幻の世界記録を出した翌年の1990年、
「強くなる奴は潰れない」
とハードなウエイトトレーニングを続けながら、それまで正面を向いたまま投げていたものを
「投げるときは左を向く」、
という新技術に取り組んだが、シーズンが始まる前に右肩がバリバリと異音を発し、剥離骨折。
右肩が壊れ、左膝も痺れていたが、9月に行われた北京アジア大会では75m84を投げ、3位。
その後、相変わらず1日6~10時間の練習とトレーニングをこなしながら、1年に1回だけ出場して、人気も体力も絶頂期にある溝口和洋が急に試合に出なくなり、世間には伝説だけが残った。
バブル崩壊後、経営難に陥ったゴールドウィンから解雇されると、その後、数年間、毎日、京都のパチンコ屋に出勤。
「パチプロや
スロットの方やけどな」
「高野(高野進、400m世界陸上7位、バルセロナオリンピック8位)なんか『オリンピック出た者がパチンコなんかしてていいのか』とかわけのわからんこというてきよったけど、アイツ、かなりアホやからな。
俺の人生やねんから関係ないやんけ」
その後、かつてのやり投げ仲間に頼まれ、時々、ボランティアで中京大学で教えるようになった。
「まあたった1時間のウエイトで強くなるんやったらそれでええんちゃう。
しかしそれだけのウエイトでは世界には出れんと思う」
「お前の4年間は、わしの2時間じゃ」
などといいながら指導し、京都と愛知県を往復。
溝口和洋が日本記録保持者であることを知る学生は少なく、
「なんかただの怖いオッサンやと思われてた」
そして
『溝口さん、日本記録保持者の欄に名前出てますよ』
といわれると
「当たり前じゃ!
ホンマ頭痛なるぞ」
中京大学で指導を始めて数年後、壁に突き当たっていた大学2年生の室伏広治に出会った。
「とにかく初めはアイツにウエイトせいっていうた。
バンビちゃんって呼んだったよ
大学生のときはメチャクチャ細かったからな
今はバケモンみたいになりよったけど」
室伏広治は、父親より17歳下、自分より12歳上の溝口和洋と一緒にトレーニングをして
「ハンパじゃない!!」
と驚愕。
「自分も厳しい練習をこなしているほうだと思っていたが、溝口さんは誇張でもなんでもなく自分の10倍以上の練習内容をこなしていた」
溝口和洋は、
「ウエイトトレーニングに回数なんか決めちゃいかん」
「限界をつくっているようでは世界では戦えん。
限界を超える練習をこなしてこそ世界と戦える」
と挑戦的なトレーニングを指導。
「それからですね。
練習量は一気に増加しました。
6時間続けてウエイトトレーニングをした後、ハンマーを投げにいくんです。
もちろん筋肉は疲れて体は動かない。
でも意外ですがハンマーは飛んでいく。
ウエイト練習もくたびれてくると普段とは違う筋肉も使うようになり、結果的に全身が鍛えられる」
室伏広治は、より積極的に練習とトレーニングを行うようになり、鹿のように細かった肉体が、みるみる変化。
「全身やり投げ男」によって「全身ハンマー投げ男」になっていった。
溝口和洋とのトレーニングによって目覚め、
「我流はやめ、周囲のアドバイスをクリアした上で自分なりの答えを探る」
「自分だけで考えるのは、時間がもったいない」
と心境が変化した室伏広治は、再び素直に父、重信の指導を受けるようになり、
「力だけではダメなんだ」
という父親の言葉がわかってきたのが、大学2年生の終り。
大学3年生の春、群馬のリレーカーニバルで71m02を投げ、自身初、そして日本人で3人目の70m超え。
そしてそれは父、重信の持つ日本記録 75m96に次ぐ、日本2位の記録だった
6月、日本選手権で69m72を投げて初優勝。
日本選手権は、1992年に初出場、1995年に初制覇、2014年まで20連覇。
8月、初めて世界陸上(スウェーデン・イエテボリ)に出場し、67m06を投げて予選35位。
室伏広治は、種目を問わず、出会う世界のトップアスリートに練習方法を聞きて回り、ハンマー投げの金メダリスト、アンドレィ・アブドゥバリエフ(タジキスタン)には、自分の練習をみてほしいと頼んだ。
実際に翌日、練習をみてもらって室伏広治は感動したが、アンドレィ・アブドゥバリエフが13歳のときにモスクワの大会に出場したが帰りの飛行機が1週間後で、ホテル代がないために空港に寝泊まりし、
「強くなればホテルに泊まれるようになる」
と思いながら、空港の片隅で練習を続けたといいう話を聞き、そのハングリーさに、再び感動。
インカレ4連覇、ジュニア日本記録、学生記録など多くの戦績を残した。
東海大学に進み、大学4年生のときに全日本学生選手権と国体のやり投で準優勝し、自己ベストとなる73m90をマークした照英にとって、
「崇拝する溝口和洋さん」
の指導を受ける室伏広治は
「別格の存在」
だった。
「コウジは1人だけ別メニューというか、独自のトレーニングをしていました。
当時の中京大は究極の場所だったと思いますよ。
私も名門といわれる東海大で成長させてもらいましたが、環境と指導者の重要性を改めてコウジから教えてもらったような気がします。
コウジからすれば、お父さんの記録は大学1年ぐらいで到達していたので、お父さんを超えていくためには独自のトレーニング、コーチングが必要だと考えていたんでしょうね。
片足で変な動きしながらジャンプしたり、丸太でトレーニングしたり、「体幹」という言葉が浸透する20年以上も前から体幹トレーニングを取り入れていました。
自分たちは「その練習は何の役に立つんだろう?」「なんの意味があるの?」と思っていましたから、もうその時点で負けていたんです。
よく一緒に遊びましたけど、こと練習に関しては、すっごい熱心だった。
一投一投にかける集中力はとてつもなかったし、切り替えはすごかった。
だからこそ、偉大な選手になれたのだと思います」
やり投げもトレーニングも人生も思い切りの良すぎる溝口和洋が一時期、パチプロだったと違い、父、重信譲りの堅実さを持つ室伏広治は、大学を卒業後、スポーツ用品メーカー「ミズノ」に入社すると同時に中京大学大学院体育学研究科に入学。
企業の支援を受けて現役生活を続けながら、大学院に通うというウルトラな人生を歩んだ。