1988年12月、山田恵一は、ドイツでスティーブ・ライトが持つCWAミドルヘビー級のタイトルに挑戦。
忍者のコスチュームでリングに上がり、セコンドにはドイツ遠征中の船木誠勝がついたが、ヨーロピアン・スタイルの洗練されたレスリング技術と、軽業師を思わせるアクロバティックな動きを武器に、初代タイガーマスクらと好試合を展開したスティーブ・ライトに敗北。
一旦、日本に戻って越中四郎が持つIWGPジュニアヘビー級のタイトルに挑戦し、ドラゴンスープレックスで敗北。
1989年1月、再度イギリスへ遠征し、船木誠勝と合流。
住まいは、リバプールにあるクロンダ・ケイツという女子プロレスラーの家。
山田恵一と船木誠勝は、同じ部屋で暮らし、2人でリバプールのゴールドジムと3ヵ月間契約。
朝、プロテインを飲み、ゴールドジムに行ってトレーニング。
その後、食事は自炊もしたが、チャイニーズフードかインディアンフードかケバブかフィッシュ&チップスで腹を満たしたりと、若者らしい自由な生活を送った。
初めて相部屋となった船木誠勝は、山田恵一が毎夜、寝る前に必ず、
「かわいいね」
「なんでそんなにかわいいの」
「お休み」
などといいながら当時の彼女で現在の奥さんの写真にキスをするのを目撃。
「隣で寝てるにに何でこんなことするのかなって・・・
本当にうっとうしかったですね」
山田恵一にとって2度目のイギリス。
「フライング・フジ・ヤマダ」の復帰に会場のファンは喜んだ。
「でも棒は日本でもイギリスでも子供とお年寄りのファンばっかりで、船木のほうが断然モテました」
ある夜、山田恵とは船木誠勝はタッグを組んだ。
相手の体の大きなレスラーは、体の小さいな山田恵一とまともに勝負せず、技をちゃんと受けようとしない。
ナメた態度にキレた山田恵一は、関節技で締め上げ、ギブアップを奪った上、髪の毛を引っ張って控室につれていき、暴力と罵詈雑言を浴びせて威嚇。
「技を受けてナンボだろうが‼
「殺すぞ‼」
通訳するようにいわれた船木誠勝は、
「英語なんですけど、生まれた初めて人に対して殺すぞっていいました」
ゴールドジムにはブルース・リーの写真とボディビルダーの写真が飾ってあり、船木誠勝は
「自分はこういう実戦的な体になりたいです」
といってブルース・リーを指し、山田恵一は
「エッ、俺はこっちの方がいい」
とボディビルダーをチョイス。
仲の良い2人だが、理想には違いがあった。
イギリス遠征中、船木誠勝はUEF移籍を決意。
山田恵一は
「UWFに移籍しようと思ってるんです」
といわれ、
「そうか。
頑張ってな」
と返した。
船木誠勝がUWFに行くことについて、
「そこはお互いプロのレスラーとしてリングで何を追求し、表現していくかという話ですから、別に僕がどうこういうことでもないし、ケンカ別れしたわけでもないし、そもそも選手の退団にも慣れっこなんで」
山田恵一に告白した後、船木誠勝はプロレス誌の取材を受け、
「イギリスから日本に帰ったら新日本プロレスに戻らずにUWFに行きます」
と明言。
それはすぐにプロレス誌の表紙となって伝えられた。
新日本プロレスは、すぐに船木誠勝に電話をして叱責。
しかし船木誠勝の意志は固く、イギリスに新日本プロレスの幹部、坂口泰司を派遣。
船木誠勝を説得し、東京ドームで船木誠勝が大好きなジャッキー・チェンと対戦させるというプランを提示した。
「なんで映画俳優と戦わないといけないんですか」
と腹を立てながら船木誠勝に、山田恵一は
「たしかにすごいけど、俳優だもんな」
と話を合わせつつ、心の中では
(面白いやん)
と思っていた。
一方、新日本プロレスは、船木誠勝か武藤敬司に「獣神ライガー」というマスクマンとしてデビューさせるつもりだった。
しかし船木誠勝は会社を辞めてUWFにいってしまったので、イギリスにいる山田恵一に
「今度、東京ドームで獣神ライガーっていうマスクマンをデビューさせるんだけど、やるつもりあるか?」
と打診。
子供の頃からミル・マスカラスやドス・カラスに憧れ、アスクを収集していた山田恵一は、二つ返事で引き受けた。
こうして山田恵一と船木誠勝は、イギリスを境に別の道を歩き始めた。
帰国後、タイガーマスクのようなマスクとロングタイツを想像していた山田恵一は、会社でコスチュームをみて
「エッ、全身?」
と驚いた。
さに全身タイツにはいろいろなものがつていて
「これで試合できるのかな?」
ととまどった。
「獣神ライガー」は、永井豪原作のマンガ&アニメ。
1989年3月から「コミックボンボン」に連載され、同時期にテレビ朝日系で毎週土曜日17:30〜18:00にアニメ放映。
さらに新日本プロレスのリングに登場させるというタイアップ企画だった。
山田恵一がアニメをチェックすると、ライガーはタイガーマスクのような人間ではなく、ウルトラマンのように大きく、さらにプロレス技ではなくソードや光線で敵を攻撃していた。
かつて初代タイガーマスク(佐山聡)は、空前のプロレスブームのきっかけとなったが、状況はかなり異なり
「俺は俺で行こう」
と腹をくくった。
そしてコスチュームを着て練習していると、
「暑くない?」
「動けるの?」
と心配され、橋本真也には
「アニメのスラッとしたライガーがガキンチョになったみたいだな」
といわれた。
1989年4月、永井豪にところにいき、、
「ライガーをやらせてもらいます」
とあいさつし、
「がんばってください」
といわれた。
この模様を取材していたプロレス誌の記者に
「山田はどうした?」
と聞かれ、ライガーは
「ヤマダは死んだ。リヴァプールの風になった」
と答えた。
こうして渡英していた新日本プロレスの若手レスラー、山田恵は、1989年春、リバプールで消息を絶ち、獣神ライガー(後に獣神サンダー・ライガー)が誕生した。
プロレス詩は、素顔の山田恵一と永井豪先生の2ショット写真を掲載。
タイガーマスクのイメージを守るために結婚式を挙げることも許されなった佐山聡と大違い、まったく正体を隠すつもりはなかった。
1989年4月24日、東京ドームで獣神ライガーのデビュー戦が行わた。
相手はタイガーマスク(佐山聡)の掟破りのマスク剥がしを行って「虎ハンター」と恐れられた小林邦昭。
山田恵一は途中、マスクをはぎにきた小林邦昭に自らマスクをめくってツバを吐きかけ、後で怒られ、イベント後の打ち上げでは、アントニオ猪木に
「これからライガーとしてがんばっていきます」
といって挨拶。
デビューから1ヵ月後の1989年5月25日、大阪城ホールで馳浩を下し、IWGPジュニアヘビー級のタイトルを初戴冠。