月亭八方、本名:寺脇清三は、大阪府大阪市福島区出身
経済の中心地、中之島に隣接し、キタの梅田にも歩いていける福島区に、現在も住んでいる福島人。
姉、兄、姉、姉、姉、そして自分という6人兄弟の末っ子。
1番上の姉は20歳上、兄は18歳上という歳の離れた兄妹の中で、ご飯を食べるときは焼き魚の骨を取ってもらい、自分だけ甘いものを出たり、非常に大切に育てられた。
「ボクがかわいくてしょうがなかたんじゃないかな」
という月亭八方は、大人になって20歳以上下の芸人、メッセンジャー黒田の子供の頃の貧乏話を聞くと
「壮絶やな」
と驚いた。
プロ野球が大ブームで、大の阪神タイガースファンである兄に
「阪神はええチーム」
「巨人は悪いチーム」
「藤村富美男はええヤツや」
「川上哲司は悪人」
と吹き込まれながら、月亭八方は野球少年に。
近所の空き地で始めた野球は、中学生になると野球部に入り、阪神の天才ショート、吉田義男をマネしながら内野でプレーした。
「中学で野球部に入って以来、野球が好きというより、日常生活、人生そのものを野球に関連づけて生きてた気がします」
銭湯に行けば下駄箱の番号は、憧れの吉田義男の背番号、23番。
23番が空いてなければ、長嶋茂雄のライバル、村山実投手の背番号、11番。
王貞治の1番、長嶋茂雄の3番、川上哲司の16番は、
「敵だから」
と絶対に使わず、23番も11番も空いていないときは、
「どっちかが空くまで待ってた」
野球と阪神タイガーズのことばかり考えて暮らす月亭八方が好きな電車は、もちろん阪神電鉄。
福島駅は大阪環状線もあったが、できるだけ阪神電車を使い、デパートに行くなら、阪神百貨店で、
「阪神ブレーブスのデパート(阪急百貨店)で買い物するなんて、とんでもない」
5人の姉と兄は、全員、中卒だったが、月亭八方だけ高校に進学。
名門、浪商高校(現:大阪体育大学浪商高校)野球部に入り、
「中学でそれなりに活躍してたから高校に入ってもかなり上の方、うまい方や」
と思っていた月亭八方は、甲子園出場を夢みていた。
しかし新入部員が数百人いたことに、まずビックリ。
そしてその中には中学の全国大会で優勝したピッチャーや各県のスターがゴロゴロいることにまたビックリ。
そしてそういった選手は1年生から練習させてもらえたが、月亭八方たち普通の新入部員はグラウンドの外で声を出しているだけという状況にガッカリ。
さらに2つ上の先輩、高田繁(ドラフト1位で巨人入団)の高校生離れしたプレーをみて、またまたビックリ。
月亭八方は、
「上には上がある。
野球は大好きだけど、甲子園に行くことやプロ野球選手になることは、とても無理」
とあっさり野球部を辞めてしまった。
大阪人である月亭八方は、元々、お笑いが好きだった。
特に漫才や新喜劇が好きで、吉本興業の劇場、うめだ花月やなんば花月にいくと演目の中に落語もあったが
「年寄り臭い」
「邪魔やな」
と思いながらやり過ごし、漫才や新喜劇の
「うどん300万円~」
で大笑いしていた。
しかしある日、高校の落語好きの友人に
「絶対、面白いから」
と誘われ、電車に乗って京都の市民寄席へ。
入場料が安かった上、確かに落語も面白かった。
その後も市民寄席に通い、うめだ花月やなんば花月でも落語を真剣に聞くようになるとお笑いに対する考え方が変わってきた。
「漫才は新喜劇は、瞬発力のある笑い。
だからドーンとウケるけど、同じネタを繰り返しみてると面白さが減っていく。
一方、落語は、爆発的な笑いはないけど、いい回しに様々な味があり、ユーモアがあり、落語家によっておもしろおかしくうまいこというなあと耳になじんできます」
特に笑福亭仁鶴の存在は大きかった。
「仁鶴さんは、27歳か28歳だったと思うけど、風格も声もオッサンそのものだった。
で、独特のダミ声でラジオもやってたんです。
ハガキを読んだり、音楽をかけたりもしてたんですが、1人で話すときには落語家ならではの落語的な展開があった。
1人で近所のオッサン、お兄ちゃん、オバハンになりきって話していく。
落語の1人しゃべりを聞いているようでした。
すっかり仁鶴さんの芸に魅了されて、仁鶴さんの落語があると聞けば万難を排して観にいくようにしてました。
枕でラジオそのまま日常の些細なことをしゃべるから、こっちはうれしくてたまらん。
気持ちが盛り上がったところで、スッと古典落語の噺を始める。
この時代のエピソードから昔々の古典落語の世界にすんなり入っていく。
何の違和感もなく古典落語の世界を満喫できた」
何度も笑福亭仁鶴の落語を聞きにいっているうちに落語にハマっていき、
「若手の仁鶴さんがこんなにおもろいなら古株はどんなもんなんやろう?」
と思い、師匠クラスのベテラン落語家も聞くようになり、その貫禄のある話術に引き込まれた。
3代目桂春団治、6代目笑福亭松鶴も面白かったが、1番は、3代目桂米朝で、月亭八方はファンクラブにも入会。
「すると次の高座の案内もやってきますから、米朝師匠の追っかけみたいになってしまった」
こうして野球少年から見事に落語少年になってしまった月亭八方は、家に帰ると
「ただいま」
とはいわず、米朝師匠が落語でいっていたように
「いま戻った」
家の中で母親に会うと
「しばらく顔みせなんだが、オカンどないしよってん」
教室に入るときは
「派手に上ろか、陰気に上ろか。
それとも陽気に上ろか、哀れに上ろか」
と落語の一節を話し、
「よしんば」
「さりとて」
「そんなこというたとてやな」
など落語のいい回しを使って、友人に
「古いなあ」
といわれるとうれしくて仕方なかった。
「いろんなことが好循環していって、どんどん落語に惹きつけられて、ほんま落語に夢中でした」
しかし高校3年生の冬、進路を考える時期になると憧れてはいたが落語家になる自信はなく、笑福亭仁鶴に弟子入りしたり、米朝一門に入るなど考えもせず、姉の嫁ぎ先である機械工具店に就職。
高校卒業後は、大阪市福島区にある機械工具店で働きながら、休日は落語三昧という生活が始まった。
仕事は、荷物を運ぶ単純作業だったが、教習所に通い、自動車運転免許証を取得すると配達も任されるようになり、運転しながら笑福亭仁鶴のラジオを聴き、配達先に着いても途中だと停車したまま最後まで聴いた。
そうしているうちにどうしても落語家になりたくなった月亭八方は、働き出して1年過ぎた19歳の春、母親に
「落語家になりたい」
と打ち明けた。
「高校までいったのに、なんで芸人やねん。
アホなこといいな。
もったいない」
と反対する母親を、
「頼むから少しの間だけ飯だけ食わせてくれ。
もちろん小遣いはいらん」
となんとか説得。
とはいえ会社は辞めず、働きながら、
「誰に弟子入りしよう?」
と思案。
桂米朝が1番良いが、弟子入り志願者は間違いなく多く、
「門前払いされたり、弟子入りできても浪商野球部のように競争率が高い」
と却下。
あれこれ思案しながら落語会に通っているうちに師匠にしたい落語家を発見。
それが桂米朝の直弟子である桂小米朝(後の月亭可朝)だった。
桂小米朝は、高校を卒業後 3代目林家染丸に弟子入りし、高座に上がったが、不行儀を起こして破門。
3代目桂米朝の預かり弟子となり、2代目桂小米朝として再出発した若手落語家。
師匠、米朝は、弟子に
「面白い芸人にならんでエエ。
エエ人間になりなさい」
と指導し、71歳のときに人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定された超マジメ人間。
それに対して筆頭弟子の小米朝は、型破りで破天荒。
70歳のときにストーカー規制法違反容疑で逮捕された。
小米朝は、米朝を心から尊敬する他の弟子たちと少しスタンスが違った。
「米朝師匠のところにはオムツしてる子どもが3人おったんですよ。
長男と次男が双子や。
そのオムツを替えるのは弟子の仕事やったのに、僕は、それができんかったんや。
枝雀くんとざこばくんは、ずっとオムツ替えてとやってたけども、僕は、それやれいわれたらもう辞めて家に帰りますわ。
いつの間にやら師匠はオムツを替えてる弟子たちに「あいつはどうしようもないやっちゃ」ということをいうて、世間にもそんなことをいい出したんや。
終いには「あれはわしの弟子やない」とまでいうたけども、僕は「ああ、けっこうですよ」と思うとった。
師匠は家では僕に落語を教えませんねん。
家では枝雀くんとざこばくんがオムツを替えたり、哺乳瓶で乳を飲ましたりしとるわけやから、なにもせんとブラブラしとる僕にを教えるわけにいかんのですよ。
だから外に出たときにどこかの小さい安い宿屋の部屋を借りて、そこで教えてくれた。
外に出たら、たいがい稽古もついてましたから、それは他の弟子にはいわずに僕と師匠の間だけやった」
「お笑いの世界はギャンブルみたいなもんでっせ。
ハッタリというか駆け引き。
ゼニは入ってくるし、刺激はあるし、舞台もやったらやっただけ反応が返ってくるし。
僕らの感覚では芸人のギャラなんて仕事した報酬じゃないわね。
みんなで遊んで騒いでるだけのこと。
そんなんでもらったカネを貯金するっちゅうのはおかしいわな」
という小米朝は、飲む、打つ、買う(酒、バクチ、女)を
「芸の肥やし」
「芸のうち」
と積極的に行い、競馬は、
「2倍、3倍ではおもろない」
と不人気馬を買って大穴狙い。
親密な関係になった女性の数は100人以上いるという。
「自分ではモテたためしはないと思ってる。
そんなタイプやない。
けど、モテへんでも100人くらいはいける。
昔、遊郭あったやろ。
そんなんは抜きや。
横山ノックは1000人いったというてたけど遊郭も入れとる。
みんなプライドが高くてフラれたらどうしようかとか思ってる。
そういう風潮はアホですな。
寝つきにくいとき、羊が1匹、2匹って数えるやろ。
僕は眠られへんときは自分がいった女を北から思い出すねん。
北海道から女1匹、女2匹や。
70くらいで寝てまう。
北から数えて九州にいくまでに寝てまう。
数えとったらな、あの女だけはやめといたら良かったいう女が出てくるんや。
自分でも残念でしゃーない。
あんなんいかなんだら良かった。
それが京都の女で、西から数えても東から数えても出てきよんねん。
人妻やったわ」
月亭八方にとって、桂小米朝は10歳上。
まだ弟子を取っておらず、
「1番弟子になれる!」
ということも理想的。
ある日、舞台が終わった桂小米朝ををロビーでつかまえて、弟子入り志願。
しかし
「へー、落語家やりたいの?
やめとき、やめとき。
こんな世界でなかなか生きていかれへんよ。
まあ残りの舞台でもみていき」
と軽くかわされてしまった。
改めて別の日に桂小米朝が出演している劇場で出待ちし、再び弟子入りを志願。
しかしまたかわされてしまい、月亭八方は、出待ちと志願を繰り返した。
月亭八方が弟子入り志願を始めて1年後、桂小米朝は、幕末から明治にかけて活動した名人、月亭文都に因んで「月亭」という亭号(落語家の芸名の苗字の部分)を復活させた。
名は、敬愛する8代目三笑亭可楽の「可」と師匠米朝の「朝」を合わせ「可朝」とし、初代「月亭可朝」となった。
改名披露興行など忙しくなった月亭可朝は、
「君、いま働いてるんやろ?
仕事を辞めてこっち来ても合わんかったら、また仕事探すの大変やから、働きながら休みの日だけおいで。
私が舞台に出てるときは入場料払わんでもええから」
といい、月亭八方は
「ありがとうございます」
と頭を下げた。
やはり会社を辞めることは不安だったので願ってもない条件の上、さらにお金を払わずに落語を観にいけるようになり、
「完全に渡りに船や‼」
と喜んだ。
月亭可朝は、なんば花月で行った改名披露で舞台上の棺桶から飛び出すパフォーマンスを行った。
月亭八方は、平日は仕事、日曜は月亭可朝の下に通うという
「週末弟子生活」が開始。
安全な状態で夢に向かうという、いかにも月亭八方らしい状況が4ヵ月間続けた後、月亭可朝に
「毎日来るか?」
といわれ、正式に入門を許された月亭八方は、会社を辞め、月亭一門の1番弟子となった。
最初、名前をどうするか迷った月亭可朝は、
「おいちょかぶでもう1枚引くか否か、迷う六」
に因んで
「六方で行こう」
といって、
「月亭六方」
と命名。
しかしなんば花月にいったとき、吉本興業の八田竹男部長(後に社長)に会い、咄嗟に
「ウチに来た新しい弟子です。
八田部長から一文字いただいて月亭八方です」
と紹介。
月亭八方が
(急に変わりよった)
と思っていると、八田竹男は笑顔で
「それなら応援せんとアカンな」
といい、
「月亭八方」
と名乗ることになった。
1番弟子といっても、最初の仕事は師匠の付き人。
毎日、荷物を持って寄席や劇場に一緒にいき、着物を畳んだり、身の回りのお世話をしながら落語を見学。
弟子を家政婦のように扱う師匠もいたが、月亭可朝は
「師匠と弟子というより、俺も頑張るから君も頑張れ」
といって月亭八方に家のことなどはさせなかった。
その上、月亭八方は、師匠の家に住み込みではなく、実家から通う「通い弟子」
食べるものも師匠に奢ってもらったり、母親がつくってもらい、衣食住に全く困らなかった。
正式に入門して4ヵ月後、初高座に挑戦。
それは月末の土曜日に開催される「土曜寄席」という落語会。
前座を務める月亭八方は、「宿屋町」という、伊勢参りの道中を描いた、ジワジワと笑わす噺をやろうと思っていた。
しかし月亭可朝は、夜店で怪しげな手引書を売る「秘伝書」にしろとアドバイス。
それは夜店の香具師の噺で、大声を張らなければならない。
月亭八方が、
「いや、露の五郎兵衛師匠の前ですから、確実に客席を温めるようなやつをやった方が・・・」
というと月亭可朝は、
「高座に出たら後も前もない。
真剣勝負なんや」
といい、さらに
・大きな声を出すこと
・目線を上げること
をアドバイス。
月亭八方は、それに注意しながら「秘伝書」をやった。
「大声と目線の動きに注意してやって、結果、あんまウケんかったけど、元気のいい、新喜劇のような、ボクなりの芸風というか落語の形が見えてきた気がした」
会社を辞めてから1年半後、月亭八方は、うめだ花月で10日間の出番をもらうなど次々に仕事が舞い込み、月亭可朝に
「お前、ようついてきてくれたな。
仕事もようさんあるようやし、もう俺につかんでええ」
といわれ、付き人生活は終了。
月亭可朝も、
「嘆きのボイン」
という曲をリリース。
カンカン帽にチョビ髭でギターを抱え、
「♪ボインは、赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ〜
お父ちゃんのもんと違うんやでぇ〜♪」
という歌詞、哀愁漂うギターで80万枚の大ヒット。
全国の小学校で歌唱禁止とされ、 かえって子供たちに大人気になるという、いかにもらしい現象を巻き起こし、東京のテレビ局に出るなど生活が一変した。
関東では数年前に「笑点」が始まって以来、立川談志、三遊亭圓生など若手落語家が躍進していたが、関西でも吉本興業所属の笑福亭仁鶴、桂三枝、月亭可朝というアドリブも達者な落語家がラジオやテレビで起用され、落語家ブームが到来。
そういう流れの中、月亭八方も落語をしない落語家タレントとして売り出され、22歳で超人気テレビ番組「ヤングおー!おー‼」に出演した。
「ヤングおー!おー!」の起こりは、桂三枝。
大阪生まれ大阪育ち、現在も大阪府池田市の住む桂三枝は、高校生のときに同級生とABCラジオの「漫才教室」に出場し、関西の人気者に。
関西大学の夜間部に進学したとき、ちょうど落語研究会「落語大学」が創設され、一期生となり、ロマンチックを文字った「浪漫亭ちっく」を名乗り、他大学の学園祭にも出演。
そしてプロになることを決意し、桂小文枝に弟子入り志願。
初高座でまったくウケず、プロの厳しさを思い知り、その後も客席は静まり返り、苦悩の日々。
入門数ヵ月後、MBSラジオのオーディションに参加。
「歌え!!MBSヤングタウン」、通称「ヤンタン」のレギュラー出演を獲得し、
「1人ぼっちでいるときのあなたにロマンチックな明かりを灯す、 便所場の電球みたいな桂三枝です」
「オヨヨ」
「いらっしゃーい」
などという語りやギャグでブレイク。
「ヤングおー!おー!」は、「歌え!MBSヤングタウン」のテレビ版で、合言葉は
「若者の電波解放区」
司会は桂三枝、笑福亭仁鶴、月亭可朝、横山やすし・西川きよし。
そして若手吉本芸人による大喜利、コント、漫才、トークをメインに、アイドルなど多彩なゲストも登場。
桂三枝は
「あっち向いてホイ!」
「さわってさわってナンでしょう(箱の中身はなんだろな)」
「たたいて・かぶって・ジャンケンポン」
などのゲームを考案。
「ヤングおー!おー!」は爆発的な人気を獲得し、松竹芸能が独占していた上方のお笑い勢力図を逆転させた。
吉本興行は、入ったばかりの桂三枝のおかげで大儲け。
桂三枝、笑福亭仁鶴、横山やすし・西川きよしは「吉本御三家」
笑福亭仁鶴、桂三枝、月亭可朝は「上方落語三羽ガラス」
と呼ばれた。
桂三枝は、落語家としても、また吉本のトップ争いということでも、漫才師である横山やすし・西川きよしをライバル視。
「ヤングおー!おー!」でブレイクした明石家さんまは、ある日、西川きよしに
「昼飯に僕が何をごちそうしたか三枝君にいうたげて」
と聞かれ、
「重亭のハンバーグをいただきました」
と答えると、西川きよしは目をむきながら
「あそこのハンバーグ、なかなかいい値段するよな」
すると桂三枝が
「重亭のハンバーグなんかでエエのんか?
もっといいもんを食べに行くか?」
といい、吉本の権力争いに巻き込まれた。
明石家さんまの先輩、西川のりおは、先に「ヤングおー!おー!」に出演して
「オーメン!!」
というギャグでブレイク。
明石家さんまに
「兄さん、すごいですね」
といわれていた。
しかし明石家さんまが大ブレイクし、どこに行っても声をかけられ、女性ファンに群がられるのをみて、
「俺のオーメンはどうなったんや」
番組プロデューサーの
「ザ・ドリフターズみたいなんをやれ。
ウケたらコーナーを持たせてやる」
という指示で、西川のりお、上方よしお、B&B、ザ・ぼんち、明石家さんまの7人がコントユニットを結成し、前説を担当。
西川のりお、島田洋七、ぼんちおさむの3人が舞台で好き勝手に暴れるのをみて、吉本興業の林正之助会長は
「あのバイ菌どもを、はよ降ろせ。
2度と出すな」
と激怒。
それを聞いた7人は、自らユニット名を「ビールス(Virus)7」と命名。
明石家さんまは、のりお、洋七、おさむの荒くれ者3人と、よしお、洋八、まさとの傍観者3人、合計6人の先輩のコントロールし、仲裁に入り、機嫌をとり、殴られ、
「初めて大人の汚い世界をみた」
月亭八方も、林家小染、桂きん枝、桂文珍という落語家ユニット、
「ザ・パンダ」
を結成し、舞台で女の子にキャーキャーいわれ、お茶の間のアイドルとなった。
「ヤングおーおー!」は、コント、フリートーク、ゲームが中心で落語はまったくなかったが、
『落語家の道を選んだのに・・・』
などという抵抗感はゼロ。
持ち前の瞬発力で笑わせていった。
「どっちかというとテレビの方が楽なんです。
落語は1人コツコツ修行して高座でも1人きりですが、テレビや舞台は仲間も一緒やから楽しい。
楽で楽しく、その上ギャラもいい」
落語は、たまになんば花月やうめだ花月で前座をやるくらい。
稽古時間は少なく、演れる演目も少なく、舞台で目の肥えた客の冷たい視線を感じ、上方落語協会会長の笑福亭松鶴に
「テレビばっかり出やがって」
と叱られ、
「つらいわ」
とこぼすと先輩落語家に怒られ、月亭八方は、ますます落語以外の仕事にのめり込んでいった。
すると仕事はさらに増え、
「メチャクチャ仕事してメチャクチャ遊ぶという怒涛の日々」
が始まった。
1日3本の舞台に加え、テレビやラジオの仕事。
そういった会社(吉本興業)の仕事に加え、仲間や知り合いから頼まれる仕事も増え、サラリーマンの初任給が7万円という時代に40~50万円稼ぐようになった。
有頂天の月亭八方は、
「寝るのがもったいない」
と毎夜、ミナミへ。
歩いていて、
「オウ!」
と声をかけられて小遣いをもらったり、店でママに
「どっかの社長」
を紹介されて
「頑張れよ」
といわれて小遣いもらったり、目当ての女にカッコつけたい社長に
「一緒に知り合いの店に顔出してくれ」
といわれて、ごちそうしてもらった上、小遣いもらったり、夜の街をウロウロするだけで月に数十万円もらった。
ミナミで遊んだ後は、福島の実家に帰らず、なんば花月の楽屋へ。
数時間寝て、起きると楽屋でバカ話。
月亭八方は、太鼓持ちのように持ち上げながら、いろいろと聞き出し、これが後に「楽屋ニュース」のタネとなった。
仕事、夜のミナミ、楽屋のバカ話、毎日が面白くて仕方なかった。
「師匠に弟子入りして付き人を務め、楽屋に出入りしてみたら、師匠方、先輩たちが話すこと、やることなすこと、すべてがほんまに愕きの連続。
楽屋で過ごす時間がたまらなく楽しい時間になりました。
楽屋は控室というより芸人の遊び場で、4人寄れば麻雀、5人以上ならポーカーという暗黙のルールが決まっていて、たいがい座布団を前にポーカーが始まる。
近眼の人生幸朗師匠はカードを目で舐めるようにして「ストフラ(ストレートフラッシュ)」を狙う。
仕事に行くより楽屋に来た方が稼ぎがいいと出番がなくても必ず楽屋に顔をみせる柳サンデー師匠。
カードを1枚めくるごとにキャッキャッキャッと猿のような声を出す秋田B助師匠・・・・
女だてらに賭け事は何でも来いの中山礼子師匠、京唄子師匠の3番目の亭主だった三田マサル師匠は強かった。
奇術の堀ジョージ師匠は、舞台ではトランプを器用に扱って客の引いた数字を当てるのに、楽屋のポーカーでは数字が当てられないで弱かった。
そしてアップアップで場をかき回すボクの師匠、月亭可朝」
横山ノックは、月亭八方が弟子入りした年に参議院議員に初当選。
ハゲ頭にピンクカール、口をとがらせてタコ踊りをする横山ノックが大好きだった20歳の月亭八方は、16歳上の横山ノックに、
「君は誰のお弟子さんや?」
と聞かれ、アガリまくった。
すると横山ノックは、懐からカードケースを取り出し、まるで子供のような無邪気な顔で
「これが新幹線の無料パス
これは国会議事堂の立ち入り禁止の区域でも入っていけるパスや」
といいながら、畳の上にカードを並べていき、そしてカードケースごと忘れていった。
気づいた月亭八方が、あわてて届けると
「お前んとこに忘れてたんか。
あちこち探してたとこや」
といわれ、
(あちこちでみせてたんか)
と思った。
「あれほど話が合うというか気が合う相手はいなかった。
なんでウマが合ったのかホンマ不思議」
という月亭八方と横山ノックの話は尽きず、2人共、酒が飲めないのでコーヒーやお茶だけで何時間でも話し続け、2人で旅行に出かけると、ずっとしゃべりっ放し。
最初、緊張しながら、
「ノック師匠」
「ノック先生」
と呼んでいた月亭八方だったが、やがて
「ノックさん」
になり、最終的に
「タコ」
「ハゲ」
「オッサン」
と呼ぶほど仲良くなった。
月亭八方は、23歳のときに結婚した。
相手の父親は、元大衆演劇の役者で大型スーパーでイベントを行う興行師。
月亭八方は、堺市のニチイで行われた興行に出たとき、自分より3歳年下の娘、三千代に出会った。
三千代は、平日、日本の大手アパレル会社、オンワード樫山のアドバイザーとして働き、土日の休日は父親の手伝っていた。
何回か顔を合わせるうちに月亭八方が食事に誘い、すぐにつき合い始めた。
父親に交際に反対された三千代は、大喧嘩の末、月亭八方の実家に転がり込み、2階で一緒に暮らすようになった。
こうして同棲が始まったが、階下に住む母親は、気が気ではなかった。
「アンタ、よそさんの娘さんは花瓶やないねんから、割ってしもうた、すんません、買い直して返しますわというわけにはいかへんで。
どうすんねん?」
「結婚するんやがな」
「それやったら、はよしい」
しかし月亭八方には
(結婚したらアイドルとして人気が落ちる)
(他の女の子と遊べなくなる)
という邪念があり、結婚はしなかった。
そうしている間に三千代が妊娠。
母親に
「別れるんやったら堕ろしたらええ。
別れへんのやったら産みなさい」
三千代に
「私は産みたい」
といわれ、月亭八方は実は戸惑っていたが、
「そりゃそうや」
とカッコをつけて、結婚。
長女が産まれたとき、母親は
「アンタがこの世におるんは私のおかげやで」
といい、月亭八方は、危惧していたように劇場やテレビ局で入り待ち、出待ちをしてくれる女の子や、
「キャーキャー」
という歓声が消えた。
新婚旅行はハワイに行ったが、それは2人目で長男の「八光」が産まれた後だった。
「今ならヘタしたら10万円前後でいけるみたいやけど、4泊6日の旅行費用は1人35万円、2人で70万円もかかった。
もちろん飛行機はエコノミーで泊ったのは安ホテル。
ワイキキのビーチから2本ほど入ったところにあり、窓からは建物の隙間から少~しだけ海がみえました。」
25歳で初めて車を購入した月亭八方は、26歳で映画「男はつらいよ 寅次郎子守唄」に出演。
シリーズ14作目のマドンナは、十朱幸代。
撮影は、佐賀県唐津市と神奈川県鎌倉市にある松竹大船撮影所で行われた。
山田洋次監督は、大の落語好きで、新宿の紀伊国屋ホールで開かれた笑福亭仁鶴の独演会を渥美清と共に観にいって、前座に上がった月亭八方に初遭遇し、数ヵ月後、吉本興業を通して映画出演をオファー。
「ボクの役は、嫁はんに逃げられて乳飲み子を背負う、頼りない若い亭主、佐藤幸夫。
九州、唐津にやってきた寅さんに子供を押しつけるエエかげんな男です。
でもそれが「寅次郎子守唄」と映画のタイトルになってるくらい重要な役。
ずいぶん経ってから「関西一の無責任男」と呼ばれるようになりましたが、山田監督はボクの高座を観て、ボクの本質的なところを直感されはったのかもしれませんね」
月亭八方は、大阪から東京に出て、湘南電車(現:東海道線)に1時間ほど乗って大船駅へ。
9時から始まる撮影に向け、8時半にはスタンバイ。
テレビの生放送や収録と違って映画の撮影は時間がかかった。
撮影所は知らない人ばかりで、関西弁を話すのは自分1人だけ。
孤独感を感じることもあったが、佐藤蟻次郎に話しかけられたり、倍賞千恵子にコーヒーを入れてもらったり、渥美清に食堂に誘われたり、自分から逃げた嫁を演じる春川まさみに相談したりしながら
「俺、映画スターみたいや」
と歓喜。
佐藤幸夫役の月亭八方は、子供を寅さんに押しつけるが、その後、子供を案じて上京。
とらやを訪ね、
「あの、子供を実は・・・」
と事情を話すのだが
「あの」
で声を張り上げすぎてNG。
「出てるような出ていないようなか細い不安げな声でお願いします」
といわれ、声を絞って
「あの」
といって1歩前に足を踏み出すと
「カメラ外れるから動かないでください」
といわれNG。
山田洋次監督は、カメラ位置や絵コンテなどすべて事前に決めていて、基本的に役者のアドリブは許さず、何度も撮り直しを行った。
アドリブで生きてきた月亭八方にとって衝撃的な世界だった。
国民的映画に出演し、お笑いの仕事も次から次に入ってきて、32歳の月亭八方は、月収が100万円を超えた。
師匠に
「飲む打つ買うは芸の肥やし」
と教わり、酒は飲めず
「打つ・買う」
の2拍子で芸を邁進させてきた月亭八方は、長男の出産をマージャンで忘れたり、浮気でケジラミをうつされ妻に剃毛してもらったりしていたが、この頃からギャンブルにのめり込んでいった。
麻雀、競馬、競輪、競艇、その他あらゆる賭け事に首を突っ込み、、
「負けが込むと大金を叩いて大逆転を狙ってしまう。
勝ったら勝ったで調子に乗って次の勝負に大金を突っ込む」
という月亭八方は、
「借金しても10日後には何十倍にもなってる」
と闇金融から10日で1割という高金利で金を借り、
「たった1年で借金の山。
さらに借金は雪だるま式に膨れ上がった」
やがて闇金融が貸し渋るほど月亭八方の借金はどうにもならなくなる。
回収できない場合、銀行ならば法的に訴えるなどの合法的な手段があるが、闇金融業者は元々、違法行為をしているので、そういったことができない。
だから非合法な手で使って月亭八方に迫り、
「とりあえず家を買え」
という悪魔のささやきと頭金として数十万円を貸し、14000万円の住宅ローンの書類を作成し、銀行に申請させた。
吉本興業から月に100万円以上もらっている月亭八方は、銀行の審査を通過。
400万円を闇金融に渡した。
400万円のうち、100万円は手数料で、300万円を返済したことになった。
同じ手口で闇金融業者にいわれるがまま、あちこちでローンを組み、結果、月々の返済額が増え、内緒にしていた嫁にもバレてしまい、怒られた。
嫁は、
「アンタはエヘッて頭かいてご飯食べられるかもしれん。
けどウチは、エヘッて頭かいてご飯食べられん」
といって北新地のラウンジで働き始めた。
月亭八方は、吉本興業の給料だけで借金を返すの無理なので、ミナミでスナックを始めることにした。
居抜きの物件を内装工事もせずに、契約期間が始まった、その日からすぐに営業を開始。
店名は
「SOS」
嫁をママに、まだ売れていなかったザ・ぼんちのおさむを日雇いウエイターに、月亭八方自身も働いた。
開店初日、お祝いボトルがたくさん入って、200万円の売り上げ。
「こんなボロい商売やったんや
この分やと楽勝で借金を返していける」
とほくそ笑んだが、翌日は80万円、3日目は60万円、4日目は20万円と低下。
やがて開店景気が落ち着くと、1日数十人しか客が来なくなった。
「えらいこっちゃ。
なんぼ足りん?」
酒屋の支払いや家賃のために、再び闇金融から借金。
開店2年後には、毎日、闇金融が集金に来るようになった。
通っているうちに、もうどうにもならないとわかった闇金融業者は、
「手形にしたらエエやん」
と悪魔のささやき。
「手形で支払えば、ちょこっと利息や手数料がつくけど、3ヵ月先まで実際の支払いを延ばせる」
日々の支払いに苦しんでいた月亭八方は、
「紙切れ1つでそんなことできるなんて魔法みたいやん」
と飛びつき、さらに闇金融業者から詳しく話を聞くと手形にすれば支払いを3ヵ月先に延ばせるだけでなく、手形割引というものにすると借金ができることがわかった。
手形を持つには銀行の口座が必要で厳しい審査があるが、闇金融業者は
「何とかなる」
とアドバイス。
仮に3ヵ月後、手形での支払額、また手形割引での借金額が口座になければ、手形は不渡りとなって店は倒産してしまうが、月亭八方は、
「そんな大層なことならんやろ」
とバンバン手形を切って、バンバン手形割引。
3ヵ月後、銀行口座にお金がないので、また借金。
また3ヵ月経っても利息や手数料を追加で払い、相手が納得すれば期限を延ばせることを教えてもらい、
「これをジャンプするいうんや」
といわれ、可能な限りジャンプ。
「先延ばしにしてるだけで住宅ローンと同じです。
ただ手形の場合、不渡りになる。
そして1回不渡りになったら、手形に信用がなくなって連鎖的に次々に不渡りになっていくんです。
気がついたらどんどん不渡りになって、不渡り手形の総額は、5000万円くらいにはなってたと思います」
月亭八方は、初めて不渡りになったと聞いたとき、真っ青になりながらも、腹の底では
(だからどやねん)
逃げることなどまったく考えず、毎日、やって来る借金取りに対応しながら、
(時間さえくれたら返すのに・・・)
と思っていた。
結局、スナックは閉店。
借金は始める前より増え、1億数千万円になった。
借金取りは、花月の楽屋にもやって来るようになり、月亭八方の窮状は、会社や仕事場、業界に一気に広まった。
「そんなつもりの高座名ちゃうけどホンマ八方ふさがりでした」
呆れたり、見放す人もいたが、救いの手を差し伸べる人間も何人かいた。
1979年12月10日、朝日放送で正月番組のリハーサル中、月亭八方は、突然、番組プロデューサーに
「ホテルプラザのバーで寛美さんが待たれてはるそうです」
といわれた。
それまで昭和の喜劇王、藤山寛美とあったのは1度だけ。
北新地のクラブで、西川きよし、坂田利夫、レッツゴーじゅんと一緒に5人で酒を飲んだことがあるだけだった。
月亭八方は、なぜ呼ばれたかわからないまま、朝日放送の横に建つホテルプラザへ。
バーに着くと藤山寛美はいきなり
「ここに1000万円入ってる。
いるだけ使ったらエエ」
と笑顔でいい、ボストンバッグをカウンターの上に置いた。
藤山寛美は、吉本興業のライバルである松竹芸能所属で、しかも1晩酒を飲んだだけの関係。
さすがに遠慮していると藤山寛美はバッグを持ち上げ、月亭八方に渡し、
「わたしには12億円の借金がある。
それに比べたら1000万円なんて小さいもんです。
それに12億1000万円に借金が増えたって、同じことやからね。
関西の芸人で手形で失敗するのはわたし1人で十分やろ」
といって笑った。
月亭八方は、その豪快さに驚きながら
(この金は絶対返さなアカン。
自信がないなら借りたらアカン)
と思い、とっさに
「吉本のほうで全部、保証してやってくれるそうなんです。
弁護士も入りますんで」
とウソをついた。
藤山寛美の眼光が一瞬鋭くなり、
(見抜いてはる!)
と縮み上がったが、藤山寛美は
「そうか」
といった。
翌日、月亭八方がなんば花月にいると、藤山寛美から道頓堀の中座の楽屋に来てほしいという連絡が入った。
月亭八方はあわてて直行。
そして座長部屋へ入ると、床一面に靴が並べてあった。
「足に合う靴を持っていきなさい」
優しい目で藤山寛美に促され、月亭八方は一足をもらって帰った。
「靴だったのは意味があったんやと思うんです。
足元をしっかりみなさという」
またある日、借金の元となったスナックの開店を手伝ったザ・ぼんちのおさむが、
「わずかですけど・・・」
といって銀行の封筒を渡してきた。
月亭八方は、
(やけに分厚いな)
と思いながら受け取り、
「お前になんの責任もないがな」
といいながら、中をみると200万円が入っていた。
普段から無駄遣いも贅沢もしないおさむは、
「銀行に入れてるだけですから、僕には必要ありません。
使ってください」
といった。
藤山寛美の1000万円には手が出なかった月亭八方だが、おさむの200万円は
「ありがたく使わせてもらうわ」
1979年10月、日曜日の21時に放送されていた関西テレビの「花王名人劇場」内に「おかしなおかしな漫才同窓会」というコーナーができ、新旧の漫才師が競演。
すると13~16%という異例の高視聴率となった。
気をよくした「花王名人劇場」は、「激突!漫才新幹線」というコーナーで、横山やすし・西川やすし、星セント・ルイス、B&Bという関東と関西の人気漫才師を競演させ、18%超え。
月亭八方は、西のの桂米朝、東の柳家小、東西の大師匠の落語をテレビで観れてうれしかった。
「花王名人劇場」の成功をみて、各局も新しいバラエティー番組を製作し、どのチャンネルを回しても漫才をみるようになった。
中でもフジテレビの横澤彪プロデューサーと佐藤義和ディレクターらがつくる「THE MANZAI」は革新的だった。
放送頻度は、3ヵ月に1度。
毎回数組の漫才コンビが漫才を披露するというシンプルな内容ながら、フジテレビの第10スタジオに豪華でポップなセットを組んで、大学生を中心に若い客を入れた。
漫才の前には必ずショートPRムービー、そして登場時の出囃子はフランク・シナトラの「When You're Smiling(君微笑めば)」
出演者はベテランではなく若手が中心。
出演順は抽選で決め、楽屋には緊張感が漂い、舞台では真剣勝負が行われた。
1980年4月、「THE MANZAI」の放送が始まると空前の漫才ブームが勃発。
ブームを牽引したのは、関東では、星セント・ルイス、ツービート、B&B、関西では、横山やすし・きよし、中田カウス・ボタン、ザ・ぼんち、西川のりお・上方よしお、太平サブロー・シロー、オール阪神・巨人、島田紳助・松本竜介などの漫才師だった。
中でもザ・ぼんちの人気はすさまじく、夏休みになるといつも年齢層高めの花月に若者が押し寄せ、ザ・ぼんちが登場すると立ち上がってクラッカーを鳴らし、紙テープを投げ、2人の出番が終わると一斉に席を立って出待ちに走った。
劇場は一気に冷め、次に出演する芸人は苦笑いするしかなく、全芸人が、ザ・ぼんちの後に出ることをイヤがった。
漫才ブームになると落語家は仕事が激減。
月亭八方は自分のファンが漫才に寝返るのを目の当たりにしたが、何よりもおさむが売れたことがうれしかった。
1981年、「オレたちひょうきん族」が始まり、ビートたけし、明石家さんま、西川のりお、島田紳助たちがレギュラー出演。
よく一緒に仕事をしていた仲間が続々と東京に進出していく中、大きな借金の抱える月亭八方は、仕事を選んだり、将来のことを考える余裕はなかった。
しかし2年後の1983年、月亭八方は、毎日放送の生放送情報番組「すてきな出逢い、いい朝8時」がスタート。
月亭八方は、司会のうつみ宮土理、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよらとレギュラー出演。
(2001年まで継続)
1984年、36歳のとき、吉本新喜劇の「花の駐在さん」にレギュラー出演し、明石家さんまと名コンビを組んだ。
また同時期、「笑っていいとも!」の水曜レギュラーとして活動を開始。
きっかけは「花王名人劇場」で阪神タイガースをネタに漫談を行い、バカウケしたことだった。
「笑っていいとも!」や「オレたちひょうきん族」のプロデューサーで熱狂的な大洋ホエールズファンである横澤彪は、それをみて、
「野球漫談をやってほしい」
と「笑っていいとも!」の出演をオファー。
月亭八方は、
「東京で阪神ネタが受け入れられるのか?」
「笑っていいとも!の客は、野球に興味あるのか?」
という不安はあったが、引き受け、周囲に
「東京いくねん」
と自慢した。
4月、「笑っていいとも!」に出演開始。
5月、家族に
「お前らのために頑張ってくるで」
といって、東京でマンションを借り、月~金曜日は、東京で仕事をして、土日は「「花の駐在さん」収録のために大阪に戻り、月曜日の朝、東京に向かうという生活を開始。
生まれて初めて単身赴任に
(遊びまくれる!)
(借金取りから逃れられる!)
と思っていたが、東京で借りたマンションが
「大阪の福島のように」
都心ではなかったため、不便で、あまり遊べず、その上、借金取りは東京までやってきた。
しかも野球ネタで「笑っていいとも!」の客はクスリともせず、3歳上のタモリに
「八方師匠」
と呼ばれ、余計にみじめな気持ちに。
東京になじめない月亭八方、それに手こずるタモリという構図を見るに見かねた横澤彪は、新コーナーを企画。
「八方ちゃんとなじもう」
というコーナー名をみて、月亭八方は、
「やっぱりなじんでないんや」
とさらに悩んだ。
結局、月亭八方の「笑っていいとも!」出演は、1984年4月から6月まで3ヵ月間で終わり、マンションを解約し、大阪に戻った。
東京進出に
『失敗した』
『挫折した』
という感覚はまったくなく、
「水が合わんかった」
とあっさり見切りをつけ、借金を抱えた身に関西よりギャラがよい東京は魅力的だったが
「ようさん仕事して稼いだろう」
と気持ちを切り替えた。
しかし積もり積もった借金は、1億3000万円。
持ち家や全財産を整理しても半分ほどしか返せない。
月亭八方は、
「もはや吉本にケツ拭いてもらうしかない」
と腹を括り、吉本興業の専務と部長に相談。
そして会長室に連れていかれ、林正之助会長に不機嫌そうに
「なんや」
といわれ、覚悟を決めて窮状を訴えた。
「金は貸してやる。
担保はなんや」
林正之助会長にいわれ、月亭八方が困っていると、専務が助け舟を出した。
「八方クラスが会社としては儲かるポジションなんですわ」
月亭八方は、その言葉に続けて
「会長、ボクは健康です。
一生、吉本興業で働ける頑丈な身体という医者の診断書もあります」
会長は微笑んで、
「よっしゃ!
その診断書が担保や」
その後、月亭八方は、吉本興業の顧問弁護士の事務所へ。
借金を整理すると、ほぼ闇金からの借金で返さなくてよく、処分できるものを処分すると残る借金は5000万円であることがわかった。
つまり月亭八方は、吉本興業から5000万円を借りることになった。
吉本興業の芸人への融資方法は、毎月、一定額の給料を渡しながら、それ以上の稼ぎ分を返済に充てるという方式。
例えば、100万円借りて、毎月給料を10万円をもらう契約をして、毎月20万円を稼げば、毎月10万円返済され、10ヵ月で完済できるということだった。
しかし言い換えると、返し切るまで月収10万円が続く。
「月ナンボいるねん?」
と聞かれ、毎月80万円もらっていた月亭八方は、
「えっと、80万ですわ」
「それまるまるやないか。
一銭も返さんつもりか。
50万にしとけ」
と怒られた。
「ボクとしては心を入れ替えて仕事をして、100万円、いや200万円くらい稼いでやろうという意気込みはあった。
だけど会社がボクをそこまで信用できないのもわかるから反論できんかった」
それから吉本興業は、多量の仕事を入れ、月亭八方は
「月100以上入っていたから、スケジュール長は真っ黒。
あれほど働いたことはない」
というが、働けど働けど、月給50万円。
しかし借金は確実に減っていった。
しかも吉本興業は単価の高い仕事をとってきて、笑福亭仁鶴、横山やすし・西川きよし、桂三枝らが新番組を始めるとき、必ず月亭八方も出演。
月亭八方は、市毛良枝と夫婦役で「なまみそずい」のCMにも出演。
後輩に
「兄さん、借金したら仕事って増えるもんなんですか?」
と聞かれ、
「オウッ、増えるど」
ついに借金はなくなり、月亭八方は、
「完済できたことを知ったとき、知らん間に涙が頬を伝っていた」
というが、
「八方は、借金あった方が儲かる」
と味をしめた吉本興業は
「なんか欲しいものとかないか?
また金貸したるぞ」
月亭八方は、その話を受け、1150万円のベンツAMGを購入。
さらに
「すぐに3000万円、4000万円になる」
といわれ、2000万円のゴルフ会員権(会員制ゴルフ場の利用権、ビジター(非会員)より割安かつ優先的にプレーが可能)を銀行でローンを組んで購入。
(結局、値上がりするどころか、バブル崩壊後、130万円に値下がり。
しかもその時点で支払いが、2000万円残っていた)
さらにギャンブルも再開したが、負け始めると過去の悪夢が蘇り、ブレーキを踏み、借金地獄に落ちることはなかった。
「そらもう、ものすごくしんどかったけど、そのしんどさは仕事の前向きなしんどさですからね。
頑張ったら借金が返せていくシステムを作ってくれた会社にまず感謝ですし、借金を必死に返し始めて、気づいたら月収が3倍になってました」
返済は順調に進み、2年ほどで半分を返すことができた。
月亭八方は月々の返済額の見直しを求め、
「これまでと逆の形にしてもらいたいんです。
毎月50万円を会社に返していきますから、稼いだ分の残りをもらえませんか?」
と提案。
それは承諾され、
「肉やらテッチリとかテッサとか、それまで我慢してきたものを食うに食うた。
家族でハワイ旅行にもいった」
1986年、朝日放送で「ナイトinナイト」が放送開始。
「ナイトinナイト」は、月~木曜の深夜バラエティ番組枠の総称で、
月・火 桂三枝
水 桂春蝶(後にやしきたかじん→渡辺徹→高杢禎彦と山田雅人→板東英二)
木 月亭八方
が司会を務めた。
木曜日の「月亭八方の楽屋ニュース」は、超人気コーナーとなった。
「楽屋には愛がある。
楽屋には夢がある。
楽屋には希望がある。
そして楽屋には・・・・」
という怒鳴りで始まり、ニュース番組のヘッドラインのようにボードに見出しを羅列。
昭和の師匠たちの伝説を中心に、爆笑の楽屋ネタを次々と紹介。
「月亭八方の楽屋ニュース」は12年半続き、その後、月亭八方となるみが司会を務める「八方・なるみの演芸もん」の1コーナーとなってさらに1年間継続。
1999年、13年半におよぶ歴史は一旦幕を降ろしたが、2003年年末特番で今田耕司とコンビを組んで「八方・今田の楽屋ニュース」として復活。
毎年、12月の最終週に4時間前後の生放送として放送されている。
「この企画は、そもそもボクがこの世界に入って、落語家や芸人さんの楽屋で見聞きしたことが、とんでもなく面白く、誰かに話さずにいられないところから始まりました。
芸人の常識は世間の非常識。
楽屋で見聞きしたことすべて、世間からみたらめちゃくちゃ非常識。
しかも限度を超えてる。
だからおもしろうてたまらない」
月亭八方は、38歳から楽屋ニュースを始め、51歳まで継続し、55歳で復活させたが、その間、44歳から大学に通った。
小論文と面接の試験を受け、関西学院大学経済学部オープンカレッジコースに合格。
1限目の授業があるときは朝7時に起床して通学し、休講になるとゼミの仲間と麻雀。
嫁に何かいわれても
「学生のすることやん」
といい訳し、北新地のクラブで
「学割にしてくれ」
と学生証をみせると少し安くしてもらえた。
選んだ研究テーマは「国際社会と日本経済」
TPP(環太平洋戦略経済連携協定)や関税など経済問題を
「WTO(世界貿易機関)は、目先の自分の利益に追い求めすぎ。
欲をかくと何も手に入らん」
「物事は引きどころか肝心。
大阪では当たり前の値引きでも最終的にギリギリのところでお互いに引いて落としどころをつくる」
などと理解。
2年間の学びの集大成として書いた卒論は、外国人労働者問題の視点からお笑い産業の育成と発展をテーマにした。
「アジアから日本に出稼ぎに来るという自然な流れだが、日本政府は、単純労働者を入国させず、何らかの技能がないと労働ビザを下ろさなかった。
それで不法入国の外国人労働者が増えて問題になった。
このことを吉本の芸人と関連づけてみると、かつて大阪芸人にとって東京は海外みたいなもんやった。
ギャラも高くて仕事の効率もいいし、何やら華やかな雰囲気もある。
とりあえず出稼ぎにいってみたいし、定住したら、いい暮らしができるかもしれない。
東京進出を吉本興業が認めれば、いくらでも仕事はあるけど、認めないと仕事にあぶれて強制送還みたいなことになってしまう。
つまり吉本興業が認めるということは労働ビザみたいなもん。
そしてモノマネや鉄板ギャグ、突出したアドリブ力とか話芸とか技能を持っていれば吉本興業は認めてくれる」
この卒論は、NHKの「クローズアップ現在」でも取り上げられ、
「笑いの日本経済学~落語家月亭八方の卒業論文」
というタイトルで放送された。
その後、月亭八方は、大阪府立大学から非常勤講師の話が来て、大学で教える立場になった。
1992年、バルセロナオリンピックの前年、大阪ローカルの土曜夕方の特番でスペインへいった月亭八方は、工事現場を背に
「1年後、ここで開会式があります」
と真面目にレポートした後、
「まだ建設中いうけど大林組やったら3ヵ月でやるで」
「いや、鹿島やったら3日やな」
とボケた。
LOEWE(ロエベ)という有名ブランドの店に入って
「ロエベ?
ルイベちゃ?」
「そりゃ鮭やがな!」
と一人ノリツッコミ。
そして
「知り合いの女の子のお土産に、これと、これと・・・」
と1個数万円するバッグを5人分選ぶなど借金はあるとは思えない買いっぷりをみせた。
1980年代、お笑いブームの主役は漫才師だったが、アドリブやコメントに力がある月亭八方は、
「すてきな出逢い いい朝8時」
「花の駐在さん」
「あまからアベニュー」
「月亭八方の楽屋ニュース」
など10年以上、レギュラー出演。
落語からは遠ざかったが、落語家をやめようと思ったことは1度もなく、
「心は常に落語家」
で、その理由は
「落語が好きだから」
たまに高座に上がると
「普段から演ってないとできん」
と稽古不足を痛感し、師匠たちの落語を聞いて、改めて強い憧れを抱いた。
だから
「落語家としてではなく、客寄せパンダで呼ばれてる」
と思っても、頼まれれば出来るだけ高座に上がった。
ずっと他の落語家の落語会に出続け、
「八方師匠」
と呼ばれていたが、芸歴35年、齢50年半ばを過ぎて、自分の落語会、月亭一門の落語会をやりたくなった。
稽古の量と高座に上がる回数を増やして準備。
最初の
「月亭会」
は、2007年11月、月亭八方が59歳のときに開催された。