1992年1月12日、体重無差別、グローブによる顔面パンチあり、肘打ちあり、掴みありの空手大会「第1回トーワ杯争奪 カラテ・ジャパン・オープン」で優勝。
(翌1993年の第2回大会も制し2連覇。)
前田日明に直接コンタクト まさにフルコンタクト空手家
佐竹雅昭は、お金がないことは大して気にならなかった。
しかし空手が世間から認知されていないことには大いにフラストレーションを抱えていた。
同じ格闘技でも、華やかに脚光を浴びていたUWFがうらやましかった。
佐竹雅昭は、単身、東京の代々木第2体育館に行き、サンボの試合会場に来ていた前田日明に会いに行った。
当然、アポなしである。
会場につくとチケットを買い入場。
失礼のないようまずサンボの試合をみて、休憩時間に入ったとき、トイレに立った前田日明に廊下で挨拶をした。
「あのー、前田さん、僕と戦ってほしいんですけど」
「そんなんいきなり無理や。
段取り踏んで来い」
2人は後日、会い意気投合。
佐竹雅昭は、前田日明が立ち上げた総合格闘技「RINGS(リングス)」への参戦が決定した。
RINGS参戦 プロ格闘家に
リングス・オランダのハンス・ナイマン(左)とディック・フライ(右)
金ちゃんのドンとやってみようGT:ハンス.ナイマン&デック.フライ
1991年12月7日、「リングス ASTRAL STEP FINAL BLAZE UP 炎上」(有明コロシアム)でリングスデビュー。
ハンス・ナイマンと正道会館空手ルールで2分5Rを戦い引き分けた。
この後、角田伸朗やアダム・ワット、後川恥之、玉城厚志など正道会館勢が続々とリングスに参戦した。
佐竹雅昭は、1992年1月25日、ジェラルド・ゴルドーに反則勝ち。
1992年3月5日、フレッド・オーストロンにKO勝ち。
1992年4月3日、ヘルマン・レンティングにKO勝ち。
1992年5月16日、バート・コップスJrにKO勝ち。
1992年6月25日、ウィリー・ピータースに時間切れ引き分け。
1992年7月16日、ピーター・ウラにKO勝ち。
1992年8月21日、ロブ・カーマンと時間切れ引き分け。
そして1992年10月29日、長井満也をKOしたが、長井満也が「拳で殴った(反則)」とアピール。
スロービデオでは佐竹の掌底が長井のテンプルを完全にとらえダウンを奪っている。
しかしよくみると、その前に1発だけ拳による打撃が当たっていた。
佐竹雅昭は、この試合を最後にリングスを去った。
K-1 1993年に始まる
石井館長は、K-1を立ち上げた。
手技による顔面攻撃が禁止される空手ルールと違い、グローブをつけ顔面を殴るキックボクシングへの挑戦が始まった。
しかし最初はなにをすればいいのかまったくわからなかった。
特にスパーリングパートナーがいないのは問題だった。
スーパーヘビー級が集うK-1のリングでは185㎝100㎏の佐竹雅昭は小型だった。
佐竹雅昭は海外へ修行に出た。
オランダでは1人でホテルに泊まり、バスに乗ってジムに通った。
ピーター・アーツのいるチャクリキジム、アーネスト・ホースとのいるボスジムやロブ・カーマンのいるメジロジムで、スパーリングをガンガンやった。
クリス・ドールマンのジムやジェラルド・ゴルドーのジムでも練習した。
1993年4月30日、K-1グランプリ 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント1回戦で、トド"ハリウッド"ヘイズを2R 0:45、右ローキックでKO。
1993年6月25日、K-1グランプリ 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメントの2回戦で、佐竹雅昭和は、ブランコ・シカティックと対戦し、その鉄拳に沈んだ。
ピーター・アーツに負けるまで8年間無敗だったモーリス・スミスも、アーネスト・ホーストに壮絶なKO負けをした。
決勝戦は、ブランコ・シカティックのパンチがアーネスト・ホーストの顔面を打ち抜き、KO。
初代K-1チャンピオンとなった。
ベストバウト:スタン・ザ・マン戦
1993年9月4日、WKAスーパーヘビー級チャンピオン、キックボクシング界のマイク・タイソンと呼ばれたスタン・ザ・マンと対戦した。
佐竹雅昭和は、ボクシングの元世界チャンピオン:平仲明信からボクシングを学び、飛躍的にパンチの技術を伸ばした。
そしてスタン・ザ・マンと堂々とパンチで打ち合い、右のローキックで脚を破壊し、判定で勝った。
空手でアンディ・フグに勝つ
1993年10月3日、「カラテワールドカップ '93 風林火山 "火の章"」で、優勝。
1回戦、パトリック・スミスの拳を突きで破壊。
2回戦、アダム・ワットに判定勝ち。
3回戦(準決勝戦)、金泰泳を左上段膝蹴りで倒した。
そして決勝戦では、極真空手の世界大会で2位となったアンディ・フグと対戦。
フルコンタクト空手ルール、グローブ空手ルールと戦い引き分けた末、試し割り判定で勝った。
K-1 `94
1994年4月30日、K-1GPの1回戦は、かつて極真空手の世界大会で4位になったマイケル・トンプソンだった。
佐竹雅昭和は、極真空手の試合では禁じ手である首相撲からの膝蹴りで、トンプソンをドクターストップに追い込んだ。
2回戦は、前年に負けた、そして前年のK-1GPの優勝者:ブランコ・シカティックだった。
佐竹はその石のような拳を額で受けながら距離を詰めてローキックで攻めた。
そして判定で勝利した。
決勝戦の相手は、ピーター・アーツだった。
アーツとは2年前に戦い、膝蹴りで肋骨を折られながらドローになっていた。
両者は全力を尽くしフルラウンド戦った。
そして佐竹雅昭は判定で敗れた。
脳ダメージ
1994年3月、正道会館所属の植田修選手がキックボクシングの試合で受けたパンチが原因で亡くなられた。
彼は1月にも空手の試合でダウンし、タンカで運ばれていた。
佐竹雅昭も、後輩の死に、改めて頭部への打撃の怖さを思い知り、そして覚悟を決めた。
1994年3月4日、K-1 CHALLENGEでアーネスト・ホーストと対戦。
2R 2:45 、左ハイキックでKO負け。
1994年10月2日、デニス・レーンに鼓膜を破られながらも勝利。