1990年12月1日、黒澤浩樹は、第22回全日本大会の1回戦で、全関西大会で優勝した園田直幸と対戦。
黒澤浩樹は、下段回し蹴りで圧しまくった。
「やめ!」
主審が試合を止めた後、エキサイトした園田直幸は、黒澤浩樹を両手で突き放した。
直後、これに怒り、猪のように前に出る黒澤浩樹の顔面に、園田直幸は左上段回し蹴りを合わせた。
黒澤浩樹は、園田直幸の蹴り足を掴んで離さないまま崩れ落ちた。
そしてすぐ立ち上がったが「技あり」をとられ、さらに強引に突進。
バッティングし額から出血。
執拗に園田直幸を攻めたがとらえることはできなかった。
1991年3月31日、全日本大会を1回戦負けした黒澤浩樹は、栃木県体育館で行われた第5回ウエイト制栃木県大会に出場。
元全日本チャンピオンが一地方大会に出るのは異例のことだったが、黒澤浩樹は自分で番号を調べ電話をかけてエントリーし、16名で争われた重量級のトーナメントで優勝した。
正道会館の柳沢聡之選手と対戦
1991年6月、第8回全日本ウエイト制大会に出場。
昨年からこの大会には正道会館の選手も出場し、角田信朗が4位に入っていた。
この極真と正道の戦いはヒートアップしたが、黒澤浩樹も3回戦で正道会館の柳沢聡之と対戦。
柳澤聡之は、黒澤浩樹の突進に上段の蹴りを合わせた。
しかし攻撃力のレベルが違った。
黒澤浩樹の圧勝だった。
薬指がなくても戦い続ける
準々決勝で、黒澤浩樹は、佐伯健徳を左ミドルキック1発でKOした。
準決勝で、4年前に同じ大会で対戦し敗れた七戸康博と対戦。
2回目の延長戦、残り時間20秒、七戸康博の蹴りを捌いたとき薬指が七戸康博の道着にひっかかり張り裂けるような痛みを感じた。
もつれ合い主審に引き離され開始線に戻るとき、ふと指をみると薬指の先がない。
よくみると指の先はかろうじて皮膚でつなぎとめられぶら下がっていた。
結局、この延長戦終了後、ドクターストップが入りTKO負けとなった。
すぐに救急車で病院へ。
病院につくと準々決勝で黒澤浩樹に蹴られて鎖骨を折った佐伯健徳もいた。
トップレベルの極真空手のトーナメントは、まさに病院送りの連続である。
レントゲンを撮ると、黒澤浩樹の指は骨折はしておらず脱臼して骨が皮膚から飛び出している状態だった。
休日でインターンの医師しかおらず、麻酔を射ち抜けた指を入れようとするがうまくいかない。
その医師は、今日は入院し、明日、先生が来たときに入れてもらおうという。
しかし指が入れる時間が遅れれば遅れるほど細胞は死んでいく。
黒澤浩樹は脱臼したままで縫い合わせてもらい最終の新幹線で東京に戻り病院へいき、深夜1時半にオペを受けた。
全日本ウエイト制大会は準決勝で負けたものの、黒澤浩樹は大山倍達の推薦を受けて世界大会の出場権を得た。
冬の時代
圧倒的な強さで全日本大会初出場で優勝し鮮烈にデビューした黒澤浩樹は、強さゆえの慢心と油断で一本負けしたり、誤審や対戦相手の態度に怒り狂い自滅したり、身に覚えのない謹慎処分を受けたり、とにかく長い冬の時代を送った。
人々はそれを黒澤浩樹のうぬぼれ、精神的な弱さが原因だと分析した。
黒澤浩樹自身も、自分が勝てない原因を考え、肉体的、技術的、そして精神的に自分を変えなくてはいけないと努力し続けた。
試合場で対戦相手に頭を下げるようにしたこともあった。
しかしそういった努力は、黒澤浩樹からパワーを奪っていった。
野性と自信を失った猛獣のようだった。
「あるとき浜井先生(浜井識安、石川県支部長)から言われてハッとしたんです。
お前、対戦相手にまで頭下げてどうするんだよって。
戦うときは相手をつぶすんだ!っていわれて目が覚めたんです」
黒澤浩樹はあきらめなかった。
冬の時代を経て、求道者としてより高みに達した。
格闘マシン vs 小さな巨人 緑健児
1991年11月2~4日、3日間にわたり東京体育館で行われた第5回世界大会には110ヵ国、250名の選手が出場。
その中に日本代表は15名いた。
黒澤浩樹は、1回戦でメキシコの選手に1本勝ち。
2回戦、判定勝ち。
3回戦、ロシアの選手に1本勝ち。
4回戦、ニュージーランドのケビン・ペッペラルに顔面を殴られながら1本勝ち。
5回戦、ベルギーのラウル・ストリッカーに判定勝ちした。
そして次の相手は、八巻建志だった。
八巻建志は、アンディ・フグに1本勝ちしたフランシスコ・フィリョに勝っていた。
本戦、延長戦と決着がつかず、再延長戦に入った。
体重判定では有利なことがわかっていた黒澤浩樹は、それを利用して勝つことが嫌で、最後までラッシュした。
しかし決定的な差はつかず、結局、体重判定で勝利した。