この頃、新日本プロレスは大きな問題を抱えていた。
タイガーマスク人気で常に超満員。
なのに契約更改で、ほとんどのレスラーが現状維持。
さらにその後、行われた株主総会で新日本プロレスは
「売上19億8000万円、利益750万円」
と信じられない数字を発表。
理由はアントニオ猪木は個人事業「アントン・アイセル」
ブラジルにあるサトウキビからアルコールを抽出し「バイオエタノール」を精製する会社で、ブラジル政府は石油の代わりにバイオエタノールを燃料として使用する計画を進めていた。
アントニオ猪木は自民党の政治家に
「アントンハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」
といって協力を呼びかけたが断られ、逆にやめるよう説得された。
実際、プロジェクトを進めていくと様々な問題が起こり、追い討ちをかけるようにブラジル国内のインフレによって経営は悪化。
アントニオ猪木はテレビ朝日に放送権を担保に12億円の借金をしたが補い切れず、新日本プロレスの収入の大半をアントンハイセルの補てんに回してしまった。
しかしこれは新日本プロレスで働く者にとっては社長の私的流用。
怒った長州力は試合を無断欠場。
山本小鉄、藤波辰巳らも新団体設立を画策。
稼ぎ頭であるタイガーマスク(佐山聡)は、新日本プロレスに内容証明書付きの契約解除通告書を送り、一方的に契約の解除を告げて、引退宣言。
「欽ちゃんのどこまでやるの!?」にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。
結局、社長のアントニオ猪木、副社長の坂口征二、営業本部長の新間寿は辞任。
山本小鉄らが新しく経営を行うことになり、クーデター側の勝利に終わったかにみえたが、テレビ朝日の重役の
「猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?
猪木が新日プロを辞めたらウチは放送を打ち切るよ」
という一言で逆転。
アントニオ猪木は社長に、坂口征二は副社長に復帰した。
新日本プロレスに戻ることができなかった新間寿は新団体「UWF」の設立を画策。
新日本プロレスのプロレスラーやかつての部下に声をかけて引き抜いていった。
入門して8ヵ月が過ぎた山田恵一は、猪木に
「オマエどこでデビュー戦がやりたい?」
と聞かれ、山田恵一は、
「両国国技館」
といいたかったが、グッと堪え、
「後楽園ホールでやりたいです」
1984年2月29日、前田日明が、この日の合同練習を最後に新日本プロレスを離脱し、UWFへ移籍。
3日後の3月3日、山田恵一は、後楽園ホールでデビュー戦を行った。
超満員の後楽園ホールで第2試合、15分1本勝負で小杉俊二と対戦し、5分17秒、片エビ固めで負けた。
その後、寮で初めての後輩ができた。
それは、
武藤敬司
蝶野正洋
橋本真也
船木誠勝
野口章(AKIRA)
森村方則(リッキー・フジ)
の6人だった。
武藤敬司は、2歳上だったので「後輩でありアニキ」
柔道で全日本3位という経歴を持ち、体に恵まれてバネもあり、格闘技センスも抜群だった。
「2つ歳上だったんで大人っぽくみえました。
麻雀もできたから、よく坂口さんとかに誘われて雀荘にいってましたし、あの頃から上の人とうまくやっていたんじゃないかな。
スター候補として誰もが一目置いていたというか。
僕が入門は1年先輩だったけど、絶対に負けたくないと思っていて・・・
天才に対する凡人のヒガミだよね。
他の人もみんな武藤に負けたくないって思ってたよ」
蝶野正洋も1歳上。
山田恵一は、蝶野正洋より座高は高かったが、身長は16㎝も低かった。
つまり蝶野正洋は足がすごく長く、山田恵一は短足で、獣神は重心が低かったのである。
そんなスタイルのいい蝶野正洋は、給料を手渡しでもらうとすぐに川崎の風俗街へ。
山田恵一は、まったくそういう遊びはせず、部屋で怪獣フィギュアをつくった。
一心不乱医ウレタンを削り、張りつけて怪獣をつくり、部屋の多くのスペースをゴジラたちが占領。
もう1つの趣味が食虫植物の栽培で、小学生の園芸部時代から食虫植物が好きで大量に育てた。
「蝶野も大人っぽかったかな。
割とクールな感じで。
下戸だったんですけど、入ってすぐに無理やり飲まされて台所でひっくり返っちゃって。
急性アルコール中毒だったと思いますけど。
ちょっとしてから三鷹の暴走族のリーダーやってたって聞いて、こんな大人しいやつが?って驚きました」
橋本真也は、1歳下。
思考がほぼ一緒で1番仲の良い後輩だった。
「一緒にいろいろバカやりました。
橋本は、よくご存知のように、どこまでいってもトンパチ(無鉄砲)
入った頃は、明るくて人懐っこくて、山田さん、山田さんってくっついてきて」
ある日、合同練習が終わった後、いつものように全員がリングに上がって正座。
そして橋本真也の
「正面に対して礼」
という号令で全員が新日本プロレスのシンボルマークに向かって礼をして、
「ありがとうございました」
その隣にアントニオ猪木の大きな写真があり、橋本真也の
「社長に礼」
という号令で
「ありがとうございました」
いつもならこれで終わりだが、副社長である坂口征二がいたので、ドン荒川が橋本真也、
「副社長にも礼っていえ」
と指示。
もちろん冗談だったが、わからない橋本真也は坂口征二に向かって、
「副社長にも礼‼」
その瞬間、坂口征二はすごい勢いで立ち上がり、橋本真也を殴打。
120㎏以上ある橋本真也の体がフッ飛ばされるのをみて、山田恵一は
「怖ッ‼」
と思った。
そして後になって
「1番悪いのは荒川さんだよな」
と気づいた。
船木誠勝は、中学卒業直後の15歳。
入門前から山田恵一のことを雑誌などでみて、
「体がすごい」
「腕が大きい」
と思っていた。
入門1週間後、新日本プロレスのバスが巡業から戻ってきた。
夜の12時を過ぎていたが、船木誠勝は、バスを降りて合宿所に入ってくる先輩1人1人に挨拶と自己紹介。
1番最後に入ってきた山田恵一に挨拶すると
「オッ、よろしく」
その後、食事のとき
「お前、どこ出身だ?」
と聞かれ、
「青森です」
「青森か!
じゃあズーズー弁しゃべってみろよ」
といわれ、青森の言葉を話していると新潟県佐渡郡出身の小杉俊二に
「バカにすんな!」
といわれて叱られるのを目撃した。
後輩ができた山田恵一は
「イタズラ王」
と呼ばれるほど、イジり倒した。
ある後輩は、ジャンケンに負けると電柱にくくりつけられ、山田恵一にチャンコの残りやマヨネーズを投げつけられた。
野毛道場および合宿所の初代管理人兼料理長である太武経(ふとりたけつね)は、毎週土曜日に飲みに行くのが習慣だった。
山田恵一は、大量のネコを捕獲し、留守中に太武経の部屋に入れた。
太武経が帰ってドアを開けると猫がウワッと出てきて、山田恵一は、そのリアクションを楽しんだ。
また後輩がセミが嫌いだと知ると大量のアブラゼミを捕獲。
留守の間に100匹近くのセミを部屋に放ち、帰りを待ち、部屋に入った後輩が悲鳴を上げるとドアを押さえつけて脱出を阻止。
「アブラゼミだけに出てきたときは汗まみれでしたね」
新日本プロレスにはビンに入った特大のサロメチールがあり、藤波辰巳に
「これはすごい薬。
切り傷以外は何でも効く。
打ち身、捻挫、腰痛や肩こり、火傷に虫刺され、頭痛にはこめかみに、歯痛には頰やあごに塗るんだ。
万能薬だ」
と教わった山田恵一は、寝ている後輩の局部にサロメチールを塗付。
飛び起きて
「痛い!」
「熱い!」
と叫ぶのを楽しんだ。
沖縄のビーチで「アントン牧場」で育った牛をレスラー30人と関係者で1頭丸ごと食べるという焼肉大会が行われたとき、山田恵一は、ビーチに穴を掘り、後輩に入るよう指示。
後輩は穴に入り、大量の砂がかぶせられて顔だけ出た状態に。
山田恵一は、口紅で化粧を施し、海藻のウィッグを頭に乗せ、額にツマヨウジを刺していった。
ある新人が寮に入ってきたとき、船木誠勝に命じ、浴槽で首を絞めて落とさせ、自分はフタをして、その上に乗った。
山田恵一がデビューした1ヵ月後、埼玉県大宮スケートセンターでUWFの旗揚げ興行が行われた。
事前に貼られたポスターには、中央にマイクを握った新間寿が大きく配置され、
「今、新しいプロレススが始まる。
わたしは数十人のレスラーを確保した。
新間寿復活宣言
私はプロレス界に万里の長城を築く。
UWFオープニングシリーズ
4月11日(水)大宮スケートセンター」
というフレーズ。
右側に、アントニオ猪木、タイガーマスク、前田日明、ラッシャー木村、マサ斎藤、剛竜馬、藤原喜明、高田延彦、長州力、アニマル浜口の顔写真。
左側に、アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ローラン・ボック、ボブ・バックランド、アブドーラ・ザ・ブッチャー、キラー・カーンの顔写真。
しかし実際に新間寿が集めたレスラーは、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田の4人だけ。
これに新日本プロレスからのレンタルで来た高田延彦を加え、彼らは、この開幕戦で外国人レスラーと対戦した。
大宮アリーナは超満員だったが、試合が始まるとインチキに気づいた客が怒り、罵声を飛ばし、さらに
「イーノーキ、イーノーキ・・・」
「チョオシュー、チョオシュー・・」
「ドーラゴン、ドーラゴン・・・」
「フッジッワラ、フッジッワラ・・・」
と猪木コール、長州力コール、藤波辰巳コール、藤原喜明コールを起こして抗議。
これに怒った前田日明は、外国人レスラーをロープに飛ばし、戻ってきたところにフライングヒールキック。
この日、日本に到着し、何の打ち合わせもなくリングに上がった外国人レスラーは、
「最初はマエダを徹底的に痛めつけ、客の不安といら立ちがピークにっしたら、最後にこっぴどく負ける」
とヒールとして試合を盛り上げ、客を喜ばすために全力を尽くそうと思っていたが、前田日明のくるぶしがモロに顔面に入って、一瞬、失神。
前田日明は、ほとんど意識のない外国人レスラーをジャーマンスープレックスで投げ、8分13秒、フォール勝ち。
鼻、口、さらに目からも出血している外国人レスラーは数人のに支えられながら控室に戻った。
UWFは旗揚げ戦こそ満員だったが、第2戦の熊谷、第3戦の下関、第4戦の岐阜はガラガラ。
東京の蔵前国技館で行われた第5戦は、半分ほど埋まり、新日本プロレスから1日レンタルで藤原喜明が参戦し、メインイベントで前田日明と対戦。
前田のジャーマンスープレックスに藤原が右足をフックしてディフェンスし、倒れた 2人が立ち上がれず、ダブルノックダウンで引き分け。
試合後、前田日明は
「今日の試合は今までの試合とは全然違うんだよ
お前たちにはわからないのか!」
とマイクアピールしたが、多くの観客は途中で席を立ち、最後まで聞いた者はほとんどいなかった。
この後、新間寿とグラン浜田が離脱。
UWFは、所属レスラーが3人に減った上、スポンサーなし、カネなし、外国人招聘ルートなし、なしなしずくしで再スタートした。
藤原喜明に接触し
「1番強いアンタが必要なんです」
といって新日本プロレスから引き抜こうとした。
35歳の藤原喜明は、アントニオ猪木のようなスター性も、元柔道日本一の坂口征二やオリンピック出場の長州力のように華やかなポーツ歴も、藤波辰巳のように鍛え上げられた体も、前田日明のような大きな体も、佐山聡のような身体能力もない。
しかし関節技アリの寝技スパーリングでは誰にも負けず、道場破りが来れば、必ず挑戦を受けて退けた。
なのにリングでは地位が低く
「番犬」
と呼ばれていた。
アントニオ猪木に相談しようと
「UWFに・・」
といった途端
「えっ、お前と誰が行くんだ?」
といわれ、
「なんだ、俺って新日本に必要ないんだって上に俺よりも誰かの方が大切なんだってことか」
という気持ちになって移籍することを決めた。
「堂々とUWFに移った。
俺は誰も裏切ってないからね」
新日本プロレスをやめる直前、藤原喜明は、藤原教室の生徒を集めて
「俺と高田は辞める。
もしお前らの中についてきたい人間がいるなら、高田の部屋に集まれ」
と伝えた。
山田恵一は、ちゃんこ番だったために行けず、後で船木誠勝から話を聞き、さらに高田延彦に
「待ってるから」
といわれたが行かなかった。
「新日本に拾ってもらったという恩があったし、デビューして間もない立場で自信も何もないので。
これでダメだったらレスラー辞めるしかないのかな?とか色々考えた」
藤原喜明と高田延彦はUWFに移籍した後、ドン荒川が若手の指導をしたが、藤原教室の生徒だった山田恵一と船木誠勝は「荒川教室」には参加せずに別メニューをこなした。