佐山聡が虎のマスクをかぶるまで

佐山聡が虎のマスクをかぶるまで

佐山聡は、山口県に生まれ、子供の頃からアントニオ猪木を崇拝し「プロレスこそ真の格闘技」「プロレスこそ最強の格闘技」と信じ、プロレスラーになることを決めた。


佐山聡の父、文雄は東京生まれ。
文雄の兄(佐山聡の叔父)は、京都大学に首席で入学したが、在学中に肺結核で他界。
神田神保町で歯科医をしていた父(佐山聡の祖父)も亡くなると文雄は5歳下の弟、武雄と2人で満州へ移住。
それまで不自由なく生活していた兄弟は親戚にたらい回しにされ、文雄は厄介者扱いされながら満州の中学を通常より5年も遅れて卒業した。
満州鉄道に入社した年、日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したものの、文雄は経理の仕事を続けた。
しかし終戦数ヵ月前、満州を支配していた関東軍が18~45歳の日本人男子20万人を招集。
文雄も
「各自、包丁やビール瓶など武器となるものを携行すべし」
と書かれた招集令状を受け取った。
ソ連軍の侵攻が始まると役人、軍人、鉄道関係の上層部とその家族がいち早く脱出。
多くの民間人は取り残され、つぎはぎのようになった関東軍は並木を倒してバリケードをつくり、市街地の石畳をはがして壕を掘った。
文雄は爆薬の入った箱を渡され、戦車が来たら飛び出して体当たりして自爆するよう命じられ、1人で蛸壺に入った。
1945年8月15日、日本では玉音放送が流れたが、関東軍は
「生きて虜囚の辱めを受けず」
と抵抗を続けた。
やがて停戦命令が出ると戦車に遭遇せず命拾いした文雄は捕虜としてハバロフスクの収容所に連行された。
-30℃の中、炭坑や土木建設など重労働をさせされ、食事は、1日にパン1個とスープ3杯。
肺炎や栄養失調で倒れる者が続出したが、文雄は生き抜き、2年後、引き揚げ船で京都の舞鶴へ。
そして 関門海峡と瀬戸内海に面した山口県下関市長府の神戸製鉄に入社した。

文雄が日本に帰った1年後、1948年、24歳のカール・ゴッチがロンドンオリンピックのフリースタイル、グレコローマンスタイル、両スタイルの87kg級ベルギー代表として出場し、共に予選落ちした。
後に佐山聡の師となるカール・ゴッチは、ベルギー生まれのドイツ育ち。
10代でレスリングを開始し、第2次大戦中はナチス政権下のドイツの軍需工場で左手小指の大部分を失う事故に遭い、終戦直前には11ヵ月間、強制収容所に入れられたが、終戦し解放されると再びレスリングに打ち込んだ。
オリンピックから2年後の1950年にはプロレスデビューを果たし、ヨーロッパ各地のトーナメントへ参戦した。
レスリングの起源は紀元前。
古代の人々はレスリングを神と科学の芸術とみなし、実施者には文武両道が求め、数千年後の現在、アマチュアレスリングは

・つかむ場所に制限がなく全身を攻めることができるフリースタイル
・下半身を攻めてはいけないグレコローマンスタイル

という2つのスタイルで競技を行っている。
一方、プロフェッショナルレスリングは、1830年頃、フランスのサーカスや見世物小屋でレスラーが
「オレを倒したら50フランやる」
といって戦ったのが始まりといわれ、それが広まってレスリングだけの興業も行われるようになった。
試合は賭博の対象にもなり、プロレスラーは賞金稼ぎ。
彼らは真剣勝負を行ったため、100年以上、プロレスは誇り高き格闘技だった。

プロレスラーになって1年、イギリスのビリー・ライレージムを訪れたカール・ゴッチは、最初のスパーリングで1分もたたないうちに関節技を極めらて負けてしまった。
レスリングは基本的に相手を投げたり、倒したり、押さえつける競技。
しかし元イギリスミドル級チャンピオン、ビリー・ライレーが率いるジムで行われていたのは、
「Catch As Catch Can(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)」
と呼ばれるレスリング。
それは
「つかまえられるものならつかまえてみろ」
「やれるものならやってみろ」
というような意味だが、投げやフォールに加え、相手を戦闘不能にするサブミッション(関節技)があるレスリングだった。
例えば通常のレスリングでは相手にバックをとられると、投げられるのを防ぐために亀になったり、うつ伏せに長くなって寝ることがあるが、関節技があるとそうはいかない。
道場生がそんな体勢をとればビリー・ライレーは、
「この腰抜けが!」
とケツを蹴り、
「動け」
「立て」
と指示。
防戦一方になるのではなく、エスケープしたり、切り返しを試みることを求めた。
またビリー・ライレー・ジムでは、関節を極めるためにあらゆる技術を駆使した。
その蛇のからみつくような攻撃的ファイトスタイルから
「Snake Pit(蛇の穴)」
と呼ばれ、恐れられていた。
道場には厳しさ、真剣さ、熱さがあり、道場生のモチベーションは高かった。
カール・ゴッチは、この道場に数年間通い続けた。

1956年4月、中学2年生の猪木寛至、後のアントニオ猪木がブラジルに移住した。
11人兄弟の9番目として生まれたとき、神奈川県横浜市鶴見区の生家は石炭問屋を営む110坪もあるお屋敷だった。
しかし第2次大戦後、エネルギー需要が手間がかかる石炭から石油へと移行すると猪木家は徐々に苦しみ始めた。
小学校で1番体が大きく力も強かった猪木は、力道山をみて
「プロレスラーになりたい」
と憧れた。
中学生になると最初にバスケットボール部に入ったが、上級生にボールをぶつけられて仕返しにブッ飛ばしてしまい、すぐに退部。
5歳上の兄、快守がやっていた陸上競技の砲丸を持った瞬間、
「これだ!」
と思い、以降、学校には砲丸を投げるために通っているようなものだった。
「当時は横浜の鶴見から富士山がみえた。
富士山まで投げるぞっとそんな気持ちで練習していた。
でも近くにボトっと落ちちゃう」
こうして砲丸投げに熱中し始めた矢先、中2の4月、一家でブラジルに移住することになった。

ブラジルでは着いた翌日の朝の5時からラッパの音で起こされ、17時まで働かされた。
「最初はコーヒー園で、その後が綿花、そして落花生の畑で働きました。
季節によっても違いますが、午前5時に起きて日が暮れるまで働きました。
家に帰ってシャワーを浴び、食事を済ませてから寝るだけです。
1週間のうち日曜日だけが休みですが、その日もコーヒー園の中を片道2時間ほどかけて市場まで買い出し。
そんな生活でした。
ご飯はいっぱい食べましたね。
丼飯5杯とか米櫃が空になるくらい食べました。
それと豆ですね。
フェジョアーダという豆とモツを煮込んだような料理」
ある日、ブラジルでも陸上競技を続けていて快守が砲丸を買ってきて、久しぶりに投げてみると日本で投げたときより倍くらい飛んだ。
猪木は重労働によって鍛えられていることを実感。
再び砲丸投げにハマり、仕事の合間に投げるようになった。

アントニオ猪木がブラジルに移住した翌年、1957年1月27日、文雄が43歳のとき、佐山聡が誕生した。
1958年10月、1年半のコーヒー農園との労働契約が終えた猪木は、昼間はサンパウロの高校に通って砲丸投げの練習を、夜は青果市場で客が買ったものをトラックに載せる「かつぎ屋」の仕事をするようになった。
そして1959年、砲丸投げでブラジルの全国大会で優勝。
このとき日本プロレスがサンパウロ興業に来ており、力道山は新聞で猪木の活躍を知って興味を持った。
青果市場長は日本プロレスの招聘委員をしていて、それを知ると猪木をホテルに連れていった。
力道山はいきなり、
「裸になれ」
といい、その肉体に納得すると
「よし、日本へ行くぞ」
猪木の家族には
「3年でモノにしてみます」
といい日本につれて帰った。
帰国した猪木は、日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングと力道山の付き人の仕事が始まった。
日本プロレスの練習は半端なものではなく、スクワットによって流した汗が水溜りとなり、季節によっては湯気となって道場に漂った。
「常人では成しえないことを成すのがプロレスラー」
という力道山は、なにかあれば容赦なく竹刀を飛ばした。
そして朝から夜まで付き人としてついてくる猪木をまるで目の仇のように厳しく育てた。
リングシューズを履かせながら
「違う」
と蹴飛ばしたり、普通の靴も
「履かせ方が悪い」
といって殴ったり、飼い犬を番犬として教育するための実験台にしたり、ゴルフクラブで側頭部を殴打したり、走っている車から突き落としたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせたり
「声を出すなよ」
といってアイスピックで刺したり、素人に殴らせたりした。
猪木は本気で殺意を覚えたという。

1960年、アントニオ猪木がブラジルから日本に帰った翌年、オリジナルホールド「ジャーマン・スープレックス」でヨーロッパのトップレスラーとなったカール・ゴッチがアメリカへ進出。
カールゴッチにとってレスリングは誇りであり、偉大な格闘技であり、キング・オブ・スポーツだったが、アメリカのプロレスは完全なショービジネスだった。
必要なのは地味な寝技や本当の強さではなく、巨大な肉体を持つプロレスラーによる派手なアクションやパフォーマンス。
仕事として試合をするプロレスラーは、客に
「死んでしまうのではないか」
と思わせるような技を繰り出しつつ、実はできるだけできるだけダメージを与えないというのが理想的。
最強のレスラーがチャンピオンになると信じ、 常に素手でいかに効率良く人を殺せるかを考え、トレーニングと練習を怠らないゴッチは弱いレスラーに嫌悪感を抱いた。
相手に花を持たせようなど微塵も考えず、妥協も派手さもないゴッチのファイトスタイルはプロモーターから
「独り善がり」
「プロレスを理解していない」
と嫌われ、一方でファンは、その実力を
「真のプロレスラーでありシューター」
と評価され、アメリカでの評価は賛否両論だった。
ちなみに「シュート(Shoot)」とは真剣勝負を意味し、その反対は「ワーク(Work)」
共にプロレス界独特のスラングである。

1961年5月、来日できなくなったレスラーの代役としてカール・ゴッチが初来日し、日本プロレスのリングでジャーマン・スープレックスを決めた。
日本人は初めてみる「原爆固め」の美しさと迫力に驚いた。
その後、ゴッチはアメリカへ戻り、NWA世界ヘビー級チャンピオン「鉄人」ルー・テーズに挑戦したが、タイトルマッチで9戦5敗4分、ノンタイトルマッチでも7戦7分と1度も勝たせてもらえなかった。
6回目のタイトルマッチではテーズにバックドロップをしかけられて、その腕をとってわき固め(関節技)にいこうとして体重をあずけ、テーズが肋骨を骨折。
テーズが戦線を離脱したため、興行的に大きな損害を被ったプロモーターから恨まれた。
テーズは、
「本当に恐ろしい男」
「私を最も苦しめた挑戦者」
とその実力を認めたが、結局、ゴッチは「無冠の帝王」で終わった。

カール。ゴッチが初来日して3年後、小2の佐山聡は9歳上の兄、彰に連れられて近くの神社で行われていた柔道道場に入った。
2人は異母兄弟で、彰は先妻の子供、佐山聡は先妻の妹、みえ子の子供。
彰が、
「聡」
と呼ぶと、みえ子が
「聡ちゃんといいなさい!」
と怒ることもあった。
そういった家庭の事情から文雄は、佐山聡を母親(佐山聡の祖母)に預けることにした。
こうして佐山聡は、同じ下関市ながら瀬戸内海側の長府から日本海に面した綾羅木に引越し。
大自然の中、短パンにランニングで真っ黒になって遊び回る一方、明治生まれで非常に礼儀に厳しい祖母から、正座の仕方から切腹のやり方まで教わった。
「大きくなったら」
という題の小学校の作文では
「ぼくは大きくなったらけいさつになりたいです。
パトロールカーのうんてんしゅになりたいです。
りっぱなけいさつになって、とうとうおしまいに、けいしそうかんになりたいです。
そしてたくさんのどろぼうをつかまえようとおもいます」
と書いた。
小2で警視総監を志した佐山聡は、小4でキックボクサー、沢村忠に遭遇。
部屋の照明のヒモを蹴るようになった。

1967年11月、カール・ゴッチが再来日し、日本プロレスのコーチに就任。
東京、恵比寿に住み、渋谷のリキ・スポーツパレス(力道山が建てた総合スポーツレジャービル)で若手を徹底的に鍛えた。
ゴッチはすさまじいパワーとレスリング、関節技の技術、そしてさまざまなトレーニングメソッドを持っていて
「プロレスの神様」
と呼ばれた。
このときアントニオ猪木は24歳。
力道山が死去した3年後、東京プロレスを旗揚げしたものの3ヵ月で倒産し、日本プロレスに戻ってジャイアント馬場とタッグを組んでいた。
ゴッチは稀有な身体能力を持つアントニオ猪木を熱心に指導。
レスリングの技術だけでなく
「君たち日本人の手で、本物のプロフェッショナル・レスリングを取り戻してほしい」
とその精神を教え、それを猪木は熱心に聞いた。


「世界の荒鷲」「ビッグ・サカ」196cm、130kgの坂口征二は、猪木より1つ歳上だがプロレスでは後輩。
明治大学柔道部で神永昭夫の指導を受け、大学で団体でも個人戦でも優勝し、旭化成に入った。
1964年の東京オリンピックでは日本代表候補だったが、最後の夏合宿で腰を痛め、神永昭夫が決勝戦でオランダのアントン・ヘーシングに1本負けするのを間近で目撃。
「打倒ヘーシンク」に燃え、東京オリンピックの翌年、全日本大会で優勝し、世界選手権の決勝でヘーシングに優勢負け。
その後、ヘーシングが引退したため、メキシコオリンピックに目標を切り替え、必死に練習したが、メキシコオリンピックで柔道競技が採用されないことが決まると
「8年も待てない」
と目標を失い稽古に身が入らなくなった。
そんなとき日本プロレスからスカウトを受け、旭化成を辞めて入団した。
「すごく怒られてねえ。
明治大学柔道部のOB会なんて破門同様ですよ。
除名です。
明治大学の監督だった曽根康治さんとか神永昭夫さんとかにね、『お前、なに考えてるんだ!』って相当いわれたんですよ」
25歳の誕生日にジャイアント馬場と一緒にプロ入り記者会見をした坂口はカール・ゴッチにプロレスの基本を教わった。
そして日本プロレスで、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなった。
「ゴッチさんの指導は厳しいけれど、すごく真っ直ぐな人でプロレスに対する考えをハッキリ持っている。
まあ頑固おやじという感じ。
あまりガアガアはいってこないですよ。
お前、出来ないんならいいよと突き放す感じで、来る者は拒まず、去る者は追わずという人だった。
だからみんな必死でついていくんです」

北沢幹之は、
「有名になれば小4のときに家を出ていった母親に会えるかもしれない」
と思い上京し、同郷の力士を頼って相撲部屋に入ったが、その力士の独立に関わるゴタゴタを嫌って、
「プロレスラーになろう」
と完成したばかりのリキスポーツパレスで、力道山を待ち伏せして志願。
入門を認められて初めて道場に行ったとき、前年、ブラジル遠征でスカウトされた1つ歳下のアントニオ猪木がチャンコ番をしていた。
地上9階地下1階の巨大なリキスポーツパレスのい中には、リキボクシングジムもあって
(練習時間をズラして、同じリングを日本プロレスと共用していた)
伝説のボクシングトレーナー、エディ・タウンゼントや世界チャンピオン、藤猛がいた。
「お金とか関係なくただ強くなりたかった」
という北沢幹之は、ここにも通って練習。
寝技でもカール・ゴッチに極められないようにまでなった。
(リングスでレフリーをしていたとき50歳近い沢幹之は、ヴォルク・ハンとスパーリングをして1度も極めさせず「リングスで1番強いのは前田日明ではなく北沢幹之」といわれた)
そんな強さにこだわる北沢幹之が敬意を抱くのはちゃんと練習をしている選手だった。
「猪木さんは練習が好きでいつも一緒に練習していました。
関節が柔らかくてガッチリ極まって絶対に逃げられないはずでも横にひねって逃げる。
あの体で練習が好きだったらどうしようもない。
どんどん強くなっていく。
坂口さんみたいに大きな体をしていても練習が嫌いだとやっぱり弱いですよ」
またメキシコへ修行に出たときには別の意味で衝撃を受けた。
現地で先行していた柴田勝久と合流したのだが、彼がメキシコで売れていること驚いたのである。
「柴田ってすごい弱かったんですよ。
本当、ガチンコだったら片手でも勝てるっちゅうか。
自分は体も大きくなかったしスターの要素というのが全くなかったです。
客を呼べる選手って顔と体がよくても、ただ強いだけではダメなんです。
いくらがんばってこの世界にいてもいい思いはできないなと」

一方、山口県の佐山聡のブームはキックボクシングからプロレスに進化。
毎月、プロレス雑誌の発売日には日本海側の祖母の家から瀬戸内海側の実家近くの商店街にある本屋まで、自転車で山を越えて片道1時間走った。
お気に入りのレスラーの切り抜きを壁に貼り付け、部屋には雑誌が山積みになっていった。
学校では友人をつかまえて技をかけ、同級生のほとんどの男子がプロレス技をかけられた。
そして1969年、小6のときに祖母が体調を崩したため、長府の実家に戻って長府中学に入学。
プロレス部はなかったので、プロレスをするために柔道部に入部。
顧問は素人の上、練習にほとんど来なかったので、佐山聡はバックドロップやスープレックスのような裏投げをかけた。
中1の2学期で黒帯(初段)となったが、同時期に祖母が他界。
遺体に
「メキシコに行ってチャンピオンになります」
と誓った。
感覚的に
「自分は180cm以上にはになれない」
と思っていた佐山聡が
「空中戦主体のメキシコプロレス、ルチャ・リブレなら体が小さくても大丈夫だろう」
と思っての誓いだった。
(実際、佐山聡は大人になっても170cm前後だった)
図らずもメキシコを志した佐山聡だったが、その後、実際にミル・マスカラスが来日。
日本プロレスのリングのコーナーポストから星野勘太郎にダイビングボディアタックを浴びせ、そのままフォール勝ち。
中1の佐山聡はこの試合をTVで観戦し、虜になった。
自分でマスクをつくって、それをカバンに入れて登校。
休み時間にマスクをかぶって同級生にドロップキック。
放課後は体育館でマットを敷き、跳び箱の上からダイビングボディアタック。
最終的に同級生が止める中、1番分厚いクッション性の良いマットに向かって体育館の2階部分から飛び、
「ドーン」
という音をさせながら無事、技を決めた。
家に帰ると新しいマスクづくり。
それは色を塗るのではなく、いろいろな色の生地を貼り合わせたもので、中には毛糸製のものもあった。

同年、日本プロレスとのコーチ契約が終わったゴッチがアメリカに帰国。
TVが普及し、ますますショーアップされたプロレスとは合わず、プロモーターにも敬遠され、自分のスタイルを変えることはできないゴッチは、ハワイへ移住。
ホノルルでプロレスラーとして活躍したがプロモーターとトラブルとなって解雇され、ゴミ収集の仕事を始めた。
トレーニングのために車には乗らずに並走し、集積所につくとバケツの中のゴミを収集車に放り込み、再び走り出した。
仕事が終わると試合もないのにハードにトレーニングと練習を行い、夜は早く寝てコンディショニングを整えた。

また同年、文雄が55歳で神戸製鋼を退職し、関連会社に就職。
さらに1年後には住吉運輸という新会社に転職した。
住吉運輸は、神戸製鋼の下請け会社である住吉工業の子会社だった。
神戸製鋼長府工場で労働組合委員長をしていた文雄は、神戸製鋼の先輩で市議会議員になっていた中村農夫の紹介で住吉運輸に入社した。
文雄は左翼だった。
(左翼=経済的または政治的下層階級の集まりや代表。
右翼=上流または支配階級の集まりや代表。
保守的な右翼は固定化された特権や権力を防衛し、左翼はそれを攻撃する)
一方、佐山聡は大人になるとバリバリの右翼となる。
1999年に「掣圏道(現掣圏道掣圏真陰流)」を設立するが
「真の日本精神を復活させる」
といって、選手は金髪、ピアス、タトゥーなどは禁止で、ロープがない八角形の試合場に刀を持って袴をはいて入場。
礼儀作法を重視し、ガッツポーズ、相手への暴言、笑みをみせる行為などは反則。
観客にもスリーピースのスーツ着用を奨励した。
2001年に第19回参議院議員通常選挙比例代表区出馬したときは演説で
「暴走族は撃ち殺せ!」
と発言し話題となった。
天皇制、第9条に反対する人間やマスコミを嫌い、
「既存の価値観を否定することを是とする共産思想とフリースタイルがはびこり、マスコミの報道によって、それが世界の常識と信じ込まされてきた」
「現代人のマナーが乱れきっているのは今の日本に武士道精神のような原理主義がないから。
問題はいつからこうなってしまったのか?ということ。
かつて日本には“武士道という原理主義があり、礼儀や作法も非常に厳格だったわけです。
そうした厳しい教えが、戦争に負けたことによって否定され、なくされてしまったんですよ」
「ヒップホップの上っ面だけマネて『マザーファッカー』とかいって中指立てたりしてるバカがいるけど、あんなの許せるわけないでしょう」
「電車で妊婦を席に座らせないとか、マナーがなってないヤツがいたら注意しますよ」
などと熱く語った。
親子そろって正義感が強かった。

1971年3月、国際プロレスの招聘に応じてカール・ゴッチが来日。
日本プロレスで営業部長だった吉原功(早稲田大学レスリング部出身、元プロレスラー)は、力道山の死後、独立して国際プロレスを設立し、日本プロレスに対抗すべく奮闘していたが、ハワイでゴッチが清掃業をしているのを知ると
「もったいない」
と招聘を決めたのである。
46歳のゴッチは、2m23cm、170kgモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)にジャーマン・スープレックス・ホールドを決めた。
そしてアニマル浜口ら国際プロレス所属の日本人レスラーをスパーリングでオモチャにしながら鍛えていった。
アニマル浜口は、暇さえあれば練習をするゴッチをみて
「プロレスの神様じゃなく練習の神様」
と思った。
「ゴッチさんはプロレス、いやレスリングといったほうがいいかな、レスリングで勝つためにはどうしたらいいか、四六時中考えていました。
ヨガを研究するために古代インドの歴史やヒンドゥー教、さらにはアーユルヴェーダ(インドの伝統的医学)など、あらゆることを勉強していて、僕も勝つために『ヨガをやれ』といわれましたよ」
国際プロレスで再びプロレスラーとして再生したゴッチは、6年ぶりにアメリカのマットに復帰した。
そんなとき日本プロレスを追放されて新しい団体を立ち上げようとしていたアントニオ猪木が、アメリカのゴッチを訪ね、協力を依頼した。


28歳の猪木は女優の倍賞美津子と結婚していた。
馴れ初めは先輩の豊登が自分の車(トヨタ、センチュリー)を
「こんな車に乗りやがって」
と女子3人が蹴飛ばすのを見つけたこと。
その中の1人が倍賞美津子だった。
豊登は彼女たちを食事に誘った上、家まで送り届け、その後も連絡を取り続けた。
猪木は豊登に連れられて倍賞美津子と初めて会い、その明るさに惹かれた。
出会いから5年後、1億円をかけた式を挙げて2人は結婚。
しかしその1ヵ月後、会社を改革をしようと動いていた猪木は日本プロレスから追放されてしまった。
「迷わず行けよ」
と行動主義のアントニオ猪木は、世田谷区野毛、多摩川沿いの2人の新居となるはずだった一戸建てを改造。
庭を潰して道場に、家の2階部分を増築し寮にした。

1971年11月、結婚
12月、日本プロレス追放
1972年1月、「新日本プロレス」を会社登記
3月、旗揚げ戦

という超スピーディーに新団体立ち上げを進めたが、カール・ゴッチへの協力依頼もその中の1つだった。
新日本プロレスの所属選手は、アントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人のみ。
旗揚げ戦前に募集した練習生は、あまりの厳しさに逃げてしまった。
メジャーな外国人レスラーは日本プロレスと国際プロレスに抑えられていたので、ゴッチがブッキング。
サーカスのようなプロレスにウンザリしていたゴッチは、猪木がやろうとしているシリアスなプロレスの実現のために実力のある選手を呼んだ。
そして1972年3月6日月曜日18時半、大田区体育館で旗揚げ戦がスタート。
全6試合。
メインはカール・ゴッチ vs 猪木。
会場は5000人満員でひとまず成功したが、以後、テレビ放映のないまま苦戦が続いた。

1972年夏、新日本プロレスの旗揚げ戦から数ヵ月後、ドイツのミュンヘンでオリンピックが開かれ、佐山と同じく山口県出身の吉田光雄、後の長州力が出場した。
在日韓国人二世の長州は小学校時代、教師からも差別を受けた。
中学では柔道部に入り、桜ケ丘高校にはレスリング部の特待生として進学。
3年生でインターハイ準優勝、国体優勝。
専修大学に特待生として入学した。
「今でも思い出すよ。
山陽本線の「あさかぜ」に乗ってね。
寝台列車だよ。
体育寮で使う布団を抱えてさ。
親からもらった3万円を腹巻きのなかに入れてね。
それで東京駅に着いたはいいけど、出口がわからないんだよ。
ちょうど朝の通勤ラッシュ。
誰に聞いたって、あっち、こっちといってくれるけどそれがどこかもわからない。
布団を抱えたまま駅の構内を30分以上も歩き回ってね。
アレは本当にまいったよ」
大学2年生で全日本学生選手権90kg級で優勝。
3年の年生のとき、ミュンヘンオリンピックを迎えたが、日本国籍がないことから日本代表にはなれず、
「じゃあ俺、何人?」
と思いながら、急遽、韓国の選考会に出て、フリースタイル90kg級韓国代表となった。
メダルには手は届かなかったが
「立てた目標に対しては、たどり着けたっていう思い」
とこの頃から常に明るく前向きだった。
(その後、4年生で専修大学レスリング部のキャプテンとなり、全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの100kg級で優勝。
大学卒業後、新日本プロレス入りした)

1972年11月2日、旗揚げ戦から8ヵ月後、藤原喜明が新日本プロレスに入門した。
岩手県和賀郡江釣子村の6人兄弟の長男。
農作用の馬を飼っていて、冬場は仕事がないため運動不足解消のため散歩させるのだが、藤原喜明は凍てつく空気の中、上半身裸で馬に乗った。
肌が針を刺されるように痛く、村人にバカ扱いされた。
「平気だった。
強くなりたかった。
俺の頭の中には強くなる=苦しむという発想しかなかった。
苦しみを我慢すればするほど強くなれると信じていた」
工業高校の機械科に進むとボディビルの本を購入し自己流でトレーニング開始。
高校卒業後、埼玉県内の建設機器メーカーでサラリーマンをしたが、20歳で退職。
料理人をしながら金子武雄(重量挙げ全日本ライト級チャンピオン、日本プロレス所属のレスラーだったがセメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退)のジムで練習を続けた。
新日本プロレス入門10日後というスピードデビュー、かつ23歳という遅咲きでデビューを果たし、1年後には6歳上の猪木の付き人になり、合同トレーニングの後は猪木と特別練習。
それは1984年にUWFに移籍するまで10年以上続いた。
「考えてみたら、人の2倍、3倍、練習していたよな。
そのおかげだな。
俺のヒザはボロボロだよ」

藤原喜明は、カール・ゴッチに出会い、初めてその関節技をみたとき、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け
「本物だ」
と思ったという。
「 当時、若手のコーチ役は山本小鉄さんで、その指導は非合理的というか、スパーリングやっていて
『 これ、どうやって極めるんですか?』って聞くと『根性で極めろ』って。
もちろん非合理的な指導も必要なときもありますが、それを聞いたときは「この人、大丈夫かな」と思いました。
それで入門してしばらくしてゴッチさんの指導に接して「あっこれは本物だ」って感じたんです。
ゴッチさんは日本語もしゃべるんだけどめちゃくちゃなので、それで話されるとわけがわかんなくなる。
ですから基本的には簡単な英語でやりとりしていましたよ。
1日にいくつも関節技を教わるんだけど覚えきれなくなる。
あるとき、ハッと気がついて、1日に1つだけ教えてもらったことをノートに克明に書き残して、それを確実に覚えていくようにしたんです。
オレは頭が悪いからものごとを覚えるのにすごく時間がかかるんですよ。
だけど1度覚えるとずっと覚えている。
高校時代のことだってちゃんと覚えている。
オレは工業高校の機械科で、得意な科目は体育が5で、応用力学、機械工作が5。
これはどういうことかというと運動神経がまあまあいい上に力学、つまりテコの原理がわかっていて工作が上手、つまり手先が器用なんですよ。
だから関節技を習得するのにピッタリだったんだな。
あともう1つ。
骨が太い」

柔道部でバックドロップやスープレックスのような裏投げを繰り出していた佐山聡は、市の大会でも優勝したことがなかった。
しかし誰にでもプロレス技をかけていたため番長グループにも恐れられた。
友人が他校の生徒とケンカになったときも、
「ケンカするなら俺としてくれ。
こいつはせん。
俺がするけん」
と買って出たが相手は去ってしまった。
プロレスファンは馬場派か猪木派にわかれたが、佐山聡は猪木派。
アントニオ猪木を崇拝し
「プロレスこそ真の格闘技」
「プロレスこそ最強の格闘技」
と信じ、プロレスラーになることを決めていた。
そしてプロレス誌に掲載された新日本プロレスの新弟子応募条件を穴があくほど見つめた。
「16歳までなら175cm。
高校卒業後だと180cm以上だったかな。
背が低かったので早く入らねばならないと思ったんです」
中3になると
「中学を出たら新日本プロレスに入る」
と進路を希望したが、教師と親に
「高校だけはいけ」
「アマチュアレスリングでオリンピックに出てからプロになれ」
といわれレスリング部のある高校に進学することにした。
卒業文集の寄せ書きには
「血はリングに咲く赤いバラ」
と書いた。

旗揚げ戦から1年後、新日本プロレスはテレビ朝日と放送契約を結んだ。
カール・ゴッチは、アントニオ猪木とは5回対戦し、3勝2敗。
手紙や電話で選手をブッキングし、コーチ、セコンド、タイトルマッチの立会人として来日することも多く
「かつてプロレスは相手をねじふせ、マットに這わすことに全力を集中した。
しかし近頃はダンスやファッションショーにまでなり下がり、現在は悪貨が良貨を駆逐する時代になってしまった。
良貨が悪貨を打ち破っていく時代が来て欲しい」
と訴えていた。
しかしゴッチが呼ぶのはレスリングはできるが客は呼べないレスラーばかり。
猪木はゴッチと理想を共にしていたが、会社経営を優先させ、ロサンゼルスで新しいブッカーを雇った。
そしてカナダ、トロントで2流のベビーフェイスだったタイガー・ジェット・シンと流血戦をしたり、大木金太郎との力道山時代の同門対決など話題性のある試合を行った。
新日本プロレスの経営が安定するに従い、冷遇され始めたゴッチは
「シリアスなプロレスをやる団体をやるといっていたのに1年経つと元通りさ」
と嘆き、アメリカのフロリダ州に家を買った。
フロリダ州、タンパの北部の小さな町、オデッサは湖が多く、ゴッチの家も湖畔にあった。
書棚に宮本武蔵の「五輪書」、新渡戸稲造の「武士道」、笹原正三(メルボルンオリンピック、フリースタイルレスリング、フェザー級金メダリスト)の「サイエンティフィック・アプローチ・トゥ・レスリング」など世界各国の武道・格闘技関連、そして人体やトレーニングに関する書物が並んだ。
車が2台入るガレージには、バーベル、ダンベル、トレーニングベンチ、インドのメイス(長い鉄棒の先に思い鉄球がついたトレーニング器具)、イランのミリィ(棍棒のようなトレーニング器具)などが置かれトトレーニングルームとなった。

しかし「燃える闘魂」は決してダテではなかった。
アントニオ猪木は、まず誰よりも練習した。
練習第一の猪木が新団体立ち上げるために1番最初にしたことは道場を建てたこと。
そして所属レスラー全員に合同練習を義務づけた。
猪木が入ってくると道場の空気が一変し、一瞬の気の緩みも許されなくなるという。
「前の晩も試合はもちろん、洗濯やらの雑用もある。
疲れていたから早起きはキツかった。
毎朝、30分ぐらいかな、走る。
ああ、終わったって思うとスクワット。
毎日嫌になるぐらいやっているんだよね。
でも一緒にやらなくちゃいけない」
(藤原喜明)
試合で遠征中も必ず合同練習が行われ、朝は晴れていればランニング、雨なら風呂場でスクワット1000回。
午後も試合が始まる30分前まで試合用のリングでスパーリングやトレーニングをしてから客を入れた。
あるとき3週間休みなしで巡業が続き、後半に入るとみんな疲れて合同練習に参加しなくなったが、猪木は1人で黙々とスクワット。
そして
「集まれ!」
と号令をかけ、リングの周りに並べ
「やる気がないなら帰れ」
といって全員を殴った。

新日本プロレスの若手は、道場に隣接する寮に住んだ。
そして8時半起床し、掃除などをしてから10時から合同練習開始。
まず全員がリングの周囲を囲んでスクワット、腕立て伏せ、縄跳びなどのトレーニングを1時間半から2時間行うが、夏は40度を超えて汗だまりができる。
次はリングの上でストレッチ、腹筋、ブリッジ、受け身、タックル、ロープワークなど基本技術。
それが終わるとスパーリングとなる。
最大で4組8人がリング上でひしめくため、自然と寝技多くなる
それは関節技あり、締め技あり、フォールなしのサブミッションレスリング。
これを道場ではスパーリングと呼ばず
「セメント」
あるいは
「ガチ」
「ガチンコ」
と呼んだ。

プロレスには台本があり、勝敗は事前に決まっていて、プロレスラーの目的は勝利ではなく観客を興奮させ楽しませること。
ミュージシャンが楽器や演奏の練習したり、俳優が演技やセリフの練習をするように、本来、プロレスラーは、パイルドライバー、バックドロップ、ボディスラム、4の字固めなど技のかけ方、受け方を練習をする。
しかし新日本プロレスでは、そういった練習はほとんどせず、基本的にトレーニングとセメントだけ。
試合は、ケツ(最後の勝敗)は決まっていたが、試合中はすべてアドリブでセメントもやった。
猪木は
「どんなに素晴らしい試合より街のケンカのほうがおもしろい」
と感情ムキ出しのファイト、気迫ムキ出しの試合を推奨。
試合でセメントの要素がないと
「何やってるんだ!」
と怒った。
またチャレンジすることが大好きな猪木は、若手がリングで挑戦的なことをやったり、それを失敗しても責めない。
しかし気合が入っていない試合をすれば、試合中でも竹刀を持ってリングに上がって滅多打ちにすることもあった。
だから新日本プロレスのリングには、常に危険な香りが漂っていた。

1973年4月、佐山聡は、レスリング部がある山口県立水産高校に進学。
学校が実家から50km離れていたため寮に入った。
水興寮は4階建てで、1階が事務所と食堂、2階以上が寮。
1部屋に1年生、2年生、3年生が1人ずつ入った。
入寮して数日後の深夜、新入生は上級生に起こされた。
2階の真っ暗なテラスにつれていかれ
「はい、整列」
と並んで朝まで正座し、足を崩すと拳や竹刀が飛んできた。
ある日の深夜は部屋に呼ばれて
「とにかく先輩のいうことを聞け」
と真っ暗闇の中、パンチ&ビンタ。
パンチはボディに、ビンタは顔面に入れられた。
こういったシメは、なにかあると行われ、週2のペースであった。
寮生は7時に起床し、点呼、体操、掃除を行い、7時半に食堂で朝食を食べてから登校。
学校まではカケ足で、校舎前に海難事故で亡くなられた人をまつる慰霊碑「燈心台」があって敬礼。
学校内で上級生に出会えば敬礼したため
「敬礼は1日300回くらいやっていた」
(佐山聡)
学校には通学生もいて、1年生は上級生に
「シメろ」
と命じられていたが、最初にシメたのは佐山聡。
同級生は
「やるなあ」
「あいつは何も考えずに行く」
と感心した。

佐山聡は、入学直後、4月22日に行われた山口県高校レスリング大会の75kg級で3位になり、国体候補選手になった。
山口水産高校レスリング部顧問は柔道経験者だがレスリングは素人だったので、週1回、周南市の桜ケ丘高校レスリング部に出稽古にいかせた。
ここで佐山聡は長州力の師である江本孝允に指導を受けた。
「江本先生に首投げ、タックルを教えてもらってから3年生にも面白いように勝てるようになりました」
というレスリングを始めて1ヵ月の佐山聡は、国体候補合宿でインターハイ4位と対戦しフォール勝ち。
数ヵ月後、11月18日、1年生と2年生が対象の新人戦に75kg級でエントリーしたが、他の選手が佐山を避けたため、出場者は1人だけだった。
「1試合も戦わないまま優勝させるわけにはいかない」
ということで佐山は、1階級下の1位、、2位、3位、1階級上の1位の4人と対戦し、その成績次第で75kg級の優勝が認められることになった。
佐山聡は4人にフォール勝ち。
この勝利で高校を中退することを決意した。
「1年生の新人戦に勝って有頂天になるわけですよ。
もうプロレスにいけると。
背が低かったから早く入らねばという思いも強かったですね」


新人戦から1ヵ月後の12月、学校で「はやり目」と呼ばれるウイルス性の急性結膜炎が流行った。
「どうやったら新日本プロレスに入れるか」
佐山聡が考えていた佐山聡は、同級生の1人がはやり目にかかると、その炎症を起こした目を指で触って自分の眼球になすりつけた。
するとみんな学校を休みたいので
「俺もくれ」
「俺もくれ」
といい出し、クラスの2/3が罹患。
学級閉鎖となり、全員で同級生の実家で隔離生活を送った。
やがて目が治るとみんな学校に戻ったが、佐山聡だけは長府の実家へ。
プロレス誌に書かれた記事を参考にトレーニングメニューを作成し黙々とこなし、夜、プロレス中継があれば欠かさずチェック。
高校を辞めないよう説得する父、文雄と衝突し、悶々とした日々を過ごし、駅前でヤンチャそうな高校生にケンカを売って、路地裏で行き場のない力を爆発させることもあった。

「下の息子があんたくらいの身長と体重なんやけどプロレスやりたいっちゅうんや。
やれるやろか?」
文雄は職場の元プロボクサーに聞いた。
「ヤマハブラザースの星勘太郎と山本小鉄は2人とも170cmないはずです。
大丈夫やと思います」
「ああ、そうか」
年が明け、1974年2月、根負けした文雄は、自分の紹介する仕事に就くという条件で上京を認めた。
佐山聡は寝台特急あさかぜに乗り、東京駅で降りると丸の内のビル群に圧倒された。
そして千葉県の六方町の神戸製鉄所の関連会社、サンアルミニウム工業の寮に入り、朝から夕方まで工場で仕事。
自主トレーニングに加え、会社のサッカー部に入り、背番号3をつけて千葉県内の企業リーグ戦にも出場。
そのうちに父親が手を回していることに気づいた。
「親父は工場の人たちに息子をプロレスに近づけないでくれといっていたんです。
僕はすっかり頭に来てしまい、すぐに辞めることにしました」
寮を出て千葉県柏市の新聞販売店に転がり込んだが、これも文雄の紹介だったため、結局すぐに辞めた。
「とにかく東京に出ないと」
フリーペーパーどころかアルバイト雑誌もない時代、新聞販売店を飛び出した佐山は、東京に向かって移動。
さまよい歩きながら「募集」という張り紙を見つけると、その店に飛び込んだ。

1974年8月、佐山聡は、東京都荒川区南千住のレストラン泉で住み込みで働き始めた。
地上7階地下2階のビルの1階部分がレストラン泉で、地下2階はサウナ。
契約では2食だったが佐山聡は3食をレストラン泉で食べさせてもらい、その上、毎日サウナも無料で入らせてもらった。
そして実家に近況を知らせる内容と
「聡は必ずプロレスラーになりますから、これがお父さんに返事を聞く最後の手紙です。
プロレスラーになってよろしいでしょうか?」
と最後の
「プロレスラーになってよろしいでしょうか?」
の部分を大きく、太書きにした手紙を送った。
また新日本プロレスの営業本部長、新間寿にも手紙を出した。
新間寿は、中央大学時代に柔道部に所属し、人形町の日本プロレスの道場で力道山をはじめプロレスラーと知り合って、その強さに憧れた。
165cmと小柄な新間は、佐山の一途な気持ちをひしひしと感じた。

1974年10月、レストラン泉で働き始めて2ヵ月後、佐山聡は
「坊や、おいで」
と新間寿に電話で南青山の新日本プロレスの事務所に呼ばれた。
新間は、佐山の顔、立ち姿勢、対応、礼儀、言葉遣いが気に入った。
「今夜、後楽園ホールで試合があるけどいくか?」
「いきたいです。
どういう風にいったらいいんですか?」
佐山聡は事務員に連れられて後楽園ホールへ。
ちょうど試合前の練習が始まろうとしていて、佐山はそこに加わって、スクワット500回、ブリッジ3分をやった。
スクワットは最初は300回のはずだったが、佐山がこなしてしまったので急遽500回に増えて、周囲がムッとするのを感じた。
「スクワットを500回。
もう根性ですよ。
絶対にプロレスラーになりたいという気持ち。
それでブリッジも3分間やったんです」

最後はリングでスパーリング。
相手は藤原喜明だった。
「俺たちがスパーリングしてたら小鉄さんが連れてきて一緒にやったんだよ。
あんときアイツは17歳だっけな。
ちっちぇのに高校のアマレスチャンピオンだったとかいってたけどグチャグチャにしてやったよ。
でも歯応えはあったよ。
結構やるなと。
ただちっちゃいから苦労するなと思った。
ああ、思っただけでなくいったかもしれないな」
コテンパンにやられた佐山聡は悔しくて、その後、試合を観たはずだが覚えているのは藤波辰巳の肉体美と誰かに
「体重を増やしてこい」
といわれたことだけ。
そしてレストランで働きながらバンバン食べた。
台東区の日本ボディビル協会にも通い、ひたすら食ってひたすらトレーニングという日々を送った。

同年、極真空手の第6回全日本大会に、アントニオ猪木をはじめ数人のレスラーが参加申し込み。
「ある雑誌(少年マガジン)で広告をみまして・・・
新しいルールによる真剣勝負と謳ってあり、ボクシングでもキックでもプロレスでも、誰でも参加できるということを読んだものですから、カッと血が熱くなりまして・・・
でも考えてみるとスケジュールの調整がどうしてもつかないんで残念ながら諦めました」
(アントニオ猪木)
そして新日本プロレスはブラジル興行へ。
「誰の挑戦でも受ける」
というアントニオ猪木の言葉を聞いて、ボクシングと柔術をバックボーンに持つバーリ・トゥード(なんでもあり)最強の戦士、イワン・ゴメスが、ブラジル北東部から南部のサンパウロまで、すさまじい距離を運転してやってきて
「挑戦したい」
といった。

イワン・ゴメスは172cmと小柄ながら全身筋肉。
23歳のときにグレイシー柔術の始祖、カーロス・グレイシーの長男、カーウソン・グレイシーと対戦し、引き分け。
以後、バーリ・トゥード12年無敗だった。
「このヤロウ。
ずいぶんなめたことをいってくれるじゃねえか」
猪木は思ったが、このハイリスク、ローリターンな戦いを受けるはずがなく、逆に新間寿は
「月給1500ドル(約45万円)+試合給」
という条件でイワン・ゴメスをスカウト。
新日本プロレスの練習をみてセメントレスリングに興味を覚えたゴメスは、それに応じ、来日。
基本的にチョークスリーパーとヒールホールドしか使えない、強いが地味なゴメスは、ずっと前座で、アントニオ猪木と戦うことはなかった。
しかしレスリングのトレーニングをしつつ、新日本プロレスのレスラーに自身の技術を教えた。
藤原喜明は、イワン・ゴメスからヒールホールドを学んだ。
後にサンボの麻生秀孝から膝十字固めを学ぶなど、足関節においてはカール・ゴッチをしのぐといわれ
「関節技の鬼」
と恐れられる藤原喜明だが、特にそのわき固めは必殺の切れ味で
「フジワラ・アームバー」
と呼ばれた。

1975年6月、新間寿は
「道場に来い」
と佐山聡を呼んだ。
道場に現れた佐山聡をみて、アントニオ猪木は新間寿を呼び出した。
「お前が入れたのか?」
「はい、入れました」
「ちっこいのばっかり入れるなよ」
190cmの猪木は、吐き捨てるようにいった。
佐山聡より2歳上の小林邦昭も
「第1印象はどこの坊ちゃんが来たんだろうという感じ。
かわいい顔してるでしょ。
とにかく練習は厳しいから大丈夫かなと思った」
という。
ちなみに小林邦昭は藤原喜明より歳下だが入門は1年早く先輩だった。
1975年7月、こうして佐山聡は、藤原喜明から3年遅れで、新日本プロレスに正式に入門。
新日本プロレスでは藤原喜明以降、すべての新弟子が辞めていた。
理由は地獄の練習。
「洗濯にいってきます」
といって帰ってこなかった新弟子もいた。
しかし佐山聡は逃げなかった。
10時から練習が始まり、準備運動で、スクワット500回、あるいは1000回。
トタンづくりの道場は夏は45℃を超え、そんな中で3、4時間練習し、14~15時で終わると、その後に食事。
チャンコ番が1週間に1度回ってきて、そのときは早めに練習を終える。
練習後、外出は自由。
しかし月給5万円では、毎日、遊びに出ることはできなかった。

これまでやってきた柔道やレスリングは、いかに投げるかだったが、新日本プロレスの道場で行われるスパーリングは、いかに極めるかというサブミッションレスリング。
佐山聡は、一瞬で極まり、1度極まれば逃げることができない関節技にのめりこんでいった。
トレーニングも徹底的に行い、小柄な体でベンチプレス160kgを挙げ、腕相撲は坂口せいじについで新日本プロレスで2位になるほどのパワーをつける。
常にノートを持ち歩き、トレーニングや練習を記録し、思いついたことを書きとめ、熱心に研究。
また新弟子の仕事にはいろいろな雑用もあり、それも忘れないようにノートにメモし、マジメで気の利く後輩となった。
あるときの巡業後、山本小鉄は帰りのタクシーに会社の金、800万円を置き忘れ、付き人をしていた佐山聡に、
「責任を取って坊主になろう」
といい、2人で剃り合った。
翌日、2人で歩いていて親子に間違えられ、佐山聡はショックを受けた。

その山本小鉄に
「世話してやれ」
といわれ、佐山聡は、すでに会社から冷遇され、道場でも村八分状態になっていたイワン・ゴメスの付き人となって、公私共に帯同した。
ポルトガル語しか理解できないゴメスと片言の英語とジェスチャーでコミュニケーション。
バーリ・トゥードのリングで選手が血まみれになって戦う写真をみせられた。
ゴメスはマウントポジション(馬乗り)でのコントロールやポジショニングの重要性を必死に説明。
それはカール・ゴッチにはなかった教えだった。
1976年2月、イワン・ゴメスがブラジルへ帰国するとき、空港まで見送りに行った佐山聡は別れが悲しくて泣いた。
そしてこの後、藤原喜明と共にアントニオ猪木の付き人となった。

佐山聡はカール・ゴッチから指導を受け、技術、体力、精神 どれをとってもセメントでは史上最強のレスラーだと思った。
「ゴッチさんは、レスリングと極め技の達人といわれているが、実はボクシングも大好きで、最も凄いのはケンカだった。
蹴りは嫌いだったがパンチは得意で、打撃と実戦と精神面の話は何度も聞かされた。
私はいうまでもなく藤原(喜明)さんも実はパンチとキックの心得がある。
私達は基礎である極め技と、実戦とは何かを魂に叩き込まれていたのだ。
それだけではない。
最も重要なのはゴッチさんに人生を教えられたことだ。
服装、食事、態度から人生とはこうあるべきということまでを教えられた。
レスラーならこうあるべきという所をサムライならこうあるべきだと教えられたといえばよくわかるだろう。
ゴッチさんは宮本武蔵が好きだった。
不良や世の中の間違った行為も許さなかったし、実際に注意されたり投げ飛ばされた者は何人もいる」

1ヵ月後の1976年3月、入門8ヵ月の佐山聡はプロレスの秘密を知ってしまった。
新潟県長岡市で興行が終わった後、ホテルで藤原喜明とあるレスラーと口喧嘩をはじめ、同じ部屋にいた佐山は
「そんなこといっても藤原先輩はあの先輩に勝てないじゃないですか」
といった。
「お前はプロレスのことを何も知らない。
試合で俺は負けてやったんだ。
俺にボディスラムをかけてみろ」
いわれてかけてみるとプロレスラーとしては小さい藤原がビクとも動かない。
「もう1度やってみろ」
といわれやってみると今度はかんたんに持ち上がった。
「プロレスは真剣勝負の世界なんかじゃない。
お互いが協力するショーだ」
プロレスは真の格闘技で真剣勝負をしていると信じていた佐山聡は、天地がひっくり返るような衝撃を受け、同時にプロレスラーに抱いていた畏怖の念も消し飛んだ。
ただしカール・ゴッチやアントニオ猪木、藤原喜明、イワン・ゴメスなど一部の人間は別。
彼らの強さが本物であることは体で理解していた。
佐山はプロレスのフェイクファイトを先輩たちへの尊敬で相殺しつつ、デビューに向けてトレーニングを続けた。
そしていつしか寮の部屋に自分の理想を書いた紙を貼った。
「真の格闘技は打撃に始まり、組み合い、投げ、極める」

佐山聡は他の格闘技を習おうと
「キックでは1番強い」
と思っていた藤原敏男が所属する目白ジムの住所を自分で調べて訪ねた。
ジムの中には六角棒や木刀がゴロゴロと置いてあって、まだ10代の佐山聡は怖かったが入門したいと伝えた。
そして申込書に住所と名前を書いて、住職業欄は空欄にしてプロレスラーであることを隠し、志望動機を
「健康のため」
として提出。
藤原敏男ら内弟子は、朝9時から練習したが、通常のジム生は夕方か夜にジム入り。
佐山聡は新日本プロレスの練習が14~15時に終わった後、世田谷区野毛から巣鴨の目白ジムまで電車とバスで通い、練習を始めたのでプロと一緒にトレーニングすることも多かった。。
会長の黒崎建時は、極真空手の創設メンバーで、自身、タイでムエタイの試合を経験した経験を持ち、気が狂うほどの苦しみを伴う稽古を課すため「鬼の黒崎」と呼ばれていた。
例えばサンドバッグを
「全力で蹴り続けろ」
といい、竹刀をもってその後ろに立つ。
選手は1発1発、100%全力で入れようとするが、途中、苦しくなって80%、90%になると竹刀が飛んだ。
時間は、3分とか4分ではなく黒崎が
「ヤメ」
いうまでで、途中、トイレも許されず、サンドバッグを蹴りながら垂れ流すこともあった。
「お前の肉体は神様からの借りものだと思え。
鉛筆や消しゴムも自分のものだと大事にするが、人のものだと粗末にするだろ。
それと同じだ」
という黒崎建時は、麻酔無しの鼻手術、線香を1束、腕に当てて燃やし切るなどオリジナルな修行も考案。
その目的は
「必死の力、必死の心」
を引き出すことだった。
「人間は極限に追い込まれたとき、 無意識の内に秘めた、想像を超える力を出す。
ギリギリ自分の限界に立たされたとき、逆境を乗り切る根性と力を出す」

33歳の北沢幹之は佐山聡を
「いい根性している」
と思っていた。
「すごく負けん気が強い。
最初は大したことなかったけど研究熱心だからみるみる強くなった。
下手にこっちの技なんかみせられないほど飲み込みが早かった」
そしてある夜、散歩をしていた北沢は、道場に明かりが灯っているのをみてのぞいてみると一心不乱にサンドバッグを蹴る佐山聡がいた。
ある日、169cm61kgの藤原敏男に
「もっと体重落とさないと」
といわれた佐山聡は
「実は僕はプロれレスラーなんです」
と答えてしまった。
すぐに目白ジムから新日本プロレスに連絡が入り、佐山聡はアントニオ猪木に呼び出された。
「ヤバい」
と思ったが、意外にも
「練習熱心だな」
とホメられた。
そしてプロレスの秘密を知って2ヵ月後、1976年5月28日、18歳の佐山聡が後楽園ホールでデビュー。
9分44秒、北沢幹之にねじ伏せられた。
その後もTVに映らない10分1本勝負の前座で負け続け、55連敗1分の後、57試合目で初勝利を収めた。

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佐山聡がキックボクシングを始めた同時期、アントニオ猪木は異種格闘技戦を開始した。
力道山の時代から八百長、ショーとみなされ、スポーツとして認知されていなかったプロレスは、大相撲やボクシングに視聴率で引けをとらないのに、新聞でもニュースで試合を結果を報道されることはない。
この状況を覆し、プロレスの強さを認めさせるためには、ボクサー、空手家、柔道家、キックボクサーなど真剣勝負をやっている競技のトップクラスと戦って勝つしかない。
「プロレスこそ最強」
「プロレスこそキングオブスポーツ」
という猪木にファンはロマンを感じていた。
1976年2月6日、ミュンヘン・オリンピック柔道、93kg超級&無差別級金メダル、196cm、120kg、ウイリエム・ルスカは、その投げと寝技は圧倒的だったが、ドロップキックからバックドロップ3連発で20分35秒、TKO負け。
6月26日、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、スーパースター、モハメッド・アリとの戦いは、アンバランスなルールのスキマをついて猪木がスライディングキック(アリキック)に終始し、15Rドロー。
単調な内容に「世紀の凡戦」といわれたが、アリは左脚を痛めて入院。
猪木は何億という借金を背負い込んだ。
このモハメド・アリ戦に備え、アントニオ猪木は藤原喜明や佐山聡と特訓。
相手のパンチに対し滑り込みながらのローキックを放つ猪木に
「逃げながら蹴るんじゃなくて相手の懐の中に入っていったほうがいいんじゃないですか」
佐山がいうと
「オメェやってみろ、このヤロウ」
と藤原喜明に殴られた。
12月12日、パキスタンの英雄、アクラム・ペールワンから挑戦状が届き、猪木は敵地、カラチ・ナショナル・スタジアムに乗り込んだ。
3R、1分5秒、アーム・ロックが完全に極まっているのにギブアップしないペールワンに、猪木は、その腕をへし折り、ドクターストップで勝利。
特筆すべきなのは、モハメド・アリ戦とアクラム・ペールワン戦はリアルファイトだったということだった。
プロレスラーでありながら、打・投・寝、すべてOKの格闘技を目指していた18歳の佐山聡は、猪木に
「打撃と投げと関節技を合わせた新しい格闘技をつくりたいんです」
と打ち明けた。
そして
「わかった。
お前のいう新しい格闘技をウチでやろう。
実現したときお前を第1号の選手にする」
といわれた佐山聡は、ずっとこの約束を信じ続けた。

年が明け、1977年4月、新日本プロレスが大阪府立で興行を行ったとき、アントニオ猪木の付き人だった佐山聡は洗濯物を抱えコインランドリーを探していた。
そして公園で蹴りの練習をしている2人の男を発見。
「いい蹴りだ」
と思い、近づいた。
「それは空手ですか、キックですか?」
それが前田日明と彼の先輩で空手の師匠である田中正悟だった。
3人は意気投合し、後日、田中と前田が通う道場で一緒に稽古をした。
「佐山さんは、身長は小さかったですけどサイコロみたいに横幅がありましたし、もう組んだらポーンって投げられてどうしようもなかったですね。
凄い力やなぁと思って」
そういう前田日明のバイブルは、マンガ「空手バカ一代」
極真空手の大山倍達の弟子達のようにアメリカで空手の道場を開くのが夢で、大学受験に失敗しアメリカ行きの金を貯めるためアルバイトに明け暮れていた。

1977年7月、佐山聡から2年遅れて、前田日明が新日本プロレスに入門。
佐山聡に、
「大阪に体の大きな空手の選手がいる」
と聞いた猪木は、それを新間寿に話した。
新間は田中正悟と連絡を取って大阪に飛び、前田日明をスカウトした。
「プロレスラーにならないか?」
「とんでもない。
自分は無理です」
「君はモハメッド・アリが好きか?
ヘビー級ボクサーになる気はないか?」
「ヘビー級ボクサーだったら考えてもいいです」
「じゃあモハメッド・アリの弟子にしてやろう。
ウチはモハメド・アリのジムと提携してるから一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる。
ただ君はまだ体ができてないんでウチで1~2年間体を大きくしてアリの弟子になったらいい」
「新日本プロレスに1~2年食べさせてもらってトレーニングさせてもらって、どうやってお返しすればいいんですか?」
「ちょっとだけ試合してくれればいいから」
新日本プロレスはモハメド・アリのジムと提携などしておらず、大ウソだったが前田は
「金を貯めなくてもアメリカにいける」
と思い、新日本プロレスに入ることにした。
192cm、73kgとガリガリだった前田は、キツい練習とトレーニングをした後、山盛りのドンブリ飯を5杯から10杯食わされた。
前田にとって2歳上の佐山聡はしっかり者の兄貴のような存在だった。
「礼儀正しくて優しい。
好青年というものを生きた形にしたらあんな人になるという・・・
すごく気が利いてみんなから絶賛されていた」
北沢幹之は佐山聡を
「マジメで頭がいい」
とかわいがっていたが、前田日明は
「アイツは真っすぐしかみえない。
口の利き方から何から生意気」
と殴ることはなかったが
「かわいがらなかったです」
という。

東北を巡業中、前田日明は着替え中の藤原喜明にあいさつ。
しかし、
「シッシッ」
と手で追い払われた。
そして開場前、リングで汗を流す藤原が相手がいないのをみて
「藤原さん、スパーリングお願いします」
と志願したが、
「シッシッ」
1ヵ月後、山口県で、その藤原と前田のやり取りをみたアントニオ猪木は
「藤原、たまには新弟子の相手をしてやれよ。
ヨシッ前田、俺がやってやる」
といった。
「何をやってもいいんですか?」
「いいよ」
目前に立つ猪木に前田は金的蹴りから目突き。
金的蹴りは太い内腿にガードされたが、目は無防備で猪木が
「ウーッ」
となった瞬間、周りで練習していた先輩レスラーがリングになだれ込んできて前田はボコボコにされた。
それを横でみていた藤原は大笑い。
「バカは死ななきゃ直らない」
といって、それから毎日、前田とスパーリングをした。
このとき藤原喜明は28歳。
レスラーとしては前座だったが、実力的には誰にも負けないという裏番長的な存在だった。
前田日明は、スパーリングでオモチャにされながら藤原がなぜTVに映らない前座なのか、藤原より実力で劣るレスラーがリングでスポットライトを浴びているのか、不思議で仕方なかった。

1977年10月12日、京王プラザホテルで記者会見が開かれ、梶原一騎主催の格闘技イベント「格闘技大戦争」が日本武道館で行われることが発表された。
その内容は、日本のキックボクサー vs アメリカのプロ空手家。
アメリカは、ブルース・リーの映画の影響でプロ空手(マーシャルアーツ)が大ブームで、特にライト級チャンピオン、ベニー・ユキーデは大人気で、ロサンゼルスに「ジェットセンター」という大きな道場を構えていた。
またヘビー級チャンピオン、ザ・モンスターマンも2ヵ月前に猪木と異種格闘戦を行っていた。
「格闘技大戦争」のメインはライト級の藤原敏男だったが、佐山聡も参戦することになった。
すでに1ヵ月前に目白ジムの第1次合宿を行い、数日後から第2次キャンプに参加する予定で、試合までに90kg以上あった体重を77.5kgまで落とさなければならなかった。
一方、新日本プロレスでは、アントニオ猪木 vs チャック・ウェップナー戦が迫っていた。
チャック・ウェップナーは、ニューヨーク生まれのヘビー級ボクサーで、絶対勝てないといわれながら世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリと対戦し、ダウンを奪い、映画「ROCKY」のモデルになった。
1977年10月25日に行われた試合では、佐山聡考案のオープンフィンガーグローブが使用された。
「ブルース・リーの映画に出てきたグローブを参考にして(リングシューズを製造していた)近藤靴屋さんにつくってもらったんです」
猪木は、そのグローブを
「いいな」
と採用したが、試合後
「太すぎて脇がさせずやりにくかった」
といった。

1977年11月12日、京王プラザホテルで「格闘技大戦争」の調印式が行われた。
梶原一騎は

・2分6R、インターバル1分
・キックとパンチOK
・肘打ち禁止
・首相撲の制限あり
・投げ、寝技禁止。

などというルールを発表したが、佐山聡は

・ノーレフリー
・ノーグラブ(素手)

という「完全フリースタイル」を希望したが認められなかった。
2日後の試合当日、アントニオ猪木や藤原喜明がリングサイドに、山本小鉄がセコンドに入った。
相手は、プロ空手ミドル級とスーパーウエルター級で3位のマーク・コステロ。
佐山は
「頭から落とせば勝てるだろう」
と反則のスープレックスやバックドロップ。
「決まった」
と思ったが、レスリング経験者のコステロは柔らかく受け身をとって立ち上がってきた。
そして打撃戦では目白ジムで特訓したパンチとローキックを繰り出したが当たらず、長身のコステロのパンチと蹴りでメッタ打ちにされ、ダウンを繰り返した。
結局、6Rで7度のダウンを奪ったマーク・コステロが判定勝ち。
試合後、
「すみません」
と謝る佐山聡にアントニオ猪木は
「なにいってるんだ」
といい、山本小鉄、藤原喜明も最後まで倒れなかった佐山をホメた。
しかし新日本プロレスの先輩レスラーに
「だらしない」
「恥」
といわれることもあり、佐山聡は悔しくて河原にいって草木を蹴飛ばした。
このときはまだ前座で、試合翌日のスポーツ新聞に「佐山トオル」と書かれてしまうほど無名の存在だった。

1978年6月、20歳になった佐山聡は
「猪木さんはいつになったら格闘技をやらせてくれるのだろう」
と思いながら日々、プロレスと格闘技の練習を続けていた。
そんなときに坂口征二副社長にメキシコ遠征を命じられ、
「なぜショー的要素が強いメキシコにいかなければならないのか」
「格闘技の選手になるのではなかったのか」
と不服だったが渡墨。
まず標高1589m、メキシコ第2の都市、グアダラハラのリングに上がり、5ヵ月後、首都、メキシコシティへ。
標高2250mのラテンアメリカ最大の都市は3000m級の山々に囲まれた盆地で、佐山聡は、ここで先輩の木村健悟と共同生活。
木村は
「なんで飛んだりしなきゃいけないんだ」
と新日本プロレスのストロングスタイルを貫き、入場時、小便入りのコンドームをぶつかられながら、ルード(ヒール、悪玉)として高い評価を受け、NWAライトヘビー級チャンピオンにもなった。
一方、佐山聡は、テクニコ(善玉)として跳んだり跳ねたりの正統派のメキシカンプロレスを行い、トペ(場外ダイブ)を放った。
また飛び上がってからの後ろ回し蹴り「ローリングソバット」
相手に体をかけ上げって蹴り、後転して着地する「サマーソルトキック」
など日本では使えなかった技も試し、メキシコのプロレスファンを魅了。
専門誌、ルチャ・リブレで、レスラー・オブ・イヤーとテクニシャン・オブ・イヤーに選ばれた。
佐山はメキシコでも格闘技の練習をするため、サンドバッグを買って、部屋に吊り、1人で2つをダメにするほど蹴り続けたが、関節技の練習はほとんどできなかった。

1978年7月、藤原喜明とスパーリングやり始めて1年くらい経った前田日明は、坂口征二に
「スパーリングやろう」
といわれ、
「元柔道日本一はすごいんやろうな」
と思ったが、やってみると意外に極められなかった。
しかし他のレスラーもみている中、気を遣ってわざと関節を取らせ、坂口が腕ひしぎ十字固めを極めてスパーリングは終わった。
それをみていた藤原は前田を呼んで、
「俺はそんなことをするためにお前にスパーリングを教えてるんじゃない」
と涙を流しながらいい、それをみて前田は
「こんなにオレのことを思ってくれている」
と感動した。

1980年1月、長年、アントニオ猪木の付き人を務め、30歳を過ぎた藤原喜明は、
「褒美をやろう。
なんでもいってみろ」
といわれ
「フロリダに行かせてください」
といった。
許可されるとゴッチの家の近くにアパートを借り、ゴッチからマンツーマンで指導を受けた。
そして3ヵ月経った頃、佐山聡がアパートに転がり込んできた。
日本以上にショーアップされ格闘技のニオイがまったくしないたメキシコのプロレス。
標高2240mと空気が薄い上、食事も合わず、治安が悪いため気軽に出歩けない。
約1年間のメキシコシティ滞在で体調不良と欲求不満を重ねた佐山聡の体は10kg減。
親友のジムで指導するためメキシコを訪れたカール・ゴッチは別人のようにやせてしまった佐山をアメリカにつれて帰ったのである。
以後、3人のトレーニング生活が始まった。

9時、起床
10時、ゴッチが2、30分かけて車で迎えに来る
11時、トレーニング開始

家の前に2.5kmほどの真っすぐな道があって、電柱が建っていて、あの電柱まではアヒル歩き、次の電信柱までは佐山が藤原をオンブして歩き、その次の電信柱までは藤原が佐山に足を持ってもらい腕立て歩きなど、いろいろなメニューで往復5kmを90分かけて進み、
「もうすぐ終わりだ」
と思っていると
「引き返せ」
といわれることもあった。
そしてトランプを使ってトレーニング。
2人、交互にトランプをめくり、ハートなら腕立て伏せ、スペードはスクワット、クローバーは腹筋。
ハートの9が出たら腕立て伏せ9回となるが、スクワットだけは出た数字の2倍の回数を行う。
その他、庭に木に吊るしたロープを登るなど自重を使ってさまざまな角度から筋肉に負荷をかけた。

14時、食事と水で割った赤ワインを飲む。
休憩後、町の柔道場に移動し、ブリッジなどの基本動作、関節技の練習、スパーリング
17時、合計5、6時間のトレーニングと練習が終了
18時、スーパーで買った安いステーキ肉と赤ワインで夕食
21時、ゴッチに車でアパートまで送ってもらった2人は、ゴッチから教わったことをノートに、藤原はイラスト入りで、佐山は文章で記録した。

藤原喜明は、佐山より少し先にフロリダ修行を終えて帰国。
ゴッチに習った技術を磨くため、新日本の道場で前田日明とスパーリング。
すると小杉俊二、山田恵一(獣神サンダーライガー)、武藤敬司ら若手が集まってきた。
彼らは藤原の関節技を真剣なまなざしを向け、技の練習をしてからスパーリング。
やがて
「藤原教室」
と呼ばれるようになった。
藤原は関節技の技術だけでなく
「相手をくしゃくしゃにしてやれ」
などと戦う心を強調。
藤原教室の教え子の試合ではセコンドにつき、ここぞというときは、親指と人差し指を立ててピストルの形をつくった。
これは
「殺せ」
という意味のシュートサイン。
送られた側はガチンコをした。


前田日明から3年遅れて、1980年に新日本プロレスに入団したばかりの高田延彦も藤原教室に参加した。
小学校のときに長嶋茂雄に憧れ、オール横浜に選ばれるほど野球少年だったが、中学生のときにアントニオ猪木にハマり、17歳で新日本プロレス入り。
このとき体重は64kgで、ハードなトレーニングとスパーリングで痛めつけられた。
入門半年後、同期と飲みに行き、門限に遅れ、寮長の前田日明に半殺しにされた。
試合会場で子供たちがパンフレットの対戦カードをみながら勝敗予想をしているのを目撃。
その予想はすべて当たり、結果が決まっている八百長試合をしていることを恥ずかしく感じ、そのことを藤原喜明にいうと
「本日の第1試合じゃなくて第1芝居なんだ」
といわれた。
あるとき第1試合に出場することになった高田延彦は、16時から試合前の練習をリングで行い、17時半から客が入り始めたが、18時20分くらいまで藤原とセメントをやらされ、藤原は高田を抑え込みながら客にVサイン。
高田は、スパーリングから解放された数十分後に試合に立った。

アントニオ猪木は、柔道家、空手家、ボクサーなどと異種格闘技戦を行い
「プロレスこそ最強の格闘技」
「いつなんどき誰の挑戦で受ける」
と明言したため新日本プロレスには道場破りがやってきた。
この相手をしたのが藤原喜明。
目と急所への攻撃以外なんでもOKというルールで戦い、関節技を極めて「まいった」させた。
「猪木さんが格闘技世界一というもんだから挑戦者たちが道場に来るわけですよ。
となるとそうしたやつらに対応するやつがいないといけない。
今はプロレスラーがバカにされているから来ないと思うけど、当時は猪木さんが「オレが世界で1番強いんだ」といっているから当然来るわな。
そのときオレらは刀を持ってるんだけど刃の部分を隠して戦っている。
でもいつでも鞘は抜ける状態なんだ。
だからオレが当時若いやつらにいっていたのは、これも例えだけど常にナイフは研いで懐に入れておけと。
でも(道場破りが来ると)周りのヤツらが道場からいなくなっちゃうのよ。
さっきまでいたのに、腹が痛いとかってさ。
だから道場破りと対戦すんのも俺しか残らないんだよ。
1度、ハイキックを喰らってな・・・
小鉄さんがレフリーやってて相手がまいったっていうから離したんだよ。
そしたら蹴ってきやがって・・・
頭にきちゃって『ぶっ殺すぞ』っていったら周りに止められたんだよ」
前田日明、高田延彦も道場破りの相手をした。
そして観客の前で行う試合より藤原教室のスパーリングを重視するようになっていった。

一方、アマレスのオリンピックに出場したスポーツエリート、長州力は、藤原教室を
「今さらこんなこと・・・」
と思っていた。
大学卒業後、新日本プロレス入りしたのは、憧れて飛び込んだというより生きていくためだった。
「初任給は月給で7万~8万で、えっ、こんなにもらえるんだって驚いたよ。
合宿所に住めるし、ジャージとか着るものももらえて、肉だって毎日食える。
これでいったいなにが不満だっていうんだ。
不満なんかなにもありませんよ」
環境は十分だったがプロレスラーとしては伸び悩み、ブレイクを果たすのは30歳を過ぎてからと意外に遅咲きだった長州は、
「練習の厳しさでいったら断然プロ。
お客さんにみてもらって儲けるわけだから、体をつくるにもストイックさが求められる」
といいつつ
「プロレスは表現」
と思っていた。


1980年10月、佐山聡が渡英。
藤原喜明が帰国して1ヵ月後にフロリダを離れ、1度メキシコに戻って3ヵ月ほど試合をした後、ゴッチの紹介でイギリスへ渡った。
そしてブルース・リーの従兄弟「サミー・リー」として、黄色いジャンプスーツで入場しイギリスデビュー。
軽快なステップとスピンキック、ハイキック、サマーソルトキック、ローリングソバットなど多彩な蹴りを繰り出した。
イギリスのトップレスラー、マーク・ロコ(後のブラックタイガー)との試合は話題になり、800万人くらいだったイギリスのプロレス視聴者数は1200万人に増えた。
イギリスでもトップレスラーとなった佐山だったが、アントニオ猪木との約束を忘れず、
「いつになったら格闘技の選手になれるんだろう」
と思いながら、サンドバッグを蹴ったり、カール・ゴッチにサブミッションレスリングを学んだレスラーとスパーリングをして
「いつ呼ばれてもいいように」
と準備を続けた。

1981年、高田延彦より1年遅れて、山崎一夫が新日本プロレスに入門。
麻布十番生まれ、世田谷育ちの山崎一夫は、中学生のときに藤波辰巳に憧れ、どうしたらプロレスラーになれるのか、新日本プロレスの道場に聞きにいった。
応対した小林邦昭に
「だったらベンチプレスを挙げてみろ」
といわれ、やってみると体重70kgの山崎は50kgのバーベルを上げるのが精いっぱい。
次に日から学校の休憩時間に非常階段の3段目に足を乗せて腕立て伏せ。
ダンベルを購入し、バレーボール部からバーベルがある柔道部に転部。
高校卒業前に、ベンチプレス130kg、スクワット1000回、腹筋1200回をこなせるになり、入門テストを受けて合格。
新日本プロレスの近くにある実家から合宿所に荷物を運び入れていると
「もしよかったらお茶飲みにいきましょう」
という声が聞こえ、みてみると引越しの手伝いをしていた姉が前田日明にナンパされていた。
寮のトイレの掃除用のブラシに
「これで歯を磨いてはいけません」
と書いてあって驚いた。
給料は月6万円と聞いて
「住居費と飯はタダだからしかたない」
と思っていたが、坂口征二に
「お前は3万円な」
といわれた。
「6万円って聞いていたんですけど・・・・」
「お前の前までは6万円払っていたんだけど1ヵ月目の6万円をもらって逃げる奴がいるから、3万円から始めて2ヵ月我慢したら1万ずつ上げていく」

1981年4月、プロレスラーとしてロンドンで順調な生活を送っていた佐山聡に
「帰国して欲しい」
と日本の新間寿から国際電話が入った。
佐山はてっきり新しい格闘技の話かと思ったが
「新日本プロレスのリングに生身のタイガーマスクを登場させたいのでマスクをかぶってくれ」
といわれて拍子抜けした。
4月20日に「タイガーマスク2世」の放映が始まるのに合わせ、実物のタイガーマスクを新日本プロレスのリングに立たせるというのである。
「僕は帰れません」
佐山は断った。
実際、2ヵ月後にマーク・ロコとの世界ミッドヘビー級のタイトルマッチが決まっていたし、マンガのヒーローをリアルストロングスタイルの新日本プロレスに登場させる意味がわからなかった。
しかしその後、毎日、新間から催促が続いた。
「タイガーマスクの映画をつくる」
「梶原先生に顔向けできないじゃないか」
新間寿が何をいってもハイとはいわなかったが
「君がマスクをかぶってくれないと猪木の顔を潰すことになる」
と尊敬するアントニオ猪木の名前を出されると、
「わかりました」
とアッサリと了承。
「1試合だけですよ」
と念を押して一時帰国することを受け入れた。

1981年4月20日、「タイガーマスク2世」が放送開始。
4月21日、イギリスにいた佐山聡が成田に到着。
4月22日、虎のマスクが渡されたが、日本にマスクをつくる職人や工房がなく、新日本プロレスのグッズをつくっていたビバ企画が制作し、しかも与えられたのが数日間だったので、白いマスクに黄色と黒のポスターカラーで描いただけにシロモノだった。
4月23日、試合当日、マントが届いたが、マスク同様、ペラペラでチープなつくりだった。
佐山聡はそれをつけて、アントニオ猪木 vs スタン・ハンセンのメインの前、セミファイナルの花道に出た。
満員の蔵前国技館に拍手はほとんど起こらず、失笑さえあった。
対戦相手の「爆弾小僧」ダイナマイト・キッドは、173cmと小柄ながら圧倒的な筋量を誇り、まるで命を削るような危険を顧みない激しいファイトが身上。
ケガを恐れないことを自らに課すと同時に自分の攻撃に対戦相手が対応できなければ壊すことも厭わず、古舘伊知郎に
「全身これ鋭利な刃物」
「カミソリファイト」
といわれていた。
試合が始まるとタイガーマスクは組み合おうとせず、軽快なステップでリングを回り、距離を保ちつつ、速くて多彩なキックを繰り出し、手首をリストをつかまれるとヘッドスプリングで切り返した。
打点の高いドロップキック。
後方宙返りしながら相手を蹴るサマーソルトキック。
場外のダイナマイトキッドに飛ぶと思いきや、ロープの間をクルリと旋回してリングに戻るフェイント。
新日本プロレスのセメントサブミッションレスリング、メキシコのルチェ・リブレ、目白ジム仕込みのキックが融合した「3次元殺法」に観客は驚愕。
一瞬の気の緩みも許されない、緊張感あふれる試合を古館一郎は、
「肉体の表面張力の限界」
と表現。
最後はスープレックス爪先立ちの完璧なブリッジで抑え込み、タイガーマスクが勝利した。
この10分間の戦いでスーパースターが誕生。
空前のタイガーマスクブームが到来し、
「1試合だけですよ」
という約束はすぐに反故にされてしまった。

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