イベンダー・ホリフィールド  圧倒的!!  無敵のクルーザー級時代。

イベンダー・ホリフィールド 圧倒的!! 無敵のクルーザー級時代。

悲劇のロスアンゼルスオリンピックの後、プロに転向。超タフなドワイト・ムハマド・カウィとの死闘を制しWBA世界クルーザー級チャンピオンとなり、WBA、WBC、IBF、3団体のタイトルの統一にも成功。すぐに「最強」の称号を得るため、マイク・タイソンが君臨するヘビー級への殴りこみを宣言した。


1984年、ロサンゼルスオリンピックのボクシング競技は、男子のみで(女子ボクシングは 2012年ロンドン大会から)

ライトフライ級(– 48 kg)
フライ級(– 51 kg)
バンタム級(– 54 kg)
フェザー級(– 57 kg)
ライト級(– 60 kg)
ライトウェルター級(– 63.5 kg)
ウェルター級(– 67 kg)
ライトミドル級(– 71 kg)
ミドル級(– 75 kg)
ライトヘビー級(– 81 kg)
ヘビー級(– 91 kg)
スーパーヘビー級(+ 91 kg)

の12階級で行われた。
24ヵ国、24名が参加したライトヘビー級で、アメリカ代表のイベンダー・ホリフィールドは、初戦でアフリカ代表を3RでKO。
2戦目もイラクの選手をKO。
3戦目のケニア代表、シラヴァナ・スオケロは優勝股補だったので、コーチから
「気をつけろ。
KOばかり考えるな」
とアドバイスされたが
「全部KOで片づけたいんだ
そしたらどちらが勝ちかハッキリするからな」
といって1RでKO。
大会前、イベンダー・ホリフィールドは無名だったが、3連続KOでベスト4となり、一気に世界の注目を集めた。
「僕はアメリカのボクシング選手の中で最後に選考され、誰も僕がメダルをとれるとは思っていなかった。
ところが最初の3試合を全てノックアウトしてメダル候補になった」
(イベンダー・ホリフィールド)

準決勝の相手は、ニュージーランド代表のケビン・バリー。
これに勝てば決勝の相手は、ユーゴスラビア代表のアントン・ヨシポビッチであることが、すでに決まっていたが、どちらもイベンダー・ホリフィールドよりも格下に思われた。
実際、準決勝でイベンダー・ホリフィールドは、ケビン・バリーを技術とパワーで圧倒。
完全に試合を支配しつつ、KOの機会をうかがった。
2R残り20秒、粘るケビン・バリーは打ち合った後、イベンダー・ホリフィールドの頭を抱えてクリンチにいこうとした。
しかしイベンダー・ホリフィールドは、頭を抱えられたまま、ボディをパンチ。
イベンダー・ホリフィールドの頭を両手で抱えたまま腹を叩かれ、体を左右に揺らすケビン・バリーをみて、フィニッシュを予感した観客の興奮はピークに。
そしてたまらずクリンチを外したケビン・バリーの顔面を、すかさずイベンダー・ホリフィールドのパンチが打ち抜いた。
ケビン・バリーは、糸が切れた操り人形のようにダウン。
この時点で残り時間は13秒。
レフリーは、イベンダー・ホリフィールドにニュートラルコーナーに行くよう指示し、カウントを始めたがバリーは立ち上がれず、カウントアウト。
するとレフリーはイベンダー・ホリフィールドに向き直って、
「ストップを命じたのにパンチを出した」
といって
「失格」
を宣言した。

イベンダー・ホリフィールドは信じられなかった。
頭を抱えられていたし、歓声が大きかったせいでレフリーの声は聞こえなかった。
レフリーのグリゴリエ・ノヴィチッチは、
「ストップを命じたが2人は打ち合い、イベンダーがバリーをノックアウトしたときも打ち合いをやめさせようとしていた」
というが、2人の間に割って入ったり、体を触ったりせず、口頭のみで分けようとしたレフリングにも問題があると思われた。
とにかく失格はおかしく、納得のいかない判定に観衆は怒り、会場は収拾のつかない大混乱となった。
リング上で勝者のコールを受けたケビン・バリーは、イベンダー・ホリフィールドと握手し、その手を高く挙げ、
「君は正々堂々と試合に勝った」
といった。
グリゴリエ・ノヴィチッチは、警備員にガードされながら退場。
それでも罵声を浴び、モノを投げつけられ、伸びてきた手に着衣を裂かれた。

イベンダー・ホリフィールドは文句1ついわずに試合場を出た。
アメリカのテレビは
「ホリフィールドは冷静に耐えています」
と伝えたが、本人いわく、
「何とか怒りを抑え、口から出そうになる言葉を飲み込んだ」
という。
後日、アメリカアマチュアボクシング連盟会長、ロリング・ベーカーは抗議文を提出。
レフリーのグリゴリエ・ノヴィチッチが、決勝進出を決めているアントン・ヨシポビッチと同じユーゴスラビア人だったことで大きな疑惑が起こった。
アマチュアボクシング規定でノックアウトされたボクサーは28日間試合をすることができない。
そのためケビン・バリーは決勝戦を戦うことができず、アントン・ヨシポビッチは戦わずして金メダルが決定したのである。
そのため
「ユーゴスラビアのレフリーによってユーゴスラビアの選手が金メダルをとった」
「ホリフィールドはハメられた」
といわれた。

リングの上に表彰台を置いて行われた表彰式で、首に銅メダルをかけてもらったイベンダー・ホリフィールドは、笑顔で持っていた小さなアメリカ国旗を振って歓声に応えた。
金メダルを首にかけ、1番高い場所に立っていたアントン・ヨシポビッチは、イベンダー・ホリフィールドに手を差し出した。
イベンダー・ホリフィールドが握手に応じると、その手を握ったまま、自分の立っている場所にイベンダー・ホリフィールドを引き上げ、2人は肩を組んで手を挙げた。
最終的にボクシング競技は、12階級中、9階級でアメリカが金メダルを獲得。
しかし1番人気者になったのは、1番無名だった21歳の銅メダリスト、イベンダー・ホリフィールドだった。
自己主張の国に生まれ、人種差別のつらさを経験して育ち、オリンピックという人生の大舞台で金メダル間違いなしの圧倒的な実力をみせながら不公平なジャッジを受けても全体の調和のために甘受するイベンダー・ホリフィールドを人々は
「真の金メダリスト」
と称えた。
などとと声をかけた。
生まれて初めて人々に称えられ、イベンダー・ホリフィールドの失望は癒された。
そしてオリンピックの後、プロに転向。
アマチュアの成績は、160勝75KO(RSC)14敗だった。

アメリカは日本のように厳しいテストはなく、書類を提出すれば誰でもプロボクサーになれる。
プロになるとプロモーターと契約して、試合をしてファイトマネーをもらうことができるが、問題は、お金を払ったお客さんの前で試合をさせてもらえるかどうか。
プロモーターは実績、実力に応じてファイトマネーを決めてボクサーを雇って試合を組むため、プロボクサーになったからといって稼げる保証はまったくない。
しかし「悲劇のヒーロー」として一躍有名人となったイベンダー・ホリフィールドは、プロモーターにとって実績、実力だけでなく、ストーリーを兼ね備えた有望な新人だった。
中には
「おとなしい奴は成功しない」
というプロモーターもいたが、アメリカ中からスカウトが殺到し、イベンダー・ホリフィールドは、数ある申し入れの中から「メイン・イベンツ・プロモーションズ」と契約した。


契約金は25万ドルで、まだ仕事をしていないのに約3000万円の小切手を受け取って驚き、その後、たくさんの友人、親せき、知り合いが
「融通してくれないか?」
といってきたので、さらに驚いた。
「数十万ドルでは一生何もしないで暮らしていけない」
堅実なイベンダー・ホリフィールドは、それらをキッパリ断り、アトランタに分譲マンションを2つ購入。
1つは
「ママに会いたくなったら、いつでも会える」
と母親用。
もう1つは自分用で、恋人のポーレット・ガーデンと息子のイベンダー・ホリフィールド・ジュニアと3人で暮らした。
かつてアトランタのエップス空港で給油係として働きながら、アルバイトでプールの監視員をしていたイベンダー・ホリフィールドは、プールサイドでポーレット・ガーデンと出会った。
ポーレット・ガーデンは初めての彼女で、孤独な鍛錬の日々に現れたオアシスにように心が満たされ、イベンダー・ホリフィールドは愛の戦士となった。
こうしてイベンダー・ホリフィールドは、3000万円でマンションの頭金を払って、残りは貯金。
2軒分の住宅ローンを抱えながら、できるだけ節約生活に努めた。
そして税金が5万ドルかかるとわかると両手をあげて
「そうだろうと思った。
金をしばらく持たせておいて、それから取り戻しに来るなんて。
こんなのペテンだな」

アメリカは先進国だが、多くの貧困が存在し、5人に1人が貧困家庭で育つという富の分配が不公平な国で、人種差別も存在していた。
そんな中、何も持たざる者が拳1つで偉業を成し遂げることができるボクシングは、まさにアメリカンドリームだった。
「ボクシングは、自分との戦い」
「ボクシングは、不安や恐怖に打ち克ち、本当の自分を探し、自分自身を証明するための戦い」
「ボクサーはあえてボクシングを選び、リングで危険を冒す」
「ボクシングは、生き残ること、戦いという人間の本能に訴えかけてくる」
「ボクシングにはドラマがある。
なければ本物じゃない」
「金持ちは戦わない。
現状を抜け出したい者だけが戦う」
「リングサイドにいると圧倒される。
ボクサーは命をかけて何かのために戦っている
そこに惹かれる」
「1発のパンチですべてが決まる
ノックアウトすればスター。
だが食らえばダークサイドに転落する」
「ボクシングは、自分自身の努力によって成功するスポーツ。
勝ち続ければ最後にはチャンスが手に入る」
ファンはボクシングに様々な魅力を感じ、頂点を目指し、戦い、這い上がるボクサーの姿に感動した。

ボクシングはスポーツとしては純粋だが、ビジネス的には荒っぽい金持ちが荒っぽく大金を動かして稼ぎながら、夢を追うボクサーにチャンスを与えている。
そんな富裕層と貧困層の2極化した社会の現実を映し出すボクシングで、テレビで放映されるような大きな試合に出ることができるボクサーは一握りだが、例えばそれが実現し、ファイトマネー15000ドルを得たとする。
そこから

用具やジム利用代 、2000ドル
トレーナー(ファイトマネーの10%)、 1500ドル
マネージャー(上記差引額の1/3)

を支払い、残った6955ドル(85万円)で、6~8週間後の試合に向け準備を行う。
年間4試合出場すれば最低限の生活ができるが、普通に仕事をする方が楽で稼げる。

MLB(野球) 49万ドル(6000万円)
NFL(アメリカンフットボール) 40万5000ドル(4900万円)
NBA(バスケットボール) 49万180ドル(6000万円)
NHL(アイスホッケー) 52万5000ドル(6400万円)

アメリカの4大メジャープロスポーツは最低保証年俸が定められているが、プロボクシングは一部のトップ選手が報酬のほとんどを独占する。

生計を立てるのが難しい上、ボクシングは、とても危険なスポーツである。
多くのプロスポーツは、国レベル、世界レベルで1つの連盟で統一され、ルールや規制を共有しているが、プロボクシングは、大小の団体がいくつも存在し、それぞれが運営している。
MLBは選手と審判に年1回の心理テストを義務づけたり、NFLは脳損傷に苦しむ選手に7億6500ドルを支払うなど、他のプロスポーツでは連盟が必要な資金を与え、選手を支える専門家チームや体制が存在するが、ボクシングには、そういった規制も体制も労働組合もなく、MRIを受ければ試合が許可される。
1対1で長時間殴り合うボクシングはとても危険で、例えば強いパンチを頭に受けると、脳が頭蓋骨の激突し、さらに反動で逆側にもぶつかる。
脳のダメージによって脳震盪の状態に陥ったり、記憶を喪失したり、最悪、死に至ることもあり、現役引退後、脳損傷による様々な後遺症に苦しむボクサーも多い。
勝つためには激しい練習が必要で、肉体的にも精神的も苦しい思いをしなければならない上、厳しい体重制限があるため、禁欲的な生活を強いられる。
そして試合では命がけで戦う。
何の保証もないため、将来の生活に不安を抱え、その上、健康を損なう危険性も高い。
だから底辺から頂点に這い上がるボクサーのストーリーには、サクセスと共に必ず悲劇的な話もつきまとった。


イベンダー・ホリフィールドの「イベンダー」は、母親の姓で、父親がどこで何をしているのか、まったく知らなかったが、オリンピック後、母親に
「言っておきたいことがある」
と呼ばれ、
「お前がよければお父さんに会ってみる?」
といわれた。
ずっと接触を断っていたがオリンピックの活躍をみて驚いた父親から連絡があったという。
イベンダー・ホリフィールドは会いたいと思った。
しかし実際に顔を合わせると気を遣いすぎてぎこちない会話となった。
それでも
(これからも会いたい。
関係を大事にしたい)
と思い、以後、自分の試合に父親を招待し続けた。
また再婚していた父親の子供たちから
「兄さん」
と呼ばれ、1番末っ子だったイベンダー・ホリフィールドは、初めて年下の兄弟ができた。

そしてボクシングでは、持久力が課題となった。
アマチュアの試合は最長3ラウンドだった上、イベンダー・ホリフィールドはKO勝ちが多かった。
内容がハードになり、6ラウンド、8ラウンドとより長いラウンドを戦わなければならないプロでスタミナが危惧されたのである。
「2ラウンド持たない相手ならいいが、プロはそういうわけにいかない」
トレーナーのルー・デュバは、そういって練習やトレーニングはもちろん、イベンダー・ホリフィールドの睡眠、食事、生活のすべてを管理した。
ルー・デュバは、ニューヨーク、リトルイタリア地区出身のイタリア系移民。
プロボクサーを5勝10敗1分で引退した後、トラック輸送会社を始め、自身のボクシングジム「ガーデンジム」をオープン。
その後、トラック輸送会社を売り払って保釈保証業者(逮捕、勾留された被疑者または起訴された被告人の保釈金を立て替える)とバウンティハンター(保釈保証業者からの逃亡者を捕まえて賞金を受け取る)を始めた。
1978年、レオン・スピンクスのマネージャーから助けを求められたことをきっかけに「メインイ・ベンツ・プロモーション」を設立した。
レオン・スピンクスは、モントリオールオリンピックのライトヘビー級金メダリストで、その後すぐにプロデビューし、8戦目でモハメド・アリに判定勝ちし、WBA・WBC世界ヘビー級王座を獲得したが、このときはコカイン所持で逮捕されていた。
5ヵ月後に行われたモハメド・アリ戦は判定負けしたものの、1戦目のファイトマネーが12万5000ドルだったのに対し、この試合では350万ドルを受け取った。
メインイ・ベンツ・プロモーションは、その後もローカル会場で興行を定期開催。
保釈保証業者やバウンティハンターと兼業し多忙を極めたルー・デュバは、心臓発作を起こし倒れてしまい、医師から仕事を減らすように勧告を受けると、ボクシング以外の仕事をすべて辞めて、トレーナーとマネージャーに専念。
1981年、シュガー・レイ・レナード vs トーマス・ハーンズ戦のプロモートし、4000万ドルというヘビー級を除いて過去最高の収益を出した。
そして1984年、ロサンゼルスオリンピックの金メダリスト、マーク・ブレランド、メルドリック・テイラー、パーネル・ウィテカータイレル・ビッグス、そして銅メダリストのイベンダー・ホリフィールドと契約した。
ある日、イベンダー・ホリフィールドは、近所の店にいって間食用のポテトチップやコーンチップ、アップルパイなどを買い込んだ。
しかしすぐに仲間のボクサーに密告され、家まで来たルー・デュバに、
「なんだこれは?」
といわれた。
イベンダー・ホリフィールドは、甘いものを食べて食欲を抑えて体重をコントロールしようとしたと説明したが、ルー・デュバは
「これは今までお前の食べ物だったが、もうそうじゃない」
といって没収した。

1984年 11月 17 日、オリンピックから約3ヵ月後、イベンダー・ホリフィールドは、プロデビュー戦を行った。
会場は、いきなりニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで、しかもTV中継された。
ラスベガスと並ぶボクシングの聖地で行われたイベントの名は、出場選手がイベンダー・ホリフィールド以外、全員が金メダリストだったので「Night of Gold」
一方、3000~5000ドルのファイトマネーで彼らの相手となるボクサーは、「ゴールドバスターズ」と呼ばれた。
ゴールドバスターズの1人、23歳、ルーク・レッチェは、デュケンス大学を卒業したばかり。
「彼らがオリンピックで金メダルを獲得するのをみて、私はとても誇りに思いました。
そして金メダリストを倒すのはすべてのボクサーの夢」
といってメルドリック・テイラーと挑んだが、第1ラウンド残り29秒にTKO(テクニカルノックアウト)負け。
試合後、ルー・デュバは
「彼はタフだ。
良いボクサーだ」
と称賛したが、ルーク・レッチェは、ピッツバーグにいる妻に電話して敗北したことと無事であることを伝え、
「もう永遠に戦わない」
と引退宣言。
「私は外に出て、生計のために働かなければなりません」

マーク・ブレランド、メルドリック・テイラー、パーネル・ウィテカー、タイレル・ビッグス、オリンピックの仲間たちが勝利でプロとしてキャリアをスタートさせるのを見届けた後、イベンダー・ホリフィールドはメインイベンターとしてマディソン・スクエア・ガーデンのリングに上がった。
試合は最大6ラウンドまで行われ、もし3ラウンドを過ぎればイベンダー・ホリフィールドにとって未知の領域となる。
相手は、ペンシルバニア州のチャンピオン、22歳と同年齢のライオネル・バイアーム。
「勝つためには彼をノックアウトするか完封しなければならないことはわかっていた」
というライオネル・バイアームは、オリンピックでKOしまくったイベンダー・ホリフィールドのパンチが当たっても倒れず、それどころか正面に立ったまま打ち返した。
激しい打ち合いになり、イベンダー・ホリフィールドが右をもらって一瞬、動きが止まるシーンもあった。
イベンダー・ホリフィールドは、なんとか相手のリズムを崩そうと試みたが、ライオネル・バイアームは執拗にくっついてペースをとらせなかった。
1ラウンド終了後、コーナーに帰ると、予想をはるかに上回る激しい試合展開にイベンダー・ホリフィールドは、
「これがデビュー戦?
戦争だよ」
とつぶやいた。
ルー・デュバは、
「奴はタフだ。
だがお前ならやれる!
ガンバレ」
イベンダー・ホリフィールドは、4ラウンドを過ぎても激しく打ち合い、6ラウンドが終わるまで戦い抜いて、判定勝ち。
コーナーマンのエース・マロッタに
「今夜は(アマチュアの)2試合やったんだ。
君はやれることを証明した。
2試合やって2試合とも勝った。
これからもイケイケだ」
といわれた。
一方、打たれて目が細くなったライオネル・バイアームは、
「彼は宣伝されているほどハードパンチャーではなかった。
エディ・ムスタファ・モハメド、ドワイト・ブラクストン、マシュー・サード・モハメド、マイク・ロスマン、彼らはもっと強く打ってきた。
私は4ラウンドに彼を窮地に陥れ、 彼が顔をしかめて、うめき声を出すのを聞いた。
それは私のショットだった。
死ぬか死ぬかだ。
私はそれを引き受けなければならなかった。
私は彼を破壊したかった。
私は全力を尽くした。
私は彼のプライドを傷つけたと思う。
つまり私はみんなに彼がビッグパンチャーではないことを示した」
とコメントした。

プロデビュー戦はライト・ヘビー級で戦ったイベンダー・ホリフィールドだったが、8ヵ月後に行われた2戦目は、クルーザー級に階級を上げた。
プロボクシングは、

ヘビー級 +90.72kg
クルーザー級 -90.72kg
ライト・ヘビー級 - 70.38kg
スーパー・ミドル級 -76.20kg
ミドル級 -72.57kg
スーパー・ウエルター級 -69.85kg
ウエルター級 -66.68kg
スーパー・ライト級 -63.50kg
ライト級 -61.23kg
スーパー・フェザー級 -58.97kg
フェザー級 -57.15kg
スーパー・バンタム級 -55,34kg
バンタム級 -53,52kg
スーパー・フライ級 -52,16kg
フライ級 -50.80kg
ライト・フライ級 -48.97kg
ミニマム級 -47.62kg

の17階級にわかれ、「巡洋艦」を意味するクルーザー級は、2番目に重い階級。
体重無制限で、とにかくパワー!のヘビー級に比べ、90kgの男が殴り合うクルーザー級は、パワー、スピード、テクニック、すべてを兼ね備えた階級だった。
イベンダー・ホリフィールドは、クルーザー級で10連勝。
その内、8試合がKO勝ちで、ある試合では相手ボクサーの歯をフッ飛ばすという圧倒的な強さをみせた。

ボクサーとして名声が高まり、どこに行っても声をかけられる人気者になったイベンダー・ホリフィールドは、いくつかビジネスに投資した。
その中に自動車販売店があった。
オリンピック前、エップス空港の給料だけで、試合で休めば減ってしまうという状況の中で息子が生まれ、金銭的なことが問題となった。
高校時代の教師と一緒に、スポンサーを探し、アトランタ中を回り、実業家、建設業者、銀行など、さまざまな人に話を持ちかけたが、乗ってくれる人は1人もおらず、
「なんでみんな、俺を信じようとしないんだ?」
と失望。
その上、愛車が壊れてしまい、ポーレット・ガーデンに
「子供を連れて病院に行けない」
といわれ、ビュイック (BUICK、ゼネラルモーターズ(GM)が製造・販売する乗用車のブランドの1つ) の代理店へ。
そこで1982年型、ビュイック・センチュリーが気に入った。
「今、2000ドル払います。
後は2ヵ月以内に全部」
「連帯保証人はいますか?」
「連帯保証人?
あの、なんとかならないでしょうか。
私は地元のアマチュアボクサーです。
今年のオリンピックチームに入れそうなんです」
「オリンピック?
それは大したもんだ」
イベンダー・ホリフィールドは、エップス空港の仕事のこと、オリンピックのこと、子供が生まれたことなど自分が置かれた状況を詳しく説明。
オーナーのケン・サンダースは、好奇心をそそられて熱心に話を聞いた。
そして連帯保証人なしで車を売った上、スポンサーを買って出た。
オリンピック後、イベンダー・ホリフィールドの名を冠したケン・サンダースの自動車販売店の売り上げは南東部でナンバー1となった。
イベンダー・ホリフィールドは、同棲していたポーレット・ボーエンと正式に入籍。
ポーレット・ボーエンは、2人目の子供を妊娠した。

プロデビューから1年8ヵ月後、1986年 11月 17 日、イベンダー・ホリフィールドは、初めて世界に挑戦した。
相手のドワイト・ムハマド・カウィは、プロボクサーとして6年先輩。
まだ未成年だった頃、武装強盗で有罪判決を受け、約5年間、州刑務所に入り、そこでボクシングと出会い、釈放された後にプロボクサーになった。
デビュー戦はドローだったが、その後、15連勝。
5年前にWBC世界ライトヘビー級チャンピオンとなり、3度防衛。
3年前にWBAチャンピオン、マイケル・スピンクスとの統一戦で判定負け。
王座陥落後、4連勝し、1年前にWBA世界クルーザー級チャンピオン、ピエット・クロースに11R TKO勝ちし、2階級制覇を達成。
初防衛戦で元ヘビー級統一王者、レオン・スピンクスに6R TKO勝ち。
イベンダー・ホリフィールド戦は、2度目の防衛戦だった。
専門家は、タフで抜け目のないドワイト・ムハマド・カウィに対して、プロ12戦目のイベンダー・ホリフィールドの経験不足を指摘。
試合は最大15ラウンドまで行われるが、イベンダー・ホリフィールドは8ラウンド以上戦ったことがなかった。
しかしファイトマネーは、これまで1試合、6万5000ドルくらいだったが、一気に20万ドルに上がった。
何より勝てば世界チャンピオンである。
イベンダー・ホリフィールドにとってビッグチャンスだった。

試合は、地元のアトランタで行われ、イベンダー・ホリフィールドは一部の席を買い占め、かつて仕事仲間、学生時代の教師、友人を招待した。
「ヤツはすぐに攻めてくる。
打たれたらすぐに打ち返せ。
決して恐れるな。
6ラウンドまで持ちこたえろ。
そこから反撃だ」
ルー・デュバに指示され、イベンダー・ホリフィールドはうなずいた。
試合が始まると188㎝のイベンダー・ホリフィールドは、体の動き、パンチの速さ、連打の速さ、すべてで優ったが、170㎝のズングリした体型のドワイト・ムハマド・カウィとぶつかって、
「明らかに強い」
と感じた。
ドワイト・ムハマド・カウィは、ジャブと左右フックで前進して攻め続け、時折、爆弾のようなパンチをヒットさせ、プレッシャーをかけ続けた。
ルー・デュバは
「ジャブを続けろ」
「もっと回れ」
「もっとボディを打て」
と指示を出し、イベンダー・ホリフィールドは、ドワイト・ムハマド・カウィのパワーに連打で対抗。
ドワイト・ムハマド・カウィの圧力はラウンドが増すごとに強くなり、イベンダー・ホリフィールドは休む暇がなかった。
約束の6ラウンドを終わった時点でポイントはイーブン。
ルー・デュバに
「さあ仕事をしようぜ」
といって 7ラウンドにリングに送り出されたイベンダー・ホリフィールドは、その指示通りにドワイト・ムハマド・カウィの両腕とボディにパンチを集めた。
イベンダー・ホリフィールドは、鋭く正確な攻撃で常に先手を取り、リーチで大きく劣るカウイは、巧みなカバーリングで相手のパンチを殺して接近し、重く強いパンチを叩きつけた。
イベンダー・ホリフィールドは、不利な接近戦にも強気で応じ、パンチをもらって効いた?と思わせる動きを一瞬みせても、すぐに蘇って激しく反撃のパンチを繰り出した。

10R、イベンダー・ホリフィールドは失速し、パンチがかわされることが多くなった。
相手の疲労を感じ取ったドワイト・ムハマド・カウィは血の匂いを嗅いだサメのように襲い掛かった。
信じられないような試合のペースにイベンダー・ホリフィールドは精神力を振り絞って応戦。
ラウンド終了のゴングが鳴ったとき、ドワイト・ムハマド・カウィはイベンダー・ホリフィールドに向かってほほ笑んだ。
コーナーに戻り、椅子に倒れるように座ったイベンダー・ホリフィールドの胸は大きく波打ち、汗が滝のように流れ落ち、トランクスは肌にへばりついていた。
セコンドの1人はタオルをあおって風を送り、他の1人は水を飲ませ、エース・マロッタは両目と頬骨の周りを氷で冷やした。
インターバルが終わる直前、イベンダー・ホリフィールドは祈りの言葉を口にした。
「主よ、私を救いたまえ。
私にこの試合をやり遂げる力を与えたまえ。」
11R、ドワイト・ムハマド・カウィは、トドメを刺そうと迫り、まるでラストラウンドのように攻め立てた。
イベンダー・ホリフィールドは、しっかりディフェンス。
そして一瞬、繰り出したコンビネーションがドワイト・ムハマド・カウィのアゴに入った。
ドワイト・ムハマド・カウィは、たまらず後退。
ここから形成は一気に逆転した。
イベンダー・ホリフィールドは復活し、ダンスのようなフットワークでドワイト・ムハマド・カウィのパンチをかわしながら攻撃。
さらに被弾したドワイト・ムハマド・カウィは、頭を下げてよろめき、さらにパンチをもらい続けた。
会場の大声援を受けてイベンダー・ホリフィールドは、体内に力がみなぎり、さらに加速。
最終ラウンドが終わり、勝負は判定にもつれこんだ。
3人のジャッジ採点は、144-140、147-138、143-141とわかれ、リングアナウンサーが
「アンド・ニュー・・・・・・、世界クルーザー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールド!」
とコールすると、イベンダー・ホリフィールドは両腕を高く上げて笑った。
何度かピンチに陥りながらも手数とヒット数で上回ったイベンダー・ホリフィールドを2人のジャッジが支持していた。
ボクサーが1ラウンドに繰り出すパンチは平均60~70発といわれるが、イベンダー・ホリフィールドは、この試合、平均85発も手を出していた。
体重は15ポンド(7㎏)も減っていて、体には多くの打ち身があり、両手も腫れ上がっていた。
そして試合後、控室で激しい痛みと吐き気に襲われ、病院へ運び込まれ、点滴が9本も打たれて、それが終わったとき、体重は201ポンド(91㎏)に増えていて、回復するまで数週間を要した。


イベンダー・ホリフィールドは、ドワイト・ムハマド・カウィ戦から5ヵ月後、フランスで初防衛戦を行い、マイケル・ブラザーズを3ラウンドでKO。
それからオリンピックチーム以来の親友、ヘンリー・ティルマンが2度目の防衛戦の候補として挙がると、最初は
「なぜヘンリーは俺と戦いたがる?
俺たちは友達だ。
まして他に3つのベルトがある(ボクシングにはWBC、WBA、IBF、WBOとメジャー団体が4つある)のにどうして俺のベルトを狙うんだ?」
と嫌がったが、正式に試合が決まると
「リングに立てば彼か私か、どちらか。
誰がベルトを狙ってきても簡単に渡すわけにはいかない」
と気持ちを切り替えた。
初防衛戦か2ヵ月後、試合が行われるネバダ州リノに乗り込み、まず2Rに左フックでダウンを奪い、7R、右フック、右ストレート、左フックで3度、ダウンさせて試合を終わらせた。
数週間後、シカゴで行われたティルマンの結婚式に参加し、
「なぜ僕と戦いたかったの?」
と聞くと
「君が戦いたがっていると聞いた」
といわれた。

プロボクシングのややこしいところに、

WBA 世界ボクシング協会 (本部:パナマ・パナマシティ 1921年設立)
WBC 世界ボクシング評議会 ( 本部:メキシコ・メキシコシティ 1963年設立)
IBF 国際ボクシング連盟 (本部:アメリカ・ニューヨーク 1983年設立)
WBO 世界ボクシング機構 (本部:プエルトリコ・サンフアン 1988年設立)

という4 つの主要団体があり、それぞれ16階級 に世界 チャンピオンが存在することがある。
しかし本来、世界最強は1人であり、世界チャンピオンが何人もいるのはおかしい。
だから特に歴史の長さや規模が大きさから「主要3団体」といわれるWBA、WBC、IBFの世界チャンピオン同士が戦い、3 つの団体のすべてでタイトルを統一し、真のチャンピオンを決める戦いを「統一戦」と呼ぶ。
WBA世界クルーザー級チャンピオン、イベンダー・ホリフィールドは統一戦を開始した。
1987年5月15日、IBF世界クルーザー級チャンピオン、リッキー・バーキーと対戦。
あまり器用でないファイタータイプのリッキー・バーキーは1Rから打ち合ったが、パンチの正確さで優るイベンダー・ホリフィールドが、3ラウンドにラッシュし、2度のダウンを奪って、さらに連打。
レフリーストップと同時にリッキー・バーキーは崩れ落ち、イベンダー・ホリフィールドは、3ラウンドKO勝ちで、IBF世界クルーザー級王座を獲得し、2団体王座を統一。

1987年12月5日、ドワイト・ムハマド・カウィと再戦。
前回、かなり苦しんだドワイト・ムハマド・カウィを相手に完全に距離を支配。
相手のパンチ届かない距離から打ち、相手が入ってくればアッパー、ストレートにはカウンターを合わせた。
アウトボクシングだけでなく接近戦での打ち合いも圧倒。
4R、ドワイト・ムハマド・カウィの右フックに右フックのカウンターを合わせて大きなダメージを与え、さらにドワイト・ムハマド・カウィの右ストレートに左フックを合わせ、トドメの右ストレートでダウンを奪う。
何とか立ち上がったドワイト・ムハマド・カウィが右フックを放つと。全にタイミングを読んだイベンダー・ホリフィールドは再び右フックのカウンターを合わせた。
崩れ落ちるドワイト・ムハマド・カウィをみて、レフリーは試合を止めた。
1988年4月9日、WBC世界クルーザー級チャンピオン、カルロス・デ・レオンとの統一戦。
3歳上のカルロス・デ・レオンは、1980~1986年の間にWBC世界クルーザー級の王座に座って、陥ち、返り咲くという経験を3度もしていた。
カルロス・デ・レオンは、序盤から足を使って距離を取り、イベンダー・ホリフィールドが追って攻め、ロープ際に追い込んで連打という展開が続いた。
8R、カルロス・デ・レオンは打たれ続け、レフリーは試合を止めた。
イベンダー・ホリフィールドは、8ラウンドTKO勝ちし、WBA・WBC・IBFの3団体王座を統一。
驚異的な強さで勝ち続け、クルーザー級初の統一王者となったイベンダー・ホリフィールドは、すぐにヘビー級への転向を表明。
ヘビー級は、「宇宙最強」とまで呼ばれたマイク・タイソンが絶対王者として君臨していた。
1試合のファイトマネーが140万ドル(1億6千万円)に達し、体重もクルーザー級で問題がないイベンダー・ホリフィールドが、なぜヘビー級に上がるのか、疑問に思う人も多かった。
しかしイベンダー・ホリフィールドにとって、金よりも「最強」の称号の方が重要だったし、勝つ自信もあった。

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