月亭八方は、吉本興業の給料だけで借金を返すの無理なので、ミナミでスナックを始めることにした。
居抜きの物件を内装工事もせずに、契約期間が始まった、その日からすぐに営業を開始。
店名は
「SOS」
嫁をママに、まだ売れていなかったザ・ぼんちのおさむを日雇いウエイターに、月亭八方自身も働いた。
開店初日、お祝いボトルがたくさん入って、200万円の売り上げ。
「こんなボロい商売やったんや
この分やと楽勝で借金を返していける」
とほくそ笑んだが、翌日は80万円、3日目は60万円、4日目は20万円と低下。
やがて開店景気が落ち着くと、1日数十人しか客が来なくなった。
「えらいこっちゃ。
なんぼ足りん?」
酒屋の支払いや家賃のために、再び闇金融から借金。
開店2年後には、毎日、闇金融が集金に来るようになった。
通っているうちに、もうどうにもならないとわかった闇金融業者は、
「手形にしたらエエやん」
と悪魔のささやき。
「手形で支払えば、ちょこっと利息や手数料がつくけど、3ヵ月先まで実際の支払いを延ばせる」
日々の支払いに苦しんでいた月亭八方は、
「紙切れ1つでそんなことできるなんて魔法みたいやん」
と飛びつき、さらに闇金融業者から詳しく話を聞くと手形にすれば支払いを3ヵ月先に延ばせるだけでなく、手形割引というものにすると借金ができることがわかった。
手形を持つには銀行の口座が必要で厳しい審査があるが、闇金融業者は
「何とかなる」
とアドバイス。
仮に3ヵ月後、手形での支払額、また手形割引での借金額が口座になければ、手形は不渡りとなって店は倒産してしまうが、月亭八方は、
「そんな大層なことならんやろ」
とバンバン手形を切って、バンバン手形割引。
3ヵ月後、銀行口座にお金がないので、また借金。
また3ヵ月経っても利息や手数料を追加で払い、相手が納得すれば期限を延ばせることを教えてもらい、
「これをジャンプするいうんや」
といわれ、可能な限りジャンプ。
「先延ばしにしてるだけで住宅ローンと同じです。
ただ手形の場合、不渡りになる。
そして1回不渡りになったら、手形に信用がなくなって連鎖的に次々に不渡りになっていくんです。
気がついたらどんどん不渡りになって、不渡り手形の総額は、5000万円くらいにはなってたと思います」
月亭八方は、初めて不渡りになったと聞いたとき、真っ青になりながらも、腹の底では
(だからどやねん)
逃げることなどまったく考えず、毎日、やって来る借金取りに対応しながら、
(時間さえくれたら返すのに・・・)
と思っていた。
結局、スナックは閉店。
借金は始める前より増え、1億数千万円になった。
借金取りは、花月の楽屋にもやって来るようになり、月亭八方の窮状は、会社や仕事場、業界に一気に広まった。
「そんなつもりの高座名ちゃうけどホンマ八方ふさがりでした」
呆れたり、見放す人もいたが、救いの手を差し伸べる人間も何人かいた。
1979年12月10日、朝日放送で正月番組のリハーサル中、月亭八方は、突然、番組プロデューサーに
「ホテルプラザのバーで寛美さんが待たれてはるそうです」
といわれた。
それまで昭和の喜劇王、藤山寛美とあったのは1度だけ。
北新地のクラブで、西川きよし、坂田利夫、レッツゴーじゅんと一緒に5人で酒を飲んだことがあるだけだった。
月亭八方は、なぜ呼ばれたかわからないまま、朝日放送の横に建つホテルプラザへ。
バーに着くと藤山寛美はいきなり
「ここに1000万円入ってる。
いるだけ使ったらエエ」
と笑顔でいい、ボストンバッグをカウンターの上に置いた。
藤山寛美は、吉本興業のライバルである松竹芸能所属で、しかも1晩酒を飲んだだけの関係。
さすがに遠慮していると藤山寛美はバッグを持ち上げ、月亭八方に渡し、
「わたしには12億円の借金がある。
それに比べたら1000万円なんて小さいもんです。
それに12億1000万円に借金が増えたって、同じことやからね。
関西の芸人で手形で失敗するのはわたし1人で十分やろ」
といって笑った。
月亭八方は、その豪快さに驚きながら
(この金は絶対返さなアカン。
自信がないなら借りたらアカン)
と思い、とっさに
「吉本のほうで全部、保証してやってくれるそうなんです。
弁護士も入りますんで」
とウソをついた。
藤山寛美の眼光が一瞬鋭くなり、
(見抜いてはる!)
と縮み上がったが、藤山寛美は
「そうか」
といった。
翌日、月亭八方がなんば花月にいると、藤山寛美から道頓堀の中座の楽屋に来てほしいという連絡が入った。
月亭八方はあわてて直行。
そして座長部屋へ入ると、床一面に靴が並べてあった。
「足に合う靴を持っていきなさい」
優しい目で藤山寛美に促され、月亭八方は一足をもらって帰った。
「靴だったのは意味があったんやと思うんです。
足元をしっかりみなさという」
またある日、借金の元となったスナックの開店を手伝ったザ・ぼんちのおさむが、
「わずかですけど・・・」
といって銀行の封筒を渡してきた。
月亭八方は、
(やけに分厚いな)
と思いながら受け取り、
「お前になんの責任もないがな」
といいながら、中をみると200万円が入っていた。
普段から無駄遣いも贅沢もしないおさむは、
「銀行に入れてるだけですから、僕には必要ありません。
使ってください」
といった。
藤山寛美の1000万円には手が出なかった月亭八方だが、おさむの200万円は
「ありがたく使わせてもらうわ」
1979年10月、日曜日の21時に放送されていた関西テレビの「花王名人劇場」内に「おかしなおかしな漫才同窓会」というコーナーができ、新旧の漫才師が競演。
すると13~16%という異例の高視聴率となった。
気をよくした「花王名人劇場」は、「激突!漫才新幹線」というコーナーで、横山やすし・西川やすし、星セント・ルイス、B&Bという関東と関西の人気漫才師を競演させ、18%超え。
月亭八方は、西のの桂米朝、東の柳家小、東西の大師匠の落語をテレビで観れてうれしかった。
「花王名人劇場」の成功をみて、各局も新しいバラエティー番組を製作し、どのチャンネルを回しても漫才をみるようになった。
中でもフジテレビの横澤彪プロデューサーと佐藤義和ディレクターらがつくる「THE MANZAI」は革新的だった。
放送頻度は、3ヵ月に1度。
毎回数組の漫才コンビが漫才を披露するというシンプルな内容ながら、フジテレビの第10スタジオに豪華でポップなセットを組んで、大学生を中心に若い客を入れた。
漫才の前には必ずショートPRムービー、そして登場時の出囃子はフランク・シナトラの「When You're Smiling(君微笑めば)」
出演者はベテランではなく若手が中心。
出演順は抽選で決め、楽屋には緊張感が漂い、舞台では真剣勝負が行われた。
1980年4月、「THE MANZAI」の放送が始まると空前の漫才ブームが勃発。
ブームを牽引したのは、関東では、星セント・ルイス、ツービート、B&B、関西では、横山やすし・きよし、中田カウス・ボタン、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、オール阪神・巨人、島田紳助・松本竜介などの漫才師だった。
中でもザ・ぼんちの人気はすさまじく、夏休みになるといつも年齢層高めの花月に若者が押し寄せ、ザ・ぼんちが登場すると立ち上がってクラッカーを鳴らし、紙テープを投げ、2人の出番が終わると一斉に席を立って出待ちに走った。
劇場は一気に冷め、次に出演する芸人は苦笑いするしかなく、全芸人が、ザ・ぼんちの後に出ることをイヤがった。
漫才ブームになると落語家は仕事が激減。
月亭八方は自分のファンが漫才に寝返るのを目の当たりにしたが、何よりもおさむが売れたことがうれしかった。
1981年、「オレたちひょうきん族」が始まり、ビートたけし、明石家さんま、西川のりお、島田紳助たちがレギュラー出演。
よく一緒に仕事をしていた仲間が続々と東京に進出していく中、大きな借金の抱える月亭八方は、仕事を選んだり、将来のことを考える余裕はなかった。
しかし2年後の1983年、月亭八方は、毎日放送の生放送情報番組「すてきな出逢い、いい朝8時」がスタート。
月亭八方は、司会のうつみ宮土理、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよらとレギュラー出演。
(2001年まで継続)
1984年、36歳のとき、吉本新喜劇の「花の駐在さん」にレギュラー出演し、明石家さんまと名コンビを組んだ。
また同時期、「笑っていいとも!」の水曜レギュラーとして活動を開始。
きっかけは「花王名人劇場」で阪神タイガースをネタに漫談を行い、バカウケしたことだった。
「笑っていいとも!」や「オレたちひょうきん族」のプロデューサーで熱狂的な大洋ホエールズファンである横澤彪は、それをみて、
「野球漫談をやってほしい」
と「笑っていいとも!」の出演をオファー。
月亭八方は、
「東京で阪神ネタが受け入れられるのか?」
「笑っていいとも!の客は、野球に興味あるのか?」
という不安はあったが、引き受け、周囲に
「東京いくねん」
と自慢した。
4月、「笑っていいとも!」に出演開始。
5月、家族に
「お前らのために頑張ってくるで」
といって、東京でマンションを借り、月~金曜日は、東京で仕事をして、土日は「「花の駐在さん」収録のために大阪に戻り、月曜日の朝、東京に向かうという生活を開始。
生まれて初めて単身赴任に
(遊びまくれる!)
(借金取りから逃れられる!)
と思っていたが、東京で借りたマンションが
「大阪の福島のように」
都心ではなかったため、不便で、あまり遊べず、その上、借金取りは東京までやってきた。
しかも野球ネタで「笑っていいとも!」の客はクスリともせず、3歳上のタモリに
「八方師匠」
と呼ばれ、余計にみじめな気持ちに。
東京になじめない月亭八方、それに手こずるタモリという構図を見るに見かねた横澤彪は、新コーナーを企画。
「八方ちゃんとなじもう」
というコーナー名をみて、月亭八方は、
「やっぱりなじんでないんや」
とさらに悩んだ。
結局、月亭八方の「笑っていいとも!」出演は、1984年4月から6月まで3ヵ月間で終わり、マンションを解約し、大阪に戻った。
東京進出に
『失敗した』
『挫折した』
という感覚はまったくなく、
「水が合わんかった」
とあっさり見切りをつけ、借金を抱えた身に関西よりギャラがよい東京は魅力的だったが
「ようさん仕事して稼いだろう」
と気持ちを切り替えた。
しかし積もり積もった借金は、1億3000万円。
持ち家や全財産を整理しても半分ほどしか返せない。
月亭八方は、
「もはや吉本にケツ拭いてもらうしかない」
と腹を括り、吉本興業の専務と部長に相談。
そして会長室に連れていかれ、林正之助会長に不機嫌そうに
「なんや」
といわれ、覚悟を決めて窮状を訴えた。
「金は貸してやる。
担保はなんや」
林正之助会長にいわれ、月亭八方が困っていると、専務が助け舟を出した。
「八方クラスが会社としては儲かるポジションなんですわ」
月亭八方は、その言葉に続けて
「会長、ボクは健康です。
一生、吉本興業で働ける頑丈な身体という医者の診断書もあります」
会長は微笑んで、
「よっしゃ!
その診断書が担保や」
その後、月亭八方は、吉本興業の顧問弁護士の事務所へ。
借金を整理すると、ほぼ闇金からの借金で返さなくてよく、処分できるものを処分すると残る借金は5000万円であることがわかった。
つまり月亭八方は、吉本興業から5000万円を借りることになった。
吉本興業の芸人への融資方法は、毎月、一定額の給料を渡しながら、それ以上の稼ぎ分を返済に充てるという方式。
例えば、100万円借りて、毎月給料を10万円をもらう契約をして、毎月20万円を稼げば、毎月10万円返済され、10ヵ月で完済できるということだった。
しかし言い換えると、返し切るまで月収10万円が続く。
「月ナンボいるねん?」
と聞かれ、毎月80万円もらっていた月亭八方は、
「えっと、80万ですわ」
「それまるまるやないか。
一銭も返さんつもりか。
50万にしとけ」
と怒られた。
「ボクとしては心を入れ替えて仕事をして、100万円、いや200万円くらい稼いでやろうという意気込みはあった。
だけど会社がボクをそこまで信用できないのもわかるから反論できんかった」
それから吉本興業は、多量の仕事を入れ、月亭八方は
「月100以上入っていたから、スケジュール長は真っ黒。
あれほど働いたことはない」
というが、働けど働けど、月給50万円。
しかし借金は確実に減っていった。
しかも吉本興業は単価の高い仕事をとってきて、笑福亭仁鶴、横山やすし・西川きよし、桂三枝らが新番組を始めるとき、必ず月亭八方も出演。
月亭八方は、市毛良枝と夫婦役で「なまみそずい」のCMにも出演。
後輩に
「兄さん、借金したら仕事って増えるもんなんですか?」
と聞かれ、
「オウッ、増えるど」
ついに借金はなくなり、月亭八方は、
「完済できたことを知ったとき、知らん間に涙が頬を伝っていた」
というが、
「八方は、借金あった方が儲かる」
と味をしめた吉本興業は
「なんか欲しいものとかないか?
また金貸したるぞ」
月亭八方は、その話を受け、1150万円のベンツAMGを購入。
さらに
「すぐに3000万円、4000万円になる」
といわれ、2000万円のゴルフ会員権(会員制ゴルフ場の利用権、ビジター(非会員)より割安かつ優先的にプレーが可能)を銀行でローンを組んで購入。
(結局、値上がりするどころか、バブル崩壊後、130万円に値下がり。
しかもその時点で支払いが、2000万円残っていた)
さらにギャンブルも再開したが、負け始めると過去の悪夢が蘇り、ブレーキを踏み、借金地獄に落ちることはなかった。
「そらもう、ものすごくしんどかったけど、そのしんどさは仕事の前向きなしんどさですからね。
頑張ったら借金が返せていくシステムを作ってくれた会社にまず感謝ですし、借金を必死に返し始めて、気づいたら月収が3倍になってました」
返済は順調に進み、2年ほどで半分を返すことができた。
月亭八方は月々の返済額の見直しを求め、
「これまでと逆の形にしてもらいたいんです。
毎月50万円を会社に返していきますから、稼いだ分の残りをもらえませんか?」
と提案。
それは承諾され、
「肉やらテッチリとかテッサとか、それまで我慢してきたものを食うに食うた。
家族でハワイ旅行にもいった」
1986年、朝日放送で「ナイトinナイト」が放送開始。
「ナイトinナイト」は、月~木曜の深夜バラエティ番組枠の総称で、
月・火 桂三枝
水 桂春蝶(後にやしきたかじん→渡辺徹→高杢禎彦と山田雅人→板東英二)
木 月亭八方
が司会を務めた。
木曜日の「月亭八方の楽屋ニュース」は、超人気コーナーとなった。
「楽屋には愛がある。
楽屋には夢がある。
楽屋には希望がある。
そして楽屋には・・・・」
という怒鳴りで始まり、ニュース番組のヘッドラインのようにボードに見出しを羅列。
昭和の師匠たちの伝説を中心に、爆笑の楽屋ネタを次々と紹介。
「月亭八方の楽屋ニュース」は12年半続き、その後、月亭八方となるみが司会を務める「八方・なるみの演芸もん」の1コーナーとなってさらに1年間継続。
1999年、13年半におよぶ歴史は一旦幕を降ろしたが、2003年年末特番で今田耕司とコンビを組んで「八方・今田の楽屋ニュース」として復活。
毎年、12月の最終週に4時間前後の生放送として放送されている。
「この企画は、そもそもボクがこの世界に入って、落語家や芸人さんの楽屋で見聞きしたことが、とんでもなく面白く、誰かに話さずにいられないところから始まりました。
芸人の常識は世間の非常識。
楽屋で見聞きしたことすべて、世間からみたらめちゃくちゃ非常識。
しかも限度を超えてる。
だからおもしろうてたまらない」
月亭八方は、38歳から楽屋ニュースを始め、51歳まで継続し、55歳で復活させたが、その間、44歳から大学に通った。
小論文と面接の試験を受け、関西学院大学経済学部オープンカレッジコースに合格。
1限目の授業があるときは朝7時に起床して通学し、休講になるとゼミの仲間と麻雀。
嫁に何かいわれても
「学生のすることやん」
といい訳し、北新地のクラブで
「学割にしてくれ」
と学生証をみせると少し安くしてもらえた。
選んだ研究テーマは「国際社会と日本経済」
TPP(環太平洋戦略経済連携協定)や関税など経済問題を
「WTO(世界貿易機関)は、目先の自分の利益に追い求めすぎ。
欲をかくと何も手に入らん」
「物事は引きどころか肝心。
大阪では当たり前の値引きでも最終的にギリギリのところでお互いに引いて落としどころをつくる」
などと理解。
2年間の学びの集大成として書いた卒論は、外国人労働者問題の視点からお笑い産業の育成と発展をテーマにした。
「アジアから日本に出稼ぎに来るという自然な流れだが、日本政府は、単純労働者を入国させず、何らかの技能がないと労働ビザを下ろさなかった。
それで不法入国の外国人労働者が増えて問題になった。
このことを吉本の芸人と関連づけてみると、かつて大阪芸人にとって東京は海外みたいなもんやった。
ギャラも高くて仕事の効率もいいし、何やら華やかな雰囲気もある。
とりあえず出稼ぎにいってみたいし、定住したら、いい暮らしができるかもしれない。
東京進出を吉本興業が認めれば、いくらでも仕事はあるけど、認めないと仕事にあぶれて強制送還みたいなことになってしまう。
つまり吉本興業が認めるということは労働ビザみたいなもん。
そしてモノマネや鉄板ギャグ、突出したアドリブ力とか話芸とか技能を持っていれば吉本興業は認めてくれる」
この卒論は、NHKの「クローズアップ現在」でも取り上げられ、
「笑いの日本経済学~落語家月亭八方の卒業論文」
というタイトルで放送された。
その後、月亭八方は、大阪府立大学から非常勤講師の話が来て、大学で教える立場になった。
1992年、バルセロナオリンピックの前年、大阪ローカルの土曜夕方の特番でスペインへいった月亭八方は、工事現場を背に
「1年後、ここで開会式があります」
と真面目にレポートした後、
「まだ建設中いうけど大林組やったら3ヵ月でやるで」
「いや、鹿島やったら3日やな」
とボケた。
LOEWE(ロエベ)という有名ブランドの店に入って
「ロエベ?
ルイベちゃ?」
「そりゃ鮭やがな!」
と一人ノリツッコミ。
そして
「知り合いの女の子のお土産に、これと、これと・・・」
と1個数万円するバッグを5人分選ぶなど借金はあるとは思えない買いっぷりをみせた。
1980年代、お笑いブームの主役は漫才師だったが、アドリブやコメントに力がある月亭八方は、
「すてきな出逢い いい朝8時」
「花の駐在さん」
「あまからアベニュー」
「月亭八方の楽屋ニュース」
など10年以上、レギュラー出演。
落語からは遠ざかったが、落語家をやめようと思ったことは1度もなく、
「心は常に落語家」
で、その理由は
「落語が好きだから」
たまに高座に上がると
「普段から演ってないとできん」
と稽古不足を痛感し、師匠たちの落語を聞いて、改めて強い憧れを抱いた。
だから
「落語家としてではなく、客寄せパンダで呼ばれてる」
と思っても、頼まれれば出来るだけ高座に上がった。
ずっと他の落語家の落語会に出続け、
「八方師匠」
と呼ばれていたが、芸歴35年、齢50年半ばを過ぎて、自分の落語会、月亭一門の落語会をやりたくなった。
稽古の量と高座に上がる回数を増やして準備。
最初の
「月亭会」
は、2007年11月、月亭八方が59歳のときに開催された。