2丁拳銃のボケ、小堀裕之は、奈良県出身。
祖父が地元の議員だったので裕福だったが、父親は、離婚を繰り返し、2回も自己破産。
両親が離婚後、小堀裕之は、母親と一緒に暮らしていたが、父親は、跡継ぎとして母親に40万円を渡し、連れ帰った。
小堀裕之は、再婚していた父親の家での生活に耐え切れず、母親のところへ。
その後、父親は、再婚相手と離婚し、母親と母とよりを戻したが、浮気癖が直らず、再び離婚。
小堀裕之は、小学校5年生のとき、母親にスナックに連れていかれて寝てしまい、目が覚めたとき、母親と近所のタバコ屋のオッサンがディープキスしているのを目撃。
中学校は、1学年12クラスもある大きな学校だったが、
「番長の次くらいに目立ってました」
高校生になると、女性4人、男性は自分1人というバンドを組み、JITTERIN'JINNやユニコーンをコピー。
ベースの小堀裕之は、最初、ドラムの女の子が好きになったが、うまくいかず、次に好きになったキーボードとつき合うことに。
しかしそれを知った同じ1年5組のボーカル、真弓に、
「ちょっと待って。
私も好きかも」
といわれため、2人と同時に交際。
同じバンド内で2股をかけて3ヵ月後、キーボードとは別れたが、ボーカルは、現在の奥さんとなった。
高校の授業中、盛り上げすぎて、隣の1年6組にうるさがられていた小堀裕之は、体育祭のサッカーで6組と対戦したとき、足を削られ、、
「もうええわ、わからへん人には」
と思っていたが、高校2年生になってクラス替えになると、周りがほとんど元1年6組だった。
2年3組でも盛り上げようとしたが。誰も笑ってくれないので、授業中は、寝るようになった。
あまりのクラスの暗さに担任の女性教師に頼まれて、クラスメイトと組んで漫才をやったところ、2年生になって初めて笑わすことに成功。
この成功体験は大きく、音楽と共に漫才も継続。
高校3年生なっても同じクラスのカモンくんと漫才をやり、高校を出て1年後、カモンくんとNSCに入学した。
2丁拳銃のツッコミ、川谷修士は、神戸市出身。
同じ兵庫県出身のダウンタウンをみながら育ち、密かにお笑いに憧れていたが、
「自分なんて恐れ多い」
と思っていた。
高校で、
「強めの反抗期」
を迎え、
「(学校は)ほぼいっていなかったみたいなもん」
という川谷修士は、仲間と集まってしゃべり、遊ぶ日々を送った。
卒業後の進路も、
「楽しい高校生活の、こんな感じのまま、どっか行かれへんかな」
と思い、同級生と一緒にNSCへ。
学費も1年間10万円と安めだったので、
「1年間、遊びがてら大坂に勉強しに行く」
と軽い気持ちで実家からNSCに通った。
NSC大阪校12期生は、最初、400人以上もいて、2クラスに分かれていた。
ネタ見せの授業で、「ビリジアン」というコンビを組んでいた小藪一豊、「スキヤキ」というコンビを組んでいた土肥ポン太、多田健二、山田與志という中学、高校の同級生コンビ「COWCOW」などはウケるのに、自分たちのネタは、誰も笑ってくれず、一緒にNSCに入った同級生は、
「ツラッ」
といって、すぐに辞めてしまった。
1人になった川谷修士は、新しい相方を見つけ、同期と仲良くなっていった。
そしてNSCの授業が終わった後、恒例となっていたマクドナルドで、自分と同じ1974年生まれだが、誕生日が4ヵ月早く、学年では1つ上の小堀裕之と出会った。
小堀裕之は、漫才をビデオに録って、3~4分のネタを2時間以上かかって一言一句書き起こし、それをカモン君と練習し、
「そこで間とか覚えたかもしれないですね」
というが、カモン君は、すぐにNSCをやめてしまったため、ピン(1人)だった。
「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」のコーナー「お笑い甲子園」の大坂予選が行われることになり、NSCの講師は、
「これ、行ってこい」
と指示。
生徒は、全員が高校生ではなかったので
「アウトですやん」
「出場条件合ってませんよ」
といったが、
「そんなもん関係ない。
学生服あるやろ」
12期生の有志は、予選当日、
「一緒に行こう」
と待ち合わせ。
しかし川谷修士の相方は、その日になって、
「やっぱり無理やわ。
行きたくない」
と辞退。
小堀裕之は、ピンで予選に出ようと1人で待ち合わせ場所へいき、川谷修士に
「俺と出よう」
と誘われた。
こうして超即席でコンビを組んだ2人は、予選会場である高島屋の屋上までの道中、30~40分間に、
「高校生っぽいネタや」
「校門前で服装検査をしているわみたいな、そこで先生がおかしなこというみたいな・・・」
と1~2分のネタをつくった。
コンビ名も、このときに考え、2人とも「THE BLUE HEARTS」が好きで、以前、
「44口径ってええよな」
「出囃子っぽいよな」
と話していたことがあり、「44口径」という曲の、
『♪夜が今口を開けて 僕達をのみ込んで行く 2丁拳銃すべり込む
広がった 集まった 商店街も 裏通りも 2丁拳銃駆け抜ける♪』
という歌詞から、「2丁拳銃」にした。
そして「お笑い甲子園」の大坂予選に出て、服装検査のネタで合格。
COWCOWと共にお笑い甲子園の大阪代表になった。
その後、「Myojo」というアイドル雑誌の特集コーナーに、自分たちの名前が載ったり、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」のダイジェストで一瞬、テレビに映ったりして盛り上がったが、高校生でないことがバレて、お笑い甲子園に出場することはできなかった。
自分たちが落ちた後は興味を失って、お笑い甲子園を観ることはなかったが、全国優勝を果たしたのは同じ大阪代表の高校2年生コンビ、「グレートチキンパワーズ」だった。
その後も、2丁拳銃は、コンビを継続。
ネタづくりは小堀裕之が行い、2人で合わせながら修正していくというスタイルで練習を重ね、NSC卒業前の2月、関西ローカルの深夜お笑い番組「爆笑BOOING」に出演。
それは観客の前で、3分間、漫才やコントを行い、面白くないと思った客が「BOOINGカード」を挙げ、カードが10枚に達すると暗転して強制終了、3分間ネタをやり終えることができれば、勝ち抜けという番組だった。
そして5回連続で勝ち抜けば、チャンピオンに認定され、グランドチャンピオン大会の出場権と副賞の賞金10万円と賞品が、さらにグランドチャンピオン大会で優勝すれば、グランドチャンピオンの称号と賞金30万円が贈られた。
2丁拳銃は、1期上の天才コンビ「中川家」に勝ち、第7代グラウンドチャンになるという快挙を達成。
(第9代グラウンドチャンピオンは、野々村友紀子がボケを行う「高僧・野々村」だった)
この後、NSC大阪校12期生は、「うめだ花月」と「心斎橋筋2丁目劇場」に分かれて活動。
小藪一豊や土肥ポン太、COWCOW(多田健二・山田與志)COWCOWらは、うめだ花月で「吉本印天然素材」の後継ユニットをつくるオーディションに参加。
「吉本印天然素材」は、ダウンタウンが東京に進出後、大坂の劇場から消えた女性ファンを取り戻すためにつくられたダンスもできるアイドル芸人ユニットで、メンバーは、
雨上がり決死隊(宮迫博之・蛍原徹)
FUJIWARA(藤本敏史・原西孝幸)
バッファロー吾郎(竹若元博・木村明浩)
ナインティナイン(岡村隆史・矢部浩之)
へびいちご(島川学・高橋智)
チュパチャップス(ホッシャン・宮川大輔)
という6コンビ12名。
COWCOW 、小藪一豊、土肥ポン太らは、その弟分ユニット「フルーツ大統領」を結成し、2丁拳銃より早くテレビに出演。
一方、2丁拳銃は、2丁目劇場で、1期上の先輩で「LaLaLa」というコンビを組んでいた、たむらけんじがMCを務めるオーディションに参加。
それは5回合格すれば、千原兄弟、水玉れっぷう隊、ジャリズムなどが出演する「WA CHA CHA LIVE」のレギュラーになれるというオーディションだったが、見事勝ち抜いてレギュラーとなり、2丁目劇場のステージで漫才やコントを行った。
土肥ポンタは、ほぼすべてが女性客という2丁目劇場で、キャーキャーいわれる2丁拳銃をみて、
「ルックスで売れてる」
「笑いの量よりお客さんが多い」
と妬み、小藪一豊は、面と向かって
「おもんない」
といった。
この2丁目劇場のオーディションには、2丁拳銃より1期上の「高僧・野々村」という女性コンビも参加していた。
そのボケを担当していた野々村友紀子は、大阪市北区天神橋筋6丁目、通称「天六」出身。
1人っ子で、幼い頃から、ピアノ、エレクトーン、バイオリン、クラシックバレエ、習字、英語、水泳、絵画など十数個の習い事をして、家庭教師がいる上、塾にも通うお嬢様だったが、中学から高校にかけて
「強めの反抗期」
に突入。
ゲームにハマって、
「しんどい」
といって学校を休んで、家でゲームしかしないという、
「強めの引きこもり期」
も挟みながら、レディース「天六ソルジャー」で副総長になった。
近所(お互いの家が歩いて1分)の幼馴染で同じ小学校、中学校に通い、高校は違う学校だったが、
「毎日、チョケていた」
という高僧美喜と、
「大人になっても一緒に仕事したいな」
という話になり、
「それなら漫才師しかないな」
と難波の吉本興業本社へ。
どこから入っていいかわからず、建物をグルグル回っていると警備員のおじさんがいたので、
「スイマセン。
芸人になりたいんですけど」
と聞いた。
すると
「これに入り」
といわれ、置いてあったNSCのチラシを渡され、NSC11期生となった。
同期は、小藪一豊、中川家、陣内智則、ケンドーコバヤシ、たむらけんじ、ハリウッドザコシショウ、ハリガネロックなど、後の売れっ子が揃っていたが、「高僧・野々村」も独創的なボケ漫才で、1996年にABCお笑い新人グランプリ審査員特別賞を受賞。
コントで男性芸人の恋人役などをすると、女性客に妬まれることもあった。
「今のように女性芸人は多くなかったので、男性芸人と少しでも仲よく話しているとファンの方から嫌がらせされていましたね。
文句の手紙が届くのは、まだいいほうで、自分の顔の部分がズタズタになった写真やカミソリが3枚、めっちゃエエ位置に仕込んである手紙をもらったりとか、劇場から出てきたら汚い液体をかけられたり……」
2丁目劇場で、1つ先輩だが同い年の野々村友紀子に出会った川谷修士は、
「キレイな人やな」
「おもしろい人やな」
と一目惚れ。
コンパに参加したことはあったが、まだ1度も女性とつき合ったことのない童貞の川谷修士は、先輩である「メッセンジャー」のあいはら雅一に、
「彼女おんのか?」
と聞かれ、
「いないです」
「これからどうすんねん?」
「アッ、僕、野々村さん好きです」
するとあるイベントのエンディングで、あいはら雅一が、
「修士が野々村に告知がある」
といい、
「お前、いいたいことあるんちゃうんか?」
と振られた川谷修士は、
「あります。
野々村さん、好きです。
付き合って下さい」
とステージの上で公開告白。
客席からは悲鳴が上がったが、川谷修士のことを、
「イキってる」
「チャラチャラしてる」
と思っていた野々村友紀子は、
「無理無理」
と断った。
その後、大阪で飲み会の帰り、2人きりになったとき、川谷修士は、心斎橋を歩きながら、
「彼氏とどうなってるんですか?」
「ちょっと今、別れるかもしらん」
「ネエさん、次の彼氏に僕、立候補していいですか?」
これがきっかけとなって、2人は交際を始めた。
一方、小堀裕之の対する野々村友紀子の第1印象は、
「フザけんな」
だった。
ある日、小堀裕之に、
「ネエさん、飲みに連れて行ってください」
といわれた野々村友紀子は、酔った小堀裕之が
「俺、絶対、負けませんよ」
といい出したので、
「そんなこと、誰にでもいうたらアカンで」
と諭したが、
「ネエさんにも負けません」
といわれると
「お前、フザけんな」
と怒った。
そして川谷修士と交際を始めると、小堀裕之が、
「もうこれでネエさんとは親戚同然ですね」
といってきたので、
「なんでお前と親戚ならなアカンねん。
フザけんな」
1997年、天然素材が解散すると東京で活動していたFUJIWARA(藤本敏史・原西孝幸)は大坂に戻った。
そしてテレビ大阪で
「吉本超合金」
という番組がスタート。
当初、メッセンジャー(黒田有・あいはら雅一)がたFUJIWARAと共演するはずだったが、2丁拳銃が大抜擢された。
4期上の先輩で
「めちゃめちゃオモロい」
と思っていたFUJIWARAと共演することになった2丁拳銃は、4人で街へ繰り出し、破天荒なロケに挑み、「吉本超合金」は、大人気深夜番組となった。
さらに2丁拳銃は、「吉本超合金」が始まった1997年、第18回ABCお笑い新人グランプリ優秀新人賞と第27回NHK上方漫才コンテスト優秀賞、翌1998年、第33回上方漫才大賞新人奨励賞を受賞。
それまで川谷修士は先輩に、小堀裕之は真弓や他の女性にご飯をオゴッてもらっていたが、一気に知名度と収入がアップ。
たくさんのファンを獲得し、川谷修士は、数十人の女性ファンを引き連れて道頓堀を歩いたため、
「修士が動けば、街が動く」
といわれた。
小堀裕之いわくコンビ内の人気の比率は、
「7:3くらい」
野々村友紀子がいるために絶対に女の子に手を出さない7の川谷修士に対し、3の小堀裕之は、
「修士のこと教えたるわ」
といって川谷修士のファンに近づいて、やさしく接し、
「結構いった」
「同期や先輩は、敵でありライバル」
と思っていた小堀裕之は、寝る間を惜しんでネタをつくり、すべて違うネタで賞レースに挑戦した。
「ハリガネロックさんにずっと負けてたんですけど・・・
2位やったんですよ、ずっと。
NHKの全国のやつだけ僕らが1位にだったかな」
1期上のたむらけんじや中川家、陣内智則、ハリウッドザコシショウなどと一緒に飲むことはあったが、2丁目劇場のトップである千原兄弟は、
「ライバルや。
媚びたらアカン」
とほとんど口を利かなかった。
そんな小堀裕之にとって楽屋は、非常に居づらい場所で、逆に舞台は居心地がよかったため、楽屋に帰りたくない一心でアドリブを入れるなどして、よく持ち時間をオーバーし、
「長いねん、お前ら」
と怒られた。
「いま考えたら調子に乗ってますよね。
まあでも一生懸命だったんですよ。
そうせなアカンっていう。
みんな、いっぱい人気者で、そこに先輩とかもちろんですけど、割り込んで勝っていくっていうのはありましたね」
1999年2月、
「女性版ダウンタウン」
といわれ、東京進出も期待されていた「高僧・野々村」がデビュー8年で解散。
理由は、高僧美喜の父親が亡くなったため安定した収入が必要になったからだった。
野々村友紀子は、最初、説得したが、高僧美喜が、
「どうしても辞めなアカンねん」
と聞き入れないので、最後は
「もうわかったわ。
一生恨むからな」
といった。
そして
「じゃあ、それ背負うわ」
「オウ」
といい合い、2人とも芸人を引退した。
「元々、相方と一緒に仕事をしたいという理由で芸人を始めたので、彼女以外と組むのは考えられなかった」
野々村友紀子と高僧美喜は、現在でも仲が良く、機会があれば一緒飲むなど良好な関係を継続している。
「高僧・野々村」が解散した1ヵ月後、1999年3月、「心斎橋筋2丁目劇場」が11年の歴史を閉じて、閉館。
半年後、1999年9月、新劇場「beseよしもと」がオープン。
FUJIWARA、シャンプーハットらと共に看板コンビになった2丁拳銃は、
「人気もすごいし、吉本のお金のかけ方もとてつもない」
「2丁拳銃を売り出すのに吉本は3億円かけた」
「次のダウンタウン」
といわれ、CDも出し、アイドル的な人気を獲得。
小堀裕之は、DJやバンド活動も行い、
「彼女(真弓)がいる」
といいながら、ファンと2股、3股、4股をかけ、ある後輩は、小堀裕之と街で偶然、4回会ったが、4回とも彼女(真弓)ではない女性と一緒だったという。
「24時間で4人と会ったことあります。
そのうち肉体関係を結んだのは、最初と最後(朝と夜)で、他のは後日だったりとか。
まあレスの子もいましたね。
お茶だけ飲んでバイバイみたいな」
吉本興業から
「(解散していた)シェイクダウンの後藤(秀樹)さんと組んだら?」
「ピンでやれば?」
と慰留されながら、
「テレビでみたOLに憧れていた」
という野々村友紀子は、求人情報誌をみて、近所のあった家族経営の会社に就職。
吉本興業にいた頃、コピー機を、
「ものすごい機械やな」
と思いながら、すべて社員にやってもらっていた野々村友紀子は、年下のOLに、
『ソートで5部とってきて』
といわれ、
(なんやソートって?)
と思いながらも
「はい」
しかしその後、
「ずーっとコピー機とメンチの切り合い」
になり、やがて年下のOLがやってきて、
『どうしたん』
と聞かれ、
「ちょっとわからなくて・・・」
『エッ、何してたん、今まで』
といわれ、ムカつき、社長に、
「芸人やってたらしいな。
なんかやって」
「普段、全然オモロんないやん」
といわれて、ムカついた。
会社の横には社長の家が建っていて、家の前で飼っている犬がフンをしていたら、見つけた人が捨てるというルールがあった。
フン専用のホウキとチリトリもあって、野々村友紀子は、最初は、それを使って専用のゴミ箱に捨てていた。
しかしだんだん面倒くさくなって、社長の家用のチリトリでフンをすくい、植えこみに投げるようになった。
ある日、それを社長にみられ、
「ちょっと来い」
といわれ、みんなの前で怒られた。
OLとしてできない仕事は多かったが、車の運転はうまかったので、社用車での仕事を任されるようになり、
「気づけば唯一、得意だった運転を生かした外回りばかりになって。
アレ買うてこいコレ買うてこいとか、ソコ送れとか、パシリみたいなばっかりやらされた」
ある日、トランクに重要な書類を積み、社長に
「後ついてきて」
といわれ、ベンツの後を走っていると
「後ろ閉め忘れてて、飛んでいった」
あまりにミスが多く、
「全然でけへん!」
と自己嫌悪に陥り、
「ドラマのOLと全然ちゃう。
配送業みたいや」
と憧れていたOLのイメージとのギャップに苦しみ、
「やっぱりお笑いやりたい」
という気持ちが大きくなっていき、入社して半年後、辞めることを決意。
「3ヵ月前くらいにいうとかなアカンかな」
と思い、社長のところにいって、
「もう辞めようかと思います」
というと、社長は、すぐに
『すぐ給料計算したって!』
といい、日割りで給料をもらった上、
『もう帰ってエエで』
といわれ、朝のうちに帰宅した。
OLをやっているときから
「作家として入ってくれへん?」
と誘われていたものの、芸人として高い評価を受け、スポットライトを浴びていた野々村友紀子は、
「自分が書いたネタとかで誰かが笑いをとってるのを陰からみて『ヨシッ!』と思えるほど大きな心がない。
多分悔しくなる。
そんなん損やん」
と作家という仕事に抵抗感があった。
しかしそれは、
「なんでもいいからお笑いに携わりたい」
「お笑いに触れときたい」
という気持ちに変化。
交際していた川谷修士の声も後押しになった。
「芸人としては1期後輩なのですが、交際前から私のことを面白いと尊敬してくれていて。
放送作家になろうか迷ったときも絶対にお笑いに関わる仕事をしたほうがいいといってくれました」
こうして放送作家としてやっていくことを決めると、いきなりテレビ番組の会議に呼ばれ、その後も海原やすよともこやハリガネロックから頼まれてネタを書いたり、ロケに同行したり、一気に忙しくなった。
「深夜3時まで会議をしたかと思えば、翌日の朝7時からまた会議といった生活だったので、寝袋を借りて会議室で寝ることもありましたね。
本当にヤバイときは会議をこっそり抜け出して、トイレで仮眠を取ったこともありました」
2000年、デビュー7年目の2丁拳銃は、「吉本超合金」という大坂の大人気番組にレギュラー出演し、beseよしもとでもメインを張っていた。
しかし
「熱を感じなくなった」
という小堀裕之が、突然、
「もう大阪でやることなくなった。
東京行こう」
といい出す。
川谷修士は
「何いうてんねん。
やっと好きなことができるようになってきたのに」
と反対した。
しかし小堀裕之に、
「やりたいことできるから、このままやったら、なんも成長せえへん」
と説得され、さらに
「お前が話しに行ってくれ」
といわれ、川谷修士は1人でbeseよしもとの支配人に謝りにいき、
『なに考えてんねん!!』
と怒られた。
小堀裕之は、まだ支社だった東京よしもとでマネージャーを見つけるなど計画を着々と進めた。
「吉本超合金」は、東京から通っても出たかったが、
『誰が、その交通費持つねん!』
「持ってくれないんですか?」
『持つか。
東京行くんやったらやめろ』
といわれ、降板。
このとき野々村友紀子は、
「大阪でやることなくなった?
いや絶対まだまだあるやろ。
血迷いやがって」
と思っていた。
こうして大阪の超人気番組と劇場の看板を捨てて、東京に出た小堀裕之は、1フロア16畳1間、10万8000円のマンションを借りた。
東京がまったくくわからず、知っているのは街の名前は渋谷だけだった川谷修士は、、
「渋谷に近ければいい」
と三宿で12万のワンルームを借りたが、遊び仲間がいないため、ほとんど引きこもった。
まだ東京に吉本の劇場が1つもなかったため、2丁拳銃は、東京のテレビやイベントに出演。
テレビでは、ひな壇での出演が多く、たくさんの芸人に囲まれながら、前に出て面白いことをいわなければならなかった。
しかし明石家さんまのようにグイグイ押して笑いをとる押し芸ではなく、ダウンタウンの松本人志のようなセンスや発想で笑いをとる引き芸を目指していた小堀裕之は、
「なんやコレ。
1回も当ててくれへん」
と思っているうちに収録が終了。
川谷修士も、まったくしゃべれず、1期後輩の次長課長が大ウケするのを目の当たりにし、収録後、
「もっと前に出なアカンのちゃうん?」
すると小堀裕之は、
「じゃあ、お前が先出ろや」
「イヤイヤイヤ」
「お前が先ツッコミ出ろ。
その後、ボケるから」
「わけわからんこというな」
とケンカ。
「アッコにおまかせ!」に出演したときも、和田アキ子に
「自分ら、なんもしゃべらんな」
といわれてしまう。
大坂でエースだった2丁拳銃は、東京で仕事が激減。
焦りながらも、単独ライブを行うなどして活動した。
「鼻を折られたといいますか、ちょうど当時はバラエティー番組で、ひな壇という概念が盛んになりだした頃でして・・・
手を挙げて、大きな声で面白いことをいわなアカンねんやと。
そこに対する恥ずかしさというか、オレ、それはエエわといった引く思いがありまして。
となると番組に出ていても、結果、映らないまま終わるような形になっていく。
考えを変えてでも、ひな壇をやるのか、ただそれをやると漫才が変わってしまうんじゃないかと。
でも、やらないとテレビの仕事はなくなる。
その葛藤と、どんどんポツンとなっていく焦り。
ホームシックにもなりましたし。
ただ、その中で、唯一の救いが漫才でした。
漫才は大阪と東京でネタを変えることもなかったし、迷いと不安の渦の中で、より一層、漫才を強く握りしめることにもなったと思います。
それは今に至るまでずっとなんですけど」
(小堀裕之)
「2000年に東京に来て、そこからの3年間はドン底でした。
壁にぶち当たったというか、大阪でやってきたことが甘いと思い知らされました」
(川谷修二)
2001年、小堀裕之は、東京で1年間、1人暮らしした後、真弓と結婚し、一緒に暮らし始めた。
そして同年、「M-1グランプリ」が始まった。
島田紳助発案で吉本興業が企画する「M-1グランプリ」は、
・審査基準は、「とにかくおもしろい漫才」
・出場資格は、結成10年以内のコンビあるいはグループ
・所属事務所やプロアマは問わない
・優勝賞金は、1000万円
・決勝戦は年末のゴールデンタイムに全国ネットで生放送
という超大型漫才コンテストで一夜でスターになれる超ビッグチャンス。
2丁拳銃は、これまで10~20分くらいの漫才を行っていたが、M-1は、4分。
小堀裕之は、
「全然違う。
同じ陸上競技やけど競技が違う」
と思いつつも、
「発想で勝てるんじゃないか」
設定が、こんな漫才している人はあんまりおらんやろ」
という自信もあった。
川谷修二も、
「よっしゃ、ココや!
今こそ、漫才で、もう1回みてもらうぞ!」
と燃えた。
2001年の「M-1グランプリ」は、アマチュアを含め、1603組がエントリー。
1回戦は、
9/9(日) NGKスタジオ(大阪)
9/16(日) フォルテホール(浜松)
9/22(土) よしもと紙屋町劇場(広島)
9/24(月) NGKスタジオ(大阪)
9/29(土) NGKスタジオ(大阪)
9/29(土) イズミティ21小ホール(仙台)
9/30(日) オリーブホール(高松)
10/6(土) ペニーレーン24(札幌)
10/7(日) 吉本ゴールデン劇場(福岡)
10/8(月) テレピアホール(名古屋)
10/13(土) ルミネtheよしもと(東京)
10/13(土) NGKスタジオ(大阪)
10/14(日) NGKスタジオ(大阪)
10/20(土) ルミネtheよしもと(東京)
10/22(月) 新宿モリエール(東京)
10/27(土) ルミネtheよしもと(東京)
10/29(月) 新宿ビプランシアター(東京)
と全国で開催された。
その結果、
なぎさ
足軽エンペラー(山里良太)
ミサイルマン
笑い飯
千鳥
西中サーキット(山崎静代)
天津
ダイアン
チュートリアル
ロザン
レギュラー
サバンナ
ハリガネロック
NON STYLE
ランディーズ
中川家
和泉修・ベーブルース高山
タカアンドトシ
アメリカザリガニ
レッツゴー2匹
華丸・大吉
バッドボーイズ
ドリアンズ
ますだおかだ
ダイノジ
カンニング
ツーハウス
おぎはやぎ
DONDOKODON
COWCOW
太平かつみさゆり
ビッキーズ
麒麟
オジンオズボーン
フットボールアワー
安田大サーカス
シャンプーハット
ハイキングウォーキング
パンクブーブー
アンタッチャブル
ライセンス
バイきんぐ
クワバタオハラ
トータルテンボス
ロバート
森山中
インパルス
ペナルティ
ブラックマヨネーズ
そして2丁拳銃を含む、283組が合格した。
2回戦は、
11/4(日) NGKスタジオ(大阪)
11/10(土) ルミネtheよしもと(東京)
11/11(日) NGKスタジオ(大阪)
11/17(土) ルミネtheよしもと(東京)
で行われ、106組に絞られ、2丁拳銃は、通過。
3回戦は、
11/18(日) NGKスタジオ(大阪)
11/24(土) ルミネtheよしもと(東京)
で行われ、35組になり、2丁拳銃は、通過。
準決勝は、
12/1(土) ルミネtheよしもと(東京)
12/2(日) なんばグランド花月(大阪)
で行われ、2丁拳銃は、ここで落選した。
決勝戦は、12月25日に東京のレモンスタジオから生放送され、
西川きよし
青島幸男
春風亭小朝
鴻上尚史
ラサール石井
島田紳助
松本人志
という審査員の得点と会場票によって最終決戦が行われ、
優勝 中川家 829点
2位 ハリガネロック 809点
3位 アメリカザリガニ 796点
4位 ますだおかだ 770点
5位 麒麟 741点
6位 フットボールアワー 726点
7位 キングコング 707点
8位 チュートリアル 637点
9位 DonDokoDon 614点
10位 おぎやはぎ 540点
という結果に終わった。
2002年、小堀裕之・真弓から1年遅れて、川谷修士と野々村友紀子が結婚。
「東京進出後も、旦那が大阪にレギュラー番組があった関係で週に1回は会えていたんです。
番組が終わることになったとき、結婚して一緒に東京に来ないかといわれ、結婚式の翌日に私も上京することにしました」
という野々村友紀子は、当初、大坂と東京を往復しながら作家の仕事を行った。
小堀裕之に、
「修士とも結婚したし、もう芸人も辞めてはるし、もうタメ口でいいしょう?」
といわれると、
「何でやねん。
お前フザけんなよ。
じゃあ、辞めた芸人全員にソレいえんのか?」
と叱り、それまでは控え目だったが、
「コイツがしっかりせんと修士くんまで共倒れになる。
今までは他人やったけど結婚したからには、それが自分にかかってくる。
いいたくないけどいわなくちゃいけない」
と結婚を契機に頻繁に電話をしたり、呼び出したりして小堀裕之に説教を行うようになった。
オンナ遊びも芸の肥やしといわれる芸人の世界で、たくさんの女性ファンがいながら野々村友紀子しか経験がない川谷修士は、後輩に、その理由を聞かれると
「奥さん以外とそういうことしたら、死んでまうねん」
と答えていた。
一方、8人の恋人がいた小堀裕之は、野々村友紀子に、
「結婚してんのに、全員別れてきなさい」
といわれ、
「わかりました」
と答えたが、1ヵ月後、進捗状況を聞かれると、
「12人になりました」
といい、
「お前は、12丁拳銃か!」
と怒られた。
2丁拳銃は、M-1グランプリに2度目の挑戦。
「中川家さんの次の優勝するぞ」
と意気込んだが、再び準決勝で敗退。、
この年から導入された敗者復活戦で2位となったが、決勝には進めなかった(1位のみ決勝進出)
優勝 ますだおかだ 612点
2位 フットボールアワー 621点
3位 笑い飯 567点
4位 おぎやはぎ 561点
5位 ハリガネロック 545点
6位 テツandトモ 539点
7位 スピードワゴン 535点
8位 ダイノジ 534点
9位 アメリカザリガニ 525点
2003年、M-1グランプリの出場資格は、結成10年以内のコンビあるいはグループであるため、結成10年目の2丁拳銃は、挑戦3年目にしてM-1ラストイヤー。
プレッシャーがかかる中、勝ち抜き、初めて決勝戦に進出。
決勝戦は、「1stラウンド」と「最終決戦」に分かれ、勝てば最高2回漫才を行うことになる。
1stラウンドは、まず千鳥が登場し、552点。
2番目の麒麟は、554点。
3番目のスピードワゴンは、572点。
4番目の笑い飯のダブルボケ漫才が大ウケし、656点という高得点。
99点をつけた島田紳助は、
「100点でもよかった。
後のために99点にしただけ」
と大絶賛。
このとき舞台裏でスタンバイしていた川谷修士は、
「この後にやんの?
イヤやわ」
と思ったが、CMに入ったため、少し落ち着いた。
「よし、やるぞ」
気を取り直して行ったハンバーガーショップのネタは、608点を獲得。
この時点で、2位となり、最終決戦のいくことができる上位3組の中に入った。
6番目に出たアメリカザリガニは、564点。
7番目のフットボールアワーが、663点。
ここで2丁拳銃は、3位に転落。
「このまま残れたら、もう1本できる!」
小堀裕之が祈るように見守る中、8番目のりあるキッズは、601点で、2丁拳銃は、3位をキープ。
9番目、トリは、敗者復活から上がってきたアンタッチャブル。
奇しくも同じハンバーガーショップのネタだったが、
「パワーがすごい」
(小堀裕之)
「柴田君(のツッコミが)すげえな」
(川谷修士)
と圧倒される内容で、616点で逆転負け。
結局、
優勝 フットボールアワー
2位 笑い飯
3位 アンタッチャブル
となり、2丁拳銃は、M-1ラストイヤーを4位で終えた。
「がんばりました」
(小堀裕之)
「がんばった?」
(川谷修士)
「がんばりましたよ」
「緊張してましたよね」
「手プルプル震えてましたからね」
「いうてエエもんかわからへんかったから・・・
イジったほうがよかった?」
「イジられてたら、もっと震えてました」
「決勝にネタを残してるんで」
「ちょっとやってみましょか?」
「やったらアカン」
しかし2丁拳銃は、最終戦用のネタを、その後、半年間使用。
4位になったことで仕事が増えることも減ることもなかった。