A&Mスタジオ内の大型モニターには、生中継で放送されている「アメリカン・ミュージック・アワード」が映し出されていた。
「アメリカン・ミュージック・アワード」が終わると「USA for Africa」に参加するアーティストたちは、その足で、その他のアーティストたちも各地からA&Mスタジオへやってくる。
スタジオの入口にはクインシー・ジョーンズの指示で
「エゴは入口で預けてください」
という張り紙がされた。
普段、高額な出演料や印税をもらい、自信と自我の塊である参加者は、この張り紙によって他人の迷惑を考えず、自分の利益のみを追求する行動や考え方を捨てなければならなかった。
そして難民を救済のために、年齢、人種、性別、音楽ジャンル、宗教、キャリア、レコード会社、すべてを垣根を超えて集まり、ノーギャラで歌うのである。
20時、「アメリカン・ミュージック・アワード」の授賞式が開始。
そんな中、1番最初にA&Mスタジオにやってきたのは、ロック・バンド「ジャーニー」のボーカリスト、スティーブ・ペリー。
36歳のスティーブ・ペリーは、「エイリアン・プロジェクト」というバンドで音楽活動を始め、メジャーデビュー直前にベーシストが事故死したため、解散。
音楽を諦めて郷里で農家をしていたが、「エイリアン・プロジェクト」のデモテープを耳にした「ジャーニー」のマネージャーにスカウトされ、「ジャーニー」の初代ボーカリスト、ロバート・フライシュマンと入れ替わる形で加入。
「ジャーニー」として多くのヒット曲を放った後、1984年にソロ活動も開始。
交際中だった女性への想いを歌った「Oh、シェリー」はアメリカで知らない人がいないといわれるほどヒット。
アメリカ音楽界のトップが一堂に会した「We Are The World」のレコーディングについて
「圧倒された」
という。
「あのとき、ブルース・スプリングスティーンは「Born in the USA」ツアーをやっていた時期だったということを忘れてはいけない。
彼が部屋に入ってきたとき、まるで神が部屋に入ったかのようだった。
マイケル・ジャクソンもいたし、レイ・チャールズもいた。
ティナ・ターナーもいたし、ポール・サイモンやベット・ミドラーもいた。
それで結局どうしたかというと、このような人たちがたくさんいる部屋にいると少し落ち着かないので隣接する別のスタジオのケータリングルームに行ってみたんだ。
そこにはランチ用の肉とパイナップルが置いてあって、肉を食べているときにふとみるとベット・ミドラーとポール・サイモンがいた。
僕たち3人だけで座っているとベット・ミドラーが『ちょっと圧倒されるわね』といったので、「確かにそうだね」っていったんだ」
続いて黒いナポレオンジャケットを着たマイケル・ジャクソンがセキュリティースタッフに囲まれながら到着。
20時30分、コントロールルームにいるクインシー・ジョーンズのディレクションのもと、事前にコーラスのガイドボーカルを収録。
「クインシー、最後は「 you and me 」と歌うべきかな、それとも「 you and I 」かな?」
と聞き、最終的に「 you and me 」の方が感情がこもっていると判断された。
マイケル・ジャクソンはテイクをトチるとクスクス笑い、ノッてくるとマイクの前で踊り始め、レコーディングに支障の出ない範囲で体を大きく動かした。
マイケル・ジャクソンが録音を行っていると、ジェームス・イングラム、ビリー・ジョエル、アル・ジャロウ、ザ・ポインター・シスターズ、そしてマイケル・ジャクソンの兄弟姉妹が到着。
スティーブ・ペリーはガラスの向こうで歌うマイケル・ジャクソンをみて感激しながら、
「俺は夢でもみてるのいかい?
ドラッグでもやっちゃったみたいだな。
と周囲にジョークを飛ばした。
33歳のジェームス・イングラムは、「クインシーの秘蔵っ子」と呼ばれるR&Bシンガー。
代表曲は、
「Baby, Come to Me(あまねく愛で)」
映画「アメリカ物語」のサウンドトラックでリンダ・ロンシュタットとのデュエット曲「Somewhere Out There」
そしてエディ・マーフィ主演の映画「ビバリーヒルズ・コップ2」のエンディング・テーマ「ベター・ウェイ」
など。
「We Are The World」では、実績的には他のアーティストに比べて格下だったが、レイ・チャールズとかけ合いを演じた。
36歳のビリー・ジョエルは、38度の熱を出しながら参加。
ナチスから逃れるためにドイツからアメリカに亡命した父親と実家が宝石商を営む母親の間に生まれ、ニューヨークで育ち、幼少期からピアノを習い、思春期には不良グループの一員となり、ケンカとピアノの練習を明け暮れる毎日。
さらにボクシングを習い始め、ウェルター級のアマチュアボクサーとして22勝したが24戦目に鼻の骨を折られ、この道は断念。
ビートルズをみて
「フルタイムで音楽をやろう」
と思い、バンドに参加するようになり、夜、バーでピアノを弾きながら通っていた高校は、英語の単位を落として中退。
その後2年ほどバンドでピアノを弾き続けたが、脱退。
いくつかバンドを渡り歩き、レコード会社と契約を結ぶもファーストアルバムで失敗し、解散。
しばらく音楽誌のライターやCMのジングル演奏などをしていたが、深刻なウツ状態に陥って自殺未遂まで起こす。
その後も苦労しながらソロで音楽を続け、
「俺はコロンビア大学にいくんじゃなくてコロムビアレコードへいくんだから学歴なんか必要ない」
といって高校を中退したビリー・ジョエルは、24歳でコロムビアレコードと契約すると「ピアノ・マン」がスマッシュヒット。
そして「The Stranger」、「Just the Way You Are」、「Movin' Out (Anthony's Song)」、「She's Always a Woman」、「Only the Good Die Young」と次々ヒットさせ、イギリスのエルトン・ジョンと共にピアノ・ロックというジャンルを確立してスターとなった。
45歳のアル・ジャロウは、アイオワ大学で心理学を学び、数年間、カウンセラーとして勤務した後、ジャズ・クラブで歌い始め、1975年にデビュー。
1978年「ライヴ・イン・ヨーロッパ」
1979年「風のメルヘン」
1982年「ブレイキン・アウェイ」「(Round, Round, Round) Blue Rondo A La Turk」
がグラミー賞受賞。
ソフトで伸びのある歌声と「スキャット唱法」や「ヴォイス・パーカッション」などのボーカルテクニックを持ち、ジャズ、ポップ、R&Bの3部門にまたがってグラミー賞を獲得した「ワン・アンド・オンリーシンガー」
「We Are the World」がリリースされる2日前に放映が始まったドラマ「Moonlight (邦:こちらブルームーン探偵社)」のテーマソングも歌った。
「ザ・ポインター・シスターズ」は、実の姉妹によるコーラスグループ。
39歳のポインター・ルース
37歳のポインター・アニタ
34歳のポインター・ボニー
32歳のポインター・ジューン
は幼い頃から聖歌隊で歌い始め、1971年、レコードと契約したときは、アニタ、ボニー、ジューンの3人組で、翌1972年、ルースが加入して4人組となった。
1973年、「イエス・ウィ・キャン・キャン」がビルボードのポップチャートで11位。
1975年、「Fairytale」でグラミー賞最優秀カントリー・ボーカル・グループ賞を受賞。
1977年にはボニーがソロに転向し、3人組となった。
その後も「ファイア」「スロー・ハンド」などのヒットを放ち、1984年にはダンサブルなサウンドで4曲のトップ10ヒットを放ち、グラミー賞で2部門を獲得。
この夜、「アメリカン・ミュージック・アワード」で「ビデオソウル/R&Bグループ部門」を受賞したばかりで、1ヵ月後のグラミー賞でも2部門を獲得するなどキャリアの絶頂にあった。
29歳のラトーヤ・ジャクソンは、マイケル・ジャクソンの姉。
音楽で目立ったヒットはないのに非常に話題が多いアーティスト。
「PLAYBOY」誌でヌードを披露したり、父親の暴力など家族の暴露によって有名となり
(後にマイケル・ジャクソンに性的虐待の疑惑が持ち上がったときも
「疑惑は事実」
といって)
「ジャクソン家の問題児」といわれた。
個性が強く「ラトーヤ」といえばハデな女性の代名詞の1つのようになった。
34歳のジャッキー・ジャクソンは、ジャクソン一家の長男でマイケル・ジャクソンの兄。
スポーツ万能で、特にバスケットが得意。
白いブリーフが大好きで体を鍛えることを欠かさず、兄弟姉妹の中で唯一、整形疑惑がない。
33歳のティト・ジャクソンは、ジャクソン家の次男で、マイケル・ジャクソンの兄。
ティト・ジャクソンが父親のギターにイタズラしたことから、兄弟グループ「ジャクソン5」は誕生した。
「父はアマチュアのギタリストだった。
彼はギターをとても愛していたので、他人が勝手に触ることを許さなかった。
だけど僕はギターの音が大好きだったし、どうしても弾いてみたくて、やがて父に隠れて触るようになった。
ずっとそれは見つからなかった・・・・はずなんだが、ある日ギターの弦を切ってしまった。
それが父にバレて「私の目の前で弾いてみなさい」といわれた。
僕は必死にプレイした。
そのとき、彼は「オレよりもうまく弾けるじゃないか」と思ったみたいだね。
次の日、自分用のギターを父と買いに行った。
そのうち僕の演奏に合わせて、兄のジャッキー、弟のジャーメインが歌うようになった。
僕が8歳の頃の話だよ。
マイケルは途中からグループに参加したんだ。
彼は小学生の頃から、ものすごく歌がうまかった。
僕らにショックを与えるほどにね。
マイケルを入れたらグループはもっと良くなる。
そう思った僕は早速、父親にマイケルの参加を提案したんだ」