佐山聡の父、文雄は東京生まれ。
文雄の兄(佐山聡の叔父)は、京都大学に首席で入学したが、在学中に肺結核で他界。
神田神保町で歯科医をしていた父(佐山聡の祖父)も亡くなると文雄は5歳下の弟、武雄と2人で満州へ移住。
それまで不自由なく生活していた兄弟は親戚にたらい回しにされ、文雄は厄介者扱いされながら満州の中学を通常より5年も遅れて卒業した。
満州鉄道に入社した年、日本軍の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したものの、文雄は経理の仕事を続けた。
しかし終戦数ヵ月前、満州を支配していた関東軍が18~45歳の日本人男子20万人を招集。
文雄も
「各自、包丁やビール瓶など武器となるものを携行すべし」
と書かれた招集令状を受け取った。
ソ連軍の侵攻が始まると役人、軍人、鉄道関係の上層部とその家族がいち早く脱出。
多くの民間人は取り残され、つぎはぎのようになった関東軍は並木を倒してバリケードをつくり、市街地の石畳をはがして壕を掘った。
文雄は爆薬の入った箱を渡され、戦車が来たら飛び出して体当たりして自爆するよう命じられ、1人で蛸壺に入った。
1945年8月15日、日本では玉音放送が流れたが、関東軍は
「生きて虜囚の辱めを受けず」
と抵抗を続けた。
やがて停戦命令が出ると戦車に遭遇せず命拾いした文雄は捕虜としてハバロフスクの収容所に連行された。
-30℃の中、炭坑や土木建設など重労働をさせされ、食事は、1日にパン1個とスープ3杯。
肺炎や栄養失調で倒れる者が続出したが、文雄は生き抜き、2年後、引き揚げ船で京都の舞鶴へ。
そして 関門海峡と瀬戸内海に面した山口県下関市長府の神戸製鉄に入社した。
文雄が日本に帰った1年後、1948年、24歳のカール・ゴッチがロンドンオリンピックのフリースタイル、グレコローマンスタイル、両スタイルの87kg級ベルギー代表として出場し、共に予選落ちした。
後に佐山聡の師となるカール・ゴッチは、ベルギー生まれのドイツ育ち。
10代でレスリングを開始し、第2次大戦中はナチス政権下のドイツの軍需工場で左手小指の大部分を失う事故に遭い、終戦直前には11ヵ月間、強制収容所に入れられたが、終戦し解放されると再びレスリングに打ち込んだ。
オリンピックから2年後の1950年にはプロレスデビューを果たし、ヨーロッパ各地のトーナメントへ参戦した。
レスリングの起源は紀元前。
古代の人々はレスリングを神と科学の芸術とみなし、実施者には文武両道が求め、数千年後の現在、アマチュアレスリングは
・つかむ場所に制限がなく全身を攻めることができるフリースタイル
・下半身を攻めてはいけないグレコローマンスタイル
という2つのスタイルで競技を行っている。
一方、プロフェッショナルレスリングは、1830年頃、フランスのサーカスや見世物小屋でレスラーが
「オレを倒したら50フランやる」
といって戦ったのが始まりといわれ、それが広まってレスリングだけの興業も行われるようになった。
試合は賭博の対象にもなり、プロレスラーは賞金稼ぎ。
彼らは真剣勝負を行ったため、100年以上、プロレスは誇り高き格闘技だった。
プロレスラーになって1年、イギリスのビリー・ライレージムを訪れたカール・ゴッチは、最初のスパーリングで1分もたたないうちに関節技を極めらて負けてしまった。
レスリングは基本的に相手を投げたり、倒したり、押さえつける競技。
しかし元イギリスミドル級チャンピオン、ビリー・ライレーが率いるジムで行われていたのは、
「Catch As Catch Can(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)」
と呼ばれるレスリング。
それは
「つかまえられるものならつかまえてみろ」
「やれるものならやってみろ」
というような意味だが、投げやフォールに加え、相手を戦闘不能にするサブミッション(関節技)があるレスリングだった。
例えば通常のレスリングでは相手にバックをとられると、投げられるのを防ぐために亀になったり、うつ伏せに長くなって寝ることがあるが、関節技があるとそうはいかない。
道場生がそんな体勢をとればビリー・ライレーは、
「この腰抜けが!」
とケツを蹴り、
「動け」
「立て」
と指示。
防戦一方になるのではなく、エスケープしたり、切り返しを試みることを求めた。
またビリー・ライレー・ジムでは、関節を極めるためにあらゆる技術を駆使した。
その蛇のからみつくような攻撃的ファイトスタイルから
「Snake Pit(蛇の穴)」
と呼ばれ、恐れられていた。
道場には厳しさ、真剣さ、熱さがあり、道場生のモチベーションは高かった。
カール・ゴッチは、この道場に数年間通い続けた。
1956年4月、中学2年生の猪木寛至、後のアントニオ猪木がブラジルに移住した。
11人兄弟の9番目として生まれたとき、神奈川県横浜市鶴見区の生家は石炭問屋を営む110坪もあるお屋敷だった。
しかし第2次大戦後、エネルギー需要が手間がかかる石炭から石油へと移行すると猪木家は徐々に苦しみ始めた。
小学校で1番体が大きく力も強かった猪木は、力道山をみて
「プロレスラーになりたい」
と憧れた。
中学生になると最初にバスケットボール部に入ったが、上級生にボールをぶつけられて仕返しにブッ飛ばしてしまい、すぐに退部。
5歳上の兄、快守がやっていた陸上競技の砲丸を持った瞬間、
「これだ!」
と思い、以降、学校には砲丸を投げるために通っているようなものだった。
「当時は横浜の鶴見から富士山がみえた。
富士山まで投げるぞっとそんな気持ちで練習していた。
でも近くにボトっと落ちちゃう」
こうして砲丸投げに熱中し始めた矢先、中2の4月、一家でブラジルに移住することになった。
ブラジルでは着いた翌日の朝の5時からラッパの音で起こされ、17時まで働かされた。
「最初はコーヒー園で、その後が綿花、そして落花生の畑で働きました。
季節によっても違いますが、午前5時に起きて日が暮れるまで働きました。
家に帰ってシャワーを浴び、食事を済ませてから寝るだけです。
1週間のうち日曜日だけが休みですが、その日もコーヒー園の中を片道2時間ほどかけて市場まで買い出し。
そんな生活でした。
ご飯はいっぱい食べましたね。
丼飯5杯とか米櫃が空になるくらい食べました。
それと豆ですね。
フェジョアーダという豆とモツを煮込んだような料理」
ある日、ブラジルでも陸上競技を続けていて快守が砲丸を買ってきて、久しぶりに投げてみると日本で投げたときより倍くらい飛んだ。
猪木は重労働によって鍛えられていることを実感。
再び砲丸投げにハマり、仕事の合間に投げるようになった。
アントニオ猪木がブラジルに移住した翌年、1957年1月27日、文雄が43歳のとき、佐山聡が誕生した。
1958年10月、1年半のコーヒー農園との労働契約が終えた猪木は、昼間はサンパウロの高校に通って砲丸投げの練習を、夜は青果市場で客が買ったものをトラックに載せる「かつぎ屋」の仕事をするようになった。
そして1959年、砲丸投げでブラジルの全国大会で優勝。
このとき日本プロレスがサンパウロ興業に来ており、力道山は新聞で猪木の活躍を知って興味を持った。
青果市場長は日本プロレスの招聘委員をしていて、それを知ると猪木をホテルに連れていった。
力道山はいきなり、
「裸になれ」
といい、その肉体に納得すると
「よし、日本へ行くぞ」
猪木の家族には
「3年でモノにしてみます」
といい日本につれて帰った。
帰国した猪木は、日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングと力道山の付き人の仕事が始まった。
日本プロレスの練習は半端なものではなく、スクワットによって流した汗が水溜りとなり、季節によっては湯気となって道場に漂った。
「常人では成しえないことを成すのがプロレスラー」
という力道山は、なにかあれば容赦なく竹刀を飛ばした。
そして朝から夜まで付き人としてついてくる猪木をまるで目の仇のように厳しく育てた。
リングシューズを履かせながら
「違う」
と蹴飛ばしたり、普通の靴も
「履かせ方が悪い」
といって殴ったり、飼い犬を番犬として教育するための実験台にしたり、ゴルフクラブで側頭部を殴打したり、走っている車から突き落としたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせたり
「声を出すなよ」
といってアイスピックで刺したり、素人に殴らせたりした。
猪木は本気で殺意を覚えたという。
1960年、アントニオ猪木がブラジルから日本に帰った翌年、オリジナルホールド「ジャーマン・スープレックス」でヨーロッパのトップレスラーとなったカール・ゴッチがアメリカへ進出。
カールゴッチにとってレスリングは誇りであり、偉大な格闘技であり、キング・オブ・スポーツだったが、アメリカのプロレスは完全なショービジネスだった。
必要なのは地味な寝技や本当の強さではなく、巨大な肉体を持つプロレスラーによる派手なアクションやパフォーマンス。
仕事として試合をするプロレスラーは、客に
「死んでしまうのではないか」
と思わせるような技を繰り出しつつ、実はできるだけできるだけダメージを与えないというのが理想的。
最強のレスラーがチャンピオンになると信じ、 常に素手でいかに効率良く人を殺せるかを考え、トレーニングと練習を怠らないゴッチは弱いレスラーに嫌悪感を抱いた。
相手に花を持たせようなど微塵も考えず、妥協も派手さもないゴッチのファイトスタイルはプロモーターから
「独り善がり」
「プロレスを理解していない」
と嫌われ、一方でファンは、その実力を
「真のプロレスラーでありシューター」
と評価され、アメリカでの評価は賛否両論だった。
ちなみに「シュート(Shoot)」とは真剣勝負を意味し、その反対は「ワーク(Work)」
共にプロレス界独特のスラングである。
1961年5月、来日できなくなったレスラーの代役としてカール・ゴッチが初来日し、日本プロレスのリングでジャーマン・スープレックスを決めた。
日本人は初めてみる「原爆固め」の美しさと迫力に驚いた。
その後、ゴッチはアメリカへ戻り、NWA世界ヘビー級チャンピオン「鉄人」ルー・テーズに挑戦したが、タイトルマッチで9戦5敗4分、ノンタイトルマッチでも7戦7分と1度も勝たせてもらえなかった。
6回目のタイトルマッチではテーズにバックドロップをしかけられて、その腕をとってわき固め(関節技)にいこうとして体重をあずけ、テーズが肋骨を骨折。
テーズが戦線を離脱したため、興行的に大きな損害を被ったプロモーターから恨まれた。
テーズは、
「本当に恐ろしい男」
「私を最も苦しめた挑戦者」
とその実力を認めたが、結局、ゴッチは「無冠の帝王」で終わった。
カール。ゴッチが初来日して3年後、小2の佐山聡は9歳上の兄、彰に連れられて近くの神社で行われていた柔道道場に入った。
2人は異母兄弟で、彰は先妻の子供、佐山聡は先妻の妹、みえ子の子供。
彰が、
「聡」
と呼ぶと、みえ子が
「聡ちゃんといいなさい!」
と怒ることもあった。
そういった家庭の事情から文雄は、佐山聡を母親(佐山聡の祖母)に預けることにした。
こうして佐山聡は、同じ下関市ながら瀬戸内海側の長府から日本海に面した綾羅木に引越し。
大自然の中、短パンにランニングで真っ黒になって遊び回る一方、明治生まれで非常に礼儀に厳しい祖母から、正座の仕方から切腹のやり方まで教わった。
「大きくなったら」
という題の小学校の作文では
「ぼくは大きくなったらけいさつになりたいです。
パトロールカーのうんてんしゅになりたいです。
りっぱなけいさつになって、とうとうおしまいに、けいしそうかんになりたいです。
そしてたくさんのどろぼうをつかまえようとおもいます」
と書いた。
小2で警視総監を志した佐山聡は、小4でキックボクサー、沢村忠に遭遇。
部屋の照明のヒモを蹴るようになった。
1967年11月、カール・ゴッチが再来日し、日本プロレスのコーチに就任。
東京、恵比寿に住み、渋谷のリキ・スポーツパレス(力道山が建てた総合スポーツレジャービル)で若手を徹底的に鍛えた。
ゴッチはすさまじいパワーとレスリング、関節技の技術、そしてさまざまなトレーニングメソッドを持っていて
「プロレスの神様」
と呼ばれた。
このときアントニオ猪木は24歳。
力道山が死去した3年後、東京プロレスを旗揚げしたものの3ヵ月で倒産し、日本プロレスに戻ってジャイアント馬場とタッグを組んでいた。
ゴッチは稀有な身体能力を持つアントニオ猪木を熱心に指導。
レスリングの技術だけでなく
「君たち日本人の手で、本物のプロフェッショナル・レスリングを取り戻してほしい」
とその精神を教え、それを猪木は熱心に聞いた。
「世界の荒鷲」「ビッグ・サカ」196cm、130kgの坂口征二は、猪木より1つ歳上だがプロレスでは後輩。
明治大学柔道部で神永昭夫の指導を受け、大学で団体でも個人戦でも優勝し、旭化成に入った。
1964年の東京オリンピックでは日本代表候補だったが、最後の夏合宿で腰を痛め、神永昭夫が決勝戦でオランダのアントン・ヘーシングに1本負けするのを間近で目撃。
「打倒ヘーシンク」に燃え、東京オリンピックの翌年、全日本大会で優勝し、世界選手権の決勝でヘーシングに優勢負け。
その後、ヘーシングが引退したため、メキシコオリンピックに目標を切り替え、必死に練習したが、メキシコオリンピックで柔道競技が採用されないことが決まると
「8年も待てない」
と目標を失い稽古に身が入らなくなった。
そんなとき日本プロレスからスカウトを受け、旭化成を辞めて入団した。
「すごく怒られてねえ。
明治大学柔道部のOB会なんて破門同様ですよ。
除名です。
明治大学の監督だった曽根康治さんとか神永昭夫さんとかにね、『お前、なに考えてるんだ!』って相当いわれたんですよ」
25歳の誕生日にジャイアント馬場と一緒にプロ入り記者会見をした坂口はカール・ゴッチにプロレスの基本を教わった。
そして日本プロレスで、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターとなった。
「ゴッチさんの指導は厳しいけれど、すごく真っ直ぐな人でプロレスに対する考えをハッキリ持っている。
まあ頑固おやじという感じ。
あまりガアガアはいってこないですよ。
お前、出来ないんならいいよと突き放す感じで、来る者は拒まず、去る者は追わずという人だった。
だからみんな必死でついていくんです」
北沢幹之は、
「有名になれば小4のときに家を出ていった母親に会えるかもしれない」
と思い上京し、同郷の力士を頼って相撲部屋に入ったが、その力士の独立に関わるゴタゴタを嫌って、
「プロレスラーになろう」
と完成したばかりのリキスポーツパレスで、力道山を待ち伏せして志願。
入門を認められて初めて道場に行ったとき、前年、ブラジル遠征でスカウトされた1つ歳下のアントニオ猪木がチャンコ番をしていた。
地上9階地下1階の巨大なリキスポーツパレスのい中には、リキボクシングジムもあって
(練習時間をズラして、同じリングを日本プロレスと共用していた)
伝説のボクシングトレーナー、エディ・タウンゼントや世界チャンピオン、藤猛がいた。
「お金とか関係なくただ強くなりたかった」
という北沢幹之は、ここにも通って練習。
寝技でもカール・ゴッチに極められないようにまでなった。
(リングスでレフリーをしていたとき50歳近い沢幹之は、ヴォルク・ハンとスパーリングをして1度も極めさせず「リングスで1番強いのは前田日明ではなく北沢幹之」といわれた)
そんな強さにこだわる北沢幹之が敬意を抱くのはちゃんと練習をしている選手だった。
「猪木さんは練習が好きでいつも一緒に練習していました。
関節が柔らかくてガッチリ極まって絶対に逃げられないはずでも横にひねって逃げる。
あの体で練習が好きだったらどうしようもない。
どんどん強くなっていく。
坂口さんみたいに大きな体をしていても練習が嫌いだとやっぱり弱いですよ」
またメキシコへ修行に出たときには別の意味で衝撃を受けた。
現地で先行していた柴田勝久と合流したのだが、彼がメキシコで売れていること驚いたのである。
「柴田ってすごい弱かったんですよ。
本当、ガチンコだったら片手でも勝てるっちゅうか。
自分は体も大きくなかったしスターの要素というのが全くなかったです。
客を呼べる選手って顔と体がよくても、ただ強いだけではダメなんです。
いくらがんばってこの世界にいてもいい思いはできないなと」
一方、山口県の佐山聡のブームはキックボクシングからプロレスに進化。
毎月、プロレス雑誌の発売日には日本海側の祖母の家から瀬戸内海側の実家近くの商店街にある本屋まで、自転車で山を越えて片道1時間走った。
お気に入りのレスラーの切り抜きを壁に貼り付け、部屋には雑誌が山積みになっていった。
学校では友人をつかまえて技をかけ、同級生のほとんどの男子がプロレス技をかけられた。
そして1969年、小6のときに祖母が体調を崩したため、長府の実家に戻って長府中学に入学。
プロレス部はなかったので、プロレスをするために柔道部に入部。
顧問は素人の上、練習にほとんど来なかったので、佐山聡はバックドロップやスープレックスのような裏投げをかけた。
中1の2学期で黒帯(初段)となったが、同時期に祖母が他界。
遺体に
「メキシコに行ってチャンピオンになります」
と誓った。
感覚的に
「自分は180cm以上にはになれない」
と思っていた佐山聡が
「空中戦主体のメキシコプロレス、ルチャ・リブレなら体が小さくても大丈夫だろう」
と思っての誓いだった。
(実際、佐山聡は大人になっても170cm前後だった)
図らずもメキシコを志した佐山聡だったが、その後、実際にミル・マスカラスが来日。
日本プロレスのリングのコーナーポストから星野勘太郎にダイビングボディアタックを浴びせ、そのままフォール勝ち。
中1の佐山聡はこの試合をTVで観戦し、虜になった。
自分でマスクをつくって、それをカバンに入れて登校。
休み時間にマスクをかぶって同級生にドロップキック。
放課後は体育館でマットを敷き、跳び箱の上からダイビングボディアタック。
最終的に同級生が止める中、1番分厚いクッション性の良いマットに向かって体育館の2階部分から飛び、
「ドーン」
という音をさせながら無事、技を決めた。
家に帰ると新しいマスクづくり。
それは色を塗るのではなく、いろいろな色の生地を貼り合わせたもので、中には毛糸製のものもあった。
同年、日本プロレスとのコーチ契約が終わったゴッチがアメリカに帰国。
TVが普及し、ますますショーアップされたプロレスとは合わず、プロモーターにも敬遠され、自分のスタイルを変えることはできないゴッチは、ハワイへ移住。
ホノルルでプロレスラーとして活躍したがプロモーターとトラブルとなって解雇され、ゴミ収集の仕事を始めた。
トレーニングのために車には乗らずに並走し、集積所につくとバケツの中のゴミを収集車に放り込み、再び走り出した。
仕事が終わると試合もないのにハードにトレーニングと練習を行い、夜は早く寝てコンディショニングを整えた。
また同年、文雄が55歳で神戸製鋼を退職し、関連会社に就職。
さらに1年後には住吉運輸という新会社に転職した。
住吉運輸は、神戸製鋼の下請け会社である住吉工業の子会社だった。
神戸製鋼長府工場で労働組合委員長をしていた文雄は、神戸製鋼の先輩で市議会議員になっていた中村農夫の紹介で住吉運輸に入社した。
文雄は左翼だった。
(左翼=経済的または政治的下層階級の集まりや代表。
右翼=上流または支配階級の集まりや代表。
保守的な右翼は固定化された特権や権力を防衛し、左翼はそれを攻撃する)
一方、佐山聡は大人になるとバリバリの右翼となる。
1999年に「掣圏道(現掣圏道掣圏真陰流)」を設立するが
「真の日本精神を復活させる」
といって、選手は金髪、ピアス、タトゥーなどは禁止で、ロープがない八角形の試合場に刀を持って袴をはいて入場。
礼儀作法を重視し、ガッツポーズ、相手への暴言、笑みをみせる行為などは反則。
観客にもスリーピースのスーツ着用を奨励した。
2001年に第19回参議院議員通常選挙比例代表区出馬したときは演説で
「暴走族は撃ち殺せ!」
と発言し話題となった。
天皇制、第9条に反対する人間やマスコミを嫌い、
「既存の価値観を否定することを是とする共産思想とフリースタイルがはびこり、マスコミの報道によって、それが世界の常識と信じ込まされてきた」
「現代人のマナーが乱れきっているのは今の日本に武士道精神のような原理主義がないから。
問題はいつからこうなってしまったのか?ということ。
かつて日本には“武士道という原理主義があり、礼儀や作法も非常に厳格だったわけです。
そうした厳しい教えが、戦争に負けたことによって否定され、なくされてしまったんですよ」
「ヒップホップの上っ面だけマネて『マザーファッカー』とかいって中指立てたりしてるバカがいるけど、あんなの許せるわけないでしょう」
「電車で妊婦を席に座らせないとか、マナーがなってないヤツがいたら注意しますよ」
などと熱く語った。
親子そろって正義感が強かった。
1971年3月、国際プロレスの招聘に応じてカール・ゴッチが来日。
日本プロレスで営業部長だった吉原功(早稲田大学レスリング部出身、元プロレスラー)は、力道山の死後、独立して国際プロレスを設立し、日本プロレスに対抗すべく奮闘していたが、ハワイでゴッチが清掃業をしているのを知ると
「もったいない」
と招聘を決めたのである。
46歳のゴッチは、2m23cm、170kgモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)にジャーマン・スープレックス・ホールドを決めた。
そしてアニマル浜口ら国際プロレス所属の日本人レスラーをスパーリングでオモチャにしながら鍛えていった。
アニマル浜口は、暇さえあれば練習をするゴッチをみて
「プロレスの神様じゃなく練習の神様」
と思った。
「ゴッチさんはプロレス、いやレスリングといったほうがいいかな、レスリングで勝つためにはどうしたらいいか、四六時中考えていました。
ヨガを研究するために古代インドの歴史やヒンドゥー教、さらにはアーユルヴェーダ(インドの伝統的医学)など、あらゆることを勉強していて、僕も勝つために『ヨガをやれ』といわれましたよ」
国際プロレスで再びプロレスラーとして再生したゴッチは、6年ぶりにアメリカのマットに復帰した。
そんなとき日本プロレスを追放されて新しい団体を立ち上げようとしていたアントニオ猪木が、アメリカのゴッチを訪ね、協力を依頼した。
28歳の猪木は女優の倍賞美津子と結婚していた。
馴れ初めは先輩の豊登が自分の車(トヨタ、センチュリー)を
「こんな車に乗りやがって」
と女子3人が蹴飛ばすのを見つけたこと。
その中の1人が倍賞美津子だった。
豊登は彼女たちを食事に誘った上、家まで送り届け、その後も連絡を取り続けた。
猪木は豊登に連れられて倍賞美津子と初めて会い、その明るさに惹かれた。
出会いから5年後、1億円をかけた式を挙げて2人は結婚。
しかしその1ヵ月後、会社を改革をしようと動いていた猪木は日本プロレスから追放されてしまった。
「迷わず行けよ」
と行動主義のアントニオ猪木は、世田谷区野毛、多摩川沿いの2人の新居となるはずだった一戸建てを改造。
庭を潰して道場に、家の2階部分を増築し寮にした。
1971年11月、結婚
12月、日本プロレス追放
1972年1月、「新日本プロレス」を会社登記
3月、旗揚げ戦
という超スピーディーに新団体立ち上げを進めたが、カール・ゴッチへの協力依頼もその中の1つだった。
新日本プロレスの所属選手は、アントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人のみ。
旗揚げ戦前に募集した練習生は、あまりの厳しさに逃げてしまった。
メジャーな外国人レスラーは日本プロレスと国際プロレスに抑えられていたので、ゴッチがブッキング。
サーカスのようなプロレスにウンザリしていたゴッチは、猪木がやろうとしているシリアスなプロレスの実現のために実力のある選手を呼んだ。
そして1972年3月6日月曜日18時半、大田区体育館で旗揚げ戦がスタート。
全6試合。
メインはカール・ゴッチ vs 猪木。
会場は5000人満員でひとまず成功したが、以後、テレビ放映のないまま苦戦が続いた。
1972年夏、新日本プロレスの旗揚げ戦から数ヵ月後、ドイツのミュンヘンでオリンピックが開かれ、佐山と同じく山口県出身の吉田光雄、後の長州力が出場した。
在日韓国人二世の長州は小学校時代、教師からも差別を受けた。
中学では柔道部に入り、桜ケ丘高校にはレスリング部の特待生として進学。
3年生でインターハイ準優勝、国体優勝。
専修大学に特待生として入学した。
「今でも思い出すよ。
山陽本線の「あさかぜ」に乗ってね。
寝台列車だよ。
体育寮で使う布団を抱えてさ。
親からもらった3万円を腹巻きのなかに入れてね。
それで東京駅に着いたはいいけど、出口がわからないんだよ。
ちょうど朝の通勤ラッシュ。
誰に聞いたって、あっち、こっちといってくれるけどそれがどこかもわからない。
布団を抱えたまま駅の構内を30分以上も歩き回ってね。
アレは本当にまいったよ」
大学2年生で全日本学生選手権90kg級で優勝。
3年の年生のとき、ミュンヘンオリンピックを迎えたが、日本国籍がないことから日本代表にはなれず、
「じゃあ俺、何人?」
と思いながら、急遽、韓国の選考会に出て、フリースタイル90kg級韓国代表となった。
メダルには手は届かなかったが
「立てた目標に対しては、たどり着けたっていう思い」
とこの頃から常に明るく前向きだった。
(その後、4年生で専修大学レスリング部のキャプテンとなり、全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの100kg級で優勝。
大学卒業後、新日本プロレス入りした)
1972年11月2日、旗揚げ戦から8ヵ月後、藤原喜明が新日本プロレスに入門した。
岩手県和賀郡江釣子村の6人兄弟の長男。
農作用の馬を飼っていて、冬場は仕事がないため運動不足解消のため散歩させるのだが、藤原喜明は凍てつく空気の中、上半身裸で馬に乗った。
肌が針を刺されるように痛く、村人にバカ扱いされた。
「平気だった。
強くなりたかった。
俺の頭の中には強くなる=苦しむという発想しかなかった。
苦しみを我慢すればするほど強くなれると信じていた」
工業高校の機械科に進むとボディビルの本を購入し自己流でトレーニング開始。
高校卒業後、埼玉県内の建設機器メーカーでサラリーマンをしたが、20歳で退職。
料理人をしながら金子武雄(重量挙げ全日本ライト級チャンピオン、日本プロレス所属のレスラーだったがセメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退)のジムで練習を続けた。
新日本プロレス入門10日後というスピードデビュー、かつ23歳という遅咲きでデビューを果たし、1年後には6歳上の猪木の付き人になり、合同トレーニングの後は猪木と特別練習。
それは1984年にUWFに移籍するまで10年以上続いた。
「考えてみたら、人の2倍、3倍、練習していたよな。
そのおかげだな。
俺のヒザはボロボロだよ」
藤原喜明は、カール・ゴッチに出会い、初めてその関節技をみたとき、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け
「本物だ」
と思ったという。
「 当時、若手のコーチ役は山本小鉄さんで、その指導は非合理的というか、スパーリングやっていて
『 これ、どうやって極めるんですか?』って聞くと『根性で極めろ』って。
もちろん非合理的な指導も必要なときもありますが、それを聞いたときは「この人、大丈夫かな」と思いました。
それで入門してしばらくしてゴッチさんの指導に接して「あっこれは本物だ」って感じたんです。
ゴッチさんは日本語もしゃべるんだけどめちゃくちゃなので、それで話されるとわけがわかんなくなる。
ですから基本的には簡単な英語でやりとりしていましたよ。
1日にいくつも関節技を教わるんだけど覚えきれなくなる。
あるとき、ハッと気がついて、1日に1つだけ教えてもらったことをノートに克明に書き残して、それを確実に覚えていくようにしたんです。
オレは頭が悪いからものごとを覚えるのにすごく時間がかかるんですよ。
だけど1度覚えるとずっと覚えている。
高校時代のことだってちゃんと覚えている。
オレは工業高校の機械科で、得意な科目は体育が5で、応用力学、機械工作が5。
これはどういうことかというと運動神経がまあまあいい上に力学、つまりテコの原理がわかっていて工作が上手、つまり手先が器用なんですよ。
だから関節技を習得するのにピッタリだったんだな。
あともう1つ。
骨が太い」
柔道部でバックドロップやスープレックスのような裏投げを繰り出していた佐山聡は、市の大会でも優勝したことがなかった。
しかし誰にでもプロレス技をかけていたため番長グループにも恐れられた。
友人が他校の生徒とケンカになったときも、
「ケンカするなら俺としてくれ。
こいつはせん。
俺がするけん」
と買って出たが相手は去ってしまった。
プロレスファンは馬場派か猪木派にわかれたが、佐山聡は猪木派。
アントニオ猪木を崇拝し
「プロレスこそ真の格闘技」
「プロレスこそ最強の格闘技」
と信じ、プロレスラーになることを決めていた。
そしてプロレス誌に掲載された新日本プロレスの新弟子応募条件を穴があくほど見つめた。
「16歳までなら175cm。
高校卒業後だと180cm以上だったかな。
背が低かったので早く入らねばならないと思ったんです」
中3になると
「中学を出たら新日本プロレスに入る」
と進路を希望したが、教師と親に
「高校だけはいけ」
「アマチュアレスリングでオリンピックに出てからプロになれ」
といわれレスリング部のある高校に進学することにした。
卒業文集の寄せ書きには
「血はリングに咲く赤いバラ」
と書いた。
旗揚げ戦から1年後、新日本プロレスはテレビ朝日と放送契約を結んだ。
カール・ゴッチは、アントニオ猪木とは5回対戦し、3勝2敗。
手紙や電話で選手をブッキングし、コーチ、セコンド、タイトルマッチの立会人として来日することも多く
「かつてプロレスは相手をねじふせ、マットに這わすことに全力を集中した。
しかし近頃はダンスやファッションショーにまでなり下がり、現在は悪貨が良貨を駆逐する時代になってしまった。
良貨が悪貨を打ち破っていく時代が来て欲しい」
と訴えていた。
しかしゴッチが呼ぶのはレスリングはできるが客は呼べないレスラーばかり。
猪木はゴッチと理想を共にしていたが、会社経営を優先させ、ロサンゼルスで新しいブッカーを雇った。
そしてカナダ、トロントで2流のベビーフェイスだったタイガー・ジェット・シンと流血戦をしたり、大木金太郎との力道山時代の同門対決など話題性のある試合を行った。
新日本プロレスの経営が安定するに従い、冷遇され始めたゴッチは
「シリアスなプロレスをやる団体をやるといっていたのに1年経つと元通りさ」
と嘆き、アメリカのフロリダ州に家を買った。
フロリダ州、タンパの北部の小さな町、オデッサは湖が多く、ゴッチの家も湖畔にあった。
書棚に宮本武蔵の「五輪書」、新渡戸稲造の「武士道」、笹原正三(メルボルンオリンピック、フリースタイルレスリング、フェザー級金メダリスト)の「サイエンティフィック・アプローチ・トゥ・レスリング」など世界各国の武道・格闘技関連、そして人体やトレーニングに関する書物が並んだ。
車が2台入るガレージには、バーベル、ダンベル、トレーニングベンチ、インドのメイス(長い鉄棒の先に思い鉄球がついたトレーニング器具)、イランのミリィ(棍棒のようなトレーニング器具)などが置かれトトレーニングルームとなった。
しかし「燃える闘魂」は決してダテではなかった。
アントニオ猪木は、まず誰よりも練習した。
練習第一の猪木が新団体立ち上げるために1番最初にしたことは道場を建てたこと。
そして所属レスラー全員に合同練習を義務づけた。
猪木が入ってくると道場の空気が一変し、一瞬の気の緩みも許されなくなるという。
「前の晩も試合はもちろん、洗濯やらの雑用もある。
疲れていたから早起きはキツかった。
毎朝、30分ぐらいかな、走る。
ああ、終わったって思うとスクワット。
毎日嫌になるぐらいやっているんだよね。
でも一緒にやらなくちゃいけない」
(藤原喜明)
試合で遠征中も必ず合同練習が行われ、朝は晴れていればランニング、雨なら風呂場でスクワット1000回。
午後も試合が始まる30分前まで試合用のリングでスパーリングやトレーニングをしてから客を入れた。
あるとき3週間休みなしで巡業が続き、後半に入るとみんな疲れて合同練習に参加しなくなったが、猪木は1人で黙々とスクワット。
そして
「集まれ!」
と号令をかけ、リングの周りに並べ
「やる気がないなら帰れ」
といって全員を殴った。
新日本プロレスの若手は、道場に隣接する寮に住んだ。
そして8時半起床し、掃除などをしてから10時から合同練習開始。
まず全員がリングの周囲を囲んでスクワット、腕立て伏せ、縄跳びなどのトレーニングを1時間半から2時間行うが、夏は40度を超えて汗だまりができる。
次はリングの上でストレッチ、腹筋、ブリッジ、受け身、タックル、ロープワークなど基本技術。
それが終わるとスパーリングとなる。
最大で4組8人がリング上でひしめくため、自然と寝技多くなる
それは関節技あり、締め技あり、フォールなしのサブミッションレスリング。
これを道場ではスパーリングと呼ばず
「セメント」
あるいは
「ガチ」
「ガチンコ」
と呼んだ。
プロレスには台本があり、勝敗は事前に決まっていて、プロレスラーの目的は勝利ではなく観客を興奮させ楽しませること。
ミュージシャンが楽器や演奏の練習したり、俳優が演技やセリフの練習をするように、本来、プロレスラーは、パイルドライバー、バックドロップ、ボディスラム、4の字固めなど技のかけ方、受け方を練習をする。
しかし新日本プロレスでは、そういった練習はほとんどせず、基本的にトレーニングとセメントだけ。
試合は、ケツ(最後の勝敗)は決まっていたが、試合中はすべてアドリブでセメントもやった。
猪木は
「どんなに素晴らしい試合より街のケンカのほうがおもしろい」
と感情ムキ出しのファイト、気迫ムキ出しの試合を推奨。
試合でセメントの要素がないと
「何やってるんだ!」
と怒った。
またチャレンジすることが大好きな猪木は、若手がリングで挑戦的なことをやったり、それを失敗しても責めない。
しかし気合が入っていない試合をすれば、試合中でも竹刀を持ってリングに上がって滅多打ちにすることもあった。
だから新日本プロレスのリングには、常に危険な香りが漂っていた。