし本当に本人がプロに行くことを希望しているなら、大学を卒業してからよく考えて決めさせたい」
と答えた。
10月31日、石井慧は全日本柔道連盟に対して強化指定選手辞退届を提出。
11月3日、記者会見で
「11月3日をもって柔道家をやめ、プロ転向を決めました。
総合格闘技のチャンピオンになれるようにがんばります」
と正式にプロ転向を表明。
柔道選手時代のトレードマークの1つ、スキンヘッドはスポーツ刈りになっていた。