「2倍も3倍も努力しなくては認めらない」
松井章圭は、「極真会館」ができる前年(1963年)に生まれた。
父親は、大韓民国(韓国)の済州島で生まれ、
「日本で勉強し、アメリカで実業家になる」
という志を立て、19歳のときに漁船に乗って広島県の尾道に渡った。
2年後、東京で愚連隊に因縁をつけられていたところを「松井」という親分に命を助けられた。
これをきっかけに日本での通名(外国籍の者が日本国内で使用する通称名)を「松井」にした。
その後、働きながら法政大学を卒業。
しかし朝鮮戦争勃発すると韓国人難民を装った北朝鮮のスパイの入国を危惧したアメリカが朝鮮人の入国を制限した。
そのため父は「アメリカで実業家になる」という夢を断念し喫茶店を始めた。
そして数年後には広い庭つきの2階建ての家を建てた。
しかし親戚の借金の保証人になったことで、数億円の借金を背負い、家も喫茶店もとられ、4畳半のアパートに移った。
その後、10年間、スナック、サウナ店、焼鳥屋、食堂と転々と経営し、13回も引越しをしながら、借金を返し続けた。
家を借金で失いアパートにうつったとき松井章圭は小学生だった。
体が小さく、色白でぽっちゃりし、勉強も体育も真ん中だったが、強い正義感を持っていた。
また偏見を持つ日本人から差別を受けた経験から自然と
「2倍も3倍も努力しなくては認めらない」
と認識していた。
学校で、女子につい傷つけるような言葉をいってしまったあとは自己嫌悪に陥り、その子のところにいって謝り
「これからは絶対に悪口をいわないからな」
といって握手した。
部活動で後片付けをサボっている上級生5人を
「みんなで後片付けをするのが決まりじゃないですか」
と注意すると、翌日、その5人に体育館の倉庫に連れ込まれ殴られ蹴り回された。
松井章圭は、悔しくて眠れなかった。
「正しいことを行うためには強くなければならない」
『つらい』『苦しい』『痛い』禁止

ある日、松井章圭は、「週刊少年マガジン」を立ち読みをしていると
「これは事実談であり、この男は実在する」
という引き込まれる見出しで始まるマンガに遭遇した。
「空手バカ一代」だった。
松井章圭は、大山倍達の超人追求物語をみて、まるで神の啓示に打たれたような心境になった。
その後、「空手バカ一代」だけではなく、大山倍達の著作も買って読破していった。
それらはすべて強くなるための方法が書かれたもので、すべて松井章圭のバイブルになり、本棚に並んでいった。
そして1人で極真空手の基本稽古、拳立て伏せなどのトレーニングをやり始めた。
それをみた父親のすすめで少林寺拳法の道場に入った。
しかし相手を叩きのめさない稽古に物足りず、稽古中につい
「極真はこんなものじゃないだろう」
といってしまい周囲をいやな空気にさせてしまったこともあった。
結局、この道場を半年でやめた。
1975年11月、東京体育館において極真空手の第1回世界大会が行われた。
これは「地上最強のカラテ」というドキュメンタリー映画となった。
松井章圭は映画館でそれを観た。
やがて電柱や壁など硬いものがあると拳を当てて鍛えるようになった。
そして隣町に極真の道場ができると親に通わせて欲しいと頼んだ。
母親は、800人中、300~400番くらいの成績だった息子に
「100番以内に入ったら許します」
といった。
すると60番まで上がった。

1976年6月12日、松井章圭は13歳で極真に入門した。
家からバスで30分のところにあった極真会館千葉北支部流山道場は、20畳ほどのプレハブ小屋で、指導していたのは加藤重夫だった。
加藤重夫は、155㎝50㎏。
160㎝60㎏の松井章圭より小さかった。
16歳のときに大山道場に入門。
高校卒業後、豊島区役所に勤務するも空手に熱中するあまり8ヵ月後に退職。
血まみれになりながら稽古を続けた。
そして相手の蹴りや突きを肘で受ける受け技「落とし」を体得。
国内だけでなく、オーストラリア支部へ派遣され指導を行った。
また映画「007は二度死ぬ」で、姫路城の屋根の上のシーンを演じた。
加藤重夫は松井章圭に入門の動機を聞いた。
「将来、空手家になりたいんです。
極真空手を一生続けていくつもりで来ました」
「よし、わかった。
それならば
お前は極真のチャンピオンになりたいんだな?」
「はい」
「よし、がんばれよ。
そのかわり今日から『つらい』『苦しい』『痛い』という3つの言葉だけは絶対にいうな。
できるか?」
「はい」

松井章圭はさっそく練習に参加した。
まず
「押忍」
という挨拶の仕方を覚えた。
そして稽古は神前への礼、師範への礼、門下生同士の礼から始まった。
準備体操が終わると拳立伏せ、腹筋、背筋などの補強運動。
そして基本稽古に入る。
正拳突き、裏拳、肘打ち、手刀、上段受け、中段外受け、内受け、下段払い、前蹴上げ、内回し蹴り、外回し蹴り、膝蹴り、金的蹴り、前蹴り、横蹴り、関節蹴り、後ろ蹴り、回し蹴り・・・
各30本、気合をかけながら行う。
その後は深く腰を落としたまま移動し、連続して基本の技を出す移動稽古。
「苦しいときこそ足の親指に力を入れろよ。
親指があらゆる技を出すときの源なんだからなあ」
加重夫の怒声に
「押忍」
と全員が答え、汗にまみれながら動いた。
「いいか、苦しくなってきてからの頑張り、すなわち一枚腰ってやつは誰だって持ってるんだ。
これを乗り越えて次にやってくる苦しさで半分のやつは音を上げるんだ。
ここまでが二枚腰ってやつだ。
さらに苦しさが増す。
だがさらに自分を追い込んで逃げないやつ。
根性で食らいついてくる人間。
こいつこそが三枚腰の人間なんだ」
「押忍」
移動稽古後は、2人1組で攻撃側、防御側に分かれて技をかけあう約束組手。
その後、さらに型の稽古を行う。
そしてやっと組手となる。
直接技を当て合う直接打撃制の組手を1~3分、相手を変えながら行う。
加藤重夫は、入ったばかりの松井章圭にも組手を命じた。
相手は緑帯を締めた同じ中学校に通う同級生だったが、松井章圭は突きで押しまくられ、鼻に蹴りをもらった。
鼻血を出して倒れたが、痛みや屈辱よりも
(やっぱり極真は強い)
という感動と興奮のほうが大きかった。
組手が終わると柔軟体操を行う。
そして正座して黙想。
全員、大きな声で道場訓読み、礼をして稽古は終わった。
その夜、松井章圭は自宅の鏡の前に買ったばかりの左胸に紺色の糸で「極真会」と刺繍された道着を着て立った。
「俺は絶対に黒帯になる」
20㎝の距離があればハイキックが蹴れる
厳しい極真空手の稽古に強くなりたいと門をくぐったはずの多くの人間が道場から遠ざかった。
しかし松井章圭は稽古を1日も休まなかった。
稽古時間の30分前に道場にいき個人稽古。
稽古中は、加藤重夫との約束通り、どんなつらい稽古にもキツい表情をみせず、やり抜いた後も得意がることなくポーカーフェイスで押し通した。
しかしその目は輝いていた。
通常の稽古が終わった後は居残り稽古。
そして帰宅した後は、夜の縄跳び1000回、風呂に入った後の入念なストレッチを欠かさなかった。
入門3ヵ月後、加藤重夫は松井章圭に、
・目隠しサークルシャドー
・合わせ技
・下段回し蹴り禁止
という3つの特訓を与えた。
目隠しサークルシャドーは、床にチョークで直径3mの円を描き、その中に目隠しした2人が入り、3分間、相手を想定したシャドー組手を行う。
これにより恐怖心の克服、高い集中力を養う。
合わせ技は、蹴り技で攻めてくる相手の軸足を蹴って倒すことで、相手が蹴り技を仕かけてくる瞬間、相手の技を読み切るのと同時に地を這うような蹴りで相手の軸足を蹴る。
スピード、フットワーク、瞬時に相手の技を読む力が要求される。
下段回し蹴り、つまりローキックは、フルコンタクト空手では主力の技だが、加藤重夫は、松井章圭に中段から上の多彩な蹴り技を完璧に身につけさせるために下段回し蹴りの使用を禁止した。
やがて松井章圭は、壁に向かって立って20㎝の距離があれば、左右の上段回し蹴りが蹴れるようになった。
極真史上最年少の黒帯
千葉県の一宮海岸で行われた夏合宿に参加したとき、松井章圭は神のように崇拝する大山倍達を初めて生でみた。
合宿2日目の夜、大山倍達は、サングラスに道着のズボン、白いランニングシャツで登場し講話を始めた。
白帯の松井章圭は最後列だったが、一言も聞き漏らさないように正座したまま話を聞いた。
「バシッ!」
技を説明するために大山倍達が左手に右肘を打ちつけると、全身が反応した。
「君たち、1度立ち会ったら1発で相手を倒さなければならないよ」
大山倍達の講話が終わっても松井章圭は正座を崩せなかった。
白帯の松井章圭が初めて昇級審査に参加したとき、再び神と遭遇した。
審査課題の中に「拳立て伏せ×50回」があったが、松井章圭は42回しかできなかった。
すると審査に来ていた大山倍達が声をかけた。
「君は何回やったんだね?」
「押忍、42回です」
大山倍達は激しく怒った。
「なんでそのあと8回ができないのか。
死ぬ気になればできるよ」
松井章圭は、落ち込んだ。
自分の取り組み方が甘かったと、夜の縄跳び1000回、風呂に入った後のストレッチに加え、腹筋、背筋、拳立て伏せも毎日行うようにした。
こういった得意な部分を伸ばすことよりも、自分の弱点の克服に全力を尽くす稽古の方向性も、松井章圭の特徴だった。
中学3年生になり茶帯の昇級審査を受けた松井章圭は、再び大山倍達に声をかけられるになる。
基本稽古、移動稽古の審査ではひときわ高く美しい蹴りを、組手の審査では、大人を相手に、跳び2段蹴り、後ろ回し蹴り、上段回し蹴りを連続的に繰り出して華麗な組手を行った。
「君、ほんとに14歳?」
「押忍」
「うーん」
と大山倍達は唸り
「君は必ず強くなるから頑張って稽古しなさい」
と励ました。
こうして入門1年という異例の速さで茶帯に昇級した。
極真空手の帯は、白帯から、青帯、黄帯、緑帯、茶帯と昇級していき、有段者になると黒帯となる。
黒帯の端には締めている者の段位を、初段なら1本というように金糸の線が刺繍され、段位が上がる度に1本ずつ増えていく。
この頃、黒帯になれるのは、門下生数百名に1人だった。

茶帯になった松井章圭は、加藤重夫に、大山倍達が直接指導し、圧倒的な強さを誇る総本部道場への出稽古を申し出て快諾された。
こうして許可を得た翌日、新しい茶帯を巻いた道着をもって電車で東京へ向かった。
地下のロッカールームで着替え、稽古が始まった。
加藤重夫の指導では、基本稽古は1つの技が30~50本だが、総本部は、そんな数では終わらず、最後の回し蹴りは500本だった。
組手稽古が始まると、最初の相手は、自分より体の小さな茶帯だった。
太鼓が鳴り構えた瞬間、右の顔面に衝撃が走り視界が曇った。
相手の左上段回し蹴りをもらっていた。
次の瞬間、体が宙を舞い背中に衝撃が走り息が詰まった。
相手は松井章圭の襟をつかんで体落としで床に投げつけていた。
「大丈夫か」
遠くに相手の声が聞こえた。
次の瞬間、腹部に強烈な痛みが走り完全に息が止まった。
相手は松井章圭の腹部に極めの足蹴りをめり込ませていた。
この後の組手でも、松井章圭は突かれ、蹴られ、投げられ、踏まれ続けた。
自分の技はまったく決まらず、逆に相手の技は1つ1つが、速く、痛く、重かった
当時の総本部の組手は、失神しても殴る、蹴るという激しさだった。
門下生は
「死んでしまうかもしれない」
という恐怖心に潰されるかバネにできるかだった。
やっと稽古が終わると、松井章圭は、逃げるようにして総本部を飛び出し電車に乗って帰宅を急いだ。
車中で涙が出た。
(もうやめようか)
入門以来はじめて極真空手をやめることを考えた。
しかし数ヵ月後の1977年10月、入門して1年4ヵ月の松井章圭は昇段試験を受け、合格し、黒帯になった。
まだ中学生の極真史上最年少の黒帯だった。
ワルにもガリ勉にもスポーツ系にも顔が利く優等生

黒帯になった松井章圭に対し、母親は高校受験のために半年間、極真空手の稽古をやめさせた。
しかし空手ができないことで逆に勉強に集中できず成績は落ちた。
志望校のランクを下げて受験するも不合格。
2次募集で東京の東洋大学京北高等学校へ進学し、在学中、成績は5番以内をキープした。
自分から極真空手の黒帯だということを話すことはなかったが、下級生をイジメていた上級生も松井章圭の前ではおとなしくなった。
進学校でありながらスポーツにも力を入れていた京北高校は、進学志望、スポーツ、ワルが混在していたが、
「まだ親に養われて自立もできていない奴が親に心配かけちゃいけない」
「靴の踵を踏んではいけない」
「制服の襟のボタンを外してはいけない」
「いいかげんな生活態度だと空手も強くなれない」
そんなことを平気でいい、すべての分野でトップクラスの松井章圭はいいまとめ役だった。
受験に成功し道場に復帰した松井章圭は、自分の修行を行いながら、道場に3人しかいない黒帯の1人として大人を含めた門下生の指導も行った。
いつもポーカーフェイスで、わかりやすく技を説明し模範を示す松井章圭だったが、ツッパリや不良が入門してくると組手で痛めつけた。
ただ同じツッパリや不良でも1人で大勢と戦うような人間は受け容れたが、ハッタリだけで威嚇するタイプの人間は容赦しなかった。
またたるんだ練習を行う人間にも厳しかった。
1978年10月、入門時160㎝60㎏だった体が174㎝80㎏になった松井章圭は初めての試合、第1回東北大会へ出場した。
極真空手の試合では、技のダメージで相手の動きを3秒止めると「1本」、一瞬でも止めると「技あり」、技あり2つで「1本」が宣告される。
また本戦で決着がつかなかった場合、2分間の延長戦が2回まで行われる。
これでも決着がつかない場合、体重差が10㎏以上ある場合は、軽いほうが勝ちとなる。
体重差がない場合、事前に行われる杉板の試し割りの枚数が多いほうが勝ちとなる。
1回戦、過度の興奮と緊張で、下段回し蹴りと合わせ技しか出せないまま、なんとか判定勝ち。
しかし右足の親指を骨折していた。
2回戦も何とか勝ったが、3回戦で後ろ蹴りを腹にもらって負けた。
骨折した箇所をかばいながら乗り込んだ帰りの電車は込んでいて、上野駅まで4時間、立ったままだった。
最強の中村誠
松井章圭は、加藤重夫の指示で、週2回、総本部で行われる黒帯研究会、通称「帯研」へ出稽古することになった。
帯研は、金曜日の夜と日曜日の昼に黒帯が集まる合同稽古で、指導は大山倍達が行った。
2年前、逃げるように帰った総本部の門を再びくぐった。
松井章圭を含めて支部からきていた黒帯は6名いたが
大山倍達は彼らに
「支部からきた黒帯は3ヵ月間は茶帯研究会の方で稽古するように」
と命じた。
松井章圭は、茶帯研究会の練習にはついていけた。
しかし総本部の茶帯の筋肉質な肉体には驚かされた。
また彼らは、たとえ組手で劣勢でも、決して弱気になることはなく戦い続けた。
3ヵ月後、帯研へ参加が許されたとき、6名いた支部から出稽古に来ていた黒帯は、松井章圭を含め2名になっていた。
このときの帯研は、第2回世界大会へ向けての強化合宿も兼ね、日本代表の選手が参加していた。
その中でも、全日本大会で優勝したばかりの中村誠の強さは群を抜いていた。
大山倍達は、中村誠に100人組手を命じた。
そして8月26日13時、中村誠は100人組手に挑戦。
松井章圭も、その相手となったが、中村誠は35人目で断念した。
しかし世界大会では中村誠は「重戦車」のような強さで優勝した。
100人組手の凄まじさを目の当たりにした松井章圭は、毎日やっていた自宅でのトレーニングを、ウエイトトレーニング器具を購入し、ベンチプレスを30㎏×1000回、腹筋×500回、背筋×500回にボリュームアップさせた。
また道場へは稽古開始1時間前を目標に行き、相手を見つけて組手を行った。
総本部の強さの理由の1つが「稽古量」にあると悟ったからである。
そして前年3回戦で負けた東北大会で5位に入賞した。
vs 緑健児
第1回千葉県大会で、松井章圭は、1、2回戦を判定で、3、4回戦を1本で勝った。
そして続く準決勝で、城南支部の緑健児と対戦した。
緑健児は、165㎝55㎏と体は小さかったが、その足技はパワフルでダイナミックだった。
試合は、蹴りが得意なもの同士、ハイレベルな足技の攻防となったが、松井章圭のハイキックに緑健児が前蹴りを合わせたとき、バランスを崩しクルっと1回転してしまった松井章圭は体勢を崩したままパンチを放った。
これが緑健児の顔面を直撃した。
この一撃にキレた緑健児は、冷静さを失いケンカ腰で前に出続けた。
そして松井章圭に前蹴りをボディに入れられ、苦しくて動けないところを容赦なく攻められサンドバッグ状態になった。
試合は松井章圭の判定勝ちだった。
決勝戦で松井章圭は、加藤重夫の道場の先輩で、プロのキックボクシングの試合にも出場していた五十嵐裕己に敗れた。
加藤重夫は手紙で、大山倍達に、高校3年生の松井章圭を全日本大会に出場させてほしいと頼んだ。
大山倍達は加藤重夫を呼び出した。
「高校生を出させてケガでもしたらどうするんだ」
しかし加藤茂夫は一歩も引かず、2時間の押し問答の末、大山倍達が折れた。
この手紙は大山倍達の死後も机の中にしまってあった。
そんな経緯を知らない松井章圭は、全日本大会出場を喜び、スタミナ不足という弱点を克服するため、毎日、3㎏のウエイトベルトをつけて5㎞を走り始めた。
最年少(17歳)全日本大会初出場 4位
1980年11月、第12回全日本大会に、松井章圭は最年少で出場した。
1回戦、右上段回し蹴りで1本勝ち。
2回戦、判定勝ち。
3回戦、跳び後ろ回し蹴りで技ありを奪って勝った。
4回戦、前年の全日本大会6位の三好一男に2回の延長戦の末、勝利。
準々決勝戦も2回の延長戦の末、判定勝ち。
準決勝は、第2回世界大会2位の三瓶啓二の下段回し蹴りの連打の前に本戦で判定負け。
3位決定戦でも集中的に下段回し蹴りで攻められ負けた。
しかし従来の突きと下段回し蹴り主体の空手ではなく、上段、中段蹴りで攻撃する松井章圭の組手スタイルは強烈なインパクトがあった。
大山倍達は
「あれが極真空手の目指す華麗な空手である」
と称えた。
全日本大会優勝を目標に松井章圭は計画を立てた。
(大学に進学したら東京でアパートを借りて総本部へ移籍する)
そして中央大学商学部経営学科への入学を決めた。
結局、松井章圭は13歳から18歳まで加藤重夫の指導を受け、18歳から総本部道場へ移り大山倍達の指導を受けた。
大学進学、総本部移籍

1981年の春、大学に進学した松井章圭は、西池袋に古い木造2階建てのアパートに引っ越した。
若獅子寮に住む内弟子と朝稽古と朝食を共にした後、大学に通い、授業のない日は昼間も稽古に励んだ。
1食で3人前を食う松井章圭の胃袋は、月10万円の仕送りをすぐに消化した。
お金があるときは、安いラーメン屋に通い、お金が減ってくると、そのラーメン屋でどんぶり飯だけ注文し塩コショウをかけた。
さらにお金が無くなってくると、インスタントラーメン。
たまに若獅子寮でご飯を盗み食いした。
「400㏄献血すると1万円もらえる」
といわれ採血され待っていると、慢性的なオーバーワークのため肝機能障害という検査結果が出たため、現金ではなく牛乳を1パックもらって帰ったこともあった。
着るものは、総本部に武道具メーカーやスポーツメーカーが持ち込んだ試供品で間に合わせ、冬はミズノのジャージ、夏はTシャツに道衣のズボンにサンダルでどこへでも出かけた。
在日であることを隠さず

松井章圭は、高校を卒業した後、大学へ進学と同時に極真会館の総本部に移籍したが、このときから「松井章圭」という通名(外国籍の者が日本国内で使用する通称名)ではなく「文章圭」という本名で大学へ通い出した。
黒帯の名前も「松井章圭」から「文章圭」にした。
偏見はびこる日本社会で、自らの出自を公にしたのだ。
また在日本韓国学生同盟に加盟し、同年代の同胞を交流を深めた。
中国に属国とされ、日本に植民地とされた歴史、中国の漢字を拒否しハングル文字をつくった誇り高き母国の文化、そして韓国語を学び始めた。
しかし大山倍達は、松井章圭に日本への国籍変更を求めた。
「どうして自分で自分の民族を否定するようなことをしなければならないんですか」
「そう深刻に考えることじゃないんだ。
日本に住んでいる以上、便宜上、日本の国籍を取得するだけなんだよ」
「便宜上であればなおさら日本の国籍を取得する必要はありません」
「君は将来、私の片腕となって働かなければならない。
そのときに韓国籍ではどうしても困るんだ」
その後もたびたび大山倍達は松井章圭に国籍変更を迫った。
松井章圭は、
「総裁は自分の国に生まれて自分の国の言葉を知っていて民族の習慣や歴史やすべてを身をもってご存知です。
総裁は中身の詰まった韓国人なんです。
ですから日本の国籍に変更するというのは、おっしゃる通り日本人の衣を着るということだけなのかもしれません。
けれども私は日本で生まれ日本の教育を受けて日本の名前で今まで生きてきたんです。
その私から国籍というものを除いたら一体何が残るんですか。
民族を証明する根拠そのものがなくなってしまいます」
松井章圭は、日本に住み日本で活躍する「在日」という生き方にこだわりと誇りを持っていた。
力道山は、プロレス界の英雄なのに朝鮮人であることを隠し続けた。
一方、張本勲は、韓国人2世であることを隠さずプロ野球で第一人者となり、日本でも韓国でも英雄になった。
松井章圭の理想は後者だった。
清濁併せ呑む
若獅子寮に住む内弟子の修業は、1000日行といわれ、1日24時間空手漬けの生活を3年間続けて卒寮となる。
総本部周辺の清掃の後、6時から5㎞のランニング。
このとき踏切などでは、腕立て伏せを行う。
その後は坂道ダッシュを数本。
縄跳び。
腹筋、背筋、拳立て伏せ、スクワット。
当番が朝食を作っている間、他の者は道場に整列し寮歌を合唱。
朝食後は、館内の清掃。
9時30分、整列して大山倍達を待って朝礼。
その後は昼まで、受け付け、電話番など各自の仕事を行う。
昼食後は、週2回、内弟子稽古。
深夜まで続く稽古が終了するのを見届け就寝する。
毎年、全国から100名の応募があり、約10名が選ばれ入寮するが、脱走者が続出し年末には3、4名になった。
卒寮すると国内や海外の支部道場に指導員として派遣された。

内弟子を含め、総本部で修行をする者は、厳しい稽古に耐えているという誇りがあった。
また比較的アットホームな雰囲気で修行する支部を見下す者もいた。
支部出身の松井章圭は、一部の総本部の先輩たちからかわいがりを受けた。
腕を組んで話を聞いていると殴られ、目をみて挨拶すると殴られた。
そして組手では全力で倒しに来られた。
松井章圭は、理不尽な行為も総本部の習いと受け容れた。
「逃げることは許されない。
強くなって年に1度の全日本大会で堂々と決着をつけてやる」
一部の先輩の私的な制裁に耐えながら、飲めない酒を無理に流し込んだり、雑念を払いのけようと稽古に励み、なんとか総本部に溶けこもうと努力した。
夏の合宿では腕相撲大会が行われ、松井章圭は、理不尽なイジメを行ってくる先輩と対戦。
双方、ケンカ腰で勝負し、松井章圭は、1勝2敗で敗れたが、精神的には一歩も退かなかった。
また総本部で松井章圭は、マンガや本を通して憧れていたスター空手家に接っすることが多かったが、虚像と実物のギャップに愕然とさせられることもあった。
松井章圭は
「人間には表と裏がある。
人間を理解するには『清濁併せ呑む』ということが大切」
と考えるようになった。
清濁併せ呑むとは、善人でも悪人でも、来る者はすべて受け入れるという度量の大きさのことである。
ウエイトトレーニング開始

松井章圭は、先輩から永田一彦トレーナーを紹介され、指導を受けるようになった。
永田一彦は、
パワーリフティングの日本記録者で、
「人間には計り知れない潜在的パワーが宿っている」
という信念を持っていた。
弱音を吐くジム生を3階のベランダの手すりにぶら下げ、泣いて救いを求められても、生まれて1度もできなかった懸垂ができるまで、冷ややかに眺めていた。
サーキットトレーニングなど合理的なメニューに加え、2時間ブッ通しのスクワット、腕立て伏せ300回×3セット、腕立て伏せの姿勢で何分耐えられるかなど一見不合理的なトレーニングも行い「鬼の永田」と呼ばれた。
筑波大学大学院体育研究科コーチ学を専攻しスポーツ医学学際カリキュラム修了、現在、Nメソッドネットワーク代表で永田式鍼灸柔整院院長である。
永田一彦のジム「ワークアウト」は山手線の五反田駅から徒歩5分のところにあるビルの3階にあったが、総本部に居場所がなかった松井章圭は、ジムの片隅のビニールマットで寝泊まりした。
また通常、ジムで必要なのは、ウェアとシューズとタオル、水分だけだが、松井章圭は、筆記用具と稽古&トレーニング日記を持っていた。
出会い
また松井章圭は、週1回、埼玉県の川口駅近くのビルの地下にあった盧山初雄の道場へも出稽古に通った。
この頃の極真の道場は、科学的なトレーニング、合理的な考え方を取り入れ西洋化していくのが一般的だった。
しかし盧山道場の稽古は独特だった。
まず中国拳法の修行法である立禅、這い。
立禅は、高い椅子に腰掛けるように中腰になり、踵を少し浮かし足親指の付け根に重心をかける。
両手で大きなボールをかかえるように円をつくる。
顎は軽く引いて、目は軽く開きやや上の方を観て、意識を遠くに放つ。
頭は、天から吊り下げられている感覚、脚は、地面の中に埋まって根を張っている感覚で、この姿勢を20~30分続ける。
人間の内的な力(潜在能力)を強化し、瞬間的な爆発力(気の力、火事場のバカ力)を養成するのが目的である。
這いは、立禅の姿勢のまま、ゆっくり歩を進める鍛錬法
両腕は上げたまま、腰を落としたまま、ゆっくり前後に歩を進めることは非常にキツい。
しかし下半身の鍛錬はもちろん、骨盤を中心にした重心移動を体感することができ、実戦の速い動きの中に生かすことができる。

そして極真空手の基本、移動、型、組手を行った後に、砂袋(砂が入った麻袋)に、拳、手刀、肘、膝、脛、背足(足の甲)、中足(足の親指の付け根)を、それぞれ1000回打ちつける部位鍛錬を行った。
稽古の後、盧山初雄に連れられていった埼玉県の南浦和駅前の焼肉店「トラジ」で、松井章圭は、後に結婚する韓幸吟と出会った。
幸吟の母親、任福順は、松井章圭の父親と同じ済州島出身で、兄の韓明憲、妹の幸吟が小学生のときに父親は亡くなり、その後はパチンコ店の清掃などをしながら貯めたお金でトラジを開いた。
松井章圭は、たびたびこの焼肉店に通い、任福順が用事ができれば留守番を買って出たり、注文を取ったりして店を手伝った。
1981年の秋、サッカー・ワールドカップ・スペイン大会のアジア・オセアニア予選で、日本代表と北朝鮮代表戦が対戦。
朝鮮高級学校時代にサッカー選手だった韓明憲は、2歳下の松井章圭を誘って、代々木国立競技場に北朝鮮代表の応援をしにいった。
すると韓国籍と北朝鮮籍の在日コリアンの合同サポーターが、銅鑼やチャンゴを鳴らして北朝鮮代表の応援をしていた。
大雨の中の試合は、北朝鮮のゴール前の水たまりで止まったボールを日本が蹴り込んだゴールが決勝点となった。
試合終了後、松井章圭は、涙を流した。
その後、高校を卒業し池袋の銀行に勤め始めた韓幸吟が、偶然、池袋駅前で松井章圭と再会したことから付き合い始まった。
パンチ開眼
松井章圭が孤独な戦いを続けていた総本部に、渡邊茂というとんでもない男が入ってきた。
そして松井章圭同様に本部の洗礼を受けるが、松井章圭とは違うやり方で戦った。
渡邊茂は、プロスキーヤーをしながら中央大学で教員免許を取得し、卒業後、プロボクサーになり、新人王戦で準優勝。
ジムの先輩で、世界チャンピオンだったガッツ石松に
「お前のパンチはデュランより強いよ」
といわれた。
ロベルト・デュランは、「石の拳」といわれた強打、野生的な戦闘スタイル、怪物的な強さで3階級を制覇した伝説のチャンピオン。
ガッツ石松もその拳の前に沈んだ1人だった。
ボクシングをやめた後、渡邊茂は、池袋一帯でヤクザにケンカを売っては殴り倒し、金を巻き上げていた。
やがて中村誠の住むマンションの1階にあった24時間営業の喫茶店の副店長になった。
そして中村誠に強引に道場に連れていかれ、23歳で入門した。
そして初めての組手で、全日本大会で上位クラスの選手たちをパンチだけで倒していった。
大山倍達は、渡邊茂を大変気に入り、黒帯を締めることを許した。
その上、10万円の給料で指導員を頼んだ。
破格の待遇を受けたド新人が気に入らない総本部の先輩たちが、ある夜、渡辺茂を公園に呼び出した。
「指1本でも触れたら2度と空手のできない身体にしてあげるからね。
全員でかかってきなさい。
今日は腕の1本や2本はあげるよ」
先輩たちは捨てゼリフを吐いて去った。
渡邊茂に返り討ちにあい、しばらくおとなしくしていた先輩たちだったが、やがて再び門下生イジメを行うようになった。
すると今度は渡邊茂がリーダー格の先輩のアパートを急襲。
「殺すぞ」
その先輩は泣きながら土下座して許しを乞うた。
松井章圭が渡邊茂と初めて会ったのはワークアウトだった。
「自分にはないキレたら弾け飛ぶような猛々しさ」
を感じた松井章圭は組手を申し込んだ。
渡邊茂はガードした松井章圭の腕や肩のつけ根にバチッバチッと強烈なパンチを、すさまじいスピードで打ち込んだ。
(このパワーで顔面に打ち込まれたら・・)
松井章圭は恐怖で動けず技が出せなかった。
ガードへの攻撃が続き、松井章圭は両腕に強烈な痛みを感じ、やがて神経まで麻痺しはじめた。
痛みと痺れで両腕の機能を失った松井章圭はガードを固めたまま固まってしまった。
それをみた渡邊茂は攻撃をやめていった。
「な、後は滅多打ちにして倒すだけだろ」
その後も松井章圭と渡邊茂の組手は何回か行われた。

ある日の深夜、五反田駅前の歓楽街で1人で酒を飲んでいた渡邊茂が、通りすがりのヤクザ5名をからかったことからケンカになった。
たちまち3名が血祭りにあげられ、1人が組事務所に連絡。
ドスなどの道具を持った10名の応援がかけつけ、大乱闘となった。
素手の渡邊茂が、さらに5名を戦闘不能にしたとき、パトーカー十数台が到着。
ヤクザたちはすぐに戦闘態勢を解いたが、熱くなった渡邊茂は収まらず、警官に包囲された。
上官が許可し、銃に取り囲まれて、ようやく手錠を受けて連行された。
6名のヤクザが病院送りになった。
新聞やテレビのニュースにもなった事件の話を聞いて永田一彦はいった。
「なんでヤツを射殺しなかったんだ」
数年後、渡邊茂は極真を退会。
アメリカの大学で運動生理学を学び、帰国後、大学の講師などを務め、ボディビル日本代表にもなり、現在は整体院を開いている。
1981年11月、第13回全日本大会が東京体育館で開催された。
総本部に移籍して初めての全日本大会だった。
昨年は、準決勝で三瓶啓二に敗れ4位だったので、松井章圭の目標は「打倒!三瓶」だった。
しかし準決勝で三瓶啓二と対戦し、突きと下段回し蹴りで攻められ本戦で判定負け。
3位決定戦は判定勝ちし3位となった。
松井章圭は、週1回、城西支部の道場への出稽古を開始した。
城西支部長の山田雅稔は、4名の(体重無差別の)全日本チャンピオンと5人の全日本ウエイト制チャンピオンを育てていた。
松井章圭は、これまで経験していなかった新鮮な練習を体験した。
まず当てる寸前でパワーダウンさせるスパーリング。
これによって力まず正確なフォームで技を当てることができた。
そして連続攻撃の練習は、数十種類のコンビネーションをミットをつかって反復練習。
練習は、ビデオ撮影され、後で観て技をチェックした。
またこれまで松井章圭は、低~中負荷×高回数(軽い重さを多くの回数反復させる)方法だったが、高重量低回数(重い負荷重量を少ない回数反復させる)ウエイトトレーニングを教わった。
松井章圭は、渡邊茂とのスパーリング以来、自分の「突き」、つまりパンチの技術と力の無さを悩んでいた。
また自分が2年連続で負けた三瓶啓二を、同い年の増田章が、パンチの連打で圧しているのをみたことも劣等感の原因となっていた。
増田章は三瓶啓二の巧さに判定で敗れたものの、与えたダメージは圧倒的に勝っていた。
松井章圭は、突きだけの組手や、1、2時間ブッ通しでサンドバッグ打ちを行ったりしたが、成果は上がらなかった。
あるとき永田一彦が吉留一夫という元プロボクサーを紹介した。
練習初日、吉留一夫は自分の持つミットに思い切りパンチを打ち込ませてみた。
松井章圭は渾身の力で打ち込んだ。
「続けて!」
という声に何度も打ち込んだ。
ミットを下げた吉留一夫は
「フライ級(-50.8㎏)のパンチより軽いね」
と85㎏の松井章圭にいった。
次に吉留一夫は、松井章圭にミットを持たせて自分がパンチを打ち込んだ。
「バチーン」
乾いた音が響いてミットに重い衝撃が走った。
「なんでパンチが弱いかっていうとね、足腰が決まっていないから、蹴り足のパワーがスムーズに拳に伝わらないんだよね。
つまり力で打ってんだよなあ」
こうして松井章圭のパンチ修業が始まった。
まず利き足を下げた状態で自然態で立つ。
次に胸に大きな卵を抱える感じで両肘を締めて腕の位置を決める。
拳は顔面をガードするように両頬のやや前に置く。
ファイティングポーズが決まるとフットワークである。
後ろ足でマットを蹴って、1歩前進。
さらに2歩、3歩、4歩、5歩と前進。
このとき歩幅とファイティングポーズが乱れてはいけない。
前進ができるようになったら同じ要領で後退。
さらに同じ要領で前後左右斜めに自由自在に動けるようになるまで反復。
これができたらワンステップごとにジャブを打つ。
ステップして止まって腰を決めてジャブ。
これを繰り返す。
ここまで蹴りだけで勝ってきた松井章圭は、腰がふらつき、足元がブレ、パンチは的が定まらなかった。
丸一日フットワークの練習に没頭すると、1週間後にはステップしてワン・ツーが打てるようになった。
さらに1週間後、ステップと同時にワン・ツーを出しても、腰も足もパンチもブレなかった。
爪先で地面を蹴ったパワーが腰に伝わる
そのとき腰を切って(回転させて)、同時に肩を内側に入れて、脚が生んだパワーがスムーズに腰、背骨、肩、腕、拳と伝達する。
3週間後、吉留一夫はいった。
「パンチが切れてるよ!」
松井章圭は、さらに防御、フック、アッパー、ボディブローの基本、そしてコンビネーションを習っていった。
ファーストキス
永田一彦は、プロボクサーをやめたあとニューヨークへ行き、帰国後、今度はインドを放浪した。
そこでグルに出会い、瞑想生活を入り、悟りの境地を目指した。
帰国後も瞑想の道場に通い、さらにヨガも始めた。
松井章圭に比べ、厳しさや切迫感もなかったが、2人は共に「超人」というテーマに魅せられていた。
インドのヨガ行者が悟りを得んと、精神と肉体を酷使する破天荒な修行法の話を松井章圭は目を輝かせて聞いた。
そして吉留一夫がマネージャーを務める風俗店のサクラ兼用心棒のアルバイトもした。
ある日の閉店後、女性従業員の部屋で飲み会が行われたとき、
「松井が日本一になれないのは女を知らないせいだ!
誰か筆下ろしの相手をしてやんなよ」
「キスだけならいいよ」
という話になった。
松井章圭は首と手を振って遠慮したが
「全日本大会で勝ちたければキスさせてもらえ」
といわれ
「みんなに見られるのは恥ずかしい」
とハンカチで隠して唇を合わせた。
減量
「裸の大将」
永田一彦のジムで、松井章圭はそう呼ばれていた。
強い筋肉の上に適度に脂肪を蓄えたからだ。
しかし
「ボクサーは普段から厳しい節制と練習で無駄のない肉体と集中力を養っている。
それでも試合前にさらに4、5㎏落とすのは絶対必要なんだよね
スピードや反射神経は格段に上がるし、殺戮本能や闘争本能を掻き立てるんだ」
と吉留一夫がボクサーの減量について話すのを聞いて
(減量にチャレンジすれば新しい世界が拓けるかも・・)
と
「1週間で10㎏減量します」
と宣言した。
期間は8/15~21。
減量開始時の体重は80㎏。
1日の食事は、ドレッシングなしのサラダと紅茶。
必要最低限のミネラルとビタミンをサラダから、水分補給も利尿作用のある紅茶から-という計画だった。
朝、5㎞のランニング。
朝稽古。
午後、一般稽古。
ジムでウエイトトレーニング。
行人坂(目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂)まで5㎞のランニング。
100mの坂を20本ダッシュ。
ジムまで戻って縄跳び
そして吉留一夫とボクシングの練習。
苦しくも心地よい飢えの感覚と共に3日で6㎏落ちた。
しかしやがて急激に体力が低下。
ウエイトトレーニングは、まったくウエイトが挙がらなくなった。
そして渇きの苦しみが襲ってきた。
5日目になると、酷暑の中でナイロンのウェアを着て行人坂まで走っても汗が出なくなった。
そのとき体重は71㎏だった。
残り1㎏。
7日目の最終日、午前と午後のトレーニングの後、体重計に乗ると70.5㎏だった。
残り500g。
再びナイロンウェアを着て走りに出た。
戻って裸になって体重計に乗ると70㎏だった。
すぐに自販機でジュース6本をがぶ飲み。
そして食事をした。
体重を測ると73㎏だった。
しかしその後の試合では自分のベスト体重で挑めるようになった。
大切なのは肉体的な強弱だけではない
1982年11月13~14日、第14回全日本大会が行われた。
松井章圭は2回戦で、初めて「突き」で技ありをとって判定勝ちした。
準々決勝で増田章と対戦。
そのパワフルな突きと下段回し蹴りに体ごと持っていかれそうになりながらも、増田章が蹴りを出すとその軸足を、突きを出すときに重心がかかる前足を蹴り、技を合わせていった。
そして
「やめ」
と主審に開始線に戻され
「はじめ」
といわれた直後、飛び出してきた増田章の右の顔面を松井章圭の右足の踵が蹴った。
後ろ回し蹴りだった。
しかし増田章は倒れず、その後も猛攻を続けた。
結局、3度の延長戦の後、試し割り判定で松井章圭が勝った。
3年連続で進出した準決勝の相手は、水口敏夫。
増田章で燃え尽きてしまった松井章圭は、本戦と2度の延長戦を引き分け、試割り判定で敗れた。
控室へ戻る途中で加藤重夫に怒鳴られた。
「自分から攻撃しなければ体重判定で負けることくらいわかっていながら前に出なかっただろう」
(大切なのは肉体的な強弱だけではない。
追いつめられて弱気になったり、萎えてしまったときに、もう一息、頑張れるかどうかだ)
気持ちを切り替えた松井章圭は、3位決定戦を判定勝ちした。
総本部指導員となる
第14回全日本大会の後、総本部に君臨していた2大王者、中村誠と三瓶啓二は、それぞれ兵庫県と福島県の支部長となり去った。
そして松井章圭が総本部の指導員に昇格した。
「押忍」
下の者にも挨拶されれば必ず
「押忍」
と返し、
「見て、殴られ、蹴られて覚えろ」
方式だった指導も
「では正拳の握り方を解説します。
拳をつくって人差し指と中指のつけ根から第一関節にわたる部分が正拳です。
正しい握り方は、手を大きく開いた状態から小指から人差し指まで4本のそれぞれの指先が、それぞれの指のつけ根にピッタリつくように巻き込みます」
などと解説し指導した。
また選手としてトレーニングと稽古も怠らなかった。
現役時代の松井章圭は、1年間を春夏秋冬の4期に分け、それぞれ目的を明確にしてトレーニングと稽古を行った。
春
ウエイトトレーニングで基礎体力づくり。
決して体が大きくない松井章圭が試合で勝つためにはパワーアップがカギだった。
夏
暑さや、暑さによるオーバーワークを避けるやり方もあるが、松井章圭は夏にトレーニングの量を増やした。
ランニングもカッパを着て、減量が狙いではなく失った水分はどんどん補給しながらガンガン走った。
夏にどれだけ練習量を増やすことができるかもテーマだった。
暑い時期にたくさんトレーニングを行うと疲労で動きは悪くなるが、秋の試合には体に充実感がみなぎった。
秋
体ができてスタミナもついたところで大会に向けて調整に入る。
(極真空手では、毎年の全日本大会、4年に1度の世界大会は、秋に行われる)
第3回世界大会 3位
1983年11月12~13日に行われた第15回全日本は、翌年1月の第3回世界大会の日本代表選考会も兼ねていた。
日本代表は、全日本大会8位以上+大山倍達が推薦する3名。
松井章圭は構えを変えた。
これまでの「前羽の構え」から、左拳を軽く握ってやや上段に、右はしっかり締めた肘の上に拳が置かれた状態。
下半身は、やや後ろにあった重心がやや前方になっていた。
前回の敗戦で
(蹴り技が得意で突きが苦手な奴は優勝できない)
と悟った松井章圭は、大きな足技を連発する組手から、突き、蹴りを連続的に出すスタイルに進化していた。
大山倍達に直訴し、トーナメント3回戦から出場するシード権を放棄し、1回戦から出場した。
そして1回戦、2回戦を圧勝した。
3回戦も合わせ技で相手をひっくり返した。
(勝ったな)
油断した瞬間、相手の中段後ろ蹴りが脇腹にめり込んでだ。
判定で勝ったものの右の肋骨2本を折られた。
勝たなければベスト8に入れず、世界大会には出られない4回戦。
相手は、185㎝100㎏、その攻撃の破壊力は怪物と恐れられた七戸康博だった。
巨体が松井章圭を圧する。
(気持ちだ)
松井章圭は踏みとどまって下段回し蹴りを連打した。
下段回し蹴りをもらい続け後退した七戸康博にとどめの右下段回し蹴りで「技あり」をとった。
直後に本戦が終了し、松井章圭は勝った。
しかし5回戦は棄権した。
1984年1月20~22日、第3回世界大会が、92ヵ国、207名の選手が集い開催された。
大会前、松井章圭は、大山倍達に懇願した。
「大韓民国代表として出場させてください」
(プロ野球の張本勲のように、自分の民族を明らかにした上でチャンピオンになれたら、在日の人や日本人にとって本当の意味で有益な人間になれる)
しかし大山倍達はそういって許さなかった。
「いずれわかるときがくる」
松井章圭は世界大会の出場申込書に
本名「文章圭」
本籍「大韓民国」
と記し提出した。
しかし大会パンフレットとには
「松井章圭」
「東京」
と印刷された。
(自分が日本代表として責務を果たさなければ申し訳ない。)
20歳の松井章圭は、複雑な思いを誰にも打ち明けず世界大会に出場した。
大会初日、1回戦を左中段突きで1本勝ち。
大会2日目、2回戦を判定勝ち。
3回戦、反則勝ち。
4回戦、左下段回し蹴りで1本勝ち。
大会3日目の最終日、ベスト16に残った日本人は、中村誠、三瓶啓二、田原敬三、大西靖人、増田章、そして松井章圭の6名だった。
松井章圭は、5回戦でアンディ・フグと対戦し下段回し蹴りを連発し圧勝した。
準々決勝の相手は、大西靖人。
松井章圭が肋骨を折って棄権した前回の全日本大会の優勝者だった。
「魔王」「魔人」などといわれた大西靖人は、183㎝、89㎏、ベンチプレス186㎏、スクワット290㎏を挙げ、5回戦で肋骨を5本折られていたが、笑いながら試合場に上がった。
その下段回し蹴りを受けて、松井章圭は骨を潰されるような衝撃を感じた。
さらに大西靖人は、膝蹴りを連打、さらに間合いが詰まるとボディへのフックを打ち込んだ。
蹴りを返され倒された松井章圭は、立ち上がり、大西靖人をにらんだ。
大西靖人の右下段回し蹴りから左のボディフックで松井章圭の体はくの字に曲がり宙に浮いた。
本戦は、大西靖人の猛攻を松井章圭が必死に耐えて引き分け。
延長戦に入ると大西靖人は失速。
松井章圭もダメージが大きく攻められない。
再延長戦になると大西靖人の動きはさらに衰え、松井章圭の技にも力がなかった。
「オッシャー」
3度目の延長戦に入り、大西靖人は気合を入れ攻撃を開始。
しかしそれも10秒だけだった。
それ以降は松井章圭の攻撃を受け続けた。
こうして松井章圭は判定で勝った。
準決勝の相手は、2戦2敗の三瓶啓二だった。
試合は三瓶得意の相撲空手になったが、松井章圭は真正面から打ち合った。
本戦、延長戦は引き分け。
「オラァ」
再延長戦で松井章圭は気合を入れた、判定で負けた。
その後、3位決定戦でアデミール・ダ・コスタに判定勝ちし3位になった。
結局、松井章圭は試合で三瓶啓二に勝つことはできなかったが、極真会館の2代目館長になった後、再び対峙することになる。
vs 黒澤浩樹
1984年11月3~4日に行われた第16回全日本大会に、松井章圭はケガで出場できなかった。
そしてこの大会では、黒澤浩樹という新ヒーローが誕生した。
全日本大会初出場の黒澤浩樹は、一撃必殺の下段回し蹴りで初優勝を果たした。
マスコミは、無表情のまま次々と相手を倒していく黒澤浩樹を「格闘マシン」と名づけた。
黒澤浩樹を最強の敵と認めた松井章圭は、その対策を始めた。
まずパワーアップだった。
松井章圭と黒澤浩樹は、同年齢で、体格もほぼ同じ(174cm、80㎏)だった。
しかし黒澤浩樹は、ベンチプレス189㎏、スクワット280㎏を挙げるのに対し、松井章圭は、ベンチプレス130㎏、スクワット175㎏だった。
これまで低負荷×高回数で行っていたウエイトトレーニングを、高負荷×低回数に変えた。
(前者はフォーム習得や筋肥大に、後者はパワーアップに有効なやり方といわれる)
また技術的には、黒澤浩樹の攻撃のリズムが単調であることに注目した。
「あの下段回し蹴りは脅威だがまともにもらわなければいい」
と黒澤浩樹が蹴りを繰り出すタイミング、角度などを研究し、それに技を合わせていく合わせ技を練習した。
また精神的な面でも、大西靖人、増田章、黒澤浩樹は、みんな山田雅稔の指導を受ける城西支部の所属だが、
「彼らの弱点は自己肯定的性格、自己評価の高さにある」
とみていた。
「彼らは自信家であるが故に、相手を尊重せず、自分本位の試合展開のみに終始してしまうという罠に陥る危険性がある」
と考えていた。
1985年11月3日、第17回全日本大会が開催された。
前年度チャンピオンの黒澤浩樹は、さらにパワーアップしていた。
1回戦、1分17秒で1本勝ち。
2回戦、1分19秒で1本勝ち。
3回戦、本戦で判定勝ち。
4回戦、2分25秒で1本勝ち。
準々決勝、1分16秒で1本勝ち。
準決勝、1分11秒で1本勝ち。
決勝まで、6戦中1本勝ちが5つ、すべての試合を本戦で決め、延長戦はなかった。
対する松井章圭は、1回戦を本戦で判定勝ち、2回戦、本戦で判定勝ち、3回戦、本戦で判定勝ち。
4回戦で自分より小柄な堺貞夫と対戦。
楽勝かと思われたが大苦戦。
「なぜ攻めている松井の勝ちじゃないんだ?」
と大山倍達が審判を入れ替えるハプニングもあり、2度目の延長戦で判定勝ちした。
もし体重判定にもつれこめば負けていた。
準決勝で増田章と対戦。
松井章圭の予想通り、増田章は突きの連打と左右の蹴りで直線的に攻め込んだ。
松井章圭は、前回の試合でカウンターをとった後ろ回し蹴りを放った。
しかし増田章の突進は止まらず、突きと下段回し蹴りでラッシュした。
本戦、延長戦、2度目の延長戦と引き分けたが3度目の延長戦の後の判定で松井章圭が勝った。
「負けなかった」
そうつぶやきながら松井章圭は、大きくうなずいた。
増田章の相手をねじ伏せて勝つ空手に対して、松井章圭は、それを受け返しする、負けない空手だった。
そして松井章圭は、一瞬でも隙があれば、上段への鋭い蹴りを放った。
これが判定ではポイントとなった。
決勝戦は、松井章圭 vs 黒澤浩樹となった。
松井章圭は
(黒澤の下段では自分は倒れない)
そう自分に言い聞かせ小走りで試合開始線に向かった。
試合が始まると、黒澤浩樹は左右の下段回し蹴りが松井章圭の急所に蹴り込まれた。
松井章圭は必死に返した。
黒澤浩樹の突進力がすごすぎるのか、そのプレッシャーに松井章圭が崩れたのか、試合中、2度も松井章圭の左の突きが黒澤浩樹の顔面に入ってしまう。
黒澤浩樹は口から血を流しながら下段回し蹴りの連続攻撃を仕掛ける
松井章圭は必死にそれを返すが、たびたび下段回し蹴りをもらい膝を内側に曲げられてしまう。
その下段回し蹴りの威力に何度も腰を落とした松井章圭だったが、すぐに体勢を立て直し反撃した。
合わせ技で黒澤浩樹のバランスを崩してから上段、中段へ蹴りを放った。
本戦は引き分けとなり、柔と剛の戦いは延長戦に入った。
延長戦も、黒澤浩樹は前進して下段回し蹴り、松井章圭は、合わせ技から大技へつなげるという展開だったが、やがて両者共にダメージと疲れで失速していった。
「ラスト20秒!」
セコンドの声で、まるでなにかにとりつかれたように松井章圭は身体をよじらせて左右の突きから左右の下段回し蹴りを連続で放った。
この連続攻撃に黒澤浩樹は下をみてしまった。
そして延長戦が終わり、1人の主審と4人の副審による判定が行われた。
そのとき
「赤ぁー」
という声が上がった。
そして赤い旗が5本上がり、5-0の判定で松井章圭が勝った。
声の主は、婚約者の韓幸吟だった。
(自分のこれまでの人生はこのときのためにあったんだ)
15歳から公式戦デビューし、17歳で(第12回、1980年)全日本大会出場し、21歳で念願の全日本大会で初優勝した松井章圭は、涙を流しながら大山倍達のもとへいき、礼をした後、差し出された右手を両手で握った。
しかしこの試合は、松井章圭は、2回、反則を犯した上、受けたダメージも明らかに上だった。
黒澤浩樹はほぼノーダメージのまま負けた。
だから後に
「黒澤浩樹は、試合に負けてケンカに勝った」
といわれた。
しかし一方で、圧倒的な強さを誇る格闘マシンに強い精神力で戦い、そして勝った松井章圭は
「Mr.極真」
と称賛された。
「黒澤にあれだけ下段を蹴られて、なぜ倒れなかったんだ?」
試合後、聞かれ、松井章圭は答えた。
「自分は60万在日同胞のプライドを背負って闘っているつもりですから」
1985年、加藤重夫は、極真会館の千葉北支部の師範代の任を辞し、埼玉県新座市に「藤ジム」というキックボクシングのジムを設立した。
後に魔裟斗を輩出した。
加藤重夫は、空手では松井章圭を、キックボクシングでは魔裟斗を育てたのである。
100人組手
全日本チャンピオンになった松井章圭の次の目標は、
・第18回全日本優勝、(全日本大会2連覇)
・第4回世界大会優勝、(世界チャンピオン)
だった。
また大学卒業後は、正式に総本部の指導員として就職することを決めた。

1986年2月、松井章圭は大山倍達に呼ばれ、いきなりいわれた。
「君、ところでいつやるんだね」
「なにをでしょうか」
「君、なにいってるのかね。
100人組手だよ」
「押忍、わかりました」
即座に答えた松井章圭だったが、1つだけ要求した。。
「3ヵ月だけ時間をください」
あの中村誠をはじめ自分が参加した過去3階の100人組手はいずれも真夏に行われていた。
猛暑も失敗の理由だと考えられたため、夏を避けたかったのである。
1986年5月18日、松井章圭の100人組手は、極真のドキュメンタリー映画の一部として使われるため、東映大泉撮影所のスタジオ内に総本部道場そっくりのセットが組まれ行われた。
巨大なスタジオの中にできた道場を、5台のカメラと撮影スタッフが囲んでいた。
スタジオは外部の音を遮断するために締め切られた。
空調も音がするという理由で切られた。
数百個のライトと200名近い人間の発する熱でスタジオ内はサウナ状態となり、松井章圭の計画は崩れた。
相手を務める100名の門下生が並んで正座し、松井章圭は最前列の右端に座った。
極真会館の昇段審査は、初段が1人2分ずつ10名と戦い、その半数以上に1本勝ちを収めなければならない。
2段なら20人、3段なら30人である。
100人組手は、それを100人行う。
過去に100人組手を完遂したのは2人。
ハワード・コリンズと三浦美幸だけだった。
近年では、世界大会2連覇の中村誠が35人で、全日本大会3連覇の三瓶啓二が49人で失敗していた。
極真の頂点を極めた者でも100人組手の壁は高く険しかった。
(2018年時点での100人組手の達成者は9名。
ハワード・コリンズ(1972年)
三浦美幸(1973年)
松井章圭(1986年)
アデミール・ダ・コスタ(1987年)
三瓶啓二(1990年)
増田 章(1991年)
八巻建志(1995年)
フランシスコ・フィリォ(1995年)
数見 肇(1999年)
アルトゥール・ホヴァニシアン(2009年)
タリエル・ニコラシビリ(2014年))
「ドン!」
開始の太鼓が打たれ
「はじめ!」
審判の声が響き渡った。
1人目は、後ろ回し蹴りで1本勝ち。
2人目は、上段回し蹴り、1本勝ち。
3人目、突きと下段回し蹴りで技あり2つをとって合わせて1本勝ち。
4人目、後ろ回し蹴り、1本勝ち。
5人目、足払いと中段回し蹴りで技あり2つ、1本勝ち。
次々かかってくる相手を松井章圭は華麗に退けていった。
しかし15人目の相手に、下段回し蹴りを合わされ、松井章圭は膝をついた。
「よし来い、コラ」
怒った松井は気合を入れて左右の突きの連打から上段回し蹴りで倒した。
16人目、後ろ回し蹴りで1本勝ち。
17人目、上段回し蹴り、1本勝ち。
スタジオ内の温度は40度を超え、松井章圭は肩が上下させて息をし、バケツの水をかぶったように汗をかいた。
21人目で初めて判例負け。
(まだ1/5なのに・・・)
松井章圭が30人目に判定勝ちすると、いったん中断され、冷房が入れられた。
松井章圭は、道衣を着換えた。
再開後、34人目に2度目の判定負け。
(まだ1/3なのに・・・)
46人目に金的に蹴りをもらい中断された後、右下段回し蹴りで技ありを奪った。
50人を超えると、相手の技が皮膚に触れるだけで全身が痛み、体はフラフラ、思考も途切れ途切れになった。
(もうダメかもしれない)
松井章圭は視線を落とした。
その瞬間、盧山初雄の怒声が響いた。
「松井、途中で止められると思うなよ」
59人目に判定勝ちし、開始線に戻った松井章圭は嗚咽を上げた。
75人目、左上段回し蹴りを出した松井章圭が腰から崩れ落ちた。
80人目、夢遊病者のようにフラつきはじめた。
85人目、上段後ろ回し蹴りを出すも崩れ落ちる。
90人目、腕は上げられず足も動かなかった。
意識は朦朧としている。
92人目に中段回し蹴りをもらった松井章圭はキレた。
「よしこい」
突きの連打で突進し頭突きをかました。
下がる相手をなおも追い回した。
もはや組手ではなかった。
相手を門下生たちが座っている中に突き倒し、倒れた相手にさらに攻撃を加えようとした。
主審が松井章圭の襟首をつかんで試合場の中央に投げ飛ばした。
松井章圭のうつろな目には狂気が宿っていた。
95人目、右上段回し蹴りで1本勝ち。
これが最後の1本勝ちとなった。
96人目から100人目まで、松井章圭は、格下の門下生に、ただ殴られ蹴られ、顔を歪めた。
(やっと終わった)
総時間、4時間、組手時間、2時間24分、75勝12敗13分、3人目の100人組手完遂だった。
松井章圭は救急車で病院に運ばれる途中、担架で嘔吐し、そのまま入院した。
拳、肘、つま先、足甲、脛、膝は、ドス黒くパンパンに腫れていた。
(やっぱり空手は肘から下、膝から下を徹底的に鍛えることが基本だな)
そう悟る空手バカだった。
全日本大会2連覇
1986年11月2~3日、第18回全日本が行われた。
黒澤浩樹は「打倒!松井」を目標に1年稽古を積んで出場していたが、2回戦で軽量級選手に跳び膝蹴りでKOされ大会1日目で姿を消した。
パワーアップし殺傷能力を増した格闘マシンの1番の敵は油断だった。
松井章圭は、1回戦を1本勝ち、2回戦を膝蹴りで技ありをとって勝ち、初日を終えた。
大会2日目、松井章圭は、4回戦を判定勝ち、準決勝は後に全日本大会で2度優勝、100人組手達成、世界大会でも優勝する八巻建志だったが、このときは5-0で松井章圭が判定勝ちした。
決勝戦は、松井章圭 vs 増田章、3度目の対決となった
増田章は突進し突きと蹴りで攻めた。
松井章圭は前蹴りで距離をとろうとしたがの突進を防げなかった。
延長戦に入り、一瞬のスキをついて上段回し蹴りが増田章の首に入った。
一瞬、意識を飛ばしたが、増田章は突進をやめなかった。
松井章圭は左上段回し蹴り、左上段後ろ回し蹴りを連発。
蹴り足ごと押されて倒されたものの、これで流れが変わった。
増田章の攻撃と突進の力が弱まり、松井章圭は攻め続けた。
そして判定で勝ち、全日本大会2連覇を果たした。
第4回世界大会 アンディ・フグの踵落としを破って優勝
1987年8月、恒例の夏の合宿が、かつて大山倍達が牛と格闘した千葉県館山市で行われた。
今回は第4回世界大会に向けて強化合宿でもあった。
第1回世界大会は佐藤勝昭、第2回、第3回は中村誠が優勝。
空手母国の威信を守られた。
しかし今回は
「日本にエース不在」
「極真王座流出、最大の危機」
とマスコミは書きたてた。
第1回世界大会前
「日本が負けたら私は腹を切る」
第2回、第3回では
「君たち、負けたら腹を切る覚悟で臨みなさい」
といい、今回の強化合宿でも指導を行った大山倍達は
「君たち、死ぬ気で戦え」
「こんなことじゃ外国人には勝てないよ。
君たちの頭が海外勢にスイカのようにグシャッと潰されるのが浮かんでくるよ」
「とにかくだ。
勝負の世界で負けるということは死を意味することだから、負けたら死ぬ、必ず死ぬんだ。
殺らなければ殺られるという覚悟で精進しなさい」
といった。
合宿最後の夜、日本選手代表は「固めの飲み会」を行った。
選手同士一気飲み勝負を行い、負けた選手は別の選手を指名し、勝つまでこれを続けた。
それが一周すると、次はバケツに日本酒、ウィスキー、ビールなどをチャンポンして回し飲み。
主将の松井章圭も酔っ払い、
「自分たち今回の日本代表選手は、一生の付き合いをしよう」
と叫び、肩を組んで全員一丸となって
「日本の王座死守」
をがなりたてた。
しかし8年後、この日本代表15名も巻き込んだ分裂騒動が起こる。

夏合宿の後、松井章圭は1ヵ月間、アメリカに出稽古にいった。
最初はニューヨーク道場で、大山茂の竹刀に叩かれながら追い込む稽古を行った。
ニューヨーク道場には2週間滞在したが、最初の1週間で体重が8㎏落ちた。
「いいか!
右腕を折られたら左腕で倒せ。
両腕を折られたら脚で倒せ。
両手両足が利かなくなったら噛みついてでも倒せ。
それで殺されたなら化けて出ろ。
男として生まれたからには倒れるときはただ1度、死ぬときだけだという精神で行け」
後半の2週間は、アラバマ支部で大山泰彦の指導を受けた。
大山泰彦が掲げたテーマは、体力や技術的なものではなく「相手の気を読む」だった。
その稽古の中で、大山泰彦は松井章圭に対し、このような感想も持った。
「もう1つ上の殺気というか、この男の気合は実に深い位置から発してくる。
無表情な中にも相手が発散させてくる殺気に容易く乗ることなく、常に己の内に秘めた鉄をも溶かす殺気がある」
帰国した松井章圭は、御徒町の「サンプレイトレーニングセンター」で、宮畑豊からトレーニングしながら故障個所を治す「操体法」の指導を受けた。
操体法は、痛めた個所の周辺の筋肉を効果的に鍛え、故障個所そのものを筋肉のギブスで強化するというもので、松井章圭は、数ヵ月で腰痛を回復させた。
腰痛が癒えた後は、宮畑豊の指導でウエイトトレーニングに取り組んだ。
これまで松井章圭は、永田一彦から「低重量×高回数」のウエイトトレーニング、城西支部で「高重量×低回数」のウエイトトレーニングを経験したが、宮畑豊のトレーニングは「高重量×高回数」だった。
3ヵ月後、ベンチプレスが140㎏→170㎏、スクワットが180㎏→230㎏と松井章圭の肉体はパワーアップした。
世界大会まで2ヵ月を切ったある日、宮畑豊の紹介で、松井章圭は大相撲の高砂部屋、九重部屋へ出稽古を行った。
四股、てっぽう、すり足、ぶつかり稽古など相撲の基本稽古を力士相手に行った。
九重部屋では、稽古終了後、千代の富士と一緒に1番風呂に入った。
大会2週間前、最後のウエイトトレーニングが終わり、宮畑豊と一緒に食事にいった松井章圭は、1㎏のステーキ、シャブシャブ8人前、超大盛焼きそばと焼うどんを一気に平らげた。
1987年11月6~8日、3日間にわたり、第4回世界大会が日本武道館で行われた。
松井章圭は1回戦は、不戦勝で第1日目を終了した。
大会前、イギリス支部長のスティーブ・アニールは
「極真会館2代目就任への賛同と新体制設立の趣意書」
を海外の支部長らに送付していた。
そこにはスティーブ・アニール自身が極真会館の2代目になることも盛り込まれていたが、ヨーロッパを中心に多くの支部長から賛同を得ていた。
そして世界大会終了翌日に開かれる全世界支部長会議で
「大山倍達の総裁解任とスティーブ・アニールの2代目就任」
を議決する計画だった。
反大山倍達派は、日本の関係者と行き交うとき挨拶さえ交わさず、日本人 vs 外国人の試合で日本人選手が判定で勝つと、外国人からヤジ、ブーイング、指笛など抗議のデモンストレーションを起こした。
大山倍達は、このクーデター計画を承知していたが
「試合の判定が日本人びいきであるといわれるような大会であっては断じていけない。
ハッキリと決着をつけるようにしなさい」
と指示し、レフリーは『疑わしきは引き分け』にしていった。
日本代表の控室は殺気と緊張で静まり返っていた。
15名の日本代表は試合に勝っても負けても笑顔はなかった。
『空手母国の王座死守』の重圧によるものだった。
「こんなときは誰か1人負けてくれると気が楽になるんだけどなあ」
盧山初雄の一言でやっと笑いが起こった。
そして全員が1回戦を突破した。
松井章圭は、2回戦を左上段回し蹴りで1本勝ち、3回戦を、3-0の判定勝ちし2日目を終えた。
この日、小笠原和彦がアンディ・フグに技ありを2つ奪われ1本負け。
日本代表は14名になった。
大会3日目、生き残った32人が潰し合いを始めた。
Aブロックを制したのは、ジェラルド・ゴルドーと七戸康博を判定で下した増田章。
八巻建志、ブラジルで100人組み手を達成したアデミール・ダ・コスタ、「ヨーロッパ最強の男」と呼ばれたミッシェル・ウェーデルが集う激戦区、Bブロックを制したのはアンディ・フグ。
黒澤浩樹は、3回戦でピーター・シュミットとのケンカファイトを演じ、判定勝ちしたもののケガで棄権。
黒澤浩樹の棄権によって準々決勝を不戦勝で勝ったマイケル・トンプソンがCブロックを制した。
松井章圭は、5回戦を外館慎一に体重判定、準々決勝はニコラス・ダ・コスタに5-0で判定勝ちしDブロックを制した。
ベスト4は、増田章、アンディ・フグ、マイケル・トンプソン、松井章圭となった。
準決勝戦第1試合は、増田章 vs アンディ・フグ。
前回の世界大会で松井章圭に敗れたアンディ・フグは、その夜、滞在していた池袋のメトロポリタンホテルのドアを蹴破るほど悔しがった。
そして帰国後、猛練習を開始。
「踵落とし」というオリジナル技まで編み出した。
この大会まで「踵落とし」は、まったく未知の技だった。
まともな受け技もなく、対戦相手は崩され、倒されていった。
増田章も、踵落としに崩され、3度の延長戦の末、判定で敗れた。
準決勝第2試合は、マイケル・トンプソン vs 松井章圭。
マイケル・トンプソンは、軽快なステップから大きな蹴りを繰り出し「黒豹」と呼ばれていた。
特に長身で柔軟な体から高速で繰り出される後ろ回し蹴りは脅威だった。
(脚を殺せばフットワークも死ぬ)
松井章圭は下段回し蹴りで攻めた。
一進一退の攻防は5度目の延長戦まで続いた。
消耗と下段回し蹴りの連続攻撃を受け、ガードが下がっていたマイケル・トンプソンに、松井章圭は下段回し蹴りのフェイントから右上段回し蹴りをマイケル・トンプソンに放ち1本勝ちした。
決勝戦は、アンディ・フグ vs 松井章圭。
松井章圭は、アンディ・フグの踵落としをこう分析していた。
(あの技は、1で軸足を踏ん張って蹴り足を頂点まで振り上げ、2で相手に踵を振り落とす。
つまり1のタイミングでアンディ・フグの軸足を払ってしまえばいい)
試合開始早々、松井章圭は下段回し蹴り。
するとアンディ・フグは、左の踵落とし。
それは松井章圭の鼻先数㎝から帯の結び目をかすめてマットに落ちた。
意を決して間合いを詰める松井章圭にアンディ・フグは、2度目の踵落とし。
松井章圭はかまわず踏み込んでアンディ・フグの軸足を蹴った。
本戦は引き分けとなり、延長戦へ。
アンディ・フグは、フットワークで大きく回りながら、3度目の踵落とし。
その踵は松井章圭は右耳をかすめ肩に落ちた。
松井章圭は、そのまま前進し、軸足立ちになったアンディ・フグを押し倒した。
跳ね起きたアンディ・フグが右後ろ回し蹴り。
松井章圭は後ろに体を反らせてよけ、左下段回し蹴り。
華麗な足技の応酬の末、1回目の延長戦は引き分けになった。
2度目の延長戦に入り、アンディ・フグが4度目の踵落とし。
それに対し、松井章圭は、アンディ・フグの軸足に後ろ回し蹴りを合わせた。
4度も踵落としを潰されたアンディ・フグは、パンチによって勝機を見出そうとした。
しかし左の突きが松井章圭の顔面に入り、主審に反則に
「減点1」
を言い渡され、両手で顔を覆い天を仰いだ。
そして試合は判定で松井章圭が勝った。
松井章圭が優勝したことで、スティーブ・アニール派は勢いを削がれ、世界支部長会議で「大山倍達の総裁解任とスティーブ・アニールの2代目就任」が議題となることはなかった。
「もう試合はしません」
第4回世界大会の後、しばらくして松井章圭は大山倍達に「選手引退」を申し出た。
松井章圭の主な記録
公式戦56戦50勝6敗
100人組手達成
全日本大会2連覇
第4回全世界大会優勝