UWF   そして復讐の団体は誕生した

UWF そして復讐の団体は誕生した

「蛇の穴」ビリー・ライレージム、カール・ゴッチ、力道山、アントニオ猪木、藤原喜明、佐山サトル、前田日明、高田延彦、猪木舌出し失神事件、アントンハイセル事件、新日本プロレスクーデター事件、,タイガーマスク引退、1984年にUWFができるまで色々なことががありました。


東北巡業中、着替え中の藤原喜明にあいさつしたが、
「シッシッ」
と手で追い払われ、開場前のリングで汗を流す藤原が相手がいないのをみて
「藤原さん、スパーリングお願いします」
と志願したが、
「シッシッ」
1ヵ月後、山口県の巡業で、その藤原と前田のやり取りをみたアントニオ猪木は
「藤原、たまには新弟子の相手をしてやれよ。
よし、前田、俺がやってやる」
といった。
「何をやってもいいんですか?」
「いいよ」
目の前に立つ猪木に前田は金的蹴りから目突き。
金的蹴りは太い内腿にガードされたが、目は無防備だった猪木が、
「ウーッ」
となった瞬間、周りで練習していた先輩たちがリングに上がってきてボコボコにされた。
それを横でみていた藤原は大笑い。
「バカは死ななきゃ直らない」
といって、それから毎日、前田とスパーリングをした。

このとき藤原喜明は28歳。
レスラーとしては前座だったが、実力的には誰にも負けないという裏番長的な存在だった。
前田日明は、スパーリングでおもちゃにされながら、藤原がなぜTVに映らない前座なのか、藤原より実力で劣るレスラーがリングでスポットライトを浴びるか、不思議だった。
前田は藤原とスパーリングやり始めて1年くらいたったとき、坂口征二に
「スパーリングやろう」
といわれた。
前田は元柔道日本一の実力はすごいのだろうと思ったが、やってみると自分を極めることができない。
しかし他のレスラーもみている中、気を遣ってわざと関節を取らせ、坂口が腕ひしぎ十字固めを極めてスパーリングは終わった。
すると藤原は前田を呼び、
「俺はそんなことをするためにお前にスパーリングを教えてるんじゃない」
といって涙を流した。
それをみて前田は
「こんなにオレにことを思ってくれている」
と感動した。
1978年、20歳になった佐山サトルは
「猪木さんはいつになったら格闘技をやらせてくれるのだろう」
と思いながら日々、プロレスと格闘技の練習をしていた。
それなのにメキシコ遠征を命じられ、不服だったが渡墨。
天才的な運動能力でメキシコのプロレスファンを魅了。
専門誌、ルチャ・リブレのネンカンレスラー・オブ・イヤーとテクニシャン・オブ・イヤーに選ばれた。

新日本プロレスの中でも1番、カール・ゴッチの影響を受けたのは藤原喜明だった。
初めてその関節技をみたとき、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受け
「本物だ」
と思ったという。
猪木の付き人とトレーニングパートナー、そして前座レスラーを務め、30歳を過ぎた藤原はフロリダ行きを志願。
許可されるとアメリカに飛んだ。
藤原がゴッチに鍛えられ始めて3ヵ月経った頃、佐山サトルがアパートに転がり込んできた。
佐山は、日本以上にショーアップされ、格闘技の匂いがまったくしないたメキシコのプロレスで、跳んだり跳ねたり激しい試合をこなし、トペ(場外ダイブ)を放ち、イスに強く腰を打ちつけてしまうこともあった。
標高2240mにあるメキシコシティは治安が悪い上、空気が薄く、食事も合わず、体調不良と欲求不満で体重は10kg減。
親友のジムで指導するためメキシコを訪れたカール・ゴッチが、別人のようにやせてしまった佐山をアメリカにつれて帰ってきたのである。

9時、起床
10時、アパートにゴッチが車で迎えに来る
11時、トレーニング開始。

ゴッチは、ウエイトトレーニングだけではなく、自重や他の器具を使ってさまざまな角度から負荷をかけて筋肉をつくることを強調した。
道には電柱あり、あの電柱まではアヒル歩き、次の電信柱までは佐山が藤原をオンブして歩き、その次の電信柱までは藤原が佐山に足を持ってもらい腕で歩くなど、いろいろなメニューで片道2.5km、往復5kmを90分かけて進む。
そしてトランプを使ってトレーニング。
2人、交互にトランプをめくり、ハートなら腕立て伏せ、スペードはスクワット、クローバーは腹筋。
ハートの9が出たら腕立て伏せ9回となるが、スクワットだけは出た数字の2倍の回数を行う。
それが終わると庭に木に吊るしたロープを登る。

14時、トレーニング終了。
休憩に入り、水で割った赤ワインを飲む。
休憩後、町の柔道場に移動し、ブリッジなどの基本動作、関節技の練習、スパーリング。
17時、練習が終わり、3人はスーパーで買った安いステーキ肉と赤ワインで夕食。
21時、ゴッチに車でアパートまで送ってもらう

2人は、教わったことをノートに、藤原はイラスト入りで、佐山は文章で記録した。
「ゴッチさんの教えでいい言葉はいっぱいありますよ。
『牛も倒さないと料理もできない』
『短く攻める』
あとゴッチさんが聞かれたらしいですよ。
『あなたの決め技はなんですか?』と。
ゴッチさんは『コンディションです』と答えたというんだ。
コンディションがよくないといくら立派なテクニックを持っていても勝てないということ。
あと後ろ攻めるのはオカマだけ』とか。
つまり横から攻めろということだな」
(藤原喜明)

藤原喜明が佐山より少し先にフロリダ修行を終え、帰国。
ゴッチに習った技術を新日本の道場で磨いた。
すると前田日明はもちろん、小杉俊二、山田恵一(獣神サンダーライガー)、武藤敬司ら若手も集まってきて
「藤原教室」
と呼ばれるようになった。
彼らは藤原の関節技を真剣なまなざしを向け、技の練習が終わるとスパーリング。
藤原は関節技の技術だけでなく
「相手をくしゃくしゃにしてやれ」
などといって、戦う心を強調した。

前田日明から3年遅れ、新日本プロレスに入団した高田延彦は、いきなり藤原教室にも入った。
小学校のときに長嶋茂雄に憧れ、オール横浜にも選ばれた野球少年は、中学でアントニオ猪木にハマり、17歳で新日本プロレスに入ったとき体重は64kg。
ハードなトレーニングとスパーリングで痛めつけられた。
そして入門半年後、同期と飲みに行き、門限に遅れ、寮長だった前田日明に半殺しにされた。
また試合会場で子供たちがパンフレットの対戦カードをみながら勝敗予想をしているのを目撃。
その予想はすべて当たり、結果が決まっている八百長試合をしていることを恥ずかしく感じ、そのことを藤原喜明にいうと
「本日の第1試合じゃなくて第1芝居なんだ」
といわれた。
あるとき第1試合に出場することになった高田延彦は、16時から試合用のリングで合同練習が始まり、17時半から客が入り始めたが、18時20分くらいまで藤原とセメントをやらされた。
藤原は高田を抑え込みながら、客にVサイン。
高田は、スパーリングから解放されて数十分後に試合に立った。
藤原は藤原教室の教え子の試合にはセコンドにつき、ここぞというときは親指と人差し指を立ててピストルの形をつくる。
これは
「殺せ」
という意味のシュートサインで、送られた側はガチンコをした。


アントニオ猪木は、柔道家、空手家、ボクサーなどと異種格闘技戦を行い
「プロレスこそ最強の格闘技」
「いつなんどき誰の挑戦で受ける」
と明言。
そのため新日本プロレスには道場破りがやってきた。
この相手をしたのが藤原喜明。
目と急所への攻撃以外なんでもOKというルールで戦い、関節技を極めて「まいった」させた。
「猪木さんが格闘技世界一というもんだから挑戦者たちが道場に来るわけですよ。
となるとそうしたやつらに対応するやつがいないといけない。
今はプロレスラーがバカにされているから来ないと思うけど、当時は猪木さんが「オレが世界で1番強いんだ」といっているから当然来るわな。
そのときオレらは刀を持ってるんだけど刃の部分を隠して戦っている。
でもいつでも鞘は抜ける状態なんだ。
だからオレが当時若いやつらにいっていたのは、これも例えだけど常にナイフは研いで懐に入れておけと。
でも(道場破りが来ると)周りのヤツらが道場からいなくなっちゃうのよ。
さっきまで居たのに、腹が痛いとかってさ。
だから道場破りと対戦すんのも俺しか残らないんだよ。
1度、ハイキックを喰らってな・・・
小鉄さんがレフェリーやってて相手が参ったっていうから1回離したんだよ。
そしたら向こうが蹴ってきやがって・・・
それで頭にきちゃって『ぶっ殺すぞ』っていったら周りに止められたんだよ」


当時、新日本プロレスのリングでは、藤波辰巳、木戸修、キラー・カーン、木村健悟など若手がしのぎを削り、スポットライトを浴びていた。
一方、藤原喜明は前座。
テレビ中継もない地方大会巡業で、アメリカで「アンドレの脚を折った男」として凱旋帰国したキラー・カーンは
「マディソン・スクエア・ガーデン で1試合・・・・円もらった」
と自慢話をしていた。
藤原はそれが面白くなかったのでキラー・カンが試合でリングに上がるハシゴをわざと逆さに出した。
試合後キラー・カンは
「藤原、あんなことするな!!」
と怒った。
その夜、選手そろっての食事のとき藤原はカーンに毒づいた。
「強くもないくせに」
「このヤロウ!」
年下の藤原にいわれたカーンは立ち上がり、2人はもみ合いになった。
「だったらリングの上でやってみろ!」
この猪木の鶴の一声で、翌日急きょ試合が組まれることになった。
試合前の合同練習に藤原の姿はなく、1人、体育館の大きなカーテンを結んでサンドバック代わりにしてパンチを打ち込んでいた。
そして試合が始まるといきなりキラー・カンに殴りかかり、ロープに詰めてラッシュ。
キラー・カンは倒れなかったが、藤原は寝技に引き込み、関節技をかけた。
キラー・カーンは防戦一方になってしまい、見かねた長州力とマサ斎藤が乱入して強引に試合を終わらせた。
まだ前座にすぎない藤原がスター選手を手玉に取る様子をみて観客がどう思ったはわからないが、レスラーたちからすれば藤原の強さを知っているから当然の結果だった。
前田日明、高田延彦も道場破りの相手をしていたが、観客の前で行う試合より藤原教室のスパーリングを重視するようになった。

一方、アマレスのエリートだった長州力は、藤原教室を
「今さらこんなこと・・・」
というような目でみていた。
在日韓国人二世という出自のため小学校時代、教師からも差別を受け、中学では柔道部に入り、山口県桜ケ丘高校にはレスリング部の特待生として進学。
3年生のでインターハイで準優勝、国体で優勝。
専修大学商学部に特待生として入学。
2年生で全日本学生選手権90kg級で優勝。
3年の年生のとき、ミュンヘンオリンピックを迎えたが、日本国籍がないことから日本代表にはなれず、急遽、韓国の選考会に出場し代表となってフリースタイル90kg級で出場。
メダルに手は届かなかったが
「立てた目標に対してはたどり着けたっていう思い」
4年生でキャプテンとなり、全日本選手権ではフリースタイルとグレコローマンの100kg級で優勝。
大学卒業後、新日本プロレスに入った。
「練習の厳しさでいったら断然プロ。
お客さんにみてもらって儲けるわけだから、体をつくるにもストイックさが求められる」
といいつつ、
「プロレスは表現」
と思っていた。

1981年、高田延彦より1年遅れて、山崎一夫が新日本プロレスに入門。
中学生のときに藤波辰巳に憧れ、どうしたらプロレスラーになれるのか、新日本プロレスの道場に聞きにいった。
「だったらベンチプレスを挙げてみろ」
応対した小林邦昭はいわれやってみると、体重70kgの山崎は50kgのバーベルを上げるのが精いっぱい。
これをきっかけに猛練習を開始。
朝、授業が始まる前、授業の合間の休み時間に腕立て伏せやスクワット。
ダンベルを購入し、バレーボール部からバーベルがある柔道部に移った。
その結果、ベンチプレス130kg、スクワット2000回、腹筋1200回をこなせるになった。
そして高校卒業後、新日本プロレスに入門。
合宿所に入った日、荷物を運び入れていると
「もしよかったらお茶飲みにいきましょう」
という声が聞こえ、みてみると引越しの手伝いをしていた姉が前田日明にナンパされていた。
寮長の前田は、後輩に厳しい一方、情が厚くイタズラ好きで憎めない人だった。
髙田延彦は、料理が苦手でチャンコ番になると豚肉を買うだけで
「今日はポークソテーです。
焼き加減は皆さんのご自由に」
といい、山崎にお金をわたしてチャンコ番をやらせることもあった。
前田は
「またポークソテーか。
今日のチャンコ番、髙田やな」
といって肩を落とした。


藤原喜明が帰国して1ヵ月後、佐山サトルもフロリダを離れ、メキシコに戻り、3ヵ月ほど試合をした後、ゴッチの紹介でイギリスへ渡った。
そしてブルース・リーの従兄弟「サミー・リー」として黄色いジャンプスーツで入場。
軽快なステップとスピンキック、ハイキック、サマーソルトキック、ローリングソバットなど多彩な蹴りを繰り出し、イギリスでもトップレスラーとなった。
プロレスラーとしてロンドンで順調な生活を送っていた1981年4月、日本から国際電話が入り
「帰国して欲しい」
と新間寿にいわれた。
「4月20日からタイガーマスク2世というアニメが放映され、新日本プロレスのリングにも生身のタイガーマスクを登場させたいのでマスクをかぶってくれ」
てっきり新しい格闘技の話かと思った佐山サトルは
「僕は帰れません」
といって切った。
実際、2ヵ月後に世界ミッドヘビー級のタイトルマッチが決まっていたし、マンガのヒーローをストロングスタイルの新日本プロレスに登場させる意味がわからなかった。
しかしその後も毎日、矢のような催促。
「タイガーマスクの映画をつくる」
「梶原先生に顔向けできないじゃないか」
新間寿が何をいっても佐山はハイといわなかったが
「君がマスクをかぶってくれないと猪木の顔を潰すことになる」
というと、
「わかりました」
尊敬するアントニオ猪木の名前を出すと佐山サトルは弱かった。

佐山サトルが成田に到着したのは1981年4月21日。
23日にはタイガーマスク vs ダイナマイトキッド戦が決まっていた。
22日にマスクが渡され、マントが渡されたのは試合当日。
どちらもペラペラでチープな作りだったが、それをつけて花道に出ていった。
客は
「どうせ話題作りだろう」
と全然期待しておらず、失笑さえ起きた。
相手のダイナマイトキッドは、蛇の穴(ジム・ライレージム)出身の爆弾小僧。
タイガーマスクは組み合おうとせず、軽快なステップで距離を保ちつつ、速くて多彩なバリエーションのキックを繰り出した。
ヘッドロックからレッグシザース、リストをつかまれるとヘッドスプリングと鮮やかな切り返し。
場外のダイナマイトキッドにトペと思いきや、ロープの間をクルリと旋回してリングに戻るフェイント。
爪先立ちの完璧なブリッジによるスープレックス。
後方宙返りしながら相手を蹴るサマーソルトキック。
新日本プロレスのセメントサブミッションレスリング、メキシコのルチェ・リブレ、目白ジム仕込みのキックが融合した「3次元殺法」に観客は度肝を抜かれ、この10分間の戦いでスーパースター、タイガーマスクが誕生した。

あまりの大成功に、当初、「1試合だけ」といわれていたこともウヤムヤになってしまい、1981年6月18日にロンドンで行われるはずだった世界ミッドヘビー級選手権、サミー・リーvsマーク・ロコ(初代ブラック・タイガー)は、サミー・リーの肉親が急死したという理由でキャンセル。
アントニオ猪木、藤波辰己、長州力、「不沈艦」スタンハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアントなどスター揃いの新日本プロレスだったが、タイガーマスクの人気はそのすべてを超えた。
試合会場は超満員が続き、それまでプロレスに興味を持っていなかった女子中学生、女子高生にもタイガーマスクは話題になった。
毎金20時の「ワールドプロレスリング」は平均視聴率20%を超え、裏番組の人気刑事ドラマ「太陽にほえろ!」を脅かした。
タイガーマスクグッズはバカ売れ。
サイン会や握手会などイベント、スポンサーの食事会に佐山はマスクをかぶったまま出席。
しかし自分の理想の格闘技を忘れることはなかった
深夜、1人で練習とトレーニングを続け、高価だったワープロを購入し、自分の考えたルールを打った。

結婚を予定していた佐山サトルは、東京スポーツの記者に口車に乗せられ
「タイガーマスク結婚」
とスッパ抜かれてしまった。
新間寿は烈火のごとく怒った。
「まだまだタイガーマスクはこれからなのにいったい何を考えているんだ。
そんな浮ついたことでスター街道が歩めるか」
そしてリング上で
「結婚は3年間しません」
と誓わせた。
この件で、一部マスコミは「タイガーマスクの人権無視」と非難。
「冗談じゃない。
タイガーマスクと佐山聡は別ものだ。
タイガーマスクは会社の財産であり、これからまだまだ稼いでもらわねばならないレスラーだ。
企業防衛として結婚を打ち消すのは当然のことだ」
新間寿はそう主張したが、結婚式を海外で極秘に挙げるよう強要された佐山サトルは憤りを感じていた。

日本中が空前のタイガーマスクブームで沸く中、山崎一夫は、佐山サトルの付き人となった。
「佐山さんの付き人は大変そうと思うかもしれないですが、当時はホントに気の優しいお兄ちゃん的な感じで、付き人の中で1番ってくらい楽でした。
地方に行くたびにサイン会があるんです。
僕とケロちゃん(田中秀和リングアナ)がついてって、ケロちゃんが司会をするんですが、いくたびに何十万円か佐山さんに入るんです。
小遣いとして僕とケロちゃんに一万円札をわけてくれて・・・
巡業に出るとみんな最後はすっからかんなんですよ。
でも僕だけは増えているんです」
小林邦昭はタイガーマスクと対戦する度にマスク剥がしを行ったが、山崎が替えのマスクを持ってリングに上がって被らせたことがあった。
以後、マスクが剥がされると会場から
「山ちゃん、早くぅ」
という声が上がった。

1982年2月、5年間にわたり藤原喜明とスパーリングを積んだ前田日明は、待望の初の海外遠征に出て、イギリスでサミー・リーの弟、「クイック・キック・リー」としてリングに上がった。
一方、アントニオ猪木は
「プロレス界における世界最強の男を決める」
と世界中に乱立するベルトを統合し最強の統一王者を決めようというBIGイベント「IWGP(インターナショナルレスリンググランプリ、InternationalWrestlingGrandPrix)」構想をブチ上げ、新日本プロレスは準備を進めていった。
イギリスにいた前田日明も、修行を1年で終了し、IWGPに参戦するために帰国することになったが、日本に戻る前にアメリカのフロリダに寄り、約1ヵ月間、カール・ゴッチからトレーニングを受けた。
このとき20歳の高田延彦も渡米し。トレーニングパートナーを務めた。
当初、IWGPは、開幕戦は日本で行い、韓国-中近東-ヨーロッパ-メキシコとサーキットし、決勝戦はニューヨークで行うという計画だったが、プランが壮大すぎることや「プロレス最強の男を決める」ということに対し(当然、負けたほうが損だから)各地区のチャンピオンやプロモーターは難色を示すなど紆余曲折あり、日本国内でのリーグ戦に大幅に縮小された。
参加したのは、

日本代表:アントニオ猪木、キラー・カーン、ラッシャー木村
北米代表:アンドレ・ザ・ジャイアント
アメリカ代表:ハルク・ホーガン、ビッグ・ジョン・スタッド
中南米代表:カネック、エンリケ・ベラ
欧州代表:オットー・ワンツ、クイック・キック・リー(イギリスから呼び戻された前田日明)

の10名がリーグ戦を行った。


最終的にアントニオ猪木とハルク・ホーガンが勝ち点で並び、1983年6月2日に蔵前国技館で優勝決定戦が行われた。
アントニオ猪木とハルク・ホーガンの戦いは一進一退だったが、途中、劣勢の猪木がエプロン際でホーガンのアックス・ホンバーを受け、リング下に転げ落ち、レフリーのMr.高橘はカウントを数え出した。
「高橋、バカ野郎、待てよ」
坂口征二がそう叫びながらリングサイドから飛び出し、猪木を抱えてリングに入れようとした。
しかし猪木はエプロンでうつ伏せになり舌を出したままピクリとも動かなかった。
坂口は舌が巻きついて呼吸困難ならないよう自分の履いていた草履を猪木の口に突っ込んだ。
試合はハルク・ホーガンのの勝ちとなり、猪木はすぐに病院に担ぎ込まれ面会謝絶になった。
坂口と新間寿は病室の外でひたすら待ち、翌朝、病室に入ると、なんとベッドには猪木ではなく猪木の弟が寝ていた。
猪木は夜中にコッソリ抜け出していた。
自分が勝つよりも失神KOという衝撃的に負けるほうがカネになるという判断だったことに気づき、坂口は激怒。
「こんな話あるか
ふざけるんじゃないよ
俺は当分、会社出ないよ」
といい
「人間不信」
と書いた紙を会社の自分の机の上に置いてハワイに行った。

2、3日後、新間は病院に挨拶にいき、猪木が途中で帰ってしまったり、マスコミが病院に押しかけて大騒ぎになったことを謝った。
「ご迷惑をおかけしました」
すると看護師がこんなことをいった。
「私たちはあの試合を見させていいただきました。
新間さんや猪木さんはプロレスではプロかもしれません。
でも私たちは看護のプロです。
猪木さんがやったように舌を出したま失神するというのは医学的にありえません。
あれは猪木さんの芝居です」
新間はショックだった。
勝つべき試合で猪木は失神KOされ、今は雲隠れしている。
坂口はいなくなってしまう。
いったい何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。
そしてこの事件をきっかけに新日本プロレスは悪い方向に向かっていった。
「やはりレスラーはリング上で強くなくてはならない。
そうでなけれぱ示しがつかなくなる。
IWGPの優勝を猪木が逃すことによって組織のタガが外れてしまったのだ」
(新間寿)

猪木の個人事業の1つにアントンハイセルがあった。
アントンハイセルは1980年に設立され、ブラジル国内で豊富に収穫できるサトウキビの絞りかすの有効活用法として考案された事業だった。
当時からブラジル政府は、石油の代わりにサトウキビから精製したアルコールをバイオ燃料として使用する計画を進めており、アントン・ハイセルはバイオテクノロジーベンチャービジネスの先駆けだった。
アントンハイセルを開始するにあたって猪木は自民党の大物議員に
「アントン・ハイセルによって世界中のエネルギー問題や食糧問題が全て解決する」
といって協力を呼びかけたが断られ、逆にブラジル情勢を危惧し辞めるよう説得された。
実際、プロジェクトを進めていくとサトウキビからアルコールを絞り出した後にできるアルコール廃液と絞りカス(バガス)が公害問題となった。
バガスを土中に廃棄すると土質が悪化し農作物が取れなくなり、家畜に飼料として食べさせると直ぐに下痢を起こしてしまい、バガスを食べた家畜の糞を有機肥料としようとしたが気候の問題で発酵処理に失敗。
さらに追い討ちをかけるようにブラジル国内のインフレにより経営は悪化の一途を辿った。
こうしてアントンハイセルは数年で数十億円の負債を出した。
猪木はテレビ朝日に放送権を担保に12億円を肩代わりしてもらったが、補え切れず、新日本プロレスの収入の大半を補てんに回してしまった。

社命によってアントンハイセルの社債の購入が義務づけられ、坂口征二は自宅を担保に数千万、藤波辰巳は妻の実家から数千万、すべての背広組、レスラーが100万円以上を出した。
その上、1983年春の契約更改で、ほとんどのレスラーが現状維持。
客は常に満員なのに給料が上がらない。
すべての社員やレスラーが不満に思う中、猪木の舌出し失神KO負け事件が起こった上、株主総会で新日本プロレスは、
「売り上げ19億8000万円、利益750万円」
という信じられない数字を報告。
ホーガン戦の約2カ月後、人気絶頂の新日本プロレスでクーデターが起こった。
まず1983年5月16日、長州力、アニマル浜口らが新日本プロレスの三重県津大会を無断欠場し
「新日(新日本プロレス)から脱退したい」
と表明。
「社長、これは職場放棄ですよ。
謹慎処分か退職処分にすべきではないですか」
新間は猪木に訴えた。
「そう派手にやってくれるなよ。
そもそもは俺が昨年の長州造反を押さえつけなかったことが原因なのだろうが、長州が今回やったことにしてももう1つ心から怒れない部分があるんだよ。
この前もいったように俺も長州と同じことをして自分を主張してきたし・・・」
「いや、ペナルティを科して、それが受け入れられなければ辞めさせるべきです」
「俺は長州を信じている」


「結局、猪木は長州、浜口を野放しにした。
同じ釜のメシを食い、肌をあわせ汗を流した選手達の絆の強さ。
やはり選手は違うんだな、選手のほうが可愛いのかなと思った。
しかし処分しなかったことで、山本(小鉄)、藤波(辰巳)らは、これなら何をしても大丈夫だと勢いづいて、私たちの知らぬところで着々と手を打っていた」
(新間寿)
1983年7月、サマーファイトシリーズを猪木は欠場
山本小鉄、藤波辰巳、大塚直樹(新日本プロレス営業部長)らは
「新団体をつくるためにはタイガーマスクがいる」
と考え、試合が終わった佐山サトルがホテルの部屋に戻るところ、藤波は
「このシリーズが終わったら話がある」
と声をかけ、大塚直樹がタイガーマスクをクラブに誘い、
「私達は新日本プロレスを辞めて新しい組織をつくります。
8月いっぱいで営業の者は突然いなくなります」
といった。
7月29日、富山で山本小鉄、藤波辰巳、大塚直樹、佐山サトルらが会合を持った。
山本小鉄は
「新団体は猪木、新間、坂口を除く」
といい、佐山サトルは違和感を感じた。
師であり恩人であり神であるアントニオ猪木を裏切るなんて考えられないことだった。
その後、態度を明らかにしない佐山サトルに大塚直樹は
「新日を出るなら500万円払う」
といい、
「もう営業は全員やめるつもりなんですよ、ほら」
と辞表をみせた。

1983年8月11日、突然、佐山サトルは、新日本プロレスに内容証明書付きの契約解除通告書を送り、一方的に引退。
8月13日、タイガーマスクはカナダでタイトルマッチを行い、日本でも中継される予定だったが、猪木の付き人として同行していた高田延彦が代役を務めることになった
21歳の高田延彦は、このテレビデビュー戦をレッグロールクラッチで勝利。
古館一郎に
「青春のエスペランサ(ポルトガル語で「希望」)」
というニックネームをつけられた。
8月18日、佐山サトルはテレビ朝日の「欽ちゃんのどこまでやるの!?」に出演し、マスクを脱いでテレビで素顔をさらした。
衝撃的なデビューから始まったタイガーマスク・ブームは2年4カ月目にして突然、幕を閉じることとなった。
結婚問題、クーデター事件に嫌気がさしたこと、格闘技への情熱が理由と思われるが、一般的には謎だらけの引退で、その衝撃は「猪木舌出し失神KO負け事件」の比ではなかった。

1983年8月20日、海外にいた猪木が帰国。
1983年8月21日、東京、南青山の新日本プロレスの事務所で、望月和治常務取締役と山本小鉄取締役は、猪木に退任を迫った。
1983年8月22日、猪木は自身が経営する六本木のレストラン「アントンリブ」で佐山サトルと食事。
新日本プロレスに戻るように説得したが、佐山の決意は固かった。
1983年8月24日、猪木と同じく日本を離れていた新間寿(営業本部長)が帰国。
1983年8月25日、新日本プロレス事務所で緊急役員会が開かれ、クーデター事件の責任をとる形で、猪木は代表取締役社長を、新間は専務取締役営業本部長を解任された。
1983年8月26日、坂口征二も副社長を退いた。
「忘れもしない1983年8月24日、まさに寝耳に水だった。
今も耳にこびりつき夢にまで出てくるアントニオ猪木の声。
『新間、もうダメだ。
俺が両手をついて頼むから新日本プロレスを辞めてくれ』
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
何とも弱々しい猪木の声。
これが世界最強の男の吐く言葉か。
『な、何で、社長・・・・・・』
すぐには信じられなかった。
何が起こっているのかすらも理解できなかった。
が、猪木の声を聞いてるうちにプロレスの情熱がスーッと抜けていった」
(新間寿)

1983年8月29日、新日本プロレスはテレビ朝日からの出向役員:望月和治、大塚博美、山本小鉄の3名が代表取締役とする新体制を発足。
こうしてクーデター側の勝利に終わったにみえたが、それは
「猪木がいなくてもプロレスを続けられるのか?
猪木が新日プロを辞めたらウチ(テレビ朝日)は放送を打ち切るよ」
というテレビ朝日の重役の一言で一気に力を失った。
1983年11月1日、新日本プロレス事務所で臨時株主総会が開かれ、猪木が代表取締役社長に、坂口が取締役副社長に復帰。
望月和治はテレビ朝日に戻され、大塚博美と山本小鉄は取締役に降格。
新間寿は新日本プロレスを去った。
大塚直樹も辞めて、株式会社新日本プロレス興行を設立。
これが長州力らの大量離脱へとつながっていく。

長年、フジテレビの水曜20時は「銭形平次」だった。
しかし主役の大川橋蔵が体調を崩していたため、新番組が検討されていた。
新日本プロレスを追われた新間寿は、その情報をキャッチすると自分の団体をつくることを決意。
交渉の末、フジテレビは「プロレス中継」を後釜に据えることにした。
新間は、猪木や長州力を新日本プロレスから引き抜き、タイガーマスクも加入させ、アメリカのWWFとのパイプを使ってアンドレ・ザ・ジャイアントやハルク・ホーガンを呼び、自分を追い出した奴らを見返してやろうと目論んだ。
その復讐にための団体を
「UWF(Universal Wrestling Federation、ユニバーサル・レスリング連盟)」
と命名。
社長に大学の後輩、浦田昇を据えた。
結婚式場や喫茶店、輸入代理店などを営むサンフルト(株)の社長である浦田は、学生時代、中央大学レスリング部で全日本選手権と全日本学生選手権で優勝した経験があった。

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