1999年、斉藤仁が監督になって10年後、国士舘大学が初めて日本一に。
このとき鈴木桂治は1年生。
国士舘高校時代、斉藤仁をみて
「なんというか、次元の違う怖さなんです」
(鈴木桂治)
行きたくないと思っていた国士舘大学に進み、実際に斎藤仁の指導を受けるようになると、その柔道のレベルの高さに驚く。
斉藤仁は「もっと走れ」とか「もっとウエイトトレーニングをしろ」など、トレーニングに関しては、あまりうるさくないが、柔道、特に技術について厳しく、それは決してかんたんに覚えられるようなものではなかったが、とにかく1つのことができるまでトコトン反復させられた。
例えば、背負い投げでも1つの投げ方だけでなく、少し変化させた多くの種類があり、1つできれば
「じゃあ、次はこれやってみろ」
とドンドン課題が与えられるが、途中で間違えると
「そんなんじゃねえ!」
と怒鳴られる。
「あと、膝をこれだけ曲げてみて」
といわれても、道着の中の脚が太すぎて、これだけがどれだけかわからない。
仕方なく感覚的に曲げるが1回でドンピシャになることは少なく、何回も曲げて、ようやく
「おお、そこ」
となる。
そして指示通りに身体を使うと投げやすくなったり、相手が軽く感じられた。
身体の動きを覚えるために同じことをひたすらやらされ、それは「何回やればOK」「ここまでやればOK」ではなく、斉藤仁がOKというまでやり続けなければならない。
16時に練習が始まり、練習が終わる21時まで延々、同じことをやらされることもあった。
そして
「続きはまた明日」
といわれて寮に戻るのだが、たまに22時の点呼のときに
「柔道着を持って来て」
とマネージャーから呼び出しがかかり、道場にいくと斉藤仁がいて、27時近くまで練習することもあった。
27時近くまでというのは「27時を過ぎると朝練はナシ」というルールがあったため、斉藤仁は26時55分になると
「よしっ、今日はここまで。
続きはまた明日」
部員はフラフラになって寮に戻り、授業で寝た。
自称「段取りくん」、
「指導者は細かくなくてはダメ」
という斎藤仁は、選手のためにどういう環境をつくればいいのか真剣に考え、準備など細部まで気を配った。
しかしフレンドリーなコミュニケーションなどなく、部員は
「はい」
という返事、そして実行あるのみ。
「斉藤先生に会った人は、よく優しいですねといいますけど、そんな先生をみたことがない。
柔道部員がみていたのは、私たちは「歌舞いている」といっていたのですが、怒りのあまり歌舞伎の隈取ろをしたような顔になった斉藤先生ばかりだったのです。
本当に鬼以外のなにものでもない」
(鈴木桂治)
2000年、斉藤仁は全日本代表監督に就任。
「日本代表という集団は柔道家のトップ中のトップ。
練習は誰よりも量をこなし誰よりも質を求めなくてはいけない」
といい全日本の合宿は、
・早朝トレーニング
・午前
・午後
・夜
の4部制となり、量も内容もハードになった。
その妥協を許さない厳しい稽古のやり方に、篠原信一は
「理不尽、イソジン、斉藤ジン」
井上康生は
「いい意味で異常」
と悪口。
斎藤仁は、それを知ると嬉しそうに怒った。
2003年春、全日本体重別選手権100kg級の決勝で、鈴木桂治が3歳上の井上康生を決勝で破って優勝。
(2連覇)
直後、全日本選手権(無差別)の決勝で、井上康生は鈴木桂治に内股で豪快に1本勝ち。
(3連覇)
秋の世界選手権の100kg級の代表に井上康生が選ばれると、納得できない鈴木桂治はメディアの取材に不満を漏らした。
すると斉藤仁から電話がかかってきて
「文句があるなら来年の全日本で勝て!」
その後、世界選手権で、井上康生が100kgで、棟田康幸が100kg超級で、鈴木桂治が無差別級で優勝。
石井慧にとって清風高校の先輩である秋山成勲が銀色、矢嵜雄大が赤色に髪を染めて出場し、話題となった。
2004年4月4日、全日本体重別選手権100kg級で鈴木桂治は準決勝で敗退。
優勝は井上康生。
2004年4月29日、 全日本選手権(無差別)では、鈴木桂治が井上康生に勝って優勝。
3位は棟田康幸。
2004年8月、アテネオリンピック100kg超級で鈴木桂治が金メダルを獲得
100kg級の井上康生は、準々決勝で背負い投げで1本負け。
敗者復活戦も3回戦で大内刈りを返され1本負け。
オリンピック2連覇の夢は叶わなかった。
2005年、日本柔道の重量級戦線がこういった状況の中、石井慧が国士舘大学に進学した。
練習マニアの石井慧も斉藤仁の指導は
「本当にキツい」
と恐れた。
しかし道場で
「負けると思ったら負ける。
ダメだと思ったらダメになる。
勝てると思っている中に無理かもしれないという気持ちがあれば、絶対に無理になる。
すばしっこくて強い者だけが勝つのではない。
自分はできると信念を持っている人が勝つ。
世の中をみろ」
というナポレオン・ヒル(アメリカの作家、成功哲学の第1人者)の格言を発見すると
「これは自分の言葉にするしかない」
と自分の部屋に持って帰り、その後、道場で騒ぎが起こすなど悪意のない傍若無人ブリを発揮した。
国士舘大学柔道部は103名。
朝練2時間、16~19時までの午後練がノルマ。
午後練習は、練習前のウォーミングアップはアップテンポな音楽が流れ、部員達はそれに合わせてモチベーションを上げ、そこから3時間以上、練習。
石井慧は、その後、夜の2時間のウエイトトレーニングも日課とし、ときに警視庁や他大学、片道2時間ほどかかる小川直也(バルセロナオリンピック95kg超級銀メダリスト)の小川道場へ出稽古。
「小川選手とは明治大学の出稽古で一緒に練習したときに『自分の柔道と似ている』と声をかけてもらったことがあって。
柔道現役時代の小川選手のビデオをみていると確かにそうだと思いました。
自分には瞬発力はないけれども、スタミナのある小川選手のような柔道を目指そうと思いました」
そして日曜日は必ず休み、読書やゲーム、買い物や寺社めぐりを行った。
国士舘大学の義方寮で石井慧の部屋は二間あり、1つは生活空間、1つは儀式の部屋となった。
儀式の部屋は、高校時代、1つだった神棚が2つにグレードアップし、像、絵、書などさまざまなものを
「神様同士がケンカをしないように」
配列。
自分はもちろん、両親、先輩、後輩にも
「入るときと出るときに失礼しますといってもらっていいですか」
と礼を求め、先輩がなにかの拍子で榊(サカキ)を押してしまったとき
「何してんの」
と声を荒げ
「どう?
曲がってない?
もっと右?」
とミリ単位で修正し、先輩がクシャミをすると神様にツバがかからなかったか心配。
儀式の部屋の壁にナポレオン・ヒルの言葉と共に貼られた仏画は、清風学園時代に柔道部の部室に張られてあったもので作者は柔道部OB。
毘沙門天の石像は、八王子の宝生寺でもらったもの。
石井慧は、清風時代の仏教教育の影響か、戦国武将の上杉謙信を崇拝。
柔道着には、「刀八毘沙門天王」の刺繍を縫いこんだ。
刀八毘沙門天王は、戦国武将の上杉謙信が、自身がその生まれ変わりと信じた神様の名前。
三面十臂像、四面十二臂像など様々あるが、刀を8本持って獅子に乗り、頭上に如来を頂く像が多い。
「謙信はあの時代、周囲の武将が血気盛んに天下取りを目指していた中、世の平静のことも考えた。
その余裕がすごい」
寮で「戦国無双」というアクションゲームをやるときは、必ず上杉謙信を選択。
「武将たちには今にないカッコよさがあります」
と一見古風な日本男児だが聴く音楽はレゲエ。
「特にKEN-U(東京を中心に全国で活躍する日本人シンガー)が好きです。
ウォーミングアップのときに聴くと燃えてきます」
読書もし、歴史小説からアスリートが書いたエッセイまで幅広く読み、中でも他競技のアスリートが書いた本には参考になるという。
「イチロー選手の「夢をつかむイチローの262のメッセージ」を読んでいてハッとさせられることがありました。
普段うまくいっている人が急にうまくいかなくなったら人は精神的にアカンかったのか、疲れがたまっているからだと思いがちです。
でもイチロー選手は技術がダメだったからだと書いていたんです。
これはシビアに響きました」
お菓子やジャンクフードはまったく口にせず、プロテインをはじめとするサプリメント、卵の白身や納豆にハマるなど強くなるため、勝つための食事の研究と実践に余念がなかった。
例えばミキサーに
・生卵4個
・ハチミツ
・レモン果汁
・豆乳
・ピーナツバター
・牛乳
・バナナ1本
・オリーブオイル
・プロテイン
を入れた特製プロテインは
「オリーブオイルは良質なリンパ液を増やすので、ちょっとたらすだけで全然、違うんです」
という。
健康意識も高く、あるとき父、義彦が電話が出ると、石井慧は困った様子で
「お父、義彦さん、今、人が吐いたタバコの煙吸ってしまった。
背が止まってしまう」
といった。
儀式の部屋の部屋でプロテインの粉をこぼしてしまったときは水で濡らしたティッシュで丁寧にふき取ったが、先輩の部屋でこぼすと水をかけて指で踏んで消そうとし、
「お前、そのプロテインはどこにいくねん」
と怒られた。
月8万円を仕送りを受け、
「貯金が趣味」
という石井慧はマメに貯金通帳の残高をチェックし、ハム&ご飯など低予算で効率良く栄養を摂取。
一方、後輩と行きつけのトンカツ屋にいくと巨大エビフライ2本、大盛りしょうが焼き、そしてビールをグビグビと飲み、豪快にオゴった。
当初、アルコールは
「酒はポイズン」
といってまったく飲まなかったが、やがてONとOFFを切り替えたり、気分転換するための重要アイテムとなり、酒や肴について描かれる漫画「酒のほそ道」にもハマり、そこで学んだウンチクを語りながらガバガバ飲んだ。
そしてお金がなくなると実家に
「なんか忘れてへんかな?」
「そろそろかな、生活費」
などと催促メール。
1度に渡すとすぐに使ってしまうことに気づいた母、美智子、美智子は、4万円を2回に分けて送金。
すると石井慧は
「母、美智子上、慧はつらく大変な思いをしております」
などと
「父、義彦上」
「母、美智子上」
「パパ」
「ママ」
と呼称を巧みにコントロール。
祖母、淑子には
「伏見警察のものですが・・・」
とオレオレ詐欺風に電話。
「慧やろ。
どうしたん?」
と見破られると
「おばあちゃんも大変やろうけど、イマドキの大学生に5000円はないわ」
と開き直り、母方の祖母が亡くなったときは
「おばあちゃん、僕には世界でおばあちゃんがたった1人になってしもうた。
だからお小遣いください」
ととおねだり。