西太后の言葉に打ちのめされた角田信朗にトピックスが舞い込んだ。
翌年1990年6月2日に行われる極真空手の第7回全日本ウエイト制大会に正道会館も出場するというのだ。
これまで極真を破門された芦原英幸の弟子である石井和義の正道会館と極真会館と交流がなかった。
しかしこの度、大山倍達は「空手界の大同団結」を呼びかけ、正道会館の選手の出場が認められたのである。
夢の「地上最強の極真カラテ」に挑戦できるのである。
角田信朗の心は燃え上がった。
出社すると社長と西太后に正道会館の全日本大会での不甲斐なさを詫びた。
そして極真のウエイト制大会への挑戦を報告した。
社長は快く受け入れ、これまで通りのバックアップを約束した。
角田信朗は週3回は神戸支部、残り3日を大阪の総本部で稽古した。
大阪へ行く日は18時に仕事を終え、大きなバッグを抱えて阪急電車に乗り19時からの代表選手の特訓に参加した。
正道会館の試合ではOKだが極真空手の試合のルールでは禁止されている「掴み」を禁止した組手が延々と続き、その後は一気に5連打する地獄のキックミット5連打。
最終電車に間に合うギリギリまで稽古は続いた。
通常ならJR環状線の天満駅から1駅乗って大阪駅までいき、神戸線に乗り換える。
角田信朗の家は阪急電車の王子公園駅から徒歩5分。
しかし阪急電車は終わっているので、JRで灘駅まで帰り、そこから家まで40分歩いた。
そして翌朝8時45分に出社した。
浪花の出戻り男、1度目の復帰であった。
神戸支部での稽古を王子公園で陸上トレーニングに替えることもあった。
ウォーミングアップで、腕立て伏せ50回&ジャンピングスクワット50回×10セット。
それが終わるとインターバルダッシュ。
とどめは王子公園の入り口から山へ向かって伸びる500mの坂を地獄ダッシュ。
200mくらいで息ができなくなり、残り300mは無酸素状態。
ゴールするとよだれと鼻水だらけになった。
最初は1本もできなかったが、極真ウエイト制大会までに5本こなせるようになった。
1990年6月2~3日、極真会館が主催する第7回オープントーナメント全日本ウエイト制空手道選手権大会が大阪府立体育館で開催された。
他流試合において、すべての大会で上位を独占し「常勝軍団」といわれた正道会館だったが、極真空手は心技体共にレベルが違った。
軽量級、中量級、重量級の3階級に12名の選手を送り込んだが、2日目の準々決勝に進めたのは重量級にエントリーした柳澤恥行と角田信朗だけだった。
そして柳澤恥行は、この大会で優勝する岩崎達也に判定負けした。
残るは角田信朗だけだった。
角田信朗の次の相手、準々決勝の相手は、井口勝利だった。
「ゼッケン210番!角田伸朗選手!」
試合場に上がり正面を向くと大山倍達と目が合った。
大山倍達はニヤッと笑った。
試合が始まると井口勝利の蹴りに角田信朗はクイックローを返した。
蹴られたら蹴り返すような攻防が何度が続いた後、肩を狙った角田信朗の左のパンチが流れて顎に入り、井口勝利が倒れた。
角田信朗は頭を下げた。
再開後、ポイント勝ちも考え、手数重視となりつつある空手のトーナメントであるが、角田信朗と井口勝利は打ち合った。
魂がこもった戦いだった。
井口勝利は100㎏を超える巨体からムチのようにしなった左ハイキックを出した。
角田信朗はそれを捌いて、井口勝利の体を時計回りに回した。
そして右フックをボディに打ちながら右足を外に踏み出した。
左半身に意識を集中させた井口勝利の右側の顔面に角田信朗は腰を残してヘッドを走らせた左ハイキックを叩き込んだ。
井口勝利は丸太のように倒れた。
強靭な精神力ですぐに立ち上がろうとしたが夢遊病者のようによろめいた。
劇的な1本勝ちだった。
角田信朗は試合場の上で泣いた。
セコンドも正道会館の選手も社長も西太后も泣いていた。
この奇跡の一戦で気持ちが途切れ抜け殻となってしまった角田信朗は準決勝で敗れた。
しかし他流派の選手が極真空手の全日本大会でベスト4に入ったことは快挙だった。
表彰式で、講演会以来、12年ぶりに大山倍達と握手を交わした。
「君ねえ、秋の無差別と世界大会にも出てこい!」
ケガで極真の全日本大会出場を辞退
角田信朗は、試合3日後までは軽いジョギングだけにしたが、10月の正道会館の全日本大会と11月の極真会館の全日本大会に向け、再びハードトレーニングを開始した。
そして正道会館の第9回全日本大会の6週間前に自宅前で縄跳びを跳んでいるとき
「バシィー」
という衝撃が右膝に走り倒れこんだ。
歩けないまま這って部屋に戻りタクシーを読んで病院へ直行した。
右膝内側半月板完全断裂だった。
すぐに膝に内視鏡を入れて断裂した部分を摘出する手術を受け1週間入院した。
車椅子でオペ室へ向かうとき女性看護師に
「すいません。
手術中の呼吸はヒーヒーフーでいいんですよね」
とボケたが寒い顔をされた。
第9回全日本大会は3回戦で後川恥之に負けた。
(後川恥之は佐竹雅昭を破って優勝)
とても大山倍達の期待に応えらえる状態ではないので角田信朗は、11月の極真会館の全日本大会の出場を辞退した。
vs USA大山カラテ & アウトボクサーの嫁
1991年、角田信朗は右膝のため陸上競技トレーニングはできなくなった分、ウエイトトレーニングやエアロビクスに力を入れた。
その目標は、6月の極真の全日本ウエイト制だった。
第5回世界大会の選考会を兼ねたこの大会に勝って極真の世界大会出場を目論んだ。
そして4月の佐藤塾全日本大会で2位。
5月、「USA大山カラテ vs 正道カラテ 5対5マッチ」が開催された。
先鋒戦、次鋒戦が引き分けとなり、中堅戦で角田信朗はギャリー・クルグビッツと対戦。
延長戦で角田信朗の跳び膝蹴りでギャリー・クルグビッツはひっくり返った。
そして大将戦では、角田信朗を極真カラテの世界に引き込んだ男、クマ殺しのウィリー・ウィリアムスが佐竹雅昭と対戦した。
試合を終え会場を出る角田信朗に女性が声をかけた。
「とっても感動しました。
握手してください」
「ああ、ありがとうございます」
「今日はもう大阪にお帰りですか?」
「いえいえ今日はもうこんな時間に帰るの無理なんで、一泊して明日ゆっくりして帰ろうかなと」
「えー、明日はゆっくりされるんですかぁ?」
「え?、ええ。
ああ、よかったらディズニーランドでも一緒に行きますか?」
「いいですよ!」
こうして2人は翌日待ち合わせた。
女性は最初のデートから35分も遅れ、角田信朗は舞浜へ向かう地下鉄のエスカレータで、すでに女性の手を握り、電車のなかでは肩に手をかけた。
お互いに図々しいと思いながら、ディズニーランドでは、接近戦を望む角田信朗を女性はまるでK-1の武蔵のように絶妙の距離を保ち続けた。
新幹線のホームで別れるとき、電話番号を交換し2ヵ月後のお盆休みに再開することを約束した。
しかし次の週の日曜日、女性は大阪までやってきた。
そしてお盆休みには角田信朗は、この女性、飯干恭子の実家にいき親族にあいさつした。
ツノダはどうしたのかね
6月、極真全日本ウエイト制大会で、角田信朗は初日の予選を突破こそ、2日目の2回戦で敗れ、午後に開催される開会式に出ることはできなかった。
開会式で大山倍達は
「おい、ツノダはどうしたのかね、ツノダは?」
と角田信朗を探した。
RINGS(リングス)
秋の正道会館の第10回全日本大会は、オランダのジェラルド・ゴルドーやピーター・スミット、ソ連のアマチュアボクシングスーパーヘビー級チャンピオン、スラブ・ヤコブレフなども参戦。
大会直前、角田信朗は左膝の内側の靱帯を断裂するケガをし、右のローキックでスラブ・ヤコブレフを沈めた後、棄権した。
試合後、呼ばれていくとそこには石井和義と前田日明がいた。
前田日明は、UWF崩壊後、異種格闘技の「RINGS(リングス)」を立ち上げていた。
キャッチコピーは「世界最強の男はリングスが決める」
石井和義が唐突にいった。
「角田さぁ、12月にリングスさんの大会が有明コロシアムであるんやけど、出てみない?」
「押忍?」
「佐竹と一緒に。
いいよねえ。
返事しとくよ?」
大山倍達が世界でケンカ旅行を行ったことを思い出し引き受けてしまう空手バカであった。
角田信朗は前田道場や新宿のスポーツ会館でやっていたサンボの練習に参加し組み技の練習をした。
そしてリングスのデビュー戦の対戦相手は、オランダのケンカ屋、ヘルマン・レンティング。
タックル狙いのヘルマン・レンティングとパンチを当てたい角田信朗、間合い地獄に陥り引き分けとなった。
第2戦は、キックの帝王、ロブ・カーマンだった。
しかし角田信朗がリングスに参戦するとに社長は否定的だった。
「俺は角田が武道家として空手をやることに関してはこれまで応援してきた。
そやけどプロレスをやるとなったら話は別やで」
大阪から東京の試合に出るには、前日に移動し、試合をしてから翌朝1番の新幹線で帰って出社しても最低2日は休まなくてはならない。
角田信朗は会社に欠勤届を出したが社長の承認印は出発日になってももらえなかった。
角田信朗の空手はロブ・カーマンに何もできなかった。
アクシデントでロブ・カーマンのパンチが顔面に入り角田信朗はダウンし鼻から大量に出血した。
顔面への攻撃は掌底のみなので、これはロブ・カーマンの反則だった。
ドクターがストップしようとしたが角田信朗は続行を希望。
しかしなす術なくタックルを仕掛け、それを潰されたところに膝を落とされ負けた。
病院で鼻の骨が折れていることがわかり手術と10日間の入院をすすめられたが、社長の承認をもらえないまま会社を2日も休んでいる角田信朗は翌朝、出社。
「どこ行っとったん。
顔腫らして」
「・・・・リングスの試合です。
欠勤届は事前に提出していますが」
「聞いてないで」
「・・・・・・・」
1992年3月5日、リングスで角田信朗は、オランダの柔道王、ルディ・イウォルドをTKO。
その3日後の1992年3月8日、角田信朗と飯干恭子は結婚式を挙げた。
最後に親族を代表して角田信朗の父親があいさつしている最中、酔った前田日明が
「お〇〇〇」
と女性器の俗称を絶叫。
同じく泥酔した角田信朗もスイートルームに投げ込まれ、2次会は新郎不在で行われた。
クマ殺しと引き分け
結婚式の3週間後、正道会館主催で「格闘技オリンピック」という格闘技イベントが行われた。
前田日明が第1試合をつとめ、メインは佐竹雅昭 vs モーリス・スミス。
そしてセミファイナルは、角田信朗 vs クマ殺し、ウィリー・ウィリアムスだった。
角田信朗を空手の世界に引き込んだキャッチコピー「極真カラテか?人喰いクマか?」
16年後、伝説のクマ殺しが目の前にいた。
そして2分3ラウンドを戦い引き分けた。
正道会館師範代
1992年6月25日、リングス宮城大会「獅子吼」で角田信朗は長井満也に判定負けした。
試合終了後、悔しさから
「戦うサラリーマンは今日で返上です。
会社辞めて格闘技に専念します」
と発言してしまう。
翌日、出社し、
「お話があります」
と社長にいうと
「おお、辞めるんやろ」
とあっさりいわれた。
そして30歳にして大阪天満の正道会館総本部の師範代となった。
鉄人の踵と怒りのゴッドハンド
1992年7月30日、正道会館の「格闘技オリンピックⅡ」に極真空手史上最強の外国人、世界大会2位、鉄人アンディ・フグが参戦。
踵落しで柳澤恥行を粉砕した。
アンディ・フグの正道会館への移籍に大山倍達は怒り、極真会館は正道会館と絶縁した。
(大山倍達没後、解消)
絶縁して約1年後、石井和義から角田信朗に電話が入った。
「お前、スーツ持ってるか?」
「押忍」
「じゃあスーツに着替えて東京行きの新幹線に今からすぐ乗って、乗ったら電話してこい」
「お、押忍?」
「プーップーップーッ」
電話は切れた。
わけもわからず着替えて新幹線に乗ってからかけ直した。
「押忍。
いま新幹線に乗りました。」
「あーそお。
ご苦労さん」
「自分はどうさせていただいたらいいのでしょうか?」
「ホテルニューオータニでね、梶原一騎先生の7回忌の記念式典やってるんだけど、角田、俺の代わりに出席してきてよ」
「お、押忍!!!???」
「極真の人たちもみんな来てるらしいよ」
「押忍!!
館長!そんな大事な席に自分のような者では館長の代わりは勤まりません!!」
「なにいってんの。
みんなお前が来るの待っとるで」
「押忍!!
しかし館長!!
極真会館さんからは絶縁状が届いている状態なのに、そんなところへ自分が行って大丈夫なんでしょうか!?」
「プーップーップーッ」
悲惨だった。
東京駅からタクシーでホテルニューオータニへ。
遅れて会場に着いた角田信朗は恐る恐る会場のドアを少しだけ開けて中をのぞいた。
「すぐ目の前に極真会館の黄色のブレザーを着た50名ほどの屈強な男たちがビッシリと出席していた。
しかも正面では大山倍達が挨拶をしている最中だった。
(ヤバい)
角田信朗は静かにドアを閉めた。
(こんな敵陣に、絶縁状を回されている組織の幹部がノコノコ入っていったらどうなるのだろう?)
思案に暮れ、もう1度少しドアを開けて中をみようとしたとき、中からドアが押されて開き梶原一騎の弟の真樹日佐夫が出てきた。
「いやあ、角田君来てくれたのか」
その声に会場の中の全員が角田信朗をみた。
「ちょうどいい、大山総裁に紹介するよ」
「押忍。
いえでも・・・」
真樹日佐夫に押されブレーキを踏んだままアクセルを踏んだ車のように角田信朗はズズッズズッと大山倍達の前まで来た。
「いやあ総裁。
紹介します。
正道会館の角田君」
「お、押忍。
せ、正道会館の、か、角田であります。
ごぶたさ、いやご無沙汰しております」
大山倍達は右手で握手しながら左手で角田信朗の頬をパチパチ叩いた。
「いやあ!
もう1度会おう!」
(もう1度会おうか。
今会ってるのに)
角田信朗は心の中でツッコんだ。
ゴッドハンドとの3度目の、そして最後の遭遇だった。
バトルサイボーグ
1992年10月29日、リングス名古屋大会「メガバトルーナメント'92」の1回戦で角田信朗はディックフライにKO負け。
アンディ・フグの踵落としにローキック
カラテワールドカップ2回戦で角田信朗はアンディ・フグと対戦。
正道会館に来て以来、鬼のような強さをみせていたアンディ・フグに対し、その踵落としを踏み込みながら頭上でブロックし、そのまま片足状態のアンディ・フグをローキックで倒した。
「さすが角田」
「イケルかも・・」
とも思われたが、その後はアンディ・フグの猛攻が続き、最後は後ろ蹴りをボディにもらってKOされた。
ユリア・・・永遠に
角田信朗は第一子、長女、友里亜が生まれたとき、東京新宿区高田馬場にオープンした道場に単身赴任中で出産に立ち会えなかった。
このとき元ボクシング世界チャンピオンの平仲信明も佐竹雅昭のパンチを教えるために上京中で、2人は道場に布団を敷いて寝泊まりしながら格闘技の夢を語り合った。
角田友里亜は、熊本県高森町で酒かすを使った料理で観光PRするため結成した女性4人組ユニット「酒粕ガールズ(SKG)」のメンバーでもある。