1984年8月、新日本プロレスはパキスタン遠征を行ったが、山田恵一は、このときから藤原喜明に代わってアントニオ猪木の付き人になった。
「初の海外遠征だし、しかも猪木さんの付き人ですからワクワクなわけですよ」
毎日、
「社長、1時間前です」
といってアントニオ猪木を起こさなくてはならないが、ある日、自分が寝坊。
謝って怒られるのがイヤだったので、
「社長、30分前です」
といってごまかすとアントニオ猪木は、いつものように
「おお、悪い悪い」
といって起きてきた。
帰国後、代官山のアントニオ猪木のマンションを初めて訪問。
エレベーターで上がって扉が開くと直接部屋につながっていて、驚きながら中に入ると倍賞美津子がイスの上でアグラをかいて座っていて、再び驚き、
「ご苦労さま」
といわれ、
(かっこいい!)
と感動。
その後、倍賞美津子が道場に来たとき、練習を見学していた子供たちに
「あのオバちゃん知ってるか?
すごい人なんだぞ」
というと、すかさず
「オバちゃんじゃないでしょ」
と怒られた。
1984年9月、UWFに続き、長州力、アニマル浜口、小林邦昭、寺西勇、キラーカーンなど12選手が新日本プロレスを離脱。
新団体「ジャパンプロレス」をつくり、ジャイアント馬場の全日本プロレスと業務提携を結び、そのリングに上がった。
一気に選手数を落とした新日本プロレスは、箱根で強化合宿。
山田恵一は、
「これからどうなっていくんだろうって思いはあったかもしれないですけど、やっぱり上の選手が抜ければ下はチャンスが巡ってきますから」
と前向きな気持ちで練習。
1985年3月、第1回ヤングライオン杯が開催。
小林俊二、後藤達俊、佐藤直喜、武藤敬司、畑浩和、橋本真也、蝶野正洋、船木誠勝と総当たり戦を行い、準優勝。
(優勝は小林俊二)
半年後の1985年9月、第1次UWFが活動を停止。
12月、新日本プロレスとUWFが業務提携。
リングでは、新日本プロレス vs UWFの抗争が開始。
山田恵一は、前田日明や高田延彦、特に藤原喜明が戻って来たことがうれしかった。
1度出ていったUWFに対して新日本プロレスには微妙な空気が漂っていたが
「関係ねえ」
とばかりにUWF道場を訪ね、練習に参加。
久しぶりに藤原教室で汗をかき、前田日明にスパーリングで押さえ込まれ、耳元で
「ハチベエ、あんまり調子に乗るな」
といわれた。
そしてUWFとの5対5マッチやアントニオ猪木とタッグを組んでUWF勢と戦った。
隔月刊マンガ雑誌「ジャストコミック」で山田恵一をモデルに古舘一郎監修、国友やすゆき作によるマンガ「スープレックス山田くん」が連載開始始。
「デビューして1年以上経って、自分の体の小ささをコンプレックスじゃなく、個性として捉えるよになってた頃。
白い中に1つ黒い点があれば目立つわけで、なんだ、あの動き回ってる小っちゃいのは?って思われるように心がけて、オリジナルのあすなろスープレックスを編み出したり、ダイナマイト・キッドみたいにダイナマイトヘッドバットをやったり・・・
コンプレックスや弱点を武器にできると強いですよ」
ちなみに「あすなろスープレックス」は、前かがみになった相手を抱えて、投げる技である。
1986年3月、山田恵一は順調にキャリアを積み、第2回ヤングライオン杯で初優勝。
4月、前座で橋本真と対戦し、蹴られてサンドバッグのようになりながらもアキレス腱固め、バックドロップ。
そしてタイガーマスクのように体からぶつかるきれいなフライング・クロス・アタック。
自分より30kg重い橋本真也を持ち上げてパイルドライバー。
さらにコーナーに上ってダイナマイト・キッドのようなダイビング・ヘッドバットを決め、13分45秒、3カウントを奪った。
1986年5月、新日本プロレス vs UWFの5対5の勝ち抜き戦が行われた。
UWFは、
先鋒 高田伸彦
次鋒 山崎一夫
中堅 木戸修
副将 藤原喜明
大将 前田日明。
新日本は、
先鋒 山田恵一
次鋒 坂口征二
中堅 越中詩郎
副将 木村健吾
大将 藤波辰巳。
先鋒の山田恵一は、高田伸彦と対戦。
ゴングが鳴ると、いきなり左ハイキックを食らってダウン。
その後、高田伸彦の腕十字固め、下から三角絞め、上からのアームロックにもUWFスタイルで対応。
そしてスープレックス、顔面踏みつけ、ボディスラム、ギロチンドロップなどプロレス殺法で攻め、最後は、後ろ回し蹴りでダウンし、アキレス腱固めを極められ ギブアップした。
3ヵ月後の8月、初代タイガーマスクであるマーク・ロコが新日本プロレスに
「アイツを連れていきたい」
といったのがきっかけでイギリスに遠征。
「イギリスといえば、キャッレスリングの本場だし、佐山(聡)さんや前田(日明)さんも遠征されていたという部分で興味もあったので渡りに船でした」
リヴァプールのマーク・ロコの家に下宿し、週に数回ある試合の日は、ASW(オールスターレスリングプロモーション)の代表、ブライアン・ディクソンが車に迎えに来て、レスラーでギュウギュウ詰めの状態で試合会場へ。
試合はロンドンで行われることが多く、リヴァプールからは片道3時間かかった。
「フライング・フジ・ヤマダ」の名前でリングに上がり、試合後はレストランに入って6人前のフィッシュ&チップにビネガーをたっぷりかけて食べ、帰宅するのは真夜中。
山田恵一は、アメリカ流のパワフルな派手なプロレスではなく、テクニック重視のイギリスのプロレスにカルチャーショックを受けながら技を磨いた。
フライング・フジ・ヤマダは、ベビーフェイスとして人気を獲得し、マーク・ロコが持っていた世界ミドル級王座を奪取。
「自分にとっては初のベルトだったし、私生活でもプロレスでもロコさんには本当にお世話になりました」
1987年5月、イギリス遠征後、カナダのカルガリーへ。
ステイ先の安達勝治(元プロレスラー、ミスター・ヒト)の家に着くと後輩の笹崎伸司、森村方則、馳浩がいたので
「お疲れ様でございます。
ご無沙汰しております」
と挨拶し
「やめてくださいよ」
「なんで敬語なんですか」
と気を使わせた。
自分以外後輩という状況にヤンチャとイタズラを繰り返し、ある日、試合で脚を痛めたフリをして周りに雑用をさせてサボり、作業が終わった後で
「うっそピョーン」
と告白。
それを安達勝治の奥さんにみられ、
「いい加減にしなさい!」
と叱られた。
安達勝治が運転する車の中でもよおしてきて、
(オシッコしたいな)
と思ったが
でも停まってもらうのは悪いな)
と空の紙コップの中に出した。
するとお尻が温くなってきて、みてみると紙コップに穴が空いていて、座席がベチョべチョ。
「ウワッ!」
とあわててコップを窓の外に投げたが、窓枠に当たって跳ね返り、笹崎伸司の顔にかかった。
練習で頭を強打し、開頭手術を受けた森村方則の見舞いに行き、頭からチューブが出ていたので引っ張って遊んでいたが、その後、試合でパイルドライバーを受け、首を痛め、1ヵ月ほどリングに上がれなかった。
全日本女子プロレスからデビル雅美や小松美加がやってきたので、朝食のときに屁をこいた。
しかし変な感じがしたので部屋に戻ろうと立ち上がるとデビル雅美に
「山田さん、漏れてる、漏れてる」
といわれた。
元国語教師で、後に国会議員、そして大臣にもなる、いつも冷静な後輩、馳浩は、それを笑ってみていた。
1987年8月、11ヵ月間の海外遠征を終えて日本に戻ったとき、山田恵一はロン毛になっていた。
「海外で散髪屋でなんてオーダーしていいのかわからなくて・・・
最初は自分で切ってたんですけど、そのうち放っておいたらドンドン伸びて・・・」
1987年8月21、22日、「サマーナイトフィーバー・イン・国技館」が両国国技館で行われ、その中の「IWGPジュニアヘビー級王者決定トーナメント」1回戦が凱旋ファイトとなったが、高田延彦に敗北。
翌日、船木(誠勝)を相棒にしたタッグマッチで、初めてシューティングスタープレスを出した。
それはコーナー上からリングのに寝ている相手に向かって跳び、体を回転させながらのボディープレス。
その名の通り、流れ星のように美しい技に会場はどよめいた。
「あれは初日で出すべきでしたね!」
1987年10月19日、アントニオ猪木のタッグパートナーという大役がやってきた。
きっかけは4ヵ月前の6月12日、山田恵一がカナダにいたときに起こった事件。
新日本プロレス両国大会のIWGP決勝戦、アントニオ猪木vsマサ斎藤は、14分53秒、バックドロップを切り返して体固めでアントニオ猪木が勝利。
その直後に大事件が発生!
1ヵ月前に新日本プロレスに復帰し、マサ斎藤のセコンドについていた長州力がリングに上がってマイクで
「藤波、オレは自分たちの時代をつくるために3年間、叫んできたんだぞ!
藤波、前田、噛みつかないのか!?
今しかないぞ、オレたちがやるのは!」
とアピール。
解説者として放送席にいた藤波辰巳、前田日明はリングに上がった。
アントニオ猪木猪木は
「テメーら、いいか。
その気で来るなら、俺は受けてやる。
テメーらの力で勝ち取ってみろ!
コノヤロー」
と応戦。
前田日明は、
「ゴチャゴチャいわんと誰が1番強いか決まるまでやればいいんだよ.
決まるまで!」
藤波辰巳は、
「やるぞ‼!」
と絶叫。
新日本プロレス、UWF、長州力の維新軍の団体間のイデオロギーの戦いに加え、世代交代の闘争が勃発。
この後、アントニオ猪木は右肩剥離骨折を負って欠場。
復帰戦でタッグマッチを希望し、相手に藤波辰巳&長州力を指名。
自らのパートナーは「X」としていて明かさなかった。
そして試合当日、藤波辰巳と長州力がリングインした後、アントニオ猪木が謎のパートナーを従え入場。
若手が壁をつくり、アントニオ猪木の後ろに隠れるように入場したのが山田恵一だった。
山田恵一は、あまりに場違いな人事に藤波辰巳に指を刺されたが、試合が始まると長州力に張り手を見舞うなどイケイケで攻めた。
しかし藤波辰巳が羽交い締めにされながら、長州力のリキラリアートを食らい、73秒でフォール負け。
さらにリングの上に寝ているとアントニオ猪木に足蹴にされ、場外に排除された。
山田恵一は、その後、手応えを感じることができない試合が続き
「俺、何やってるんだろう」
と日々、悩み、周りからも
「海外遠征行く前のほうが良かった」
といわれ、完全にスランプ状態。
これを打開するために「骨法」を習い始めた。
1年前、イギリス遠征に出る前にアントニオ猪木 vs ボクシングの元ヘビー級チャンピオン、レオン・スピンクスの異種格闘技戦が行われ、アントニオ猪木は、その備えのために骨法の道場で練習した。
それに武藤敬司と船木誠勝も同行し、武藤はすぐにやめたが、船木は道場通いを継続していた。
山田恵一は船木誠勝に
「一緒にやりましょうよ」
と誘われ、
「俺は手足が短いし、関節も硬くて可動域も狭いから向いてないよ」
と断ったが
「いや関係ないですよ。
日本人の体型に合った格闘技なんで」
といわれ、試しにいってみたところ、
「面白い!」
と思った。
世田谷の多摩川沿いにある野毛道場で合同練習とチャンコが終わると、原付バイクでに乗って東中野の骨法道場にいき、2時間練習。
その後、隣のラーメン屋でラーメン&チャーハンを食べ、19~21時まで骨法の道場生と一緒にし、さらに22時まで自主練。
掌底打ちや浴びせ蹴りを習得した。
「プロレスは顔面へのパンチは反則ですけど、掌底だったらOKだし、浴びせ蹴りや竜巻蹴りも脚の長さは関係ないし、プロレスに取り入れられそうだなと。
骨法のセンスは船木の方がありましたけど、僕もかなり通い詰めました。
嫁の実家の福岡に引っ越すまで続けてたんで、5、6年は出稽古いってたかな。
シリーズオフのときは、寮からバイクで40分くらいかけて東中野の骨法の道場にいって、マンツーマン以外にも一般の会員さんに混じって合同練習に参加して」
海外遠征から帰って4ヵ月後、1987年12月、両国国技館で船木誠勝と対戦。
骨法の技術をぶつけ合って、最後はイギリス仕込みの技術で押さえ込んで勝利。
ファンや関係者に
「いい試合だった」
と評価された。
1987年11月、タッグマッチ中にサソリ固めを決めた長州力の顔面を前田日明が蹴るという事件が起こった。
長州力は眼窩底骨折という重症
1988年2月1日、新日本プロレスは前田日明を解雇。
4月8日、前田日明が第2次UWFので設立記者会見。
山田恵一は、目標だった高田延彦がUWFへ戻っていくと心のポッカリ穴が空いた。
UWFに対して
「道場でやってること」
それに対してプロレスは
「たくさんのお客さんに楽しんでもらうために道場で磨いた技術+アルファのものがあってこそ」
と考えていた。
5月8日、第2次UWF旗揚げ戦の4日前、山田恵一は、有明コロシアでキックボクサーのドン・中矢・ニールセンと異種格闘技戦。、
関節技で勝機を見出そうとしたがキックのラッシュを受けて立ち上がることができずTKO負けした。
「ニールセンは、前田さんがすごい試合をやって勝ってましたし、このときは会社から「やってみるか?」っていわれて「ぜひやりたいです」って。
骨法を含めて自分の腕がどれほど通用するか試したかったのもあるし、なによりUWFにも世間にもバカにされたくないっていう気持ちが大きかったんです。
プロレスが1番スゴイっていうのを信じてやってましたから、絶対に勝たなきゃっていう気持ちでしたけど、厳しい戦いになりました。
タックルで倒すまではいくんんですけど、ロープブレイクありのルールなんで逃げられちゃって。
何度目かのタックルを仕掛けたとき、カウンターで後ろ回し蹴りを食らって、ヤバイって」