1979年10月、日曜日の21時に放送されていた関西テレビの「花王名人劇場」内に「おかしなおかしな漫才同窓会」というコーナーができ、新旧の漫才師が競演。
すると13~16%という異例の高視聴率となった。
気をよくした「花王名人劇場」は、「激突!漫才新幹線」というコーナーで、横山やすし・西川やすし、星セント・ルイス、B&Bという関東と関西の人気漫才師を競演させ、18%超え。
月亭八方は、西のの桂米朝、東の柳家小、東西の大師匠の落語をテレビで観れてうれしかった。
「花王名人劇場」の成功をみて、各局も新しいバラエティー番組を製作し、どのチャンネルを回しても漫才をみるようになった。
中でもフジテレビの横澤彪プロデューサーと佐藤義和ディレクターらがつくる「THE MANZAI」は革新的だった。
放送頻度は、3ヵ月に1度。
毎回数組の漫才コンビが漫才を披露するというシンプルな内容ながら、フジテレビの第10スタジオに豪華でポップなセットを組んで、大学生を中心に若い客を入れた。
漫才の前には必ずショートPRムービー、そして登場時の出囃子はフランク・シナトラの「When You're Smiling(君微笑めば)」
出演者はベテランではなく若手が中心。
出演順は抽選で決め、楽屋には緊張感が漂い、舞台では真剣勝負が行われた。
1980年4月、「THE MANZAI」の放送が始まると空前の漫才ブームが勃発。
ブームを牽引したのは、関東では、星セント・ルイス、ツービート、B&B、関西では、横山やすし・きよし、中田カウス・ボタン、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、オール阪神・巨人、島田紳助・松本竜介などの漫才師だった。
中でもザ・ぼんちの人気はすさまじく、夏休みになるといつも年齢層高めの花月に若者が押し寄せ、ザ・ぼんちが登場すると立ち上がってクラッカーを鳴らし、紙テープを投げ、2人の出番が終わると一斉に席を立って出待ちに走った。
劇場は一気に冷め、次に出演する芸人は苦笑いするしかなく、全芸人が、ザ・ぼんちの後に出ることをイヤがった。
漫才ブームになると落語家は仕事が激減。
月亭八方は自分のファンが漫才に寝返るのを目の当たりにしたが、何よりもおさむが売れたことがうれしかった。
1981年、「オレたちひょうきん族」が始まり、ビートたけし、明石家さんま、西川のりお、島田紳助たちがレギュラー出演。
よく一緒に仕事をしていた仲間が続々と東京に進出していく中、大きな借金の抱える月亭八方は、仕事を選んだり、将来のことを考える余裕はなかった。
しかし2年後の1983年、月亭八方は、毎日放送の生放送情報番組「すてきな出逢い、いい朝8時」がスタート。
月亭八方は、司会のうつみ宮土理、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよらとレギュラー出演。
(2001年まで継続)
1984年、36歳のとき、吉本新喜劇の「花の駐在さん」にレギュラー出演し、明石家さんまと名コンビを組んだ。
また同時期、「笑っていいとも!」の水曜レギュラーとして活動を開始。
きっかけは「花王名人劇場」で阪神タイガースをネタに漫談を行い、バカウケしたことだった。
「笑っていいとも!」や「オレたちひょうきん族」のプロデューサーで熱狂的な大洋ホエールズファンである横澤彪は、それをみて、
「野球漫談をやってほしい」
と「笑っていいとも!」の出演をオファー。
月亭八方は、
「東京で阪神ネタが受け入れられるのか?」
「笑っていいとも!の客は、野球に興味あるのか?」
という不安はあったが、引き受け、周囲に
「東京いくねん」
と自慢した。
4月、「笑っていいとも!」に出演開始。
5月、家族に
「お前らのために頑張ってくるで」
といって、東京でマンションを借り、月~金曜日は、東京で仕事をして、土日は「「花の駐在さん」収録のために大阪に戻り、月曜日の朝、東京に向かうという生活を開始。
生まれて初めて単身赴任に
(遊びまくれる!)
(借金取りから逃れられる!)
と思っていたが、東京で借りたマンションが
「大阪の福島のように」
都心ではなかったため、不便で、あまり遊べず、その上、借金取りは東京までやってきた。
しかも野球ネタで「笑っていいとも!」の客はクスリともせず、3歳上のタモリに
「八方師匠」
と呼ばれ、余計にみじめな気持ちに。
東京になじめない月亭八方、それに手こずるタモリという構図を見るに見かねた横澤彪は、新コーナーを企画。
「八方ちゃんとなじもう」
というコーナー名をみて、月亭八方は、
「やっぱりなじんでないんや」
とさらに悩んだ。
結局、月亭八方の「笑っていいとも!」出演は、1984年4月から6月まで3ヵ月間で終わり、マンションを解約し、大阪に戻った。
東京進出に
『失敗した』
『挫折した』
という感覚はまったくなく、
「水が合わんかった」
とあっさり見切りをつけ、借金を抱えた身に関西よりギャラがよい東京は魅力的だったが
「ようさん仕事して稼いだろう」
と気持ちを切り替えた。
しかし積もり積もった借金は、1億3000万円。
持ち家や全財産を整理しても半分ほどしか返せない。
月亭八方は、
「もはや吉本にケツ拭いてもらうしかない」
と腹を括り、吉本興業の専務と部長に相談。
そして会長室に連れていかれ、林正之助会長に不機嫌そうに
「なんや」
といわれ、覚悟を決めて窮状を訴えた。
「金は貸してやる。
担保はなんや」
林正之助会長にいわれ、月亭八方が困っていると、専務が助け舟を出した。
「八方クラスが会社としては儲かるポジションなんですわ」
月亭八方は、その言葉に続けて
「会長、ボクは健康です。
一生、吉本興業で働ける頑丈な身体という医者の診断書もあります」
会長は微笑んで、
「よっしゃ!
その診断書が担保や」
その後、月亭八方は、吉本興業の顧問弁護士の事務所へ。
借金を整理すると、ほぼ闇金からの借金で返さなくてよく、処分できるものを処分すると残る借金は5000万円であることがわかった。
つまり月亭八方は、吉本興業から5000万円を借りることになった。
吉本興業の芸人への融資方法は、毎月、一定額の給料を渡しながら、それ以上の稼ぎ分を返済に充てるという方式。
例えば、100万円借りて、毎月給料を10万円をもらう契約をして、毎月20万円を稼げば、毎月10万円返済され、10ヵ月で完済できるということだった。
しかし言い換えると、返し切るまで月収10万円が続く。
「月ナンボいるねん?」
と聞かれ、毎月80万円もらっていた月亭八方は、
「えっと、80万ですわ」
「それまるまるやないか。
一銭も返さんつもりか。
50万にしとけ」
と怒られた。
「ボクとしては心を入れ替えて仕事をして、100万円、いや200万円くらい稼いでやろうという意気込みはあった。
だけど会社がボクをそこまで信用できないのもわかるから反論できんかった」
それから吉本興業は、多量の仕事を入れ、月亭八方は
「月100以上入っていたから、スケジュール長は真っ黒。
あれほど働いたことはない」
というが、働けど働けど、月給50万円。
しかし借金は確実に減っていった。
しかも吉本興業は単価の高い仕事をとってきて、笑福亭仁鶴、横山やすし・西川きよし、桂三枝らが新番組を始めるとき、必ず月亭八方も出演。
月亭八方は、市毛良枝と夫婦役で「なまみそずい」のCMにも出演。
後輩に
「兄さん、借金したら仕事って増えるもんなんですか?」
と聞かれ、
「オウッ、増えるど」
ついに借金はなくなり、月亭八方は、
「完済できたことを知ったとき、知らん間に涙が頬を伝っていた」
というが、
「八方は、借金あった方が儲かる」
と味をしめた吉本興業は
「なんか欲しいものとかないか?
また金貸したるぞ」
月亭八方は、その話を受け、1150万円のベンツAMGを購入。
さらに
「すぐに3000万円、4000万円になる」
といわれ、2000万円のゴルフ会員権(会員制ゴルフ場の利用権、ビジター(非会員)より割安かつ優先的にプレーが可能)を銀行でローンを組んで購入。
(結局、値上がりするどころか、バブル崩壊後、130万円に値下がり。
しかもその時点で支払いが、2000万円残っていた)
さらにギャンブルも再開したが、負け始めると過去の悪夢が蘇り、ブレーキを踏み、借金地獄に落ちることはなかった。
「そらもう、ものすごくしんどかったけど、そのしんどさは仕事の前向きなしんどさですからね。
頑張ったら借金が返せていくシステムを作ってくれた会社にまず感謝ですし、借金を必死に返し始めて、気づいたら月収が3倍になってました」
返済は順調に進み、2年ほどで半分を返すことができた。
月亭八方は月々の返済額の見直しを求め、
「これまでと逆の形にしてもらいたいんです。
毎月50万円を会社に返していきますから、稼いだ分の残りをもらえませんか?」
と提案。
それは承諾され、
「肉やらテッチリとかテッサとか、それまで我慢してきたものを食うに食うた。
家族でハワイ旅行にもいった」