ヴァイオリン & ヴァイオレンス

黒澤浩樹は、1962年9月6日、東京都品川区豊町に生まれ た。
父親は、東京大学経済学部を卒業後、埼玉銀行を経て富士通の役員になり、母親は、共立薬科大を卒業し薬剤師となった人物で、2人で俳句を詠み、同人誌の編集にも携わるような夫婦だった。
子供の頃の黒澤浩樹は体が弱く、ひどいときは学校に月に2日しかいけないこともあった。
しかし小学2年生のときに5年生とケンカするほど負けず嫌いで勝気だった。
またヴァイオリンを習っていたが、他の子に負けるのが嫌で毎日、練習を欠かさなかった。
これは極真空手の入門するまで続けられた。
ヴァイオリンのレッスンの帰りには悪い仲間とゲームセンターにいった。
タバコやシンナーをする仲間もいたが、黒澤浩樹はそういうことはしなかった。
しかしよくケンカをして、警察に連れて行かれることもあった。

小学4年生のとき、ブルース・リーの映画「ドラゴン危機一髪」を観て衝撃を受ける。
モップの柄でヌンチャクを自作し学校へ持って行った。
サイやトンファー、模造刀などを買い、それを持った友人や兄とヌンチャクで戦った。

中学になると「仁義なき戦い」も黒澤浩樹のバイブルとなった。
殺るか殺られるか。
そんなギリギリの状態で生きる任侠の男に憧れた。
俺は極真だ
ある日、無料チケットを持った学校の友人に誘われ、映画「地上最強のカラテ」を観た黒澤浩樹は、スクリーンにくぎづけになってしまった。
鍛え上げられた肉体が氷柱を叩き割り、血まみれになってのド突き合う。
それはブルース・リーのように華麗ではなかったが、気持ちを折り合うようなド突き合いで「仁義なき戦い」にはないストレートさがあった。
このときから黒澤浩樹の頭の中から「極真」の2文字は離れることはなかった。
黒澤浩樹は、すぐにマンガ「空手バカ一代」を全巻揃え読み漁った。
大山倍達や弟子の豪快なエピソードがたまらなかった。
日に日に思いは高まり、両親に池袋の極真空手の本部道場に通いたいと頼んだ。
家がある品川から池袋は遠い上、当時は治安が悪い地域だった。
両親はもっと近くの道場をすすめたが、黒澤浩樹は大山倍達がいる道場でなければ意味がないと主張した。
「それじゃダメなんだ。
もしケンカになったときに相手が極真をやっていたら俺は負けてしまう」
次の休日、父親に連れられ、山手線に乗って池袋駅でおり、極真会館を訪ねた。
門の前には内弟子が立っていた。
その威圧感に圧倒された。
入り口には大山倍達の大きな写真が飾ってあった。
(うわーっ、もし大山倍達が出てきたらどうしよう。
ひれ伏すしかない)
受付で入会の説明を受け書類をもらって帰っただけだったが、鼓動が高まり緊張しっ放しだった。

翌日の月曜日、母親と共に再び池袋に向かった
道中、黒澤浩樹は、ずっとため息をついていた。
怖かった。
しかし極真には入門しなければならない。
池袋駅に着く前に黒澤浩樹は母親にポツリといった。
「もしケガしても、絶対、止めろなんていわないでね」
道場では、まず
「押忍!」
という挨拶の仕方を教わった。
次の日、学校にいったときはもう戦闘モード。
「俺は極真だ」
そんな気持ちだった。
結局、黒澤浩樹は本部道場に週2~3回、4年間通うことになるが、その間、緊張の連続だった。
大山倍達は
「君たち、強くなりなさい。
そのためには学校と家と道場。
この3つだけを往復していればいい。
そうしたら強くなれるから」
といった。
黒澤浩樹の生活の中心は学校ではなく道場だった。
17時に学校から帰るとそのまま道着を持って池袋へ。
19時、稽古開始。
準備体操。
基本稽古。
移動稽古。
そして21時頃から組手が始まる。
組手、つまりスパーリングは嬉しくもあり、怖かった。
試合のルールと違い、髪の毛を引っ張られ膝蹴りを入れられることもあるような荒く激しいもので、ただひたすら殴り殴られ、蹴り蹴られる。
痛くても我慢する。
「痛い」
なんて口が裂けてもいってはいけない。
たとえケガをしていても隠して戦う。
それが強くなる道だった。
ケガ人や辞めていく者が続出した。
去る者は追わず、来る者は拒まない硬派な道場だった。
組手が終わると整列し、正拳突きと前蹴りを行い、道場訓を読んで稽古は終了した。
高校1年生からウエイトトレーニング開始
ある日、道場で黒帯の先輩が後輩に話しているのが聞こえた。
「強くなりたかったらボディビルやれ」
その日の帰り、黒澤浩樹は五反田のボディビルジムへ立ち寄った。
そして次の日には入会した。
まだ高校1年生、緑帯の黒澤浩樹だった。
やがてベンチプレスが95㎏挙がるようになると黒帯の先輩と組手をしても打ち合えるようになった。

しかし本部指導員だった中村誠にはボコボコに痛めつけられた。
中村誠は、世界大会で2度も優勝し、「King of Kyokushin」と称される最強の極真空手家。
その組手スタイルは、試合でトーナメントを勝ち上がるためのものではなく、相手を叩きのめし破壊するものだった。
黒澤浩樹は中村誠に強くあこがれた。
そしてその破壊の空手の継承者となった。
組手稽古が始めると黒澤浩樹は進んで中村誠の前に出た。
そしてすぐに倒された。
中村誠の強烈な攻撃を喰らうたびに、ボディの強さの重要性がわかり、1日2000回、腹筋運動をした。
やがて中村誠の攻撃に吹っ飛ばされるものの、倒れず耐えられるようになっていった。
ホームジム

やがて黒澤浩樹にも高校受験が近づいてきた。
親は家庭教師を雇った。
稽古は、週3回、1回2~3時間。
家と道場の往復の移動時間が2時間。
やはり道場は休まなければならなかった。
しかし稽古だけは続けたい黒澤浩樹は、自宅の庭に練習小屋を建ててもらい、サンドバッグやバーベルを設置した。
そして家庭教師が帰った後、23時から、その小屋でトレーニングした。
玉木哲郎との出会い

玉木哲郎
4ヵ月間、道場を休み、黒澤浩樹は東海大浦安高校に合格した。
高校には様々な部活があり一生懸命練習していたが、極真の稽古に比べると遊びにみえ、相変わらず道場へ通った。
ある日、五反田のボディビルジムで雑誌「ボディビルディング」を読んでいるとフィットネスジムの広告が目にとまった。
原宿の「トリム」には最新のウエイトトレーニング機器が揃えられているという。
入会金10万円。
月会費1万円。
1回の使用料金が500円。
黒澤浩樹は見学に行き、2日後には入会。
以後、週3回の池袋の極真空手の本部道場に加え、週3回、原宿のトリムに通った。
本来、フィットネスゾーンは21時まで、その後、22時まではサウナやシャワーが使えるシステムだったが、黒澤浩樹はサウナやシャワーを使用しないという条件で18時から22時まで4時間、トレーニングした。
またトリムでは、玉木哲郎トレーナーと出会った。
玉木哲郎は、黒澤浩樹より5歳上。
アメリカンフットボール出身。
172cm82㎏の体で200㎏のベンチプレスを挙げ、黒澤浩樹と出会った頃は大学生であったが、大学院に進み研究を続け、筋肥大や筋再生に関わる研究の第一人者となる人物で、現在は東海大医学部教授。
タクシー通学

品川の自宅から浦安の高校まで通うためには、6時50分に起きて家を出て7時過ぎの電車に乗らなくてはいけなかった。
その後、道場やトリムに行き、帰宅するのは23時を過ぎた。
食事をし風呂に入り寝るのは1時過ぎ。
やがて黒澤浩樹は朝起きるのが辛くなり
「(学校を)休む」
といい出した。
すると両親は家にタクシーを呼んだ。
それに乗って黒澤浩樹は片道5000円かけて通学した。
はじめは週1回だったが、やがてタクシー通学の頻度は増えていき、卒業前にはほとんどタクシーで学校に通った。
もともと黒澤浩樹は変形させた学ランを着たり、太いズボンを履いたりせず、番を張るというようなこともしなかった。
しかし東海大浦安高校だけでなく、周辺の高校の番長や、それらしい人たちは、みんな黒澤浩樹にやられた。
修学旅行は教師に
「お前が来ると絶対に一悶着起こす」
といわれ行かせてもらえず代わりに宿題を出された。
黒澤浩樹は、宿題は家庭教師にやってもらい、自分は家族でハワイ にいった。
トイレに追い込んで連打

黒澤浩樹は、東海大学工学部土木科に進学。
校舎は神奈川県の伊勢原だった。
車通学だったが、16時30分に授業が終わって、稽古が始まる19時に池袋の道場まで行くのは厳しかった。
時間に間に合うこともあったが間に合わないこともあった。
そんなとき、すでに茶帯だった黒澤浩樹は駐車場で自問自答した。
「道場に遅れて入っていいものか・・・」
「折角ここまで来たのだから・・・」
「失礼ではないか・・」
「考えすぎか・・・」
「やはりダメだ・・・」
こうしてやはり道場に入ることができずむなしく帰った。

大学と本部道場の両立は物理的に無理とわかり、神奈川県の極真空手の道場を探し見学に行ったが、本部道場の稽古に慣れた黒澤浩樹にとってはレベルが低く感じた。
次に大学で格闘技のクラブを探すと、和道流の空手部、キックボクシング部、日本拳法部があった。
「お前、日本拳法やれば?
防具を着けるけど思い切りド突き合えるから順応しやすいんじゃないか。
投げも入るけどいいんじゃないか」
トリムで玉木哲郎トレーナーのすすめられたこともあり、黒澤浩樹は日本拳法部に入った。
日本拳法は、打、投、極のすべてがある総合格闘技で、高い実戦性から自衛隊で正式に採用されて いる。
またボクシングの元世界チャンピオン、渡辺二郎や、キックボクシングの元全日本チャンピオン、猪狩元秀、長江国政なども日本拳法出身である。
しかしこのときの東海大学の日本拳法部は弱かった。
指導者も、大きな大会で実績を残した選手もいなかった。
全員が喫煙し、まったく体を鍛えていなかった。
そのくせ上下関係に厳しく、校内で先輩をみたら後輩はダッシュしていき大声で挨拶しなければならなかった。
挨拶がなかったという理由でリンチが行われることもあった。
大して強くない先輩が後輩をいじめているだけの部だった。
練習は校舎の廊下に畳を敷いて行った。
黒澤浩樹からみれば突きも蹴りも、無茶苦茶だった。
スパーリングは先輩が立ち、名前が呼ばれた後輩が順にかかっていったが、極真の本部道場の色帯同士の組手よりはるかにレベルが低かった。
いつまでたっても自分の名前が呼ばれないので黒澤浩樹はいった。
「自分はよろしいのでしょうか」
そしてやっと畳の上に立てた。
相手は4年生。
「下段蹴りは禁止。
顔面はいいから」
という。
体重82㎏でベンチプレス100㎏、スクワット150㎏を挙げる1年生の黒澤浩樹は、いきなり中段回し蹴りを連射。
その後、顔面を蹴った。
先輩は何もできず退がっていった。
黒澤浩樹は廊下に追い込むとトイレの扉があった。
防具を着けたまま一方的に殴りつけられる先輩はトイレの中に退がっていった。
黒澤浩樹はそこに追い込んで蹴り続けた。
数人の先輩が止めに入って、やっと攻撃をやめた。
翌日から主将と多くの先輩が稽古に来なくなった。
強くなろうなんて思っていない。
大学生活の中で居心地の良さを追求するのは自然なことなのかもしれない。
しかし黒澤浩樹には許せなかった。
結局、日本拳法部の練習に出たのは4回だった。
こんなところにいたら弱くなってしまうのが怖かった。
小笠原和彦先輩
日本拳法部を辞め、黒澤浩樹はますます極真空手の本部道場の稽古が恋しくなった。
その本部で指導していた中村誠は、第2回世界大会で優勝した後、大山倍達から兵庫県支部長の認可を受け、神戸で道場を開いていた。
黒澤浩樹は中村誠に電話をかけ、本部道場に通えなくなったことを説明した。
「もう大学を辞めて内弟子として中村先輩のところに行きたいんです」
「来たらいいよ」
「じゃあ、行きますから!」
黒澤浩樹はすっかり神戸に行くつもりで、
「学校を辞めて神戸に行く」
と友人や両親に話した。
母親は泣きわめいた。
中学、高校と街でケンカして何度も学校や警察から呼び出され、それでもやっと入った大学を1ヵ月で辞めるという。
数日後、黒澤浩樹が家に帰ると、中村誠からの伝言があった。
「1度、電話してこい」
(いよいよ神戸か!)
嬉々として電話すると
「お前、中村辰夫、知っているだろ?」
「押忍、知っています」
「おう
あの人が座間で道場やっているから
そこだったら指導の仕方も違うから
まずそこに行け」
母親はこっそり中村誠に相談していた。
下宿していた神奈川県伊勢原市から同県座間市は車で30分。
座間市の中村辰夫の道場は、幼稚園を借りて稽古を行っていた。
その中に小笠原和彦がいた。
小笠原和彦は、東海大学の4年生で学校でも道場でも黒澤浩樹の先輩となった。
高校生のとき、通信教育で空手を始めた。
高校3年間、国語、古文、英語の3教科がオール10。
東海大学文学部史学科に推薦入学。
以後、1日8時間、空手の自主トレに費やした。
武道専攻の学生に他流試合を申し込み、連戦連勝。
木刀を持った相手はスライディングキック一撃。
空手部の主将はハイキックでKOした。
1980年、極真空手の第12回全日本大会に緑帯で出場。
1回戦、6秒でKO勝ちし、最終的にベスト16に入った
第15回全日本大会、準優勝。
第16回全日本大会、5位。
第18回全日本大会で7位。
第3回世界大会、ベスト16。
100人組手にも挑み、43人で失敗。
上段回し蹴り、後回し蹴り、飛び後回し蹴りなど華麗な蹴り技で「足技の魔術師」と呼ばれた。
2002年、43歳の小笠原和彦は、橋本真也のプロレス団体「ZERO-1」のリングに上がり戦った。

座間の道場は、本部道場と違い、組手を行わなかった。
ひたすら基本稽古と移動稽古を行った。
中村辰夫は、地味な稽古の積み重ねこそ、強くなるために必要な稽古だと考え、ウエイトトレーニングに対しても否定的だった。
しかし小笠原和彦と黒澤浩樹はウエイトトレーニングを行い、中村辰夫が練習に来ない日は、勝手に組手を行った。
増田章と水口敏夫の2段の昇段審査が本部道場で行われたとき、20人組手の相手として黒澤浩樹も呼ばれた。
黒澤浩樹は、このときに初段となり、黒帯になった。
大学4年生の小笠原和彦は就職を控え、出稽古、走り込み、ウエイトトレーニングと必死に稽古を積んだ。
目標は全日本大会。
ところが大会の2週間前、支部間の縄張り争いが起こり、試合に出られなくなった。
やがて小笠原和彦は座間の道場から消えた。
暴走族を全員土下座させ、キーを川に投げ捨てる

ある日、黒澤浩樹は、浦安から東京へ向け、湾岸道路を買ったばかりの白いセリカXXで飛ばしていた。
やがて前方に赤いテールランプがみえたため減速した。
時間は14時。
渋滞する時間ではなかった。
みると前方に数台の車とバイクが、エンジンを空ぶかしし、クラクションを鳴らし、周囲を挑発し威嚇しながら、3車線いっぱいに蛇行して、ゆっくりと走ってい た。
「 チッ」
黒澤浩樹は、渋滞をジグザグに切り抜けた。
一気に左の路肩ギリギリを突き抜けた。
すると後方から数台の車とバイクが追いかけてきた。
セリカXXの右に黒いクラウンと2台のバイクがクラクションを鳴らして並走してきた。
クラウンからは吸いかけの煙草が投げつけられた。
黒澤浩樹はハンドルを右に切った。
クラウンは弾かれるようスピン。
2台のバイクは宙を舞った。
黒澤浩樹は、車を一番左の車線に移し、高速道路の出口に向かった。
後方から2台の車と数台のバイクが狂ったように追ってきた。
2台の車がセリカXXを追い越し高速道路を下りたところで行く手を塞いだ。
さらに5台のバイクが左右にへばりついた。
黒澤浩樹は、アクセルを踏み込みブルーバードに追突。
ブルーバードが一瞬、宙に浮いた。
黒澤浩樹は、そのままセリカXXをもう1台に突っ込ませた。
そして素早く外に出ると、まっすぐ突進し、車の男たちに蹴りと突きを炸裂させた。
ヤンキー達は血を噴いて倒れていった。
わずか数秒の出来事だった。
ゆっくりと振り返った黒澤浩樹は、バイクの5人に歩いていった。
結局、 黒澤浩樹は全員を伸ばした。
全員を並べて土下座させ、キーを奪い、川に投げ捨てた。
そして深夜、こっそりと家に帰り、次の朝、エンジン かけようとしたがダメだった。
セリカXXは1週間でスクラップとなった。
チャンピオンメーカー 城西支部
1982年秋、黒澤浩樹は、三瓶啓二が3連覇を果たした第14回極真空手全日本大会を2階席から観た。
そして大会終了後、公衆電話で話す小笠原和彦を見つけた。
「小笠原先輩!」
「おう!
お前、まだあんなとこでやってるのかよ」
「やってます」
「俺さ、来年優勝するからよぉ」
小笠原和彦は、座間を去った後、東京の城西支部で稽古をしていた。
みるからにその肉体はパワーアップしていた。
それに比べ黒澤浩樹は、組手をまったくせずに基本稽古と移動稽古を繰り返していた。
そして数ヵ月後、黒澤浩樹は埼玉県の戸田市スポーツセンターで開かれた春季首都圏交流試合に出場。
1回戦、2回戦はノックアウト勝ちしたが、3回戦で城南支部の親泊寿郎に判定負けした。
ショックを受けた黒澤浩樹は、家で寝込んでしまい、稽古も休んだ。
中村辰夫から電話がかかってきたが、人と話せる状況ではなかったため居留守を使った。
もう空手を辞めようと思ったが、家の中で考えるのは空手のことばかりだった。
数日間、閉じこもった末、黒澤浩樹は城西支部の番号を調べ電話した。
そして城西支部へ行きたいと伝えた。
支部長の山田雅稔はいった。
「来いよー。
辰夫は黒澤はウエイトトレーニングのし過ぎだとかういけど、俺はそんなことはないといっといたよ。
やんなきゃだめだよ。
黒澤の練習の仕方、間違ってねえよ」
城西支部に移った後の黒澤浩樹のスケジュールは以下の通り。
朝6時に起きて走り、サンドバッグを打ち、腹筋運動。
そして車で大学へ行く。
授業が終わったらすぐに原宿に向かいトリムで2時間ほどウエイトトレーニング。
その後、代田橋の道場で稽古。
再びトリムに戻りウエイトトレーニングを21時半までやる。
それが終わるとまた道場に戻り、サンドバッグや砂袋を蹴り続ける。
家に帰るのは24時くらいだった。

山田雅稔の指導する技術は新鮮なものばかりで、黒澤浩樹は1つ漏らさず自分のものにしようと必死に教わった。
例えば、相手の前蹴りの捌き方にもいろいろなパターンがあって、それを細かく教えてもらったら、稽古の後で車に戻りノートにメモ。
翌日、大学で、昨夜、山田雅稔から教わったことをすべて机に鉛筆で書き出す。
「前蹴りの受け方」と書いた下にAタイプ、Bタイプ、Cタイプという風に分けて書いていく。
すべて書き終え、脳に書き込めたことを確認出来たらすべて消しゴムで消した。
そうしていると授業終了のチャイムが鳴る。
ウエイトトレーニングも、
「今日は・・・㎏を・・回挙げる」
と目標を持って行った。
目標の重さや回数をクリアできなかったら、
「アミノ酸が足りないのか?」
「ビタミンが不足しているのかも・・」
と原因を考えた。
これらを含め、トレーニングと食事はすべて書き出した。
黒澤浩樹が城西支部に来て3ヵ月後、支部内で試合が行われ、黒澤浩樹は準決勝で小笠原和彦に負け、3位決定戦で勝った。
そしてその年の第15回全日本大会の決勝戦は、大西靖人 vs 小笠原和彦。
城西支部の選手同士の対決だった。
城塞支部は、「チャンピオン製造工場」といわれた。
極真空手では4年に1度、世界大会が行われるが、1984年1月、第3回世界大会が行われた。
黒澤浩樹は、その3ヵ月後、1年前に敗れ城西支部へ移るきっかけとなった首都圏交流試合に再び出場。
そして優勝し、全日本大会の出場権を得た。
全日本大会初出場初優勝 伝説のはじまり
第16回全日本大会に向けて、稽古時間は1日8時間を超えた。
血尿が出ないと納得できないほど稽古とトレーニングに没頭した。
そして黒澤浩樹は、全日本大会に初出場し初優勝した。
その攻撃力は相手を粉砕し、受けたダメージはまったくなかった。
圧倒的な強さだった。
本来、格闘技は、体重無差別、時間無制限で、白黒つくまで行われるべきものである。
しかしスポーツ化していくと、必ず体重別、ポイント制などが導入されていく。
極真空手も長い歴史を経て、試合では一本勝ちにこだわず、試合に勝つため組手スタイルが確立されていった。
しかし黒澤浩樹はひたすら相手を倒そうとした。
結果、一本勝ちを量産し、たとえ一本勝ちにならなくても、相手にダメージを負わせ、圧倒的な判定で勝利した。
相手が誰であろうと打ち合って倒す。
そんな理想に共感できる選手は多数いるが、実行することは非常に困難である。
猛者が集う極真空手で、後には総合格闘技やK-1のリングでさえ、黒澤浩樹はそれを体現し続けることができた。
アスリートトレーニング

ある日、突然、玉木哲郎から電話があった。
玉木哲郎はトリムを辞め、東海大学医学部の研修生として東海大の病院に勤めていた。
「お前、1日俺のところへ来い」
全日本大会で優勝した黒澤浩樹は有頂天になり、学校へも行かなくなり、留年を決めていた。
心配した黒澤浩樹の母親が玉木哲郎に相談をしていた。
それ以降、黒澤浩樹は、毎週火曜日、木曜日は玉木哲郎と一緒にジムに行き、食事をし、玉木哲郎の家に泊まるようなった。
すると翌朝、ソファーベッドに寝て起きようとしない黒澤浩樹に、玉木哲郎は蹴りを入れた。
そして学校に行かされた。
玉木哲郎は黒澤浩樹に人としてあるべき姿、文武両道を説いた。
「寝たら許さん」
と授業で寝ることを禁止し、1番前に座りノートをとることを義務づけた。
ノートは後で玉木哲郎に提出しチェックされた。
「お前、なんでノートを書いてないんだ」
「教師が黒板に何も書かなかったから・・」
「だったらどういう内容だったか思い起こして考えて、その日の夜に書いてこい」
「そんなことやっていたら練習できないじゃないですか」
「それじゃお前は今年優勝できない」
夏になると玉木哲郎と黒澤浩樹は、房総半島の三日月ホテルに泊まって3泊4日の合宿を行った。
そして徹底的に跳ばされ走らされた。
ただ走るのではなく、縦に、横に、斜めに、後ろにいろいろな走り方や、ジャンプの基本動作を繰り返した。
黒澤浩樹は座れなくなるほどの筋肉痛になった。
玉木哲郎が教えたのは、総合的な運動能力を高める方法だった。
優れた運動選手は1つの競技だけに秀でているだけではダメ。
あらゆる競技に適応できるトータルな能力を有していなければならない。
つまりアスリートを目指すトレーニングだった。
「バーベルは100㎏以上挙がるくせに懸垂はでき ない。
それは本来おかしいことなんです。
スポーツは一般的にそうですけど、 特に格闘技では自分の体を自由にコントロールできなけりゃ世界一にはなれ ないんです。
そうやってマルチフルにトレーニングしている中で、専門は空手ですっていう のが 本当の運動選手であってね。
それが本当に強くなるための秘訣だよっていったんです」
合宿から帰っても黒澤浩樹はアスリートトレーニングを続けた。
玉木哲郎は週3日やればいいといったが、毎日やった。
徐々に体型が変化し、スピードが増し、筋力が動きに有効に活かされ始め、ウエイトトレーニングもベンチプレス180㎏、スクワット270㎏が挙がるようになり、第17回全日本大会の前には、1年前とは全く違う自分になっていた。
「鉈を振り降ろすよう な、スパーンという、 力のグラフを描けば鋭く先にとんがるピークがあような、そういう鋭さが身に付いてきたんです。
もともとドーッと出していくブルドーザー みたいな力はあったんですがシャープなものは全然なかったですから。
それを身につけた結果が、17回でああいうKOの連続ということになったんでしょうね」
ケンカに勝って試合に負けた松井章圭戦
黒澤浩樹は、第17回全日本大会の1回戦、2回戦を一本勝ち。
4回戦では、首都圏交流試合で敗れた親泊寿郎に勝ち、準決勝はジェームズ北村に勝ち決勝に進んだ。
決勝戦の相手は、松井章圭だった。
華麗な蹴り技。
そして強靱な精神力を併せ持つ不世出の天才空手家である。
フルパワーで倒しにくる黒澤浩樹に松井章圭は巧く技を合わせ、黒澤浩樹の攻撃力とプレッシャーにも松井章圭は退くことはなかった。
黒澤浩樹も松井章圭にスピードで崩されることはあったが、ダメージを受けることはなかった。
そして1度目の延長戦を終えた後、判定で黒澤浩樹は敗れた。
実感のない敗北だった。
「下段 vs 上段」
「パワー vs テクニック」
「黒澤はケンカに勝って試合に負けた」
いろいろいわれたが、黒澤浩樹の強さ、殺傷能力を疑うものは皆無だった。
しかしこの純粋で圧倒的な強さが、試合巧者の前に屈する悲劇は、この後も続く。
天狗の鼻を折る膝蹴り

第18回全日本大会は、翌年行われる第4回世界大会の日本代表選抜も兼ねていた。
しかし黒澤浩樹にとって大事なのは「打倒・松井章圭」だった。
また大学の卒業も近づいていた。
就職も決まっていた。
仕事が始まれば今より練習に打ち込めるかどうかはわからない。
最高の力を出すために今まで以上に稽古に打ち込んだ。
周囲は、前々年の優勝と前年の実績から黒澤浩樹を優勝候補の筆頭にあげた。
実際、黒澤浩樹は、1回戦はアップもせずに戦って10数秒でKO勝ちした。
2回戦の相手は、軽量級の豊田宣邦だった。
圧倒的な体格差とパワーの差で黒澤浩樹は圧しまくった。
「待て!」
主審の指示で開始線に戻り、再び
「はじめ」
がコールされた。
その直後、黒澤浩樹は豊田宣邦の2段跳び膝蹴りを顎に食らってダウンした。
油断しガードが甘くなっていたところを見事につかれた結果だった。
黒澤浩樹は蹴られて曲がった前歯を力づくで戻した。
家に帰ると部屋に閉じこもった。
空手着、ランニングシューズ、雑誌、空手に関係するものをすべてゴミ箱に捨てた
何もかもが嫌になった。
1週間で会社を辞める

豊田宣邦に敗れた翌日、つまり大会2日目は、黒澤浩樹は試合場に行く気になれず、ずっと家にいた。
そしてその次の日は、就職先の社長面接日だった
黒澤浩樹は大学を2年間留年した。
みんなが実習をやっているとき、校舎の裏で練習し、就職活動もまったくしなかった。
ついに就職課の部長に呼び出された。
「2回も留年しているのに1度も来ないとはいい根性をしている。
お前はどこを受けるんだ?」
「はい、清水建設」
部長は大笑いした。
「お前の成績では受けることもできない
何を考えているんだ」
清水建設は、鹿島、大成、大林などと並ぶトップ企業。
しかし黒澤浩樹は父親のコネで清水建設を受験した。
試験問題がまったくわからず落ちた。
また就職課に呼び出された。
「あと佐藤工業と西松建設を受けます」
部長はまた大笑いした。
しかし父親のコネで佐藤工業に受かった。
学年トップの成績の学生が、佐藤工業の子会社の佐藤道路という会社に就職が決まると
「すごい」
といわれた。
「黒澤さんはどこですか?」
と聞かれ
「佐藤工業です」
と答えるとみんな目を丸くした。

4月1日、入社式が東条会館で行われた。
式後、辞令が渡され、そのまま現場へ直行した。
1度バスで本社へ、そこから歩いて電車に乗り栃木県の最寄り駅、そしてタクシーはどんどん山奥へ入っていき、ゴルフ場の建設現場のプレハブに着いた。
1階には事務所とトイレと風呂と食堂、ミーティングルーム。
2階は2人1部屋の住居スペース。
黒澤浩樹は6時に起きて走った。
自然の中を走っているのに爽快感はなく戦闘モードにもなれなかった。
そして1日中、測量をした。
夜はみんなタバコを吸いながらマージャンをしていたが、黒澤浩樹は1人部屋にいた。
悪い人は1人もいなかったが、黒澤浩樹はずっと思っていた。
「何かが違う」
山田雅稔に電話した。
「先生、もし俺が会社辞めたら道場出せますか?」
「そりゃ出せるよ」
しかしまだ入社2日目。
まだ辞めるわけにはいかない。
3日目の夜、東京の本社から部長が迎えに来て、荷物を取りに家へ帰った。
そして翌朝、自分の車で栃木へ戻った。
「ちょっとお話があるんですけどよろしいですか」
その日の仕事が終わった後、現場監督の部屋に入った。
「何だい」
「自分は6月に試合を目指しています。
ここにいると練習もできないんで辞めたいんですけど」
「それは全然構わないよ」
「あっ、そうですか。
ありがとうございました」
黒澤浩樹は頭を下げ、荷物をまとめ車で出た。
1度家に帰り、道場へ直行した。
道場の近くに車を停め道場へ行くと後輩に会った。
「あれっ、先輩、どうされたんです?」
「辞めたよ」
「じゃあまた俺たちの脚蹴るんですね」
2人で大笑いした。
久しぶりの稽古を終え家に帰ると父親に怒鳴られた。
黒澤浩樹は耐えきれず1週間家出した。
自分を信用しろ
6月の第4回全日本ウエイト制まで2ヵ月間、黒澤浩樹は稽古とトレーニングに取り組んだ。
ウエイト制大会は2日にわたって行われ、土曜日が予選、日曜日に本戦が行われるが、黒澤浩樹が出る重量級は出場選手が少ないため2日目のみだった。
金曜日、黒澤浩樹は京都の玉木哲郎の実家に泊まった。
土曜日、玉木哲郎がいった
「よし走るぞ」
調整のために走るのかと思ったが凄い距離を走らされた。
その後も神社で階段ダッシュをやり、実家まで走って帰った。
翌日、試合だというのに黒澤浩樹は疲れ果ててしまった。
「いいんだ、いいんだ」
玉木哲郎はいった。
夕方、電車で大阪へ。
空いているシートに座ろうとすると玉木哲郎が止めた。
「座るな。
お前立っとけ」
大阪に着いて早くホテルで休みたかったが
「1回、試合場みにいくで」
と会場へ行った。
食事を終えホテルに入ると
「なんだチャンプやってるじゃないか。
観るぞ」
と2人で土曜洋画劇場をみた。
黒澤浩樹が寝ころぼうとすると
「横になんじゃねえよ。
集中しろ」
と座らされた。
試合当日の朝、疲労感があった。
玉木哲郎は
「大丈夫、大丈夫」
というだけだった。
結局、黒澤浩樹は決勝まで上がったが、七戸康博に本戦で判定負けした。
2位という結果には満足できなかったが、世界大会への出場権を得ることができた。
「今回は調整もしなかったし試合の前日にも結構、練習しただろ。
疲れていてもここまで出来るんだ。
お前は自分を信用しろ」
玉木哲郎は、前年の全日本大会で屈辱的な負け方をした黒澤浩樹に自信を蘇らせるため、あえて調整をしなかったのである。
血まみれの世界大会
黒澤浩樹は、第4回世界大会に出場。
170㎝台の黒澤浩樹の下段回し蹴り1発で体の大きな外国人が無力となった。
15名の日本代表選手の中で、やっぱり黒澤浩樹が1番強かった。
しかし2回戦で左足人差し指を骨折。
指の中で骨が動いているのを自覚しながら戦い続けた。
5回戦でヨーロッパ チャンピオンのピーター・スミットと対戦。
試合前、ピーター・スミットは、黒澤浩樹の控室に行った。
「お前が黒澤か?」
黒澤浩樹は、ケンカを売られたと認識した。
そんな因縁もあって試合はヒートアップした。
開始と共に黒澤浩樹は突っ込んでいった。
そしてピーター・スミットを場外まで押し出した。
このとき折れている左足がピーター・スミットの膝に当たり、腰まで痺れが走った。
以後、左脚の膝から下の感覚がなくなった。
結局、延長4回を戦い、判定で勝ったが、その後の試合を棄権した。
左膝に血が溜まり、左足中指は内部で動いてしまっていた。
自分の道場を持ち、指導者に

1988年、ソウルオリンピックが開かれた年、また1週間で会社を辞めた翌年、黒澤浩樹は自分の道場を持った。
JR中野駅から徒歩5分。
その道場は地下で湿気が多いが、思い切り声を出してもかまわない。
道場としては最高だった。
それから7年、黒澤浩樹はここで汗をかき続けた。
誤審?に怒り自滅

1988年11月20日、第20回全日本大会の3回戦で、黒澤浩樹は吉岡肇と対戦。
ガンガン押していた試合中盤に、 吉岡智の上段後ろ回し蹴りが側頭部に巻きついた。
黒澤浩樹は、腕で受けていたが少し体勢を崩した。
しかし攻撃し続け、吉岡智を場外に押しやった。
黒澤浩樹にダメージはなかったので主審は流したが、副審の広重毅師範が笛を吹いて「技あり」をアピール。
10秒ほどたってから主審が試合を止め、4人の副審の確認をとると、全員が旗で「技あり」を示した。
(倒せばいいんだろ!!)
黒澤浩樹は怒り、すぐに吉岡智をダウンさせ「技あり」を取り返した。
その後も暴走は止まらず強引な攻撃を続けた。
吉岡智は、間合いを詰めて攻撃してくる黒澤浩樹に下がりながら左上段回し蹴りを合わせた。
黒澤浩樹はマットに倒れた。
技あり、合わせて一本。
黒澤浩樹は負けた。
試合態度不良?で謹慎処分

1989年の第21回全日本大会の3回戦では、イランから日本の本部道場に稽古に来ていたホセイン・サディカマルと対戦。
ホセイン・サディカマルは、下段回し蹴り対策として徹底的に接近戦を展開。
そして「掴み」の反則を多く犯した。
試合は本戦と2回の延長戦でも決着がつかず、10㎏以上の差がある場合は軽い者を勝ちとする体重判定で黒澤浩樹は敗れた。
あまりに反則が多かったホセイン・サディカマルの勝利に場内からブーイングが起きた。
またおそらく主審は延長戦の回数を間違えていた。
2度目の延長戦で決着がつかなければ、体重判定、試割り判定となるが、この試合で主審は、副審が2-0で黒澤浩樹の勝ちを支持した後、自身は引き分けを宣告し、両者をもう1度戦わせる素振りをした。
主審は延長戦を数え間違えていなければ、黒澤浩樹の勝ちを支持したのではないか?
会場には、ブーイングに加え「再試合」コールまで起こった。
黒澤浩樹は、延長戦が行われるかも知れないと試合場の端で立って待った。
本来、極真空手の試合のルールでは、本戦と2回の延長戦、体重判定、試し割判定で勝敗を決める。
しかし大山倍達が
「もう1度だ」
といえば特別に試合は続行された。
だが結局、この試合はそのまま終わり黒澤浩樹は敗者となった。
以上が12月24日のことである。
そして年が明けて間もなく黒澤浩樹に
「無期限謹慎処分
(稽古はしてもよいが大会には出られない)」
が下された。
理由は「試合場での態度不良」ということだった。
雑誌「パワー空手」には、「黒澤浩樹、総裁に怒られ謹慎」という記事が掲載された。
この記事をみた黒澤浩樹の父親は黙り込み、母親は寝込んでしまった。
兄も
「お前、もう辞めろ。
ここまでいじめられてどうして続けるんだよ」
といった。
しかし黒澤浩樹に辞める気はさらさらなかった。
(絶対にみんなに認めさせてやる)
全日本大会1回戦負け 栃木県大会に出場

1990年12月1日、黒澤浩樹は、第22回全日本大会の1回戦で、全関西大会で優勝した園田直幸と対戦。
黒澤浩樹は、下段回し蹴りで圧しまくった。
「やめ!」
主審が試合を止めた後、エキサイトした園田直幸は、黒澤浩樹を両手で突き放した。
直後、これに怒り、猪のように前に出る黒澤浩樹の顔面に、園田直幸は左上段回し蹴りを合わせた。
黒澤浩樹は、園田直幸の蹴り足を掴んで離さないまま崩れ落ちた。
そしてすぐ立ち上がったが「技あり」をとられ、さらに強引に突進。
バッティングし額から出血。
執拗に園田直幸を攻めたがとらえることはできなかった。
1991年3月31日、全日本大会を1回戦負けした黒澤浩樹は、栃木県体育館で行われた第5回ウエイト制栃木県大会に出場。
元全日本チャンピオンが一地方大会に出るのは異例のことだったが、黒澤浩樹は自分で番号を調べ電話をかけてエントリーし、16名で争われた重量級のトーナメントで優勝した。
正道会館の柳沢聡之選手と対戦
1991年6月、第8回全日本ウエイト制大会に出場。
昨年からこの大会には正道会館の選手も出場し、角田信朗が4位に入っていた。
この極真と正道の戦いはヒートアップしたが、黒澤浩樹も3回戦で正道会館の柳沢聡之と対戦。
柳澤聡之は、黒澤浩樹の突進に上段の蹴りを合わせた。
しかし攻撃力のレベルが違った。
黒澤浩樹の圧勝だった。
薬指がなくても戦い続ける
準々決勝で、黒澤浩樹は、佐伯健徳を左ミドルキック1発でKOした。
準決勝で、4年前に同じ大会で対戦し敗れた七戸康博と対戦。
2回目の延長戦、残り時間20秒、七戸康博の蹴りを捌いたとき薬指が七戸康博の道着にひっかかり張り裂けるような痛みを感じた。
もつれ合い主審に引き離され開始線に戻るとき、ふと指をみると薬指の先がない。
よくみると指の先はかろうじて皮膚でつなぎとめられぶら下がっていた。
結局、この延長戦終了後、ドクターストップが入りTKO負けとなった。
すぐに救急車で病院へ。
病院につくと準々決勝で黒澤浩樹に蹴られて鎖骨を折った佐伯健徳もいた。
トップレベルの極真空手のトーナメントは、まさに病院送りの連続である。
レントゲンを撮ると、黒澤浩樹の指は骨折はしておらず脱臼して骨が皮膚から飛び出している状態だった。
休日でインターンの医師しかおらず、麻酔を射ち抜けた指を入れようとするがうまくいかない。
その医師は、今日は入院し、明日、先生が来たときに入れてもらおうという。
しかし指が入れる時間が遅れれば遅れるほど細胞は死んでいく。
黒澤浩樹は脱臼したままで縫い合わせてもらい最終の新幹線で東京に戻り病院へいき、深夜1時半にオペを受けた。
全日本ウエイト制大会は準決勝で負けたものの、黒澤浩樹は大山倍達の推薦を受けて世界大会の出場権を得た。
冬の時代
圧倒的な強さで全日本大会初出場で優勝し鮮烈にデビューした黒澤浩樹は、強さゆえの慢心と油断で一本負けしたり、誤審や対戦相手の態度に怒り狂い自滅したり、身に覚えのない謹慎処分を受けたり、とにかく長い冬の時代を送った。
人々はそれを黒澤浩樹のうぬぼれ、精神的な弱さが原因だと分析した。
黒澤浩樹自身も、自分が勝てない原因を考え、肉体的、技術的、そして精神的に自分を変えなくてはいけないと努力し続けた。
試合場で対戦相手に頭を下げるようにしたこともあった。
しかしそういった努力は、黒澤浩樹からパワーを奪っていった。
野性と自信を失った猛獣のようだった。
「あるとき浜井先生(浜井識安、石川県支部長)から言われてハッとしたんです。
お前、対戦相手にまで頭下げてどうするんだよって。
戦うときは相手をつぶすんだ!っていわれて目が覚めたんです」
黒澤浩樹はあきらめなかった。
冬の時代を経て、求道者としてより高みに達した。
格闘マシン vs 小さな巨人 緑健児
1991年11月2~4日、3日間にわたり東京体育館で行われた第5回世界大会には110ヵ国、250名の選手が出場。
その中に日本代表は15名いた。
黒澤浩樹は、1回戦でメキシコの選手に1本勝ち。
2回戦、判定勝ち。
3回戦、ロシアの選手に1本勝ち。
4回戦、ニュージーランドのケビン・ペッペラルに顔面を殴られながら1本勝ち。
5回戦、ベルギーのラウル・ストリッカーに判定勝ちした。
そして次の相手は、八巻建志だった。
八巻建志は、アンディ・フグに1本勝ちしたフランシスコ・フィリョに勝っていた。
本戦、延長戦と決着がつかず、再延長戦に入った。
体重判定では有利なことがわかっていた黒澤浩樹は、それを利用して勝つことが嫌で、最後までラッシュした。
しかし決定的な差はつかず、結局、体重判定で勝利した。
黒澤浩樹は準決勝で緑健児と対戦した。
準々決勝で当たった八巻建志は187㎝だったが、緑健児は165㎝。
体重無差別の、しかも大型の外国人選手が多数出場するトーナメントを、165cm、70kgの緑健児は、多彩な技とヒットアンドアウェイ戦法で戦った。
緑健児は肉体も技もタフである。
一撃必殺の空手であり、ケンカも強い選手である。
しかしこのトーナメントで緑健児はケンカはせずに試合で勝つ組手をした。
2度の延長戦を巧く戦い抜いて体重判定で勝った試合もあった。
黒澤浩樹に対しても、上段回し蹴りでその前進を止め、突いて回り、蹴っては離れ、あるいはくっついた。
見栄えのいい大技を繰り出すシーンは、かけ逃げにもみえた。
手数は互角でも与えるダメージは黒澤浩樹の方が大きい。
しかし再延長戦に入ると、体重判定では負ける黒澤浩樹の空手は強引になり、緑健児童はますますフットワークが冴えた。
そして黒澤浩樹は体重判定で敗れた。
「追いきれなかった自分が情けなくて仕方なかった。
まるで空気と戦っているようで、体重判定っていわれて、こんな負け方をするなんてというか、とにかく白黒ハッキリつけたいという意識だけが空回りしたようです」
この後、緑健児は決勝戦も勝って優勝。
「小さな巨人」と賞賛された。
たしかに敗れた黒澤浩樹だったが、その強さを疑うものはいなかった。
試合に負けても、強さを証明する男。
真の最強とはそういうものかもしれない。
黒澤浩樹はたとえ負けてもヒーローだった。
ユンケル代 月16万円

世界大会を納得できない終わり方をしたことが黒い原動力となり、黒澤浩樹はガムシャラで無謀な稽古を開始した。
朝起きて走り、ダッシュを繰り返し、その後、小屋で練習。
ジムへ行き歯が欠けるほどウエイトトレーニング。
強い疲れを感じ、1本2000円のユンケル皇帝液を4本、コップに空けて一気に飲み、道場へ。
そしてすべての稽古を道場生の2倍3倍をこなした。
そしてスパーリングを終えるのは24時前。
家に帰っても疲れで飯が食えずプロテインを飲んだ。
朝起きると疲れが抜けておらず、ユンケル皇帝液を飲んだ。
鉄板のように硬くなった腰にマッサージや治療を施しながら稽古とトレーニングを続け、第24回全日本大会の直前には、1ヵ月のユンケル皇帝液の消費量は80本を超えた。
そして1992年11月1日、 第24回全日本大会では2回戦で杉村多一郎に判定負けした。
完全なオーバートレーニングだった。
君ねえ、そういうときはみた瞬間に叩け!

この後、黒澤浩樹は大山倍達に呼び出せれた。
(何も悪いことしてないよなあ)
記憶をたどりながら本部道場に行くと緑健児と増田章も来ていた。
「君たち、遅くなってスマン」
大山倍達は、第5回世界大会の武道奨励金(1位:300万円、2位:200万円、3位:100万円)を渡した。
そして大山倍達は池袋西口にある東明大飯店に弟子たちを連れて行った。
食事の最中、黒澤浩樹は何か話をしなければならないと思い身近な話をした。
「総裁、正道会館が自分の道場の近くにできました」
「ああ、そうかね」
「自分、何回か佐竹(昭昭)さんとスレ違ったことがあるんですけど、多分、向こうは気づかなかっただけかもしれませんけど、自分は頭を下げたのに知らんぷりされました」
「君、なぜ挨拶するんだ」
「いや一応、お互い空手家ですから挨拶は・・・」
大山倍達は黒澤浩樹の話を遮った。
「君ねえ、そういうときはみた瞬間に叩け!
伸ばしなさい」
「・・・・・」
「君がその場で、路上で佐竹を伸ばしたら、とりあえず私は君を破門するよ。
その代わり1年後には必ず5段にする。
間違いなく。
だから君ぃがんばりたまえ」
黒澤浩樹は改めて大山倍達に憧憬の念を深めた。
1993年6月20日、第10回ウエイト制大会、重量級の準決勝で、黒澤浩樹は、鈴木国博と対戦し敗れた。
優勝は八巻建志、準優勝、鈴木国博、黒澤浩樹は3位だった。
1994年1月、本部道場の鏡開きで黒澤浩樹は大山倍達に声をかけられた。
「おう、黒澤」
「押忍!」
「君ぃ、やれるかい?」
「押忍!」
「そうか、今年いつやれるかね、100人組手」
「!!!!」
これが黒澤浩樹にとって最後の思い出となった。
1994年4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で大山倍達は死去した。
70歳だった。
分裂
大山倍達は遺言書で松井章圭を後継者に指名。
松井章圭は極真会館の館長となった。
大山倍達はあまりに偉大な存在だった。
極真のほとんどの支部長は大山倍達に憧れ、この道に身を投じた者ばかりだった。
その絶対的存在、精神的支柱を失った極真は、この後、分裂を繰り返していく。
1994年6月、大山倍達の遺族が記者会見を行い
「遺言に疑問があるので法的手段にでる」
と発表。
大山倍達の本葬時にも抗議活動を行った。
そして5名の支部長がこれを支持し、松井章圭の下を離れ、大山智弥子未亡人を館長とする新組織を結成した。
これが「遺族派」、松井章圭を長とする組織は「松井派」と呼ばれた。
1995年4月、35人の支部長が「支部長協議会派」を結成。
世界各地でも支部の取り合い選手の引き抜きも行われ分裂が生じた。
松井派は12名に減った。
8月、支部長協議会派と遺族派が合流。
「大山派(現:新極真会)」と呼ばれた。
極真空手の各種大会が、松井派と大山派(現:新極真会)によって開催されるようになる。
松井館派と大山派は、互いに正当性を主張し合った。
第6回世界大会
分裂騒動も、第6回世界大会を目指し汗をかき続ける黒澤浩樹にとって問題ではなかった。
(勝ちたい!)
(燃え尽きたい!)
それがすべてだった。
そして黒澤浩樹は第6回世界大会を勝ち進んだ。
準々決勝までの4試合を延長戦は1つもなく本戦で決め、その中には技ありを2つとっての1本勝ちが2つあった。
準々決勝の相手は八巻建志だった。
前回、4年前の世界大会では体重判定で勝った相手だが、その後、八巻建志は2度目の全日本大会優勝を果たし、100人組手も達成するなど進化していた。
自分からドンドン前に出る174㎝の黒澤浩樹の顔面を187㎝の八巻建志の前蹴りが襲う。
黒澤浩樹は構わず前に出て下段回し蹴り。
八巻建志はバックステップでかわし、上段への警戒を強めて両腕を高く構える黒澤浩樹のボディに前蹴り。
黒澤浩樹はバランスを崩しスリップダウン。
顔を強張らせた黒澤浩樹が渾身の力を込めた右下段回し蹴り。
八巻建志は打ち合わずスッと引いてかわす。
黒澤浩樹は構わず左下段回し蹴りを狙って踏みこむと、八巻建志は上段前蹴りをカウンターで入れる。
黒澤は吹っ飛ばされた。
八巻建志は猪のように突進してくる黒澤浩樹のボディに右膝蹴りを突き上げてから右後ろ回し蹴り。
右の踵がボディにめり込んだが、黒澤浩樹は何事もなかったように左下段回し蹴りを蹴った。
両者距離が潰れてもみ合いになり、一瞬、黒澤浩樹のガードが下がった。
「ガシッ」
八巻建志は右膝を捻りこむように突き上げた。
黒澤浩樹は顎を直撃されたが微動だにしない。
黒澤浩樹は決してあきらめずに前進し続け、下段蹴りと正拳で攻め続けた。
その下段は異常に強く、1発で相手を体ごと持っていき、下手すれば戦闘不能にしてしまう。
「バシッ」
あまりに強い黒澤浩樹の圧しと下段回し蹴りに八巻建志はバランスを崩し、たたらを踏んでバランスを後方に崩した。
一気に間合いを詰めようとする黒澤浩樹の顔面を八巻建志の左上段回し蹴りが襲った。
そして蹴った左足をマットへ接地すると同時に踏み込んで、右前蹴りをのけぞった黒澤のボディへ。
一瞬下がった黒澤浩樹は、すぐに距離を潰して下段回し蹴り。
八巻建志はそれを前蹴りでストップさせ逆に下段回し蹴りを返した。
「ドンッ」
そこで太鼓が鳴り、本戦が終了した。
両者共に決定打はなく、おそらく延長戦だろうと思われた。
しかし旗が3本上がり、八巻建志の勝ちとなった。

黒澤浩樹が最後の戦いと決意し挑んだ世界大会。
しかしその結果は中途半端で不完全燃焼なものだった。
本来は延長戦だった。
黒澤浩樹より若くて、より優勝が期待できる八巻建志をできるだけ少ないダメージで勝たせたいという意向があったのかもしれない。
空手母国である日本にとって、日本人同士のつぶし合いはマイナスだったのかもしれない。
しかし他の国からみれば、それはアンフェアな、ダーティーな行為であり、なによりも黒澤浩樹にとっては人生を破壊されるような行為だった。
黒澤浩樹は深く傷ついた。
日本、海外を問わず極真空手全体のためにも、その試合のためだけに1年間、必死に稽古とトレーニングを積む選手のためにも、あの試合は決着がつくまでやるべきだった。
極真空手の歴史をみるとそういった黒い試合が何試合もあることはほんとうに残念なことである。
極真という組織
「黒澤、お前、品川に道場出せ。
品川はお前の実家だろ」
極真が松井派と大山派に分裂後、山田雅稔は黒澤浩樹に新しく道場を出すことをすすめた。
分裂により空いた地域が増えたためである。
「いいんですか」
「もう関係ないから道場出せ。
いいよな、館長」
極真の新館長である松井章圭も請け負った。
「いや、もうどんどん出したらいいんですよ」
黒澤浩樹は、実家の駐車場を道場にすることを考えた。
第6回世界大会が終わったら品川に道場を出して、それを大きく育てていこうと思っていた。
黒澤浩樹の話を両親は快諾。
その土地は、道路建設のために東京都に売却する予定だったが、数千万円という多額の税金を払って土地をキープした。
その後も道路が通るはずだった土地を売却しなかったことによるトラブルで数千万のお金を支払った。
ところが第6回世界大会後、大山派だった広重毅師範が松井派に戻ってきたことで
「もう道場は出せない」
といわれた。
第6回世界大会で優勝した八巻建志と2位の数見肇は共に広重毅の弟子である。
その功績が評価され、何のペナルティもなく本部長の役職つきで復帰した。
納得できない黒澤浩樹に、山田雅稔は
「黒澤、品川もいいけど名古屋で道場やらないか」
といい
松井章圭は
「ぼくは知らない」
といった。
黒澤浩樹は両親に申し訳がなく「極真」とか「松井」と聞くと拒否反応が出て眠れなくなり鬱病のような状態になった。
PRIDE1
それでも黒澤浩樹は稽古とトレーニングだけは続けた。
しかし試合に出たいという気持ちは失せていた。
大山倍達がいなくなって極真は変わってしまったと感じていた。
1997年7月、試合のオファーが入った。
3ヵ月後、東京ドームでヒクソン・グレイシーと高田延彦の試合が行われ、その格闘技イベントへの参戦を求められた。
完全燃焼できなかった1995年の世界大会のこと。
変わっていく極真空手。
そして何より自分の力を信じて前進する、未知の領域に果敢に飛び込むという自分のスタイル。
様々な想いから、黒澤浩樹はそれを受けた。
8月にはKRS(格闘技レボリューション・スピリット、PRIDEの主催団体)代表幹事に就任。
「PRIDE1」は、格闘技を志す後輩にとって非常に有益なものに思えた。
しかし「PRIDE1」へ参戦すること、またKRSと関りを持つことに松井章圭館長は反対した。
2人は激しく口論した。
試合まで1ヵ月を切っても対戦相手もルールも決まっていなかった。
黒澤浩樹は焦った。
総合格闘技対策として、東海大学のレスリング部へ出稽古。
しかし具体的な相手もルールもわからないため、にわか仕込みの感が否めなかった。
やがて対戦相手は決まった。
イゴール・メインダート。
しかしその容姿や格闘技歴は不明だった。
「こんなんじゃできない」
黒澤浩樹は、試合が決まれば、それに向けてトレーニングを積み、様々な場面を想定した稽古を行う。
アバウトな形で試合に出ていくことはなかった。
焦って、夜中、1人道場にいき受け身の練習をし、逆に首を痛めた。
試合2日前、ルールミーティングで初めてイゴール・メインダートと会った。
203cm、130㎏の巨体を見上げたとき、首が痛くて仕方なかった。
ルールミーティングを終え、帰ろうとしたときKRSのスタッフがいった。
「黒澤さん。
リングのRの文字のところで戦えば倒されてもすぐにロープへ逃げられるから、常にRの上で戦ってください」
ロープブレイクありのルールのため、立ち技主体の黒澤浩樹はリングの端のほうで戦えば、倒されても、すぐにロープにふれることができる。
そしてレフリーのブレイクがかかり、苦手な寝技は止められ、再度立ち上がって戦い直すことができる。
そういうアドバイスだった。
しかし純粋な極真空手家には、この言葉はそう思えなかった。
(この人は何をいっているんだ。
俺はそんなレベルの戦いに出ていかなければならないのか)
同日、松井章圭館長から電話があった。
「黒澤君、どうなってるの?」
「どうもこうも2日後に試合をします」
1997年10月11日、突然、黒澤浩樹が、総合格闘技「PRIDE」のリングに上がった。
まだフランシスコ・フィリョがK-1のリングに上がる少し前のことである。
東京ドームで行われた「PRIDE1」は、高田延彦とヒクソン・グレイシー戦がメインだったが、ほんものの格闘技ファンなら、黒澤浩樹が総合格闘技のリングに上がったことが1番の関心事だったはずである。
はたしてあのローキックは通用するのか?
かつて大山倍達はいった。
「世界で1番強い格闘技は空手。
その空手の中で1番強いのは極真だ」
極真最強説を証明するために黒澤浩樹は適任だった。
試合に強いだけではない。
ケンカにも強い
そして一撃で相手を破壊することができる技と力。
死んでも戦うスピリットを持つ、ほんものの極真空手家である。
リングに向かう黒澤浩樹の道着には「極真」の文字があった。
しかし松井章圭も山田雅稔も観に来ていなかった。
試合は、3分×5R。
基本的には総合格闘技ルールだが、顔面パンチなし、ロープブレイクありという変則ルール。
1R、黒澤浩樹は、イゴール・メインダートの投げ技をこらえようと踏ん張ったときに
「ブチッ」
という音がして右膝十字靱帯を断裂。
前十字靱帯は、膝の過伸展を抑制する靱帯。
このとき黒澤浩樹の膝は180°以上の伸びて靱帯が切れたと思われる。
黒澤浩樹は戦い続けたが、右膝が壊れたことで本来のアグレッシブでパワフルな攻撃が出ない。
それでも戦い続けていると
「ブチッ」
という音がした。
このままでは右膝の靱帯がすべて切れてしまうかもしれない。
しかし黒澤浩樹が思ったことは、ただ
「やめない」
3R1分26秒にレフリーが試合を止めたのは妥当だった。
並みのファイターならとても戦えなかっただろう。
負けたとはいえ、黒澤浩樹の恐ろしさを垣間みた試合だった。
TKO負けとなった黒澤浩樹は、自力で一歩も歩けず、両肩を抱えられ花道から控室へ移動。
「これが現実だったのか」
やり切れぬ思いと激痛だけがあった。
全試合終了後、代表幹事として松葉杖をついてリングに上がって挨拶。
それが済むとすぐに自衛隊病院へ直行した。
レントゲン撮影して膝を固定してから帰宅。
松葉杖をつきながらトイレに行ったとき、油断した黒澤浩樹は誤って右足を床につけてしまう。
「グチャッ」
固定したばかりの膝が崩れ、倒れそうになった。
それだけで気持ちが悪くなり貧血を起こした。
気がつくとトイレの床に倒れていた。
寝たら最後動けなかった。
少しでも動こうとすると膝に激痛が走った。
不完全燃焼のまま敗れ大ケガを負った。
「何だったのか」
一晩中自問自答した。
極真を辞めても「俺は極真」
その後、黒澤浩樹は右膝靱帯断裂の手術を受け2ヵ月間、入院した。
松井章圭が見舞いに訪れたとき、2人は再び激しく口論した。
黒澤浩樹は病院のベッドの上で極真会館を辞めることを決めた。
1998年1月、帝国ホテルで松井章圭と会い話し合った。
言いたいことをすべて吐き出し、周囲の客が振り返るほど大喧嘩になった。
話は平行線で終わったが互いに気持ちをぶつけ合うことはできた。
黒澤浩樹は翌日、退会届を書いて送った。
その後、中野区に新道場「黒澤道場(現:聖心館)」を開いた。
極真を離れるというのに多くの弟子が黒澤浩樹についていった。
極真は黒澤浩樹にとって青春のすべてだった。
自分のすべてを賭けた。
黒澤浩樹は、極真を辞めてもその気持ちは変わっていなかった。
「俺は極真」
だった。
角田信朗とフルコンタクト空手ルールで対戦
1999年7月4日、黒澤浩樹は「PRIDE6」で正道会館の角田信朗とフルコンタクト空手ルールで対戦。
2年前に膝を痛めて以来の復帰戦を勝利で飾った。
K-1参戦 そんなものは世間が勝手に決めてる定説でしかないんです
2000年1月25日、黒澤浩樹は「K-1 RISING 2000」でマーカス・ルイスを1R56秒でKOした。
37歳。
プロのリングで初めての顔面ありルール。
チャレンジ魂全開だった。
「僕の年齢を考えれば、例のないことかもしれないですよ。
でもそんなものは世間が勝手に決めてる定説でしかないんです」

角田信朗とK-1ルールで対戦
2000年3月19日、黒澤浩樹は「K-1 BURNING 2000」で、角田信朗の右フックをもらって、1R1分53秒でKO負け。
Heart of Champion
2000年5月28日、K-1 JAPAN GP 1回戦で黒澤浩樹はグレート草津と対戦。
ガードを上げて押し込みながらローを入れる黒澤浩樹。
組んで膝を入れていくグレート草津。
黒澤浩樹は組んでからのボディーブローと離れ際にローを入れ続け、グレート草津の左腿にダメージをためていく。
本戦、延長引き分けの後、再延長ラウンドとなる。
黒澤浩樹の押し込んでからの右ローをグレート草津はガードできず迎え撃つ膝蹴りも出なくなる。
終始ローでダメージを与えた続けた黒澤浩樹が判定勝ちし、K-1 JAPAN GP 1回戦突破。
2000年7月7日、世界散打王者:滕軍に判定負けし、K-1 JAPAN GP 2回戦敗退。

2000年10月9日、「K-1 WORLD GP 2000 in FUKUOKA」で子安慎悟に1R1分22秒、KO負け。
2001年1月30日、「K-1 RISING 2001 〜四国初上陸〜」で村上竜司とドロー。
2001年8月19日、「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」で平直行と対戦。
1R、平直行はバックハンドブローで黒澤浩樹からダウンを奪い、2Rには胴回し回転蹴りもみせた。
2R終了時、黒澤浩樹の額からの出血が激しいためドクターストップがかかり黒澤浩樹のTKO負け。
2002年9月22日、「K-1 ANDY SPIRITS 2002」で、黒澤浩樹は須田渉と対戦。
須田渉は、全国高等学校空手道選手権大会団体組手優勝、個人組手優勝、第23回東北高等学校総合体育大会団体組手優勝、個人組手優勝という数少ない伝統派空手出身のK-1ファイターで体重が130㎏もあったが、黒澤浩樹は須田渉を3度ダウンさせ勝利した。
聖心館
2011年、黒澤浩樹は「黒澤道場」を「聖心館」に改称。
2017年3月25日、膝の手術を受け、まだリハビリテーション中に指導を行い急性心不全により死去。
54歳だった。
本当に最後の最後まで戦いを、前進をやめない男だった。

2017年7月7日、山田雅稔、松井章奎、増田章、岩崎達也、長嶋一茂、玉木哲朗らによって「黒澤浩樹を偲ぶ会」が行われた。
