また松井章圭は、週1回、埼玉県の川口駅近くのビルの地下にあった盧山初雄の道場へも出稽古に通った。
この頃の極真の道場は、科学的なトレーニング、合理的な考え方を取り入れ西洋化していくのが一般的だった。
しかし盧山道場の稽古は独特だった。
まず中国拳法の修行法である立禅、這い。
立禅は、高い椅子に腰掛けるように中腰になり、踵を少し浮かし足親指の付け根に重心をかける。
両手で大きなボールをかかえるように円をつくる。
顎は軽く引いて、目は軽く開きやや上の方を観て、意識を遠くに放つ。
頭は、天から吊り下げられている感覚、脚は、地面の中に埋まって根を張っている感覚で、この姿勢を20~30分続ける。
人間の内的な力(潜在能力)を強化し、瞬間的な爆発力(気の力、火事場のバカ力)を養成するのが目的である。
這いは、立禅の姿勢のまま、ゆっくり歩を進める鍛錬法
両腕は上げたまま、腰を落としたまま、ゆっくり前後に歩を進めることは非常にキツい。
しかし下半身の鍛錬はもちろん、骨盤を中心にした重心移動を体感することができ、実戦の速い動きの中に生かすことができる。
そして極真空手の基本、移動、型、組手を行った後に、砂袋(砂が入った麻袋)に、拳、手刀、肘、膝、脛、背足(足の甲)、中足(足の親指の付け根)を、それぞれ1000回打ちつける部位鍛錬を行った。
稽古の後、盧山初雄に連れられていった埼玉県の南浦和駅前の焼肉店「トラジ」で、松井章圭は、後に結婚する韓幸吟と出会った。
幸吟の母親、任福順は、松井章圭の父親と同じ済州島出身で、兄の韓明憲、妹の幸吟が小学生のときに父親は亡くなり、その後はパチンコ店の清掃などをしながら貯めたお金でトラジを開いた。
松井章圭は、たびたびこの焼肉店に通い、任福順が用事ができれば留守番を買って出たり、注文を取ったりして店を手伝った。
1981年の秋、サッカー・ワールドカップ・スペイン大会のアジア・オセアニア予選で、日本代表と北朝鮮代表戦が対戦。
朝鮮高級学校時代にサッカー選手だった韓明憲は、2歳下の松井章圭を誘って、代々木国立競技場に北朝鮮代表の応援をしにいった。
すると韓国籍と北朝鮮籍の在日コリアンの合同サポーターが、銅鑼やチャンゴを鳴らして北朝鮮代表の応援をしていた。
大雨の中の試合は、北朝鮮のゴール前の水たまりで止まったボールを日本が蹴り込んだゴールが決勝点となった。
試合終了後、松井章圭は、涙を流した。
その後、高校を卒業し池袋の銀行に勤め始めた韓幸吟が、偶然、池袋駅前で松井章圭と再会したことから付き合い始まった。
パンチ開眼
松井章圭が孤独な戦いを続けていた総本部に、渡邊茂というとんでもない男が入ってきた。
そして松井章圭同様に本部の洗礼を受けるが、松井章圭とは違うやり方で戦った。
渡邊茂は、プロスキーヤーをしながら中央大学で教員免許を取得し、卒業後、プロボクサーになり、新人王戦で準優勝。
ジムの先輩で、世界チャンピオンだったガッツ石松に
「お前のパンチはデュランより強いよ」
といわれた。
ロベルト・デュランは、「石の拳」といわれた強打、野生的な戦闘スタイル、怪物的な強さで3階級を制覇した伝説のチャンピオン。
ガッツ石松もその拳の前に沈んだ1人だった。
ボクシングをやめた後、渡邊茂は、池袋一帯でヤクザにケンカを売っては殴り倒し、金を巻き上げていた。
やがて中村誠の住むマンションの1階にあった24時間営業の喫茶店の副店長になった。
そして中村誠に強引に道場に連れていかれ、23歳で入門した。
そして初めての組手で、全日本大会で上位クラスの選手たちをパンチだけで倒していった。
大山倍達は、渡邊茂を大変気に入り、黒帯を締めることを許した。
その上、10万円の給料で指導員を頼んだ。
破格の待遇を受けたド新人が気に入らない総本部の先輩たちが、ある夜、渡辺茂を公園に呼び出した。
「指1本でも触れたら2度と空手のできない身体にしてあげるからね。
全員でかかってきなさい。
今日は腕の1本や2本はあげるよ」
先輩たちは捨てゼリフを吐いて去った。
渡邊茂に返り討ちにあい、しばらくおとなしくしていた先輩たちだったが、やがて再び門下生イジメを行うようになった。
すると今度は渡邊茂がリーダー格の先輩のアパートを急襲。
「殺すぞ」
その先輩は泣きながら土下座して許しを乞うた。
松井章圭が渡邊茂と初めて会ったのはワークアウトだった。
「自分にはないキレたら弾け飛ぶような猛々しさ」
を感じた松井章圭は組手を申し込んだ。
渡邊茂はガードした松井章圭の腕や肩のつけ根にバチッバチッと強烈なパンチを、すさまじいスピードで打ち込んだ。
(このパワーで顔面に打ち込まれたら・・)
松井章圭は恐怖で動けず技が出せなかった。
ガードへの攻撃が続き、松井章圭は両腕に強烈な痛みを感じ、やがて神経まで麻痺しはじめた。
痛みと痺れで両腕の機能を失った松井章圭はガードを固めたまま固まってしまった。
それをみた渡邊茂は攻撃をやめていった。
「な、後は滅多打ちにして倒すだけだろ」
その後も松井章圭と渡邊茂の組手は何回か行われた。
ある日の深夜、五反田駅前の歓楽街で1人で酒を飲んでいた渡邊茂が、通りすがりのヤクザ5名をからかったことからケンカになった。
たちまち3名が血祭りにあげられ、1人が組事務所に連絡。
ドスなどの道具を持った10名の応援がかけつけ、大乱闘となった。
素手の渡邊茂が、さらに5名を戦闘不能にしたとき、パトーカー十数台が到着。
ヤクザたちはすぐに戦闘態勢を解いたが、熱くなった渡邊茂は収まらず、警官に包囲された。
上官が許可し、銃に取り囲まれて、ようやく手錠を受けて連行された。
6名のヤクザが病院送りになった。
新聞やテレビのニュースにもなった事件の話を聞いて永田一彦はいった。
「なんでヤツを射殺しなかったんだ」
数年後、渡邊茂は極真を退会。
アメリカの大学で運動生理学を学び、帰国後、大学の講師などを務め、ボディビル日本代表にもなり、現在は整体院を開いている。
1981年11月、第13回全日本大会が東京体育館で開催された。
総本部に移籍して初めての全日本大会だった。
昨年は、準決勝で三瓶啓二に敗れ4位だったので、松井章圭の目標は「打倒!三瓶」だった。
しかし準決勝で三瓶啓二と対戦し、突きと下段回し蹴りで攻められ本戦で判定負け。
3位決定戦は判定勝ちし3位となった。
松井章圭は、週1回、城西支部の道場への出稽古を開始した。
城西支部長の山田雅稔は、4名の(体重無差別の)全日本チャンピオンと5人の全日本ウエイト制チャンピオンを育てていた。
松井章圭は、これまで経験していなかった新鮮な練習を体験した。
まず当てる寸前でパワーダウンさせるスパーリング。
これによって力まず正確なフォームで技を当てることができた。
そして連続攻撃の練習は、数十種類のコンビネーションをミットをつかって反復練習。
練習は、ビデオ撮影され、後で観て技をチェックした。
またこれまで松井章圭は、低~中負荷×高回数(軽い重さを多くの回数反復させる)方法だったが、高重量低回数(重い負荷重量を少ない回数反復させる)ウエイトトレーニングを教わった。
松井章圭は、渡邊茂とのスパーリング以来、自分の「突き」、つまりパンチの技術と力の無さを悩んでいた。
また自分が2年連続で負けた三瓶啓二を、同い年の増田章が、パンチの連打で圧しているのをみたことも劣等感の原因となっていた。
増田章は三瓶啓二の巧さに判定で敗れたものの、与えたダメージは圧倒的に勝っていた。
松井章圭は、突きだけの組手や、1、2時間ブッ通しでサンドバッグ打ちを行ったりしたが、成果は上がらなかった。
あるとき永田一彦が吉留一夫という元プロボクサーを紹介した。
練習初日、吉留一夫は自分の持つミットに思い切りパンチを打ち込ませてみた。
松井章圭は渾身の力で打ち込んだ。
「続けて!」
という声に何度も打ち込んだ。
ミットを下げた吉留一夫は
「フライ級(-50.8㎏)のパンチより軽いね」
と85㎏の松井章圭にいった。
次に吉留一夫は、松井章圭にミットを持たせて自分がパンチを打ち込んだ。
「バチーン」
乾いた音が響いてミットに重い衝撃が走った。
「なんでパンチが弱いかっていうとね、足腰が決まっていないから、蹴り足のパワーがスムーズに拳に伝わらないんだよね。
つまり力で打ってんだよなあ」
こうして松井章圭のパンチ修業が始まった。
まず利き足を下げた状態で自然態で立つ。
次に胸に大きな卵を抱える感じで両肘を締めて腕の位置を決める。
拳は顔面をガードするように両頬のやや前に置く。
ファイティングポーズが決まるとフットワークである。
後ろ足でマットを蹴って、1歩前進。
さらに2歩、3歩、4歩、5歩と前進。
このとき歩幅とファイティングポーズが乱れてはいけない。
前進ができるようになったら同じ要領で後退。
さらに同じ要領で前後左右斜めに自由自在に動けるようになるまで反復。
これができたらワンステップごとにジャブを打つ。
ステップして止まって腰を決めてジャブ。
これを繰り返す。
ここまで蹴りだけで勝ってきた松井章圭は、腰がふらつき、足元がブレ、パンチは的が定まらなかった。
丸一日フットワークの練習に没頭すると、1週間後にはステップしてワン・ツーが打てるようになった。
さらに1週間後、ステップと同時にワン・ツーを出しても、腰も足もパンチもブレなかった。
爪先で地面を蹴ったパワーが腰に伝わる
そのとき腰を切って(回転させて)、同時に肩を内側に入れて、脚が生んだパワーがスムーズに腰、背骨、肩、腕、拳と伝達する。
3週間後、吉留一夫はいった。
「パンチが切れてるよ!」
松井章圭は、さらに防御、フック、アッパー、ボディブローの基本、そしてコンビネーションを習っていった。
ファーストキス
永田一彦は、プロボクサーをやめたあとニューヨークへ行き、帰国後、今度はインドを放浪した。
そこでグルに出会い、瞑想生活を入り、悟りの境地を目指した。
帰国後も瞑想の道場に通い、さらにヨガも始めた。
松井章圭に比べ、厳しさや切迫感もなかったが、2人は共に「超人」というテーマに魅せられていた。
インドのヨガ行者が悟りを得んと、精神と肉体を酷使する破天荒な修行法の話を松井章圭は目を輝かせて聞いた。
そして吉留一夫がマネージャーを務める風俗店のサクラ兼用心棒のアルバイトもした。
ある日の閉店後、女性従業員の部屋で飲み会が行われたとき、
「松井が日本一になれないのは女を知らないせいだ!
誰か筆下ろしの相手をしてやんなよ」
「キスだけならいいよ」
という話になった。
松井章圭は首と手を振って遠慮したが
「全日本大会で勝ちたければキスさせてもらえ」
といわれ
「みんなに見られるのは恥ずかしい」
とハンカチで隠して唇を合わせた。
減量
「裸の大将」
永田一彦のジムで、松井章圭はそう呼ばれていた。
強い筋肉の上に適度に脂肪を蓄えたからだ。
しかし
「ボクサーは普段から厳しい節制と練習で無駄のない肉体と集中力を養っている。
それでも試合前にさらに4、5㎏落とすのは絶対必要なんだよね
スピードや反射神経は格段に上がるし、殺戮本能や闘争本能を掻き立てるんだ」
と吉留一夫がボクサーの減量について話すのを聞いて
(減量にチャレンジすれば新しい世界が拓けるかも・・)
と
「1週間で10㎏減量します」
と宣言した。
期間は8/15~21。
減量開始時の体重は80㎏。
1日の食事は、ドレッシングなしのサラダと紅茶。
必要最低限のミネラルとビタミンをサラダから、水分補給も利尿作用のある紅茶から-という計画だった。
朝、5㎞のランニング。
朝稽古。
午後、一般稽古。
ジムでウエイトトレーニング。
行人坂(目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂)まで5㎞のランニング。
100mの坂を20本ダッシュ。
ジムまで戻って縄跳び
そして吉留一夫とボクシングの練習。
苦しくも心地よい飢えの感覚と共に3日で6㎏落ちた。
しかしやがて急激に体力が低下。
ウエイトトレーニングは、まったくウエイトが挙がらなくなった。
そして渇きの苦しみが襲ってきた。
5日目になると、酷暑の中でナイロンのウェアを着て行人坂まで走っても汗が出なくなった。
そのとき体重は71㎏だった。
残り1㎏。
7日目の最終日、午前と午後のトレーニングの後、体重計に乗ると70.5㎏だった。
残り500g。
再びナイロンウェアを着て走りに出た。
戻って裸になって体重計に乗ると70㎏だった。
すぐに自販機でジュース6本をがぶ飲み。
そして食事をした。
体重を測ると73㎏だった。
しかしその後の試合では自分のベスト体重で挑めるようになった。
大切なのは肉体的な強弱だけではない
1982年11月13~14日、第14回全日本大会が行われた。
松井章圭は2回戦で、初めて「突き」で技ありをとって判定勝ちした。
準々決勝で増田章と対戦。
そのパワフルな突きと下段回し蹴りに体ごと持っていかれそうになりながらも、増田章が蹴りを出すとその軸足を、突きを出すときに重心がかかる前足を蹴り、技を合わせていった。
そして
「やめ」
と主審に開始線に戻され
「はじめ」
といわれた直後、飛び出してきた増田章の右の顔面を松井章圭の右足の踵が蹴った。
後ろ回し蹴りだった。
しかし増田章は倒れず、その後も猛攻を続けた。
結局、3度の延長戦の後、試し割り判定で松井章圭が勝った。
3年連続で進出した準決勝の相手は、水口敏夫。
増田章で燃え尽きてしまった松井章圭は、本戦と2度の延長戦を引き分け、試割り判定で敗れた。
控室へ戻る途中で加藤重夫に怒鳴られた。
「自分から攻撃しなければ体重判定で負けることくらいわかっていながら前に出なかっただろう」
(大切なのは肉体的な強弱だけではない。
追いつめられて弱気になったり、萎えてしまったときに、もう一息、頑張れるかどうかだ)
気持ちを切り替えた松井章圭は、3位決定戦を判定勝ちした。
総本部指導員となる
第14回全日本大会の後、総本部に君臨していた2大王者、中村誠と三瓶啓二は、それぞれ兵庫県と福島県の支部長となり去った。
そして松井章圭が総本部の指導員に昇格した。
「押忍」
下の者にも挨拶されれば必ず
「押忍」
と返し、
「見て、殴られ、蹴られて覚えろ」
方式だった指導も
「では正拳の握り方を解説します。
拳をつくって人差し指と中指のつけ根から第一関節にわたる部分が正拳です。
正しい握り方は、手を大きく開いた状態から小指から人差し指まで4本のそれぞれの指先が、それぞれの指のつけ根にピッタリつくように巻き込みます」
などと解説し指導した。
また選手としてトレーニングと稽古も怠らなかった。
現役時代の松井章圭は、1年間を春夏秋冬の4期に分け、それぞれ目的を明確にしてトレーニングと稽古を行った。
春
ウエイトトレーニングで基礎体力づくり。
決して体が大きくない松井章圭が試合で勝つためにはパワーアップがカギだった。
夏
暑さや、暑さによるオーバーワークを避けるやり方もあるが、松井章圭は夏にトレーニングの量を増やした。
ランニングもカッパを着て、減量が狙いではなく失った水分はどんどん補給しながらガンガン走った。
夏にどれだけ練習量を増やすことができるかもテーマだった。
暑い時期にたくさんトレーニングを行うと疲労で動きは悪くなるが、秋の試合には体に充実感がみなぎった。
秋
体ができてスタミナもついたところで大会に向けて調整に入る。
(極真空手では、毎年の全日本大会、4年に1度の世界大会は、秋に行われる)
第3回世界大会 3位
1983年11月12~13日に行われた第15回全日本は、翌年1月の第3回世界大会の日本代表選考会も兼ねていた。
日本代表は、全日本大会8位以上+大山倍達が推薦する3名。
松井章圭は構えを変えた。
これまでの「前羽の構え」から、左拳を軽く握ってやや上段に、右はしっかり締めた肘の上に拳が置かれた状態。
下半身は、やや後ろにあった重心がやや前方になっていた。
前回の敗戦で
(蹴り技が得意で突きが苦手な奴は優勝できない)
と悟った松井章圭は、大きな足技を連発する組手から、突き、蹴りを連続的に出すスタイルに進化していた。
大山倍達に直訴し、トーナメント3回戦から出場するシード権を放棄し、1回戦から出場した。
そして1回戦、2回戦を圧勝した。
3回戦も合わせ技で相手をひっくり返した。
(勝ったな)
油断した瞬間、相手の中段後ろ蹴りが脇腹にめり込んでだ。
判定で勝ったものの右の肋骨2本を折られた。
勝たなければベスト8に入れず、世界大会には出られない4回戦。
相手は、185㎝100㎏、その攻撃の破壊力は怪物と恐れられた七戸康博だった。
巨体が松井章圭を圧する。
(気持ちだ)
松井章圭は踏みとどまって下段回し蹴りを連打した。
下段回し蹴りをもらい続け後退した七戸康博にとどめの右下段回し蹴りで「技あり」をとった。
直後に本戦が終了し、松井章圭は勝った。
しかし5回戦は棄権した。
1984年1月20~22日、第3回世界大会が、92ヵ国、207名の選手が集い開催された。
大会前、松井章圭は、大山倍達に懇願した。
「大韓民国代表として出場させてください」
(プロ野球の張本勲のように、自分の民族を明らかにした上でチャンピオンになれたら、在日の人や日本人にとって本当の意味で有益な人間になれる)
しかし大山倍達はそういって許さなかった。
「いずれわかるときがくる」
松井章圭は世界大会の出場申込書に
本名「文章圭」
本籍「大韓民国」
と記し提出した。
しかし大会パンフレットとには
「松井章圭」
「東京」
と印刷された。
(自分が日本代表として責務を果たさなければ申し訳ない。)
20歳の松井章圭は、複雑な思いを誰にも打ち明けず世界大会に出場した。
大会初日、1回戦を左中段突きで1本勝ち。
大会2日目、2回戦を判定勝ち。
3回戦、反則勝ち。
4回戦、左下段回し蹴りで1本勝ち。
大会3日目の最終日、ベスト16に残った日本人は、中村誠、三瓶啓二、田原敬三、大西靖人、増田章、そして松井章圭の6名だった。
松井章圭は、5回戦でアンディ・フグと対戦し下段回し蹴りを連発し圧勝した。
準々決勝の相手は、大西靖人。
松井章圭が肋骨を折って棄権した前回の全日本大会の優勝者だった。
「魔王」「魔人」などといわれた大西靖人は、183㎝、89㎏、ベンチプレス186㎏、スクワット290㎏を挙げ、5回戦で肋骨を5本折られていたが、笑いながら試合場に上がった。
その下段回し蹴りを受けて、松井章圭は骨を潰されるような衝撃を感じた。
さらに大西靖人は、膝蹴りを連打、さらに間合いが詰まるとボディへのフックを打ち込んだ。
蹴りを返され倒された松井章圭は、立ち上がり、大西靖人をにらんだ。
大西靖人の右下段回し蹴りから左のボディフックで松井章圭の体はくの字に曲がり宙に浮いた。
本戦は、大西靖人の猛攻を松井章圭が必死に耐えて引き分け。
延長戦に入ると大西靖人は失速。
松井章圭もダメージが大きく攻められない。
再延長戦になると大西靖人の動きはさらに衰え、松井章圭の技にも力がなかった。
「オッシャー」
3度目の延長戦に入り、大西靖人は気合を入れ攻撃を開始。
しかしそれも10秒だけだった。
それ以降は松井章圭の攻撃を受け続けた。
こうして松井章圭は判定で勝った。
準決勝の相手は、2戦2敗の三瓶啓二だった。
試合は三瓶得意の相撲空手になったが、松井章圭は真正面から打ち合った。
本戦、延長戦は引き分け。
「オラァ」
再延長戦で松井章圭は気合を入れた、判定で負けた。
その後、3位決定戦でアデミール・ダ・コスタに判定勝ちし3位になった。
結局、松井章圭は試合で三瓶啓二に勝つことはできなかったが、極真会館の2代目館長になった後、再び対峙することになる。
vs 黒澤浩樹
1984年11月3~4日に行われた第16回全日本大会に、松井章圭はケガで出場できなかった。
そしてこの大会では、黒澤浩樹という新ヒーローが誕生した。
全日本大会初出場の黒澤浩樹は、一撃必殺の下段回し蹴りで初優勝を果たした。
マスコミは、無表情のまま次々と相手を倒していく黒澤浩樹を「格闘マシン」と名づけた。
黒澤浩樹を最強の敵と認めた松井章圭は、その対策を始めた。
まずパワーアップだった。
松井章圭と黒澤浩樹は、同年齢で、体格もほぼ同じ(174cm、80㎏)だった。
しかし黒澤浩樹は、ベンチプレス189㎏、スクワット280㎏を挙げるのに対し、松井章圭は、ベンチプレス130㎏、スクワット175㎏だった。
これまで低負荷×高回数で行っていたウエイトトレーニングを、高負荷×低回数に変えた。
(前者はフォーム習得や筋肥大に、後者はパワーアップに有効なやり方といわれる)
また技術的には、黒澤浩樹の攻撃のリズムが単調であることに注目した。
「あの下段回し蹴りは脅威だがまともにもらわなければいい」
と黒澤浩樹が蹴りを繰り出すタイミング、角度などを研究し、それに技を合わせていく合わせ技を練習した。
また精神的な面でも、大西靖人、増田章、黒澤浩樹は、みんな山田雅稔の指導を受ける城西支部の所属だが、
「彼らの弱点は自己肯定的性格、自己評価の高さにある」
とみていた。
「彼らは自信家であるが故に、相手を尊重せず、自分本位の試合展開のみに終始してしまうという罠に陥る危険性がある」
と考えていた。
1985年11月3日、第17回全日本大会が開催された。
前年度チャンピオンの黒澤浩樹は、さらにパワーアップしていた。
1回戦、1分17秒で1本勝ち。
2回戦、1分19秒で1本勝ち。
3回戦、本戦で判定勝ち。
4回戦、2分25秒で1本勝ち。
準々決勝、1分16秒で1本勝ち。
準決勝、1分11秒で1本勝ち。
決勝まで、6戦中1本勝ちが5つ、すべての試合を本戦で決め、延長戦はなかった。
対する松井章圭は、1回戦を本戦で判定勝ち、2回戦、本戦で判定勝ち、3回戦、本戦で判定勝ち。
4回戦で自分より小柄な堺貞夫と対戦。
楽勝かと思われたが大苦戦。
「なぜ攻めている松井の勝ちじゃないんだ?」
と大山倍達が審判を入れ替えるハプニングもあり、2度目の延長戦で判定勝ちした。
もし体重判定にもつれこめば負けていた。