1995年3月3日、拳獣:サム・グレコにKO負け。
このときダウンしてからの記憶を失い、気がつけば車の中にいた。
周囲には
「大丈夫、大丈夫」
といっていたが、その様子は全然大丈夫ではなかった。
深夜、病院に行き、検査を受け、いったん東京に戻り、日大病院で再び検査を受けると、脳の海馬がダメージを受けて血管が細くなっていることがわかった。
医者はいった。
「このままでは、その若さでアルツハイマーになりますよ」
このことは石井館長に報告されたが、
「人にいうなよ」
とかん口令が出ただけで、試合はドンドン組まれていった。
しかし肉体的にはタフで打たれ強い佐竹雅昭が、頭を打たれるとすぐに倒れ始めた。
佐竹雅昭は、試合は決まると、大阪の正道会館の宿泊施設に寝泊まりし、自分で洗濯などをしながら、朝は淀川沿いを走り、午後からはジムワーク、夜はウエイトトレーニングとマッサージ。
そんな生活を続けた。
そして試合前には、頭のこともあるので、何があってもいいように自分の部屋や仕事場を掃除し身辺を清めた。
K-1 `95
1995年、K-1GP開幕戦で、総合格闘家:キモと対戦。
試合前、相手の呪いのパフォーマンスに十字を切って対抗した。
そして2R 2:27、左ミドルキックでTKOした。
ただ佐竹はこの試合のことも覚えていない。
キモの投げ(反則)で頭を打ったショックで前後の記憶を失った。
1995年5月4日、K-1GP準決勝でジェロム・レ・バンナと対戦。
3R、左フックでKOされた。
この後、佐竹雅昭は少しの間、リングから消えた。
(復帰は1996年10月18日)
テレビで佐竹をみない日はない
マンガ:となりの格闘王
休養生活に入った佐竹雅昭は、積極的にメディアで活動、テレビ番組に出てラジオで喋った。
テレビで
「こんにちは、あき竹城です」
といってウケたら
次は
「なつ竹城です」
「ふゆ竹城です」
でスベった。
強い人が強そうに振る舞うのは当たり前。
しかし佐竹雅昭は、アニメ好き、お笑い好き、AV好き(東スポで「AVヌケる10本」を連載)を公開し、逆に魅力が倍増し、ファンを獲得した。
「薄暗い道場の片隅で得体の知れない何者かが何か危険なことをしている」
そんな空手の暗いイメージを、明るく楽しい佐竹雅昭は一掃した。
K-1 `96
1996年10月18日、K-1 STAR WARSで約1年半ぶりに試合復帰。
(前戦は、1995年5月4日のジェロム・レ・バンナ戦)
相手はアンディ・フグ。
フルラウンド戦ったものの、消極的な試合姿勢で判定負け。
K-1 `97
1997年3月16日、K-1 KINGSでマイク・ベルナルドと対戦。
右ハイキックからの左後ろ回し蹴りをベルナルドにヒットさせたが、2R、右フックでTKO負け。
佐竹雅昭には、この後ろ回し蹴りの記憶がない。
1997年11月9日、K-1 GP 準々決勝で、1R15秒、アンディ・フグの左ハイキックでKO
された。
K-1 `98
1998年4月9日、モーリス・スミスと引き分け。
1998年5月24日、武蔵と引き分け。
1998年7月18日、マット・スケルトンの左ストレートで1R 2:06 TKO負け。
1998年8月28日、K-1 JAPAN GP。
1回戦、安生洋二を右ハイキックでTKO。
準決勝戦、大石亨を左ミドルキックでKO。
決勝戦、中迫剛に判定勝ちし優勝。
1998年9月27日、K-1GP開幕戦でグラウベ・フェイトーザに判定勝ち。
1998年12月13日、K-1グランプリ決勝トーナメント1回戦、1R 2:40 ピーター・アーツの左膝蹴りでTKO負け。
K-1 `99
1999年4月25日、K-1 REVENGE '99でマイク・ベルナルドに判定負けしリベンジならず。
1999年6月20日、ヨッキ・オバーホルツァーを右ローキックでTKO。
1999年8月22日、ゲーリー・グッドリッジを左ローキックでKO。
K-1 ラストファイト
1999年10月5日、K-1GP開幕戦。
相手は武蔵だった。
武蔵の本名は、森昭生。
リングネームを決めるとき、「(北斗の拳の)ケンシロウ」案があがったが、佐竹が「武蔵」を提案し、それが採用された。
佐竹は「武蔵」を「むさし」ではなく「たけぞう」と呼んだ。
武蔵は、空手家としてバックボーンが少なく、むしろキックボクサーとしてのアイデンティティが高い。
両者の精神性を含むファイトスタイルには差異があった。
1R、佐竹はパンチで武蔵をダウンさせた。
しかし3R終了後の判定は、3-0で武蔵を勝利者とした。
佐竹は納得がいかず、リングサイドにいた石井館長に抗議した。
実際、多くのK-1選手も疑問を感じた判定だった。
1度、控室に戻った佐竹だったが、やはり納得がいかず、改めて石井館長に抗議しにいった。
「あの判定はどういうことですか?」
「そんなことはどうでもええねん」
佐竹は唖然とした。
結局、その後も、話し合いにならず
「じゃあ、辞めさせてもらいます」
佐竹はそういって部屋を出た。
数日後、記者会見が開かれ、石井館長と佐竹の和解、そして佐竹のK-1一時撤退と正道会館を休会することが発表された。
PRIDE
佐竹雅昭は、総合格闘技「PRIDE」への挑戦を決めた。
しかしかつて参戦した「RINGS」と「PRIDE」では、同じ総合格闘技でもルールとレベルがまったく違う。
35歳の空手家には無謀な挑戦にも思えた。
佐竹雅昭は、アメリカのシアトルにあるモーリス・スミスのジムに行った。
モーリス・スミスは、伝説のキックボクサーにして、アメリカの総合格闘技「UFC」でチャンピオンになったこともあるレジェンド。
佐竹雅昭が
「俺、寝技やるわ」
というとモーリス・スミスは笑いながらいった。
「ご愁傷様」
フルコンタクト空手からK-1へ参戦し顔面パンチを覚えたときと同様、寝技の練習も辛くも楽しい日々だった。
またシアトルでは、ケビン山崎のトレーニングにも取り組んだ。
それは、4大筋群(脚、背中、腹、胸)を中心に鍛える。
それも高い負荷、重い重量を低回数、挙げたり引いたりして鍛える。
そして食事は鶏肉のみ。
炭水化物をカットし、タンパク質のみ摂るというものだった。
佐竹雅昭は、日本に戻っても、高田延彦の高田道場などで稽古を続けた。
2000年1月30日、寝技の練習を始めて2か月後、初戦の相手は、UFCのチャンピオンだったマーク・コールマンだった。
佐竹雅昭は、とにかく寝技を回避し打撃で勝負するため、タックルを切る練習を繰り返した。
しかし試合では、マーク・コールマンのタックルに倒され、首を極められタップ(相手の体を手で2度叩いて「参った」という意思表示する)した。
わずか74秒で敗戦した。
2000年5月1日、ガイ・メッツァーに10分2R、判定負け。
総合格闘技団体「パンクラス」のチャンピオン相手を判定に持ち込んだ。
2000年8月27日、狂犬プロレスラー:タックルにきた村上一成をロープの反動を使い倒し、馬乗りになって鉄槌と拳を叩き落とし、1R6:58、TKO。