月亭八方にとって、桂小米朝は10歳上。
まだ弟子を取っておらず、
「1番弟子になれる!」
ということも理想的。
ある日、舞台が終わった桂小米朝ををロビーでつかまえて、弟子入り志願。
しかし
「へー、落語家やりたいの?
やめとき、やめとき。
こんな世界でなかなか生きていかれへんよ。
まあ残りの舞台でもみていき」
と軽くかわされてしまった。
改めて別の日に桂小米朝が出演している劇場で出待ちし、再び弟子入りを志願。
しかしまたかわされてしまい、月亭八方は、出待ちと志願を繰り返した。
月亭八方が弟子入り志願を始めて1年後、桂小米朝は、幕末から明治にかけて活動した名人、月亭文都に因んで「月亭」という亭号(落語家の芸名の苗字の部分)を復活させた。
名は、敬愛する8代目三笑亭可楽の「可」と師匠米朝の「朝」を合わせ「可朝」とし、初代「月亭可朝」となった。
改名披露興行など忙しくなった月亭可朝は、
「君、いま働いてるんやろ?
仕事を辞めてこっち来ても合わんかったら、また仕事探すの大変やから、働きながら休みの日だけおいで。
私が舞台に出てるときは入場料払わんでもええから」
といい、月亭八方は
「ありがとうございます」
と頭を下げた。
やはり会社を辞めることは不安だったので願ってもない条件の上、さらにお金を払わずに落語を観にいけるようになり、
「完全に渡りに船や‼」
と喜んだ。
月亭可朝は、なんば花月で行った改名披露で舞台上の棺桶から飛び出すパフォーマンスを行った。
月亭八方は、平日は仕事、日曜は月亭可朝の下に通うという
「週末弟子生活」が開始。
安全な状態で夢に向かうという、いかにも月亭八方らしい状況が4ヵ月間続けた後、月亭可朝に
「毎日来るか?」
といわれ、正式に入門を許された月亭八方は、会社を辞め、月亭一門の1番弟子となった。
最初、名前をどうするか迷った月亭可朝は、
「おいちょかぶでもう1枚引くか否か、迷う六」
に因んで
「六方で行こう」
といって、
「月亭六方」
と命名。
しかしなんば花月にいったとき、吉本興業の八田竹男部長(後に社長)に会い、咄嗟に
「ウチに来た新しい弟子です。
八田部長から一文字いただいて月亭八方です」
と紹介。
月亭八方が
(急に変わりよった)
と思っていると、八田竹男は笑顔で
「それなら応援せんとアカンな」
といい、
「月亭八方」
と名乗ることになった。
1番弟子といっても、最初の仕事は師匠の付き人。
毎日、荷物を持って寄席や劇場に一緒にいき、着物を畳んだり、身の回りのお世話をしながら落語を見学。
弟子を家政婦のように扱う師匠もいたが、月亭可朝は
「師匠と弟子というより、俺も頑張るから君も頑張れ」
といって月亭八方に家のことなどはさせなかった。
その上、月亭八方は、師匠の家に住み込みではなく、実家から通う「通い弟子」
食べるものも師匠に奢ってもらったり、母親がつくってもらい、衣食住に全く困らなかった。
正式に入門して4ヵ月後、初高座に挑戦。
それは月末の土曜日に開催される「土曜寄席」という落語会。
前座を務める月亭八方は、「宿屋町」という、伊勢参りの道中を描いた、ジワジワと笑わす噺をやろうと思っていた。
しかし月亭可朝は、夜店で怪しげな手引書を売る「秘伝書」にしろとアドバイス。
それは夜店の香具師の噺で、大声を張らなければならない。
月亭八方が、
「いや、露の五郎兵衛師匠の前ですから、確実に客席を温めるようなやつをやった方が・・・」
というと月亭可朝は、
「高座に出たら後も前もない。
真剣勝負なんや」
といい、さらに
・大きな声を出すこと
・目線を上げること
をアドバイス。
月亭八方は、それに注意しながら「秘伝書」をやった。
「大声と目線の動きに注意してやって、結果、あんまウケんかったけど、元気のいい、新喜劇のような、ボクなりの芸風というか落語の形が見えてきた気がした」
会社を辞めてから1年半後、月亭八方は、うめだ花月で10日間の出番をもらうなど次々に仕事が舞い込み、月亭可朝に
「お前、ようついてきてくれたな。
仕事もようさんあるようやし、もう俺につかんでええ」
といわれ、付き人生活は終了。
月亭可朝も、
「嘆きのボイン」
という曲をリリース。
カンカン帽にチョビ髭でギターを抱え、
「♪ボインは、赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ〜
お父ちゃんのもんと違うんやでぇ〜♪」
という歌詞、哀愁漂うギターで80万枚の大ヒット。
全国の小学校で歌唱禁止とされ、 かえって子供たちに大人気になるという、いかにもらしい現象を巻き起こし、東京のテレビ局に出るなど生活が一変した。
関東では数年前に「笑点」が始まって以来、立川談志、三遊亭圓生など若手落語家が躍進していたが、関西でも吉本興業所属の笑福亭仁鶴、桂三枝、月亭可朝というアドリブも達者な落語家がラジオやテレビで起用され、落語家ブームが到来。
そういう流れの中、月亭八方も落語をしない落語家タレントとして売り出され、22歳で超人気テレビ番組「ヤングおー!おー‼」に出演した。
「ヤングおー!おー!」の起こりは、桂三枝。
大阪生まれ大阪育ち、現在も大阪府池田市の住む桂三枝は、高校生のときに同級生とABCラジオの「漫才教室」に出場し、関西の人気者に。
関西大学の夜間部に進学したとき、ちょうど落語研究会「落語大学」が創設され、一期生となり、ロマンチックを文字った「浪漫亭ちっく」を名乗り、他大学の学園祭にも出演。
そしてプロになることを決意し、桂小文枝に弟子入り志願。
初高座でまったくウケず、プロの厳しさを思い知り、その後も客席は静まり返り、苦悩の日々。
入門数ヵ月後、MBSラジオのオーディションに参加。
「歌え!!MBSヤングタウン」、通称「ヤンタン」のレギュラー出演を獲得し、
「1人ぼっちでいるときのあなたにロマンチックな明かりを灯す、 便所場の電球みたいな桂三枝です」
「オヨヨ」
「いらっしゃーい」
などという語りやギャグでブレイク。
「ヤングおー!おー!」は、「歌え!MBSヤングタウン」のテレビ版で、合言葉は
「若者の電波解放区」
司会は桂三枝、笑福亭仁鶴、月亭可朝、横山やすし・西川きよし。
そして若手吉本芸人による大喜利、コント、漫才、トークをメインに、アイドルなど多彩なゲストも登場。
桂三枝は
「あっち向いてホイ!」
「さわってさわってナンでしょう(箱の中身はなんだろな)」
「たたいて・かぶって・ジャンケンポン」
などのゲームを考案。
「ヤングおー!おー!」は爆発的な人気を獲得し、松竹芸能が独占していた上方のお笑い勢力図を逆転させた。
吉本興行は、入ったばかりの桂三枝のおかげで大儲け。
桂三枝、笑福亭仁鶴、横山やすし・西川きよしは「吉本御三家」
笑福亭仁鶴、桂三枝、月亭可朝は「上方落語三羽ガラス」
と呼ばれた。
桂三枝は、落語家としても、また吉本のトップ争いということでも、漫才師である横山やすし・西川きよしをライバル視。
「ヤングおー!おー!」でブレイクした明石家さんまは、ある日、西川きよしに
「昼飯に僕が何をごちそうしたか三枝君にいうたげて」
と聞かれ、
「重亭のハンバーグをいただきました」
と答えると、西川きよしは目をむきながら
「あそこのハンバーグ、なかなかいい値段するよな」
すると桂三枝が
「重亭のハンバーグなんかでエエのんか?
もっといいもんを食べに行くか?」
といい、吉本の権力争いに巻き込まれた。
明石家さんまの先輩、西川のりおは、先に「ヤングおー!おー!」に出演して
「オーメン!!」
というギャグでブレイク。
明石家さんまに
「兄さん、すごいですね」
といわれていた。
しかし明石家さんまが大ブレイクし、どこに行っても声をかけられ、女性ファンに群がられるのをみて、
「俺のオーメンはどうなったんや」
番組プロデューサーの
「ザ・ドリフターズみたいなんをやれ。
ウケたらコーナーを持たせてやる」
という指示で、西川のりお、上方よしお、B&B、ザ・ぼんち、明石家さんまの7人がコントユニットを結成し、前説を担当。
西川のりお、島田洋七、ぼんちおさむの3人が舞台で好き勝手に暴れるのをみて、吉本興業の林正之助会長は
「あのバイ菌どもを、はよ降ろせ。
2度と出すな」
と激怒。
それを聞いた7人は、自らユニット名を「ビールス(Virus)7」と命名。
明石家さんまは、のりお、洋七、おさむの荒くれ者3人と、よしお、洋八、まさとの傍観者3人、合計6人の先輩のコントロールし、仲裁に入り、機嫌をとり、殴られ、
「初めて大人の汚い世界をみた」
月亭八方も、林家小染、桂きん枝、桂文珍という落語家ユニット、
「ザ・パンダ」
を結成し、舞台で女の子にキャーキャーいわれ、お茶の間のアイドルとなった。
「ヤングおーおー!」は、コント、フリートーク、ゲームが中心で落語はまったくなかったが、
『落語家の道を選んだのに・・・』
などという抵抗感はゼロ。
持ち前の瞬発力で笑わせていった。
「どっちかというとテレビの方が楽なんです。
落語は1人コツコツ修行して高座でも1人きりですが、テレビや舞台は仲間も一緒やから楽しい。
楽で楽しく、その上ギャラもいい」
落語は、たまになんば花月やうめだ花月で前座をやるくらい。
稽古時間は少なく、演れる演目も少なく、舞台で目の肥えた客の冷たい視線を感じ、上方落語協会会長の笑福亭松鶴に
「テレビばっかり出やがって」
と叱られ、
「つらいわ」
とこぼすと先輩落語家に怒られ、月亭八方は、ますます落語以外の仕事にのめり込んでいった。
すると仕事はさらに増え、
「メチャクチャ仕事してメチャクチャ遊ぶという怒涛の日々」
が始まった。
1日3本の舞台に加え、テレビやラジオの仕事。
そういった会社(吉本興業)の仕事に加え、仲間や知り合いから頼まれる仕事も増え、サラリーマンの初任給が7万円という時代に40~50万円稼ぐようになった。
有頂天の月亭八方は、
「寝るのがもったいない」
と毎夜、ミナミへ。
歩いていて、
「オウ!」
と声をかけられて小遣いをもらったり、店でママに
「どっかの社長」
を紹介されて
「頑張れよ」
といわれて小遣いもらったり、目当ての女にカッコつけたい社長に
「一緒に知り合いの店に顔出してくれ」
といわれて、ごちそうしてもらった上、小遣いもらったり、夜の街をウロウロするだけで月に数十万円もらった。
ミナミで遊んだ後は、福島の実家に帰らず、なんば花月の楽屋へ。
数時間寝て、起きると楽屋でバカ話。
月亭八方は、太鼓持ちのように持ち上げながら、いろいろと聞き出し、これが後に「楽屋ニュース」のタネとなった。
仕事、夜のミナミ、楽屋のバカ話、毎日が面白くて仕方なかった。
「師匠に弟子入りして付き人を務め、楽屋に出入りしてみたら、師匠方、先輩たちが話すこと、やることなすこと、すべてがほんまに愕きの連続。
楽屋で過ごす時間がたまらなく楽しい時間になりました。
楽屋は控室というより芸人の遊び場で、4人寄れば麻雀、5人以上ならポーカーという暗黙のルールが決まっていて、たいがい座布団を前にポーカーが始まる。
近眼の人生幸朗師匠はカードを目で舐めるようにして「ストフラ(ストレートフラッシュ)」を狙う。
仕事に行くより楽屋に来た方が稼ぎがいいと出番がなくても必ず楽屋に顔をみせる柳サンデー師匠。
カードを1枚めくるごとにキャッキャッキャッと猿のような声を出す秋田B助師匠・・・・
女だてらに賭け事は何でも来いの中山礼子師匠、京唄子師匠の3番目の亭主だった三田マサル師匠は強かった。
奇術の堀ジョージ師匠は、舞台ではトランプを器用に扱って客の引いた数字を当てるのに、楽屋のポーカーでは数字が当てられないで弱かった。
そしてアップアップで場をかき回すボクの師匠、月亭可朝」