UWF   そして復讐の団体は誕生した

UWF そして復讐の団体は誕生した

「蛇の穴」ビリー・ライレージム、カール・ゴッチ、力道山、アントニオ猪木、藤原喜明、佐山サトル、前田日明、高田延彦、猪木舌出し失神事件、アントンハイセル事件、新日本プロレスクーデター事件、,タイガーマスク引退、1984年にUWFができるまで色々なことががありました。


レスリングの起源は紀元前。
シュメール、エジプト、ギリシャ、古代の人々はレスリングを神と科学の芸術とみなし、実施者には文武両道が求められた。
そして数千年後の現在、

・つかむ場所に制限がなく全身を攻めることができるフリースタイル
・下半身を攻めてはいけないグレコローマンスタイル

という2つのスタイルで競技が行われている。
一方、プロフェッショナルレスリングは、1830年頃、フランスのサーカスや見世物小屋でレスラーが
「オレを倒せば50フランやる」
といって戦ったのが始まり。
それが広まり、レスリングだけの興業も行われ始めた。
試合は賭博の対象にもなり、プロレスラーは賞金稼ぎ。
勝敗に第3者が介入する余地はなく、試合はシュート(真剣勝負)で行われた。
以後、100年以上、プロレスは誇り高き格闘技だった。

イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド、4つの国から成る連合王国。
イングランドの西北部、ランカシャー地方には、ウィガンという町があり、かつて炭鉱で栄え、レスリングが盛んで、ストリートファイト賞金マッチも行われていた。
1920年頃、イギリスのレスリング、元ミドル級チャンピオン、ビリー・ライレーは、この賞金マッチで力自慢の炭鉱夫達を打ち負かし大金を手にした。
そしてジム(Billy Riley`s Gym)を建て、道場生と共に激しいトレーニングを積み、道場破りが来れば、自らねじ伏せた。
現在のレスリングは、基本的に相手を投げたり、押し倒す競技。
しかしビリー・ライレーが行っていたランカシャーレスリング、通称「Catch As Catch Can(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)」レスリングは異質。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは
「つかまえられるものならつかまえてみろ」
「やれるものならやってみろ」
という意味だが、投げやフォールに加え、相手を戦闘不能にするサブミッション(関節技)があるレスリングだった。
例えば通常のレスリングでは相手にバックをとられると、投げられるのを防ぐために亀になったり、うつ伏せに寝ることもあるが、関節技があるとそうはいかない。
ビリー・ライレーは、道場生がそんな体勢をとれば、
「この腰抜けが!」
とケツを蹴り、
「動け」
「立て」
と指示。
防戦一方になるのではなく、すぐにエスケープしたり、切り返しを試みることを求めた。
また関節を極めるためには指を眼に入れるなどのあらゆる技術を駆使。
その蛇のからみついて攻撃をかけ続けるファイトスタイルから、ビリー・ライレー・ジムは、
「(The Snake Pit、 蛇の穴」
と呼ばれ、恐れられた。

ビリー・ライレージムからは、多くのプロのレスラーも育った。
午前中はプロクラスで、夜は子供と大人のアマチュアクラス。
月謝制ではなく、来る度に料金を払う1回いくらシステムで、子供も大勢通い、技の練習をした後、スパーリングを行った。
それが終わると大人の練習が始まり、まず休むことなく動き続けるサーキットトレーニング。
そしてスパーリングに移行。
道場生のやる気にさせるのがうまいビリー・ライレーは、スパーリングは複数組が同時に行うのではなく、1組ずつ行わせた。
そしてときどきスパーリングを止め、道場生がミスを指摘し、正しいやり方を反復練習させ、その後、再開。
スパーリング時間も、ビリー・ライレーが決め、
「やめ」
といったり、
「今から先に1本とったほうの勝ちで終わり!」 
というまで続いた。
スパーリングをしている者は、残り時間を計算してペース配分できないし、先生や道場生に注目されて手抜きすることもできず、たとえどんなにやられても全力で戦い続け、肉体と精神を鍛えていった。
時間はそれほど長くないものの最初から最後まで気が抜けないハードな練習で、道場には、真剣さ、厳しさ、熱さが漂い、道場生の強さへの憧れと探究心、モチベーションは高かった。
このビリー・ライレーのレスリングと精神が

カールゴッチ

アントニオ猪木

藤原喜明

佐山サトル

前田日明

高田延彦

と伝播していき、UWF誕生につながっていく。

カール・ゴッチは、ベルギー生まれのドイツ育ち。
10代でレスリングを開始。
昼は鍛冶屋で働き、夜はジムでレスリングという生活をしていた。
第2次大戦中はナチス政権下のドイツで軍需工場で働き、事故で左手小指の大部分を失った。
終戦直前には、11ヵ月間、強制収容所に入れられ、1945年に終戦し解放されると再びレスリングに打ち込んだ。
1948年、24歳のとき、ロンドンオリンピックにフリースタイル、グレコローマンスタイル、両スタイルの87kg級ベルギー代表として出場し、共に予選落ち。
その後、プロの転向し、1950年、プロレスデビューし、ヨーロッパ各地でトーナメントへ参戦。
1951年、初めてビリー・ライレージムで練習し、最初のスパーリングで師範代のビリー・ジョイスにわずか1分程でサブミッションを極められてしまい、以後、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを学んだ。
そして高いフィジカルとレスリング技術、オリジナルホールド「ジャーマン・スープレックス」でヨーロッパでトップレスラーとなり、1960年、アメリカへ進出した。

しかしアメリカのプロレスは、純朴さを失っていた。
必要なのは強さや地味な寝技ではなく、体操のようなアクロバティックな動き、巨大な肉体とアスリート的身体能力によるアクション、派手なパフォーマンス。
仕事として試合をするプロレスラーにとって、大事なのはケガをしないことで、その技は、観客に
「死んでしまうのではないか」
と思わせながら、実際はできるだけ相手にダメージを与えないというのが理想的。
最強のレスラーがチャンピオンになると信じ、日々、トレーニング、練習、研究を怠らず、圧倒的な体力とレスリングとサブミッションの技術を持っていたカール・ゴッチは、自分より弱いレスラーに負けなければいけないことに嫌悪感と罪悪感を抱いた。
カールゴッチにとってレスリングは誇りであり、偉大な格闘技で、キング・オブ・スポーツだったが、アメリカのプロレスはビジネスで、契約して雇用されるプロレスラーは、雇い主に逆らえば解雇された。
客を喜ばそうとか相手に花を持たせようなど微塵も考えず、妥協も派手さもないゴッチのファイトスタイルは、一部のプロモーターから
「独り善がり」
「プロレスを理解していない」
と煙たがられた一方、その実力からファンに
「真のプロレスラーでありシューター」
と評価された。
アメリカでは賛否両論だった。

カール・ゴッチは、1961年5月、来日できなくなったレスラーの代役として、力道山が設立した日本プロレスのリングで吉村道明に、(日本初の)ジャーマン・スープレックスを決めた。
観客は、その技の美しさと迫力に
「原爆固め」
と呼んだ。
その後、ゴッチはアメリカへ戻り、AWA世界ヘビー級王座を奪取。
しかし世界最強の男、NWA世界ヘビー級チャンピオン「鉄人」ルー・テーズには、タイトルマッチで9戦5敗4分、ノンタイトルマッチでも7戦7分と勝つことができなかった。
6回目のタイトルマッチでは、テーズにバックドロップをしかけられ、、わき固めにいこうとして体重をあずけ、テーズは肋骨を骨折。
翌日、見舞いにいったゴッチはテーズに
「なぜこんな馬鹿な真似をしたんだ!」
と怒られ
「無我夢中でやってしまった…」
と申し訳なさそうに答えた。
この後、テーズが戦線を離脱したため、興行的にも大きな損害が出て、ゴッチはプロモーターから恨まれた。
1966年にNWA世界王座から陥落したテーズは、
「ゴッチさえいなかったら私の王座は2年は長持ちしていた。
本当に恐ろしい男だった」
「私をもっとも苦しめた挑戦者」
とその実力を認めた。
しかし結局、カール・ゴッチは世界最強にはなれず「無冠の帝王」で終わった。

1967年11月、ゴッチは再来日し、日本プロレスのコーチに就任。
東京、恵比寿に住み、渋谷のリキ・スポーツパレス(力道山が建てた総合スポーツレジャービル)で若手を徹底的に鍛えた。
ゴッチはすさまじいパワーとレスリング、関節技の技術、そしてさまざまなトレーニングメソッドを持ち
「プロレスの神様」
と呼ばれた。
このとき日本プロレスにアントニオ猪木がいた。
神奈川県横浜市鶴見区の生家は石炭問屋を営んでいたが、時代の流れで石炭から石油へ移行するとブラジルへ移住。
着いた翌日の5時、ラッパの音で叩き起こされ、17時まで12時間、コーヒー豆の収穫の仕事を行った。
「次の日から、希望に燃えた私たちを待っていたのは、過酷な奴隷労働であった。
1年半の契約期間中は何があってもこの農場で働き続けなければならないのである」
中には過酷な環境に逃亡を企てて撃ち殺される人たちもいたが、猪木は耐えた。
転機はサンパウロで興業を行っていた力道山の目に止まったこと。
「裸になれ」
といい、猪木の肉体に納得した力道山は
「よし、日本へ行くぞ」
家族には
「3年でモノにしてみます」
といい日本につれて帰った。
帰国すると力道山の付き人としての仕事と日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングが始まった。
日本プロレスの練習は半端なものではなく、スクワットによって流した汗が水溜りとなり、スタミナ強化のために締め切った道場で湯気となって漂った。
「常人では成しえないことを成すのがプロレスラー」
という力道山は、なにかあれば容赦なくゲキと竹刀を飛ばした。

猪木は朝から夜の遊びまで力道山の付き人をさせられ、力道山はまるで目の仇のように厳しく育てた。
リングシューズを履かせ、
「(紐を掛け方が)違う」
と蹴飛ばし、普通の靴も
「履かせ方が悪い」
と殴った。
飼い犬を番犬として教育するための実験台にしたり、ゴルフクラブで側頭部を殴打したり、走っている車から突き落としたり、クラブでは灰皿を投げつけたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせたり
「声を出すなよ」
といってアイスピックで刺したり、素人に殴らせたりした。
猪木は本気で殺意を覚えたが耐え抜き、力道山が死去して3年後、東京プロレスを旗揚げ。
しかしし3ヵ月で破産。
ゴッチがやってきたのは猪木が日本プロレスに戻り、ジャイアント馬場とタッグを組んだ頃だった。
ゴッチは稀有な身体能力を持つアントニオ猪木に、ジャーマン・スープレックスや卍固めを教えた。
「君たち日本人の手で、本物のプロフェッショナル・レスリングを取り戻してほしい」
24歳のアントニオ猪木はゴッチの言葉を熱心に聞き、ゴッチイズムの継承者となっていく。

「世界の荒鷲」「ビッグ・サカ」196cm、130kgの坂口征二は猪木より1つ歳上で、日本プロレスでは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターだった。
明治大学柔道部で神永昭夫の指導を受け、大学で団体でも個人戦でも優勝し、旭化成に入った。
1964年の東京オリンピックでは日本代表候補だったが最後の夏合宿で腰を痛め、神永昭夫が決勝戦でオランダのアントン・ヘーシングに1本負けするのを間近で目撃。
「打倒ヘーシンク」に燃え、東京オリンピックの翌年、全日本大会で優勝し、世界選手権の決勝でヘーシングに優勢負け。
その後、ヘーシングが引退したためメキシコオリンピックに目標を切り替え、必死に練習したが、メキシコオリンピックで柔道競技は外されることが決まると
「8年も待てない」
と目標を失い稽古に身が入らなくなった。
そんなとき日本プロレスからスカウトを受け、旭化成を退職し入団した。
「すごく怒られてねえ。
明治大学柔道部のOB会なんて破門同様ですよ。
除名です。
明治大学の監督だった曽根康治さんとか神永昭夫さんとかにね、『お前、なに考えてるんだ!』って相当いわれたんですよ」
25歳の誕生日にジャイアント馬場と一緒にプロ入り記者会見をした坂口はカール・ゴッチにプロレスの基本を教わった。
「ゴッチさんの指導は厳しいけれど、すごく真っ直ぐな人でプロレスに対する考えをハッキリ持っている。
まあ頑固おやじという感じ。
あまりガアガアはいってこないですよ。
お前、出来ないんならいいよと突き放す感じで、来る者は拒まず、去る者は追わずという人だった。
だからみんな必死でついていくんです」

1969年5月、日本プロレスとのコーチ契約が終わったゴッチはアメリカに帰国。
TVが普及し、ますますショーアップされたアメリカのプロレスとは合わず、自分のスタイルを変えることはできないゴッチはプロモーターからも敬遠され、ハワイへ移住。
ホノルルで、プロレスラーとして活躍したが、プロモーターとトラブルになり解雇され、ゴミ収集の仕事をした。
トレーニングのために車には乗らずに並走し、集積所につくとバケツの中のゴミを1人で収集車に放り込んだ。
仕事が終わると試合もないのにハードトレーニングをして、夜は早く寝た。
日本プロレスで営業部長だった吉原功(早稲田大学レスリング部出身、元プロレスラー)は、力道山の死後、独立して国際プロレスを設立し、日本プロレスに対抗していたが、ハワイでのゴッチの近況を聞くと
「もったいない」
と招聘を決めた。
1971年3月、46歳のゴッチは来日。
2m23cm、170kgモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)にジャーマン・スープレックスを決めた。
そしてアニマル浜口ら国際プロレス所属の日本人レスラーをスパーリングでおもちゃにして鍛えていった。
アニマル浜口は、暇さえあれば青山の国際プロレスのビルの地下で練習をするゴッチをみて
「プロレスの神様じゃなく練習の神様」
と思った。
「ゴッチさんはプロレス、いやレスリングといったほうがいいかな。
レスリングで勝つためにはどうしたらいいか、四六時中考えていました。
ヨガを研究するために古代インドの歴史やヒンドゥー教、さらにはアーユルヴェーダ(インドの伝統的医学)など、あらゆることを学んでいました。
また独自のトレーニング法も考えていて、日本のプロレス界にヒンズー・スクワットを本格的に教えたのはゴッチさんといわれています。
僕も勝つために『ヨガをやれ』といわれましたよ」
国際プロレスで再びプロレスラーとして再生したゴッチは、6年ぶりにアメリカのマットに復帰。
日本プロレスを追放され、新しい団体を立ち上げようとしていたアントニオ猪木は、ニュージャージまで行ってゴッチに協力を依頼した。


28歳の猪木は女優の倍賞美津子と結婚していた。
馴れ初めは先輩の豊登が自分の車(日産の最高級車、センチュリー)を
「こんな車に乗りやがって」
と女子3人が蹴飛ばすのを見つけたこと。
その中の1人が倍賞美津子だった。
豊登は彼女たちを食事に誘った上、家まで送り届け、その後も連絡を取り続けた。
猪木は豊登に連れられて倍賞美津子と初めて会い、その明るさに惹かれた。
出会いから5年後、1億円をかけて式を挙げ2人は結婚。
その1ヵ月後、会社を改革をしようと動いていた猪木は日本プロレスから追放されてしまった。
「迷わず行けよ」
と行動主義のアントニオ猪木は、2人の新居となるはずだった一戸建てを道場に改造した。

1971年11月、結婚
12月、日本プロレス追放
1972年1月、「新日本プロレス」を会社登記
3月、旗揚げ戦

という異例のスピードで新団体立ち上げを進めていったが、カール・ゴッチへの協力依頼もその中の1つ。
新日本プロレスの所属選手は、アントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人のみ。
旗揚げ戦前に募集した練習生はあまりの厳しさに逃げ出してしまった。
メジャーな外国人レスラーは、日本プロレスと国際プロレスに抑えられているため、カール・ゴッチがブッキング。
サーカスのようなプロレスにウンザリしていたゴッチは、猪木がやろうとしているシリアスなプロレスの実現のため、実力のある選手を呼んだ。
そして旗揚げ戦は、月曜日の18時半、大田区体育館でスタート。
全6試合。
その中にカール・ゴッチ vs 猪木もあった。
会場は5000人満員でひとまず成功したが、以後、テレビ放映もないまま苦戦が続いた。


1972年11月2日、旗揚げ戦から8ヵ月後、藤原喜明が新日本プロレスに入門した。
高校卒業後、板前をしながら金子武雄(重量挙げ全日本ライト級チャンピオン、日本プロレス所属のレスラー、セメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退)のジムで練習を続け、新日本プロレス入り。
デビューは入門10日後、和歌山での藤波辰巳戦。
異例のスピードデビューながら23歳の遅咲きのデビュー。
1年後には6歳上の猪木さんの付き人になり、それは1984年にUWFに移籍するまで10年以上続いた。
藤原喜明は合同トレーニングの後、猪木と特別練習をした。
「考えてみたら、人の2倍、3倍、練習していたよな。
そのおかげだな。
俺のヒザはボロボロだよ」
そしてカール・ゴッチに出会い、衝撃を受け、関節技とレスリングを学んだ。
「 当時、若手のコーチ役は山本小鉄さんで、その指導は非合理的というか、スパーリングやっていて 『 これ、どうやって極めるんですか?』って聞くと『根性で極めろ』って。
もちろん非合理的な指導も必要なときもありますが、それを聞いたときは「この人、大丈夫かな」と思いました。
それで入門してしばらくしてゴッチさんの指導に接して「あっこれは本物だ」って感じたんです。
ゴッチさんは日本語もしゃべるんだけどめちゃくちゃなので、それで話されるとわけがわかんなくなる。
ですから基本的には簡単な英語でやりとりしていましたよ。
1日にいくつも関節技を教わるんだけど覚えきれなくなる。
あるとき、ハッと気がついて、1日に1つだけ教えてもらったことをノートに克明に書き残して、それを確実に覚えていくようにしたんです。
オレは頭が悪いからものごとを覚えるのにすごく時間がかかるんですよ。
だけど1度覚えるとずっと覚えている。
高校時代のことだってちゃんと覚えている。
オレは工業高校の機械科で、得意な科目は体育が5で、応用力学、機械工作が5。
これはどういうことかというと運動神経がまあまあいい上に力学、つまりテコの原理がわかっていて工作が上手、つまり手先が器用なんですよ。
だから関節技を習得するのにピッタリだったんだな。
あともう1つ。
骨が太い」


旗揚げ戦から1年後、テレビ朝日が新日本プロレスの試合を放送することになった。
カール・ゴッチは手紙や電話で選手をブッキングし、コーチ、セコンド、タイトルマッチの立会人として来日することも多く
「かつてプロレスは相手をねじふせ、マットに這わすことに全力を集中した。
しかし近頃はダンスやファッションショーにまでなり下がり、現在は悪貨が良貨を駆逐する時代になってしまった。
良貨が悪貨を打ち破っていく時代が来て欲しい」
と訴えた。
しかしゴッチが呼ぶのはレスリングはできるが客は呼べないレスラーばかり。
猪木はゴッチと理想を共にしていたが、会社経営を優先させ、観客を集めるためにロサンゼルスで新しいブッカーを雇った。
そしてカナダ、トロントの2流のベビーフェイスだったタイガー・ジェット・シンと流血戦をしたり、ストロング小林との日本人対決、大木金太郎との力道山時代の同門対決など話題を集める試合を行った。
そして新日本プロレスの経営が安定するとゴッチは冷遇され始め、
「シリアスなプロレスをやる団体をやるといっていたのに1年経つと元通りさ」
と嘆いた。
アントニオ猪木とは5回対戦し、3勝2敗のゴッチだったが、アメリカに家を買って日本を離れた。
フロリダ州、タンパ北部の小さな町、オデッサは、湖が多くゴッチの家も湖畔にあった。
書棚に宮本武蔵の「五輪書」、新渡戸稲造の「武士道」、笹原正三(メルボルンオリンピック、フリースタイルレスリング、フェザー級金メダリスト)の「サイエンティフィック・アプローチ・トゥ・レスリング」など世界各国の武道・格闘技関連、そして人体やトレーニングに関する書物が並んだ。
車が2台入るガレージには、バーベル、ダンベル、トレーニングベンチ、インドのメイス(長い鉄棒の先に思い鉄球がついたトレーニング器具)、イランのミリィ(棍棒のようなトレーニング器具)などが置かれトトレーニングルームとなった。


しかし「燃える闘魂」は決してダテではない。
まず誰よりも練習をやった。
練習第一の猪木は、新団体を立ち上げに際して、まず道場を建て、所属レスラー全員に合同練習を課した。
道場に猪木が入ってくると空気が一変し、一瞬の気の緩みも許されなくなるという。
「前の晩も練習やら試合はもちろん、洗濯やらの雑用もある。
疲れていたから早起きはきつかった。
毎朝、30分ぐらいかな、走る。
ああ、終わったって思うとスクワット。
毎日嫌になるぐらいやっているんだよね。
でも一緒にやらなくちゃいけない」
(藤原喜明)
遠征中も必ず練習が行われ、朝は晴れていればランニング、雨なら風呂場でスクワット1000回。
午後も試合開始30分くらい前まで試合用のリングでスパーリングや会場後方でバーベル、ダンベルを使ってトレーニングしてから客を入れた。
あるとき3週間休みなしで巡業があり、後半に入るとみんな疲れて合同練習に参加しなくなったが、猪木は1人で黙々とスクワット。
そして
「集まれ!」
と号令をかけ、リングの周りに並べ
「やる気がないなら帰れ」
といって全員を殴った。


若手は新日本プロレスの道場に隣接する合宿所に住んだ。
そして8時半起床し、掃除などをして10時から合同練習開始。
まず全員がリングの周囲を囲んでスクワット、腕立て伏せ、縄跳びなどのトレーニングを1時間半から2時間行う。
夏は40度を超え、スクワットをやると汗だまりができる。
次はリングの上でストレッチ、腹筋、ブリッジ、受け身、タックル、ロープワークなど基本技術。
それが終わるとスパーリングとなる。
最大で4組8人がリング上でひしめくため、自然と寝技多くなる
関節技あり、締め技あり、フォールなしのサブミッションレスリング
これを道場ではスパーリングと呼ばず
「セメント」
あるいは
「ガチ」
「ガチンコ」
と呼んだ。
プロレスには台本があり、勝敗は事前に決まっている。
プロレスラーの目的は勝利ではなく、観客を興奮させ楽しませること。
ミュージシャンが楽器や演奏の練習したり、演劇で演技やセリフの練習をするように、本来、プロレスラーは技のかけ方、受け方を練習をする。
パイルドライバー、バックドロップ、ボディスラムなどはかける側と受ける側の協力している。
4の字固めなどの関節技も一致協力して技をつくっている。
一見派手なパンチやキックも急所を避け、受ける側は、逃げることなく受ける。
そして場外乱闘や凶器攻撃も演出もある。
しかし新日本プロレスは、基本的にトレーニングとサブミッションレスリングのスパーリングだけ。
試合のケツ(最後の勝敗)は決まっていたが、試合中はすべてアドリブでセメント(真剣勝負)もやった。
試合中にセメントの要素がないと
「何やってるんだ!」
と怒られた。
この「通常のプロレス+セメント」というのが新日本プロレスの特徴で、リングには危険な緊張感が漂っていた。
「ストロングスタイル」
を標榜する猪木は、チャレンジすることが大好きで、若手がリングの上で挑戦的なことをやったり、それを失敗したりしても責めない。
しかし気合が入っていない試合をすれば怒り、試合中でも竹刀を持ってリングに上がって滅多打ちにすることもあった。

1974年、極真空手 の第6回全日本大会に、アントニオ猪木をはじめ数人のレスラーが参加申し込み。
「ある雑誌(少年マガジン)で広告をみまして・・・
新しいルールによる真剣勝負と謳ってあり、ボクシングでもキックでもプロレスでも、誰でも参加できるということを読んだものですから、カッと血が熱くなりまして・・・
でも考えてみるとスケジュールの調整がどうしてもつかないんで残念ながら諦めました」
(アントニオ猪木)
そして新日本プロレスは、ブラジルで興行を行ったが
「誰の挑戦でも受ける」
というアントニオ猪木の言葉を聞いて、ボクシングと柔術をバックボーンに持つバーリ・トゥード(なんでもあり)最強の戦士、イワン・ゴメスが、すさまじい距離を運転してやってきて
「挑戦したい」
といった。
イワン・ゴメスは172cmと小柄ながら全身筋肉。
このハイリスク、ローリターンな戦いを猪木が受けるはずがなく、逆に新日本プロレスの営業本部長、新間寿は、
「月給1500ドル(約45万円)+試合給」
という条件でスカウト。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンレスリングに興味を覚えたゴメスは、それに応じ、来日。
レスリングのトレーニングをしつつ、レスラーに自身のスタイルを教えた。
基本的にチョークスリーパーとヒールホールドしか使えない、強いが地味なゴメスはずっと前座で、アントニオ猪木と戦うことはなかった。
藤原喜明は、イワン・ゴメスからヒールホールドを学んだ。
後にサンボの麻生秀孝から膝十字固めを学ぶなど、足関節においてはカール・ゴッチをしのぐといわれ
「関節技の鬼」
と恐れられ、必殺のわき固めは
「フジワラ・アームバー」
と呼ばれた。


1975年7月、藤原喜明から3年遅れで、佐山サトルが新日本プロレスに入門。
山口県下関生まれ。
子供の頃からスポーツ万能で身体能力が高く、アントニオ猪木を崇拝し
「プロレスこそ真の格闘技」
「プロレスこそ最強の格闘技」
と信じ、プロレスラーになることを決めた。
中学では柔道部に入り2年で黒帯をとったが、バックドロップやスープレックスのような裏投げを繰り出していた。
中学を出たら新日本プロレスに入るつもりだったが、教師と親に
「高校だけはいけ」
「アマチュアレスリングでオリンピックに出てからプロになれ」
といわれ、レスリング部のある高校に進学。
山口水産高校レスリング部の顧問は素人だったが、柔道の経験だけで1年生で国体の候補選手になった。
県の合宿で長州力(ミュンヘンオリンピック、フリースタイル90kg級、韓国代表)を育てた桜ヶ丘高校レスリング部監督、江本孝允に指導を受けた。
短期間ながら初めて本格的なレスリングを学び、合宿の最後に県代表を決める選考スパーリングが行われ、インターハイ4位と対戦し、レスリングを始めたばかりの1年生はフォール勝ち。
その後、1年生と2年生が対象の新人戦に75kg級でエントリーしたが、ほかの選手が佐山を避けたため出場者は1人だけ。
山口県レスリング協会は
「1試合も戦わないまま優勝させるわけにはいかない」
と1階級下の1位、2位、3位、そしてヘビー級の1位、の4人と試合をさせ、その成績をみて75kg級の優勝を認めることにした。
そして佐山は4人にフォール勝ち。

佐山サトルは、このまま高校でレスリングをやっていても仕方がないと1年で高校を中退。
父親のコネで千葉県の工場で住み込みで働きながらチャンスを待ち、半年後、後楽園ホールで行われた新日本プロレスの入門テストを受け、

スクワット500回、
ブリッジ3分
スパーリング

を難なくこなしたが、
「体が小さい」
という理由で不合格
3ヵ月後、再びテストを受け、合格。
柔道やレスリングは、いかにして相手を投げるかだったが、新日本プロレスの道場で行われるスパーリング、「セメント」は寝技。
一瞬で極まり、1度極まれば逃げることができないサブミッションにのめりこんでいった。
トレーニングも徹底的にやり、100m走 12秒7、ベンチプレス160kg、背筋力 293kg、腕相撲は坂口せいじについで2位とバケモノじみた身体能力を誇った。
常にノートを持ち歩き、トレーニングや練習を記録し、思いついたことを書きとめ、熱心に研究した。


入門8ヵ月後、新潟県長岡市で興行が終わった後、ホテルで藤原喜明とあるレスラーが口喧嘩を始めた。
同じ部屋にいた、まだデビュー前の佐山が
「そんなこといっても藤原先輩はあの先輩に勝てないじゃないですか」
というと藤原喜明は
「お前はプロレスのことを何も知らない。
試合で自分は負けてやったんだ。
俺にボディスラムをかけてみろ」
といった。
佐山がかけてみるとビクとも動かない。
「もう1度やってみろ」
といわれやってみると今度はかんたんに持ち上がった。
「プロレスは真剣勝負の世界なんかじゃない。
お互いが協力するショーだ」
プロレスは真の格闘技で真剣勝負をしていると信じていた佐山サトルは、天地がひっくり返るような衝撃を受け、呆然とした
同時にプロレスラーに抱いていた畏怖の念も消し飛んだ。
ただしカール・ゴッチやアントニオ猪木、藤原喜明、イワン・ゴメスなど一部の人間は別。
彼らの関節技が本物であることは体で理解していた。
佐山は
「真の格闘技は打撃に始まり、組み合い、投げ、極める」
そう紙に書いて寮の部屋に貼った。


1976年 アントニオ猪木は異種格闘技戦を開始。
プロレスは、大相撲やボクシングに視聴率で引けをとらないのに新聞でもニュースで試合を結果を報道されることはない。
力道山の時代から八百長、ショーと思われ、スポーツとして認知されていなかった。
この見下された状況を覆し、プロレスの強さを認めさせるためには、ボクサー、空手家、柔道家、キックボクサーなど真剣勝負をやっている競技のトップクラスと戦って勝つしかない。
「誰とやっても負ける気がしない」
「誰の挑戦でも受け」
「プロレスこそ最強」
「プロレスこそキングオブスポーツ」
そう語る猪木にファンはロマンを感じた。

2月6日、1972年ミュンヘン・オリンピック柔道、93kg超級、無差別級金メダル、196cm、120kg、ウイリエム・ルスカは、その投げ技と寝技は圧倒的だった猪木は張り手からコブラツイスト。
柔道着を脱ぎ捨てたルスカにドロップキックからバックドロップ3連発。
20分35秒、TKO勝ち。

6月26日、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、スーパースター、モハメッド・アリとの戦いは、アンバランスなルールのスキマをついて猪木がスライディングキック(アリキック)に終始し、15Rドロー。
単調な内容に「世紀の凡戦」といわれたが、アリは左脚の治療のため入院し、猪木は何億という借金を背負い込んだ。

12月12日、パキスタンの英雄、アクラム・ペールワンから挑戦状が届き、猪木は敵地、カラチ・ナショナル・スタジアムに乗り込んだ。
3R、1分5秒、アーム・ロックが完全に極まったのにギブアップしないペールワンに、猪木は、その腕をへし折り、ドクターストップで勝利。

このうちモハメッド・アリ戦、アクラム・ペールワン戦はリアルファイトだった。


1977年10月、アントニオ猪木 vs チャック・ウェップナー(映画「ROCKY」のモデルになったボクサー)戦では、佐山サトル考案のオープンフィンガーグローブが使用された。
藤原喜明と共にアントニオ猪木の付き人をやり、プロレスラーでありながら打・投・寝、すべてOKの真の格闘技を目指していた18歳の佐山サトルは、猪木に
「打撃と投げと関節技を合わせた新しい格闘技をつくりたいんです」
と打ち明け
「わかった。
お前のいう新しい格闘技をウチでやろう。
実現したときお前を第1号の選手にする」
といわれた。
以後、佐山サトルはプロレスラーとして仕事をこなしながら、キックボクシングの目白ジムに通って打撃の練習を積んだ。
目白ジムは、極真空手の創設時のメンバーで、自身、タイでムエタイの試合を経験した黒崎健時を会長とする名門ジムだった。


1977年11月、日本武道館で梶原一騎主催の「格闘技大戦争」が行われ、日本のキックボクサーとアメリカのプロ空手家が対決。
アメリカでは、プロ空手(マーシャルアーツ)が大ブーム。
特にライト級チャンピオン、ベニ―・ユキーデは大人気で、ロサンゼルスに「ジェットセンター」という大きな道場を構えていた。
またヘビー級チャンピオン、ザ・モンスターマンは2ヵ月前に猪木と異種格闘戦を行っていた。
「格闘技大戦争」のメインは目白ジム所属で外国人として初めてムエタイ王者となったライト級の藤原敏男。
佐山サトルも出場することになり、試合3ヵ月前から目白ジムで合宿生活に入り、90kg以上あった体重を77.5kgまで落とした。
試合当日、猪木がリングサイドに、山本小鉄がセコンドに入った。
相手は、ミドル級とスーパーウエルター級で3位のマーク・コステロ。
ルールは、2分6R、大きめのグローブをつけキックとパンチで戦い、投げ、寝技禁止。
さすがに寝技までは持っていけないが佐山は
「頭から落とせば勝てるだろう」
とスープレックス、バックドロップで投げ、
「決まった」
と思ったが、レスリング経験者のコステロは柔らかく受け身をとって立ち上がってきた。
そして打撃戦へ入り、佐山は目白ジムで特訓したパンチとローキックを繰り出すが当たらず、長身のコステロは左のパンチと膝蹴りでメッタ打ちにされ、ダウンを繰り返す。
6R中、7度のダウンを奪ったマーク・コステロが判定勝ち。
最後まで倒れなかった佐山は、その後、自らサンドバッグを購入し、キックの練習を続けた。
このときはまだ前座レスラーで、スポーツ紙に誤って「佐山トオル」と書かれてしまうほど無名だった。

1977年7月、佐山サトルから2年遅れて、前田日明が新日本プロレスに入門。
前田日明の母が父と初めて会ったのは結婚する3日前で、とにかく親の望んだ人と結婚するという古風な人だった。
逆に父はチャランポラン。
前田家の隣に宗教団体に属する人間が引っ越して、定期的に入信者が集まりお経を唱え、かなりうるさかった。
ある日、コップで飲んでいた父は、
「アキラ、バット持ってこい」
といい、前田が持っていくと母親は
「持ってきちゃダメ」
と叫んだ。
次の瞬間、父は隣家に乗り込んでいった。
「ガシャン、ガシャン、パリーン」
「キャー・・・・」
そのまま父は1ヵ月帰ってこなかった。
「ウルトラマン」の最終回でウルトラマンがゼットンに倒されるのをみた小学2年生の前田は、ボロボロ泣きながら
「ウルトラマンの仇をとる」
と決意。
ゼットンを倒すために少林寺拳法を習い始めた。


中2のとき、両親が離婚。
前田は45歳の父親と2人暮らしになった。
ある日、
「2~3か月出張にいってくる」
といって父は韓国へ行って結婚。
以後、生活費を稼ぐために日本に戻ってきて、1、2万円置いて、また2、3ヵ月韓国へいくという生活を繰り返した。
前田は高1の終わりから工事現場で働き始めた。
「高校1年か2年のとき、猪木vsアリ戦があったんだよね」
やがて父親は韓国で離婚し、日本へ帰ってきてすぐに女をつくり
「昔は15歳で元服だ。
16過ぎてるんだから1人で暮らせ」
といった。
頭に来た前田は、ある夜、包丁を持って玄関で父の帰りをジッと待ったが、やがて空が白み始め、アホらしくなった。
「自分はなんてバカバカしいことをやっているんだと。
父親に振り回されて。
自分の人生やないやないかと。
自分で生きていこうと決めたんです」
そして高校と仕事に行きながら空手とバイクに熱中した。
「空手の道場の先生はわりと寛容にケンカも黙認する人で『やるのはいいんだけど負けちゃいけないよ』と。
初段をとったとき路上教習があって、1番最初はホテル街にいって女をホテルに連れ込む男を見つけてシバいて、それ卒業したら酔っ払い同士の喧嘩に入って止めるフリして両方をシバくんです。
それをクリアしたら強そうなヤツ。
最後は戦闘服を着てるやつに『行って来い』と。
ボクシングの試合みたいにずっと殴り合うなんてケンカではあり得ない。
ワンパン(ワンパンチ)です。
まあケンカには前口上もあるから、ケンカは口8割、実技1割、あと運1割」


前田日明は
「強くなりたいねん」
それだけだった。
マンガ「空手バカ一代」がバイブルで、極真空手の大山倍達の弟子達のようにアメリカで空手の道場を開くのが夢。
大学受験に失敗するとアメリカ行きの金を貯めるためアルバイトに明け暮れた。
そんなとき空手の先輩と公園で練習しているとイカつい体をした男が近づいてきた。
「それはキックですか、空手ですか?」
それが佐山サトルで、その後、一緒に練習した。
「佐山さんは身長は小さかったですけどサイコロみたいに横幅がありましたし、もう組んだらポーンって投げられてどうしようもなかったですね。
凄い力やなぁと思ってね」
アントニオ猪木の付き人やっていた佐山聡は、前田日明のことを話し、猪木はそれを新日プロレスの営業部長、新間寿に話した。
新間はすぐに大阪に飛んで、前田日明をスカウトした。
「プロレスラーにならないか?」
「とんでもない!
自分は無理です」
「君はモハメッド・アリが好きか?
ヘビー級ボクサーになる気はないか?」
「ヘビー級ボクサーだったら考えてもいいです」
「じゃあモハメッド・アリの弟子にしてやろう。
ウチはモハメド・アリのジムと提携してる(ウソ)から一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる。
ただ君はまだ体ができてないんでウチで1~2年間体を大きくしてアリの弟子になったらいい」
「新日本プロレスに1~2年食べさせてもらってトレーニングさせてもらって、どうやってお返しすればいいんですか?」
「ちょっとだけ試合してくれればいいから」
前田は 金を貯めなくてもアメリカに行けると思い 新日本プロレスの門を叩くことにした。
192cm、73kgのガリガリだった前田は、キツい練習とトレーニングをした後、山盛りのドンブリ飯を5杯から10杯食わされた。

東北巡業中、着替え中の藤原喜明にあいさつしたが、
「シッシッ」
と手で追い払われ、開場前のリングで汗を流す藤原が相手がいないのをみて
「藤原さん、スパーリングお願いします」
と志願したが、
「シッシッ」
1ヵ月後、山口県の巡業で、その藤原と前田のやり取りをみたアントニオ猪木は
「藤原、たまには新弟子の相手をしてやれよ。
よし、前田、俺がやってやる」
といった。
「何をやってもいいんですか?」
「いいよ」
目の前に立つ猪木に前田は金的蹴りから目突き。
金的蹴りは太い内腿にガードされたが、目は無防備だった猪木が、
「ウーッ」
となった瞬間、周りで練習していた先輩たちがリングに上がってきてボコボコにされた。
それを横でみていた藤原は大笑い。
「バカは死ななきゃ直らない」
といって、それから毎日、前田とスパーリングをした。

このとき藤原喜明は28歳。
レスラーとしては前座だったが、実力的には誰にも負けないという裏番長的な存在だった。
前田日明は、スパーリングでおもちゃにされながら、藤原がなぜTVに映らない前座なのか、藤原より実力で劣るレスラーがリングでスポットライトを浴びるか、不思議だった。
前田は藤原とスパーリングやり始めて1年くらいたったとき、坂口征二に
「スパーリングやろう」
といわれた。
前田は元柔道日本一の実力はすごいのだろうと思ったが、やってみると自分を極めることができない。
しかし他のレスラーもみている中、気を遣ってわざと関節を取らせ、坂口が腕ひしぎ十字固めを極めてスパーリングは終わった。
すると藤原は前田を呼び、
「俺はそんなことをするためにお前にスパーリングを教えてるんじゃない」
といって涙を流した。
それをみて前田は
「こんなにオレにことを思ってくれている」
と感動した。
1978年、20歳になった佐山サトルは
「猪木さんはいつになったら格闘技をやらせてくれるのだろう」
と思いながら日々、プロレスと格闘技の練習をしていた。
それなのにメキシコ遠征を命じられ、不服だったが渡墨。
天才的な運動能力でメキシコのプロレスファンを魅了。
専門誌、ルチャ・リブレのネンカンレスラー・オブ・イヤーとテクニシャン・オブ・イヤーに選ばれた。

新日本プロレスの中でも1番、カール・ゴッチの影響を受けたのは藤原喜明だった。
初めてその関節技をみたとき、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け
「本物だ」
と思ったという。
猪木の付き人とトレーニングパートナー、そして前座レスラーを務め、30歳を過ぎた藤原はフロリダ行きを志願。
許可されるとアメリカに飛んだ。
藤原がゴッチに鍛えられ始めて3ヵ月経った頃、佐山サトルがアパートに転がり込んできた。
佐山は、日本以上にショーアップされ、格闘技の匂いがまったくしないたメキシコのプロレスで、跳んだり跳ねたり激しい試合をこなし、トペ(場外ダイブ)を放ち、イスに強く腰を打ちつけてしまうこともあった。
標高2240mにあるメキシコシティは治安が悪い上、空気が薄く、食事も合わず、体調不良と欲求不満で体重は10kg減。
親友のジムで指導するためメキシコを訪れたカール・ゴッチが、別人のようにやせてしまった佐山をアメリカにつれて帰ってきたのである。

9時、起床
10時、アパートにゴッチが車で迎えに来る
11時、トレーニング開始。

ゴッチは、ウエイトトレーニングだけではなく、自重や他の器具を使ってさまざまな角度から負荷をかけて筋肉をつくることを強調した。
道には電柱あり、あの電柱まではアヒル歩き、次の電信柱までは佐山が藤原をオンブして歩き、その次の電信柱までは藤原が佐山に足を持ってもらい腕で歩くなど、いろいろなメニューで片道2.5km、往復5kmを90分かけて進む。
そしてトランプを使ってトレーニング。
2人、交互にトランプをめくり、ハートなら腕立て伏せ、スペードはスクワット、クローバーは腹筋。
ハートの9が出たら腕立て伏せ9回となるが、スクワットだけは出た数字の2倍の回数を行う。
それが終わると庭に木に吊るしたロープを登る。

14時、トレーニング終了。
休憩に入り、水で割った赤ワインを飲む。
休憩後、町の柔道場に移動し、ブリッジなどの基本動作、関節技の練習、スパーリング。
17時、練習が終わり、3人はスーパーで買った安いステーキ肉と赤ワインで夕食。
21時、ゴッチに車でアパートまで送ってもらう

2人は、教わったことをノートに、藤原はイラスト入りで、佐山は文章で記録した。
「ゴッチさんの教えでいい言葉はいっぱいありますよ。
『牛も倒さないと料理もできない』
『短く攻める』
あとゴッチさんが聞かれたらしいですよ。
『あなたの決め技はなんですか?』と。
ゴッチさんは『コンディションです』と答えたというんだ。
コンディションがよくないといくら立派なテクニックを持っていても勝てないということ。
あと後ろ攻めるのはオカマだけ』とか。
つまり横から攻めろということだな」
(藤原喜明)

藤原喜明が佐山より少し先にフロリダ修行を終え、帰国。
ゴッチに習った技術を新日本の道場で磨いた。
すると前田日明はもちろん、小杉俊二、山田恵一(獣神サンダーライガー)、武藤敬司ら若手も集まってきて
「藤原教室」
と呼ばれるようになった。
彼らは藤原の関節技を真剣なまなざしを向け、技の練習が終わるとスパーリング。
藤原は関節技の技術だけでなく
「相手をくしゃくしゃにしてやれ」
などといって、戦う心を強調した。

前田日明から3年遅れ、新日本プロレスに入団した高田延彦は、いきなり藤原教室にも入った。
小学校のときに長嶋茂雄に憧れ、オール横浜にも選ばれた野球少年は、中学でアントニオ猪木にハマり、17歳で新日本プロレスに入ったとき体重は64kg。
ハードなトレーニングとスパーリングで痛めつけられた。
そして入門半年後、同期と飲みに行き、門限に遅れ、寮長だった前田日明に半殺しにされた。
また試合会場で子供たちがパンフレットの対戦カードをみながら勝敗予想をしているのを目撃。
その予想はすべて当たり、結果が決まっている八百長試合をしていることを恥ずかしく感じ、そのことを藤原喜明にいうと
「本日の第1試合じゃなくて第1芝居なんだ」
といわれた。
あるとき第1試合に出場することになった高田延彦は、16時から試合用のリングで合同練習が始まり、17時半から客が入り始めたが、18時20分くらいまで藤原とセメントをやらされた。
藤原は高田を抑え込みながら、客にVサイン。
高田は、スパーリングから解放されて数十分後に試合に立った。
藤原は藤原教室の教え子の試合にはセコンドにつき、ここぞというときは親指と人差し指を立ててピストルの形をつくる。
これは
「殺せ」
という意味のシュートサインで、送られた側はガチンコをした。


アントニオ猪木は、柔道家、空手家、ボクサーなどと異種格闘技戦を行い
「プロレスこそ最強の格闘技」
「いつなんどき誰の挑戦で受ける」
と明言。
そのため新日本プロレスには道場破りがやってきた。
この相手をしたのが藤原喜明。
目と急所への攻撃以外なんでもOKというルールで戦い、関節技を極めて「まいった」させた。
「猪木さんが格闘技世界一というもんだから挑戦者たちが道場に来るわけですよ。
となるとそうしたやつらに対応するやつがいないといけない。
今はプロレスラーがバカにされているから来ないと思うけど、当時は猪木さんが「オレが世界で1番強いんだ」といっているから当然来るわな。
そのときオレらは刀を持ってるんだけど刃の部分を隠して戦っている。
でもいつでも鞘は抜ける状態なんだ。
だからオレが当時若いやつらにいっていたのは、これも例えだけど常にナイフは研いで懐に入れておけと。
でも(道場破りが来ると)周りのヤツらが道場からいなくなっちゃうのよ。
さっきまで居たのに、腹が痛いとかってさ。
だから道場破りと対戦すんのも俺しか残らないんだよ。
1度、ハイキックを喰らってな・・・
小鉄さんがレフェリーやってて相手が参ったっていうから1回離したんだよ。
そしたら向こうが蹴ってきやがって・・・
それで頭にきちゃって『ぶっ殺すぞ』っていったら周りに止められたんだよ」


当時、新日本プロレスのリングでは、藤波辰巳、木戸修、キラー・カーン、木村健悟など若手がしのぎを削り、スポットライトを浴びていた。
一方、藤原喜明は前座。
テレビ中継もない地方大会巡業で、アメリカで「アンドレの脚を折った男」として凱旋帰国したキラー・カーンは
「マディソン・スクエア・ガーデン で1試合・・・・円もらった」
と自慢話をしていた。
藤原はそれが面白くなかったのでキラー・カンが試合でリングに上がるハシゴをわざと逆さに出した。
試合後キラー・カンは
「藤原、あんなことするな!!」
と怒った。
その夜、選手そろっての食事のとき藤原はカーンに毒づいた。
「強くもないくせに」
「このヤロウ!」
年下の藤原にいわれたカーンは立ち上がり、2人はもみ合いになった。
「だったらリングの上でやってみろ!」
この猪木の鶴の一声で、翌日急きょ試合が組まれることになった。
試合前の合同練習に藤原の姿はなく、1人、体育館の大きなカーテンを結んでサンドバック代わりにしてパンチを打ち込んでいた。
そして試合が始まるといきなりキラー・カンに殴りかかり、ロープに詰めてラッシュ。
キラー・カンは倒れなかったが、藤原は寝技に引き込み、関節技をかけた。
キラー・カーンは防戦一方になってしまい、見かねた長州力とマサ斎藤が乱入して強引に試合を終わらせた。
まだ前座にすぎない藤原がスター選手を手玉に取る様子をみて観客がどう思ったはわからないが、レスラーたちからすれば藤原の強さを知っているから当然の結果だった。
前田日明、高田延彦も道場破りの相手をしていたが、観客の前で行う試合より藤原教室のスパーリングを重視するようになった。

一方、アマレスのエリートだった長州力は、藤原教室を
「今さらこんなこと・・・」
というような目でみていた。
在日韓国人二世という出自のため小学校時代、教師からも差別を受け、中学では柔道部に入り、山口県桜ケ丘高校にはレスリング部の特待生として進学。
3年生のでインターハイで準優勝、国体で優勝。
専修大学商学部に特待生として入学。
2年生で全日本学生選手権90kg級で優勝。
3年の年生のとき、ミュンヘンオリンピックを迎えたが、日本国籍がないことから日本代表にはなれず、急遽、韓国の選考会に出場し代表となってフリースタイル90kg級で出場。
メダルに手は届かなかったが
「立てた目標に対してはたどり着けたっていう思い」
4年生でキャプテンとなり、全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの100kg級で優勝。
大学卒業後、新日本プロレスに入った。
「練習の厳しさでいったら断然プロ。
お客さんにみてもらって儲けるわけだから、体をつくるにもストイックさが求められる」
といいつつ、
「プロレスは表現」
と思っていた。

1981年、高田延彦より1年遅れて、山崎一夫が新日本プロレスに入門。
中学生のときに藤波辰巳に憧れ、どうしたらプロレスラーになれるのか、新日本プロレスの道場に聞きにいった。
「だったらベンチプレスを挙げてみろ」
応対した小林邦昭はいわれやってみると、体重70kgの山崎は50kgのバーベルを上げるのが精いっぱい。
これをきっかけに猛練習を開始。
朝、授業が始まる前、授業の合間の休み時間に腕立て伏せやスクワット。
ダンベルを購入し、バレーボール部からバーベルがある柔道部に移った。
その結果、ベンチプレス130kg、スクワット2000回、腹筋1200回をこなせるになった。
そして高校卒業後、新日本プロレスに入門。
合宿所に入った日、荷物を運び入れていると
「もしよかったらお茶飲みにいきましょう」
という声が聞こえ、みてみると引越しの手伝いをしていた姉が前田日明にナンパされていた。
寮長の前田は、後輩に厳しい一方、情が厚くイタズラ好きで憎めない人だった。
髙田延彦は、料理が苦手でチャンコ番になると豚肉を買うだけで
「今日はポークソテーです。
焼き加減は皆さんのご自由に」
といい、山崎にお金をわたしてチャンコ番をやらせることもあった。
前田は
「またポークソテーか。
今日のチャンコ番、髙田やな」
といって肩を落とした。


藤原喜明が帰国して1ヵ月後、佐山サトルもフロリダを離れ、メキシコに戻り、3ヵ月ほど試合をした後、ゴッチの紹介でイギリスへ渡った。
そしてブルース・リーの従兄弟「サミー・リー」として黄色いジャンプスーツで入場。
軽快なステップとスピンキック、ハイキック、サマーソルトキック、ローリングソバットなど多彩な蹴りを繰り出し、イギリスでもトップレスラーとなった。
プロレスラーとしてロンドンで順調な生活を送っていた1981年4月、日本から国際電話が入り
「帰国して欲しい」
と新間寿にいわれた。
「4月20日からタイガーマスク2世というアニメが放映され、新日本プロレスのリングにも生身のタイガーマスクを登場させたいのでマスクをかぶってくれ」
てっきり新しい格闘技の話かと思った佐山サトルは
「僕は帰れません」
といって切った。
実際、2ヵ月後に世界ミッドヘビー級のタイトルマッチが決まっていたし、マンガのヒーローをストロングスタイルの新日本プロレスに登場させる意味がわからなかった。
しかしその後も毎日、矢のような催促。
「タイガーマスクの映画をつくる」
「梶原先生に顔向けできないじゃないか」
新間寿が何をいっても佐山はハイといわなかったが
「君がマスクをかぶってくれないと猪木の顔を潰すことになる」
というと、
「わかりました」
尊敬するアントニオ猪木の名前を出すと佐山サトルは弱かった。

佐山サトルが成田に到着したのは1981年4月21日。
23日にはタイガーマスク vs ダイナマイトキッド戦が決まっていた。
22日にマスクが渡され、マントが渡されたのは試合当日。
どちらもペラペラでチープな作りだったが、それをつけて花道に出ていった。
客は
「どうせ話題作りだろう」
と全然期待しておらず、失笑さえ起きた。
相手のダイナマイトキッドは、蛇の穴(ジム・ライレージム)出身の爆弾小僧。
タイガーマスクは組み合おうとせず、軽快なステップで距離を保ちつつ、速くて多彩なバリエーションのキックを繰り出した。
ヘッドロックからレッグシザース、リストをつかまれるとヘッドスプリングと鮮やかな切り返し。
場外のダイナマイトキッドにトペと思いきや、ロープの間をクルリと旋回してリングに戻るフェイント。
爪先立ちの完璧なブリッジによるスープレックス。
後方宙返りしながら相手を蹴るサマーソルトキック。
新日本プロレスのセメントサブミッションレスリング、メキシコのルチェ・リブレ、目白ジム仕込みのキックが融合した「3次元殺法」に観客は度肝を抜かれ、この10分間の戦いでスーパースター、タイガーマスクが誕生した。

あまりの大成功に、当初、「1試合だけ」といわれていたこともウヤムヤになってしまい、1981年6月18日にロンドンで行われるはずだった世界ミッドヘビー級選手権、サミー・リーvsマーク・ロコ(初代ブラック・タイガー)は、サミー・リーの肉親が急死したという理由でキャンセル。
アントニオ猪木、藤波辰己、長州力、「不沈艦」スタンハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアントなどスター揃いの新日本プロレスだったが、タイガーマスクの人気はそのすべてを超えた。
試合会場は超満員が続き、それまでプロレスに興味を持っていなかった女子中学生、女子高生にもタイガーマスクは話題になった。
毎金20時の「ワールドプロレスリング」は平均視聴率20%を超え、裏番組の人気刑事ドラマ「太陽にほえろ!」を脅かした。
タイガーマスクグッズはバカ売れ。
サイン会や握手会などイベント、スポンサーの食事会に佐山はマスクをかぶったまま出席。
しかし自分の理想の格闘技を忘れることはなかった
深夜、1人で練習とトレーニングを続け、高価だったワープロを購入し、自分の考えたルールを打った。

結婚を予定していた佐山サトルは、東京スポーツの記者に口車に乗せられ
「タイガーマスク結婚」
とスッパ抜かれてしまった。
新間寿は烈火のごとく怒った。
「まだまだタイガーマスクはこれからなのにいったい何を考えているんだ。
そんな浮ついたことでスター街道が歩めるか」
そしてリング上で
「結婚は3年間しません」
と誓わせた。
この件で、一部マスコミは「タイガーマスクの人権無視」と非難。
「冗談じゃない。
タイガーマスクと佐山聡は別ものだ。
タイガーマスクは会社の財産であり、これからまだまだ稼いでもらわねばならないレスラーだ。
企業防衛として結婚を打ち消すのは当然のことだ」
新間寿はそう主張したが、結婚式を海外で極秘に挙げるよう強要された佐山サトルは憤りを感じていた。

日本中が空前のタイガーマスクブームで沸く中、山崎一夫は、佐山サトルの付き人となった。
「佐山さんの付き人は大変そうと思うかもしれないですが、当時はホントに気の優しいお兄ちゃん的な感じで、付き人の中で1番ってくらい楽でした。
地方に行くたびにサイン会があるんです。
僕とケロちゃん(田中秀和リングアナ)がついてって、ケロちゃんが司会をするんですが、いくたびに何十万円か佐山さんに入るんです。
小遣いとして僕とケロちゃんに一万円札をわけてくれて・・・
巡業に出るとみんな最後はすっからかんなんですよ。
でも僕だけは増えているんです」
小林邦昭はタイガーマスクと対戦する度にマスク剥がしを行ったが、山崎が替えのマスクを持ってリングに上がって被らせたことがあった。
以後、マスクが剥がされると会場から
「山ちゃん、早くぅ」
という声が上がった。

1982年2月、5年間にわたり藤原喜明とスパーリングを積んだ前田日明は、待望の初の海外遠征に出て、イギリスでサミー・リーの弟、「クイック・キック・リー」としてリングに上がった。
一方、アントニオ猪木は
「プロレス界における世界最強の男を決める」
と世界中に乱立するベルトを統合し最強の統一王者を決めようというBIGイベント「IWGP(インターナショナルレスリンググランプリ、InternationalWrestlingGrandPrix)」構想をブチ上げ、新日本プロレスは準備を進めていった。
イギリスにいた前田日明も、修行を1年で終了し、IWGPに参戦するために帰国することになったが、日本に戻る前にアメリカのフロリダに寄り、約1ヵ月間、カール・ゴッチからトレーニングを受けた。
このとき20歳の高田延彦も渡米し。トレーニングパートナーを務めた。
当初、IWGPは、開幕戦は日本で行い、韓国-中近東-ヨーロッパ-メキシコとサーキットし、決勝戦はニューヨークで行うという計画だったが、プランが壮大すぎることや「プロレス最強の男を決める」ということに対し(当然、負けたほうが損だから)各地区のチャンピオンやプロモーターは難色を示すなど紆余曲折あり、日本国内でのリーグ戦に大幅に縮小された。
参加したのは、

日本代表:アントニオ猪木、キラー・カーン、ラッシャー木村
北米代表:アンドレ・ザ・ジャイアント
アメリカ代表:ハルク・ホーガン、ビッグ・ジョン・スタッド
中南米代表:カネック、エンリケ・ベラ
欧州代表:オットー・ワンツ、クイック・キック・リー(イギリスから呼び戻された前田日明)

の10名がリーグ戦を行った。


最終的にアントニオ猪木とハルク・ホーガンが勝ち点で並び、1983年6月2日に蔵前国技館で優勝決定戦が行われた。
アントニオ猪木とハルク・ホーガンの戦いは一進一退だったが、途中、劣勢の猪木がエプロン際でホーガンのアックス・ホンバーを受け、リング下に転げ落ち、レフリーのMr.高橘はカウントを数え出した。
「高橋、バカ野郎、待てよ」
坂口征二がそう叫びながらリングサイドから飛び出し、猪木を抱えてリングに入れようとした。
しかし猪木はエプロンでうつ伏せになり舌を出したままピクリとも動かなかった。
坂口は舌が巻きついて呼吸困難ならないよう自分の履いていた草履を猪木の口に突っ込んだ。
試合はハルク・ホーガンのの勝ちとなり、猪木はすぐに病院に担ぎ込まれ面会謝絶になった。
坂口と新間寿は病室の外でひたすら待ち、翌朝、病室に入ると、なんとベッドには猪木ではなく猪木の弟が寝ていた。
猪木は夜中にコッソリ抜け出していた。
自分が勝つよりも失神KOという衝撃的に負けるほうがカネになるという判断だったことに気づき、坂口は激怒。
「こんな話あるか
ふざけるんじゃないよ
俺は当分、会社出ないよ」
といい
「人間不信」
と書いた紙を会社の自分の机の上に置いてハワイに行った。

2、3日後、新間は病院に挨拶にいき、猪木が途中で帰ってしまったり、マスコミが病院に押しかけて大騒ぎになったことを謝った。
「ご迷惑をおかけしました」
すると看護師がこんなことをいった。
「私たちはあの試合を見させていいただきました。
新間さんや猪木さんはプロレスではプロかもしれません。
でも私たちは看護のプロです。
猪木さんがやったように舌を出したま失神するというのは医学的にありえません。
あれは猪木さんの芝居です」
新間はショックだった。
勝つべき試合で猪木は失神KOされ、今は雲隠れしている。
坂口はいなくなってしまう。
いったい何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。
そしてこの事件をきっかけに新日本プロレスは悪い方向に向かっていった。
「やはりレスラーはリング上で強くなくてはならない。
そうでなけれぱ示しがつかなくなる。
IWGPの優勝を猪木が逃すことによって組織のタガが外れてしまったのだ」
(新間寿)

猪木の個人事業の1つにアントンハイセルがあった。
アントンハイセルは1980年に設立され、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすの有効活用法として考案された事業だった。
当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、アントン・ハイセルはバイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けだった。
アントンハイセルを開始するにあたって猪木は自民党の大物議員に
「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」
といって協力を呼びかけたが断られ、逆にブラジル情勢を危惧し辞めるよう説得された。
実際、プロジェクトを進めていくとサトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りカス(バガス)が公害問題となった。
バガスを土中に廃棄すると土質が悪化し農作物が取れなくなり、家畜に飼料として食べさせると直ぐに下痢を起こしてしまい、バガスを食べた家畜の糞を有機肥料としようとしたが気候の問題で発酵処理に失敗。
さらに追い討ちをかけるようにブラジル国内のインフレにより経営は悪化の一途を辿った。
こうしてアントンハイセルは数年で数十億円の負債を出した。
猪木はテレビ朝日に放送権を担保に12億円を肩代わりしてもらったが、補え切れず、新日本プロレスの収入の大半を補てんに回してしまった。

社命によってアントンハイセルの社債の購入が義務づけられ、坂口征二は自宅を担保に数千万、藤波辰巳は妻の実家から数千万、すべての背広組、レスラーが100万円以上を出した。
その上、1983年春の契約更改で、ほとんどのレスラーが現状維持。
客は常に満員なのに給料が上がらない。
すべての社員やレスラーが不満に思う中、猪木の舌出し失神KO負け事件が起こった上、株主総会で新日本プロレスは、
「売り上げ19億8000万円、利益750万円」
という信じられない数字を報告。
ホーガン戦の約2カ月後、人気絶頂の新日本プロレスでクーデターが起こった。
まず1983年5月16日、長州力、アニマル浜口らが新日本プロレスの三重県津大会を無断欠場し
「新日(新日本プロレス)から脱退したい」
と表明。
「社長、これは職場放棄ですよ。
謹慎処分か退職処分にすべきではないですか」
新間は猪木に訴えた。
「そう派手にやってくれるなよ。
そもそもは俺が昨年の長州造反を押さえつけなかったことが原因なのだろうが、長州が今回やったことにしてももう1つ心から怒れない部分があるんだよ。
この前もいったように俺も長州と同じことをして自分を主張してきたし・・・」
「いや、ペナルティを科して、それが受け入れられなければ辞めさせるべきです」
「俺は長州を信じている」


「結局、猪木は長州、浜口を野放しにした。
同じ釜のメシを食い、肌をあわせ汗を流した選手達の絆の強さ。
やはり選手は違うんだな、選手のほうが可愛いのかなと思った。
しかし処分しなかったことで、山本(小鉄)、藤波(辰巳)らは、これなら何をしても大丈夫だと勢いづいて、私たちの知らぬところで着々と手を打っていた」
(新間寿)
1983年7月、サマーファイトシリーズを猪木は欠場
山本小鉄、藤波辰巳、大塚直樹(新日本プロレス営業部長)らは
「新団体をつくるためにはタイガーマスクがいる」
と考え、試合が終わった佐山サトルがホテルの部屋に戻るところ、藤波は
「このシリーズが終わったら話がある」
と声をかけ、大塚直樹がタイガーマスクをクラブに誘い、
「私達は新日本プロレスを辞めて新しい組織をつくります。
8月いっぱいで営業の者は突然いなくなります」
といった。
7月29日、富山で山本小鉄、藤波辰巳、大塚直樹、佐山サトルらが会合を持った。
山本小鉄は
「新団体は猪木、新間、坂口を除く」
といい、佐山サトルは違和感を感じた。
師であり恩人であり神であるアントニオ猪木を裏切るなんて考えられないことだった。
その後、態度を明らかにしない佐山サトルに大塚直樹は
「新日を出るなら500万円払う」
といい、
「もう営業は全員やめるつもりなんですよ、ほら」
と辞表をみせた。

1983年8月11日、突然、佐山サトルは、新日本プロレスに内容証明書付きの契約解除通告書を送り、一方的に引退。
8月13日、タイガーマスクはカナダでタイトルマッチを行い、日本でも中継される予定だったが、猪木の付き人として同行していた高田延彦が代役を務めることになった
21歳の高田延彦は、このテレビデビュー戦をレッグロールクラッチで勝利。
古館一郎に
「青春のエスペランサ(ポルトガル語で「希望」)」
というニックネームをつけられた。
8月18日、佐山サトルはテレビ朝日の「欽ちゃんのどこまでやるの!?」に出演し、マスクを脱いでテレビで素顔をさらした。
衝撃的なデビューから始まったタイガーマスク・ブームは2年4カ月目にして突然、幕を閉じることとなった。
結婚問題、クーデター事件に嫌気がさしたこと、格闘技への情熱が理由と思われるが、一般的には謎だらけの引退で、その衝撃は「猪木舌出し失神KO負け事件」の比ではなかった。

1983年8月20日、海外にいた猪木が帰国。
1983年8月21日、東京、南青山の新日本プロレスの事務所で、望月和治常務取締役と山本小鉄取締役は、猪木に退任を迫った。
1983年8月22日、猪木は自身が経営する六本木のレストラン「アントンリブ」で佐山サトルと食事。
新日本プロレスに戻るように説得したが、佐山の決意は固かった。
1983年8月24日、猪木と同じく日本を離れていた新間寿(営業本部長)が帰国。
1983年8月25日、新日本プロレス事務所で緊急役員会が開かれ、クーデター事件の責任をとる形で、猪木は代表取締役社長を、新間は専務取締役営業本部長を解任された。
1983年8月26日、坂口征二も副社長を退いた。
「忘れもしない1983年8月24日、まさに寝耳に水だった。
今も耳にこびりつき夢にまで出てくるアントニオ猪木の声。
『新間、もうダメだ。
俺が両手をついて頼むから新日本プロレスを辞めてくれ』
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
何とも弱々しい猪木の声。
これが世界最強の男の吐く言葉か。
『な、何で、社長・・・・・・』
すぐには信じられなかった。
何が起こっているのかすらも理解できなかった。
が、猪木の声を聞いてるうちにプロレスの情熱がスーッと抜けていった」
(新間寿)

1983年8月29日、新日本プロレスはテレビ朝日からの出向役員:望月和治、大塚博美、山本小鉄の3名が代表取締役とする新体制を発足。
こうしてクーデター側の勝利に終わったにみえたが、それは
「猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?
猪木が新日プロを辞めたらウチ(テレビ朝日)は放送を打ち切るよ」
というテレビ朝日の重役の一言で一気に力を失った。
1983年11月1日、新日本プロレス事務所で臨時株主総会が開かれ、猪木が代表取締役社長に、坂口が取締役副社長に復帰。
望月和治はテレビ朝日に戻され、大塚博美と山本小鉄は取締役に降格。
新間寿は新日本プロレスを去った。
大塚直樹も辞めて、株式会社新日本プロレス興行を設立。
これが長州力らの大量離脱へとつながっていく。

長年、フジテレビの水曜20時は「銭形平次」だった。
しかし主役の大川橋蔵が体調を崩していたため、新番組が検討されていた。
新日本プロレスを追われた新間寿は、その情報をキャッチすると自分の団体をつくることを決意。
交渉の末、フジテレビは「プロレス中継」を後釜に据えることにした。
新間は、猪木や長州力を新日本プロレスから引き抜き、タイガーマスクも加入させ、アメリカのWWFとのパイプを使ってアンドレ・ザ・ジャイアントやハルク・ホーガンを呼び、自分を追い出した奴らを見返してやろうと目論んだ。
その復讐にための団体を
「UWF(Universal Wrestling Federation、ユニバーサル・レスリング連盟)」
と命名。
社長に大学の後輩、浦田昇を据えた。
結婚式場や喫茶店、輸入代理店などを営むサンフルト(株)の社長である浦田は、学生時代、中央大学レスリング部で全日本選手権と全日本学生選手権で優勝した経験があった。

次に新間はクーデターに参加しながら新日本プロレスに残っていた部下に声をかけ引き抜いた。
そして献身的に尽くした上、自分を切り捨てたアントニオ猪木に2500万円を渡し、UWFへの協力を要請。
猪木は、新日本プロレスの選手数名をUWFに移籍させること、UWFのリングに上がって挨拶をすることを約束した。
新間は次に長州力に声をかけた。
長州力は、2000万円を受け取らず、UWFの参加を断り、アニマル浜口、小林邦昭、寺西勇、キラーカーンと維新軍を結成し、大塚直樹のもとでテレビ朝日と契約を結んだ。
猪木、長州がダメとなれば、客を呼べるのはタイガーマスク=佐山サトルしかいない。
しかし佐山サトルは結婚問題や佐山の妻の父親にアントンハイセルへ投資させた件で新間に強い不信感を持っていた。
新間は佐山サトルを
「ニューヨークのアディソン・スクウェア・ガーデンでタイガーマスクの復帰戦をやろう。
WWF認定インターナショナルジュニアヘビー級タイトルマッチだ。
もちろん君が勝って新チャンピオンになって凱旋帰国した後はUWFのエースとして迎える。
UWFはフジテレビがゴールデンタイムで放映してくれるからメインイベンターである君には、これまでの数倍のギャラが払われる」
と口説き、佐山はそれに同意した。


1984年1月8日、東スポは
「現在引退中のタイガーマスクは、必ずこの手でリングに上げます。
3月26日のアディソン・スクウェア・ガーデンのリングに彼を出場させます」
という新間寿のインタビュー記事を掲載。
10日後、佐山サトルがテレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!」に出演し、リング復帰を宣言。
後は

・3月26日にニューヨークで行われるWWFの定期興行にタイガーマスクが出場し、タイトルマッチに勝つ
・それは日本では4月4日にフジテレビの「激闘ザ・プロレス」で放映され、不死鳥のように復帰したタイガーマスクに日本中が歓喜
・その1週間後の4月11日にUWFの旗揚げ戦が大宮スケート場で行われる

という筋書きだった。
しかし新日本プロレスはWWFにクレームを入れた。
それはテレビ朝日とWWFの間には
「テレビ朝日と契約中の選手は他局の放送に出演できない」
という契約があり、まだ契約期間が残っている佐山がWWFのリングに上がってフジテレビが放映するのは契約違反。
その場合、新日本プロレスはWWFに違約金を請求せざる得ないと通告。
WWFは高額の契約金を払ってくれている新日本プロレスとモメるわけにいかず、新間に
「テレビ朝日と契約が残っている以上、サトル・サヤマをWWFのリングに上げることはできない」
と告げた。
こうしてタイガーマスクの再デビュー戦は中止となり、佐山サトルは激怒。
新間がギャラアップを提示したが応じず、UWF参戦を拒否。
猪木も長州もタイガーも呼べなかった新間にフジテレビも激怒。
銭形平次の後釜番組は、プロレスではなく西川きよし司会のクイズ番組「ザ・わかるっチャ!」になった。
フジテレビ、猪木、長州、タイガー、WWF、すべてを失い、復讐から絶望の団体に変わったUWFだったが、旗揚げ戦は1ヵ月に迫っていた。

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