吉田沙保里  強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子の霊長類最強のタックル その奥義は「勇気」

吉田沙保里 強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子の霊長類最強のタックル その奥義は「勇気」

公式戦333勝15敗。その中には206連勝を含み、勝率95%。 世界選手権13回優勝、オリンピック金メダル3コ(3連覇)+銀メダル1コ、ギネス世界記録認定、国民栄誉賞、強すぎてモテない霊長類最強の肉食系女子。


レスリングは、相手を投げて、フォール(相手の両肩を1秒以上マットにつける)を奪う格闘技。
3分間×2ピリオドで、ピリオド間には30秒の休憩がある。
相手の両肩を1秒以上マットにつけると「フォール」となり、試合終了。
フォールがない場合、ポイントでピリオドの勝敗を決定。
ポイントは、

・寝技からの投げ技・・・5点
・投げ技・・・4点
・相手をローリングさせる・・・2点

など技の種類によって、1~5点がある。
そして

・グレコローマンスタイル・・・腰より下をつかんだり、足を使う攻撃が禁止。
・フリースタイル ・・・全身のどの部分を攻撃しても構わない、下半身へのタックルもOK

の2種類があり、グレコローマンスタイルでは、8点差、フリースタイルでは、10点差をつけると「テクニカル・フォール」となり、ピリオドの勝者となる。

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ちなみに女子レスリングは、フリースタイルのみでグレコローマンスタイルはない。
「一般の方からレスリングのルールは難しいとか、よくわからないとかいわれることがありますが、実はとてもシンプルです。
ものすごく簡単にいうと相手を倒して両肩を1秒間マットにつけたら勝ち。
それがすべてです」
(吉田沙保里)

吉田沙保里の父親、栄勝は、高校でレスリングと出会い、大学のときに男子フリースタイル57㎏級選手で全日本選手権で優勝。
アジア選手権で銀メダルを獲得し、世界選手権にも出場したが、モントリオールオリンピックの代表選考会では敗退。
大学卒業後、三重県の職員として就職。
一志郡(現:津市)一志町に自宅を構え、長男と次男にレスリングを教えるために和室にマットを敷いたが、やがて近所の子供も教え出し、私財を投じて改築。
その後も借金をして「一志ジュニアレスリング教室」という道場が開いた。


一志ジュニアレスリング教室に会費がなく、父親は指導料を受け取らずに、平日は練習、週末は出稽古か試合のために自らハンドルを握って全国を飛び回った。
長男が野球をやりたいというと
「やりたければ自分でバットとグローブを買え」
といい、たとえ発熱しても、
「37.5度ルール」
と称して、
「37.5度までは熱じゃない」
と練習させた。
一志ジュニアレスリング教室は、
「1日練習を休めば3日遅れる」
という父親によって休みは、お盆と正月だけ。
来る者は拒まず誰でも練習できる半面、
「いつでも全力」
をモットーに練習で力を抜くと、
「やる気あるのか!」
「泣いて強くなるなら泣け!」
「闘志なき者はされ!」
とどんな子供も容赦なく叱られるスパルタ方式だった。

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3人目の子供は女の子で、母親の幸代は、アイドルの南沙織の「沙織」、河合奈保子の「奈保子」を足して「沙保里」と命名。
吉田沙保里は、自宅の道場のレスリングマットでハイハイをして、3歳からレスリングを開始。
小学校、中学校を通して門限は17時で、友達から
「遊ぼう」
と誘われても、
「ごめんね。
レスリングの練習があるから」
と断り、学校が終わると走って家に帰り、食事をして、19時から自宅の道場で、同居している兄や近所に住む男子たちと一緒に練習した。
「玄関入ると、すぐ道場。
台所からすぐ、居間からすぐ、寝室からすぐ、こんな家、なかなかありませんよ」

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「がんばったもの勝ち」
「自分の持っている力を全部出せば、強くなれる」
という考えを持つ父親は、吉田沙保里が熱を出しても、
「1度は道場に来てシューズを履け」
といい、体の調子が悪いといっても、
「だからどうした」
といって練習させた。
ある日の練習中、急にトイレに行きたくなった吉田沙保里が、焦って道場を横切り、他の子供に教えていた父親に衝突。
「オイっ、ちょっと来い!」
といわれ、
「えっ」
と思って振り向くと、いきなりビンタ。
近所の友達が家でピアノを弾くのをみて、
「ピアノ習いたい」
というと
「ピアノ弾けるようになっても強くならん」
と却下され、道場で練習するか、出稽古に行くか、レスリング漬けの毎日だった。

父親は、吉田沙保里に最初から左利きで組むように指導した。
レスリング以外は、全部右利きの吉田沙保里は、最初は何もわからずやっていたが、左利きの有利さに気付いたのは、小学校3、4年生くらいだった.。
「今はどちらかというと左利きの選手の方が多いくらいで、珍しくなくなりましたので、どちらが有利ということは全くなくなりましたが、私が子どもの頃は左利きの選手はほとんどいなかったので有利だったと思います。
普段、右利きとばかりやっている選手が、試合になって急に左利きとやるわけですから、戸惑いますよね。
右と左とでは、タックルの入る形からして逆になるわけで、対応の仕方も違いますからね。
でも、私は普段から右利きとやっているので、試合になっても何も困ることがなかったんです。
おそらく父はそういうことを見越して、私を左利きにしたのだと思います」



レスリングを始めて2年後、ノルウェーの首都オスロで女子レスリング初の世界選手権が初めて開催され、同年、5歳の吉田沙保里は、初めて試合に出場。
1回戦で男の子に敗北し、悔しくて泣いていると父親に、
「練習せんから負けんのや」
といわれた。
この言葉は、あまりピンとこなかったが、自分に勝った男の子が優勝し、表彰式で首から金メダルをかけているのをみて、
「アレが欲しい」
というと、父親は、
「アレは、どこでも売ってない。
コンビニでもスーパーでもデパートでも。
最後まで頑張って練習した子じゃなければもらえない」
この一言で、吉田沙保里は変わった。
「父がレスリングの指導者で、まずは2人の兄にレスリングを教えていたので、私も3歳の頃から始めました。
その頃は遊び感覚でしたね。
でも5歳のときに初めて出場した試合で負けて、私に勝った男の子が首から金メダルを下げている姿を見て気持ちは変わりました」

その後は練習でも極度の負けず嫌いになった。
負けず嫌いなだけでなく、勝負好きな性格となり、『勝負』『勝利』という言葉を聞くと異常にモチベーションが上がるようになった。
「とにかく勝ってナンボ」
「そんな気持ちがなくなればもう終わり」
という吉田沙保里は、勉強以外は、たとえジャンケンでも負けても本気で悔しがり、ゲームや遊びでも、はじめから勝てないとわかっていればやらず、兄や兄の友達が立小便をしているのをみて、やってみようとしたものの、うまくできず、悔しくて家に帰って母親に
「おチンチンがほしい」
といった。

こうして敗北から始まった吉田沙保里のレスリング人生は、男子の大会にも出ていたこともあり、その後も勝ったり負けたりを繰り返した。
ある試合で、過去に何度か対戦していて1度も負けたことのない男の子と当たり、あまり緊張感がないままマットに上がった吉田沙保里は、おどけながら友達に
「イエーイ」
と手を振った。
するとあっさり負けてしまい、父親に、
「どんな相手であっても敬意を忘れてはいけない」
と怒られた。
ある試合で気持ちが乗らずに負けてしまったとき、父親に怒られるのが怖かったので、すぐに女子トイレへ。
「ここまでは追いかけてこないだろう」
と思って安心していたが、トイレを出た瞬間、待ち構えていた父親に思い切り顔をハタかれ、全力で戦わなかったことを怒られた。

父親は、現役時代、鉄壁のディフェンスとカウンター攻撃で
「返しの吉田」
と呼ばれていたが、モントリオールオリンピックの代表選考会では、それが通じずに敗れた。
その経験から指導者となるとタックルを中心とした積極的で攻撃的なレスリングを教え、たとえ試合に勝っても、闘志や攻撃性が欠けていれば、雷を落とすこともあった。
吉田沙保里も最初に教わったのは、タックルで、
「タックルがレスリングの基本」
「勝つためにはタックル」
「タックルを制する者が世界を制す」
と攻撃の重要性を説かれながら、来る日も来る日もタックル。
また常に
「とにかく攻めろ!」
「こわがるな!」
「下がるな!」
といわれ、たとえ勝っても攻めが足りないと怒られた。

「タックルに必要なのは勇気。
思い切りぶつかって、相手にかわされるかもしれない、潰されるかもしれない、倒されてしまったら下手するとケガしてしまうかもしれない。
はじめの頃は恐怖心との戦いです。
恐さを押し殺して全力で向かっていく。
それができるようになるまでが大変でした」
という吉田沙保里は、最終的に低い姿勢から無意識に飛び込む、ノーモーションの超高速タックルという必殺技と共に、
「練習はウソをつかない」
という信念を手に入れた。
そして三重県生まれでテニス選手だった母親と三重県職員になった父親が、三重県で開催された国民体育大会に出場し、出会ったという話を聞くと、
「もしかするとディフェンスの吉田がアタックの吉田に転じ、猛烈タックルをかましたのか?」
と思った。

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吉田沙保里が6歳のとき、ソウルオリンピックの130kg級でロシア代表のアレクサンドル・カレリンが金メダルを獲得。
以後、1992年バルセロナ、1996年アトランタと3大会連続で金メダルを獲得。
1987年~2000年まで国際大会で13年間無敗で世界選手権9連覇。
その圧倒的な強さから、
「霊長類最強の男」
といわれた。
新聞や雑誌でアレクサンドル・カレリンの記事をみていた吉田沙保里は、その中で、
「前人未到」
という言葉が気に入った。
「前人未到。
誰も到達したこと者がいない領域。
誰もやったことがないことに挑戦するのは、ものすごい快感で、とっても興奮します」
そして大人になると、
「おんなカレリン」
「霊長類最強の女」
と呼ばれるようになった。

小学生の全国大会で優勝したものの、まだ女子レスリングがオリンピック種目ではなかった(大学4年生のとき、2004年アテネ大会から採用)ので、卒業文集の
『20年後のわたし』
という欄には、
「レジ打ちのオバちゃん」
と書いた。
中学校にはレスリング部はなく、父親の勧めで陸上部に入部。
その理由は、

・レスリングに必要な基礎体力がつく
・ケガが少ない
・レスリングの試合と重なって休んでも、団体競技と違うから迷惑がかからない

だった。
吉田沙保里は、陸上部で主に短距離やハードルをやった後、中学校から徒歩で5分くらいの自宅に帰ってレスリング。
ひたすら練習に明け暮れた結果、中学1年生で、

・JOC杯ジュニアオリンピック40kg級
・全国中学生選手権 44kg級
・全日本女子オープントーナメントジュニアC級

と3つの全国大会で優勝した。

そして初めて国際大会に出場し、
「身に着けているものに全て日の丸マークが入っていて、改めて日本の代表だということを感じました」
という吉田沙保里は、外国人選手を見たのも初めてで
「まるでテレビの世界のようでドキドキして・・・
とにかく見た目が強そうに映って、戦うのが怖いなと思いました」
と緊張した。
しかし実際に戦ってみると足が長くて腰高なため、タックルが入りやすかった。
また外国人は、
「コイツ、なんでこんなにかわいいんだ?」
と思う選手が多かった。
吉田沙保里は、かわいい外国人選手と戦うとき、いつも以上に燃え、26歳まで外国人に負けることはなかった。
「ものすごく集中力が高まって、自分でも驚くほど力が出て、ブン投げてやるぞって感じです」

そして中学2年生でも、ショーブ女子国際大会 カデット48kg級で優勝。
しかし続くJOC杯ジュニアオリンピック 52kg級は、2位。
決勝戦で負けた相手は、山本聖子(現:ダルビッシュ聖子)だった。
山本聖子は、吉田沙保里より2歳上。
その父親、山本郁榮は、ミュンヘンオリンピック7位。
姉、山本美憂は、13歳で第1回全日本女子選手権優勝し、17歳のときに最年少で世界選手権優勝。
そして兄は、後にカリスマ総合格闘家となる山本KID徳郁。
そんなレスリング一家に生まれた山本聖子は、5歳でレスリングを始め、13歳で全日本女子選手権の44kg級で3位になり、日本女子レスリング界の未来を担う逸材として期待されていた。

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その後、中学2年生の吉田沙保里は

・全国中学生選手権 48kg級
・全日本女子オープントーナメントジュニア48kg級

と全国大会を連続で優勝。
この年、アトランタオリンピックがあり、テレビで女子柔道の田村亮子が、小さな体で大きな外国人を勢いよく投げ飛ばすのをみて、
「かっこいい!」
と感動し、
「オリンピックに出て金メダルが欲しい」
と思った。


中学3年生になると、

・ショーブ女子国際大会 カデット49kg級優勝
・JOC杯ジュニアオリンピック カデット50kg級 2位
・全国中学女子選手権 52kg級優勝
・全日本女子オープントーナメント カデット52kg級優勝

全国大会の1ヵ月前、吉田沙保里は左手首を脱臼骨折。
すぐに手術をして、折れた部分を3本のボルトで固定し、2㎝ほど出ているボルトをギブスで覆った。
全国大会に優勝すれば、フランスで行われる大会に日本代表として参加できたが、吉田沙保里は
「さすがにこれでは戦えないな」
と思っていた。
しかし父親に、
「片手でも戦える」
といわれ、唖然とした。
父親は、医師に長く出たボルトをテーピングできる長さまで切ってもらえと指示し、母親は
「そんな無茶な」
と母と反対したが
「行って来い!」
といわれて病院へ。
医師は、
「そんな無茶なことできません。
何が起こるかわかりませんよ?
使えなくなるかもしれません」
といったが、
「切ってもらわないと家に帰れないんで」
と懇願し、ギブスを外してもらい、ボルトを短く切ってもらった。
「きっと私が骨折=試合欠場と決めつけていたのが許せないんだと。
鬼かと思った。
どうかしてるなと思った。
お父さんでしたけど本当に大っ嫌いでした」
という吉田沙保里は、テーピングを厚く巻いて試合に出場し、ほぼ右腕1本だけで優勝。
翌年(1998年)フランスで行われた世界カデット選手権の 52kg級でも優勝した。
(1999年の世界カデット選手権では56kg級で出場し、2連覇)

高校は、父親が
「家から近くて、レスリング部がある」
という理由で選んだ、自宅から約10㎞の三重県立久居高校に進学。
放課後、高校のレスリング部で練習をして、帰宅後に自宅の道場で、再び練習という日々を送った。
高校進学直後のゴールデンウイーク、初めて全日本代表の合宿に参加。
場所は、新潟県十日町市塩ノ又。
車が高速道路を下り、緑に囲まれた道を抜けて、曲がりくねった山道を登っていくとき
「なんだか林間学校みたい」
とルンルン気分だったが、いつまでたっても車は停まらず、店はおろか、家もまばらになって、見えるのは山と田んぼと畑だけになり、
「なんて田舎なんだ」
と思っていると山の頂上に近い場所でようやく停車。
「ここだよ」
といわれた建物が
「桜花レスリング道場」
だった。
それは日本レスリング協会会長、福田富昭が廃校となった十日町市立六箇小学校塩之又分校を改築したもので、
「女子レスリング・虎の穴」
と呼ばれていたが、吉田沙保里の第1印象は、
「野原の中の一軒家」
だった。
玄関を入ると、すぐにマットが敷かれた道場で、その奥が台所と食堂。
さらにその奥が男子コーチの寝室で、選手は2階で雑魚寝。
他にトイレ、風呂、トレーニングルーム、外にはグラウンドがあった。
近くに店などなく、1番近いコンビニまで車で30分かかり、携帯電話の電波もなかった。
近くに「塩ノ又温泉 湯元荘」という温泉旅館があり、さらに山を登れば上越国際スキー場があったが、冬場は道場が閉鎖されるため、スキーを楽しむことはなかった。

高校1年生は自分1人だけだった吉田沙保里は、6時半に起床し、7時半から9時ごろまで1時間半、走り込み。
「とにかく走らされました」
「短距離はいいんですけど、長距離は全然ダメ」
という吉田沙保里は、毎朝3km、5kmと走らされた。
しかもそれは平らな道ではなくアップ・ダウンの連続で、合宿最終日は、9㎞になり、まったくついていけず、いつもビリだった吉田沙保里は、みんなより15分ぐらい前にスタートしたが、すぐに追い抜かれた。
長距離走の後は、合宿所前の急坂をダッシュ。
さらに手押しグルマや、パートナーをおんぶしたり、抱っこして駆け上がった。
初参加の吉田沙保里は、練習の流れや本数、いつ終わるかわからないという状況の中、必死にこなし、最期の坂道ダッシュは、意識が薄れ、フラフラになりながらフィニッシュ。

練習は2部制で、午後は、マットでレスリングの技術練習やスパーリングを行った。
「当時は51kg級でしたが、ロンドンオリンピックで金メダルを獲得した(坂本)日登美先輩や、世界選手権で4回優勝している(山本)聖子ちゃん、同じく世界チャンピオンになった篠村敦子さん、そんなすごい人たちが階級の近いところにいて、私はまだ技術もパワーもなかったから、結構いいようにやられていました。
またひとつひとつの当たりが痛くて、練習が終わるともうボロボロ」
吉田沙保里は、ついていくだけで精いっぱいだったが、自分から
「あと1本」
「もう1本」
といって坂道ダッシュやスパーリングを行う先輩をみて刺激を受けた。


憂鬱な合宿で、唯一の楽しみは、食事だった。
「新潟は米どころですから、ご飯がめちゃくちゃ美味しいんです。
近くに住むおばちゃんたちが用意してくれるんですけど、おかずも豪華で美味しくて。
もちろん、ご飯も山盛り。
ただ私は昔から食が細くて食べるのが遅いから、最後は、食堂で1人になっちゃうんですよ。
すると現在ナショナルチームのコーチをされている吉村祥子さんなどが、ずっと隣にいてくれて、「サオ、しっかり食べなきゃ」って話しかけてくれていました。
そうそう、私があまりにも食べないもんだから、浜ちゃん(浜口京子)の隣で食べさせられていた時期もありました。
テーブルで向き合って食べるんですけど、浜ちゃんは何度もおかわりに行くので、すごいなぁ、食べるのも練習なんだなと思ったものです」
食事の後、選手は、2階で雑魚寝。
クーラーもなく、カメムシが入ってきたり、カエルの鳴き声がうるさかったり、快適な環境ではなかったが風呂で裸のつきあいをした者同士、ワイワイと恋バナをして盛り上がった。

いつも攻めるレスリングを練習し、
「悩まず、迷わず、即決断、即行動!」
の吉田沙保里は、恋愛も攻めの一手で、
「即、告白!」
中学3年生のとき、サッカー部のキーパーが初彼氏となり、同じ久居高校に進学し、彼氏は、同じレスリング部に入った。
あるとき同じクラスで野球部の北森久史が、女子バレーボール部の先輩を好きになり、その女子バレーボール部の先輩と仲の良い吉田沙保里に相談。
北森久史は、小・中とプロ野球選手になった岡本篤志(西武ライオンズ)とバッテリーを組み、久居高校野球部では、キャッチャーで4番を打っていた。
吉田沙保里は、最初、何とも思っていなかったが、休み時間や学校の帰りにいろいろ話しをするうちに、、
「きんちゃん」
の真っすぐなところが好きになってしまった。

吉田沙保里は、元キーパーの彼氏との関係を解消。
北森久史に、
「付き合ってください」
と手紙を書いて渡し、フラれた。
ショックを受けたが同じクラスなので毎日顔を合わせなくてはならず、お互いに気まずく、以前のように声をかけられない。
それをみた周囲に
「あんたら何やっとるの?」
「なんか変だよ」
といわれ、間に入ってもらって、再び以前のように話せるように。
すると吉田沙保里は、
「やっぱり好きやわ」
と気持ちが甦り、再び告白。
すると
「ごめん」
といわれた。
好きになったら一直線、駆け引きや様子見などしない吉田沙保里は、その後も何度もアタック。
「断って、気まずくなって、また仲良くなっての繰り返しでした。
周りは、付き合ったらえーやんっていうし…」
一方、北森久史は、クラスで男子がケンカを始めたとき、吉田沙保里に
「きんちゃん、止めて!」
といわれ、、
(女の子っぽいトコあるじゃん)
と思うと同時に
(お前がタックルすれば、1秒で止まるわ!)
吉田沙保里のことを恋愛対象というより、
「別世界の人」
と尊敬していた。

スポーツ科学コースのクラスで3年間、ずっと一緒だった2人は、修学旅行で沖縄へ。
ビーチで遊んでいるとき、周りに促され、野球部と吉田沙保里が相撲をすることになった。
「浜辺で野球部全員が1人ずつ相撲を挑んだんです。
みんな体も大きいし、さすがに勝つと思ったんですけど、高速タックルで全員一撃でした。
ホント速すぎて見えないんですよ!」
北森久史も、タックルでとられた足を持ち上げられて倒れ、敗北。
卒業式の後、吉田沙保里は、校舎の陰で
「付き合ってよ。
付き合って…ください」
と最後の告白。
北森久史は、事前に吉田沙保里の母親からも、
「きんちゃん、お願い!」
といわれていたが、
「ごめん!!」
結局、6回告白し、6回フラれた吉田沙保里は、その後、
「彼は、きっと私をフッたことを後悔している」
といい続けた。
吉田沙保里が36歳で引退したとき、2男1女のパパになっていた北森久史は、ラインで
「さおちゃん、本当にお疲れ様でした」
と送ったが、すぐに
「きんちゃん、ありがとう」
という返信があった。


ちなみに吉田沙保里の好きな男性のタイプは、
「イケメンで、楽しくて、肉食系」
大人になって合コンをするとロックオンした男性に、
「年収いくら?」
「実家は金持ち?」
などとデッドボールのような質問を直球でぶつけ、酔ってくると
「彼女はいるの?」
「初体験はいつ?」
「この中だったら誰とつき合う?」
とさらに迫り、カラオケでは、西野カナの「トリセツ」を
「急にタックルすることがあります♪」
「定期的に褒めると長持ちします♪タックルがきれいとか♪」
と歌詞をアレンジしながら熱唱。
そして積極果敢に男性にアタックし 、見事に散った。

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一方でレスリングでは、

高校1年生
・ショーブ女子国際大会カデット52kg級 優勝
・全日本女子クラブ選手権 51kg級 優勝
・JOC杯ジュニアオリンピック カデット52kg級 優勝
・全日本女子選手権51㎏級 2位(福岡大の篠村敦子にフォール負け)
・世界カデット選手権 52kg級 優勝
・全国高校女子選手権54kg級 2位(1歳上の伊調千春(京都・網野高)に敗北)
・全日本女子オープントーナメント 優勝。


高校2年生
・ショーブ女子国際大会56kg級 優勝。
・ジャパンクイーンズカップ56kg級 2位(清水真理子(埼玉栄高教)に敗北)
・JOC杯ジュニアオリンピック56kg級 優勝
・世界カデット選手権56kg級 優勝
・全日本女子選手権56kg級 2位(山本聖子(日大)に敗北)

高校3年生
・ショーブ女子国際大会56kg級 優勝
・ジャパンクイーンズカップ56kg級 準決勝で山本聖子(日本大)にフォール負け)
・JOC杯ジュニアオリンピック58kg級 優勝
・世界ジュニア選手権58kg級 優勝
・全日本女子選手権56kg級 3位

と同世代では無敵。
しかし大人も出場するクイーンズカップや全日本女子選手権では優勝できず、さらに山本聖子には、中学1年生のときに初めて対戦して以来、4連敗となった。

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高校卒業後、吉田沙保里は、中京女子大学に進学。
現在は至学館大学として男女共学化されているが、当時から女子レスリング部の名門で、自宅から近く、
「練習を見たり教えたりできる」
という理由で父親が選んだ。
密かに
「大学は、東京の方に行きたい」
と思っていた吉田沙保里は、父親に
「中京女子に行け」
といわれたとき、
(また地元かよ!)
と思い、
「私は、国士館大学に行きたいと思っているんだけどなぁ」
と小声でいったが、
「ダメだ」
といわれ、断念した。

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中京女子大学レスリング部監督の栄和人は、鹿児島商工高時代、公式戦無敗で3冠(全国高校選抜大会、インターハイ、国体)を達成した九州男児。
連勝記録は、日体大へ進んで1年生のときに出場した全日本選手権まで続いた(116連勝)
その後、全日本大学選手権、全日本選手権、アジア選手権で優勝し、世界選手権で銅メダル。
ソウルオリンピッ1回戦、残り20秒で、まさかの逆転負けした後、30歳で女子レスリングのコーチになった。
オリンピックメダリストになることを目標にしてきた栄和人は、指導者になると選手をオリンピックに送り出すこと、金メダリストを育てることを目指した。
それはチャレンジと挫折の連続で、自ら、
「神経質で小心者」
という栄和人は、フサフサだった髪の毛がストレスでドンドン減り、40歳を過ぎるとなくなってしまった。
選手に対して一生懸命に接する栄和人は、4千万円のローンを組んで、道場から1分以内の場所に建つ一軒家を購入し、まかない付きの寮にした。
さらに
「選手を好きにならないと本気で指導できない」
という栄和人は、吉田沙保里が大学に入る8年前(1993年)に10歳下の教え子と結婚していた。
(そして2008年、19歳年下の教え子、吉田沙保里の3つ上の先輩、岩間怜那と再婚。
再婚から2年後、栄和人は大学の近くの新築マンションを購入したが、岩間怜那を慕う吉田沙保里は、その隣の部屋を購入した)

レスリング部員は、全員、寮に入らなければならず、それまで実家で暮らしていた吉田沙保里は、掃除や洗濯など母親にやってもらっていたことを自分でやらなくてはならなくなった上、1年生として様々な仕事や雑用をやらねばならなかった。
先輩のチェックは厳しく、何かミスをすると
「ミーティング!」
といわれ、連帯責任で1年生全員が呼び出され、
「何かやった?」
「わかんない」
「あのことかな?」
などといいながら、怒られに行った。
ある日、先輩が部屋にやってきて
「今日もミーティングね。
・・時にリビング集合」
といわれ、
「今日はなんだろう?」
「誰か何かした?」
といいながら、リビングへ。
一列に並んで固まっていると、先輩の口から出たのは、単なる連絡事項で
「エッ?」
と拍子抜け。


吉田沙保里は、最初、おもしろいことをいって笑わす栄和人監督のことを、
「楽しい人だなあ」
と思っていたが、道場で竹刀を持って大声で、
「バカヤロウ」
と怒鳴るのをみて
「こんな怖い人だったとは・・」
と驚いた。
声がデカい上に言葉が汚く、怒ると怖い上に1人の選手につきっきりで教える栄和人監督に、初めてマットの脇で怒られたとき、吉田沙保里は、恐怖と悲しさと情けなさが入り混じり、号泣。
「練習しろ!」
といわれたが、
(こんなはずじゃない)
(お父さんとやり方が違う)
と思うと泣けてきて、涙が止まらない。
栄和人監督は、怒鳴り続けたが、吉田沙保里が泣き続けるので、離れて別の選手の指導を始めた
泣きたいだけ泣いて気持ちの整理ができて涙が止まった吉田沙保里は、マットに戻って練習を再開。
栄和人監督は、吉田沙保里の気持ちの切り替えの早さに驚いた。



一方、吉田沙保里は、栄和人監督について、
「監督は、しつこい。
ただのしつこさではなく、ものすごくしつこい。
お父さんは、そのときは厳しいけど、後はあっさり。
そこは違う」
と最初は嫌いだったが、教え子が勝つと誰よりも早く泣いてしまう栄和人監督をみて、
「勝たせたいという思い、愛情は一緒」
「女性以上に細かくて神経質だから弱点を見つけることができる」
と思うようになった。

中京女子大学レスリング部の練習は、まず朝の6時40分にランニングとトレーニングを1時間半行い、汗をかいた後、朝食をとる。
そして平日は、16時半から、土曜日は15時から、2、3時間、マットで練習。
大学に入った当初、吉田沙保里は、全体練習以外、自主トレーニングも自主練習も、まったくしなかった。
練習後は、すぐシャワーを浴び、自主的に練習やトレーニングに励む先輩をみると
「エッ、まだやってるんですか?
もう帰りましょうよ」
と悪の道に誘った。
また吉田沙保里は、朝食は抜き、夕食も、ご飯を2口程度食べるくらいで、その代わりに大好きなお菓子を好きなだけ食べるという食生活だった。
そのために高校時代、よく風邪を引いたり発熱したりして体調を崩し、試合ではスピードはあるがスタミナがなく、前半、リードしていても後半、逆転負けすることもよくあった。
吉田沙保里に、
「ねえねえ(姉姉)」
と慕われていた先輩、岩間怜那は、
「本当に努力していなかったです。
普通、負けても、あれだけやってきたんだから仕方ないといわれますよね。
でもあの子は、負けたら、やっぱりなといわれることがいっぱいあった。
それでも強かった」

吉田沙保里は、大学1年生になった直後、4月の初めに行われたジャパンクイーンズカップ56kg級は、準決勝敗退。
4月末に行われたJOC杯ジュニアオリンピック58kg級では、優勝。
8月の初め、世界ジュニア選手権58kg級でも、優勝し、2連覇。
しかし8月末、全日本学生選手権56kg級では、決勝戦で山本聖子に負け、2位になった。
「10㎝近く背が高く、長い手足と抜群の身体能力を持ち、レスリングをするために生まれてきたような聖子さんにどうしても勝てませんでした。
1999年から世界選手権3連覇中の聖子さんにとって私など眼中になかったでしょう」
山本聖子に5連敗した直後の9月、国際オリンピック委員会(IOC)が、3年後に行われるアテネオリンピックで女子レスリングを正式種目に採用すると発表。
子供の頃からの夢が現実の目標になった吉田沙保里は、一気にモチベーションを上げた。

さらにずっと、
「厳しい練習をしているのに(吉田沙保里)の身体が締まらない」
と思っていた栄和人監督が、寮に行ったときに大量のお菓子が入った段ボールを発見。
山本聖子に5連敗となった吉田沙保里に、劣っているパワーを強化するために、
「お菓子禁止」
「1日5食」
を厳命。
また
「聖子ちゃん」
から
「山本選手」
に呼び方を改めさせた。
いきなり大好きなお菓子が禁止になって1日5食となった吉田沙保里は、
「もう食べられません」
と訴えても、
「食べるのも練習だ」
と許されず、泣きながら食事。
最初は主食だったポテトチップスをベッドの下に隠しながら、1日5食とウエイトトレーニングに取り組んだ。
すると明らかに体が変化し、スタミナもパワーもアップし、さらに免疫力も高まり、病気をしなくなった。

5連敗から1ヵ月後の10月、宮城国体のエキシビションで山本聖子と対戦し、初勝利。
しかしオリンピックに出るためには、まだ
「雲の上の存在」
である山本聖子を公式戦で倒さなければならない。
これまで以上に必死に練習し、1日5食とウエイトトレーニングによる肉体体改造を取り組み続けた吉田沙保里は、2ヵ月後の12月、全日本選手権56㎏級の準決勝で、山本聖子と対戦。
得点で上回っていた吉田沙保里は、
「このままいけば勝てる」
と思って守りに入った瞬間、攻められてしまい、残り20秒で逆転負け。
試合が終わり、マットを降りたとき、栄和人監督がかけよってきて、
「パーン」
と平手打ちをされた。
吉田沙保里が栄和人にビンタされたのは、この1度だけで、その痛さよりも負けた悔しさで号泣。
「たとえ負けたとしても、攻めて負けたならいい。
負けないように守りに入った自分が許せなかった」
続く3位決定戦で、伊調馨(中京女子大学付属高校)に勝利したが、悔しさは消えず、その後も、
「聖子さんに勝つ!!」
と執念を込めて練習。
その結果、この後、6年余り(2008年まで)、国内でも海外でも1回も負けることなく119連勝し、「霊長類最強の女」となっていった。

大学2年生の4月、ジャパンクイーンズカップ55kg級の決勝戦で山本聖子と対戦した吉田沙保里は、まずタックルでポイントを取った後、
「スキをみせたらやり返される」
という必死の思いで戦い、公式戦初勝利。
その瞬間、マットの上で飛び上がった。
6月、カナダカップ55kg級、優勝。
8月、全日本学生選手権59㎏級、優勝(55㎏級で優勝したのは山本聖子)
10月、20歳の誕生日の翌日、初めてのシニアの国際大会、韓国・釜山で行われたアジア大会に出場した吉田沙保里は、
「これはもう、勝つしかない」
と得意のタックルで攻めまくり、相手に1ポイントも与えずに決勝戦に進出。
李ナレ(韓国)にバックをとられて先制されたものの、その後は何もさせず、1分39秒、タックルで10ポイント差をつけてテクニカルフォール勝ちし、マットの上でガッツポーズした後、バク転。
全4試合にかかったトータル時間は、7分49秒という圧倒的な強さで金メダルを獲得した。

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11月、ギリシャのハルキダで行われた世界選手権の55㎏でも優勝。
日本女子レスリングは、63㎏級の伊調馨(中京女大付高)、72㎏級の浜口京子(浜口ジム)も世界チャンピオンとなり、3階級を制した。
12月、全日本選手権55㎏級で優勝。
決勝戦の相手は、昨年と一昨年の51㎏級の世界チャンピオンで大学の2年先輩である坂本日登美。
女子レスリングは7階級あったが、アテネオリンピックでは、48kg級、55kg級 63kg級、72kg級の4階級しか行われないため、坂本日登美は、階級を上げた。
吉田沙保里は、
「先輩は下の階級から上がってきた。
だからもともと上の階級にいる私が勝たなければいけない」
と自分にいい聞かせ、第1ピリオド、いきなり得意のタックルで倒し、25秒でフォール勝ち。
坂本日登美のセコンドに入っていた栄和人監督は、
「坂本も肩の筋肉が付き、いい勝負をするかなと思ったが、吉田のスピードがすごかった。
タックルの切れ味は世界一だろう」


2003年、大学3年生の4月、ジャパンクイーンズカップ55kg級の決勝で山本聖子と対戦。
序盤、正面タックルで持ち上げて3点先制。
グラウンドで、ネルソン(うつ伏せの相手の脇と首を極めて90度以上返す)で2点を加え、5-0とリード。
山本聖子もバックを奪って1点を返した。
第2ピリオド、吉田沙保里の片足タックルがもつれて、両者2点。
続いて吉田沙保里が山本聖子のタックルをかわして、バックをとって1点を追加。
8-3で、吉田沙保里が判定勝ち。
「初めから攻めていけたのがよかったと思います。
先取点を取れたのが大きかったですね。
最初の3点タックルは狙っていたわけではありませんが、うまくパッと入れたときに場外の線が見えたので力を上に持っていったらうまく担げました。
筋トレの成果が出て、パワーがついてきたと自分でも感じます。
引きつけたり、相手の力をかわすことができるようになりました。
聖子さんに組まれても焦らず、冷静に戦えました。
課題はグラウンドでの抑え。
うまくきていると思いますので、もっと上を目指して練習します」
(吉田沙保里)
「決勝戦は自分から攻められませんでした。
吉田選手には負け続けているので、何も言えません」
(山本聖子)
9月、ニューヨークで行われた世界選手権には、吉田沙保里が55㎏級、山本聖子が59㎏級で出場し、2人とも圧倒的な強さで優勝。
(吉田沙保里は、2連覇)

Amazon.co.jp: 2003年第3回女子レスリングワールドカップ吉田沙保里・伊調馨・浜口京子227分 : スポーツ&アウトドア

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10月、東京の代々木第2体育館で、世界選手権の上位7カ国(日本、アメリカ、カナダ、ロシア、中国、ドイツ、ギリシャ)7階級7人による団体戦「2003年女子レスリングワールドカップ」が開催。
この大会2連覇中の日本は、

48kg級 坂本真喜子
48kg級 山本美憂
51kg級 伊調千春
51kg級 服部担子
55kg級 吉田沙保里
59kg級 山本聖子
59kg級 岩間怜那
63kg級 伊調馨
63kg級 正田絢子
67kg級 斉藤紀江
67kg級 坂本襟
72kg級 浜口京子


というメンバーで挑み、圧倒的な強さで5連勝した後、最終戦で同じく全勝のアメリカと対戦。
坂本真喜子、伊調千春が判定負けした後、吉田沙保里が登場し、終始、攻め続け、終了1秒前にフォール勝ち。
山本聖子も勝利し、2-2に追いついた。
続く伊調馨もアメリカのエース、サラ・マクマンに勝って、3-2と逆転。
しかし斉藤紀江と浜口京子が負け、日本は3-4で銀メダル。
吉田沙保里は、5試合に出場し、5勝0敗4フォール勝ちだった。

12月、全日本選手権55kg級の決勝戦は、吉田沙保里 vs 山本聖子という現役世界チャンピオン対決となった。
全日本選手権とジャパンクイーンズカップは、アテネオリンピックの代表選考会でもあるため、女子レスリング初のオリンピックの出場権を賭けたサバイバルマッチでもあり、注目を集めた。
13歳で全日本女子選手権の44kg級で3位になった山本聖子は、1999~2003年に世界選手権の異なる3階級(51kg級、56kg級、59kg級)で、4度も頂点に立った上、アイドル顔で男性ファンも多かった。
高校時代に同じ男性に6度告白し6度フラれた吉田沙保里は、山本聖子に中学生のときの初対決して以来、大学1年生まで、5連敗。
その後、エキシビジョンマッチで1勝したものの、2ヵ月後、大学1年生の12月、全日本選手権で、再び敗北。
この敗北でヒートアップし、大学2年生のジャパンクイーンズカップ、大学3年生のジャパンクイーンズカップと山本聖子に2連勝し、その勢いで、アジア大会、世界選手権、全日本選手権も優勝。
「プリンセス」
「次の女王」
と期待されていた。

吉田沙保里と山本聖子によるアテネオリンピック女子レスリング55㎏級日本代表争いは、
「世界で最も過酷な代表争い」
「どちらが出ても金メダル間違いなし」
「事実上のオリンピック決勝戦」
といわれた。
「まだ必ず勝てるという自信はありませんでした。
勝ちたい、勝つんだとは思ってはいましたが、やってみないとわからないなという感じでした」
という吉田沙保里は、得意のタックルがなかなか決まらず、第2ピリオドは、互いに点を奪えず、延長戦へ。
クリンチ(互いに上体を組み合った体勢)からの始まり、パワーに勝る山本聖子は、組んだまま投げを仕掛けたが、吉田沙保里は、それをすかして、背後を取り、さらにタックルに来た山本聖子をとっさに転がし、勝利を決めた。
これで吉田沙保里は、2年連続2度目の優勝。
山本聖子は、2ヵ月後に行わるクイーンズカップでアテネオリンピックの代表が決定するため、
「死ぬ気で練習する」
と宣言。

2004年2月23~24日、東京の駒沢体育館でクイーンズカップが開催。
全日本選手権で優勝している吉田沙保里は、クイーンズカップに勝てば文句なしで日本代表だった。
試合1週間前、父親の栄勝は、吉田沙保里に、山本聖子が使う投げ技の返し方を実演し指導。
「タイミングが難しく、実際に相手を返せる可能性は大きくないが、自信をつけさせたかった」
しかし試合前日、減量中の吉田沙保里は、熱中症になり、39度の発熱。
医師は欠場を勧めたが、父親は、
「勝てたらラッキー。
負けても1勝1敗で決定戦になる」
といい、吉田沙保里は、点滴を打って出場。
決勝戦で山本聖子と対戦したとき、37度5分の熱があった吉田沙保里は、ポイントでリードし、終盤、逆転を狙って投げを打ってきた山本聖子に父親から教わった返し技を決め、決着をつけた。
山本聖子は吉田沙保里に近づき、耳元で、
「これまでありがとう。
応援してるから」
高校時代まで吉田沙保里から何度も、
「やめたい」
といわれていた母親は、オリンピック出場が決まった後、初めて
「レスリングやっててよかった。
ありがとう」
といわれ、
「本当に良かった」
と思った。

5月、大学4年生になった吉田沙保里は、アジア選手権55kg級でも優勝。
22歳女子の平均が、

握力 28㎏
背筋力 80㎏
50m走 8.8秒
腕立て伏せ 7回
反復横跳び 38回

22歳男子の平均が、

握力 50㎏
背筋力 140㎏
50m走 7.3秒
腕立て伏せ 30回
反復横跳び 45回

なのに対して、22歳の吉田沙保里は、

握力 40㎏
背筋力 160kg
50m走 8.0秒
腕立て伏せ 50回
反復横跳び 52回

アテネオリンピックに向けた国内合宿で男子コーチは、
「骨折でもしない限り、金メダルは間違いない。
捻挫やちょっとした発熱があっても、負けることはない」
といった。

8月、女子レスリングは大会後半に行われ、出発は開会式後の予定だったが、浜口京子が日本代表選手団の旗手に選ばれたため、吉田沙保里も一緒に開会式前に出発することになった。
栄和人監督は、練習環境を心配したが、
「そんなことどうにもでなる」
と黙らせ、マスコミには、
「開会式が楽しみです。
気持ちが高まると思います」
とコメントしてギリシャへ向かった。
そして8月22日、2日間で行われる女子レスリング競技がスタート。

48kg級、伊調千春 ベリズル(カナダ)、ワーグナー(ドイツ)にフォール勝ち
55kg級、吉田沙保里 孫冬梅(中国)、ジャンピッコロ(イタリア)にテクニカルフォール勝ち
63kg級、伊調馨 ゴロフチェンコ(ウクライナ)にテクニカルフォール勝ち、カルタホワ(ロシア)に判定勝ち
72kg級、浜口京子 モンゴメリ(アメリカ)に判定勝ち、ズラテバ(ブルガリア)にテクニカルフォール勝ち

と日本代表の4人は全員、準決勝進出。


その夜、浜口京子は緊張で眠れなかったが、同部屋の吉田沙保里は、隣でイビキをかいていた。
そして8月23日、吉田沙保里は、準決勝でゴミズ(フランス)から先取点を奪ったが、相手の投げ技で3点を失い、逆転され、同点に追いついて迎えた第2ピリオド開始早々、タックルに入ったところを払い腰で返され、3-6に。
最終的に1点差の逆転勝利をしたものの、厳しい表情で首をひねった。
そして自分の出番の直前、48㎏級の決勝戦で伊調千春が敗れ、銀メダルに終わると
「千春さんの敵を討ってやる。
千春さんの分も勝つ。
絶対に負けない」
と逆に燃えた。
決勝戦の相手、バービーク(カナダ)は、数ヵ月前、ワールドカップでフォール勝ちしている相手。
165㎝と自分より9㎝身長が高いバービークの足を狙い、片足タックルでポイントを連取。
その後もタックルで攻めまくり、6分間、攻撃を緩めず、バービーク(カナダ)に何もさせずにポイントでリードし、試合終了の合図を聞くとガッツポーズ。
そして栄和人監督を肩車。
さらに鮮やかな後方宙返りを決めた。
63kg級の伊調馨は、準決勝でルグラン(フランス)、決勝でマクマン(アメリカ)に判定勝ちし、金メダル。
72kg級の浜口京子は、準決勝で王旭(中国)に判定負けし、3位決定戦でサエンコ(ウクライナ)に判定勝ちし、銅メダルとなった。

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金メダル獲得後、吉田沙保里は、選手村の食堂で、競泳で5個の金メダルを獲得したイアン・ソープ(オーストラリア)と遭遇。
「イアン・ソープだ!」
イケメンのスーパースターに興奮した大学4年生の吉田沙保里は、栄和人監督に、
「写真を撮ってください」
と頼んだ。
しかし後で確認すると、うまく撮れておらず、
「チッ、うまく撮れよ。
何をやってるんだよ。
こんな大事なときに・・・」
といい、周りに
「監督に撮らせるのもどうかと思うけど・・・」
といわれた。

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