レスリングの起源は紀元前。
シュメール、エジプト、ギリシャ、古代の人々はレスリングを神と科学の芸術とみなし、実施者には文武両道が求められた。
そして数千年後の現在、
・つかむ場所に制限がなく全身を攻めることができるフリースタイル
・下半身を攻めてはいけないグレコローマンスタイル
という2つのスタイルで競技が行われている。
一方、プロフェッショナルレスリングは、1830年頃、フランスのサーカスや見世物小屋でレスラーが
「オレを倒せば50フランやる」
といって戦ったのが始まり。
それが広まり、レスリングだけの興業も行われ始めた。
試合は賭博の対象にもなり、プロレスラーは賞金稼ぎ。
勝敗に第3者が介入する余地はなく、試合はシュート(真剣勝負)で行われた。
以後、100年以上、プロレスは誇り高き格闘技だった。
イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランド、4つの国から成る連合王国。
イングランドの西北部、ランカシャー地方には、ウィガンという町があり、かつて炭鉱で栄え、レスリングが盛んで、ストリートファイト賞金マッチも行われていた。
1920年頃、イギリスのレスリング、元ミドル級チャンピオン、ビリー・ライレーは、この賞金マッチで力自慢の炭鉱夫達を打ち負かし大金を手にした。
そしてジム(Billy Riley`s Gym)を建て、道場生と共に激しいトレーニングを積み、道場破りが来れば、自らねじ伏せた。
現在のレスリングは、基本的に相手を投げたり、押し倒す競技。
しかしビリー・ライレーが行っていたランカシャーレスリング、通称「Catch As Catch Can(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)」レスリングは異質。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンは
「つかまえられるものならつかまえてみろ」
「やれるものならやってみろ」
という意味だが、投げやフォールに加え、相手を戦闘不能にするサブミッション(関節技)があるレスリングだった。
例えば通常のレスリングでは相手にバックをとられると、投げられるのを防ぐために亀になったり、うつ伏せに寝ることもあるが、関節技があるとそうはいかない。
ビリー・ライレーは、道場生がそんな体勢をとれば、
「この腰抜けが!」
とケツを蹴り、
「動け」
「立て」
と指示。
防戦一方になるのではなく、すぐにエスケープしたり、切り返しを試みることを求めた。
また関節を極めるためには指を眼に入れるなどのあらゆる技術を駆使。
その蛇のからみついて攻撃をかけ続けるファイトスタイルから、ビリー・ライレー・ジムは、
「(The Snake Pit、 蛇の穴」
と呼ばれ、恐れられた。
ビリー・ライレージムからは、多くのプロのレスラーも育った。
午前中はプロクラスで、夜は子供と大人のアマチュアクラス。
月謝制ではなく、来る度に料金を払う1回いくらシステムで、子供も大勢通い、技の練習をした後、スパーリングを行った。
それが終わると大人の練習が始まり、まず休むことなく動き続けるサーキットトレーニング。
そしてスパーリングに移行。
道場生のやる気にさせるのがうまいビリー・ライレーは、スパーリングは複数組が同時に行うのではなく、1組ずつ行わせた。
そしてときどきスパーリングを止め、道場生がミスを指摘し、正しいやり方を反復練習させ、その後、再開。
スパーリング時間も、ビリー・ライレーが決め、
「やめ」
といったり、
「今から先に1本とったほうの勝ちで終わり!」
というまで続いた。
スパーリングをしている者は、残り時間を計算してペース配分できないし、先生や道場生に注目されて手抜きすることもできず、たとえどんなにやられても全力で戦い続け、肉体と精神を鍛えていった。
時間はそれほど長くないものの最初から最後まで気が抜けないハードな練習で、道場には、真剣さ、厳しさ、熱さが漂い、道場生の強さへの憧れと探究心、モチベーションは高かった。
このビリー・ライレーのレスリングと精神が
カールゴッチ
↓
アントニオ猪木
↓
藤原喜明
↓
佐山サトル
↓
前田日明
↓
高田延彦
と伝播していき、UWF誕生につながっていく。
カール・ゴッチは、ベルギー生まれのドイツ育ち。
10代でレスリングを開始。
昼は鍛冶屋で働き、夜はジムでレスリングという生活をしていた。
第2次大戦中はナチス政権下のドイツで軍需工場で働き、事故で左手小指の大部分を失った。
終戦直前には、11ヵ月間、強制収容所に入れられ、1945年に終戦し解放されると再びレスリングに打ち込んだ。
1948年、24歳のとき、ロンドンオリンピックにフリースタイル、グレコローマンスタイル、両スタイルの87kg級ベルギー代表として出場し、共に予選落ち。
その後、プロの転向し、1950年、プロレスデビューし、ヨーロッパ各地でトーナメントへ参戦。
1951年、初めてビリー・ライレージムで練習し、最初のスパーリングで師範代のビリー・ジョイスにわずか1分程でサブミッションを極められてしまい、以後、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンを学んだ。
そして高いフィジカルとレスリング技術、オリジナルホールド「ジャーマン・スープレックス」でヨーロッパでトップレスラーとなり、1960年、アメリカへ進出した。
しかしアメリカのプロレスは、純朴さを失っていた。
必要なのは強さや地味な寝技ではなく、体操のようなアクロバティックな動き、巨大な肉体とアスリート的身体能力によるアクション、派手なパフォーマンス。
仕事として試合をするプロレスラーにとって、大事なのはケガをしないことで、その技は、観客に
「死んでしまうのではないか」
と思わせながら、実際はできるだけ相手にダメージを与えないというのが理想的。
最強のレスラーがチャンピオンになると信じ、日々、トレーニング、練習、研究を怠らず、圧倒的な体力とレスリングとサブミッションの技術を持っていたカール・ゴッチは、自分より弱いレスラーに負けなければいけないことに嫌悪感と罪悪感を抱いた。
カールゴッチにとってレスリングは誇りであり、偉大な格闘技で、キング・オブ・スポーツだったが、アメリカのプロレスはビジネスで、契約して雇用されるプロレスラーは、雇い主に逆らえば解雇された。
客を喜ばそうとか相手に花を持たせようなど微塵も考えず、妥協も派手さもないゴッチのファイトスタイルは、一部のプロモーターから
「独り善がり」
「プロレスを理解していない」
と煙たがられた一方、その実力からファンに
「真のプロレスラーでありシューター」
と評価された。
アメリカでは賛否両論だった。
カール・ゴッチは、1961年5月、来日できなくなったレスラーの代役として、力道山が設立した日本プロレスのリングで吉村道明に、(日本初の)ジャーマン・スープレックスを決めた。
観客は、その技の美しさと迫力に
「原爆固め」
と呼んだ。
その後、ゴッチはアメリカへ戻り、AWA世界ヘビー級王座を奪取。
しかし世界最強の男、NWA世界ヘビー級チャンピオン「鉄人」ルー・テーズには、タイトルマッチで9戦5敗4分、ノンタイトルマッチでも7戦7分と勝つことができなかった。
6回目のタイトルマッチでは、テーズにバックドロップをしかけられ、、わき固めにいこうとして体重をあずけ、テーズは肋骨を骨折。
翌日、見舞いにいったゴッチはテーズに
「なぜこんな馬鹿な真似をしたんだ!」
と怒られ
「無我夢中でやってしまった…」
と申し訳なさそうに答えた。
この後、テーズが戦線を離脱したため、興行的にも大きな損害が出て、ゴッチはプロモーターから恨まれた。
1966年にNWA世界王座から陥落したテーズは、
「ゴッチさえいなかったら私の王座は2年は長持ちしていた。
本当に恐ろしい男だった」
「私をもっとも苦しめた挑戦者」
とその実力を認めた。
しかし結局、カール・ゴッチは世界最強にはなれず「無冠の帝王」で終わった。
1967年11月、ゴッチは再来日し、日本プロレスのコーチに就任。
東京、恵比寿に住み、渋谷のリキ・スポーツパレス(力道山が建てた総合スポーツレジャービル)で若手を徹底的に鍛えた。
ゴッチはすさまじいパワーとレスリング、関節技の技術、そしてさまざまなトレーニングメソッドを持ち
「プロレスの神様」
と呼ばれた。
このとき日本プロレスにアントニオ猪木がいた。
神奈川県横浜市鶴見区の生家は石炭問屋を営んでいたが、時代の流れで石炭から石油へ移行するとブラジルへ移住。
着いた翌日の5時、ラッパの音で叩き起こされ、17時まで12時間、コーヒー豆の収穫の仕事を行った。
「次の日から、希望に燃えた私たちを待っていたのは、過酷な奴隷労働であった。
1年半の契約期間中は何があってもこの農場で働き続けなければならないのである」
中には過酷な環境に逃亡を企てて撃ち殺される人たちもいたが、猪木は耐えた。
転機はサンパウロで興業を行っていた力道山の目に止まったこと。
「裸になれ」
といい、猪木の肉体に納得した力道山は
「よし、日本へ行くぞ」
家族には
「3年でモノにしてみます」
といい日本につれて帰った。
帰国すると力道山の付き人としての仕事と日本橋浪花町の力道山道場でのトレーニングが始まった。
日本プロレスの練習は半端なものではなく、スクワットによって流した汗が水溜りとなり、スタミナ強化のために締め切った道場で湯気となって漂った。
「常人では成しえないことを成すのがプロレスラー」
という力道山は、なにかあれば容赦なくゲキと竹刀を飛ばした。
猪木は朝から夜の遊びまで力道山の付き人をさせられ、力道山はまるで目の仇のように厳しく育てた。
リングシューズを履かせ、
「(紐を掛け方が)違う」
と蹴飛ばし、普通の靴も
「履かせ方が悪い」
と殴った。
飼い犬を番犬として教育するための実験台にしたり、ゴルフクラブで側頭部を殴打したり、走っている車から突き落としたり、クラブでは灰皿を投げつけたり、一升瓶の日本酒を一気飲みさせたり
「声を出すなよ」
といってアイスピックで刺したり、素人に殴らせたりした。
猪木は本気で殺意を覚えたが耐え抜き、力道山が死去して3年後、東京プロレスを旗揚げ。
しかしし3ヵ月で破産。
ゴッチがやってきたのは猪木が日本プロレスに戻り、ジャイアント馬場とタッグを組んだ頃だった。
ゴッチは稀有な身体能力を持つアントニオ猪木に、ジャーマン・スープレックスや卍固めを教えた。
「君たち日本人の手で、本物のプロフェッショナル・レスリングを取り戻してほしい」
24歳のアントニオ猪木はゴッチの言葉を熱心に聞き、ゴッチイズムの継承者となっていく。
「世界の荒鷲」「ビッグ・サカ」196cm、130kgの坂口征二は猪木より1つ歳上で、日本プロレスでは、ジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐスターだった。
明治大学柔道部で神永昭夫の指導を受け、大学で団体でも個人戦でも優勝し、旭化成に入った。
1964年の東京オリンピックでは日本代表候補だったが最後の夏合宿で腰を痛め、神永昭夫が決勝戦でオランダのアントン・ヘーシングに1本負けするのを間近で目撃。
「打倒ヘーシンク」に燃え、東京オリンピックの翌年、全日本大会で優勝し、世界選手権の決勝でヘーシングに優勢負け。
その後、ヘーシングが引退したためメキシコオリンピックに目標を切り替え、必死に練習したが、メキシコオリンピックで柔道競技は外されることが決まると
「8年も待てない」
と目標を失い稽古に身が入らなくなった。
そんなとき日本プロレスからスカウトを受け、旭化成を退職し入団した。
「すごく怒られてねえ。
明治大学柔道部のOB会なんて破門同様ですよ。
除名です。
明治大学の監督だった曽根康治さんとか神永昭夫さんとかにね、『お前、なに考えてるんだ!』って相当いわれたんですよ」
25歳の誕生日にジャイアント馬場と一緒にプロ入り記者会見をした坂口はカール・ゴッチにプロレスの基本を教わった。
「ゴッチさんの指導は厳しいけれど、すごく真っ直ぐな人でプロレスに対する考えをハッキリ持っている。
まあ頑固おやじという感じ。
あまりガアガアはいってこないですよ。
お前、出来ないんならいいよと突き放す感じで、来る者は拒まず、去る者は追わずという人だった。
だからみんな必死でついていくんです」
1969年5月、日本プロレスとのコーチ契約が終わったゴッチはアメリカに帰国。
TVが普及し、ますますショーアップされたアメリカのプロレスとは合わず、自分のスタイルを変えることはできないゴッチはプロモーターからも敬遠され、ハワイへ移住。
ホノルルで、プロレスラーとして活躍したが、プロモーターとトラブルになり解雇され、ゴミ収集の仕事をした。
トレーニングのために車には乗らずに並走し、集積所につくとバケツの中のゴミを1人で収集車に放り込んだ。
仕事が終わると試合もないのにハードトレーニングをして、夜は早く寝た。
日本プロレスで営業部長だった吉原功(早稲田大学レスリング部出身、元プロレスラー)は、力道山の死後、独立して国際プロレスを設立し、日本プロレスに対抗していたが、ハワイでのゴッチの近況を聞くと
「もったいない」
と招聘を決めた。
1971年3月、46歳のゴッチは来日。
2m23cm、170kgモンスター・ロシモフ(アンドレ・ザ・ジャイアント)にジャーマン・スープレックスを決めた。
そしてアニマル浜口ら国際プロレス所属の日本人レスラーをスパーリングでおもちゃにして鍛えていった。
アニマル浜口は、暇さえあれば青山の国際プロレスのビルの地下で練習をするゴッチをみて
「プロレスの神様じゃなく練習の神様」
と思った。
「ゴッチさんはプロレス、いやレスリングといったほうがいいかな。
レスリングで勝つためにはどうしたらいいか、四六時中考えていました。
ヨガを研究するために古代インドの歴史やヒンドゥー教、さらにはアーユルヴェーダ(インドの伝統的医学)など、あらゆることを学んでいました。
また独自のトレーニング法も考えていて、日本のプロレス界にヒンズー・スクワットを本格的に教えたのはゴッチさんといわれています。
僕も勝つために『ヨガをやれ』といわれましたよ」
国際プロレスで再びプロレスラーとして再生したゴッチは、6年ぶりにアメリカのマットに復帰。
日本プロレスを追放され、新しい団体を立ち上げようとしていたアントニオ猪木は、ニュージャージまで行ってゴッチに協力を依頼した。
28歳の猪木は女優の倍賞美津子と結婚していた。
馴れ初めは先輩の豊登が自分の車(日産の最高級車、センチュリー)を
「こんな車に乗りやがって」
と女子3人が蹴飛ばすのを見つけたこと。
その中の1人が倍賞美津子だった。
豊登は彼女たちを食事に誘った上、家まで送り届け、その後も連絡を取り続けた。
猪木は豊登に連れられて倍賞美津子と初めて会い、その明るさに惹かれた。
出会いから5年後、1億円をかけて式を挙げ2人は結婚。
その1ヵ月後、会社を改革をしようと動いていた猪木は日本プロレスから追放されてしまった。
「迷わず行けよ」
と行動主義のアントニオ猪木は、2人の新居となるはずだった一戸建てを道場に改造した。
1971年11月、結婚
12月、日本プロレス追放
1972年1月、「新日本プロレス」を会社登記
3月、旗揚げ戦
という異例のスピードで新団体立ち上げを進めていったが、カール・ゴッチへの協力依頼もその中の1つ。
新日本プロレスの所属選手は、アントニオ猪木、山本小鉄、木戸修、藤波辰巳、北沢幹之、柴田勝久のわずか6人のみ。
旗揚げ戦前に募集した練習生はあまりの厳しさに逃げ出してしまった。
メジャーな外国人レスラーは、日本プロレスと国際プロレスに抑えられているため、カール・ゴッチがブッキング。
サーカスのようなプロレスにウンザリしていたゴッチは、猪木がやろうとしているシリアスなプロレスの実現のため、実力のある選手を呼んだ。
そして旗揚げ戦は、月曜日の18時半、大田区体育館でスタート。
全6試合。
その中にカール・ゴッチ vs 猪木もあった。
会場は5000人満員でひとまず成功したが、以後、テレビ放映もないまま苦戦が続いた。
1972年11月2日、旗揚げ戦から8ヵ月後、藤原喜明が新日本プロレスに入門した。
高校卒業後、板前をしながら金子武雄(重量挙げ全日本ライト級チャンピオン、日本プロレス所属のレスラー、セメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退)のジムで練習を続け、新日本プロレス入り。
デビューは入門10日後、和歌山での藤波辰巳戦。
異例のスピードデビューながら23歳の遅咲きのデビュー。
1年後には6歳上の猪木さんの付き人になり、それは1984年にUWFに移籍するまで10年以上続いた。
藤原喜明は合同トレーニングの後、猪木と特別練習をした。
「考えてみたら、人の2倍、3倍、練習していたよな。
そのおかげだな。
俺のヒザはボロボロだよ」
そしてカール・ゴッチに出会い、衝撃を受け、関節技とレスリングを学んだ。
「 当時、若手のコーチ役は山本小鉄さんで、その指導は非合理的というか、スパーリングやっていて 『 これ、どうやって極めるんですか?』って聞くと『根性で極めろ』って。
もちろん非合理的な指導も必要なときもありますが、それを聞いたときは「この人、大丈夫かな」と思いました。
それで入門してしばらくしてゴッチさんの指導に接して「あっこれは本物だ」って感じたんです。
ゴッチさんは日本語もしゃべるんだけどめちゃくちゃなので、それで話されるとわけがわかんなくなる。
ですから基本的には簡単な英語でやりとりしていましたよ。
1日にいくつも関節技を教わるんだけど覚えきれなくなる。
あるとき、ハッと気がついて、1日に1つだけ教えてもらったことをノートに克明に書き残して、それを確実に覚えていくようにしたんです。
オレは頭が悪いからものごとを覚えるのにすごく時間がかかるんですよ。
だけど1度覚えるとずっと覚えている。
高校時代のことだってちゃんと覚えている。
オレは工業高校の機械科で、得意な科目は体育が5で、応用力学、機械工作が5。
これはどういうことかというと運動神経がまあまあいい上に力学、つまりテコの原理がわかっていて工作が上手、つまり手先が器用なんですよ。
だから関節技を習得するのにピッタリだったんだな。
あともう1つ。
骨が太い」
旗揚げ戦から1年後、テレビ朝日が新日本プロレスの試合を放送することになった。
カール・ゴッチは手紙や電話で選手をブッキングし、コーチ、セコンド、タイトルマッチの立会人として来日することも多く
「かつてプロレスは相手をねじふせ、マットに這わすことに全力を集中した。
しかし近頃はダンスやファッションショーにまでなり下がり、現在は悪貨が良貨を駆逐する時代になってしまった。
良貨が悪貨を打ち破っていく時代が来て欲しい」
と訴えた。
しかしゴッチが呼ぶのはレスリングはできるが客は呼べないレスラーばかり。
猪木はゴッチと理想を共にしていたが、会社経営を優先させ、観客を集めるためにロサンゼルスで新しいブッカーを雇った。
そしてカナダ、トロントの2流のベビーフェイスだったタイガー・ジェット・シンと流血戦をしたり、ストロング小林との日本人対決、大木金太郎との力道山時代の同門対決など話題を集める試合を行った。
そして新日本プロレスの経営が安定するとゴッチは冷遇され始め、
「シリアスなプロレスをやる団体をやるといっていたのに1年経つと元通りさ」
と嘆いた。
アントニオ猪木とは5回対戦し、3勝2敗のゴッチだったが、アメリカに家を買って日本を離れた。
フロリダ州、タンパ北部の小さな町、オデッサは、湖が多くゴッチの家も湖畔にあった。
書棚に宮本武蔵の「五輪書」、新渡戸稲造の「武士道」、笹原正三(メルボルンオリンピック、フリースタイルレスリング、フェザー級金メダリスト)の「サイエンティフィック・アプローチ・トゥ・レスリング」など世界各国の武道・格闘技関連、そして人体やトレーニングに関する書物が並んだ。
車が2台入るガレージには、バーベル、ダンベル、トレーニングベンチ、インドのメイス(長い鉄棒の先に思い鉄球がついたトレーニング器具)、イランのミリィ(棍棒のようなトレーニング器具)などが置かれトトレーニングルームとなった。
しかし「燃える闘魂」は決してダテではない。
まず誰よりも練習をやった。
練習第一の猪木は、新団体を立ち上げに際して、まず道場を建て、所属レスラー全員に合同練習を課した。
道場に猪木が入ってくると空気が一変し、一瞬の気の緩みも許されなくなるという。
「前の晩も練習やら試合はもちろん、洗濯やらの雑用もある。
疲れていたから早起きはきつかった。
毎朝、30分ぐらいかな、走る。
ああ、終わったって思うとスクワット。
毎日嫌になるぐらいやっているんだよね。
でも一緒にやらなくちゃいけない」
(藤原喜明)
遠征中も必ず練習が行われ、朝は晴れていればランニング、雨なら風呂場でスクワット1000回。
午後も試合開始30分くらい前まで試合用のリングでスパーリングや会場後方でバーベル、ダンベルを使ってトレーニングしてから客を入れた。
あるとき3週間休みなしで巡業があり、後半に入るとみんな疲れて合同練習に参加しなくなったが、猪木は1人で黙々とスクワット。
そして
「集まれ!」
と号令をかけ、リングの周りに並べ
「やる気がないなら帰れ」
といって全員を殴った。
若手は新日本プロレスの道場に隣接する合宿所に住んだ。
そして8時半起床し、掃除などをして10時から合同練習開始。
まず全員がリングの周囲を囲んでスクワット、腕立て伏せ、縄跳びなどのトレーニングを1時間半から2時間行う。
夏は40度を超え、スクワットをやると汗だまりができる。
次はリングの上でストレッチ、腹筋、ブリッジ、受け身、タックル、ロープワークなど基本技術。
それが終わるとスパーリングとなる。
最大で4組8人がリング上でひしめくため、自然と寝技多くなる
関節技あり、締め技あり、フォールなしのサブミッションレスリング
これを道場ではスパーリングと呼ばず
「セメント」
あるいは
「ガチ」
「ガチンコ」
と呼んだ。
プロレスには台本があり、勝敗は事前に決まっている。
プロレスラーの目的は勝利ではなく、観客を興奮させ楽しませること。
ミュージシャンが楽器や演奏の練習したり、演劇で演技やセリフの練習をするように、本来、プロレスラーは技のかけ方、受け方を練習をする。
パイルドライバー、バックドロップ、ボディスラムなどはかける側と受ける側の協力している。
4の字固めなどの関節技も一致協力して技をつくっている。
一見派手なパンチやキックも急所を避け、受ける側は、逃げることなく受ける。
そして場外乱闘や凶器攻撃も演出もある。
しかし新日本プロレスは、基本的にトレーニングとサブミッションレスリングのスパーリングだけ。
試合のケツ(最後の勝敗)は決まっていたが、試合中はすべてアドリブでセメント(真剣勝負)もやった。
試合中にセメントの要素がないと
「何やってるんだ!」
と怒られた。
この「通常のプロレス+セメント」というのが新日本プロレスの特徴で、リングには危険な緊張感が漂っていた。
「ストロングスタイル」
を標榜する猪木は、チャレンジすることが大好きで、若手がリングの上で挑戦的なことをやったり、それを失敗したりしても責めない。
しかし気合が入っていない試合をすれば怒り、試合中でも竹刀を持ってリングに上がって滅多打ちにすることもあった。
1974年、極真空手 の第6回全日本大会に、アントニオ猪木をはじめ数人のレスラーが参加申し込み。
「ある雑誌(少年マガジン)で広告をみまして・・・
新しいルールによる真剣勝負と謳ってあり、ボクシングでもキックでもプロレスでも、誰でも参加できるということを読んだものですから、カッと血が熱くなりまして・・・
でも考えてみるとスケジュールの調整がどうしてもつかないんで残念ながら諦めました」
(アントニオ猪木)
そして新日本プロレスは、ブラジルで興行を行ったが
「誰の挑戦でも受ける」
というアントニオ猪木の言葉を聞いて、ボクシングと柔術をバックボーンに持つバーリ・トゥード(なんでもあり)最強の戦士、イワン・ゴメスが、すさまじい距離を運転してやってきて
「挑戦したい」
といった。
イワン・ゴメスは172cmと小柄ながら全身筋肉。
このハイリスク、ローリターンな戦いを猪木が受けるはずがなく、逆に新日本プロレスの営業本部長、新間寿は、
「月給1500ドル(約45万円)+試合給」
という条件でスカウト。
キャッチ・アズ・キャッチ・キャンレスリングに興味を覚えたゴメスは、それに応じ、来日。
レスリングのトレーニングをしつつ、レスラーに自身のスタイルを教えた。
基本的にチョークスリーパーとヒールホールドしか使えない、強いが地味なゴメスはずっと前座で、アントニオ猪木と戦うことはなかった。
藤原喜明は、イワン・ゴメスからヒールホールドを学んだ。
後にサンボの麻生秀孝から膝十字固めを学ぶなど、足関節においてはカール・ゴッチをしのぐといわれ
「関節技の鬼」
と恐れられ、必殺のわき固めは
「フジワラ・アームバー」
と呼ばれた。
1975年7月、藤原喜明から3年遅れで、佐山サトルが新日本プロレスに入門。
山口県下関生まれ。
子供の頃からスポーツ万能で身体能力が高く、アントニオ猪木を崇拝し
「プロレスこそ真の格闘技」
「プロレスこそ最強の格闘技」
と信じ、プロレスラーになることを決めた。
中学では柔道部に入り2年で黒帯をとったが、バックドロップやスープレックスのような裏投げを繰り出していた。
中学を出たら新日本プロレスに入るつもりだったが、教師と親に
「高校だけはいけ」
「アマチュアレスリングでオリンピックに出てからプロになれ」
といわれ、レスリング部のある高校に進学。
山口水産高校レスリング部の顧問は素人だったが、柔道の経験だけで1年生で国体の候補選手になった。
県の合宿で長州力(ミュンヘンオリンピック、フリースタイル90kg級、韓国代表)を育てた桜ヶ丘高校レスリング部監督、江本孝允に指導を受けた。
短期間ながら初めて本格的なレスリングを学び、合宿の最後に県代表を決める選考スパーリングが行われ、インターハイ4位と対戦し、レスリングを始めたばかりの1年生はフォール勝ち。
その後、1年生と2年生が対象の新人戦に75kg級でエントリーしたが、ほかの選手が佐山を避けたため出場者は1人だけ。
山口県レスリング協会は
「1試合も戦わないまま優勝させるわけにはいかない」
と1階級下の1位、2位、3位、そしてヘビー級の1位、の4人と試合をさせ、その成績をみて75kg級の優勝を認めることにした。
そして佐山は4人にフォール勝ち。
佐山サトルは、このまま高校でレスリングをやっていても仕方がないと1年で高校を中退。
父親のコネで千葉県の工場で住み込みで働きながらチャンスを待ち、半年後、後楽園ホールで行われた新日本プロレスの入門テストを受け、
スクワット500回、
ブリッジ3分
スパーリング
を難なくこなしたが、
「体が小さい」
という理由で不合格
3ヵ月後、再びテストを受け、合格。
柔道やレスリングは、いかにして相手を投げるかだったが、新日本プロレスの道場で行われるスパーリング、「セメント」は寝技。
一瞬で極まり、1度極まれば逃げることができないサブミッションにのめりこんでいった。
トレーニングも徹底的にやり、100m走 12秒7、ベンチプレス160kg、背筋力 293kg、腕相撲は坂口せいじについで2位とバケモノじみた身体能力を誇った。
常にノートを持ち歩き、トレーニングや練習を記録し、思いついたことを書きとめ、熱心に研究した。
入門8ヵ月後、新潟県長岡市で興行が終わった後、ホテルで藤原喜明とあるレスラーが口喧嘩を始めた。
同じ部屋にいた、まだデビュー前の佐山が
「そんなこといっても藤原先輩はあの先輩に勝てないじゃないですか」
というと藤原喜明は
「お前はプロレスのことを何も知らない。
試合で自分は負けてやったんだ。
俺にボディスラムをかけてみろ」
といった。
佐山がかけてみるとビクとも動かない。
「もう1度やってみろ」
といわれやってみると今度はかんたんに持ち上がった。
「プロレスは真剣勝負の世界なんかじゃない。
お互いが協力するショーだ」
プロレスは真の格闘技で真剣勝負をしていると信じていた佐山サトルは、天地がひっくり返るような衝撃を受け、呆然とした
同時にプロレスラーに抱いていた畏怖の念も消し飛んだ。
ただしカール・ゴッチやアントニオ猪木、藤原喜明、イワン・ゴメスなど一部の人間は別。
彼らの関節技が本物であることは体で理解していた。
佐山は
「真の格闘技は打撃に始まり、組み合い、投げ、極める」
そう紙に書いて寮の部屋に貼った。
1976年 アントニオ猪木は異種格闘技戦を開始。
プロレスは、大相撲やボクシングに視聴率で引けをとらないのに新聞でもニュースで試合を結果を報道されることはない。
力道山の時代から八百長、ショーと思われ、スポーツとして認知されていなかった。
この見下された状況を覆し、プロレスの強さを認めさせるためには、ボクサー、空手家、柔道家、キックボクサーなど真剣勝負をやっている競技のトップクラスと戦って勝つしかない。
「誰とやっても負ける気がしない」
「誰の挑戦でも受け」
「プロレスこそ最強」
「プロレスこそキングオブスポーツ」
そう語る猪木にファンはロマンを感じた。
2月6日、1972年ミュンヘン・オリンピック柔道、93kg超級、無差別級金メダル、196cm、120kg、ウイリエム・ルスカは、その投げ技と寝技は圧倒的だった猪木は張り手からコブラツイスト。
柔道着を脱ぎ捨てたルスカにドロップキックからバックドロップ3連発。
20分35秒、TKO勝ち。
6月26日、ボクシング世界ヘビー級チャンピオン、スーパースター、モハメッド・アリとの戦いは、アンバランスなルールのスキマをついて猪木がスライディングキック(アリキック)に終始し、15Rドロー。
単調な内容に「世紀の凡戦」といわれたが、アリは左脚の治療のため入院し、猪木は何億という借金を背負い込んだ。
12月12日、パキスタンの英雄、アクラム・ペールワンから挑戦状が届き、猪木は敵地、カラチ・ナショナル・スタジアムに乗り込んだ。
3R、1分5秒、アーム・ロックが完全に極まったのにギブアップしないペールワンに、猪木は、その腕をへし折り、ドクターストップで勝利。
このうちモハメッド・アリ戦、アクラム・ペールワン戦はリアルファイトだった。
1977年10月、アントニオ猪木 vs チャック・ウェップナー(映画「ROCKY」のモデルになったボクサー)戦では、佐山サトル考案のオープンフィンガーグローブが使用された。
藤原喜明と共にアントニオ猪木の付き人をやり、プロレスラーでありながら打・投・寝、すべてOKの真の格闘技を目指していた18歳の佐山サトルは、猪木に
「打撃と投げと関節技を合わせた新しい格闘技をつくりたいんです」
と打ち明け
「わかった。
お前のいう新しい格闘技をウチでやろう。
実現したときお前を第1号の選手にする」
といわれた。
以後、佐山サトルはプロレスラーとして仕事をこなしながら、キックボクシングの目白ジムに通って打撃の練習を積んだ。
目白ジムは、極真空手の創設時のメンバーで、自身、タイでムエタイの試合を経験した黒崎健時を会長とする名門ジムだった。
1977年11月、日本武道館で梶原一騎主催の「格闘技大戦争」が行われ、日本のキックボクサーとアメリカのプロ空手家が対決。
アメリカでは、プロ空手(マーシャルアーツ)が大ブーム。
特にライト級チャンピオン、ベニ―・ユキーデは大人気で、ロサンゼルスに「ジェットセンター」という大きな道場を構えていた。
またヘビー級チャンピオン、ザ・モンスターマンは2ヵ月前に猪木と異種格闘戦を行っていた。
「格闘技大戦争」のメインは目白ジム所属で外国人として初めてムエタイ王者となったライト級の藤原敏男。
佐山サトルも出場することになり、試合3ヵ月前から目白ジムで合宿生活に入り、90kg以上あった体重を77.5kgまで落とした。
試合当日、猪木がリングサイドに、山本小鉄がセコンドに入った。
相手は、ミドル級とスーパーウエルター級で3位のマーク・コステロ。
ルールは、2分6R、大きめのグローブをつけキックとパンチで戦い、投げ、寝技禁止。
さすがに寝技までは持っていけないが佐山は
「頭から落とせば勝てるだろう」
とスープレックス、バックドロップで投げ、
「決まった」
と思ったが、レスリング経験者のコステロは柔らかく受け身をとって立ち上がってきた。
そして打撃戦へ入り、佐山は目白ジムで特訓したパンチとローキックを繰り出すが当たらず、長身のコステロは左のパンチと膝蹴りでメッタ打ちにされ、ダウンを繰り返す。
6R中、7度のダウンを奪ったマーク・コステロが判定勝ち。
最後まで倒れなかった佐山は、その後、自らサンドバッグを購入し、キックの練習を続けた。
このときはまだ前座レスラーで、スポーツ紙に誤って「佐山トオル」と書かれてしまうほど無名だった。
1977年7月、佐山サトルから2年遅れて、前田日明が新日本プロレスに入門。
前田日明の母が父と初めて会ったのは結婚する3日前で、とにかく親の望んだ人と結婚するという古風な人だった。
逆に父はチャランポラン。
前田家の隣に宗教団体に属する人間が引っ越して、定期的に入信者が集まりお経を唱え、かなりうるさかった。
ある日、コップで飲んでいた父は、
「アキラ、バット持ってこい」
といい、前田が持っていくと母親は
「持ってきちゃダメ」
と叫んだ。
次の瞬間、父は隣家に乗り込んでいった。
「ガシャン、ガシャン、パリーン」
「キャー・・・・」
そのまま父は1ヵ月帰ってこなかった。
「ウルトラマン」の最終回でウルトラマンがゼットンに倒されるのをみた小学2年生の前田は、ボロボロ泣きながら
「ウルトラマンの仇をとる」
と決意。
ゼットンを倒すために少林寺拳法を習い始めた。
中2のとき、両親が離婚。
前田は45歳の父親と2人暮らしになった。
ある日、
「2~3か月出張にいってくる」
といって父は韓国へ行って結婚。
以後、生活費を稼ぐために日本に戻ってきて、1、2万円置いて、また2、3ヵ月韓国へいくという生活を繰り返した。
前田は高1の終わりから工事現場で働き始めた。
「高校1年か2年のとき、猪木vsアリ戦があったんだよね」
やがて父親は韓国で離婚し、日本へ帰ってきてすぐに女をつくり
「昔は15歳で元服だ。
16過ぎてるんだから1人で暮らせ」
といった。
頭に来た前田は、ある夜、包丁を持って玄関で父の帰りをジッと待ったが、やがて空が白み始め、アホらしくなった。
「自分はなんてバカバカしいことをやっているんだと。
父親に振り回されて。
自分の人生やないやないかと。
自分で生きていこうと決めたんです」
そして高校と仕事に行きながら空手とバイクに熱中した。
「空手の道場の先生はわりと寛容にケンカも黙認する人で『やるのはいいんだけど負けちゃいけないよ』と。
初段をとったとき路上教習があって、1番最初はホテル街にいって女をホテルに連れ込む男を見つけてシバいて、それ卒業したら酔っ払い同士の喧嘩に入って止めるフリして両方をシバくんです。
それをクリアしたら強そうなヤツ。
最後は戦闘服を着てるやつに『行って来い』と。
ボクシングの試合みたいにずっと殴り合うなんてケンカではあり得ない。
ワンパン(ワンパンチ)です。
まあケンカには前口上もあるから、ケンカは口8割、実技1割、あと運1割」
前田日明は
「強くなりたいねん」
それだけだった。
マンガ「空手バカ一代」がバイブルで、極真空手の大山倍達の弟子達のようにアメリカで空手の道場を開くのが夢。
大学受験に失敗するとアメリカ行きの金を貯めるためアルバイトに明け暮れた。
そんなとき空手の先輩と公園で練習しているとイカつい体をした男が近づいてきた。
「それはキックですか、空手ですか?」
それが佐山サトルで、その後、一緒に練習した。
「佐山さんは身長は小さかったですけどサイコロみたいに横幅がありましたし、もう組んだらポーンって投げられてどうしようもなかったですね。
凄い力やなぁと思ってね」
アントニオ猪木の付き人やっていた佐山聡は、前田日明のことを話し、猪木はそれを新日プロレスの営業部長、新間寿に話した。
新間はすぐに大阪に飛んで、前田日明をスカウトした。
「プロレスラーにならないか?」
「とんでもない!
自分は無理です」
「君はモハメッド・アリが好きか?
ヘビー級ボクサーになる気はないか?」
「ヘビー級ボクサーだったら考えてもいいです」
「じゃあモハメッド・アリの弟子にしてやろう。
ウチはモハメド・アリのジムと提携してる(ウソ)から一緒のジムに入ってボクシングのヘビー級チャンピオンも目指せる。
ただ君はまだ体ができてないんでウチで1~2年間体を大きくしてアリの弟子になったらいい」
「新日本プロレスに1~2年食べさせてもらってトレーニングさせてもらって、どうやってお返しすればいいんですか?」
「ちょっとだけ試合してくれればいいから」
前田は 金を貯めなくてもアメリカに行けると思い 新日本プロレスの門を叩くことにした。
192cm、73kgのガリガリだった前田は、キツい練習とトレーニングをした後、山盛りのドンブリ飯を5杯から10杯食わされた。