この2丁目劇場のオーディションには、2丁拳銃より1期上の「高僧・野々村」という女性コンビも参加していた。
そのボケを担当していた野々村友紀子は、大阪市北区天神橋筋6丁目、通称「天六」出身。
1人っ子で、幼い頃から、ピアノ、エレクトーン、バイオリン、クラシックバレエ、習字、英語、水泳、絵画など十数個の習い事をして、家庭教師がいる上、塾にも通うお嬢様だったが、中学から高校にかけて
「強めの反抗期」
に突入。
ゲームにハマって、
「しんどい」
といって学校を休んで、家でゲームしかしないという、
「強めの引きこもり期」
も挟みながら、レディース「天六ソルジャー」で副総長になった。
近所(お互いの家が歩いて1分)の幼馴染で同じ小学校、中学校に通い、高校は違う学校だったが、
「毎日、チョケていた」
という高僧美喜と、
「大人になっても一緒に仕事したいな」
という話になり、
「それなら漫才師しかないな」
と難波の吉本興業本社へ。
どこから入っていいかわからず、建物をグルグル回っていると警備員のおじさんがいたので、
「スイマセン。
芸人になりたいんですけど」
と聞いた。
すると
「これに入り」
といわれ、置いてあったNSCのチラシを渡され、NSC11期生となった。
同期は、小藪一豊、中川家、陣内智則、ケンドーコバヤシ、たむらけんじ、ハリウッドザコシショウ、ハリガネロックなど、後の売れっ子が揃っていたが、「高僧・野々村」も独創的なボケ漫才で、1996年にABCお笑い新人グランプリ審査員特別賞を受賞。
コントで男性芸人の恋人役などをすると、女性客に妬まれることもあった。
「今のように女性芸人は多くなかったので、男性芸人と少しでも仲よく話しているとファンの方から嫌がらせされていましたね。
文句の手紙が届くのは、まだいいほうで、自分の顔の部分がズタズタになった写真やカミソリが3枚、めっちゃエエ位置に仕込んである手紙をもらったりとか、劇場から出てきたら汚い液体をかけられたり……」
2丁目劇場で、1つ先輩だが同い年の野々村友紀子に出会った川谷修士は、
「キレイな人やな」
「おもしろい人やな」
と一目惚れ。
コンパに参加したことはあったが、まだ1度も女性とつき合ったことのない童貞の川谷修士は、先輩である「メッセンジャー」のあいはら雅一に、
「彼女おんのか?」
と聞かれ、
「いないです」
「これからどうすんねん?」
「アッ、僕、野々村さん好きです」
するとあるイベントのエンディングで、あいはら雅一が、
「修士が野々村に告知がある」
といい、
「お前、いいたいことあるんちゃうんか?」
と振られた川谷修士は、
「あります。
野々村さん、好きです。
付き合って下さい」
とステージの上で公開告白。
客席からは悲鳴が上がったが、川谷修士のことを、
「イキってる」
「チャラチャラしてる」
と思っていた野々村友紀子は、
「無理無理」
と断った。
その後、大阪で飲み会の帰り、2人きりになったとき、川谷修士は、心斎橋を歩きながら、
「彼氏とどうなってるんですか?」
「ちょっと今、別れるかもしらん」
「ネエさん、次の彼氏に僕、立候補していいですか?」
これがきっかけとなって、2人は交際を始めた。
一方、小堀裕之の対する野々村友紀子の第1印象は、
「フザけんな」
だった。
ある日、小堀裕之に、
「ネエさん、飲みに連れて行ってください」
といわれた野々村友紀子は、酔った小堀裕之が
「俺、絶対、負けませんよ」
といい出したので、
「そんなこと、誰にでもいうたらアカンで」
と諭したが、
「ネエさんにも負けません」
といわれると
「お前、フザけんな」
と怒った。
そして川谷修士と交際を始めると、小堀裕之が、
「もうこれでネエさんとは親戚同然ですね」
といってきたので、
「なんでお前と親戚ならなアカンねん。
フザけんな」
1997年、天然素材が解散すると東京で活動していたFUJIWARA(藤本敏史・原西孝幸)は大坂に戻った。
そしてテレビ大阪で
「吉本超合金」
という番組がスタート。
当初、メッセンジャー(黒田有・あいはら雅一)がたFUJIWARAと共演するはずだったが、2丁拳銃が大抜擢された。
4期上の先輩で
「めちゃめちゃオモロい」
と思っていたFUJIWARAと共演することになった2丁拳銃は、4人で街へ繰り出し、破天荒なロケに挑み、「吉本超合金」は、大人気深夜番組となった。
さらに2丁拳銃は、「吉本超合金」が始まった1997年、第18回ABCお笑い新人グランプリ優秀新人賞と第27回NHK上方漫才コンテスト優秀賞、翌1998年、第33回上方漫才大賞新人奨励賞を受賞。
それまで川谷修士は先輩に、小堀裕之は真弓や他の女性にご飯をオゴッてもらっていたが、一気に知名度と収入がアップ。
たくさんのファンを獲得し、川谷修士は、数十人の女性ファンを引き連れて道頓堀を歩いたため、
「修士が動けば、街が動く」
といわれた。
小堀裕之いわくコンビ内の人気の比率は、
「7:3くらい」
野々村友紀子がいるために絶対に女の子に手を出さない7の川谷修士に対し、3の小堀裕之は、
「修士のこと教えたるわ」
といって川谷修士のファンに近づいて、やさしく接し、
「結構いった」
「同期や先輩は、敵でありライバル」
と思っていた小堀裕之は、寝る間を惜しんでネタをつくり、すべて違うネタで賞レースに挑戦した。
「ハリガネロックさんにずっと負けてたんですけど・・・
2位やったんですよ、ずっと。
NHKの全国のやつだけ僕らが1位にだったかな」
1期上のたむらけんじや中川家、陣内智則、ハリウッドザコシショウなどと一緒に飲むことはあったが、2丁目劇場のトップである千原兄弟は、
「ライバルや。
媚びたらアカン」
とほとんど口を利かなかった。
そんな小堀裕之にとって楽屋は、非常に居づらい場所で、逆に舞台は居心地がよかったため、楽屋に帰りたくない一心でアドリブを入れるなどして、よく持ち時間をオーバーし、
「長いねん、お前ら」
と怒られた。
「いま考えたら調子に乗ってますよね。
まあでも一生懸命だったんですよ。
そうせなアカンっていう。
みんな、いっぱい人気者で、そこに先輩とかもちろんですけど、割り込んで勝っていくっていうのはありましたね」
1999年2月、
「女性版ダウンタウン」
といわれ、東京進出も期待されていた「高僧・野々村」がデビュー8年で解散。
理由は、高僧美喜の父親が亡くなったため安定した収入が必要になったからだった。
野々村友紀子は、最初、説得したが、高僧美喜が、
「どうしても辞めなアカンねん」
と聞き入れないので、最後は
「もうわかったわ。
一生恨むからな」
といった。
そして
「じゃあ、それ背負うわ」
「オウ」
といい合い、2人とも芸人を引退した。
「元々、相方と一緒に仕事をしたいという理由で芸人を始めたので、彼女以外と組むのは考えられなかった」
野々村友紀子と高僧美喜は、現在でも仲が良く、機会があれば一緒飲むなど良好な関係を継続している。
「高僧・野々村」が解散した1ヵ月後、1999年3月、「心斎橋筋2丁目劇場」が11年の歴史を閉じて、閉館。
半年後、1999年9月、新劇場「beseよしもと」がオープン。
FUJIWARA、シャンプーハットらと共に看板コンビになった2丁拳銃は、
「人気もすごいし、吉本のお金のかけ方もとてつもない」
「2丁拳銃を売り出すのに吉本は3億円かけた」
「次のダウンタウン」
といわれ、CDも出し、アイドル的な人気を獲得。
小堀裕之は、DJやバンド活動も行い、
「彼女(真弓)がいる」
といいながら、ファンと2股、3股、4股をかけ、ある後輩は、小堀裕之と街で偶然、4回会ったが、4回とも彼女(真弓)ではない女性と一緒だったという。
「24時間で4人と会ったことあります。
そのうち肉体関係を結んだのは、最初と最後(朝と夜)で、他のは後日だったりとか。
まあレスの子もいましたね。
お茶だけ飲んでバイバイみたいな」
吉本興業から
「(解散していた)シェイクダウンの後藤(秀樹)さんと組んだら?」
「ピンでやれば?」
と慰留されながら、
「テレビでみたOLに憧れていた」
という野々村友紀子は、求人情報誌をみて、近所のあった家族経営の会社に就職。
吉本興業にいた頃、コピー機を、
「ものすごい機械やな」
と思いながら、すべて社員にやってもらっていた野々村友紀子は、年下のOLに、
『ソートで5部とってきて』
といわれ、
(なんやソートって?)
と思いながらも
「はい」
しかしその後、
「ずーっとコピー機とメンチの切り合い」
になり、やがて年下のOLがやってきて、
『どうしたん』
と聞かれ、
「ちょっとわからなくて・・・」
『エッ、何してたん、今まで』
といわれ、ムカつき、社長に、
「芸人やってたらしいな。
なんかやって」
「普段、全然オモロんないやん」
といわれて、ムカついた。