ロッキー・マルシアーノの祖父、ルイージ・ピッチウートは、イタリアの村で鍛冶職人をしていた。
188㎝、100㎏という巨体でよく働き、よく遊び、よく食べ、よく飲み、よくギャンブルをして、
「マストロ(親方)」
と呼ばれていたが、妻と6人の子供と一緒にアメリカ、マサチューセッツ州東部のブロックトンに移住。
ブロックトンは、靴と革製品の製造が盛んな工業都市で、イタリア人だけでなくアイルランド、リトアニア、スウェーデン、ポーランド、ドイツ、フランスなど様々な国の人たちが集まっていて、文化の違いはあったが、国や肌の色に関係なく手を貸し合って生活していた。
ルイージの上から2番目の娘、パスカレナは、コルセット工場で働き、18歳のとき、友人の家で同じイタリア系移民で7歳上のピエリーノに出会った。
ピエリーノは、ルイージより数年早く、17歳のときに単身、アメリカに移民。
ルイージが移民した翌年に第1次世界大戦が始まると志願して軍隊に入り、アメリカのために戦い、フランスの前線で手りゅう弾の破片が頬を貫通して歯が3本折れ、爆発した戦車の破片が体に脚に刺ささりながらも戦い続け、ドイツ軍を退けた。
しかし毒ガス攻撃によって肺を侵され、屈強だった肉体は衰え、すぐに息が切れるようになってしまった。
アメリカに帰還後は、ブロックトンの靴工場で働き、25歳のときにパスカレナと出会った。
メガネをかけ、生真面目で細身のピエリーノとガッシリとした体と陽気でオープンな性格を持つパスカレナは、1年後、結婚。
3年後には、5897gの巨大児、ロッキー・マルシアーノが生まれた。
ピエリーノは、経済的余裕を持つために子供は2人までにしたがったが、パスカレナは、6人欲しいと主張し、3度の流産を経験しながら、アリス、コンチャッタ、ペティ、ルイス、、ピーターを産んだ。
2人は、家族が増えるに伴い、パスカレナの実家の2階に引っ越し。
家長は祖父のルイージ、家庭を仕切るのは母親のパスカレナ、父親のピエリーノは愛する妻と6人の子供のために毎日、靴工場に出勤するという家庭環境で育ったロッキー・マルシアーノは、
「強さは母親から、自制心は父親から受け継いだ」
という。
朝食は、シリアルに6本のバナナ、1リットルの牛乳をかけ、夕食は、母親が大鍋でつくったスパゲッティーをみんなの皿に盛られた後、残りのすべてをに鍋ごと食べるなど食欲旺盛で肥満児だったロッキー・マルシアーノは、7歳から新聞配達を開始。
小学校高学年になると、ギャンブル好きのユダヤ人、イジー・ゴールド、お調子者のユージン・シルベスターと仲良し3人組を形成。
いつも一緒に過ごし、自転車や牛乳を盗んだり、野球をして遊んだ。
イジー・ゴールドとユージン・シルベスターは、よくトラブルを引き起こし、普段物静かなロッキー・マルシアーノは、加勢するために多くのケンカに参加した。
カミソリで手首を切って傷をこすり合って
「血の誓いをした兄弟」
となった3人は、イジー・ゴールドの家の地下室を「クラブハウス」として
「俺たちの仲間になってクラブに加わるためには、俺たちがやったようにダウンタウンのビルの屋上から別のビルの屋上に飛び移ること」
というルールを決めた。
それは4~5階建てのビルで、距離は3mくらいだった。
ロッキー・マルシアーノは、野球に熱中し、ユージン・シルベスターと一緒に地区と教会の野球チームに入ってプレー。
雨の日、練習がなくなっても1人でボールを打ち、兄妹に球拾いをさせた。
背が低くズングリとした体型のロッキー・マルシアーノは、キャッチャーでホームランバッターだったが、走力はなく、通常ならランニングホームランの打球を放っても、2塁打になった。
1933年、ニューヨークでボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われ、イタリア出身で198㎝、118㎏の「歩くアルプス山脈」プリモ・カルネラが、ジャック・シャーキーをノックアウトして新チャンピオンになった。
その後、プリモ・カルネラがブロックトンアリーナで行われる試合にレフリーとしてやってくることになり、9歳のロッキー・マルシアーノは叔父のジョニーに連れられて観に行くことになった。
独身で左腕が不自由なジョニーは、家の1階に住み、甥や姪を大リーグの試合を観に連れていったり、自転車をプレゼントするなどしてかわいがっていた。
ロッキー・マルシアーノは、
「朝食にオレンジジュースを1リットル、牛乳を2リットル、トーストを19枚、卵を14個、ハムを半ポンドを食べる」
といわれていたプリモ・カルネラが目の前を通ったとき、手を伸ばし、肘を触って大興奮。
ロッキー・マルシアーノは知らなかったが、プリモ・カルネラは、黒い噂のあるボクサーだった。
サーカスの怪力男として活躍しているところをフランス人興行師にスカウトされ(買い取られ)、元フランスヘビー級チャンピオンからボクシングを教わり、アメリカに渡ってKOの山を築いた。
しかしその大半が八百長試合といわれ、対戦相手は、マフィアから脅迫や金銭的な交渉を受けて負けていた。
この世界タイトルマッチでも、マフィアはプリモ・カルネラのトレーニングだけでなく、対戦相手のジャック・シャーキーのトレーニングにもタバコは吸いながら姿をみせていた。
アメリカにおいてボクシングは野球に続いて2番目に人気が高いスポーツだったが、マフィアが幅を利かせて大きな収益を上げていていて、試合会場にはタバコの煙が充満し、プリモ・カルネラも、ファイトマネーの多くを搾取されていた。
ある日、10歳のロッキー・マルシアーノは、学校の帰り道、近所の友人と交代でゴムボールを弾ませていたが、やがて互いに自分のボールだと言い争いを始め、押し合い、突き飛ばし合い、最後は取っ組み合って道を転がりながら殴り合い、血と泥にまみれて、ボールは、どこかに行ってしまった。
ロッキー・マルシアーノの母親は、ケガをして帰ってきた長男をみてビックリ。
友人に殴られたと泣きながら説明するロッキー・マルシアーノをみて、叔父のジョニーは、
「泣いて帰ってきて母親を困らせるな。
自分の力で戦え」
と叱った。
ロッキー・マルシアーノは、何もいえずに部屋に引っ込み、数時間後にはケンカした友人と何もなかったように遊んで仲直り。
翌日、叔父のジョニーは、家に余っていた布とおがくずを使ってサンドバッグをつくり、地下室に吊るし、
「これを毎日30分殴れ」
と指示。
ロッキー・マルシアーノは、ジョニーに監視されながら、毎日、地下でサンドバッグを殴った。
地下室は天井が低いため、自然と身を屈めた姿勢になり、独特のボクシングスタイルは、すでにこの頃から始まっていた。
1年後、近所の裏庭に特設リングが組まれ、ボクシング大会が開かれると11歳のロッキー・マルシアーノは、自分より体の大きな年上の子供と対戦し、引き分けた。
1937年6月22日、世界ヘビー級チャンピオン、ジェームス・J・ブラドックと「褐色の爆撃機」ジョー・ルイスと対戦。
白人のジェームス・J・ブラドックは、2年前に世界チャンピオンになって、これが初防衛戦だったが、8RKO負けし、ジョー・ルイスが、史上2人目の黒人の世界ヘビー級チャンピオンとなった。
同時期、中学生だったロッキー・マルシアーノは、イジー・ゴールドと一緒に、ブロックトンアリーナでボクシングの試合が行われる度にアルバイトをしていた。
それは試合用のグローブが2組しかないため、試合が終わったボクサーからグローブを外し、次のボクサーに渡すという仕事だったが、無料で試合を観戦することができた。
ある晩の仕事中、ブロックトンアリーナにジョー・ルイスがゲストとしてやってきたため、、2人は大興奮して、ずっとつきまとい、トイレの個室に入ったジョー・ルイスを上からのぞいた。
この後、ジョー・ルイスは、ヒトラーが支配する独裁国家、ドイツのマックスシュメリングと対戦し、ノックアウトし、アメリカの国民的ヒーローとなった。
14歳のとき、ロッキー・マルシアーノ、イジー・ゴールド、ユージン・シルベスターの仲良し3人組がセミプロ野球チームの試合を観ていると、ファウルボールが後方の林へ飛び込んだ。
野球のボールは貴重品だったので、すぐに追いかけ、イジーがボールを発見。
そこにボールボーイが走ってきて、返すように要求してきた。
ボールボーイは、ジュリー・ダラムという年上の黒人で、近隣でタフで有名な少年だったが、イジーは、シャツの下にボールを隠し、持っていないと主張。
ユージンは、一緒にボールを探そうといった。
しかしジュリーを騙すことはできず、いい合いとなった。
エスカレートしたジュリーがイジーを脅すのをみて、ロッキー・マルシアーノは
「やるなら俺にしろ」
と進み出た。
2人は押し合い、次にジェリーが放った左パンチがロッキー・マルシアーノの鼻にヒット。
ロッキー・マルシアーノは葉っぱの上に倒れ、鼻血を出しながら立ち上がると両腕を上げて構えた。
しかしジェリーのパンチと動きは速く、防ぐことができない。
ジェリーは、強打を浴びせ続けたが、タフなロッキー・マルシアーノは倒れないため、動き回りながら
「ノロマ!」
となじった。
ロッキー・マルシアーノは、悔しさで涙を流したが、ジェリーが周りに何かいおうとして自分から目を離した一瞬、頭を低くしながら右のパンチを放った。
ジェリーは、顎を打たれてダウンした。
高校生になっても大リーガーに憧れているロッキー・マルシアーノは、野球部に入り、これまで通り、地区のチーム、教会のチームでもプレー。
熱心に練習しながら、自宅で懸垂をしたり、エキスパンダーを引き伸ばしたり、キャッチャーのしゃがんだ姿勢から重い椅子を頭上で上げ下ろししたり、
「秘密のトレーニング」
を行った。
高校2年生になるとアメリカンフットボール部の入団テストを受け、合格。
数少ない2年生レギュラーの1人になり、ボールを持って走ってもスピードがないため、すぐにタックルを受けたが、しがみつく相手を引きずりながら前進。
3年生になると他のチームでプレーしていることを理由に野球部のレギュラーから外されてしまう。
学校にいる意味を失ったロッキー・マルシアーノは、叔父のジョニーにトラックで仕事を運ぶ仕事があるといわれ、両親が反対する中、高校を辞め、メジャーリーグを目指しながら働くことを決意。
時給50セントで石炭をトラックに積んで各家庭に運ぶ仕事をし、数ヵ月後、より給料がよい飴工場へ転職。
さらに飲料工場、靴工場と渡り歩き、食堂の調理の仕事はつまみ食いをしすぎて解雇となって、ガス会社の建設作業員に。
この間、野球は地元のセミプロチームでプレーを続けた。
ロッキー・マルシアーノの高校在学中、1941年に日本軍が真珠湾を攻撃し、アメリカも第2次世界大戦に突入。
特需景気が起こり、ロッキー・マルシアーノは、ガス会社の建設作業員として飛行機の格納庫や工場の建設など給料の良い国の仕事に関わって恩恵を被った。
祖父、ルイージが死去した後、船積みセンターの建設が始まり、仕事が終わると急いで帰って野球にいくという順調な生活を人生を送っていたが、翌年の冬、19歳のロッキー・マルシアーノは徴兵されてしまった。
そして3月に工兵部隊に配属され、自分が建設にかわかった船積みセンター内にあったキャンプ施設へ送られた。
それからマサチューセッツ州ボストンの港湾防衛のための花崗岩でできた星形要塞、フォート・インディペンデンスへいって塹壕を掘ったり、器材を運搬したり、橋を建設する訓練。
やることはガス会社とほぼ同じで、給料もよかったが、野球ができず、自由も少なくフラストレーションが蓄積。
2ヵ月後、上等兵に昇進したが、17歳のときに初体験をして以来、1ヵ月に1度は女性と関係を持ってきたロッキー・マルシアーノは、7日間、無許可で離隊。
他の兵士にボストンで女性と一緒に歩いているところをみられて兵卒に降格させられたが、その後も女性に会うために抜け出た。
数ヵ月後、バージニア州のキャンプに第348工兵大隊所属A中隊の一員として配属され、チェサピーク湾で船への積み下ろしや上陸用舟艇に乗って訓練。
1ヵ月後、列車でカナダに向かい、7000人搭載の輸送船に乗り換え、大西洋に出たが、ドイツの潜水艦、Uボートの攻撃を避けるため、夜間、デッキでの喫煙は禁止。
7日後の夜、イギリスのリバプールに到着。
月明かりの中、ドイツ空軍の爆撃でボロボロになった建物の間を進み、ロッキー・マルシアーノは、初めて戦地を経験。
その後、列車とバスで海沿いのリゾート地、マンブルズに移動し、午前3時に就寝。
M1ライフルを持って1ヵ月間、訓練した後、キャンプ・マンセルトンへ移動。
本格的な訓練の後、夜になると仲間とパブに行き、リフレッシュ。
ときに口論となって、巨漢の炭鉱夫や198㎝のオーストラリア兵をKO。
スポーツが好きなロッキー・マルシアーノは、駅の近くにあった、ウェールズのヘビー級ボクサー、ジム・ワイルドのボクシングジムに通い始めた。
が、すぐに橋をつくる訓練中に右手親指を金づちで打たれて骨折し、ボクシングジム通いは中止
第348工兵大隊は、ヨーロッパで行われる攻撃作戦に参加する予定だと聞かされながら、物資の積み下ろし、小型船の乗り降り、地雷やガレキの撤去などの訓練を継続。
出発が近づき、南方の海岸、ウェイマスに移ると外出許可が禁止され、ノルマンディーに向かう船に荷物を積み込み続けた。
「ノルマンディー上陸作戦」は、イギリス軍、アメリカ軍を主力とする連合国軍が、イギリスを出発してドイツ占領下のフランス北部のビーチ、ノルマンディー海岸に上陸するというもので、作戦初日だけで約15万人、作戦全体で200万人が参加。
第348工兵大隊の仲間たちも次々にノルマンディーに発っていった。
ノルマンディー上陸作戦が始まった10日後、1944年6月15日、いよいよ戦地に送られるロッキー・マルシアーノは、
「最後に・・」
という気持ちで外出禁止の命令に背き、仲間1人とこっそり宿舎を抜け出て街へ。
バーで飲んでいると21時半、偶然、知り合いのイギリス人がやってきた。
イギリス人は飛行機会社の重役で、会社の従業員用の食堂に移動し、飲み始めた。
23時を過ぎ、イギリス人は飲み会を終わらそうとしたが、悪酔いしたロッキー・マルシアーノの仲間が拒否。
結局、イギリス人は、ロッキー・マルシアーノの仲間に数回殴られ、財布を奪われた。
ロッキー・マルシアーノは、イギリス人に謝罪し、仲間から財布を取り戻そうとしたができず、そのまま宿舎へ戻った。
翌日の午後、2人は手錠をかけられ、指紋を採取されて写真を撮られた後、軍刑務所に収監された。
約1ヵ月後、7月17日、軍法会議にかけられ、その日のうちに暴行と窃盗で有罪判決が下され、仲間は10年の重労働刑、ロッキー・マルシアーノは7年の重労働刑が宣告された。
1ヵ月後、ロッキー・マルシアーノは、オハイオ州チリコシーの連邦感化院(非行少年などを保護し教育するための福祉施設)で謹慎を命じられ、同時期、ドイツ軍を後退させて上陸に成功した連合軍がパリを解放した。
1944年8月に連合軍によってパリが解放された後、ロッキーマルシアーノは、刑を7年から3年に減らされて不名誉除隊となった。
11月、囚人として、船で10日間かけてアメリカに帰国。
12月、ニューヨークで健康診断を受け、インディアナ州の収容所へ。
年が明けて1945年5月、ドイツが降伏したことで恩赦があったが、ロッキー・マルシアーノは対象とならなかった。
収容されて1年3ヵ月後、1946年3月、肺炎になって12日間入院した後、収容所を出て、軍に復帰。
ワシントン州郊外の陸軍基地で数ヵ月間勤務した後、ブロックトンに一時帰宅した。
ブロックトンでは家族に歓迎され、母親のつくったスパゲティで満腹になり、旧友と会いにいった。
自分と同じく軍務の合間に帰郷していた4歳上の近所のお兄ちゃん、アリー・コロンボは、ロッキー・マルシアーノのアスリートとしての素質やストリートファイトの武勇伝を知っていたのでボクシングをやることを勧めた。
まだメジャーリーガーになることをあきらめていなかったロッキー・マルシアーノは、兵役よりもボクシングで稼ぐほうがいいかもしれないと思い、地元でボクシングの試合をプロモートしていたジーン・カッジャーノのもとへ。
35歳のジーン・カッジャーノは、元フェザー級のボクサーで、ロッキー・マルシアーノの体型とシャドーボクシングをさせると3分持たずに座り込む姿をみて
「戦える体ではない」
と思ったが、集客のために試合に出ることを許可。
「楽な相手を探して勝たしてやる」
といい、アマチュアの試合なので「経費」という名目で30ドルを払うことを約束した。
試合は、次の週の火曜日。
それまでロッキー・マルシアーノは家でゴロゴロし、母親のつくったイタリア料理にたっぷり食べ、友人と酒を飲み、タバコを吸って過ごした。
1946年4月16日の初試合の日の夜、親戚の家に寄って、マカロニパスタを食べて会場入り。
ウエイトは、97.5kg。
プロとして戦うようになってからよりも10㎏以上重かった。
試合会場の修道会ホールには、タバコの煙が充満し、たくさんの人が観戦していた。
この日のメインは、地元のバンタム級、ジョー・フェローリとニューイングランド地方チャンピオンのジョージ・コートの一戦。
その他にフェザー級のジョージ・マッキンリー、ヘビー級のロッキー・マルシアーノというブロックトン出身のボクサーが2人出場していて活躍を期待されていた。
ロッキー・マルシアーノの対戦相手は、マサチューセッツ州出身の新人のはずだったが、都合が悪くなって経験豊富な黒人ボクサー、ヘンリー・テッドに変更。
ロードアイランド州の州都、プロビデンスで黒人として初めてカトリック高校を卒業し、大学に進んだインテリで、188㎝、85㎏という見事な体格で、1年前に地方のアマチュア大会で準優勝していた。
対するロッキー・マルシアーノは、高校中退。
軍で6戦無敗という嘘の肩書をつけられたが、これがデビュー戦で、178cm、97.5kgという肥満体型。
試合は、4回戦(最長4ラウンドまで行われる)
開始のゴングが鳴るとロッキー・マルシアーノは、一直線に突進。
頭を下げてクロールのようなパンチを連発した後、足首付近からアッパー。
当たれば危険だったが、その大きなパンチはことごとくかわされ、空振りを繰り返したロッキー・マルシアーノは、すぐに疲弊し、ヘンリー・テッドの小さくて速いパンチを被弾。
2ラウンドが始まるとロッキー・マルシアーノは、ヨロヨロしながら接近し、KOパンチを狙った。
しかしラウンド途中、ロープ際で追い詰められ、連打されたとき、勝てないことを悟ると、ヘンリー・テッドの股間にヒザ蹴りを入れた。
レフリーは、ロッキー・マルシアーノを失格負けにした。
地元の声援を受けながら、絶対に負けたくなかったロッキー・マルシアーノは、知り合いには、
「足が滑って、偶然、膝が当たってしまった」
といいわけし、家族には
「どうすればよかったんだ?
負けろっていうのか」
と当たった。
ヘンリー・テッドは、この試合を最後にボクシングを引退し、原子力のエンジニアとなり、明るい未来を歩み出し、
「もう2度と人前で、あんな恥をかきたくない」
と痛感したロッキー・マルシアーノは、以後、トレーニングをせずに試合に出ることはなかった。
2人にとって、この試合は人生のターニングポイントとなった。
1946年5月、ワシントン州の基地に戻ったロッキー・マルシアーノは、それまでは野球チームに入ってファーストを守って試合に出場していたが、新たにボクシングチームに入った。
この基地のボクシングチームは強く、トップの4選手は、アマチュア大会である「ゴールデングローブ」で地元を勝ち抜いていていて、中でもフェザー級のサミー・ブテラは、105戦103勝100KOの猛者だった。
ゴールデングローブは、アメリカ最大のアマチュアボクシングの大会で、全米30カ所でトーナメントによる地方予選が行われ、勝ち上がればニューヨークで行われる全国大会に進出し、全米ナンバー1を決める。
ロッキー・マルシアーノは、タバコと酒をやめ、食べ物に気をつけて懸命に練習して減量。
サイのような体になって、夏までに5戦し、4勝3KO。
軍の新聞に自分の名前が載っているのをみて感動。
さらに同じワシントン州のタコマでスパーリングパートナーの求人広告を発見すると応募し、194㎝、102kgのビッグ・ビルに
「熊みたいだな」
といわれながら、恐れずに攻撃し、度胸をホメられた。
8月にオレゴン州で試合があり、同じ日に野球の試合もあったが、人生で初めて野球の試合を捨てて、ボクシングの試合に出場。
オレゴン大学で行われたAAU(アマチュア運動連合)の試合は、全国から100名以上が集まり、初日を勝ったロッキー・マルシアーノは、2日目にフレドリック・ロスを開始直後、右1発でKO。
あと2回勝てば、全米ジュニアAAUヘビー級チャンピオンだったが、次の日、再び右でロバート・ジャーヴィスをKOしたが、試合途中に左手の指を骨折。
上官に止められたが
「戦わせてくれ」
と頼み、2日後、決勝戦のリングに上がり、191㎝のジョー・ディアンジェリスと3Rを戦って判定負け。
翌日、ワシントン州の軍の病院に入院。
ボクサー生命を脅かすような重度の骨折だったが、日系アメリカ人の外科医、トム・タケタは、1週間、アイシングと牽引で腫れを引くのを待って、指にドリルを入れてステンレス製のピンで砕けた骨をつなぐ手術を行い、1ヵ月後の9月、レントゲン写真で拳が元通りになっていることが確認された。
12月、かつて不名誉除隊となったロッキー・マルシアーノは、名誉除隊となった。
23歳で兵役を終えたロッキー・マルシアーノは、ブロックトンへ帰り、年末を家族と過ごし、退役軍人として週20ドルの失業手当を受け取りながら、かつて試合を組んでもらった地元のプロモーター、ジーン・カッジャーノに声をかけ、地元のYMCでトレーニング。
1ヵ月後にはアマチュアボクシングのトーナメントに参加し、相手の攻撃を受けながら突進し、大きなパンチを振り回すという粗削りなスタイルで、
1月4日、ロン・スラッシャー KO勝ち
1月11日、ジム・コノリー KO勝ち
しかし1月17日、ボブ・ジラートに判定負けした上、左手の古傷が悪化。
4歳上の近所のお兄ちゃん、アリー・コロンボは、ブロックトンから160㎞離れた、同じマサチューセッツ州のホールヨークのボクシングプロモーターにロッキー・マルシアーノの試合を組むように依頼。
時給1ドルで側溝を掘る仕事を始めたばかりのロッキー・マルシアーノは、前座試合ながら報酬は50ドルといわれて歓喜。
食べ物に気をつけながら1日2度公園で走り、YMCAのジムで練習。
3月17日の月曜日、ガス会社の仕事を休んで列車でホールヨークに移動。
駅からアリー・コロンボの車に乗って、アリー・コロンボの友人の家に行き、ステーキとグリーンサラダを食べて、昼寝。
会場であるヴァレーアリーナに移動し、試合前の計量で対戦相手と初対面。
地元で働くヘビー級ボクサー、レス・エパーソンは、パワー、スピード、技術があり、将来を有望視されたプロ選手で、会場の観客からの人気も高かった。
一方、作業着姿で計量会場に入ったロッキー・マルシアーノは、これがプロデビュー戦だったが、試合を盛り上げるために17戦16勝という偽の戦績をつけられていた。
試合直前、アリー・コロンボがファイトマネーが50ドルであることを確認すると、プロモーターは、35ドルだといった。
プロの試合に出るためにマサチューセッツ州に15ドルを払ってでライセンスを申請し、ガス会社の給料を捨ててはるばるやってきたロッキー・マルシアーノは、それでは赤字になってしまうため、会場の声を聞こえる控室でプロモーターと交渉。
35ドルのファイトマネーは35ドルで、15ドルのライセンス料はプロモーターが払うということで落ち着いた。
レス・エパーソン vs ロッキー・マルシアーノは、第1試合に組まれていて、地元のヒーロー、レス・エパーソンがリングに上がると大きな歓声が上がったが、ロッキー・マルシアーノには、わずかな拍手だけ。
ゴングが鳴ると大ぶりのロッキー・マルシアーノの顔面にレス・エパーソンの左がヒット。
その後もロッキー・マルシアーノは、多くのパンチを空振りし、多くのパンチを浴びたが、とにかく前進。
2R、ロッキー・マルシアーノの強烈なボディが当たり、続いて顔面にもパンチがヒット。
3R、開始してすぐにロッキー・マルシアーノの右アッパーで
レス・エパーソンは倒れ、10カウントが数えられた。
ロッキー・マルシアーノは、腫れて膨らんだ顔で微笑んだ。
アリー・コロンボがファイトマネーを受け取りにいくと、係員に20ドルを渡されたので
「金額が違う」
といって突き返した。
すると係員は
「報酬は35ドルだが、そこからライセンス料15ドルを引いた」
アリー・コロンボは怒り、ロッカールームに戻ってロッキー・マルシアーノに説明。
するとロッキー・マルシアーノも激怒。
それをみてプロモーターは、警察に連絡。
2人の警官が来て
「帰ったほうが身のためだ」
といわれたので、アリー・コロンボが、
「20ドルを返してしまった」
というと
「受け取って帰れ」
といわれたので、係員のところへいって
「(プロモーターが)35ドルの支払いを認めた」
といって35ドルを受け取り、ロッカールームで警官と言い争うロッキー・マルシアーノをなだめ、そそくさと会場を後にした。
アリー・コロンボに35ドルを手に入れたといわれ、ロッキー・マルシアーノは笑顔になり、アリー・コロンボと、その友人と一緒にバーで祝勝会をして、35ドルのほとんどを使ってしまった。
ロッキー・マルシアーノは、プロボクサーとしてデビューした数週間後、仲良し3人組の1人、ユージン・シルベスターを含む3人の野球仲間と共に野球のトライアウトを受けるため、シカゴ・カブスの春季キャンプへ。
友人の車、1939年型ビュイックに乗って南下し、1泊。
そこからノンストップでシカゴ・カブスがキャンプを行っているノースカロライナ州ファイエットビルへ。
車を運転していた仲間は、他のチームのトライアウトを受けるために、ここで別れた。
テストは、最長で4週間にわたって行われるため、3人は、食事つきで50セントの下宿をシェアし、意気込むロッキー・マルシアーノは、ベッドの上で激しくトレーニングしてベッドを壊してしまった。
ロッキー・マルシアーノは、バッティングは抜群だったが、走塁が遅く、守備では、13人がテストを受け、4人が採用されるキャッチャーのポジションに入ったが、
「肩が弱い」
といわれ、続いてファーストに入ったが、ゴロを捕り損なって、走ってきたバッターに
「拾えよ」
といわれた瞬間、その顔面にパンチを入れた。
辺りに血が飛び散らせ、相手をプレー不能に追い込み、改めて打撃力が抜群であることを示したが、トライアウト3週目に2人の仲間と一緒に落とされ、ピッチャーのユージン・シルベスターだけが残った。
ロッキー・マルシアーノは、落ちた仲間と一緒に同じノースカロライナ州のDクラスのマイナーチームのテストを受けたが2人とも選外。
さらに南下し、ジョージア州の昼は仕事、夜は野球というチームのトライアウトを受けたが、数日後、帰るようにいわれた。
2人はヒットハイクでシカゴ・カブスのキャンプ地まで戻り、帰りの交通費出してもらい、北行きの列車に乗っった。
4月にメジャーリーガーになる夢を失ってブロックトンに戻ったロッキー・マルシアーノは、5月にジーン・カッジャーノからボクシングの試合に出てくれと頼まれた。
それはアマチュアの試合だったので、ロッキー・マルシアーノは、数ヵ月前にプロで試合を行い、もうアマチュアとして戦う資格がないことを伝えた。
しかしジーン・カッジャーノは、
「知りたくない」
といい、「経費」としてできるだけ多く支払うと約束。
ロッキー・マルシアーノは、ガス会社の仕事で側溝を掘りながら、YMCAでジーン・カッジャーノと練習。
この頃、ブロックトンの警官の1人娘、バーバラと出会い、交際をスタート。
仕事、ボクシングの練習に加え、デートもしながら、5月30日の試合で勝利すると、翌年2月に行われるアマチュアトーナメント、ゴールデングローブに出ることを決意。
バーバラは、ロッキー・マルシアーノよりも5歳下の19歳。
背が高く、高校時代は水泳部で市営プールでライフガードのアルバイトをし、大人になると両親と暮らしながら電話交換手の仕事をしていた。
バーバラは、プロレス観戦が好きというオテンバ娘で、ボクシングに対しても肯定的だったが、ロッキー・マルシアーノの母親は、
「よそ様の息子さんを傷つけるような残酷なスポーツはしてほしくない」
「医者か弁護士になってほしい」
「(勉強が嫌いだから向いていないというと)歌手かダンサーになったら?」
といってボクシングをやることに反対。
1度もロッキー・マルシアーノの試合を観たり、ラジオで聴くことは絶対にせず、試合中は教会で祈り、息子が家に帰ってくるとシャツをめくって傷がないか確認した。
父親は、母親を刺激しないようにしながら密かに長男を応援し、軍務を終えてブロックトンに帰ってきたアリー・コロンボも、ロッキー・マルシアーノをサポートした。
1948年2月9日、ゴールデングローブは、ブロックトンから80㎞離れたマサチューセッツ州北部、ローウェルで行われ、ロッキー・マルシアーノは4000人の観客の前でチャールズ・モーティマを3Rに左ボディーから右アッパーでKO。
準決勝の相手は、メイン州のチャンピオンだったが、妻の出産のために試合をキャンセルしたため、不戦勝。
決勝戦の相手は、ニューハンプシャー州チャンピオンのジョージ・マキニス。
身長190㎝の8戦連続KO中と勢いがあるマキニスは、ゴングが鳴るとすぐに攻勢に出て、ロッキー・マルシアーノも応戦。
1Rから激しい打ち合いになって観客は沸く中、ロッキー・マルシアーノの左ジャブでジョージ・マキニスは右目の上のカットし、出血。
ロッキー・マルシアーノは、同じ場所にジャブを5連発し、後退するマキニスにトドメの右。
レフリーが割って入り、傷を確認を試合をストップ。
1R、2分11秒、TKO勝ちとなったロッキー・マルシアーノは、3月にニューヨークで行われる東部ゴールデングローブ大会、そして4月に行われるAAU(アマチュア運動連合)の大会に出場することが決定。
もしこれらの全国大会で勝てば、夏に行われるオリンピックのアメリカ代表になれた。
しかしロッキー・マルシアーノは、ジーン・カッジャーノに
「金を稼げないからプロに転向したい」
と相談。
結局、春のAAUの大会の後、プロになることにした。
2月28日、ジーン・カッジャーノは契約書を作成。
プロになった後、ジーン・カッジャーノがマネージャーになって収益の1/3をもらうという内容だったが、ロッキー・マルシアーノは、サイン。
翌3月1日、他の階級の代表選手6人と一緒に特急列車に乗って、東部ゴールデングローブ大会が行われるニューヨークに出発。
ブルックリンのホテルに泊まり、翌日の午後、リッジウッドグローブアリーナで、優勝候補のコーリー・ウォレスと対戦。
コーリー・ウォレスは、まだ20歳ながら洗練されたボクシングでKOを重ね、「次なるジョージ・ルイス」と期待されている黒人だったが、24歳のロッキー・マルシアーノは、攻撃的なボクシングでウォレスのボディを連打し、観客を総立ちにさせた。
コーリー・ウォレスは、距離を取って戦うようになり、被弾は防いだが、ロッキー・マルシアーノにダメージを与えることができない。
最終3ラウンドは、ロッキー・マルシアーノがロープ際でコーリー・ウォレスに強打を食らわせたところで終了。
判定は割れたが、コーリー・ウォレスが勝利。
するとブーイングが起こり、リングにモノが投げ込まれ、ロープ際まで詰め寄る者も出て、騒動は15分以上続いた。
(コーリー・ウォレスは、トーナメントを勝ち抜いてゴールデングローブの全米ヘビー級チャンピオンとなり、その後、プロボクサーになった)
ブロックトンに帰ったロッキー・マルシアーノは、2週間後、ジーン・カッジャーノが主催するボクシングの試合に出場。
ジーン・カッジャーノに収益の10%を支払うといわれ、アリー・コロンボと一緒に1枚1ドル25セントのチケットを600枚売り、イス並べなどの設営も手伝い、試合は、1ラウンドKO勝ちで盛り上げた。
しかし試合後、ジーン・カッジャーノから40ドルを渡され、100ドルはもらえると思っていたロッキー・マルシアーノは激怒し、40ドルを突き返した。
1週間後、AAUの大会に出るためにアメリカ北東部のニューイングランドに移動。
するとジーン・カッジャーノがやってきて、セコンドをやらせてくれといったので、ロッキー・マルシアーノは、許可。
準決勝でフレッド・フィッシュラを2ラウンドでKOしたが、そのときに古傷がある左拳を痛めてしまう。
それでもその日の夜に行われた決勝戦に強行出場し、1ヵ月前にKO勝ちしているジョージ・マキニスに右手1本で2度ダウンを奪って判定勝ち。
この勝利でAAUの全国大会への出場権を獲得。
そこでもし優勝すれば、夏のオリンピック出場も夢ではなくなる。
しかしグローブを外すと左手の親指が2倍ほどに腫れていた。
医師は骨折と診断し、ギブスを装着した。
医師に4~6週間は使うことができないといわれたロッキー・マルシアーノは、AAUの全国大会出場を断念。
さらにガス会社に出社すると
「こんな状態じゃ、お前は使えない」
といわれてクビになり、通院していると高校時代のアメリカンフットボール部の監督の妻が看護師をしていて
「なんのためにボクサーをしてるの?」
といわれた。
数ヵ月後には25歳になるロッキー・マルシアーノは、仕事もスポーツもトレーニングもできず、フラストレーションを溜めた。
ある日の深夜、友人とブロックトンのレストランにいると隣のテーブルから酔った2人の海兵にからまれ、最初は我慢していたが、友人が
「オカマ野郎」
といわれた瞬間、左手にギブスをはめたまま、右手で1人の顔面を殴ってノックアウト。
逃げた1人を追って、路上で倒すと、レストランに戻ったが、そのとき友人によると
「ロッキーは、明らかに元気になっていた」
1948年3月にガス会社を解雇されたロッキー・マルシアーノのために、本人、アリー・コロンボ、父親、叔父のジョニー、警官であるバーバラの父親、そしてマックス・シュメリングと戦ったことのある元ヘビー級ボクサーでブロックトンでビールを売っているジョー・モンテが集まって会議を行った。
ジョー・モンテは、プロボクシングの世界は、実力や才能と同じくらいコネクションがモノをいうと説明し、ロッキー・マルシアーノにニューヨークへ行くことを勧め、まだ荒削りなボクシングに磨きをかけるトレーナーと大きな試合を獲ることができるマネージャーが必要だといった。
アリー・コロンボは、AAUの試合会場でエディ・ポランドというトレーナーに出会い、ジョー・モンテ同様、ロッキー・マルシアーノはニューヨークに行くべきだといわれ、数名のマネージャーの名前を教えてもらっていた。
その中に、アル・ワイルがいた。
ルー・アンバースをライト級チャンピオンに導き、チリのヘビー級ボクサー、アルトゥーロ・ゴドイを2度、ヘビー級チャンピオンであるジョー・ルイスに挑戦させ、「マネージャー・オブ・ザ・イヤー」に選出されていた敏腕マネージャーだった。
5月、アリー・コロンボは「ザ・リング:レコードブック&ボクシング百科事典(The Ring Record Book and Boxing Encyclopedia)」で、アル・ワイルの住所を調べ、手紙を書いた。
6月、ロッキー・マルシアーノとアリー・コロンボが野球の試合をしていると、アリー・コロンボの妹が走ってきて、アル・ワイルから長距離電話がかかってきているといった。
キャッチャーをしていたアリー・コロンボはスネ当てをしたまま、走って家に帰り、受話器を取ると
「君のボクサーを連れてニューヨークに来れるか?」
といわれた。
アル・ワイルは、フランスで生まれ、13歳でアメリカに移住。
1年後、父親は帰国したが、1人残り、多くのダンスコンテストに出場して賞金を獲得。
プロのダンサーとして活躍しながら、ダンスイベントのプロモートを行うようになった。
アンディ・ブラウンというボクサーとルームシェアしているとき、セコンドを頼まれ、何も知らないままコーナーにつき、そこでボクシングの魅力にハマってしまう。
ボクシングの試合とダンス大会が同じ場所で行われることが多く、たくさんのボクサーや関係者と知り合いになったアル・ワイルは、ボクサーのマネージメントを始め、1916年に初めてニューヨークに来た「拳聖」ジャック・デンプシーの試合も観に行った。
13人兄弟姉妹の9番目に生まれたジャック・デンプシーは、16歳で家を出て、貨物列車の無賃乗車と野宿で各地を放浪しながら、酒場で相手を募って、金を賭けてケンカ。
ボクシングを始めて2年後、初めてニューヨークに来たジャック・デンプシーは金がなく、試合前夜、公園で寝て、アル・ワイルの観ている前でジョン・レスター・ジョンソンと10ラウンドを戦い、肋骨を3本折りながら引き分けた。
(そして3年後、世界ヘビー級タイトルに王座に初挑戦。
相手は、黒人初の世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・ジョンソンを破った身長2mのジェス・ウィラード。
185㎝のジャック・デンプシーは、1Rに7度のダウンを奪い、ジェス・ウィラードは、顎、頬、歯、肋骨を折られて、4R開始に応じられず、TKO負け。
「トレドの惨劇」と呼ばれた)
ジャック・デンプシーがニューヨークにやってきた年、波止場でカーニバルがあり、アル・ワイルは、「ハイストライカー」というゲームを出店。
1回10セントで重りを高く投げるという力試しのゲームで、
「彼女に力を証明してみろ」
などといいながら客引きしていたが、このときルーレットゲームの屋台をしていたチャーリー・ゴールドマンに出会った。
アル・ワイルより5歳上のチャーリー・ゴールドマンは、元ボクサー。
ポーランドの首都、ワルシャワで生まれ、幼少期にニューヨークのブルックリンに移住。
治安が悪い街で自然と拳の使い方を学び、小学校4年生のときに学校で教師に殴られて、殴り返した後、教室を飛び出し、学校教育を終了。
バンタム級とフェザー級で世界チャンピオンになったハードパンチャー、テリー・マクガヴァンがトレーニングするジムが新たな教室になった。
1900年代初頭、ボクシングの試合は、野蛮な見世物として行うことが禁止されていたため、人目のつかない倉庫や空き地、酒場の奥やダンスホール、会員制のクラブなどで密かに行われていた。
そんな中でチャーリ・ゴールドマンは、16歳のときに、155㎝、48㎏の小さな体でデビュー戦を行った。
場所は、ブルックリンの酒場で、相手のエディ・ガードナーは、10歳以上も上。
どちらかが立たなくなるまで続けるというルールの下、3時間以上殴り合い、第42ラウンドに突入したとき、警官が入ってきたため、チャーリー・ゴールドマンは観客と一緒に逃亡。
試合の主催者も消えてしまい、ファイトマネーをもらい損ねたチャーリー・ゴールドマンは
「警察に漏らしたのはアイツだ」
と思った。
この後、バンタム級で400戦以上戦い、何度も手と指を骨折して変形し、耳もカリフラワーのようになったチャーリー・ゴールドマンは、ボクシングを始めて8年間後、初めて世界タイトルマッチに挑み、判定負け。
そしてボクシングを始めて10年後、26歳で選手を引退し、トレーナーになった。
直後、教え子のアル・マッコイが世界チャンピオンのジョージ・チップに挑戦。
チャーリー・ゴールドマンに
「右で誘っておいて腹に左を打ち込め」
と指示されたアル・マッコイは、1R45秒でKO勝ちし、時番狂わせで世界ミドル級チャンピオンとなった。
カーニバルで2人が出会った3年後、ボクシングが合法化されるとアル・ワイルは、すぐにセコンドとマネージャーのライセンスを取得。
ジャック・デンプシーが所属していた名門、スティルマンズジムで次々とスター選手を誕生させた後、同じニューヨークにあるCYOジムに移籍してボクサーたちを指導をしていたチャーリー・ゴールドマンに
「パートナーになろう」
といった。
チャーリー・ゴールドマンは、
「人が良くて、やり手で、とても聡明」
と思っていたアル・ワイルの提案に合意。
2人は、ビルの一室を貸り、
「ワイル&ゴールドマン ボクシングマネージャーズ」
という看板を掲げた。
アル・ワイルは、ボクサーのマネージメントとマッチメイクを担当。
ボクサーたちを家族と考え、溺愛する一方で、支配的になったり、ビジネスに徹することもあって
「暴君」
と呼ばれることもあったが、刺激的な試合を組んで興行を大成功させ、ボクシング界屈指のマネージャー兼マッチメイカーになった。
チャーリー・ゴールドマンは、トレーナーに専念し、アル・ワイルが送ってくるボクサーを教え、次々にチャンピオンを輩出。
タイトル戦の翌日でさえ、必ずジムに顔を出して練習を行う職人肌で、身につけている貴金属は父親からもらった金の指輪だけ。
代わりにいつも湿布、ワセリン、気つけ薬、テーピング、ハサミ、綿棒などの商売道具を黒いバッグに入れて持ち歩いていたが、そのバッグはボクサーから感謝の印にプレゼンとされたものだった。
「1番好きなことは未熟者が成長していくのを目にすること。
それはまるで片方のポケットに25セント硬貨を入れると、もう片方から1ドルが出てくるようなもの」
というチャーリー・ゴールドマンは、選手の弱点を手帳に書き、忍耐強く、修正していった。
そんな師匠の姿をみながら一緒に仕事をしていた若手トレーナー、アンジェロ・ダンディ-は、後にモハメド・アリのトレーナーになった。
アル・ワイルから電話をもらった数日後、ロッキーマルシアーノとアリー・コロンボは、ニューヨークへ向かった。
55歳のアル・ワイルのオフィスは、電話がひっきりなしに鳴り、スタッフが対応していた。
ソファーで対峙したアル・ワイルは、背が低く、2重アゴの肥満体にチョッキを着ていて、ベッコウのメガネをかけていた。
「お前は戦えるといったのは誰だ?」
ロッキー・マルシアーノをみながらズケズケというアル・ワイルに、アリー・コロンボは
「彼は出た試合の全部で勝っています」
「アマチュアで何試合やったんだ?」
「12戦くらいです」
「パンチは打てるのか?」
「それはもう」
「右手だけ?」
「いえ両方です
彼は両方の手でパンチが打てます」
するとアル・ワイルは、電話をかけ始めた。
「チャーリー、新しい若者が来てるんだ。
ヘビー級だ。
誰か相手を用意してくれ。
何ラウンドかみてみたい。
エッ、誰もいない?
ゴドイはいるか?
・・・・・
じゃあゴドイにちょっと待っててほしいと伝えてくれ。
コイツの動きをみたいんだ」
ゴドイとは、世界ヘビー級チャンピオンであるジョー・ルイスに2度挑戦(それぞれ15R判定負け、8RTKO負け)した、チリ出身の白人ボクサー、アルトゥーロ・ゴドイ。
アル・ワイルと一緒にタクシーでチャーリー・ゴールドマンのジムへ向かうとき、ロッキー・マルシアーノは、
「あのゴドイとやるのか!?」
と思うと興奮し、心臓はバクバクしていた。
ジムに着くとボクサーたちが縄跳びをしたり、シャドーボクシングをしたり、サンドバッグを打ったり、スピードボールを打ったり、リングでスパーリングをしていて活気に満ちていた。
その中心にいたのが、年齢60歳、身長155㎝、ダービーハット(山高帽)をかぶり、角縁の眼鏡をかけたチャーリー・ゴールドマンだった。
ロッキー・マルシアーノにサンドバッグを打たせて、
「両足は開きすぎ、頭は高すぎ、両腕も開きすぎ。
パンチを打つのではなく、襲いかかっている」
と思ったチャーリー・ゴールドマンは、アルトゥーロ・ゴドイとスパーリングをさせず、翌日、また来るように告げた。
その日、ロッキー・マルシアーノとアリー・コロンボは、ホテルに宿泊。
翌日、ジムへ行くと、アル・ワイルとアルトゥーロ・ゴドイがいた。
しかしチャーリー・ゴールドマンは、ウエイド・チャンシーとスパーリングするように指示。
ゴドイのスパーリングパートナーで、すでにプロで12戦していて、ジョー・ルイスの試合の前座を務めたことのある有望選手だった。
スパーリングが始まるとロッキー・マルシアーノは、前進して大きなパンチを振り回したが、ことごとくかわされ、反対にジャブをもらった。
チャーリー・ゴールドマンは、
「腕の振りが遅すぎる」
「フットワークがムチャクチャ」
「左ジャブは手のひらが上を向いている」
と気がついたことを手帳にメモ。
顔面に飛んでくるパンチは両腕を上げてディフェンスするが、ボディへのパンチは、まったくガードしないロッキー・マルシアーノが連打をもらったところで、不思議に思ったチャーリー・ゴールドマンは、スパーリングをストップ。
ボディをガードしない理由を聞き、ロッキー・マルシアーノに、
「顔が傷ついて母傷にみられるとボクシングを辞めさせられてしまうから、相手が疲れるまで殴らせておけと・・・」
といわれると大笑いした。
2R、ウエイド・チャンシーのガードが下がった瞬間、ロッキー・マルシアーノの右が顎の炸裂。
ウエイド・チャンシーがロープまでよろめくと、アル・ワイルが、
「倒せ!
倒すところを見せてくれ!!」
と叫んだが、チャーリー・ゴールドマンは、スパーリングを終わらせた。
誰もがロッキー・マルシアーノの大ぶりの右フックをラッキーパンチだと思ったが、チャーリー・ゴールドマンだけは、
「稲妻のようなパンチだった。
技術を教えることはできるが、あんなパンチを身につけさせることはできない」
と肯定的に評価した。
アル・ワイルとチャーリー・ゴールドマンは話し合い、
「置いておこう」
「何の損はないからな」
ということになった。
ロッキー・マルシアーノがプロボクサーとして成功できるか聞くとチャーリー・ゴールドマンは、
「簡単なことじゃない。
大変だよ。
やらなければいけないことはたくさんあって、犠牲もたくさんあって、たくさん殴られる。
だが君はやっていけるんじゃないかと思う。
君は強くて熱心だ。
戦うことが好きだとわかる。
好きじゃなきゃ、この世界に住んでいられない」
オフィスに戻るとアル・ワイルは
「すべてチャーリーのいう通りにするんだ。
それから何試合か4回戦を手配してやる」
といい、さらに
「マー・ブラウンの下宿に住んでゴールドマンとトレーニングすればいい」
といった。
チャーリー・ゴールドマンは、マー・ブラウンという気難しい高齢女性が経営するアパートに妻と一緒に暮らしていて、何人かのボクサーも同じアパートに住んでいた。
ロッキー・マルシアーノが、
「自分の稼ぎの10%をアリーに渡したい」
というと、アル・ワイルは、
「なんだと?
お前、誰に言ってるんだ?
お前は、まだ金をもらうのにふさわしいことはなにもしていない」
と激怒。
アリー・コロンボが
「ロッキーには仕事がなく、ニューヨークで暮らす金がないんです」
というと、アル・ワイルは
「それは残念だ」
といった後、少し考えてから、
「ロードアイランド州のプロビデンスはブロックトンから近いか?」
と聞き、それほど離れていない(約48㎞)ことがわかると
「家に戻ってトレーニングし、準備ができたら俺に知らせろ。
プロビデンスで試合を手配するから」
といった。
話しが終わり、ロッキー・マルシアーノが帰るためにエレベーターで降りようとすると、アル・ワイルは、
「おい、戻ってこい」
といって、20ドルを渡した。
内心、アル・ワイルの態度に怒っていたロッキー・マルシアーノは、お礼をいって受け取り、アリー・コロンボと一緒に昼食。
そして別のマネージャーに会った。
ジャック・マーティンは、元マサチューセッツ州知事の息子でヘビー級ボクサーのピーター・フラーのマネージャーを務めていて、2人の話を聞いて、
「アル・ワイルと契約にサインした?」
と聞いた。
「してない」
「俺といくらで契約したい?」
アリー・コロンボが
「1000ドル」
というとマーティンは、
「OK。
明日、電話する」
といった。
しかしジャック・マーティンから電話はかかってこず、ロッキー・マルシアーノとアリー・コロンボは、ブロックトンに帰った。
ロッキー・マルシアーノは、ブロックトンに戻ると、すぐにトレーニングを開始。
毎朝、ボクシング経験のないアリー・コロンボと一緒に走り、ボクシングをやったことのない友人、トニー・タルタリアとスパーリング。
週1日は休んでバーバラと過ごしたが、22時には別れ、22時半には就寝。
数週間後、プロビデンスでの試合が1948年7月12日に決まった。
試合前日、母親は、改めてボクサーになることを反対。
ロッキー・マルシアーノが
「ケガをしないようにする」
というと、母親は
「帰ってきたら体をチェックする」
といった。
試合当日の午後過ぎ、ロッキー・マルシアーノ、アリー・コロンボ、トニー・タルタリアはプロビデンスに到着。
計量の後、トニー・タルタリアの妹がプロビデンスに住んでいたので、ロッキー・マルシアーノは、そこで昼寝をして、ステーキを食べて出陣。
セコンドの2人がボクシングの経験がなかったため、バンテージは、他の選手のセコンドに巻いてもらった。
この日は5試合が行われ、メインはキューバのフェザー級チャンピオンで世界ランキング3位のミゲル・アセペドとブロックトンのボクサー、テディ・トップの10回戦(最大10ラウンドまで行う)
ロッキー・マルシアーノの出番は、第1試合。
試合は4回戦で行われ、相手は、3歳下の21歳、1年前に世界ライトヘビー級チャンピオンになったハリー・ビラザリアンだった。
20時半、1ドル25セントの自由席、3ドル50セントのリングサイド席に、まだ客がまばらな中、リングへ。
相手を格下とみなしたハリー・ビラザリアンは、ゴングが鳴ると猛然と襲いかかったが、ロッキー・マルシアーノは、それをかわし、ボディに数発入れた後、右を顔面に叩きこんでダウンを奪った。
。
相手がカウント9で立ち上がってくるとラッシュ。
右が炸裂すると、ハリー・ビラザリアンは背中から倒れて転がり、うつ伏せに。
レフリーは、カウントを数えずに試合をストップ。
1分32秒、TKO勝ちしたロッキー・マルシアーノは、40ドルを受け取り、母親のチェックも無事にパスした。
1週間後、再び、プロビデンスのリングに立って、ジョン・エドワーズをわずか1R、1分19秒、右でKO。
7月12日、7月19日と2連続で1RKO勝ちしたロッキー・マルシアーノは、8月9日にボビー・クインと対戦。
15勝0敗14KO、経験で優るボビー・クインは、2Rまで試合を支配し、ロッキー・マルシアーノは一方的に打たれた。
しかし3R、攻めてくるボビー・クインの側頭部に膝の辺りから放った大きな右がヒットし、3R 23秒、KO勝ち。
2週間後の8月23日、25勝0敗23KOのエディ・ロスと対戦。
1R 1分3秒、ロッキー・マルシアーノの右でエディ・ロスは、マウスピースをリング外に飛ばし、リングに倒れる前に気を失った。
これでロッキー・マルシアーノは、4連続KO勝ち。
体が小さく、動きはぎこちなく、よくパンチをもらうが、パンチを当たれば、それですべて片がつくという一撃必殺の豪快なボクシングで観客を興奮させた。
ロビデンスのプロモーターは、1度も試合を観に来ないアル・ワイルに、
「ジャック・デンプシーやジョー・ルイスよりもパンチ力がある」
と伝えた。
ロッキー・マルシアーノが4連続でKO勝ちし、40ドルの賞金を4回もらった後、アマチュア時代のマネージャーであるジーン・カッジャーノは、電話をかけ、自分がマネージャーであり、収益の1/3をもらうという権利がある主張。
しかし以前に報酬をごまかされたときからジーン・カッジャーノを信用していないロッキー・マルシアーノは、
「そんなこと知ったことか。
今度お前を見かけたら1発食らわせてやる」
といってハッキリと拒否。
するとジーン・カッジャーノは、契約違反と脅迫でロッキー・マルシアーノを訴え、この件が解決するまでロッキー・マルシアーノが試合に出られないようにする禁止命令を求めた。
裁判所は、その要求は退けたが、裁判は続行した。
一方、警官であるバーバラの父親は、ブロックトンの有力実業家にロッキー・マルシアーノを紹介。
ジムとプール付きの巨大な邸宅に住むラス・マレーは、ロッキー・マルシアーノに自分の家のジムで練習することを許可。
ロッキー・マルシアーノとアリー・コロンボは、次の週までの1週間、そこに通い、トニー・タルタリアや弟のソニーとスパーリングを行った。
経験のあるトレーナーがいないため、彼らはアメリカンフットボール投げたり、プールの中でパンチを繰り出したり、手探りでトレーニングしていた。
そういったオリジナルの練習に加え、様々な人からアドバイスを受けた。
YMCAでウエイトトレーニングをしているとボディビルダーに筋肉が硬くならないように気をつけろといわれ、食事のアドバイスも受け、揚げ物は避けて野菜を多く摂るようにした。
古傷を持つ左拳が、すぐ痛くなることに悩んでいるとブロックトンの消防士でボクサーでもあるアート・バーグマンは、
「正しいパンチの打ち方をしていないからだ」
といって、80㎏以上ある大きなサンドバッグを持ってきて、
「これを素手で殴って鍛えろ」
といった。
ラス・マレーの家でトレーニングしたロッキー・マルシアーノは、日曜日に野球の試合で一塁を守りった翌日、プロビデンスに行ってボクシングの試合に出場。
一方、チャーリー・ゴールドマンは、アル・ワイルの指示でニューヨークから列車に乗ってプロビデンスに行き、初めてロッキー・マルシアーノの試合を観戦することになった。
8月30日、ロッキー・マルシアーノとアリー・コロンボはプロビデンスへ移動し、駅でチャーリー・ゴールドマンを出迎えた。
対戦相手のジミー・ミークスは、12勝1分5KO。
シュガー・レイ・ロビンソンも所属するニューヨークのスティルマンズジムでトレーニングし、ジョー・ルイスとスパーリング経験がある黒人ボクサーで、試合が始まるとロッキー・マルシアーノに手応えのあるパンチを入れた。
しかし1R終盤、ロッキー・マルシアーノの右がジミー・ミークスの顎に炸裂。
ジミー・ミークスは、なぎ倒され、なんとか立ち上がったが、再び右をもらってダウンしたため、レフリーが試合を止めた。
チャーリー・ゴールドマンは、
(確かにパンチは持っているが、改善が必要だ)
と感じながら、ロッキー・マルシアーノに
「ワイルがニューヨークに来て欲しがってる」
と伝えた。
そして
「何か食べに行きましょう」
というロッキー・マルシアーノの誘いを断り、ニューヨーク行きの列車の乗り、自分のジムで指導を行った。
最初、ロッキー・マルシアーノとアリー・コロンボは、ニューヨークのチャーリー・ゴールドマンのジムまで車で通った。
地元のトラック運転手で元ボクサーのビリー・オマリーが、20時にブロックトンを出て、午前3時にニューヨークに到着するというスケジュールで働いていたので、2人は、それに便乗。
夜明け前にニューヨークのトラックターミナルに到着すると空が明るくなっていく中、ジムまで歩き、練習の後、帰りのトラックに乗った。
やがて自分への絶対服従を求めるアル・ワイルの指示でマー・ブラウンのアパートに下宿し、ニューヨークに住み始めると、ロッキー・マルシアーノとアリー・コロンボは、何時間も街を歩いた。
目抜き通りのブロードウェイ、マディソン・スクエア・ガーデン、ジャック・デンプシーが経営するレストランを観て楽しみ、ホテルのカフェでくつろぐ世界ミドル級チャンピオン、ロッキー・グラジアノや女性を連れて歩く世界フェザー級チャンピオン、ウィリー・ペップをみてはしゃぎ、レストランに入ろうとしたがネクタイをしていなかったため、入店を断られると
「クソくらえ」
と罵った。
ジムへも徒歩で通い、同じアパートに住み、バスで通うチャーリー・ゴールドマンをあきれられた。
少し経つと2人は、より安く、よりジムに近いアパートを見つけ、アル・ワイルの許可を得て、引っ越した。
ロッキー・マルシアーノの強烈だが大きく弧を描く右は、小さく速くというボクシングの常識から外れたパンチで、通常なら矯正されたかもしれないが、チャーリー・ゴールドマンは、
「天から彼に授けられたオリジナルの最終鋭器」
とポジティブに捉え、それを残しながら悪癖を無くすという方向性で指導。
まず行ったのはフットワークの向上。
「力とバランスが奪われるから足が開きすぎてはいけない」
といい、両足の靴紐を結び合わせたり、左右の足首を手錠のように紐で結んで、スタンス(足幅)を狭めるよう指導した。
ロッキー・マルシアーノは、紐を切らないように動くことで、立ち方とフットワークが改善。
結果、ロッキー・マルシアーノの28.5㎝、幅広EEサイズのボクシングシューズは、左足の親指の付け根付近に穴が空いた。
開いていた上半身も、両脇に新聞紙を挟んだままパンチを打ったり、首にタオルをかけて、片方の手でタオルの両端を持ってシャドーボクシングをしてパンチの出し方を改善。
チャーリー・ゴールドマンは、
「床の匂いを嗅ぐくらい鼻を下に降ろして、それから相手を殴り続けろ」
といい、ロッキー・マルシアーノは、直立するのではなく、野球のキャッチャーのように低く、前屈みになった姿勢から両腕を上げ、頭を下げて相手のパンチをかわし、かいくぐりながら前進して攻める動きを練習。
ロッキー・マルシアーノいわく
「紳士的だがおっかない」
「聖人の忍耐力で規律を求めてきた」
というチャーリー・ゴールドマンは、スパーリングで繊細な技術を習得するより、強いパンチを打って戦いたがるロッキー・マルシアーノにスパーリング禁止し、サンドバッグ、シャドーボクシング、縄跳び、フットワークという基本練習を執拗に繰り返させた。
「最初に会ったとき、ボソボソとものをいう気の弱そうな印象を受けた。
アマチュア上がりで、そこそこは基本が出来てると思ったが、そうではなかった。
デビュー前から面倒をみたが基本から直す所がいっぱいあったね。
まずパンチは人一倍あったが、動きはグニャグニャしてダメだった。
まるでアコーディオンのジャバラのようだったなあ。
構えるスタンスが悪いからガードもよくなかったし、パンチを繰り出すコンビネーションも悪かった」
「もう長いラウンドじゃヘタばると思って、もっと動作の速い運動をさせたり、長い距離を走らせてスタミナをつけるようにさせたんだ。
なにしろヘビー級で戦うには体重が軽くて小さいから長くは続けられないと思って、ライトヘビー級を勧めたんだが、アイツは1番重いヘビー級にこだわったんだ。
出来るだけ体重を増やそうとも思ったが、動きが鈍くなるので無理に太らすことは、あえてさせなかった。
それよりももっと筋力をつけパワーをつけさせたんだ。
数ヵ月後になって数段逞しくなってた。
それが後になって試合に役立ったということだね」
というチャーリー・ゴールドマンは、週6日、ジムでボクシングの技術的なトレーニング、ミット、サンドバッグ、スピードバッグ、スパーリングなどを行うだけでなく、過酷な肉体的トレーニングも課した。
ロッキー・マルシアーノは、
・毎朝、アリー・コロンボと一緒に5~6マイル(8~9㎞)のロードワーク
・後ろ向き走
・坂道ダッシュ。
・腕立て伏せ、腹筋運動、背筋運動、懸垂、握力や首の筋力トレーニング
・メディシンボールで腹を打つトレーニング。
・大きなハンマーでタイヤを叩くトレーニング。
・アメリカンフットボールの楕円球を左右の腕で投げてキャッチボール。
などを行い、きちんと食事を摂り、毎晩9時半には就寝することを徹底し、鉄壁の持久力と筋力、不屈の精神力をつくり上げ、82~86㎏の体でヘビー級のリングに立った。
ロッキー・マルシアーノは、ジミー・ミークス戦から2週間後、1948年9月13日、ハンフリー・ジャクソンに1R KO勝ち。
さらに2週間後の9月20日、ビル・ハーデマンに1R KO勝ち。
そしてギルバート・カーディアンと戦うためにワシントンへ乗り込んだ。
屋外で行われる予定だった試合は、雨で2度延期された後、屋内に変更。
この間にギルバート・カーディアンと仲良くなり、彼が病気の父親と4人の兄弟のために戦っていると知ったロッキー・マルシアーノは、試合開始36秒後に、左アッパーでノックアウトした後、意識を失ったギルバート・カーディアンが回復するまでリングから去るのを拒否。
初めてロッキー・マルシアーノの試合を観戦し、ノックアウトの瞬間、興奮して叫んだアル・ワイルは、試合後、正式に契約を交わしたが、チャーリー・ゴールドマンは、
「運よくKO勝ちしたが、力任せの腕力だけで倒してテクニックは全然ダメだった」
と酷評。
4日後、ロッキー・マルシアーノは、ロードアイランド州に戻り、ボブ・ジェファーソンと対戦し、2Rで倒し、9試合連続KO勝ち
しかしこの試合で初めて右拳を痛めてしまい、ブロックトンに戻って休養することになった。
洗濯機の中にバスソルトとお湯を入れて泡立たせて、その中に右手を入れて回復を促進させたロッキー・マルシアーノは、2ヵ月間試合を休んだ後、1948年11月29日、ロードアイランド州で復帰戦を行い、194㎝のバット・コノリーを57秒でKO。
これで10連続KO勝ち。
そのパンチに観客は興奮し、1000人以下だった観客数は、3000人に増加。
これまで数々の世界チャンピオンを世に送り出ながら、ヘビー級だけは、その夢が叶っていなかったアル・ワイルは
「未来の世界チャンピオンだ」
と期待した。