Movie
「よし、どんどん、人に笑われたろう」
佐竹雅昭は、「高野台バード」という少年軟式野球チームに入っていた。
当初、練習は土日だけで、練習後、アイスクリーム食べて喜んでいた。
しかしある日、突然、監督が代わり、超スパルタになった。
火曜から日曜まで、朝は6時に集合してランニング、夜は8時~9時まで練習。
ビンタ、ケツバットなど体罰は当たり前。
ボール失くしたら全員責任で制裁トレーニング。
やめたくて仕方なかったが、ある日試合をしてみると、それまでずっとコールド負けばかりだったのに、いきなりコールド勝ち。
すると途端に面白くなった。
佐竹雅昭は、努力と根性、そして勝つ喜びを覚えた。
少年野球の監督が、映画『がんばれ!ベアーズ』を観に連れて行ってくれたことがあった。
野球チームであるベアーズは最後はヤンキースに負けてしまい「明日は見てろよ!」といって映画は終わった。
チームメイトは自分たちの境遇と重ねみんな泣いていた。
佐竹雅昭は
「テイタム・オニールと結婚したい」
「ハリウッドに行きたい」
と思った。
そして自分と同じ東洋人でハリウッドスターになった人を見つけた。
それはブルース・リーだった。
「ハリウッドに行くなら格闘技だ」
と思い
『リングにかけろ』
『あしたのジョー』
『柔道賛歌』
など格闘技マンガを読みまくった。
そして絶対的に強くなれば、ハリウッドスターの道も開けると思った。
ある日、本屋で大山倍達の『大山カラテ もし戦わば』と出会った。
大山倍達がトラを蹴る絵に腰を抜かし、牛の殺し方、ゴリラの倒し方、山籠りの効果、そのすべてを真に受けた。
その後は大山倍達の半生を描いたマンガ『空手バカ一代』にドップリ浸かった。
そして思った。
「ハリウッドどころか、もっと凄いところに行けるかもしれない」
14歳の佐竹雅昭昭は、毎日、家の裏の公園の木を蹴り始めた。
近所の
「佐竹さんのところの長男、ちょっとおかしいで」
学校の
「ドコドコ中の番長は強い」
「・・・に・・・が喧嘩で勝った」
そんな巷の声など夢の中にいる少年に別世界の話だった。
自己流の稽古を始めて1年、ある日、男が話しかけてきた。
「君、ずっとここで木を蹴っているねえ」
それは極真空手をやっている人だった。
彼は
「構えてごらん」
「腰が高い!」
「突きをやって」
「違う、こうだ!」
と実際に突いたり蹴ったりしながら指導を始めた。
佐竹雅昭は、突かれたり蹴られたりしながら、その痛みと破壊力に感動した。
1時間くらいの稽古の後、公園のベンチに座っていろいろ話をした。
男は訊ねた。
「君は何になりたいんだ?」
佐竹雅昭は
「山籠りをする」
「牛を殺す」
などとアホなことをいった。
男がニヤッと笑いさらに訊いた。
「他には?」
「空手で日本一ですかねえ」
「あ、それならなれるよ
なんでなれるか教えてやろうか」
「教えて下さい!」
「君はね、人に笑われることをしているからだ」
君、なんで人は笑うか知っているか?」
「なんででしょう」
「それはね、誰もやらないことを笑うんだよ
誰もやらないってことは、先頭に立ってレールを敷いていることなんだ。
だから君はその資格があるんだよ。
人からバカにされた笑いを、いずれ拍手に変えてやりな」
「よし、どんどん、人に笑われたろう」
精神的リミッターが外れた佐竹雅昭は学校の休憩時間はずっとトレーニング!
1時間目終わったら腕立て、2時間目終わったら腹筋、3時間目終わったら逆立ち、4時間目終わったら弁当食べて、昼休みは懸垂やったり、蹴りの練習。
授業中も、空気椅子。
体育の授業は絶好のトレーニングタイム。
必要以上に自分にノルマを課して頑張った。
これを中学から高校まで続けた。
高校生のとき、初めて空手道場に通った。
大阪の福島区にあった極真空手総本部直轄道場、師範は若獅子寮出身のごっつい体の人だった。
とにかく「押忍」の縦社会で、白帯は組手もやれなかった。
佐竹雅昭は、これでは強くなれないと感じ、道場に行かない日は、実家の裏にある吹田市北千里体育館内の1回50円のトレーニング場に通った。
これや!
石井和義館長
「おい佐竹、なんか正道館っていう空手道場みたいなんやけど」
ある日友達が一枚のチラシを持ってきた。
それには『DO!エンジョイ空手』と書いてあった。
月謝は3000円。
極真の道場は6500円。
しかも『今、入会すると、キックミットをプレゼント!』
「なにぃー!」
佐竹雅昭は見学に行った。
中に入るとBGMが流れていた。
極真の道場ではありえないことだった。
「あ、見学?
よく来てくれたねえ。
いやあ、君、大きいねえ。
まあ座って座って」
そういって出て来たのは石井和義館長だった。
そしてしばらく稽古をみていると中山猛夫が現れた。
第9回極真空手の全日本大会準優勝者である。
中山猛夫は極真空手を離れて正道に移っていた。
また正道会館の稽古方法も新鮮だった。
白帯でも組手をやっていた。
またグローブや脛パッドなどの防具の着用は、ケガを防ぎ、練習量を増やすという点で合理的だった。
両方とも佐竹雅昭が通っていた極真空手の道場ではなかったものだった。
その直後に正道館第1回全日本大会が行われ、佐竹雅昭は観に行った。
トーナメントを圧倒的な強さで中山猛夫が優勝した。
「これや!」
佐竹雅昭は感動した。
そして正道会館に通うようになった。
中山猛夫
正道会館では、中山猛夫を筆頭に、今西靖明、川地雅樹ら強い先輩の指導を受けることができた。
また道場のふんいきは明るく、ノリもよかった。
練習もキツかったが、強くなっているという実感があった。
中山猛夫は
「俺たちは拳ダコばっかり作ったって仕方ないやん」
「こんな拳にタコを作っても人は倒れん」
「俺たちは人を倒すのが仕事やろ。
だったら人で拳を鍛えればええねや。
だから組手や。
実戦経験積まなあかん」
「相手が痛がるような蹴りをするのは人で覚えろ」
「相手にタイミングよく当たる打ち方は練習でしか身に付かんで」
といい、その指導は合理的で実戦至上主義。
とにかく格闘技を強くなりたかったらスパーリング、組手。
実戦に対応するためには、道場以外で走ったり、ウェイトトレーニングするなど体力づくりをやる必要があるが、道場というのは対人練習の場。
正道会館は、そういう効率性と実戦性を重視した稽古が行われた。
1980年代、正道会館が他流派の大会に出て判定にもつれたとき、どれだけ圧倒していても良くて引分け、悪いと判定負けという苦い経験をした。
「だったら倒せばいいんだろ?」
と「倒す空手」を目指した。
そして白蓮会館の大会で優勝した松本栄治、柳沢聡行、士道館の大会で優勝した玉城厚志など、他流派の空手の試合に乗りこんで勝ち、「進化する空手」「挑戦空手」「常勝軍団」などといわれた。
そんな正道空手で、佐竹雅昭は、関西外語大学の1年生時に正道会館の全日本大会に初出場で4位。
2年で2位、3年で2位、4年で優勝と着実にレベルアップし、正道館空手最強の男となった。
大学在学中は、アルバイトをしていたが、引っ越しのアルバイトではエレベーターを使わず階段を使い、プールの監視員のアルバイトでは、水中で走ったり、蹴りの練習をして「監視員が暴れている」と子供にチクられたりした。
やがてそこで主任に昇格すると、正道会館の後輩を雇い入れ、自分は監視台に上がらずに交代でミットを持たせて練習した。
当時のフルコンタクト空手界は、まるで戦国時代で、各流派の選手たちは戦国武将のようにライバル視した。
特に最大にして最強、そして関東の極真空手と新興勢力で最強、そして関西の正道会館の対立は、その最たるもので、佐竹雅昭も、街で極真の有名選手に出会ったら、その場でケンカをしてやろうと思っていた。
正道会館の職員
1988年、真のフルコンタクト空手日本一を決めるを決めるため、各流派のチャンピオンクラスを集めた「リアル空手トーナメント」 が行われた。
佐竹雅昭は勝ち進んだ。
そして決勝は、練習でも1度も負けたことがない後輩、柳澤聡行だった。
最初から押していき有効を2つとり、ラスト30秒で、とどめの刺そうと前に出たところにカウンターの跳び膝蹴りをアゴにもらい片膝をついて技ありをとられ逆転の判定負けをした。
その後、柳澤聡行はリング上で、UWFの前田日明への挑戦状を読み上げた。
前田日明が立ち上げたUWFは、従来のプロレスではない格闘技色の濃いプロレスで社会現象といわれるほど大きな支持を受けていた。
この敗戦でショックを受けた佐竹は、関西テレビへの就職を断りに行き、空手漬けの毎日を送るため正道会館の職員になることを決めた。
石井館長にそのことを伝えると
「ウチに来るならこれだけ出そう」
とパッと手を開き指を5本立てた。
佐竹雅昭は
(うわ、50万くれるんやあ)
っと思った。
そして最初にもらった給料袋の中身は5万円だった。
数ヵ月後、正道会館の全日本大会で柳澤聡行にリベンジし優勝した。
佐竹雅昭は、5万円の給料で、衣食住を行うために、足らない分はパチンコで稼いだ。
職員の仕事は、まず朝、道場に行き清掃。
そして事務仕事。
午後は「Bigin Sports」という正道会館の格闘技ブランドのサンドバッグやミット、グローブなど格闘技用品の梱包と発送。
夕方から空手の指導を行う。
結局、正道会館の職員は6年続け、月給も最終的に13万円まで上がった。
打倒!極真空手の夢
角田信朗(正道会館) 極真空手の大会でベスト4に入る
正道会館のチャンピオンになった佐竹雅昭は、憧れの大山倍達の極真空手の大会で優勝するつもりだった。
実際、1990年、極真空手全日本ウエイト制大会には、複数の正道会館の選手が出場申し込みを行った。
佐竹雅昭も重量級に申し込んだが、なぜか彼だけが書類不備となり出場できなった。
そしてその重量級で角田信朗がベスト4に進んだ。
頭突きと正拳 まさに空手家
前田日明と異種格闘技戦を行ったキックボクサー:ドン・中矢・ニールセンと試合をしないかと、全日本キックボクシング連盟からオファーがきた。
佐竹雅昭は、これまで顔面パンチなしのフルコンタクト空手の試合をやってきた。
空手選手ならそれでいいだろう。
しかし空手家を目指す彼にとっては、相手がキックボクサーでも戦い、倒さなくてはならなかった。
だからこの試合を受け、ボクシングジムやキックボクシングジム、シュートボクシングジムに通い顔を腫らせた。
1990年6月30日、全日本キックボクシング連盟「INSPIRING WARS HEAT」で行われた、この試合はケンカとなった。
リング上でニールセンはヘラヘラ笑い佐竹をなめた態度をとった。
そして膝蹴りで佐竹の金的を狙った。
佐竹はこのケンカを買い、頭突きを返し、最後は右ストレートでニールセンを倒した。
間違いなく最強の空手家の1人
1991年6月4日、 「USA大山空手vs正道空手5対5マッチ~LAST CHANCE」で、佐竹雅昭は熊殺しのウィリー・ウィリアムスに判定勝ちした。