獣神サンダー・ライガーこと山田 恵一は、1964年11月10日、広島県広島市で誕生。
バンドマンだった父親が大阪のクラブを周っていたとき、店で働いていた母親が一目惚れ。
広島にいた父親のところに押しかけて結婚。
山田恵一が生まれたとき、父親は肉体労働をしていたが、小学校2年生のときに離婚。
大阪の実家に戻りづらかった母親は、近くに住み続け、山田恵一は両親の間を自由に行き来。
その後、母親は2度再婚したので山田恵一には3人の父親がいる。
「家庭環境は複雑でも、まったくジメッとしてなくて、カラッとした感じでしたね。
父ちゃんがいっぱいいるのもええやんって。
弟は、今は真面目に勤め人になってますけど、昔は暴走族をしていて、警察のお世話になって、よく母親が迎えに行ってましたよ。
母親も警察に友達が随分いるっていってました」
小学校6年生のとき、園芸部だった山田恵一は、本屋に植物の本を買いにいき、棚にささっていたプロレス誌「別冊ゴング」の表紙に目を奪われた。
それは筋骨隆々の藤波辰巳で、
「かっこいい」
と一気に引き込まれてしまった。
以後、プロレス誌を買い漁り、テレビ中継も無我夢中で観戦した。
「テレビ中継はゴールデンタイムで、雑誌も「月刊プロレス」や「月刊ゴング」の他に「月刊ビッグレスラー」や「デラックスプロレス」があって、お小遣いも全然足りなくて・・・」
(山田恵一)
それまで将来の夢は、
「動物園の飼育員とか農業関係の職につきたい」
だったが、
「これしかない‼」
とプロレスラーになることを決めた。
ジャイアント馬場率いる全日本プロレスとアントニオ猪木の新日本プロレスという2団体がしのぎを削っていたが、山田恵一は、どこか殺伐とした新日本プロレスに憧れ、憧れのヒーローは
「強者。
特にアントニオ猪木とゴジラ」
だった。
アントニオ猪木、本名:猪木寛至は、神奈川県横浜市鶴見区生まれ。
家は石炭問屋を営み、110坪もあるお屋敷だったが、中学生になると時代の流れは手間がかかる石炭から石油へと移行し、徐々の困窮。
最終的に石炭問屋を廃業することになり、砲丸投げに夢中で、中学校には砲丸を投げるために通っていたアントニオ猪木は、家族と共にブラジルへ移住。
ブラジルに着いた翌日の朝の5時からラッパの音で起こされて働かされ、1年半という契約期間中、週6日、5~17時までコーヒー園、綿花、落花生と季節ごとに現場を変えながら労働。
契約期間が終わると昼間はサンパウロの高校に通って砲丸投げの練習をし、夜は青果市場で働くという生活が始まり、16歳のとき、砲丸投げでブラジルの全国大会で優勝。
このとき力道山率いる日本プロレスがサンパウロ興業に来ていて、力道山は猪木の活躍を新聞で知り、興味を持った。
日本プロレスの招聘に携わっていた青果市場の市場長は、それを知ってアントニオ猪木を力道山のいるホテルに連れていった。
力道山はいきなり、
「裸になれ」
といい、その肉体に納得すると
「よし、日本へ行くぞ」
猪木の家族には
「3年でモノにしてみます」
といって、アントニオ猪木を日本に連れて帰った。
それから猪木は、日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングと力道山の付き人の仕事が始まった。
日本プロレスの練習は半端なものではなく、
「常人では成しえないことを成すのがプロレスラー」
が信念の力道山は、なにかあれば容赦なく竹刀で殴った。
朝から夜まで付き人としてついていく猪木は、リングシューズを履かせていると
「違う」
と蹴飛ばされたり、飼い犬を番犬として育てるための実験台にされたり、ゴルフクラブで側頭部を殴打されたり、走っている車から突き落とされたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせられたり、
「声を出すなよ」
といわれた後、アイスピックで刺されたり、素人に殴られたりした。
ジャイアント馬場は、猪木がブラジルから帰ってきた直後に日本プロレスに入門。
209cm、135kgのジャイアント馬場は、猪木より5歳上の22歳。
高校の野球部でエースと4番を務め、1試合18脱三振を記録。
高校を2年生で中退し、大卒初任給が1万6千円の時代に支度金20万円、初任給1万2千円の条件で巨人に入団し、史上最年少、16歳のプロ野球選手となった。
5シーズン、巨人に在籍し、チームメイトには長嶋茂雄、王貞治もいたが、1軍登板は3試合のみ。
大洋ホエールズに移籍が決まり、準備を進めていたときに風呂場で転倒し、体ごとガラス戸に突っ込み、左肘に17針を縫い、左手の指が伸びない状態が続き、プロ野球選手の道を断念。
スポーツを続けたいという一心でボクシングジムでトレーニング。
そしてブラジルから帰国した力道山に入門を直訴。
ヒンズースクワット100回を命じられ、難なくこなし、その場で入門が決定。
しかも力動さんは、通常、練習生には支払われない給料を、ジャイアント馬場だけ月5万円、支給。
待遇面で雲泥の差のあったが、猪木と馬場は床に汗溜りをつくりながらスクワット。
入門して5ヵ月後、2人は同じ日にデビュー戦を行い、ジャイアント馬場は、田中米太郎に股裂きでギブアップ勝ちし、アントニオ猪木は、大木金太郎にギブアップ負け。
2人が入門して3年半後、力道山が死去。
アントニオ猪木は、付き人として3年半の仕事を終え、さらに3年後には、自分の団体「東京プロレス」を旗揚げ。
しかし3ヵ月で破産し、日本プロレスに戻った。
アントニオ猪木は、ジャイアント馬場をタッグを組み、日本プロレスの看板コンビとして活躍。
さらにシングルでも大きなタイトルを獲得し、団体ナンバー2に。
しかし会社の経理の問題を追及したり、(力道山の生前、16戦16敗という)ジャイアント馬場との直接対決を要求したが認められないなど、日本プロレスとの間に確執が生まれた。
そんな状態で倍賞美津子と結婚。
京王プラザホテルで結婚披露宴は1億円と話題になったが、その1ヵ月後、日本プロレスは、アントニオ猪木の除名を発表。
その記者会見の後、代官山の日本プロレス事務所ではビールで乾杯が行われた。
「迷わず行けよ」
と行動主義のアントニオ猪木は、すぐさま「新日本プロレス」を旗揚げ。
それは
1971年11月、結婚
12月、日本プロレス追放
1972年1月、「新日本プロレス」を会社登記
3月、旗揚げ戦
という異例のスピードで行われた。
練習第一の猪木が1番最初に行ったのは、道場の建設。
世田谷区野毛、多摩川沿いの倍賞美津子との新居となるはずだった一戸建てを改造し、庭を潰して道場を建て、家の2階部分を増築して寮をつくった。
練習生を募集したものの、あまりの厳しさに全員が逃げ出してしまい、旗揚げ戦を行ったとき、アントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人。
「燃える闘魂」
は決してダテではなく、アントニオ猪木は、誰よりも練習した。
所属レスラー全員に毎朝10時から、合同練習を課し、まず30分ぐらい走った後、全員がリングの周囲を囲んでスクワット、腕立て伏せ、縄跳びなどのトレーニングを1時間半から2時間行うが、夏は40度を超えて汗だまりができた。
次はリングの上でストレッチ、腹筋、ブリッジ、受け身、タックル、ロープワークなど基本技術。
それが終わるとスパーリングとなる。
たくさんの人間がリングでひしめくため、自然と寝技多くなった。
それは関節技あり、締め技あり、フォールなしのサブミッションレスリングで、道場ではスパーリングと呼ばず、
「セメント」
あるいは
「ガチ」
「ガチンコ」
などと呼んだ。
3、4時間練習し、14~15時で終わると、その後に食事。
そのためにチャンコ番は早めに練習を終える。
試合で遠征中も必ず合同練習は行われ、朝は晴れていればランニング、雨なら風呂場でスクワット。
午後も試合が始まる30分前まで試合用のリングでスパーリングや会場でトレーニングをしてから客を入れた。
あるとき3週間休みなしで巡業が続き、後半、みんな疲れて合同練習に参加しなくなったが、アントニオ猪木は1人で黙々とスクワット。
そして所属レスラーを呼んで、リングの周りに並べ
「やる気がないなら帰れ」
といって全員を殴った。
プロレスには台本があり、勝敗は事前に決まっていて、プロレスラーの目的は勝利ではなく観客を興奮させ、楽しませること。
だからプロレスラーは、パイルドライバー、バックドロップ、ボディスラム、4の字固めなど技のかけ方、受け方を練習する。
一見派手なパンチやキックも攻める側は急所を避け、受ける側は、逃げることなく受ける。
しかし新日本プロレスでは、そういった技のかけや受けの練習をほとんどせず、基本的にトレーニングとセメントだけ。
試合はケツ(最後の勝敗)は決まっていたが、試合中はすべてアドリブでセメント(真剣勝負)も行った。
「どんなに素晴らしい試合より街のケンカのほうがおもしろい」
というアントニオ猪木は、感情ムキ出しのファイト、気迫あふれる試合を推奨。
そして試合でセメントの要素がないと
「何やってるんだ!」
と怒った。
若手がリングで挑戦的なことをやったり、それを失敗しても責めないが、気合が入っていない試合をすれば怒り、試合中でも竹刀を持ってリングに上がって滅多打ちにすることもあった。
だから新日本プロレスのリングには、常に危険な香りが漂っていた。
新日本プロレスに夢中な山田恵一は、中学生になると体が大きくするために水泳部に入り、県の新人戦で優勝。
「少年ジャンプ」に載っていた「ぐんぐん伸びる ヨーガ伸長法!」という教材の通信販売の広告に申し込み、ブルーワーカーなどのトレーニング器具を購入。
プロレス誌に
「レスラーはスクワットを毎日3000回やる」
と書いてあるのをみて、少しずつ回数を増やしていき、数ヵ月後、3000回をこなせるようになった。
「もう自分の部屋の畳が汗で腐るくらいに(笑)」
勉強は全くダメで
「学校には給食と運動をするために行っていた」
という山田恵一は、デカくなった体でプロレスごっこ。
すぐに女の子を好きになり、すぐに告白し、すぐにフラれた。
中2のとき、初めてプロレスを生観戦。
このとき広島県立総合体育館まで1人で行ったが、その後、広島で行われる全日本プロレス、新日本プロレスの大会は、すべて会場で観戦。
広島市から40km離れた東広島市で行われた大会も自転車で観に行った。
中3の夏休み、東京の親せきの家に遊びにいき、
「会社でプロレスのチケットもらったんだけど観に行く?」
といわれ、日本武道館で行われた「プロレス夢のオールスター戦」を観戦。
売店でミル・マスカラスのマスクを買い、帰りの駅のトイレで一生懸命かぶろうとしたがミニチュアマスクだったために無理だった。
その後、雑誌の通信販売でマスクを買って収集するようになった。
中学校卒業後は新日本プロレスに入るつもりだったが、新日本プロレスのパンフレットに書かれていた入門規定の中に、
「身長 180cm以上」
とあり、165cm、70kgの山田恵一は、
「ダメだ。
とりあえずレスリングの基礎を身につけよう」
とレスリング部のある高校を探して受験。
面接で
「レスリングを3年間やり通します」
とアピール。
すると数日後、学校から
「本気でレスリングをやる気ある?」
と確認の電話がかかってきて、
「絶対にやります」
と即答。
すると高偏差値の広島大学付属高校に合格。
「おそらく筆記試験的には落ちていたけど部員確保で入れてもらえたんでしょうね」
中学は、給食と運動をするために通っていたが、高校になるとさらに磨きがかかり、死に物狂いでプロレスラーを目指した。
朝5時に起き、新聞配達をし、約1時間かけて自転車で登校。
授業中は寝て、レスリング部で練習した後、帰りに広島トレーニングセンターに寄ってウエイトトレーニング。
「プロテイン代やトレーニングジムの月謝を考えたらバイトも休むわけにいかない!」
男子校なので女性と接触するのは学食のオバちゃんのみ。
高2のとき、徳島県で行われたレスリングの大会で、川田利明と対戦。
川田利明は1つ上の高校3年生。
中学校卒業後、新日本プロレスのテストに合格したが、『高校を卒業してから』といわれて入門が先送りとなり、レスリングの強豪、足利工業大学附属高校に一般入試で合格した。
この試合で、山田 恵一は判定負けし、川田利明は、そのまま優勝。
しかし大会後、山田恵一は、
「無名の年下に手こずりやがって」
と監督に怒られる川田利明を目撃した。
川田利明は、高校在学中に、インターハイ準優勝、国体優勝という成績を残し、高校卒業後、新日本プロレスではなく全日本プロレスに入門。
山田 恵一もインターハイ出場を果たした。
170cmに満たない山田恵一は、新日本プロレスの入門規定、
「身長 180cm以上」
をみながら、
「どうにかしてレスラーになれないかな?」
と悩んでいたが、プロレス誌でマッハ隼人(国際プロレス、UWFで活躍)の記事を発見。
そこには新日本プロレスの入門テストを落ちた後、メキシコに渡って現地でレスラーになり、逆輸入レスラーとして日本に戻ってきたというマッハ隼人のストーリーが書かれてあった。
「こういう手があるんだ!」
まったく勉強をしてこなかった山田恵一は、NHKのスペイン語講座を観るようになり、いくつかの大学からレスリング推薦の話が来ていたが
「メキシコでプロレスラーになります」
といって断った。
車の運転免許を取ってから、格安チケットを手配しようと旅行会社「メキシコ観光」へ。
担当者に旅の目的を伝えると現地駐在員の「長島さん」を紹介してもらった。
そしてメキシコでは
「今、嫁が出産で日本に帰っているから」
といわれ、長嶋さんの家にステイ。
そこからルチャリブレの学校に通うようになった。
ルチャリブレは、メキシコの伝統的なプロレススタイル。
日本の空手や柔道のように街にはルチャリブレを教える道場があって、誰でも習う事ができた。
「両国国技館くらいの階段を昇ったり降りたりして基礎体力トレーニングをこなしてから最後に受け身の練習をやって」
しばらしく道場で練習していると長島さんに
「麻雀仲間の知り合いに浜田さんっていう人がいて、プロレスラーらしいんだけど知ってる?」
といわれ、
「グラン浜田さんですよね?
もちろん知ってます」
と答えると
「じゃあ紹介するよ」
といわれ、グラン浜田と会うことになった。
グラン浜田は、新日本プロレス旗揚げ時のメンバーの1人。
軽量級ながら元柔道のオリンピック候補。
新日本プロレスの前座で「台風の目」といわれた後、メキシコに渡ってキレのいいファイトでブレイクし、タイトルも獲得。
数年後、帰国し、新日本プロレスのリングで活躍したが、メキシコで家族を持ったため、日本とメキシコを往復。
山田恵一がメキシコに来るきっかけとなったマッハ隼人よりも実績のある、メキシコの第1人者だった。
グラン浜田の家は、メキシコシティを東西に横断する大通り、パセオ・デ・ラ・レフォルマに面した高層アパートの15階にあり、よく麻雀大会が行われ、長島さんもそのメンバーだった。
名前の通り、幸運に恵まれてマンションを訪れた山田恵一は、グラン浜田にマス釣りに誘われる。
早起きして湖で一緒に釣り糸を垂らしていると
「いきなりこっちでやっていくのは無理だよ。
今度、新日本プロレスがテレビ撮りでメキシコに来るよ。
試合もするから解説で来る山本小鉄さんに紹介してやるよ。
お前は日本でやった方がいいよ」
といわれた。
その試合は、1983年6月12日、かつて闘牛場だったスタジアム、エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノスで開催され、タイガーマスクを含む、新日本プロレスのスターが出場。
山田恵一は、ドキドキしながら観戦。
そして試合後、グラン浜田から山本小鉄を紹介された。
山本小鉄は、新日本プロレスのライオンマークのエンブレムとキャッチフレーズ
「King of Sports(キング・オブ・スポーツ)」
の考案者。
新日本プロレスの道場の現場責任者として若手レスラーを指導する「鬼軍曹」と呼ばれ、アントニオ猪木から解説者になるように頼まれると真面目な山本小鉄は「話し方教室」に通い、
「これは危ないですよ」
「いまのはキツいですよ」
などとレスラー目線と独特の表現で試合を実況した。
ホテルのロビーで待っていた山田恵一をみて、山本小鉄は
「なにやってたの?」
「100m何秒で走れる?」
などと質問。
そして最後に、
「ウチはUWAと提携してるから、まずはそっちを紹介してやる。
今日は帰りなさい」
といった。
山田恵一は、
「はい」
と答えたものの、帰ってから悩み始めた。
日本同様、メキシコにも複数のプロレス団体があり、山田恵一は、「EMLL」という団体のルチャリブレ学校に通い、レオン・チノというコーチに習っていた。
山本小鉄がいった「UWA」と「EMLL」のライバル団体だったので、
「不義理をして(UWAに)移るわけにはいかない」
と思った。
翌日、山田恵一は、山本小鉄を訪ね、
「すみません。
せっかくのお話ですが、僕はEMLLにお世話になっているのでUWAに移ることはできません。
もし新日本プロレスに入門できないのであれば、僕はEMLLに残ります」
といった。
山本小鉄は少し考えた後、
「よし、わかった。
じゃあ日本に帰って新日本の道場に入りなさい」
{エッ、マジで?)
こうして体格が規定に達していないだけでなく、実技試験もナシで新日本プロレスに入門することが決定した。
「メキシコに行ってから新日本入が決まるまで、ほんの1ヵ月くらいのことだったんでラッキーの一言ですよ。
当時はネットもなくて情報も限られている中、行き当りバッタリで動いて、気づいたら新日本プロレスに入れられちゃったっていう。
しかもテスト無しで‼
裏口入学でしたね‼!」
帰国後、新日本プロレスに電話すると山本小鉄に
「話はつけてあるから」
といわれ、山田恵一は東京都世田谷区野毛1丁目3-22にある新日本プロレスの野毛道場へ。
道場の中からドタンバタンと音が聞こえ、扉を開けてみると初代タイガーマスク(佐山恥)が撮影を行っていた。
(ウワッ、タイガーマスクだ!)
と驚きながら
「すみません。
今日から合宿所でお世話になる山田という者です」
と挨拶。
するとタイガーマスク{佐山聡}は、
「うん?
寮はあっちだよ」
佐山聡は、山田恵一より背が低く170㎝もない。
小学生の頃からアントニオ猪木を崇拝し
「プロレスこそ真の格闘技」
「プロレスこそ最強の格闘技」
と信じ、毎月、プロレス雑誌の発売日には、山口県の日本海側にある家から瀬戸内海側にある本屋まで、自転車で片道1時間走った。
入門8ヵ月後、藤原喜明に
「プロレスはお互いが協力するショーだ」
と教えられ、天地がひっくり返るような衝撃を受ける。
しかし打・投・寝、すべてOKの最強の格闘技を目指し、極真空手の創成期のメンバーで「鬼の黒崎」といわれた黒崎健時が指導し
「キックでは1番強い」
と思っていた藤原敏男が所属する目白ジムの住所を調べて、入門。
新日本プロレスの練習が14~15時に終わった後、世田谷区野毛から巣鴨の目白ジムまで電車とバスを使って通った。
「猪木さんはいつになったら格闘技をやらせてくれるのだろう」
と思いながらプロレスと格闘技の練習を続け、20歳でメキシコ遠征を命じられ、ルチャリブレの難易度の高い空中殺法をマスター。
その後、イギリスに渡り、メキシコに続き、イギリスでもトップレスラーに。
イギリスに来て1年後、プロレスラーとしてロンドンで順調な生活を送っていると
「帰国して虎のマスクをかぶってくれ」
といわれた。
「タイガーマスク」は、1968年から少年マンガ雑誌で連載開始し、翌年にはテレビアニメ化された「巨人の星」「あしたのジョー」に並ぶ、梶原一騎の代表作。
1981年4月20日に「タイガーマスク2世」の放映が始まるのに合わせ、実物のタイガーマスクを新日本プロレスのリングに立たせるという構想は梶原一騎によるものだった。
マンガのヒーローをリアルストロングスタイルの新日本プロレスに登場させる意味がわからない佐山聡は、
「僕は帰れません」
と断ったが、
「君がマスクをかぶってくれないと社長の顔を潰すことになる」
と尊敬するアントニオ猪木の名前を出されると弱く、
「わかりました」
とアッサリ了承。
「1試合だけですよ」
と念を押して一時帰国することを受け入れ、タイガーマスクとしてダイナマイト・キッドと対戦。
新日本プロレスのセメントサブミッションレスリング、メキシコのルチェ・リブレ、目白ジム仕込みのキックが融合した4次元殺法」に観客は驚愕。
この10分間でスーパースターが誕生し、空前のタイガーマスクブームが到来することになり、
「1試合だけですよ」
という約束はすぐに反故にされてしまった。
タイガーマスクの指示で寮に向かった山田恵一は、入り口で、
「すみません」
と大声でいうと2階から小杉俊二が降りてきた。
1980年入門、3歳上の小林俊二は、同期の高田延彦に全勝している技巧派レスラー。
「ああ、新弟子だろ?」
といわれたが「新弟子」という言葉を知らない山田恵一は、
「いえ、山田という者なんですが・・・」
「だから新弟子だろ?」
「いえ、山田です。
山田恵一です」
小杉俊二は、少しキレ気味に
「今日から寮に入るんだろ?
上がれ!」
山田恵一は、
なんで怒ってんだろう?)
と思いながら
「はい」
と答えた。
「お前ェの部屋はここだから」
と2階の部屋に案内されると、18歳上の栗栖正伸と同部屋だった。
普段、大阪で暮らしている栗栖正伸は、試合があるときだけ合宿所で生活していた。
部屋に荷物を置くと小杉俊二に
「腹減ってるか?」
と聞かれ、
「はい」
と答え、初めてソップ炊き(鶏がらスープのちゃんこ鍋)を食べ、あまりのうまさに
(ナニコレ!)
と感動し、何杯もおかわりした。
小林俊二の他に合宿所で暮らしていたのは、
7歳上、寮長の新倉史祐
5歳上、ヨーロッパから帰ってきたばかりの前田日明
2歳上、高田伸彦
同年齢、大阪出身の畑浩和
同年齢、北海道出身の佐野巧真
だった。
このうち前田日明と高田伸彦は、新日本プロレスの本隊と一緒に地方に巡業中。
しかし少し経つと体調を崩した高田延彦が東京へ戻ってきた。
山田恵一が道場にいると、高田延彦が入ってきて
「おい、レスリングやろう」
といわれた。
レスリングには自信がある山田恵一は、スパーリングを行い、高田延彦からタックルでダウンもとったが、下から関節技を極めまくられ、
「高田さん!
レスリングで首を攻めるのは反則ですよ」
というと
「バカ!
プロがやるレスリングっていうのは関節を取り合うもんだ」
まったく関節技を知らない山田恵一は、何度も悲鳴を上げた。
30分後、立ち上がることができなくなった山田恵一に、高田延彦は
「お前、小さいんだからもっと強くならないとダメだぞ。
俺なんかよりはるかに強い藤原(喜明)さんっていう人がいるから、今度、教えてもらいな」
といった。
山田恵一は
「俺、続けていけるかな」
と不安を感じた。
やがて本隊も東京に戻ってきて、初めての合同練習を翌日に控え、山田恵一は、風呂場で新倉史祐に
「このくらいのスピードで大丈夫ですか?」
と素っ裸でスクワットをしながら質問。
「おう、十分だ」
といわれて安心した。
そして初めての合同練習で、坂口征二や藤浪辰巳など憧れの存在と一緒にトレーニングをして興奮。
このときアントニオ猪木はいなかったが、少し後、非常階段をすごいスピードで降りてくる音がしたのでみてみるとアントニオ猪木だった。
「おはようございます。
今度新しく入りました山田と申します。
よろしくお願いします」
と挨拶。
アントニオ猪木は、
「おお」
といいながら、まったく止まることなく行ってしまった。
山田恵一は額が広く、前に突き出ているため、最初、先輩たちに、
「デコッパチ」
と呼ばれた。
それがやがて
「ハチ」
となり、最終的に、
「ハチベエ」
になった。
山田恵一は、巡業にいくと若手として先輩たちの試合をみていたが、年齢で15歳上、そしてプロレスラーとして11年先輩の藤原喜明に異質なものを感じた。
「人殺すんじゃないかって思わせるものがあって、相手を仕留めに行く姿とか鬼気迫るものがありました。
とにかく怖い、怒らせちゃいけない人だなって」
幼い頃から強い者に憧れていた藤原喜明は、工業高校の機械科時代、ボディビルの本を購入し自己流でトレーニング開始。
高校卒業後、埼玉県内の建設機器メーカーでサラリーマンになり、20歳で退職し、料理人をしながら金子武雄(重量挙げ全日本ライト級チャンピオン、日本プロレス所属のレスラーだったがセメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退)のジムで練習を続け、旗揚げから8ヵ月後の新日本プロレスに入門。
そして入門10日後、スピードデビューを果たすも、すでに23歳という遅咲き。
入門1年後には6歳上の猪木の付き人になり、合同トレーニングの後、猪木とスパーリング。
それは1984年にUWFに移籍するまで10年以上続いた。
「考えてみたら、人の2倍、3倍、練習していたよな。
そのおかげだな。
俺のヒザはボロボロだよ」
藤原喜明は、カール・ゴッチに出会い、初めてその関節技をみたとき、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け
「本物だ」
と思った。
「当時、若手のコーチ役は山本小鉄さんで、その指導は非合理的というか、スパーリングやっていて『これ、どうやって極めるんですか?』って聞くと『根性で極めろ』って。
もちろん非合理的な指導も必要なときもありますが、それを聞いたときは「この人、大丈夫かな」と思いました。
それで入門してしばらくしてゴッチさんの指導に接して「あっこれは本物だ」って感じたんです。
ゴッチさんは日本語もしゃべるんだけどめちゃくちゃなので、それで話されるとわけがわかんなくなる。
ですから基本的には簡単な英語でやりとりしていましたよ。
1日にいくつも関節技を教わるんだけど覚えきれなくなる。
あるとき、ハッと気がついて、1日に1つだけ教えてもらったことをノートに克明に書き残して、それを確実に覚えていくようにしたんです。
オレは頭が悪いからものごとを覚えるのにすごく時間がかかるんですよ。
だけど1度覚えるとずっと覚えている。
高校時代のことだってちゃんと覚えている。
オレは工業高校の機械科で、得意な科目は体育が5で、応用力学、機械工作が5。
これはどういうことかというと運動神経がまあまあいい上に力学、つまりテコの原理がわかっていて工作が上手、つまり手先が器用なんですよ。
だから関節技を習得するのにピッタリだったんだな。
あともう1つ。
骨が太い」