室伏広治は、静岡県東部、伊豆半島の付け根に位置する沼津市で生まれた。
父親は、2年前にハンマー投げ日本代表としてミュンヘンオリンピックに出場したばかりの室伏重信。
母親は、18歳でヨーロッパジュニア陸上競技選手権大会で金メダルを獲得し、やり投げのルーマニア代表だった室伏セラフィナ(セラフィナ・モリツ)
投てき選手の国際結婚は、「フィールドに咲いた恋」「恋の3回転ターン」といわれた。
そんなアスリートの両親の長男として生まれた室伏広治は、生後5ヵ月で腹筋運動のように上体を起こし、6~7ヶ月で物干し竿にブラ下がって腕でお腹まで身体を引きつけた。
そして父親の仕事場であるハンマー投げのグラウンドで遊んだのがすべての始まりとなった。
3歳のときから室伏広治は父親が発泡スチロールでつくったハンマーで遊んでいたが、
「ハンマー投げをやれ」
といわれたり、強制的にやらされたことは1度もなかった。
そんな自主性を重んじる父、重信は、室伏広治が4歳のときにモントリオールオリンピックに出場。
室伏広治は、小学校1年生のとき、立ち幅跳びで1m90cmを記録。
父、重信は、モスクワオリンピックの日本代表に選ばれていたが、ソ連がアフガニスタンを侵攻したため、アメリカをはじめとする西側諸国が出場をボイコットし、日本オリンピック委員会(JOC)も不参加を決定したため、246人の日本代表選手は出場することはできなかった。
小学校2年生のときに子供用の3㎏のハンマーを投げ始め、小学校3年生のときに父、重信がコーチ学を学ぶためにアメリカのロングビーチ大学に留学したため、アメリカへ。
そこで
「悪い癖がついてしまう」
と思った父親から初めてハンマーの投げ方を教わった。
しかし教わったのは3日間だけ。
それ以降は、また何もいわれなくなった。
小学校で学校で何かあれば必ず疑れるようなイタズラっ子で、教師に何度も怒られる一方、正義感が強く、カツアゲしていた上級生から取り返し、取られた相手に返したこともあった。
体育は好きで瞬発力を要する運動は得意だったが、持久力が求められる運動は苦手で、小学校で初めてマラソン大会に出たとき、序盤はトップだったが、最下位でゴール。
ショックを受けていると父、重信に
「お前はマラソンが得意ではないというだけの話だ」
といわれ
「人には得意なことと苦手なことがあるんだ」
と納得。
家庭科の調理実習も
「火を使って調理をするのはおもしろいな」
と大好きで裁縫も
「布に図案を描いて,丸い刺繍枠を使って刺繍をしたのが楽しかった」
といい、現在でも上手に縫える。
そして小学校5年生のとき、父、重信がロサンゼルスオリンピックに出場し、現地で応援し、
オリンピック独特の雰囲気を楽しんだ。
小学3年から中学2年までロサンゼルスで暮らした後、愛知県の中学校に編入学。
当初、複数の部活動を掛け持ちしたが、自然と陸上部に落ち着き、最初やったのは、3種競技B(400m、走り幅跳び、砲丸投げの合計ポイントを競う)
中学校1年生の夏、欧州選手権でユーリ・セディフ(ソ連)が、86m74を投げ、世界記録を更新。
それは現在(2024年)でも破られていない超ビッグスローだった。
中学2年生の2月、父、重信と母、セラフィナが、結婚15年目に離婚。
父、重信に事情を説明され、
「どちらと暮らすのか自由に選択してよい」
といわれた室伏広治と小学生の妹、由佳は、父親と暮らすことにした。
その後、セラフィナは、日本人男性と再婚し、室伏家と同じ愛知県に居住。
母親が外国人であったことや小さい頃から海外で過ごしたことで英語を話せる室伏広治は、
「母の社交的な基質を受け継いでいるという面もあるかもしれない」
という。
そして中学3年生になると父親にハンマー投げを教えてほしいと願い出た。
「教えてほしいとはいったがハンマー投げの道に進むことを決めたわけではなく、自分がどの種目が向いているのかわからず、選択枝の1つとして試しにハンマーを投げてみたいと思った程度だった」
室伏広治は、町の相撲大会で大人相手に戦い、大相撲からスカウトが来るほど体が強かったが、180㎝、65㎏とかなり細身。
父、重信がハンマー投げを始めたのは高校1年生のときで、その時点で178㎝、78㎏あった。
だから
室伏広治にハンマー投げを教えてくれといわれたとき、
「大変なことになる」
と思った。
しかし勤務する中京大学のハンマーサークルで投げさせてみると、大学生よりも投げ方がうまく、しかもジュニア用のハンマーを40m以上も飛ばしたため、
「インターハイ(全国高校総合体育大会)でトップになれる」
と確信すると同時に、
自身、世界で100㎏を超える大男たちと戦ってきた経験から
「技術である程度はカバーできるが、体重が増えない限り、ハンディになる」
と思った。
そして全国の高校の陸上部を調べ、夏休みに室伏広治を、全天候型のグラウンドがあり、自分の大学の後輩が陸上部の顧問をしている千葉県の成田高校に連れていった。
大学の後輩とは、小山裕三。
砲丸投げの元室内日本記録保持者で、世界陸上やオリンピックの投てき競技のテレビ解説者としても有名な人物。
タレントの照英は、中学校3年生のときに全国大会(全日本中学校陸上競技選手権)の合宿で室伏広治と初めて会い、第1印象は、
「あの鉄人の息子?」
そして体がヒョロヒョロだったので
「跳躍の選手かな?」
と思ったが、実際、ダッシュやジャンプ力がすごく驚いた。
そして自身は3種競技A(100m・走高跳・砲丸投の総合ポイントを競う)と砲丸投げで全国大会に出場した。
こうして室伏広治は、私立成田高校に進学し、実家を出て、陸上部の監督である滝田詔生の家に下宿。
滝田詔生は、俳優の滝田栄の実兄で、小山裕三の師であり、マラソンの増田明美を育てたことで有名な指導者。
これまで自由に伸び伸びと生きていた室伏広治にとって、滝田詔生と小山裕三は、とても厳しく、雑巾がけや皿洗いをさせられたり、言葉遣いや礼儀、生活態度が乱れなど厳しく叱られた。
「小・中ではエネルギーが余っていて先生にも何度も怒られるようなことをしました。
でも高校で本格的にスポーツをするようになって規律ある生活をする中でおとなしくなっていきました。
エネルギーを向ける場所が見つかったのかもしれないですね」
ハンマー投げは、ワイヤーに取りつけた鉄球を、直径約2mの円の中で回転して遠心力を発生させて投げ、その飛距離を競う。
鉄球の重さは約7㎏。
ボウリングでいえば1番重いクラスのボールで、
これを80m投げるとき、リリース時の張力は400㎏近くにもなるという。
室伏広治は、入学直後の4月に行われた千葉県大会で、約6kgの高校生用ハンマーを2回転で投げて、44m26。
この記録で優勝した室伏広治は、南関東大会へ進出。
ここで上位に入ればインターハイに出場となるが、フォームを崩し、距離が伸びずに敗退。
その後、父、重信は、月1回、成田高校を訪れて指導を行い、1ヵ月間の練習メニューを渡して帰るということを繰り返した。
成田高校陸上部顧問、小山裕三は投てき種目の担当だったが、
「室伏先生が教えたほうがいいに決まっている」
といって、室伏広治にハンマー投げをまったく教えず、体力トレーニングを指導した。
かつて室伏重信に憧れて日本大学に進んだ小山裕三は、ハンマー投げを志していたが、コーチに回転競技のセンスがないといわれ、3ヵ月で砲丸投げに転向。
ある日、室伏重信に
「お前は砲丸を押し出す肘にバネがある。
真面目にやれば強くなるぞ。
これを着て、練習に励め」
といわれ、日本代表だけに支給される日の丸入りのランニングを手渡された。
感激した小山裕三は、関東インカレ(関東学生陸上競技対校選手権)を3連覇。
日本インカレ(日本学生陸上競技対校選手権)で優勝。
日本学生記録を出し、その後、日本選手権2連覇。
アジア大会6位。
そして砲丸投げの室内日本記録を出すまでになったが、日の丸入りのランニングは
「恐れ多くて1度も着ることなく、大切に保管してある」
一方、そのことを室伏広治から聞いてもアドバイスをしたこともランニングを渡したこともまったく覚えていなかった父、重信は、かつて東京オリンピック代表選考に落選し、アジア大会で準優勝した後、スランプに陥った。
練習量で打破しようと1日8時間、300本を投げたこともあったが、2年以上、停滞。
体力ではなく、技術に問題があるのではないかと疑い、自分のフォームを確認できる8㎜ビデオに出会ったのが転機となり、
初めて自分のハンマー投げのフォームをみて
「自分の感覚と実際の動きが違う」
と気づいた。
「始まりは、大学3年生のときでした。
それまで急速に記録を伸ばしていた私は、突然、大スランプに陥ります。
猛練習で乗り越えようとしましたが、成績はさらに下がっていく。
社会人になっても、不振が続きました。
そのときです。
当時、まだ珍しかった8mmビデオを借りて、自分のフォームを撮影したのです。
トップ選手の映像も手に入れました。
もう夢中になりましたね。
夜、社員寮の襖に映して、体の動きを分析する。
何度もテープを巻き戻して擦り切れるまで観ました。
「そうか、トップ選手の足の動きはこうなっているのか」と興奮し、畳の上で練習する。
そして修正したフォームをまたビデオに撮る。
そうやって足や腕など、あらゆる部分の動きを変えていきました」
父、重信は、高校から7年間投げ続けてきた感覚が消えるまで、ハンマーを投げることを控え、その後、アジア大会で優勝し、ミュンヘンオリンピック8位入賞。
「倒れ込み」という回転中に軸を背面方向に倒す技術を編み出し、日本記録樹立、オリンピック日本代表4回、アジア大会5連覇、日本選手権10連覇を果たし、
「アジアの鉄人」
といわれた。
そんな父、重信は、技術とその追求を第1に考える、シビアな合理主義者で
「フォームが崩れる」
といって、あまり投げ込みをさせなかったり
「力に頼る投げ方になって技術が身につかない」
といってウエイトトレーニングをさせないなど独自のやり方で室伏広治を育成。
室伏広治は、夏休みに帰郷すると中京大学で父、重信に指導を受けながら本格的な練習が始まった。
ハンマー投げは、まずハンマーを持たずに両足接地と片足接地を繰り返す足の運び方と回転運動を練習する。
その後、ハンマーを持ち、スイングと投げ方。
次に1回転投げ、2回転投げを練習。
その後、3回転投げにするか、4回転投げにするかを選択する。
世界記録保持者のユーリ・セディフは3回転投げで、世界2位のセルゲイ・リトビノフは4回転投げだった。
父、重信は、3回転投げだったが、回転スピードを高めるために、研究と練習を続けて4回転を習得し、38歳で75m96という自己の日本記録を更新。
そんな父、重信の指導下、室伏広治は、4回転ターンをみっちり練習。
結果、春の南関東大会で46mしか飛ばなかった室伏広治のハンマーは、4回転投げをマスターした秋、52m82に到達。
技術を身につけて結果を出すという喜び知ってしまった室伏広治は、父親や教師、誰からも1度も強制されないまま、純粋にハンマー投げが好きになり、自ら積極的にのめり込んでいった
父、重信に、
「一流選手のビデオをみなさい」
「あまりうまくない選手の投げ方はみなくてよい」
といわれ、時間があれば世界記録保持者のユーリ・セディフや世界歴代2位のセルゲイ・リトビノフのビデオを観た。
そしてある大会で、みんなが仲間のハンマー投げを応援しているとき、室伏広治だけ背中を向けて観戦。
「お前も応援しろ」
と注意され、
「親父からいいものをみろ、悪いものはみてはいけないといわれているので・・・」
と答え、叱られた。
高校2年生の夏、
日本初の世界陸上が東京、国立競技場で開催。
若手が台頭し、さすがに勝てないだろうといわれていた36歳の世界記録保持者、ユーリー・セディフが優勝。
観客席で感動した室伏広治は、
秋、千葉県代表として国民体育大会(国体)に出場し、68m22の高校新記録を出して優勝し、インターハイでも優勝(64m78)
試合で使うハンマー重さは、高校生が6㎏、大学生以上は7㎏だが、75㎏の体で大人用のハンマーで61m76をマーク。
高校3年生のインターハイでは、71m78と70m台を出して優勝し、2連覇。
7㎏のハンマーでも66m30を投げ、体と飛距離のギャップで衝撃を与えた。
投てき種目は、砲丸投、円盤投、ハンマー投、やり投の4種目があるが、国体で行われるのは2種目だけで、砲丸投とやり投、円盤投とハンマー投が交互に行われていた。
そのため室伏広治が高校3年生のとき、国体はハンマー投げがなかった。
埼玉県立鴻巣高校に進んでから、やり投げが専門になった照英は、インターハイで70mを投げるのではないかと期待されていたが、ケガで記録が出ず、国体で雪辱を果たそうとしたがうまくいかず、出場を断念。
そんな状態で国体が行われる山形県に行き、体が大きくなった室伏広治に会って、
「北斗の拳のケンシロウみたい」
と驚いたが、
「やり投げ投げられないから、教えてよ」
といわれ、さらにビックリ。
「身体能力がすごいから、千葉県の点取り屋さんとして「やり投はどうだい?」という話になったみたいで。
試合前日だったと思うんですけど「教えてよ」といわれて、「こんな感じ?」「ああ、そんな感じ」と。
そのぐらいのやり取りしかしてないんですが、私も「うまいねー!」とかいっていましたね」
翌日の本番、照英いわく、
「助走もグジャグジャで、コウジだけ操り人形みたいだった。
でも最後の2、3歩だけタタタタと走って、バンッと。
それでビューンと飛んで・・・・」
という室伏広治のやりは68m16も飛び、2位。
1位は、赤嶺永啓(沖縄県立久米島高等学校)の68m42で大会新記録。
室伏広治の記録は優勝してもおかしくないレベルで、実際、その後、25年間、千葉県高校記録となった。
照英は、度肝を抜かれた。
ハンマー投ですごい記録を出しながら、100mを10秒台で走り、成田高校のリレーの選手としてインターハイに出たり、跳び方が上手なわけじゃないのに立ち幅跳びや立ち三段跳でも1番で、体力テストのハンドボール投げで野球部員でも45mを投げることができれば強肩といわれる中、65m以上を投げる室伏広治に、
「自分たちは一体何のためにトレーニングしているの」
と思い、その悔しさをバネに数ヵ月後、70mに到達した。
ちなみにこの第47回国民体育大会のスローガンは、「思いっきり躍動 21世紀の主役たち」で、
松井秀喜(野球)や華原朋美(馬術)も出場していたが、この後、みんな思い切り躍動した。
室伏広治は、父、重信が勤務する中京大学に進学。
数年前、大相撲の若花田と貴花田が藤島部屋に入門するとき、3階の自宅から着替えが入ったバッグを持って2階の大部屋に移り住み、以降、涙を流して見送る母親の藤田憲子を「お母さん」ではなく「女将さん」、父親を「お父さん」ではなく「親方」「師匠」と呼ぶようになったのをテレビでみていた室伏広治は、父、重信に、父子の関係を絶って指導を仰ぐべきか質問し、
「角界と大学の陸上部は違う。
ハンマー投げの技術は、むしろ親子だからこそ伝わる微妙なニュアンスがある」
といわれた。
しかし父親がコーチであることに窮屈さを感じ、いうことをきかない反抗期に突入。
結果、大学1年生のときに椎間板ヘルニアになり、
2年生になって練習再開したが、
「自分のやりたいトレーニングをして記録を伸ばしたい」
とウエイトトレーニングを開始。
父、重信は、
「ウエイトトレーニングはやり方を間違えると取り返しのつかないことになる」
といってやり方を教えようとしたが、室伏広治は、聞く耳を持たず我流で取り組んだ。
その結果、強引に腕で振り回す投げ方になり、日本選手権は、64m10で3位。
高校の記録、66m30に及ばない記録に室伏広治は、初めて
「ハンマー投げをやめよう」
と思った。
そんなときにやり投げの溝口和洋に
「一緒に練習をやらないか」
と声をかけられ、ワラにもすがる思いで飛びついた。
溝口和洋は、やり投げでオリンピックに2度出場。
現在(2024年)でも破られていない日本記録保持者で、幻の世界記録保持者でもあった。
和歌山県の農家の長男と生まれ、格闘技が好きだったので中学校で剣道部に入ったが
「防具つけてメンメンいうだけでアホらしい」
と2ヵ月で退部。
その後は将棋部に入り、中学校3年生のときにNHK教育テレビで「やり投げ教室」をみたのをきっかけに高校では陸上部に。
普通に練習をして、たまにサボって彼女とデートするような部員だったが、高校3年生のときにパンチパーマでインターハイに出場して、6位になり、国体でも、2位。
陸上部顧問の勧めで京都産業大学へ進学すると、いきなり全国大会優勝を狙える70m台を出したが、肘のケガで大学2年生と3年生は活躍できず、大学4年生になるといきなり79m58の学生記録。
その後、82m超えを3度も投げ、ロサンゼルスオリンピックの日本代表になったが予選落ち。
東京での解散式が終わった後、
「エラい失敗してもた」
と日本代表のブレザーを丸めてゴミ箱に捨てた。
「ロスで初めて外人と試合したんやけど、そのときあいつら大した練習してないことがわかった。
身体能力だけで投げてる感じで技術的には未熟や
それがわかったからわしにも可能性があると思った」
大学卒業後、ゴールドウィンがスポンサーになり、引き続き京都産業大学で好きなだけトレーニングできるようになった溝口和洋は、世界との差を
「負けているのはパワーだけ」
と分析。
「だったらそれをつけたらええだけや」
と規格外のウエイトトレーニングを開始した。
行うウエイトトレーニングは、全部で30種目。
その中から1日12種目ほどを選び、4時間以上、ウエイトトレーニング。
やり投げの技術練習を2時間ほど行うため、1日6時間がノルマで、最長練習時間は12時間。
「ホンマは24時間やりたかったけど、さすがに無理やった」
というが、12時間トレーニングした後、2、3時間休んで、さらに12時間練習したこともあった。
ウエイトトレーニングをした後、
「補強」
として懸垂や逆立ち歩きを行うが、
「懸垂はMAX、できる限り回数をやる。
例えば懸垂を15回できるのなら、それをできなくなるまで何セットでもやり続ける。
間に休憩を入れても良いが、5分以上、休むことはあまりない。
初めは反動なしでの懸垂だ。
この懸垂ができなくなった初めて、反動を使っても良い。
それでもできなくなったら、足を地面に着けて斜め懸垂をやる。
ここまでくると指先に力が入らなくなり、鉄棒を握ることすらできなくなっている。
ベンチをやっているときから、シャフトを強く握っているからだ。
しかしここで止めては、100%とはいえない。
そこで今度は、紐で手を鉄棒に括りつけて、さらに懸垂を行う。
ここまでやらないと、外国人のパワーと対等には戦えないのだから、無理は承知の上だ」
「わしのウエイトは、とにかく毎日MAXを挙げるだけ。
だいたい疲労ってなんやねん。
そんなもん根性で克服できる
死ぬ気でやったら人間、不可能はない」
「オーバートレーニングってなんやねん。
そんなもん気持ちの問題や。
その日は疲労困憊でバーベル挙げられなくなっても次の日にはまた挙げられるやろう。
それやったら挙げたほうがエエいうことや」
「120~140%、つまり体力的限界を超えているわけだが、そこは精神、俗にいう根性でカバーする。
毎日、火事場の馬鹿力を無理やり出せばよいだけのこと」
「ホンマにこれでエエんか、エエんかって自問自答しながら限界まで練習した。
練習中に死んでもエエと思った。
1回、ウエイトしているときにブアッと冷や汗が出て倒れたことあったけど、コーラ飲んで少し休んで、また練習再開じゃ」
などと圧倒的なウエイトトレーニングをこなしつつ、食事は
「ホカ弁にラーメンライス」
で海外ではハンバーガーばかり食べて、
「食事なんかしっかり食っときゃ、それでええ。
後はプロテインとビタミン剤で十分」
練習後は後輩を引き連れ、タバコを吸いながら一晩でウィスキ1、2本を軽く空け、
「酒はホンマは嫌いなんや。
ストレスがたまっとったから、よく飲んどったけどな。
女も面倒くさい。
アレは口説くまでが楽しいんや」
仲良しこよしを嫌い、気に入らない選手のことは、
「やりで突き殺したろか」
マスコミも
「トレーニングの苦労も知らないで好き勝手書いては他人の話でメシを食う」
と嫌い、いい加減な記事を書いた記者を国立競技場で追い回してヘッドロック。
日本陸上競技連盟のことも
「陸連ってなんやねん。
何もしとらんくせに金ばっかり持っていきよる。
わしのCM出演料なんか、ほとんど陸連が持って行ったんやぞ。
人の足ばっかり引っ張りよるし、アイツらただの金取り団体やないか」
ロサンゼルスオリンピックで予選落ちした2年後、アジア大会で76m60を投げて、金メダル。
さらに翌年、世界陸上で、80m24を投げて6位。
ソウルオリンピックのメダル獲得を期待され、常々、
「日本記録なんか、どうでもいい。
記録には2つしかない。
世界記録と、自己ベストだ」
といっていた溝口和洋は、
「ソウルでは当然、金メダルです」
と宣言。
しかし1988年のソウルオリンピックで予選落ち。
4年間ほとんど休まずにトレーニングを続けてきた溝口和洋は、帰国後、しばらくの間、酒浸りになったが、
「アカンかったやないか」
といわれ、トレーニングルームへ直行。
復讐に燃える溝口和洋は、ソウルオリンピックの翌年の初戦、4月に北九州で行われた大会で2投目に85m22を投げ、自身の持つ日本記録を1m以上更新。
さらに翌月、世界トップの選手が集まる国際グランプリシリーズに日本人として初めて参戦。
国際グランプリは、欧米の17箇所を転戦し、大会のランク、記録、順位がポイント化され、ワールドランキングが更新され、シリーズ終了後、累計ポイントでチャンピオンを決定する。
世界各国から様々な選手が参加し、入賞者には賞金も出た。
「陸連はなんも知らんから海外遠征のときにそういう試合があるて聞いて参加を決めたんや。
賞金のこと報告なんかしたらアイツらにとられるから黙って自分で受け取って使った」
という溝口和洋は、ゴールドウィンに英語を話せるトレーナーをつけてもらい、旅費など金銭交渉は自分で行った。
5月17日、国際グランプリシリーズの初戦「ブルースジェンナークラシック競技会」がアメリカ・カリフォルニア州サンノゼで開催。
やり投げは、まず3回投げ、上位8人に入れば、さらに3回投げることができ、合計6回投げ、最高記録を競う。
溝口和洋は、1投目に80m24。
2投目は、84m82で、大会新記録。
3投目は、ファウル。
そして4投目、
「究極の一瞬を捉えた」
という一投は、計測後、
「87m68」
とアナウンスされ、ヤン・ゼレズニー(チェコ)の持つ世界記録87m66を2㎝上回る世界新記録。
「New World Record!!」
興奮した場内アナウンスが流れ、場内は騒然。
しかし喜んだのも束の間、なぜか再計測が行われ、ビニール製のメジャーが細くなるほど強く引っ張られ、出た記録は、
「87m60」
と8㎝も短縮。
F1に参戦し、
「ホンダエンジンなくしては総合優勝を狙えない」
とまでいわれた本田技研工業が、FIA(国際自動車連盟)会長、ジャン=マリー・バレストルに、
「F1にイエローはいらない」
と屈辱的な言葉を浴びせられたのが数年前。
アメリカやヨーロッパには白人至上主義が存在していて、この再計測も、恐らく人種差別的な意図があった。
あまりの横暴に抗議したが聞き入れられず、溝口和洋は、
「まあこんなもんでええか」
といって着替え始めた。
「冷静に考えると、いくら安物のメジャーを引っ張ったとして、それで8cmも縮むわけがない。
恐らく芝生にいた計測員が、再計測のとき、故意に着地点をわずか手前にズラしたんちゃうか。
そら悔しないいうたらウソになるけど、このときは『そっちがその気やったら数センチじゃなく、もっと大幅に更新したるわい』と思うたんや」
この87m60は、もちろん日本新記録となり、現在(2024年)でも破られていない。
アメリカで自己ベストを2m以上も更新し、世界歴代2位の記録を出した溝口和洋は、翌6月、日本選手権に出場。
試合前日の深夜まで飲み、一睡もしないまま国立競技場へいってタバコをふかした後、81m70を投げて優勝。
「一応、気つかって外で吸うたんやけどな」
7月のロンドン国際グランプリでは、放った6投がすべて80mを超え、85m02で優勝。
その後もヨーロッパを転戦。
ポイント上位者のみが参加できる国際グランプリシリーズ最終戦は、モナコで行われ、日本人として初出場し、このとき発行された国際陸上競技連盟の機関紙「IAAFマガジン」の表紙は、溝口和洋だった。
国際グランプリシリーズ最終戦で、180㎝の溝口和洋は、83m06を投げたが、198㎝のスティーブ・バックリー(イギリス)に敗れて2位。
ちなみに3位のシグルズル・エイナルソン(アイスランド)は、188㎝だった。
幻の世界記録を出した翌年の1990年、
「強くなる奴は潰れない」
とハードなウエイトトレーニングを続けながら、それまで正面を向いたまま投げていたものを
「投げるときは左を向く」、
という新技術に取り組んだが、シーズンが始まる前に右肩がバリバリと異音を発し、剥離骨折。
右肩が壊れ、左膝も痺れていたが、9月に行われた北京アジア大会では75m84を投げ、3位。
その後、相変わらず1日6~10時間の練習とトレーニングをこなしながら、1年に1回だけ出場して、人気も体力も絶頂期にある溝口和洋が急に試合に出なくなり、世間には伝説だけが残った。
バブル崩壊後、経営難に陥ったゴールドウィンから解雇されると、その後、数年間、毎日、京都のパチンコ屋に出勤。
「パチプロや
スロットの方やけどな」
「高野(高野進、400m世界陸上7位、バルセロナオリンピック8位)なんか『オリンピック出た者がパチンコなんかしてていいのか』とかわけのわからんこというてきよったけど、アイツ、かなりアホやからな。
俺の人生やねんから関係ないやんけ」
その後、かつてのやり投げ仲間に頼まれ、時々、ボランティアで中京大学で教えるようになった。
「まあたった1時間のウエイトで強くなるんやったらそれでええんちゃう。
しかしそれだけのウエイトでは世界には出れんと思う」
「お前の4年間は、わしの2時間じゃ」
などといいながら指導し、京都と愛知県を往復。
溝口和洋が日本記録保持者であることを知る学生は少なく、
「なんかただの怖いオッサンやと思われてた」
そして
『溝口さん、日本記録保持者の欄に名前出てますよ』
といわれると
「当たり前じゃ!
ホンマ頭痛なるぞ」
中京大学で指導を始めて数年後、壁に突き当たっていた大学2年生の室伏広治に出会った。
「とにかく初めはアイツにウエイトせいっていうた。
バンビちゃんって呼んだったよ
大学生のときはメチャクチャ細かったからな
今はバケモンみたいになりよったけど」
室伏広治は、父親より17歳下、自分より12歳上の溝口和洋と一緒にトレーニングをして
「ハンパじゃない!!」
と驚愕。
「自分も厳しい練習をこなしているほうだと思っていたが、溝口さんは誇張でもなんでもなく自分の10倍以上の練習内容をこなしていた」
溝口和洋は、
「ウエイトトレーニングに回数なんか決めちゃいかん」
「限界をつくっているようでは世界では戦えん。
限界を超える練習をこなしてこそ世界と戦える」
と挑戦的なトレーニングを指導。
「それからですね。
練習量は一気に増加しました。
6時間続けてウエイトトレーニングをした後、ハンマーを投げにいくんです。
もちろん筋肉は疲れて体は動かない。
でも意外ですがハンマーは飛んでいく。
ウエイト練習もくたびれてくると普段とは違う筋肉も使うようになり、結果的に全身が鍛えられる」
室伏広治は、より積極的に練習とトレーニングを行うようになり、鹿のように細かった肉体が、みるみる変化。
「全身やり投げ男」によって「全身ハンマー投げ男」になっていった。
溝口和洋とのトレーニングによって目覚め、
「我流はやめ、周囲のアドバイスをクリアした上で自分なりの答えを探る」
「自分だけで考えるのは、時間がもったいない」
と心境が変化した室伏広治は、再び素直に父、重信の指導を受けるようになり、
「力だけではダメなんだ」
という父親の言葉がわかってきたのが、大学2年生の終り。
大学3年生の春、群馬のリレーカーニバルで71m02を投げ、自身初、そして日本人で3人目の70m超え。
そしてそれは父、重信の持つ日本記録 75m96に次ぐ、日本2位の記録だった
6月、日本選手権で69m72を投げて初優勝。
日本選手権は、1992年に初出場、1995年に初制覇、2014年まで20連覇。
8月、初めて世界陸上(スウェーデン・イエテボリ)に出場し、67m06を投げて予選35位。
室伏広治は、種目を問わず、出会う世界のトップアスリートに練習方法を聞きて回り、ハンマー投げの金メダリスト、アンドレィ・アブドゥバリエフ(タジキスタン)には、自分の練習をみてほしいと頼んだ。
実際に翌日、練習をみてもらって室伏広治は感動したが、アンドレィ・アブドゥバリエフが13歳のときにモスクワの大会に出場したが帰りの飛行機が1週間後で、ホテル代がないために空港に寝泊まりし、
「強くなればホテルに泊まれるようになる」
と思いながら、空港の片隅で練習を続けたといいう話を聞き、そのハングリーさに、再び感動。
インカレ4連覇、ジュニア日本記録、学生記録など多くの戦績を残した。
東海大学に進み、大学4年生のときに全日本学生選手権と国体のやり投で準優勝し、自己ベストとなる73m90をマークした照英にとって、
「崇拝する溝口和洋さん」
の指導を受ける室伏広治は
「別格の存在」
だった。
「コウジは1人だけ別メニューというか、独自のトレーニングをしていました。
当時の中京大は究極の場所だったと思いますよ。
私も名門といわれる東海大で成長させてもらいましたが、環境と指導者の重要性を改めてコウジから教えてもらったような気がします。
コウジからすれば、お父さんの記録は大学1年ぐらいで到達していたので、お父さんを超えていくためには独自のトレーニング、コーチングが必要だと考えていたんでしょうね。
片足で変な動きしながらジャンプしたり、丸太でトレーニングしたり、「体幹」という言葉が浸透する20年以上も前から体幹トレーニングを取り入れていました。
自分たちは「その練習は何の役に立つんだろう?」「なんの意味があるの?」と思っていましたから、もうその時点で負けていたんです。
よく一緒に遊びましたけど、こと練習に関しては、すっごい熱心だった。
一投一投にかける集中力はとてつもなかったし、切り替えはすごかった。
だからこそ、偉大な選手になれたのだと思います」
やり投げもトレーニングも人生も思い切りの良すぎる溝口和洋が一時期、パチプロだったと違い、父、重信譲りの堅実さを持つ室伏広治は、大学を卒業後、スポーツ用品メーカー「ミズノ」に入社すると同時に中京大学大学院体育学研究科に入学。
企業の支援を受けて現役生活を続けながら、大学院に通うというウルトラな人生を歩んだ。