石井慧  運動オンチ少年がオーバーワークという暴挙で起こした奇跡。

石井慧 運動オンチ少年がオーバーワークという暴挙で起こした奇跡。

石井慧の幼少児から国士舘大学に入るまで。地球上で60億分の1の存在になる、人類で1番強い男になるための序章。


1986年12月19日、石井慧は、大阪市と京都市の中間にある大阪府茨城市で生まれた。
3950g、約4㎏という巨大な赤ちゃんで、高校教師をしている両親が用意していた靴は入らず、その後も桁外れの体重の増え方を示した。
共働きの両親に代わって昼間、石井慧の世話をしたのは祖母、淑子。
石井慧が4歳で保育園に入ったとき、祖母、淑子は入園3ヵ月後に保育士とケンカをして、
「やめさせてもらいます」
といって帰ってきた。
石井慧の物怖じせず、なんでも思ったことを発言し、我が道を行く性格は、おばあちゃん似だという。

家族で海に行ったとき、水中メガネでみる海の生物にすっかり魅了された石井慧は、海に顔をつけたまま、はるか沖までいってしまい、家族はあちこちを捜索した。
「夢中になるとなにもみえなくなるです」
(母、美智子)
普段は非常に財布の紐が固い石井慧だが、夏祭りでカブトムシやクワガタを売る屋台を発見すると5000円を握り締めてカブトムシを購入。
ベランダをケースでいっぱいにして、楽しそうに世話をした。
祖母、淑子が、学校から帰ってきた石井慧が胸ポケットを手で押さえているのをみて、なぜかたずねるとヤモリが顔を出した。
祖母、淑子は
「慧くん、捨ててきて!
はよ」
といったが、石井慧は
「ヤモちゃん」
と名づけて可愛がった。
そして京都の田舎にある母親の実家にいくと、同級生より3回りくらい体が大きい石井慧は肉食獣のように昆虫や魚や動物を追いかけた。

父、義彦は、高校から柔道を始め、日体大に進学。
卒業後、高校で体育教師と柔道部の顧問をしながら、修道館(大阪城公園内にある市立の武道館)でも柔道を教えていた。
母、美智子も日体大出身の体育教師で元ハンドボール日本代表選手。
日体大の先輩後輩である2人は、偶然、同じお好み焼き屋さんに通っていて、店のおばちゃんが母、美智子に
「いい人知ってるし、紹介するわー」
といって引き合わせたのがきっかけだった。
父、義彦は、
「とにかく骨太にしたい」
「サラブレッドではなく道産子のような丈夫な子供にしたい」
と石井慧に、納豆、海苔、じゃこ、野菜たっぷりの味噌汁、そして茶碗のご飯を小指ほどに握り締めた握り飯を食べさせた。
父、義彦は、礼儀には厳しいが勉強ができなくても怒らず、自分が中学生の頃から集めてきた切手シートを息子と娘がちぎって遊んでいるのをみたときも怒らずに寝込んだ。

また決して強制はしなかった。
実は柔道をさせたくて石井慧に柔道着のパジャマを着させ、修道館にもつれていったが、
「道場は楽しい場所だと思わせることが、まずは大事」
と練習させたり、柔道着も着させることもなく、好きに遊ばせた。
そして家では、さりげなく柔道の試合をみたり、柔道や格闘技関係の本やマンガをリビングに置き、さりげなく誘導。
石井慧が
「野球がしたい」
というと
「人が投げたボールを棒で打って拾いにいかせるんやぞ。
お前、そんなことやりたいんか?
男は1対1やろ」
といって
「柔道をやりたい」
というのを待った。
父、義彦は、諭すのがうまく、飼い犬の散歩にいかない石井慧に
「お前が散歩に連れていかんかったら、この子はオシッコができひん・・・」
と物語風に語りかけた。
すると情にモロい石井慧は、最後には泣き出し、散歩に出かけた。

茨木市立大池小学校で、石井慧は寡黙な少年だった。
3年生のある日、先生が
「もっと自分のいいたいことをいえ」
「もっとやりたいことをやれ」
と個性や自己表現の大切さを教え、その中で、
「女の子は化粧してもエエ」
とも発言。
すると翌日、石井慧がファンデーションと口紅をつけて登校した。
石井慧は体は大きかったが、運動音痴で競走ではビリ。
一方、妹、愛は、スポーツ万能で、初めてスケート場にいったとき、スイスイ滑ったが、石井慧は母、美智子の腰にしがみついて離れることができなかった。
Jリーグがブームになり友達とサッカーチームを結成したとき、石井慧はゴールキーパーになったが、あまりの下手さに
「明日から来んでいい」
といわれ、野球でバットを振ってもボールと数十cm離れていた。

「混ぜるな危険と書いてある洗剤をみると混ぜたくなる」
という石井慧は、比較的、理科が得意だが、基本的に勉強の成績は悪かった。
小学校1年生から近所の塾に入ったが、あまり真面目に勉強せず、宿題としてプリントをもらって帰ると、よく家に遊びにくる留学生のマイケルくんに
「マイケル、算数はできるかな?」
とプリントをみせ、算数は数字と記号だけなのでマイケルくんがスラスラと解くと
「すごいマイケル」
とおだてた。
やがて塾から苦情が出てやめるとき、母、美智子が
「お世話になりました」
と頭を下げる横で石井慧は、
「こんなところでやってられるか、ボケ」
といい、後でハタかれ(殴られ)、より厳しい個別指導の塾に入れられた。

柔道を開始。
練習は週2回。
火曜と金曜の夕方から1時間半、市の体育館で行われた。
茨城市内で柔道部がある中学校で3校だけで、小学校だけで終わるケースが多く、この道場も礼儀と体力をつけさせるような練習内容だった。
石井慧は、この道場で目立つ存在ではなく、むしろ一緒に入った妹のほうが、そのセンスやバネ、技のキレで指導者を驚かせた。
「父は自分から柔道を、というまでやらせなかったらしいです。
小さい頃からだと途中で嫌になることもあるので。
それまでスポーツは何もしていなかったのですが柔道を始めるようになりました。
人をスパンと投げる姿がかっこいいと思って始めたのですが、最初はなかなか思うように行きませんでした」

父、義彦は、柔道のほかにも水泳やラグビー、ハンドボールなどなんでもでき、全日本サンボ選手権大会(1979年8月、第8回大会、 90kg級)で優勝したこともあった。
しかし
「ピカイチじゃなかった」
という。
「だからこそ慧には器用貧乏になって欲しくなかった」
と父、義彦は石井慧に、まず

・片足でかけるのではなく両足でかける体落し
・小技として支え釣り込み足
・右利きだったが左組み

を教えた。
石井慧は習得するのに人の倍以上時間がかかったが、
「めっちゃ上手になった」
とウソをつく罪悪感に耐えながらほめ、
「いい意味でスキンシップ、悪くいえば身体検査」
とマッサージしながら体の大きさや筋肉を確認。
よく鍋料理をつくって魚や肉を多く食べさせ、チャーハンには、たくさんの種類の野菜を小さく刻んでご飯と同じくらいの量を投入した。

石井慧は
「飲めるだけ飲め」
といわれ、牛乳を飲めるだけ飲んで吐き出し、
「そのうちこれくらい飲めば吐くという加減がわかった」
父親の影響で料理に興味を持ち、大きくなると
「オムライスは、フライパンでケチャップを炒めて水分を飛ばしてからご飯を入れるとパラパラになる。
卵は白身と黄身を分けて、白身は思い切り空気を入れて泡立て、黄身は潰す程度で混ぜて焼くとフワッとなる」
というほど上手になった。
しかしこの頃は中華料理風に炒めた卵とニンジンを
「ウンパオ!」
と名づけて食卓に出したが、ニンジンが生のままで不評だった。

石井慧が小学校5年生のとき、父、義彦は、強豪、清風中学(大阪府大阪市天王寺区)をお受験させることを決意。
「携帯電話持ち込み禁止」「頭髪は刈り上げ指定」など生活指導に厳しい私立中高一貫校で、偏差値は63。
成績が上位10%、40人のクラスなら4番以内でなければ入るのは難しいが、清風中学はスポーツ推薦はないため、純粋に学力で入るしかなかった。
父、義彦は石井慧を進学塾に入れようとしたが、塾の講師は
「無理です」
といった。
父、義彦は
「最初からそんなこというてどないするんじゃ。
落ちても文句はいわんし、家でも勉強をやらせるから」
とゴリ押し。
石井慧は、以後、2年間、平日は学校が終わった後、22時まで、休日は9~22時まで塾で勉強。
腹が減ると塾の近くにあったうどん屋にいって
「3杯食べたら無料」
にチャレンジした。

しかしなかなか成績は上がらず、塾のテストでいい点を取ると講師にカンニングを疑われたり、
「もし清風に合格できたらハワイ旅行、プレゼントするわ」
といわれたりしながら通い続け、周囲には
「オレ、清風にいくねん」
といいフラした。
小学校6年生になると160cm、85kgになったが、勉強だけしていたのでクラスにいた自分より背が高い女子に腕相撲で負けた。
中学受験は、小学6年生の1月ぐらいに終わり、小学校の卒業アルバムには
『自分の夢は?』
「柔道でオリンピックに出たい」
『もしも生まれ変わったら?』
「今よりも強くなりたい」
『もし魔法が使えたら?』
「悪魔と友達になる」
と書いた。

1999年、石井慧は清風中学に進学。
同級生の柔道部員は6人だけだった。
しかしいずれも小学校から本格的にやっている猛者ばかりで、中には全国大会で上位に入った者もいた。
当然、石井慧は1番弱かったが、とにかくサボらなかった。
例えば打ち込みを100回やるとき、速い人は5、6分で終わってしまう。
そのとき石井慧は、まだ20~30本残っていたが、最後まで手を抜かずにやった。
同級生に投げられたり、寝技で負けても
「これで1つ強くなった」
と前向きに考え、練習を続けた。
入学してまもなく、体育の授業が終わった後、教室に戻ると学生ズボンがなくなっていた。
石井慧は探したが見つからず、半パン姿で阪急電車に乗って帰宅。
祖母、淑子が
「どうなっとるんや」
とクレームを入れると、教師は学校中を探し、体育館の倉庫のマットの間に隠されてあったズボンを発見。
おそらくデブで弱い石井聡に対する陰湿な行為だった。
しかしその後、石井慧は、精神的にも肉体的にも急激にたくましくなっていき、誰もそんなマネはしなくなった。
そしてそれに伴い勉強の成績は低下。
母、美智子は担任に
「受験の貯金が切れてきましたね」
といわれた。

石井慧は、満員電車に揺られ通学し、清風中学柔道部の練習でクタクタに絞られた後、父親と出稽古に出た。
父、義彦は、自分の勤務している高校が終わると清風中学にいき、練習に参加。
まるでそこに息子がいないかのように他の子供だけ教え、練習が終わると息子を連れて他の道場へ出稽古に出た。
清風中学柔道部では、練習後、先輩の柔道着を後輩が洗濯するという習慣があったため、1年生の石井慧はためらったが、父、義彦は、
「俺が洗わんでいいというたら洗わんでいい。
なにかあったら俺にいうてこいといえ」
といって、実業団や大阪拘置所、修道館などに連れていった。
中には自分のペースで練習したい人もいて、何も考えずガンガンぶつかっていく石井慧をうっとうしく思う大人もいた。
相手にしない人やわざと板の間に投げつけたりする人もいたがしたが、石井慧は何度も頭を下げて、向かっていった。
父、義彦は、史上最強の柔道家といわれる木村政彦の言葉、
「3倍努力」
ゴッドハンドといわれた空手家、大山倍達の言葉
「技は力の中にあり」
を自分が思いついたように教えた。
そして相手が自分より小さいと、釣り手は奥襟を上から持ちがちだが禁止し、基本通り、相手の鎖骨の辺りを握って、
「下から下から」
と下からいく柔道を指導した。

高野山真言宗の教えをベースに仏教の教えも学校教育に取り入れる清風中学では、般若心経を唱えたり、写経を行い、食事のときは
「水一滴にも天地の恵がこもっております。
米1粒にも万人の力が加わっております。
ありがたくいただきます」
と挨拶する。
いいと思ったことは必ず実行する石井慧は、家でも
「米1粒も残してはいけない」
と思うあまり、食べ過ぎて吐いた。
学校で
「電車の中ではお年寄りに席を譲りなさい」
といわれると早速、実行。
しかし譲ったのは、それほどおばあさんではない女性で、少し心外な表情だった。

清風中学時代、石井慧は1年365日、1日も休まなかった。
休んでいないことが自信となった。
年末年始は東京の国士舘高校や奈良の天理高校にいって出稽古を行った。
出稽古で気をつけていたのは
「1番強い人とやる」
ということで、乱取りが始まったらすぐに1番強い人に向かって猛ダッシュ。
前にいって
「お願いします」
と頭を下げた。
もし断られたり、その人とできなければ2番目、3番目に強い人へ。
とにかく強い人、上の人とやるようにした。
その結果、中学3年生のときに団体で全国優勝、個人戦でも3位となった。

2002年、石井慧は清風高校へ進んだ。
清風高校柔道部には、OBである秋山成勲が練習に来ることがあった。
秋山成勲は、大阪府大阪市生野区で在日韓国人4世として生まれ、3歳より柔道を始め、清風高校から近畿大学へ。
大学卒業後、韓国の市役所に勤務しながらオリンピック出場を目指したが、キョポ(自国外に住む同胞)への激しい差別を経験し、日本に戻って日本国籍を取得し、平成管財へ入社。
81kg級でオリンピック出場を目指していた。
(2003年に全日本体重別優勝、世界選手権で5位と成績を残したが、2004年、全日本体重別準決勝で敗退しオリンピック代表を逃した後、総合格闘家へ転向)
石井慧は秋山成勲との乱取りで過呼吸になることもあったが、
「過呼吸で死んだやつはおらん」
といわれ続行。
「秋山先輩には技を教えていただいたことはないのですが、柔道に対する気持ち、心構えなどを教わりました。
とにかくどんな練習でも全力を注げ。
10本練習するとしたら10本全部できるようなペース配分ではなく、4本でバテてもいいから1本に100%の力を出せと。
それが今も自分の柔道の中で生きています」
と大きな影響を受け、秋山成勲をインタビューした新聞の記事を切り抜いて財布にいれ、ずっと大事にした。

また修道館で練習していたとき、柔道を始めたばかりの大人が石井慧に乱取りを申し込んだ。
石井慧は、この素人をうまく投げることができず、思わず、
「チェッ」
と舌打ちをしてしまった。
すると
「お前なにやっとるんじゃ!」
と父、義彦が激怒。
「お前はあの人の半分も生きていない。
そんな人からお願いされて、一生懸命練習をやっておられるのに・・・」
といわれ、石井慧は、泣きながらその人に謝りにいった。

石井慧は、高校1年生の夏、競争が激しい大阪の予選を勝ち抜きインターハイに出場。
清風高校の生徒も強かったが、石井慧ほどマニアックに練習する人間はおらず、石井慧は、この時点で清風高校の道場で自分より強い人間がいなくなり、
「強くなれない」
「人生がダメになる」
と焦った。
周囲は中高一貫の清風を出てから強い大学へいくのがいいと考えていたが、石井慧は
「今いかないと意味がない」
とすぐに強い相手がいる環境を求めた。
父、義彦は慎重に転校先を探した。
すると国士舘高校でスポーツ推薦で入学した生徒が退学し、欠員が出たことがわかった。

国士舘高校柔道部には強い先輩がいた上、ロサンゼルスとソウルオリンピックの金メダリスト、斉藤仁が指導する国士舘大学で練習する機会も多かった。
「国士舘高校は、そのとき事実上高校で1番強い学校だったので、練習に行ったときは周りに有名な選手がいることが凄いと思いました。
そこで練習するのが本当に楽しくて、柔道に夢中になっていました」
ただその引き換えに1年間、試合に出られなくなってしまった。
親の転勤など例外はあるが、転校から1年間は公式戦出場停止となってしまった。
理由は「学業優先」
勉強よりスポーツを優先することを善しとしないというのが表向きの理由だが、実際は強豪校による引き抜き対策だった。

国士舘高校柔道部の練習は、基本的に6時から朝練と16~20時までの夜練。
20時頃、練習が終わると寮に戻って食事をし、21時以降は外出禁止となる。
石井慧は、国士舘高校の授業では寝て、柔道となるとスイッチON。
指導者の話を熱心に耳を傾け、すさまじい気迫で練習。
そしてやがて
「21時から練習させてください」
と直訴した。
国士舘高校柔道部監督、岩淵公一が
「休まなくては強くなれない。
食って寝て体ができるんだ」
といって休むように指示。
すると石井慧は、
「はい。
わかりました」
と返事しながら、次にコーチのところにいき
「21時から練習させてください」
と頼んだ。
こうして21時から道場の横のトレーニングルームで行うウエイトトレーニングも日課となった。
「下半身を鍛える」
といって23時や24時にグラウンドを走ることもあった。
そして朝は5時に起きてランニングしてから、6時から朝練に参加。
授業で体を休ませ、道場には誰よりも早くいき、20時に全体練習が終わった後、21時から深夜までウエイトトレーニング。
こうして平日は誰よりも早く、誰よりも遅くまで練習し、日曜日は休みと決めていた。

国士舘高校柔道部監督、岩淵公一は、
「練習しろ」
といったことは何万回もあったが
「練習するな」
といったのは初めてだったという。
一方、石井慧は
「オーバーワークという暴挙が奇跡を起こす」
と思っていた。
「オーバーワークは一流選手が使う言葉。
自分はまだそこまで達していなんで、これくらいやらないと。
柔道に限らず運動選手は質を高めることはしますけど、量を高めようとしないじゃないですか。
でも自分は量が質を凌駕すると思ってるんで。
ですから自分はどんなときでも何かしら体を動かすようにしています」

また石井慧は、お菓子やジャンクフードはまったく口にせず、プロテインをはじめとするサプリメント、卵の白身や納豆にハマるなど強くなるため、勝つための食事の研究と実践に余念がなかった。
例えばミキサーに
・生卵4個
・ハチミツ
・レモン果汁
・豆乳
・ピーナツバター
・牛乳
・バナナ1本
・オリーブオイル
・プロテイン
を入れた特製プロテインは
「オリーブオイルは良質なリンパ液を増やすので、ちょっとたらすだけで全然、違うんです」
という
健康意識も高く、あるとき父、義彦が電話が出ると、石井慧は困った様子で
「お父さん、今、人が吐いたタバコの煙吸ってしまった。
背が止まってしまう」
といった。

国士舘高校に入ることで実家暮らしから寮暮らしに変わった石井慧だが、部屋に小さな神棚を設置。
清風中学時代、大きな試合に勝ったとき、ご褒美は何がいいか聞かれ、曼荼羅と校長室に飾ってあった仏像をもらったが、それを飾った。
そして
「もっと大きな神棚が欲しい」
とグレードアップしたり、様々なものを設置して本格的になものにしていった。
そして
「神様を頼ってはいけない。
敬わないと意味がない」
といい、周りが理由を聞くと
「敬うというのは神様をご供養するという気持ち。
お疲れ様という気持ち」
と説明した。

乱取りになると必ず1番強い人とやる石井慧は、国士館大学に出稽古にいけば鈴木桂治に向かってダッシュ。
講道館の強化合宿にいけばキョロキョロ見回して、井上康生を見つけた途端にダッシュ。
そして目の前で
「お願いします」
と頭を下げた。
それは相手が試合前でもおかまいなしだったので
「ケガさせたらどうするんだ」
と周囲に止められることもあった。

しかし試合に出られなかった1年間は、精神的に不安定だった。
なにかあるとよく実家に電話をかけ、辛そうな息子に両親が
「帰っておいで」
というと
「そんなんできるわけないやろ」
と怒った。
あるとき国士舘高校の先輩である棚橋正典が、泣きながら携帯電話で親と話す石井慧を目撃。
奇妙だったのはもう片方の手にも携帯が握られていて、2台の携帯を持って話していたこと。
後で
「なんで2台持っていたの」
と聞くと、
「1台は電話しながら投げるためです」
と答えが返ってきた。
すぐにモノに当たってしまう石井慧は20台くらいの携帯を破壊してしまい、父、義彦に
「携帯に罪はないやろ」
と諭された。

癒しを求める石井慧は、
「犬を飼いたい」
とミニチュアダックスフンドを購入。
マラソン選手のアベベ選手から
「べべちゃん」
と名づけ、ペット禁止の寮で飼い始めたが、すぐにバレて、べべちゃんは大阪の実家に引き取られた。
試合前、レギュラー選手はコンディショニングのため練習を流して行ったり、乱取りの相手は投げられてやることもあり、指導者もそれを黙認していた。
しかし石井慧はまったく手を抜かず、ケンカ腰で乱取りをし、場外に出て壁にぶつかってもやめようとしなかった。
試合では観覧席で制服を着て応援したが、国士舘高校の同級生には全国大会で優勝する者もいた。
石井慧は不安で不安で仕方なく、かつそういった強い同級生や先輩に勝ちたくて仕方なかった。
「試合に出れず、置いてけぼりになったような気持ちになってチワワのようにビビッていました。
表向きは土佐犬のようにしてましたけど・・・」

2004年、公式試合出場停止処分が解けた高校2年生の1月、石井慧は全国高校柔道選手権に出場。
試合10日前、ハムストリングスの靭帯が切れかかっていることが判明したが、
「ケガは病気じゃない」
といって練習を継続。
それは
「病気のまま練習を続けると弱くなるがケガはそうではない」
という意味だったが、試合当日、個人戦は寝技を多用しながら勝ち進んだが、世田谷学園高校の選手に負け、
「もうダメです。
自分はダメだ」
といって大泣き。
試合後、寮に帰っても泣き続けた。
翌日、団体戦の決勝戦で世田谷学園高校と対戦。
国士舘は先方から中堅まで抜かれたが、副将の石井慧は、4人を抜いて、大将戦を引き分け。
代表戦となって、国士舘は石井慧が出て優勢勝ちし、優勝した。
春の選手権では、鬼気迫るような練習とトレーニングを繰り返し、試合3日前、
「俺は世界で1番強い」
といってはばからなかったが、2日前になると
「アカン、俺、負ける」
と弱気になり、試合前日は寮で部屋が近かった棚橋正典に
「先輩、寂しい。
一緒に寝て。
この部屋にいて励ましてください」
と頼んだ。

謹慎中は情緒不安定で、たとえ夜中であろうと頻繁に実家に電話をかけていた石井慧。
電話がない日、両親は
「よかった」
と胸をなでおろしていたが、試合に出られるようになった途端、電話がないどころか手紙を出してもなしのつぶてで、逆に心配になってきた。
たまにしか行けない東京で母、美智子は、寮の部屋を掃除しようとしたが、きれい好きの石井慧によって整理整頓されていてあまりやることはなかった。
冷蔵庫に食べ物を入れていると、冷凍庫で自分が送った手紙の束を発見。
「なんでこんなとこ入れてるの?」
と聞くと
「大事なモンは冷凍庫やろ」
といわれた。
また母、美智子はベッドの下からノートを発見。
表紙に「苦しいとき」と書いてあり、中には
「試合に出れない悔しさを思い出せ」
など悔しかった出来事、格言や思ったことがズラズラと書いてあった。
石井慧の、このノートへの書き込みはずっと続き、まだ強化選手になれず自費で全日本の合宿に参加したとき、選ばれた選手しか飲み物が配られず
「ポカリスエットをもらえなかった悔しさを忘れるな」
と書いた。
そんなセコい恨みつらみと共に、後に「石井節」と話題になる自由奔放な発言につながるようなことも書かれてあり、石井慧にとって初心を忘れず、自分を奮起させる原動力になると共に大事なネタ帳でもあった。
また父、義彦は、
「お父さん、やろう」
と高校2年生の息子にいわれ、久しぶりの乱取りを行い、投げられまくった。
初めて負けて、
「昨日ビール飲み過ぎた」
とごまかしたが、これが最後の乱取りとなった。

2004年、高校3年生になった石井慧は、インターハイ優勝、アジアジュニアと世界ジュニア選手権をオール1本勝ちで優勝。
そして講道館杯で前年チャンピオン、穴井降将と対戦。
穴井降将は、2歳上の天理高校2年生で、インター杯優勝、天理大学1年生で大学選手権優勝と成績でも1つ上回っていた。
試合開始から石井慧は自分の柔道をさせてもらえず、反則や技によってポイントを奪われた。
しかし終盤、豪快な大外刈りが炸裂させて逆転勝利。
同大会3人目の高校生チャンピオンとなった。
(翌年も連覇)
その後、全柔連の強化選手に選ばれた石井慧は、合宿で穴井降将と再会。
「こんにちは。
調子どうですか?」
と話しかけ
「お前に負けてから調子悪いわ」
といわれた。
以後、穴井降将は、空気を読まない憎めない石井慧を食事に連れていったり、いろいろアドバイをした。

2005年、石井慧は、国士舘大学に進学。
国士館大学柔道部には柔道の鬼がいた。
斉藤仁である。
1984年のロスオリンピック、1988年のソウルオリンピックと2連覇した後、1989年3月に現役を引退し、母校の国士舘大学で指導者になった。
体育学部の授業では
「筋肉は使わないと弱くなりますが、使いすぎるても弱くなります」
とまともに教えるが、柔道部では一切の妥協を許さず、あまりの怖さと厳しさに音を上げる柔道部員も多かった。
1992年、バルセロナオリンピックが終わった後、山下康裕が全日本代表の監督になると斉藤仁は重量級のコーチに就任。
ある国際大会で日本人選手が豪快な投げで1本勝ちした後、喜びのあまり、寝転んだままなかなか起き上がらなかった。
すると斉藤仁は
「何やってるんだ!
立て!」
と猛然と怒り、外国人に
「勝ってるのに?」
と不思議がられた。

1999年、斉藤仁が監督になって10年後、国士舘大学が初めて日本一になった。
このとき鈴木桂治は1年生だった。
国士舘高校3年生のときにインターハイ100kg級で優勝した鈴木桂治は、斉藤仁をみて大学には行きたくないと思っていた。
「なんというか、次元の違う怖さなんです」
(鈴木桂治)
そして国士舘大学に進み、実際に斎藤仁の指導を受けると、その柔道のレベルの高さに驚いた。
斉藤仁は「もっと走れ」とか「もっとウエイトトレーニングをしろ」などトレーニングに関しては、あまりうるさくいわない。
しかし柔道は別。
その技術は、決してかんたんに覚えられるようなものではなかったが、とにかく1つのことができるまでひたすら反復させられた。
例えば、背負い投げでも1つの投げ方だけでなく、少し変化させた多くの種類があり、そのすべてをやらされ、1つできれば
「じゃあ、次はこれやってみろ」
とドンドン課題が与えられるが、途中で間違えると
「そんなんじゃねえ!」
と怒鳴られる。
「あと、膝をこれだけ曲げてみて」
といわれても、道着の中の斉藤仁の脚が太すぎて、これだけがどれだけかわからない。
仕方なく感覚的に曲げるが1回でドンピシャになることは少なく、何回も曲げて、ようやく
「おお、そこ」
となる。
そして指示通りに身体を使うと投げやすくなったり、相手が軽く感じられた。


身体の動きを覚えるために同じことをひたすらやらされることもあった。
それは「何回やればOK」「ここまでやればOK」ではなく、斉藤仁が「終わり」というまでやり続けなければならない。
16時に練習が始まり、与えられた課題ができなければ、練習が終わる21時まで延々やらされることもあった。
通常なら
「続きはまた明日」
といわれ、寮に帰るが、たまに22時の点呼のときに
「柔道着を持って来て」
とマネージャーから呼び出しがかかり、道場にいくと斉藤仁がいて、27時近くまで練習することもあった。
27時近くまでというのは「27時を過ぎると朝練はナシ」というルールがあるためで、斉藤仁は26時55分になると
「よしっ、今日はここまで。
続きはまた明日」
といい、フラフラになった部員は授業で寝た。
「稽古というより修行という感じでした。
千日回峰行をTVでみたりすると、その修行僧の気持ちがわかる気がしますから」
(鈴木桂治)

2000年、シドニーオリンピックの後、斉藤仁は全日本代表監督に就任。
「日本代表という集団は柔道家のトップ中のトップ。
練習は誰よりも量をこなし誰よりも質を求めなくてはいけない」
という斉藤仁が監督になると全日本の合宿は、

・早朝トレーニング
・午前
・午後
・夜

の4部制となり、量も内容もハードになった。
その妥協を許さない厳しい稽古のやり方に、篠原信一は
「理不尽、イソジン、斉藤ジン」
井上康生は
「いい意味で異常」
と悪口をいっていたが、斎藤仁は、それを知ると嬉しそうに怒った。

2003年春、全日本体重別選手権100kg級の決勝で、鈴木桂治が3歳上の井上康生を決勝で破って優勝し、2連覇。
直後、全日本選手権(無差別)の決勝で、井上康生は鈴木桂治に内股で豪快に1本勝ちし、3連覇。
秋の世界選手権の100kg級の代表に井上康生が選ばれると、納得できない鈴木桂治はメディアの取材に不満を漏らした。
すると斉藤仁から電話がかかってきて
「文句があるなら来年の全日本で勝て!」
と怒られた。
その後、世界選手権で、井上康生が100kgで、棟田康幸が100kg超級で、鈴木桂治が無差別級で優勝。
この世界選手権は、NHKではなくフジテレビが放送。
三宅正治、長坂哲夫、佐野瑞樹、森昭一郎、竹下陽平、西岡孝洋というアナウンサー陣に、藤原紀香、加藤晴彦が華を添え、解説は吉田秀彦。
応援ソングは、くずの「全てが僕の力になる」
石井慧にとって清風高校の先輩である秋山成勲が銀色、矢嵜雄大が赤色に髪を染めて出場し、話題となった。


2004年4月4日、全日本体重別選手権100kg級で鈴木桂治は準決勝で敗退し、優勝は井上康生。
2004年4月29日、 全日本選手権(無差別)では、鈴木桂治が優勝。
2位は井上康生。
3位は棟田康幸。
2004年8月、アテネオリンピック100kg超級で鈴木桂治が金メダルを獲得
100kg級の井上康生は、準々決勝で背負い投げで1本負け。
敗者復活戦も3回戦で大内刈りを返され1本負け。
オリンピック2連覇の夢は叶わなかった。

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日本柔道の重量級がこういった状況の中、石井慧は国士舘大学に進学した。
練習マニアの石井慧も斉藤仁の指導を受けると
「本当にキツい」
と恐れたが、道場で
「負けると思ったら負ける。
ダメだと思ったらダメになる。
勝てると思っている中に無理かもしれないという気持ちがあれば、絶対に無理になる。
すばしっこくて強い者だけが勝つのではない。
自分はできると信念を持っている人が勝つ。
世の中をみろ」
というナポレオン・ヒル(アメリカの作家、成功哲学の第1人者)の言葉が貼ってあるのを見つけると
「これは自分の言葉にするしかない」
と自分の部屋に持っていったため、その後、道場で騒ぎが起こった。

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