獣神サンダーライガー  山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで

獣神サンダーライガー 山田恵一がライガーのマスクをかぶるまで

獣神サンダーライガーの中身は山田さんは、超一途、超根アカ、超ピュア、超ポジティブなナイスガイ。



獣神サンダー・ライガーこと山田 恵一は、1964年11月10日、広島県広島市で誕生。
バンドマンだった父親が大阪のクラブを周っていたとき、店で働いていた母親が一目惚れ。
広島にいた父親のところに押しかけて結婚。
山田恵一が生まれたとき、父親は肉体労働をしていたが、小学校2年生のときに離婚。
大阪の実家に戻りづらかった母親は、近くに住み続け、山田恵一は両親の間を自由に行き来。
その後、母親は2度再婚したので山田恵一には3人の父親がいる。
「家庭環境は複雑でも、まったくジメッとしてなくて、カラッとした感じでしたね。
父ちゃんがいっぱいいるのもええやんって。
弟は、今は真面目に勤め人になってますけど、昔は暴走族をしていて、警察のお世話になって、よく母親が迎えに行ってましたよ。
母親も警察に友達が随分いるっていってました」

小学校6年生のとき、園芸部だった山田恵一は、本屋に植物の本を買いにいき、棚にささっていたプロレス誌「別冊ゴング」の表紙に目を奪われた。
それは筋骨隆々の藤波辰巳で、
「かっこいい」
と一気に引き込まれてしまった。
以後、プロレス誌を買い漁り、テレビ中継も無我夢中で観戦した。
「テレビ中継はゴールデンタイムで、雑誌も「月刊プロレス」や「月刊ゴング」の他に「月刊ビッグレスラー」や「デラックスプロレス」があって、お小遣いも全然足りなくて・・・」
(山田恵一)
それまで将来の夢は、
「動物園の飼育員とか農業関係の職につきたい」
だったが、
「これしかない‼」
とプロレスラーになることを決めた。
ジャイアント馬場率いる全日本プロレスとアントニオ猪木の新日本プロレスという2団体がしのぎを削っていたが、山田恵一は、どこか殺伐とした新日本プロレスに憧れ、憧れのヒーローは
「強者。
特にアントニオ猪木とゴジラ」
だった。

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アントニオ猪木、本名:猪木寛至は、神奈川県横浜市鶴見区生まれ。
家は石炭問屋を営み、110坪もあるお屋敷だったが、中学生になると時代の流れは手間がかかる石炭から石油へと移行し、徐々の困窮。
最終的に石炭問屋を廃業することになり、砲丸投げに夢中で、中学校には砲丸を投げるために通っていたアントニオ猪木は、家族と共にブラジルへ移住。
ブラジルに着いた翌日の朝の5時からラッパの音で起こされて働かされ、1年半という契約期間中、週6日、5~17時までコーヒー園、綿花、落花生と季節ごとに現場を変えながら労働。
契約期間が終わると昼間はサンパウロの高校に通って砲丸投げの練習をし、夜は青果市場で働くという生活が始まり、16歳のとき、砲丸投げでブラジルの全国大会で優勝。
このとき力道山率いる日本プロレスがサンパウロ興業に来ていて、力道山は猪木の活躍を新聞で知り、興味を持った。
日本プロレスの招聘に携わっていた青果市場の市場長は、それを知ってアントニオ猪木を力道山のいるホテルに連れていった。


力道山はいきなり、
「裸になれ」
といい、その肉体に納得すると
「よし、日本へ行くぞ」
猪木の家族には
「3年でモノにしてみます」
といって、アントニオ猪木を日本に連れて帰った。
それから猪木は、日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングと力道山の付き人の仕事が始まった。
日本プロレスの練習は半端なものではなく、
「常人では成しえないことを成すのがプロレスラー」
が信念の力道山は、なにかあれば容赦なく竹刀で殴った。
朝から夜まで付き人としてついていく猪木は、リングシューズを履かせていると
「違う」
と蹴飛ばされたり、飼い犬を番犬として育てるための実験台にされたり、ゴルフクラブで側頭部を殴打されたり、走っている車から突き落とされたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせられたり、
「声を出すなよ」
といわれた後、アイスピックで刺されたり、素人に殴られたりした。

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ジャイアント馬場は、猪木がブラジルから帰ってきた直後に日本プロレスに入門。
209cm、135kgのジャイアント馬場は、猪木より5歳上の22歳。
高校の野球部でエースと4番を務め、1試合18脱三振を記録。
高校を2年生で中退し、大卒初任給が1万6千円の時代に支度金20万円、初任給1万2千円の条件で巨人に入団し、史上最年少、16歳のプロ野球選手となった。
5シーズン、巨人に在籍し、チームメイトには長嶋茂雄、王貞治もいたが、1軍登板は3試合のみ。
大洋ホエールズに移籍が決まり、準備を進めていたときに風呂場で転倒し、体ごとガラス戸に突っ込み、左肘に17針を縫い、左手の指が伸びない状態が続き、プロ野球選手の道を断念。
スポーツを続けたいという一心でボクシングジムでトレーニング。
そしてブラジルから帰国した力道山に入門を直訴。
ヒンズースクワット100回を命じられ、難なくこなし、その場で入門が決定。
しかも力動さんは、通常、練習生には支払われない給料を、ジャイアント馬場だけ月5万円、支給。
待遇面で雲泥の差のあったが、猪木と馬場は床に汗溜りをつくりながらスクワット。
入門して5ヵ月後、2人は同じ日にデビュー戦を行い、ジャイアント馬場は、田中米太郎に股裂きでギブアップ勝ちし、アントニオ猪木は、大木金太郎にギブアップ負け。

2人が入門して3年半後、力道山が死去。
アントニオ猪木は、付き人として3年半の仕事を終え、さらに3年後には、自分の団体「東京プロレス」を旗揚げ。
しかし3ヵ月で破産し、日本プロレスに戻った。
アントニオ猪木は、ジャイアント馬場をタッグを組み、日本プロレスの看板コンビとして活躍。
さらにシングルでも大きなタイトルを獲得し、団体ナンバー2に。
しかし会社の経理の問題を追及したり、(力道山の生前、16戦16敗という)ジャイアント馬場との直接対決を要求したが認められないなど、日本プロレスとの間に確執が生まれた。
そんな状態で倍賞美津子と結婚。
京王プラザホテルで結婚披露宴は1億円と話題になったが、その1ヵ月後、日本プロレスは、アントニオ猪木の除名を発表。
その記者会見の後、代官山の日本プロレス事務所ではビールで乾杯が行われた。


「迷わず行けよ」
と行動主義のアントニオ猪木は、すぐさま「新日本プロレス」を旗揚げ。
それは

1971年11月、結婚
12月、日本プロレス追放
1972年1月、「新日本プロレス」を会社登記
3月、旗揚げ戦

という異例のスピードで行われた。
練習第一の猪木が1番最初に行ったのは、道場の建設。
世田谷区野毛、多摩川沿いの倍賞美津子との新居となるはずだった一戸建てを改造し、庭を潰して道場を建て、家の2階部分を増築して寮をつくった。
練習生を募集したものの、あまりの厳しさに全員が逃げ出してしまい、旗揚げ戦を行ったとき、アントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人。


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「燃える闘魂」
は決してダテではなく、アントニオ猪木は、誰よりも練習した。
所属レスラー全員に毎朝10時から、合同練習を課し、まず30分ぐらい走った後、全員がリングの周囲を囲んでスクワット、腕立て伏せ、縄跳びなどのトレーニングを1時間半から2時間行うが、夏は40度を超えて汗だまりができた。
次はリングの上でストレッチ、腹筋、ブリッジ、受け身、タックル、ロープワークなど基本技術。
それが終わるとスパーリングとなる。
たくさんの人間がリングでひしめくため、自然と寝技多くなった。
それは関節技あり、締め技あり、フォールなしのサブミッションレスリングで、道場ではスパーリングと呼ばず、
「セメント」
あるいは
「ガチ」
「ガチンコ」
などと呼んだ。
3、4時間練習し、14~15時で終わると、その後に食事。
そのためにチャンコ番は早めに練習を終える。

試合で遠征中も必ず合同練習は行われ、朝は晴れていればランニング、雨なら風呂場でスクワット。
午後も試合が始まる30分前まで試合用のリングでスパーリングや会場でトレーニングをしてから客を入れた。
あるとき3週間休みなしで巡業が続き、後半、みんな疲れて合同練習に参加しなくなったが、アントニオ猪木は1人で黙々とスクワット。
そして所属レスラーを呼んで、リングの周りに並べ
「やる気がないなら帰れ」
といって全員を殴った。
プロレスには台本があり、勝敗は事前に決まっていて、プロレスラーの目的は勝利ではなく観客を興奮させ、楽しませること。
だからプロレスラーは、パイルドライバー、バックドロップ、ボディスラム、4の字固めなど技のかけ方、受け方を練習する。
一見派手なパンチやキックも攻める側は急所を避け、受ける側は、逃げることなく受ける。
しかし新日本プロレスでは、そういった技のかけや受けの練習をほとんどせず、基本的にトレーニングとセメントだけ。
試合はケツ(最後の勝敗)は決まっていたが、試合中はすべてアドリブでセメント(真剣勝負)も行った。
「どんなに素晴らしい試合より街のケンカのほうがおもしろい」
というアントニオ猪木は、感情ムキ出しのファイト、気迫あふれる試合を推奨。
そして試合でセメントの要素がないと
「何やってるんだ!」
と怒った。
若手がリングで挑戦的なことをやったり、それを失敗しても責めないが、気合が入っていない試合をすれば怒り、試合中でも竹刀を持ってリングに上がって滅多打ちにすることもあった。
だから新日本プロレスのリングには、常に危険な香りが漂っていた。

新日本プロレスに夢中な山田恵一は、中学生になると体が大きくするために水泳部に入り、県の新人戦で優勝。
「少年ジャンプ」に載っていた「ぐんぐん伸びる ヨーガ伸長法!」という教材の通信販売の広告に申し込み、ブルーワーカーなどのトレーニング器具を購入。
プロレス誌に
「レスラーはスクワットを毎日3000回やる」
と書いてあるのをみて、少しずつ回数を増やしていき、数ヵ月後、3000回をこなせるようになった。
「もう自分の部屋の畳が汗で腐るくらいに(笑)」
勉強は全くダメで
「学校には給食と運動をするために行っていた」
という山田恵一は、デカくなった体でプロレスごっこ。
すぐに女の子を好きになり、すぐに告白し、すぐにフラれた。

中2のとき、初めてプロレスを生観戦。
このとき広島県立総合体育館まで1人で行ったが、その後、広島で行われる全日本プロレス、新日本プロレスの大会は、すべて会場で観戦。
広島市から40km離れた東広島市で行われた大会も自転車で観に行った。
中3の夏休み、東京の親せきの家に遊びにいき、
「会社でプロレスのチケットもらったんだけど観に行く?」
といわれ、日本武道館で行われた「プロレス夢のオールスター戦」を観戦。
売店でミル・マスカラスのマスクを買い、帰りの駅のトイレで一生懸命かぶろうとしたがミニチュアマスクだったために無理だった。
その後、雑誌の通信販売でマスクを買って収集するようになった。

中学校卒業後は新日本プロレスに入るつもりだったが、新日本プロレスのパンフレットに書かれていた入門規定の中に、
「身長 180cm以上」
とあり、165cm、70kgの山田恵一は、
「ダメだ。
とりあえずレスリングの基礎を身につけよう」
とレスリング部のある高校を探して受験。
面接で
「レスリングを3年間やり通します」
とアピール。
すると数日後、学校から
「本気でレスリングをやる気ある?」
と確認の電話がかかってきて、
「絶対にやります」
と即答。
すると高偏差値の広島大学付属高校に合格。
「おそらく筆記試験的には落ちていたけど部員確保で入れてもらえたんでしょうね」

中学は、給食と運動をするために通っていたが、高校になるとさらに磨きがかかり、死に物狂いでプロレスラーを目指した。
朝5時に起き、新聞配達をし、約1時間かけて自転車で登校。
授業中は寝て、レスリング部で練習した後、帰りに広島トレーニングセンターに寄ってウエイトトレーニング。
「プロテイン代やトレーニングジムの月謝を考えたらバイトも休むわけにいかない!」
男子校なので女性と接触するのは学食のオバちゃんのみ。
高2のとき、徳島県で行われたレスリングの大会で、川田利明と対戦。
川田利明は1つ上の高校3年生。
中学校卒業後、新日本プロレスのテストに合格したが、『高校を卒業してから』といわれて入門が先送りとなり、レスリングの強豪、足利工業大学附属高校に一般入試で合格した。
この試合で、山田 恵一は判定負けし、川田利明は、そのまま優勝。
しかし大会後、山田恵一は、
「無名の年下に手こずりやがって」
と監督に怒られる川田利明を目撃した。
川田利明は、高校在学中に、インターハイ準優勝、国体優勝という成績を残し、高校卒業後、新日本プロレスではなく全日本プロレスに入門。
山田 恵一もインターハイ出場を果たした。

170cmに満たない山田恵一は、新日本プロレスの入門規定、
「身長 180cm以上」
をみながら、
「どうにかしてレスラーになれないかな?」
と悩んでいたが、プロレス誌でマッハ隼人(国際プロレス、UWFで活躍)の記事を発見。
そこには新日本プロレスの入門テストを落ちた後、メキシコに渡って現地でレスラーになり、逆輸入レスラーとして日本に戻ってきたというマッハ隼人のストーリーが書かれてあった。
「こういう手があるんだ!」
まったく勉強をしてこなかった山田恵一は、NHKのスペイン語講座を観るようになり、いくつかの大学からレスリング推薦の話が来ていたが
「メキシコでプロレスラーになります」
といって断った。
車の運転免許を取ってから、格安チケットを手配しようと旅行会社「メキシコ観光」へ。
担当者に旅の目的を伝えると現地駐在員の「長島さん」を紹介してもらった。
そしてメキシコでは
「今、嫁が出産で日本に帰っているから」
といわれ、長嶋さんの家にステイ。
そこからルチャリブレの学校に通うようになった。

ルチャリブレは、メキシコの伝統的なプロレススタイル。
日本の空手や柔道のように街にはルチャリブレを教える道場があって、誰でも習う事ができた。
「両国国技館くらいの階段を昇ったり降りたりして基礎体力トレーニングをこなしてから最後に受け身の練習をやって」
しばらしく道場で練習していると長島さんに
「麻雀仲間の知り合いに浜田さんっていう人がいて、プロレスラーらしいんだけど知ってる?」
といわれ、
「グラン浜田さんですよね?
もちろん知ってます」
と答えると
「じゃあ紹介するよ」
といわれ、グラン浜田と会うことになった。

グラン浜田は、新日本プロレス旗揚げ時のメンバーの1人。
軽量級ながら元柔道のオリンピック候補。
新日本プロレスの前座で「台風の目」といわれた後、メキシコに渡ってキレのいいファイトでブレイクし、タイトルも獲得。
数年後、帰国し、新日本プロレスのリングで活躍したが、メキシコで家族を持ったため、日本とメキシコを往復。
山田恵一がメキシコに来るきっかけとなったマッハ隼人よりも実績のある、メキシコの第1人者だった。
グラン浜田の家は、メキシコシティを東西に横断する大通り、パセオ・デ・ラ・レフォルマに面した高層アパートの15階にあり、よく麻雀大会が行われ、長島さんもそのメンバーだった。
名前の通り、幸運に恵まれてマンションを訪れた山田恵一は、グラン浜田にマス釣りに誘われる。
早起きして湖で一緒に釣り糸を垂らしていると
「いきなりこっちでやっていくのは無理だよ。
今度、新日本プロレスがテレビ撮りでメキシコに来るよ。
試合もするから解説で来る山本小鉄さんに紹介してやるよ。
お前は日本でやった方がいいよ」
といわれた。


その試合は、1983年6月12日、かつて闘牛場だったスタジアム、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノスで開催され、タイガーマスクを含む、新日本プロレスのスターが出場。
山田恵一は、ドキドキしながら観戦。
そして試合後、グラン浜田から山本小鉄を紹介された。
山本小鉄は、新日本プロレスのライオンマークのエンブレムとキャッチフレーズ
「King of Sports(キング・オブ・スポーツ)」
の考案者。
新日本プロレスの道場の現場責任者として若手レスラーを指導する「鬼軍曹」と呼ばれ、アントニオ猪木から解説者になるように頼まれると真面目な山本小鉄は「話し方教室」に通い、
「これは危ないですよ」
「いまのはキツいですよ」
などとレスラー目線と独特の表現で試合を実況した。
ホテルのロビーで待っていた山田恵一をみて、山本小鉄は
「なにやってたの?」
「100m何秒で走れる?」
などと質問。
そして最後に、
「ウチはUWAと提携してるから、まずはそっちを紹介してやる。
今日は帰りなさい」
といった。

山田恵一は、
「はい」
と答えたものの、帰ってから悩み始めた。
日本同様、メキシコにも複数のプロレス団体があり、山田恵一は、「EMLL」という団体のルチャリブレ学校に通い、レオン・チノというコーチに習っていた。
山本小鉄がいった「UWA」と「EMLL」のライバル団体だったので、
「不義理をして(UWAに)移るわけにはいかない」
と思った。
翌日、山田恵一は、山本小鉄を訪ね、
「すみません。
せっかくのお話ですが、僕はEMLLにお世話になっているのでUWAに移ることはできません。
もし新日本プロレスに入門できないのであれば、僕はEMLLに残ります」
といった。
山本小鉄は少し考えた後、
「よし、わかった。
じゃあ日本に帰って新日本の道場に入りなさい」
{エッ、マジで?)
こうして体格が規定に達していないだけでなく、実技試験もナシで新日本プロレスに入門することが決定した。
「メキシコに行ってから新日本入が決まるまで、ほんの1ヵ月くらいのことだったんでラッキーの一言ですよ。
当時はネットもなくて情報も限られている中、行き当りバッタリで動いて、気づいたら新日本プロレスに入れられちゃったっていう。
しかもテスト無しで‼
裏口入学でしたね‼!」

帰国後、新日本プロレスに電話すると山本小鉄に
「話はつけてあるから」
といわれ、山田恵一は東京都世田谷区野毛1丁目3-22にある新日本プロレスの野毛道場へ。
道場の中からドタンバタンと音が聞こえ、扉を開けてみると初代タイガーマスク(佐山恥)が撮影を行っていた。
(ウワッ、タイガーマスクだ!)
と驚きながら
「すみません。
今日から合宿所でお世話になる山田という者です」
と挨拶。
するとタイガーマスク{佐山聡}は、
「うん?
寮はあっちだよ」

佐山聡は、山田恵一より背が低く170㎝もない。
小学生の頃からアントニオ猪木を崇拝し
「プロレスこそ真の格闘技」
「プロレスこそ最強の格闘技」
と信じ、毎月、プロレス雑誌の発売日には、山口県の日本海側にある家から瀬戸内海側にある本屋まで、自転車で片道1時間走った。
入門8ヵ月後、藤原喜明に
「プロレスはお互いが協力するショーだ」
と教えられ、天地がひっくり返るような衝撃を受ける。
しかし打・投・寝、すべてOKの最強の格闘技を目指し、極真空手の創成期のメンバーで「鬼の黒崎」といわれた黒崎健時が指導し
「キックでは1番強い」
と思っていた藤原敏男が所属する目白ジムの住所を調べて、入門。
新日本プロレスの練習が14~15時に終わった後、世田谷区野毛から巣鴨の目白ジムまで電車とバスを使って通った。
「猪木さんはいつになったら格闘技をやらせてくれるのだろう」
と思いながらプロレスと格闘技の練習を続け、20歳でメキシコ遠征を命じられ、ルチャリブレの難易度の高い空中殺法をマスター。
その後、イギリスに渡り、メキシコに続き、イギリスでもトップレスラーに。

イギリスに来て1年後、プロレスラーとしてロンドンで順調な生活を送っていると
「帰国して虎のマスクをかぶってくれ」
といわれた。
「タイガーマスク」は、1968年から少年マンガ雑誌で連載開始し、翌年にはテレビアニメ化された「巨人の星」「あしたのジョー」に並ぶ、梶原一騎の代表作。
1981年4月20日に「タイガーマスク2世」の放映が始まるのに合わせ、実物のタイガーマスクを新日本プロレスのリングに立たせるという構想は梶原一騎によるものだった。
マンガのヒーローをリアルストロングスタイルの新日本プロレスに登場させる意味がわからない佐山聡は、
「僕は帰れません」
と断ったが、
「君がマスクをかぶってくれないと社長の顔を潰すことになる」
と尊敬するアントニオ猪木の名前を出されると弱く、
「わかりました」
とアッサリ了承。
「1試合だけですよ」
と念を押して一時帰国することを受け入れ、タイガーマスクとしてダイナマイト・キッドと対戦。
新日本プロレスのセメントサブミッションレスリング、メキシコのルチェ・リブレ、目白ジム仕込みのキックが融合した4次元殺法」に観客は驚愕。
この10分間でスーパースターが誕生し、空前のタイガーマスクブームが到来することになり、
「1試合だけですよ」
という約束はすぐに反故にされてしまった。

タイガーマスクの指示で寮に向かった山田恵一は、入り口で、
「すみません」
と大声でいうと2階から小杉俊二が降りてきた。
1980年入門、3歳上の小林俊二は、同期の高田延彦に全勝している技巧派レスラー。
「ああ、新弟子だろ?」
といわれたが「新弟子」という言葉を知らない山田恵一は、
「いえ、山田という者なんですが・・・」
「だから新弟子だろ?」
「いえ、山田です。
山田恵一です」
小杉俊二は、少しキレ気味に
「今日から寮に入るんだろ?
上がれ!」
山田恵一は、
なんで怒ってんだろう?)
と思いながら
「はい」
と答えた。
「お前ェの部屋はここだから」
と2階の部屋に案内されると、18歳上の栗栖正伸と同部屋だった。
普段、大阪で暮らしている栗栖正伸は、試合があるときだけ合宿所で生活していた。
部屋に荷物を置くと小杉俊二に
「腹減ってるか?」
と聞かれ、
「はい」
と答え、初めてソップ炊き(鶏がらスープのちゃんこ鍋)を食べ、あまりのうまさに
(ナニコレ!)
と感動し、何杯もおかわりした。

小林俊二の他に合宿所で暮らしていたのは、

7歳上、寮長の新倉史祐
5歳上、ヨーロッパから帰ってきたばかりの前田日明
2歳上、高田伸彦
同年齢、大阪出身の畑浩和
同年齢、北海道出身の佐野巧真

だった。
このうち前田日明と高田伸彦は、新日本プロレスの本隊と一緒に地方に巡業中。
しかし少し経つと体調を崩した高田延彦が東京へ戻ってきた。
山田恵一が道場にいると、高田延彦が入ってきて
「おい、レスリングやろう」
といわれた。
レスリングには自信がある山田恵一は、スパーリングを行い、高田延彦からタックルでダウンもとったが、下から関節技を極めまくられ、
「高田さん!
レスリングで首を攻めるのは反則ですよ」
というと
「バカ!
プロがやるレスリングっていうのは関節を取り合うもんだ」
まったく関節技を知らない山田恵一は、何度も悲鳴を上げた。
30分後、立ち上がることができなくなった山田恵一に、高田延彦は
「お前、小さいんだからもっと強くならないとダメだぞ。
俺なんかよりはるかに強い藤原(喜明)さんっていう人がいるから、今度、教えてもらいな」
といった。
山田恵一は
「俺、続けていけるかな」
と不安を感じた。


やがて本隊も東京に戻ってきて、初めての合同練習を翌日に控え、山田恵一は、風呂場で新倉史祐に
「このくらいのスピードで大丈夫ですか?」
と素っ裸でスクワットをしながら質問。
「おう、十分だ」
といわれて安心した。
そして初めての合同練習で、坂口征二や藤浪辰巳など憧れの存在と一緒にトレーニングをして興奮。
このときアントニオ猪木はいなかったが、少し後、非常階段をすごいスピードで降りてくる音がしたのでみてみるとアントニオ猪木だった。
「おはようございます。
今度新しく入りました山田と申します。
よろしくお願いします」
と挨拶。
アントニオ猪木は、
「おお」
といいながら、まったく止まることなく行ってしまった。
山田恵一は額が広く、前に突き出ているため、最初、先輩たちに、
「デコッパチ」
と呼ばれた。
それがやがて
「ハチ」
となり、最終的に、
「ハチベエ」
になった。

ご迷惑をおかけしています!

山田恵一は、巡業にいくと若手として先輩たちの試合をみていたが、年齢で15歳上、そしてプロレスラーとして11年先輩の藤原喜明に異質なものを感じた。
「人殺すんじゃないかって思わせるものがあって、相手を仕留めに行く姿とか鬼気迫るものがありました。
とにかく怖い、怒らせちゃいけない人だなって」
幼い頃から強い者に憧れていた藤原喜明は、工業高校の機械科時代、ボディビルの本を購入し自己流でトレーニング開始。
高校卒業後、埼玉県内の建設機器メーカーでサラリーマンになり、20歳で退職し、料理人をしながら金子武雄(重量挙げ全日本ライト級チャンピオン、日本プロレス所属のレスラーだったがセメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退)のジムで練習を続け、旗揚げから8ヵ月後の新日本プロレスに入門。
そして入門10日後、スピードデビューを果たすも、すでに23歳という遅咲き。
入門1年後には6歳上の猪木の付き人になり、合同トレーニングの後、猪木とスパーリング。
それは1984年にUWFに移籍するまで10年以上続いた。
「考えてみたら、人の2倍、3倍、練習していたよな。
そのおかげだな。
俺のヒザはボロボロだよ」

藤原喜明は、カール・ゴッチに出会い、初めてその関節技をみたとき、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け
「本物だ」
と思った。
「当時、若手のコーチ役は山本小鉄さんで、その指導は非合理的というか、スパーリングやっていて『これ、どうやって極めるんですか?』って聞くと『根性で極めろ』って。
もちろん非合理的な指導も必要なときもありますが、それを聞いたときは「この人、大丈夫かな」と思いました。
それで入門してしばらくしてゴッチさんの指導に接して「あっこれは本物だ」って感じたんです。
ゴッチさんは日本語もしゃべるんだけどめちゃくちゃなので、それで話されるとわけがわかんなくなる。
ですから基本的には簡単な英語でやりとりしていましたよ。
1日にいくつも関節技を教わるんだけど覚えきれなくなる。
あるとき、ハッと気がついて、1日に1つだけ教えてもらったことをノートに克明に書き残して、それを確実に覚えていくようにしたんです。
オレは頭が悪いからものごとを覚えるのにすごく時間がかかるんですよ。
だけど1度覚えるとずっと覚えている。
高校時代のことだってちゃんと覚えている。
オレは工業高校の機械科で、得意な科目は体育が5で、応用力学、機械工作が5。
これはどういうことかというと運動神経がまあまあいい上に力学、つまりテコの原理がわかっていて工作が上手、つまり手先が器用なんですよ。
だから関節技を習得するのにピッタリだったんだな。
あともう1つ。
骨が太い」


ある日、山田恵一は、合同練習が終わった後、藤原喜明に
「おい、ボク、ボクシングやったことあるか?
ちょっとやってみようか?」
といわれた。
そしてボクシングのスパーリングが2R行われ、ボコボコにされた山田恵一は終わった後、
「ありがとうございました」
といって頭を下げた。
すると後頭部を
「ボカンッ!」
とやられ、しかも殴った藤原喜明が笑っている。
猛烈な怒りがこみ上げた山田恵一は、
「テメー、ブッ殺してやる」
すると藤原喜明は目つきが変えて
「オウッ、殺してみろ」
ケンカのようなスパーリングが始まり、再びボコボコにされ、最後は馬乗りになられ、周囲が止めに入るまで殴られ続けた山田恵一は、気づけば、寮の自分の部屋に寝ていた。
頭部にダメージを受けたためか、猛烈な吐き気がしたが、その日の夜、藤原喜明から電話が入り、
「大丈夫か?」
といわれ、
「ハイッ、練習ありがとうございました。
失礼なこといってすみませんでした」
「オウッ、気にすんなよ。
俺はお前みたいなヤツ、好きなんだよ。
また明日から頑張ろうな」
山田恵一は、うれしくて気持ちの悪さなど吹き飛んでしまった。
その後も藤原喜明にボクシングのスパーリングの相手に指名され、藤原喜明が若手に関節技を教える「藤原教室」にも参加。

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前田日明は、山田恵一が新日本プロレスに入門した直前にイギリスから帰ってきたばかり。
同じ寮に住みながら雲の上の存在だったが、
「ハチベエ、渋谷行くぞ」
といわれ、遊びに連れていってもらった。
「もうハンパじゃない
レスラーの中には素人にナメられちゃいけないってのが強かったからさ。
力が強い、技術でも負けない、それはいいんだけど、酒飲む量でも素人に負けちゃいけない!
だから飲め!って。
飲まされて記憶なくなったこといっぱいあるもんね。
前田さんと飲んだら、だいたい帰りは記憶ないよ。
それに前田さんと高田さんが一緒に飲むとキングコングとゴジラ。
高田さんは素っ裸で踊ったりするんだぜ!
前田さんは強そうな人みるとケンカしたがるし、そういうの止めるの大変だったんだから!
もうメチャクチャ!」
山田恵一は、そんな高田延彦が行きつけの店で女性店員に
「新しい子入ったの?
頑張ってね!
応援してるわよ」
といわれて一目惚れし、
「この人のために頑張ろう」
と思い込んでトレーニング。
高田延彦が出かけるときは、連れていってもらえるように「僕、ヒマです」アピール。

新日本プロレスの寮には、
「座敷わらし(小さな女の子)をみた」
「誰もいないはずの2階の廊下を歩く音がする」
など数多くの怪奇現象の噂があり、テレビ番組の企画で除霊のために呼ばれた霊能者に、
「これは俺の力じゃ無理だ」
といわれ、山田恵一は高田延彦と一緒にバットを片手に1部屋1部屋、チェックしたこともあった。
アマチュアレスリングの試合でドロップキックを放って反則負けしたことがあるという破天荒なドン荒川は、イタズラが好き。
寮に住む若手に、
「夜中に霊がベンチプレスをする。
深夜3時を過ぎてガチャンガチャンと音がしたらそれだ」
と吹き込んだ。
すると深夜3時、本当に道場からガチャンガチャンと音がするため、真偽を確かめるため、山田恵一たちは恐る恐る道場へ。
そして扉を開くとベンチプレスをする人影が。
「で、出た~っ‼」
絶叫して寮に逃げ帰った後、道場では笑いが起こった。
ベンチプレスを挙げていたのは佐山聡。
笑い声の主は、隠れていた藤原喜明、ドン荒川、小林邦昭。
彼らが仕組んだイタズラだった。
続いてドン荒川は、
「昔、この辺で進駐軍の黒人兵士が殺されて、幽霊になって夜な夜なアメリカ国歌を歌う」
という話を聞かせ、200cm120kg、父親が岩国基地所属の黒人アメリカ海兵隊員だったという「人間バズーカ」ジョージ高野に軍服を着せ、前田日明の枕元に立たせた。
すると前田日明はドン荒川に
「怖いから一緒に寝てください。
僕が荒川さんの部屋に行きますから」
と懇願。
ドン荒川は
(しめた)
と思いながら、了承。
自分は部屋のドア側に、前田日明を窓側に寝させた。
外では佐山聡が釣り竿を持ち、小林邦昭が糸の先につけたアルコールを含んだ脱脂綿に着火。
窓の外に火の玉が出現すると前田日明は部屋を飛び出て朝まで帰って来なかったが、ドン荒川は、そのとき顔面を踏みつけられ、鼻血を出した。

山田恵一は、アントニオ猪木が入場するとき、
「はーい、どいてどいて」
といいながらガード。
しかし群がる人数が増え、過激なファンがガウンや髪の毛を引っ張ったりすると、
「どけ!オラァ」
とブッ飛ばした。
しかし外国人レスラーの世話係になると、サーベルを持ったタイガー・ジェット・シンや223cm、236kgのアンドレ・ザ・ジャイアントは、平気で客に手を出すため、唖然。

ダイナマイト・キッドが
「フランキー」
と呼ぶので理由を聞くと
「オデコが出ていてフランケンシュタインみたい」
といわれた。
そして試合中、セコンドについているとウインクをしてくるので
(試合中だよ!)
と困惑。
ダイナマイトキッドは、180cm、98kg。
背は低いが圧倒的な筋量を誇り、ヘビー級に負けないパワーを有する肉体を持つ上、命を削るような危険を顧みない激しいファイトが身上。
山田恵一は強く影響を受け、たゆまぬ努力で170cm、95kgという肉体をつくり上げた。


ハルク・ホーガンが鉄柱攻撃を受けて流血したので、あわてて
「アー・ユー・OK?」
と聞くと、思い切り右手で顔面を叩かれ、腰が砕けて倒れ込むと、200cm、120kgの「人間バズーカ」 高野俊二に
「動くな」
といわれ、運び出された。
ブルーザー・ブロディーが日本人を侮辱する言葉をいったとき、思わず睨むと、肩を小突かれ、周りが止めに入ったこともあった。
生中継のとき、坂口征二に
「誘導だけはちゃんとやれよ」
といわれ、外国人レスラーの控室を何度も往復していたが、ワインを飲みながらポーカーをやっているアンドレ・ザ・ジャイアントに
「お前も飲め」
といわれて、一気飲み。
出番が来て
「お時間です」
といってもアンドレは、
「イヤだ。
俺は行かない」
といってニヤッと笑い、ギリギリまで動いてくれない。
やっと入場となり、そのままセコンドについたが山田恵一は、赤い顔をしていたので怒られた。
試合後、外国人レスラーのコスチュームを洗濯するのも仕事だったが、スケールの大きな外国人は臭いもビッグだった。
「キングコング・バンディのマントなんか、気を失いそうになるくらい臭くて・・・」

この頃、新日本プロレスは大きな問題を抱えていた。
タイガーマスク人気で常に超満員。
なのに契約更改で、ほとんどのレスラーが現状維持。
さらにその後、行われた株主総会で新日本プロレスは
「売上19億8000万円、利益750万円」
と信じられない数字を発表。
理由はアントニオ猪木は個人事業「アントン・アイセル」
ブラジルにあるサトウキビからアルコールを抽出し「バイオエタノール」を精製する会社で、ブラジル政府は石油の代わりにバイオエタノールを燃料として使用する計画を進めていた。
アントニオ猪木は自民党の政治家に
「アントンハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」
といって協力を呼びかけたが断られ、逆にやめるよう説得された。
実際、プロジェクトを進めていくと様々な問題が起こり、追い討ちをかけるようにブラジル国内のインフレによって経営は悪化。
アントニオ猪木はテレビ朝日に放送権を担保に12億円の借金をしたが補い切れず、新日本プロレスの収入の大半をアントンハイセルの補てんに回してしまった。

しかしこれは新日本プロレスで働く者にとっては社長の私的流用。
怒った長州力は試合を無断欠場。
山本小鉄、藤波辰巳らも新団体設立を画策。
稼ぎ頭であるタイガーマスク(佐山聡)は、新日本プロレスに内容証明書付きの契約解除通告書を送り、一方的に契約の解除を告げて、引退宣言。
「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。
結局、社長のアントニオ猪木、副社長の坂口征二、営業本部長の新間寿は辞任。
山本小鉄らが新しく経営を行うことになり、クーデター側の勝利に終わったかにみえたが、テレビ朝日の重役の
「猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?
猪木が新日プロを辞めたらウチは放送を打ち切るよ」
という一言で逆転。
アントニオ猪木は社長に、坂口征二は副社長に復帰した。
新日本プロレスに戻ることができなかった新間寿は新団体「UWF」の設立を画策。
新日本プロレスのプロレスラーやかつての部下に声をかけて引き抜いていった。

 
入門して8ヵ月が過ぎた山田恵一は、猪木に
「オマエどこでデビュー戦がやりたい?」
と聞かれ、山田恵一は、
「両国国技館」
といいたかったが、グッと堪え、
「後楽園ホールでやりたいです」
1984年2月29日、前田日明が、この日の合同練習を最後に新日本プロレスを離脱し、UWFへ移籍。
3日後の3月3日、山田恵一は、後楽園ホールでデビュー戦を行った。
超満員の後楽園ホールで第2試合、15分1本勝負で小杉俊二と対戦し、5分17秒、片エビ固めで負けた。

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その後、寮で初めての後輩ができた。
それは、

武藤敬司
蝶野正洋
橋本真也
船木誠勝
野口章(AKIRA)
森村方則(リッキー・フジ)

の6人だった。
武藤敬司は、2歳上だったので「後輩でありアニキ」
柔道で全日本3位という経歴を持ち、体に恵まれてバネもあり、格闘技センスも抜群だった。
「2つ歳上だったんで大人っぽくみえました。
麻雀もできたから、よく坂口さんとかに誘われて雀荘にいってましたし、あの頃から上の人とうまくやっていたんじゃないかな。
スター候補として誰もが一目置いていたというか。
僕が入門は1年先輩だったけど、絶対に負けたくないと思っていて・・・
天才に対する凡人のヒガミだよね。
他の人もみんな武藤に負けたくないって思ってたよ」

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蝶野正洋も1歳上。
山田恵一は、蝶野正洋より座高は高かったが、身長は16㎝も低かった。
つまり蝶野正洋は足がすごく長く、山田恵一は短足で、獣神は重心が低かったのである。
そんなスタイルのいい蝶野正洋は、給料を手渡しでもらうとすぐに川崎の風俗街へ。
山田恵一は、まったくそういう遊びはせず、部屋で怪獣フィギュアをつくった。
一心不乱医ウレタンを削り、張りつけて怪獣をつくり、部屋の多くのスペースをゴジラたちが占領。
もう1つの趣味が食虫植物の栽培で、小学生の園芸部時代から食虫植物が好きで大量に育てた。
「蝶野も大人っぽかったかな。
割とクールな感じで。
下戸だったんですけど、入ってすぐに無理やり飲まされて台所でひっくり返っちゃって。
急性アルコール中毒だったと思いますけど。
ちょっとしてから三鷹の暴走族のリーダーやってたって聞いて、こんな大人しいやつが?って驚きました」

橋本真也は、1歳下。
思考がほぼ一緒で1番仲の良い後輩だった。
「一緒にいろいろバカやりました。
橋本は、よくご存知のように、どこまでいってもトンパチ(無鉄砲)
入った頃は、明るくて人懐っこくて、山田さん、山田さんってくっついてきて」
ある日、合同練習が終わった後、いつものように全員がリングに上がって正座。
そして橋本真也の
「正面に対して礼」
という号令で全員が新日本プロレスのシンボルマークに向かって礼をして、
「ありがとうございました」
その隣にアントニオ猪木の大きな写真があり、橋本真也の
「社長に礼」
という号令で
「ありがとうございました」
いつもならこれで終わりだが、副社長である坂口征二がいたので、ドン荒川が橋本真也、
「副社長にも礼っていえ」
と指示。
もちろん冗談だったが、わからない橋本真也は坂口征二に向かって、
「副社長にも礼‼」
その瞬間、坂口征二はすごい勢いで立ち上がり、橋本真也を殴打。
120㎏以上ある橋本真也の体がフッ飛ばされるのをみて、山田恵一は
「怖ッ‼」
と思った。
そして後になって
「1番悪いのは荒川さんだよな」
と気づいた。

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船木誠勝は、中学卒業直後の15歳。
入門前から山田恵一のことを雑誌などでみて、
「体がすごい」
「腕が大きい」
と思っていた。
入門1週間後、新日本プロレスのバスが巡業から戻ってきた。
夜の12時を過ぎていたが、船木誠勝は、バスを降りて合宿所に入ってくる先輩1人1人に挨拶と自己紹介。
1番最後に入ってきた山田恵一に挨拶すると
「オッ、よろしく」
その後、食事のとき
「お前、どこ出身だ?」
と聞かれ、
「青森です」
「青森か!
じゃあズーズー弁しゃべってみろよ」
といわれ、青森の言葉を話していると新潟県佐渡郡出身の小杉俊二に
「バカにすんな!」
といわれて叱られるのを目撃した。


後輩ができた山田恵一は
「イタズラ王」
と呼ばれるほど、イジり倒した。
ある後輩は、ジャンケンに負けると電柱にくくりつけられ、山田恵一にチャンコの残りやマヨネーズを投げつけられた。
野毛道場および合宿所の初代管理人兼料理長である太武経(ふとりたけつね)は、毎週土曜日に飲みに行くのが習慣だった。
山田恵一は、大量のネコを捕獲し、留守中に太武経の部屋に入れた。
太武経が帰ってドアを開けると猫がウワッと出てきて、山田恵一は、そのリアクションを楽しんだ。
また後輩がセミが嫌いだと知ると大量のアブラゼミを捕獲。
留守の間に100匹近くのセミを部屋に放ち、帰りを待ち、部屋に入った後輩が悲鳴を上げるとドアを押さえつけて脱出を阻止。
「アブラゼミだけに出てきたときは汗まみれでしたね」
新日本プロレスにはビンに入った特大のサロメチールがあり、藤波辰巳に
「これはすごい薬。
切り傷以外は何でも効く。
打ち身、捻挫、腰痛や肩こり、火傷に虫刺され、頭痛にはこめかみに、歯痛には頰やあごに塗るんだ。
万能薬だ」
と教わった山田恵一は、寝ている後輩の局部にサロメチールを塗付。
飛び起きて
「痛い!」
「熱い!」
と叫ぶのを楽しんだ。
沖縄のビーチで「アントン牧場」で育った牛をレスラー30人と関係者で1頭丸ごと食べるという焼肉大会が行われたとき、山田恵一は、ビーチに穴を掘り、後輩に入るよう指示。
後輩は穴に入り、大量の砂がかぶせられて顔だけ出た状態に。
山田恵一は、口紅で化粧を施し、海藻のウィッグを頭に乗せ、額にツマヨウジを刺していった。
ある新人が寮に入ってきたとき、船木誠勝に命じ、浴槽で首を絞めて落とさせ、自分はフタをして、その上に乗った。

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山田恵一がデビューした1ヵ月後、埼玉県大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ興行が行われた。
事前に貼られたポスターには、中央にマイクを握った新間寿が大きく配置され、
「今、新しいプロレススが始まる。
わたしは数十人のレスラーを確保した。
新間寿復活宣言
私はプロレス界に万里の長城を築く。
UWFオープニングシリーズ
4月11日(水)大宮スケートセンター」
というフレーズ。
右側に、アントニオ猪木、タイガーマスク、前田日明、ラッシャー木村、マサ斎藤、剛竜馬、藤原喜明、高田延彦、長州力、アニマル浜口の顔写真。
左側に、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ローラン・ボック、ボブ・バックランド、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・カーンの顔写真。
しかし実際に新間寿が集めたレスラーは、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田の4人だけ。
これに新日本プロレスからのレンタルで来た高田延彦を加え、彼らは、この開幕戦で外国人レスラーと対戦した。
大宮アリーナは超満員だったが、試合が始まるとインチキに気づいた客が怒り、罵声を飛ばし、さらに
「イーノーキ、イーノーキ・・・」
「チョオシュー、チョオシュー・・」
「ドーラゴン、ドーラゴン・・・」
「フッジッワラ、フッジッワラ・・・」
と猪木コール、長州力コール、藤波辰巳コール、藤原喜明コールを起こして抗議。
これに怒った前田日明は、外国人レスラーをロープに飛ばし、戻ってきたところにフライングヒールキック。
この日、日本に到着し、何の打ち合わせもなくリングに上がった外国人レスラーは、
「最初はマエダを徹底的に痛めつけ、客の不安といら立ちがピークにっしたら、最後にこっぴどく負ける」
とヒールとして試合を盛り上げ、客を喜ばすために全力を尽くそうと思っていたが、前田日明のくるぶしがモロに顔面に入って、一瞬、失神。
前田日明は、ほとんど意識のない外国人レスラーをジャーマンスープレックスで投げ、8分13秒、フォール勝ち。
鼻、口、さらに目からも出血している外国人レスラーは数人のに支えられながら控室に戻った。

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UWFは旗揚げ戦こそ満員だったが、第2戦の熊谷、第3戦の下関、第4戦の岐阜はガラガラ。
東京の蔵前国技館で行われた第5戦は、半分ほど埋まり、新日本プロレスから1日レンタルで藤原喜明が参戦し、メインイベントで前田日明と対戦。
前田のジャーマンスープレックスに藤原が右足をフックしてディフェンスし、倒れた 2人が立ち上がれず、ダブルノックダウンで引き分け。
試合後、前田日明は
「今日の試合は今までの試合とは全然違うんだよ
お前たちにはわからないのか!」
とマイクアピールしたが、多くの観客は途中で席を立ち、最後まで聞いた者はほとんどいなかった。
この後、新間寿とグラン浜田が離脱。
UWFは、所属レスラーが3人に減った上、スポンサーなし、カネなし、外国人招聘ルートなし、なしなしずくしで再スタートした。
藤原喜明に接触し
「1番強いアンタが必要なんです」
といって新日本プロレスから引き抜こうとした。
35歳の藤原喜明は、アントニオ猪木のようなスター性も、元柔道日本一の坂口征二やオリンピック出場の長州力のように華やかなポーツ歴も、藤波辰巳のように鍛え上げられた体も、前田日明のような大きな体も、佐山聡のような身体能力もない。
しかし関節技アリの寝技スパーリングでは誰にも負けず、道場破りが来れば、必ず挑戦を受けて退けた。
なのにリングでは地位が低く
「番犬」
と呼ばれていた。
アントニオ猪木に相談しようと
「UWFに・・」
といった途端
「えっ、お前と誰が行くんだ?」
といわれ、
「なんだ、俺って新日本に必要ないんだって上に俺よりも誰かの方が大切なんだってことか」
という気持ちになって移籍することを決めた。
「堂々とUWFに移った。
俺は誰も裏切ってないからね」

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新日本プロレスをやめる直前、藤原喜明は、藤原教室の生徒を集めて
「俺と高田は辞める。
もしお前らの中についてきたい人間がいるなら、高田の部屋に集まれ」
と伝えた。
山田恵一は、ちゃんこ番だったために行けず、後で船木誠勝から話を聞き、さらに高田延彦に
「待ってるから」
といわれたが行かなかった。
「新日本に拾ってもらったという恩があったし、デビューして間もない立場で自信も何もないので。
これでダメだったらレスラー辞めるしかないのかな?とか色々考えた」
藤原喜明と高田延彦はUWFに移籍した後、ドン荒川が若手の指導をしたが、藤原教室の生徒だった山田恵一と船木誠勝は「荒川教室」には参加せずに別メニューをこなした。

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1984年8月、新日本プロレスはパキスタン遠征を行ったが、山田恵一は、このときから藤原喜明に代わってアントニオ猪木の付き人になった。
「初の海外遠征だし、しかも猪木さんの付き人ですからワクワクなわけですよ」
毎日、
「社長、1時間前です」
といってアントニオ猪木を起こさなくてはならないが、ある日、自分が寝坊。
謝って怒られるのがイヤだったので、
「社長、30分前です」
といってごまかすとアントニオ猪木は、いつものように
「おお、悪い悪い」
といって起きてきた。
帰国後、代官山のアントニオ猪木のマンションを初めて訪問。
エレベーターで上がって扉が開くと直接部屋につながっていて、驚きながら中に入ると倍賞美津子がイスの上でアグラをかいて座っていて、再び驚き、
「ご苦労さま」
といわれ、
(かっこいい!)
と感動。
その後、倍賞美津子が道場に来たとき、練習を見学していた子供たちに
「あのオバちゃん知ってるか?
すごい人なんだぞ」
というと、すかさず
「オバちゃんじゃないでしょ」
と怒られた。

1984年9月、UWFに続き、長州力、アニマル浜口、小林邦昭、寺西勇、キラーカーンなど12選手が新日本プロレスを離脱。
新団体「ジャパンプロレス」をつくり、ジャイアント馬場の全日本プロレスと業務提携を結び、そのリングに上がった。
一気に選手数を落とした新日本プロレスは、箱根で強化合宿。
山田恵一は、
「これからどうなっていくんだろうって思いはあったかもしれないですけど、やっぱり上の選手が抜ければ下はチャンスが巡ってきますから」
と前向きな気持ちで練習。
1985年3月、第1回ヤングライオン杯が開催。
小林俊二、後藤達俊、佐藤直喜、武藤敬司、畑浩和、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝と総当たり戦を行い、準優勝。
(優勝は小林俊二)

半年後の1985年9月、第1次UWFが活動を停止。
12月、新日本プロレスとUWFが業務提携。
リングでは、新日本プロレス vs UWFの抗争が開始。
山田恵一は、前田日明や高田延彦、特に藤原喜明が戻って来たことがうれしかった。
1度出ていったUWFに対して新日本プロレスには微妙な空気が漂っていたが
「関係ねえ」
とばかりにUWF道場を訪ね、練習に参加。
久しぶりに藤原教室で汗をかき、前田日明にスパーリングで押さえ込まれ、耳元で
「ハチベエ、あんまり調子に乗るな」
といわれた。
そしてUWFとの5対5マッチやアントニオ猪木とタッグを組んでUWF勢と戦った。

隔月刊マンガ雑誌「ジャストコミック」で山田恵一をモデルに古舘一郎監修、国友やすゆき作によるマンガ「スープレックス山田くん」が連載開始始。
「デビューして1年以上経って、自分の体の小ささをコンプレックスじゃなく、個性として捉えるよになってた頃。
白い中に1つ黒い点があれば目立つわけで、なんだ、あの動き回ってる小っちゃいのは?って思われるように心がけて、オリジナルのあすなろスープレックスを編み出したり、ダイナマイト・キッドみたいにダイナマイトヘッドバットをやったり・・・
コンプレックスや弱点を武器にできると強いですよ」
ちなみに「あすなろスープレックス」は、前かがみになった相手を抱えて、投げる技である。

1986年3月、山田恵一は順調にキャリアを積み、第2回ヤングライオン杯で初優勝。
4月、前座で橋本真と対戦し、蹴られてサンドバッグのようになりながらもアキレス腱固め、バックドロップ。
そしてタイガーマスクのように体からぶつかるきれいなフライング・クロス・アタック。
自分より30kg重い橋本真也を持ち上げてパイルドライバー。
さらにコーナーに上ってダイナマイト・キッドのようなダイビング・ヘッドバットを決め、13分45秒、3カウントを奪った。
1986年5月、新日本プロレス vs UWFの5対5の勝ち抜き戦が行われた。
UWFは、

先鋒 高田伸彦
次鋒 山崎一夫
中堅 木戸修
副将 藤原喜明
大将 前田日明。

新日本は、

先鋒 山田恵一
次鋒 坂口征二
中堅 越中詩郎
副将 木村健吾
大将 藤波辰巳。

先鋒の山田恵一は、高田伸彦と対戦。
ゴングが鳴ると、いきなり左ハイキックを食らってダウン。
その後、高田伸彦の腕十字固め、下から三角絞め、上からのアームロックにもUWFスタイルで対応。
そしてスープレックス、顔面踏みつけ、ボディスラム、ギロチンドロップなどプロレス殺法で攻め、最後は、後ろ回し蹴りでダウンし、アキレス腱固めを極められ ギブアップした。

3ヵ月後の8月、初代タイガーマスクであるマーク・ロコが新日本プロレスに
「アイツを連れていきたい」
といったのがきっかけでイギリスに遠征。
「イギリスといえば、キャッレスリングの本場だし、佐山(聡)さんや前田(日明)さんも遠征されていたという部分で興味もあったので渡りに船でした」
リヴァプールのマーク・ロコの家に下宿し、週に数回ある試合の日は、ASW(オールスターレスリングプロモーション)の代表、ブライアン・ディクソンが車に迎えに来て、レスラーでギュウギュウ詰めの状態で試合会場へ。
試合はロンドンで行われることが多く、リヴァプールからは片道3時間かかった。
「フライング・フジ・ヤマダ」の名前でリングに上がり、試合後はレストランに入って6人前のフィッシュ&チップにビネガーをたっぷりかけて食べ、帰宅するのは真夜中。
山田恵一は、アメリカ流のパワフルな派手なプロレスではなく、テクニック重視のイギリスのプロレスにカルチャーショックを受けながら技を磨いた。
フライング・フジ・ヤマダは、ベビーフェイスとして人気を獲得し、マーク・ロコが持っていた世界ミドル級王座を奪取。
「自分にとっては初のベルトだったし、私生活でもプロレスでもロコさんには本当にお世話になりました」

1987年5月、イギリス遠征後、カナダのカルガリーへ。
ステイ先の安達勝治(元プロレスラー、ミスター・ヒト)の家に着くと後輩の笹崎伸司、森村方則、馳浩がいたので
「お疲れ様でございます。
ご無沙汰しております」
と挨拶し
「やめてくださいよ」
「なんで敬語なんですか」
と気を使わせた。
自分以外後輩という状況にヤンチャとイタズラを繰り返し、ある日、試合で脚を痛めたフリをして周りに雑用をさせてサボり、作業が終わった後で
「うっそピョーン」
と告白。
それを安達勝治の奥さんにみられ、
「いい加減にしなさい!」
と叱られた。
安達勝治が運転する車の中でもよおしてきて、
(オシッコしたいな)
と思ったが
でも停まってもらうのは悪いな)
と空の紙コップの中に出した。
するとお尻が温くなってきて、みてみると紙コップに穴が空いていて、座席がベチョべチョ。
「ウワッ!」
とあわててコップを窓の外に投げたが、窓枠に当たって跳ね返り、笹崎伸司の顔にかかった。
練習で頭を強打し、開頭手術を受けた森村方則の見舞いに行き、頭からチューブが出ていたので引っ張って遊んでいたが、その後、試合でパイルドライバーを受け、首を痛め、1ヵ月ほどリングに上がれなかった。
全日本女子プロレスからデビル雅美や小松美加がやってきたので、朝食のときに屁をこいた。
しかし変な感じがしたので部屋に戻ろうと立ち上がるとデビル雅美に
「山田さん、漏れてる、漏れてる」
といわれた。
元国語教師で、後に国会議員、そして大臣にもなる、いつも冷静な後輩、馳浩は、それを笑ってみていた。

1987年8月、11ヵ月間の海外遠征を終えて日本に戻ったとき、山田恵一はロン毛になっていた。
「海外で散髪屋でなんてオーダーしていいのかわからなくて・・・
最初は自分で切ってたんですけど、そのうち放っておいたらドンドン伸びて・・・」
1987年8月21、22日、「サマーナイトフィーバー・イン・国技館」が両国国技館で行われ、その中の「IWGPジュニアヘビー級王者決定トーナメント」1回戦が凱旋ファイトとなったが、高田延彦に敗北。
翌日、船木(誠勝)を相棒にしたタッグマッチで、初めてシューティングスタープレスを出した。
それはコーナー上からリングのに寝ている相手に向かって跳び、体を回転させながらのボディープレス。
その名の通り、流れ星のように美しい技に会場はどよめいた。
「あれは初日で出すべきでしたね!」

1987年10月19日、アントニオ猪木のタッグパートナーという大役がやってきた。
きっかけは4ヵ月前の6月12日、山田恵一がカナダにいたときに起こった事件。
新日本プロレス両国大会のIWGP決勝戦、アントニオ猪木vsマサ斎藤は、14分53秒、バックドロップを切り返して体固めでアントニオ猪木が勝利。
その直後に大事件が発生!
1ヵ月前に新日本プロレスに復帰し、マサ斎藤のセコンドについていた長州力がリングに上がってマイクで
「藤波、オレは自分たちの時代をつくるために3年間、叫んできたんだぞ!
藤波、前田、噛みつかないのか!? 
今しかないぞ、オレたちがやるのは!」
とアピール。
解説者として放送席にいた藤波辰巳、前田日明はリングに上がった。
アントニオ猪木猪木は
「テメーら、いいか。
その気で来るなら、俺は受けてやる。
テメーらの力で勝ち取ってみろ!
コノヤロー」
と応戦。
前田日明は、
「ゴチャゴチャいわんと誰が1番強いか決まるまでやればいいんだよ.
決まるまで!」
藤波辰巳は、
「やるぞ‼!」
と絶叫。
新日本プロレス、UWF、長州力の維新軍の団体間のイデオロギーの戦いに加え、世代交代の闘争が勃発。
この後、アントニオ猪木は右肩剥離骨折を負って欠場。
復帰戦でタッグマッチを希望し、相手に藤波辰巳&長州力を指名。
自らのパートナーは「X」としていて明かさなかった。
そして試合当日、藤波辰巳と長州力がリングインした後、アントニオ猪木が謎のパートナーを従え入場。
若手が壁をつくり、アントニオ猪木の後ろに隠れるように入場したのが山田恵一だった。
山田恵一は、あまりに場違いな人事に藤波辰巳に指を刺されたが、試合が始まると長州力に張り手を見舞うなどイケイケで攻めた。
しかし藤波辰巳が羽交い締めにされながら、長州力のリキラリアートを食らい、73秒でフォール負け。
さらにリングの上に寝ているとアントニオ猪木に足蹴にされ、場外に排除された。

山田恵一は、その後、手応えを感じることができない試合が続き
「俺、何やってるんだろう」
と日々、悩み、周りからも
「海外遠征行く前のほうが良かった」
といわれ、完全にスランプ状態。
これを打開するために「骨法」を習い始めた。
1年前、イギリス遠征に出る前にアントニオ猪木 vs ボクシングの元ヘビー級チャンピオン、レオン・スピンクスの異種格闘技戦が行われ、アントニオ猪木は、その備えのために骨法の道場で練習した。
それに武藤敬司と船木誠勝も同行し、武藤はすぐにやめたが、船木は道場通いを継続していた。

山田恵一は船木誠勝に
「一緒にやりましょうよ」
と誘われ、
「俺は手足が短いし、関節も硬くて可動域も狭いから向いてないよ」
と断ったが
「いや関係ないですよ。
日本人の体型に合った格闘技なんで」
といわれ、試しにいってみたところ、
「面白い!」
と思った。
世田谷の多摩川沿いにある野毛道場で合同練習とチャンコが終わると、原付バイクでに乗って東中野の骨法道場にいき、2時間練習。
その後、隣のラーメン屋でラーメン&チャーハンを食べ、19~21時まで骨法の道場生と一緒にし、さらに22時まで自主練。
掌底打ちや浴びせ蹴りを習得した。
「プロレスは顔面へのパンチは反則ですけど、掌底だったらOKだし、浴びせ蹴りや竜巻蹴りも脚の長さは関係ないし、プロレスに取り入れられそうだなと。
骨法のセンスは船木の方がありましたけど、僕もかなり通い詰めました。
嫁の実家の福岡に引っ越すまで続けてたんで、5、6年は出稽古いってたかな。
シリーズオフのときは、寮からバイクで40分くらいかけて東中野の骨法の道場にいって、マンツーマン以外にも一般の会員さんに混じって合同練習に参加して」
海外遠征から帰って4ヵ月後、1987年12月、両国国技館で船木誠勝と対戦。
骨法の技術をぶつけ合って、最後はイギリス仕込みの技術で押さえ込んで勝利。
ファンや関係者に
「いい試合だった」
と評価された。

1987年11月、タッグマッチ中にサソリ固めを決めた長州力の顔面を前田日明が蹴るという事件が起こった。
長州力は眼窩底骨折という重症
1988年2月1日、新日本プロレスは前田日明を解雇。
4月8日、前田日明が第2次UWFので設立記者会見。
山田恵一は、目標だった高田延彦がUWFへ戻っていくと心のポッカリ穴が空いた。
UWFに対して
「道場でやってること」
それに対してプロレスは
「たくさんのお客さんに楽しんでもらうために道場で磨いた技術+アルファのものがあってこそ」
と考えていた。
5月8日、第2次UWF旗揚げ戦の4日前、山田恵一は、有明コロシアでキックボクサーのドン・中矢・ニールセンと異種格闘技戦。、
関節技で勝機を見出そうとしたがキックのラッシュを受けて立ち上がることができずTKO負けした。
「ニールセンは、前田さんがすごい試合をやって勝ってましたし、このときは会社から「やってみるか?」っていわれて「ぜひやりたいです」って。
骨法を含めて自分の腕がどれほど通用するか試したかったのもあるし、なによりUWFにも世間にもバカにされたくないっていう気持ちが大きかったんです。
プロレスが1番スゴイっていうのを信じてやってましたから、絶対に勝たなきゃっていう気持ちでしたけど、厳しい戦いになりました。
タックルで倒すまではいくんんですけど、ロープブレイクありのルールなんで逃げられちゃって。
何度目かのタックルを仕掛けたとき、カウンターで後ろ回し蹴りを食らって、ヤバイって」

1988年12月、山田恵一は、ドイツでスティーブ・ライトが持つCWAミドルヘビー級のタイトルに挑戦。
忍者のコスチュームでリングに上がり、セコンドにはドイツ遠征中の船木誠勝がついたが、ヨーロピアン・スタイルの洗練されたレスリング技術と、軽業師を思わせるアクロバティックな動きを武器に、初代タイガーマスクらと好試合を展開したスティーブ・ライトに敗北。
一旦、日本に戻って越中四郎が持つIWGPジュニアヘビー級のタイトルに挑戦し、ドラゴンスープレックスで敗北。
1989年1月、再度イギリスへ遠征し、船木誠勝と合流。
住まいは、リバプールにあるクロンダ・ケイツという女子プロレスラーの家。
山田恵一と船木誠勝は、同じ部屋で暮らし、2人でリバプールのゴールドジムと3ヵ月間契約。
朝、プロテインを飲み、ゴールドジムに行ってトレーニング。
その後、食事は自炊もしたが、チャイニーズフードかインディアンフードかケバブかフィッシュ&チップスで腹を満たしたりと、若者らしい自由な生活を送った。

初めて相部屋となった船木誠勝は、山田恵一が毎夜、寝る前に必ず、
「かわいいね」
「なんでそんなにかわいいの」
「お休み」
などといいながら当時の彼女で現在の奥さんの写真にキスをするのを目撃。
「隣で寝てるにに何でこんなことするのかなって・・・
本当にうっとうしかったですね」
山田恵一にとって2度目のイギリス。
「フライング・フジ・ヤマダ」の復帰に会場のファンは喜んだ。
「でも棒は日本でもイギリスでも子供とお年寄りのファンばっかりで、船木のほうが断然モテました」
ある夜、山田恵とは船木誠勝はタッグを組んだ。
相手の体の大きなレスラーは、体の小さいな山田恵一とまともに勝負せず、技をちゃんと受けようとしない。
ナメた態度にキレた山田恵一は、関節技で締め上げ、ギブアップを奪った上、髪の毛を引っ張って控室につれていき、暴力と罵詈雑言を浴びせて威嚇。
「技を受けてナンボだろうが‼
「殺すぞ‼」
通訳するようにいわれた船木誠勝は、
「英語なんですけど、生まれた初めて人に対して殺すぞっていいました」

ゴールドジムにはブルース・リーの写真とボディビルダーの写真が飾ってあり、船木誠勝は
「自分はこういう実戦的な体になりたいです」
といってブルース・リーを指し、山田恵一は
「エッ、俺はこっちの方がいい」
とボディビルダーをチョイス。
仲の良い2人だが、理想には違いがあった。
イギリス遠征中、船木誠勝はUEF移籍を決意。
山田恵一は
「UWFに移籍しようと思ってるんです」
といわれ、
「そうか。
頑張ってな」
と返した。
船木誠勝がUWFに行くことについて、
「そこはお互いプロのレスラーとしてリングで何を追求し、表現していくかという話ですから、別に僕がどうこういうことでもないし、ケンカ別れしたわけでもないし、そもそも選手の退団にも慣れっこなんで」

山田恵一に告白した後、船木誠勝はプロレス誌の取材を受け、
「イギリスから日本に帰ったら新日本プロレスに戻らずにUWFに行きます」
と明言。
それはすぐにプロレス誌の表紙となって伝えられた。
新日本プロレスは、すぐに船木誠勝に電話をして叱責。
しかし船木誠勝の意志は固く、イギリスに新日本プロレスの幹部、坂口泰司を派遣。
船木誠勝を説得し、東京ドームで船木誠勝が大好きなジャッキー・チェンと対戦させるというプランを提示した。
「なんで映画俳優と戦わないといけないんですか」
と腹を立てながら船木誠勝に、山田恵一は
「たしかにすごいけど、俳優だもんな」
と話を合わせつつ、心の中では
(面白いやん)
と思っていた。

一方、新日本プロレスは、船木誠勝か武藤敬司に「獣神ライガー」というマスクマンとしてデビューさせるつもりだった。
しかし船木誠勝は会社を辞めてUWFにいってしまったので、イギリスにいる山田恵一に
「今度、東京ドームで獣神ライガーっていうマスクマンをデビューさせるんだけど、やるつもりあるか?」
と打診。
子供の頃からミル・マスカラスやドス・カラスに憧れ、アスクを収集していた山田恵一は、二つ返事で引き受けた。
こうして山田恵一と船木誠勝は、イギリスを境に別の道を歩き始めた。

帰国後、タイガーマスクのようなマスクとロングタイツを想像していた山田恵一は、会社でコスチュームをみて
「エッ、全身?」
と驚いた。
さに全身タイツにはいろいろなものがつていて
「これで試合できるのかな?」
ととまどった。
「獣神ライガー」は、永井豪原作のマンガ&アニメ。
1989年3月から「コミックボンボン」に連載され、同時期にテレビ朝日系で毎週土曜日17:30〜18:00にアニメ放映。
さらに新日本プロレスのリングに登場させるというタイアップ企画だった。
山田恵一がアニメをチェックすると、ライガーはタイガーマスクのような人間ではなく、ウルトラマンのように大きく、さらにプロレス技ではなくソードや光線で敵を攻撃していた。
かつて初代タイガーマスク(佐山聡)は、空前のプロレスブームのきっかけとなったが、状況はかなり異なり
「俺は俺で行こう」
と腹をくくった。
そしてコスチュームを着て練習していると、
「暑くない?」
「動けるの?」
と心配され、橋本真也には
「アニメのスラッとしたライガーがガキンチョになったみたいだな」
といわれた。

1989年4月、永井豪にところにいき、、
「ライガーをやらせてもらいます」
とあいさつし、
「がんばってください」
といわれた。
この模様を取材していたプロレス誌の記者に
「山田はどうした?」
と聞かれ、ライガーは
「ヤマダは死んだ。リヴァプールの風になった」
と答えた。
こうして渡英していた新日本プロレスの若手レスラー、山田恵は、1989年春、リバプールで消息を絶ち、獣神ライガー(後に獣神サンダー・ライガー)が誕生した。
プロレス詩は、素顔の山田恵一と永井豪先生の2ショット写真を掲載。
タイガーマスクのイメージを守るために結婚式を挙げることも許されなった佐山聡と大違い、まったく正体を隠すつもりはなかった。

1989年4月24日、東京ドームで獣神ライガーのデビュー戦が行わた。
相手はタイガーマスク(佐山聡)の掟破りのマスク剥がしを行って「虎ハンター」と恐れられた小林邦昭。
山田恵一は途中、マスクをはぎにきた小林邦昭に自らマスクをめくってツバを吐きかけ、後で怒られ、イベント後の打ち上げでは、アントニオ猪木に
「これからライガーとしてがんばっていきます」
といって挨拶。
デビューから1ヵ月後の1989年5月25日、大阪城ホールで馳浩を下し、IWGPジュニアヘビー級のタイトルを初戴冠。

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