ロッキー・マルシアーノ 24歳で本格的にボクシングを始めるまで

ロッキー・マルシアーノ 24歳で本格的にボクシングを始めるまで

179㎝、84㎏。スピードも、テクニックもなく、不屈のブルドーザーのように突進するファイトスタイルで49戦49勝43KO、引き分けさえない全勝無敗のパーフェクトレコードを持つ世界ヘビー級チャンピオン。




ロッキー・マルシアーノの祖父、ルイージ・ピッチウートは、イタリアの村で鍛冶職人をしていた。
188㎝、100㎏という巨体でよく働き、よく遊び、よく食べ、よく飲み、よくギャンブルをして、
「マストロ(親方)」
と呼ばれていたが、妻と6人の子供と一緒にアメリカ、マサチューセッツ州東部のブロックトンに移住。
ブロックトンは、靴と革製品の製造が盛んな工業都市で、イタリア人だけでなくアイルランド、リトアニア、スウェーデン、ポーランド、ドイツ、フランスなど様々な国の人たちが集まっていて、文化の違いはあったが、国や肌の色に関係なく手を貸し合って生活していた。
ルイージの上から2番目の娘、パスカレナは、コルセット工場で働き、18歳のとき、友人の家で同じイタリア系移民で7歳上のピエリーノに出会った。
ピエリーノは、ルイージより数年早く、17歳のときに単身、アメリカに移民。
ルイージが移民した翌年に第1次世界大戦が始まると志願して軍隊に入り、アメリカのために戦い、フランスの前線で手りゅう弾の破片が頬を貫通して歯が3本折れ、爆発した戦車の破片が体に脚に刺ささりながらも戦い続け、ドイツ軍を退けた。
しかし毒ガス攻撃によって肺を侵され、屈強だった肉体は衰え、すぐに息が切れるようになってしまった。
アメリカに帰還後は、ブロックトンの靴工場で働き、25歳のときにパスカレナと出会った。


メガネをかけ、生真面目で細身のピエリーノとガッシリとした体と陽気でオープンな性格を持つパスカレナは、1年後、結婚。
3年後には、5897gの巨大児、ロッキー・マルシアーノが生まれた。
ピエリーノは、経済的余裕を持つために子供は2人までにしたがったが、パスカレナは、6人欲しいと主張し、3度の流産を経験しながら、アリス、コンチャッタ、ペティ、ルイス、、ピーターを産んだ。
2人は、家族が増えるに伴い、パスカレナの実家の2階に引っ越し。
家長は祖父のルイージ、家庭を仕切るのは母親のパスカレナ、父親のピエリーノは愛する妻と6人の子供のために毎日、靴工場に出勤するという家庭環境で育ったロッキー・マルシアーノは、
「強さは母親から、自制心は父親から受け継いだ」
という。

朝食は、シリアルに6本のバナナ、1リットルの牛乳をかけ、夕食は、母親が大鍋でつくったスパゲッティーをみんなの皿に盛られた後、残りのすべてをに鍋ごと食べるなど食欲旺盛で肥満児だったロッキー・マルシアーノは、7歳から新聞配達を開始。
小学校高学年になると、ギャンブル好きのユダヤ人、イジー・ゴールド、お調子者のユージン・シルベスターと仲良し3人組を形成。
いつも一緒に過ごし、自転車や牛乳を盗んだり、野球をして遊んだ。
イジー・ゴールドとユージン・シルベスターは、よくトラブルを引き起こし、普段物静かなロッキー・マルシアーノは、加勢するために多くのケンカに参加した。

カミソリで手首を切って傷をこすり合って
「血の誓いをした兄弟」
となった3人は、イジー・ゴールドの家の地下室を「クラブハウス」として
「俺たちの仲間になってクラブに加わるためには、俺たちがやったようにダウンタウンのビルの屋上から別のビルの屋上に飛び移ること」
というルールを決めた。
それは4~5階建てのビルで、距離は3mくらいだった。
ロッキー・マルシアーノは、野球に熱中し、ユージン・シルベスターと一緒に地区と教会の野球チームに入ってプレー。
雨の日、練習がなくなっても1人でボールを打ち、兄妹に球拾いをさせた。
背が低くズングリとした体型のロッキー・マルシアーノは、キャッチャーでホームランバッターだったが、走力はなく、通常ならランニングホームランの打球を放っても、2塁打になった。

1933年、ニューヨークでボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われ、イタリア出身で198㎝、118㎏の「歩くアルプス山脈」プリモ・カルネラが、ジャック・シャーキーをノックアウトして新チャンピオンになった。
その後、プリモ・カルネラがブロックトンアリーナで行われる試合にレフリーとしてやってくることになり、9歳のロッキー・マルシアーノは叔父のジョニーに連れられて観に行くことになった。
独身で左腕が不自由なジョニーは、家の1階に住み、甥や姪を大リーグの試合を観に連れていったり、自転車をプレゼントするなどしてかわいがっていた。
ロッキー・マルシアーノは、
「朝食にオレンジジュースを1リットル、牛乳を2リットル、トーストを19枚、卵を14個、ハムを半ポンドを食べる」
といわれていたプリモ・カルネラが目の前を通ったとき、手を伸ばし、肘を触って大興奮。

ロッキー・マルシアーノは知らなかったが、プリモ・カルネラは、黒い噂のあるボクサーだった。
サーカスの怪力男として活躍しているところをフランス人興行師にスカウトされ(買い取られ)、元フランスヘビー級チャンピオンからボクシングを教わり、アメリカに渡ってKOの山を築いた。
しかしその大半が八百長試合といわれ、対戦相手は、マフィアから脅迫や金銭的な交渉を受けて負けていた。
この世界タイトルマッチでも、マフィアはプリモ・カルネラのトレーニングだけでなく、対戦相手のジャック・シャーキーのトレーニングにもタバコは吸いながら姿をみせていた。
アメリカにおいてボクシングは野球に続いて2番目に人気が高いスポーツだったが、マフィアが幅を利かせて大きな収益を上げていていて、試合会場にはタバコの煙が充満し、プリモ・カルネラも、ファイトマネーの多くを搾取されていた。


ある日、10歳のロッキー・マルシアーノは、学校の帰り道、近所の友人と交代でゴムボールを弾ませていたが、やがて互いに自分のボールだと言い争いを始め、押し合い、突き飛ばし合い、最後は取っ組み合って道を転がりながら殴り合い、血と泥にまみれて、ボールは、どこかに行ってしまった。
ロッキー・マルシアーノの母親は、ケガをして帰ってきた長男をみてビックリ。
友人に殴られたと泣きながら説明するロッキー・マルシアーノをみて、叔父のジョニーは、
「泣いて帰ってきて母親を困らせるな。
自分の力で戦え」
と叱った。
ロッキー・マルシアーノは、何もいえずに部屋に引っ込み、数時間後にはケンカした友人と何もなかったように遊んで仲直り。
翌日、叔父のジョニーは、家に余っていた布とおがくずを使ってサンドバッグをつくり、地下室に吊るし、
「これを毎日30分殴れ」
と指示。
ロッキー・マルシアーノは、ジョニーに監視されながら、毎日、地下でサンドバッグを殴った。
地下室は天井が低いため、自然と身を屈めた姿勢になり、独特のボクシングスタイルは、すでにこの頃から始まっていた。
1年後、近所の裏庭に特設リングが組まれ、ボクシング大会が開かれると11歳のロッキー・マルシアーノは、自分より体の大きな年上の子供と対戦し、引き分けた。



1937年6月22日、世界ヘビー級チャンピオン、ジェームス・J・ブラドックと「褐色の爆撃機」ジョー・ルイスと対戦。
白人のジェームス・J・ブラドックは、2年前に世界チャンピオンになって、これが初防衛戦だったが、8RKO負けし、ジョー・ルイスが、史上2人目の黒人の世界ヘビー級チャンピオンとなった。
同時期、中学生だったロッキー・マルシアーノは、イジー・ゴールドと一緒に、ブロックトンアリーナでボクシングの試合が行われる度にアルバイトをしていた。
それは試合用のグローブが2組しかないため、試合が終わったボクサーからグローブを外し、次のボクサーに渡すという仕事だったが、無料で試合を観戦することができた。
ある晩の仕事中、ブロックトンアリーナにジョー・ルイスがゲストとしてやってきたため、、2人は大興奮して、ずっとつきまとい、トイレの個室に入ったジョー・ルイスを上からのぞいた。
この後、ジョー・ルイスは、ヒトラーが支配する独裁国家、ドイツのマックスシュメリングと対戦し、ノックアウトし、アメリカの国民的ヒーローとなった。

14歳のとき、ロッキー・マルシアーノ、イジー・ゴールド、ユージン・シルベスターの仲良し3人組がセミプロ野球チームの試合を観ていると、ファウルボールが後方の林へ飛び込んだ。
野球のボールは貴重品だったので、すぐに追いかけ、イジーがボールを発見。
そこにボールボーイが走ってきて、返すように要求してきた。
ボールボーイは、ジュリー・ダラムという年上の黒人で、近隣でタフで有名な少年だったが、イジーは、シャツの下にボールを隠し、持っていないと主張。
ユージンは、一緒にボールを探そうといった。
しかしジュリーを騙すことはできず、いい合いとなった。
エスカレートしたジュリーがイジーを脅すのをみて、ロッキー・マルシアーノは
「やるなら俺にしろ」
と進み出た。
2人は押し合い、次にジェリーが放った左パンチがロッキー・マルシアーノの鼻にヒット。
ロッキー・マルシアーノは葉っぱの上に倒れ、鼻血を出しながら立ち上がると両腕を上げて構えた。
しかしジェリーのパンチと動きは速く、防ぐことができない。
ジェリーは、強打を浴びせ続けたが、タフなロッキー・マルシアーノは倒れないため、動き回りながら
「ノロマ!」
となじった。
ロッキー・マルシアーノは、悔しさで涙を流したが、ジェリーが周りに何かいおうとして自分から目を離した一瞬、頭を低くしながら右のパンチを放った。
ジェリーは、顎を打たれてダウンした。

高校生になっても大リーガーに憧れているロッキー・マルシアーノは、野球部に入り、これまで通り、地区のチーム、教会のチームでもプレー。
熱心に練習しながら、自宅で懸垂をしたり、エキスパンダーを引き伸ばしたり、キャッチャーのしゃがんだ姿勢から重い椅子を頭上で上げ下ろししたり、
「秘密のトレーニング」
を行った。
高校2年生になるとアメリカンフットボール部の入団テストを受け、合格。
数少ない2年生レギュラーの1人になり、ボールを持って走ってもスピードがないため、すぐにタックルを受けたが、しがみつく相手を引きずりながら前進。
3年生になると他のチームでプレーしていることを理由に野球部のレギュラーから外されてしまう。
学校にいる意味を失ったロッキー・マルシアーノは、叔父のジョニーにトラックで仕事を運ぶ仕事があるといわれ、両親が反対する中、高校を辞め、メジャーリーグを目指しながら働くことを決意。
時給50セントで石炭をトラックに積んで各家庭に運ぶ仕事をし、数ヵ月後、より給料がよい飴工場へ転職。
さらに飲料工場、靴工場と渡り歩き、食堂の調理の仕事はつまみ食いをしすぎて解雇となって、ガス会社の建設作業員に。
この間、野球は地元のセミプロチームでプレーを続けた。

ロッキー・マルシアーノの高校在学中、1941年に日本軍が真珠湾を攻撃し、アメリカも第2次世界大戦に突入。
特需景気が起こり、ロッキー・マルシアーノは、ガス会社の建設作業員として飛行機の格納庫や工場の建設など給料の良い国の仕事に関わって恩恵を被った。
祖父、ルイージが死去した後、船積みセンターの建設が始まり、仕事が終わると急いで帰って野球にいくという順調な生活を人生を送っていたが、翌年の冬、19歳のロッキー・マルシアーノは徴兵されてしまった。
そして3月に工兵部隊に配属され、自分が建設にかわかった船積みセンター内にあったキャンプ施設へ送られた。
それからマサチューセッツ州ボストンの港湾防衛のための花崗岩でできた星形要塞、フォート・インディペンデンスへいって塹壕を掘ったり、器材を運搬したり、橋を建設する訓練。
やることはガス会社とほぼ同じで、給料もよかったが、野球ができず、自由も少なくフラストレーションが蓄積。
2ヵ月後、上等兵に昇進したが、17歳のときに初体験をして以来、1ヵ月に1度は女性と関係を持ってきたロッキー・マルシアーノは、7日間、無許可で離隊。
他の兵士にボストンで女性と一緒に歩いているところをみられて兵卒に降格させられたが、その後も女性に会うために抜け出た。

数ヵ月後、バージニア州のキャンプに第348工兵大隊所属A中隊の一員として配属され、チェサピーク湾で船への積み下ろしや上陸用舟艇に乗って訓練。
1ヵ月後、列車でカナダに向かい、7000人搭載の輸送船に乗り換え、大西洋に出たが、ドイツの潜水艦、Uボートの攻撃を避けるため、夜間、デッキでの喫煙は禁止。
7日後の夜、イギリスのリバプールに到着。
月明かりの中、ドイツ空軍の爆撃でボロボロになった建物の間を進み、ロッキー・マルシアーノは、初めて戦地を経験。
その後、列車とバスで海沿いのリゾート地、マンブルズに移動し、午前3時に就寝。
M1ライフルを持って1ヵ月間、訓練した後、キャンプ・マンセルトンへ移動。
本格的な訓練の後、夜になると仲間とパブに行き、リフレッシュ。
ときに口論となって、巨漢の炭鉱夫や198㎝のオーストラリア兵をKO。
スポーツが好きなロッキー・マルシアーノは、駅の近くにあった、ウェールズのヘビー級ボクサー、ジム・ワイルドのボクシングジムに通い始めた。
が、すぐに橋をつくる訓練中に右手親指を金づちで打たれて骨折し、ボクシングジム通いは中止
第348工兵大隊は、ヨーロッパで行われる攻撃作戦に参加する予定だと聞かされながら、物資の積み下ろし、小型船の乗り降り、地雷やガレキの撤去などの訓練を継続。
出発が近づき、南方の海岸、ウェイマスに移ると外出許可が禁止され、ノルマンディーに向かう船に荷物を積み込み続けた。

「ノルマンディー上陸作戦」は、イギリス軍、アメリカ軍を主力とする連合国軍が、イギリスを出発してドイツ占領下のフランス北部のビーチ、ノルマンディー海岸に上陸するというもので、作戦初日だけで約15万人、作戦全体で200万人が参加。
第348工兵大隊の仲間たちも次々にノルマンディーに発っていった。
ノルマンディー上陸作戦が始まった10日後、1944年6月15日、いよいよ戦地に送られるロッキー・マルシアーノは、
「最後に・・」
という気持ちで外出禁止の命令に背き、仲間1人とこっそり宿舎を抜け出て街へ。
バーで飲んでいると21時半、偶然、知り合いのイギリス人がやってきた。
イギリス人は飛行機会社の重役で、会社の従業員用の食堂に移動し、飲み始めた。
23時を過ぎ、イギリス人は飲み会を終わらそうとしたが、悪酔いしたロッキー・マルシアーノの仲間が拒否。
結局、イギリス人は、ロッキー・マルシアーノの仲間に数回殴られ、財布を奪われた。
ロッキー・マルシアーノは、イギリス人に謝罪し、仲間から財布を取り戻そうとしたができず、そのまま宿舎へ戻った。

翌日の午後、2人は手錠をかけられ、指紋を採取されて写真を撮られた後、軍刑務所に収監された。
約1ヵ月後、7月17日、軍法会議にかけられ、その日のうちに暴行と窃盗で有罪判決が下され、仲間は10年の重労働刑、ロッキー・マルシアーノは7年の重労働刑が宣告された。
1ヵ月後、ロッキー・マルシアーノは、オハイオ州チリコシーの連邦感化院(非行少年などを保護し教育するための福祉施設)で謹慎を命じられ、同時期、ドイツ軍を後退させて上陸に成功した連合軍がパリを解放した。
1944年8月に連合軍によってパリが解放された後、ロッキーマルシアーノは、刑を7年から3年に減らされて不名誉除隊となった。
11月、囚人として、船で10日間かけてアメリカに帰国。
12月、ニューヨークで健康診断を受け、インディアナ州の収容所へ。
年が明けて1945年5月、ドイツが降伏したことで恩赦があったが、ロッキー・マルシアーノは対象とならなかった。
収容されて1年3ヵ月後、1946年3月、肺炎になって12日間入院した後、収容所を出て、軍に復帰。
ワシントン州郊外の陸軍基地で数ヵ月間勤務した後、ブロックトンに一時帰宅した。

ブロックトンでは家族に歓迎され、母親のつくったスパゲティで満腹になり、旧友と会いにいった。
自分と同じく軍務の合間に帰郷していた4歳上の近所のお兄ちゃん、アリー・コロンボは、ロッキー・マルシアーノのアスリートとしての素質やストリートファイトの武勇伝を知っていたのでボクシングをやることを勧めた。
まだメジャーリーガーになることをあきらめていなかったロッキー・マルシアーノは、兵役よりもボクシングで稼ぐほうがいいかもしれないと思い、地元でボクシングの試合をプロモートしていたジーン・カッジャーノのもとへ。
35歳のジーン・カッジャーノは、元フェザー級のボクサーで、ロッキー・マルシアーノの体型とシャドーボクシングをさせると3分持たずに座り込む姿をみて
「戦える体ではない」
と思ったが、集客のために試合に出ることを許可。
「楽な相手を探して勝たしてやる」
といい、アマチュアの試合なので「経費」という名目で30ドルを払うことを約束した。
試合は、次の週の火曜日。
それまでロッキー・マルシアーノは家でゴロゴロし、母親のつくったイタリア料理にたっぷり食べ、友人と酒を飲み、タバコを吸って過ごした。
1946年4月16日の初試合の日の夜、親戚の家に寄って、マカロニパスタを食べて会場入り。
ウエイトは、97.5kg。
プロとして戦うようになってからよりも10㎏以上重かった。


試合会場の修道会ホールには、タバコの煙が充満し、たくさんの人が観戦していた。
この日のメインは、地元のバンタム級、ジョー・フェローリとニューイングランド地方チャンピオンのジョージ・コートの一戦。
その他にフェザー級のジョージ・マッキンリー、ヘビー級のロッキー・マルシアーノというブロックトン出身のボクサーが2人出場していて活躍を期待されていた。
ロッキー・マルシアーノの対戦相手は、マサチューセッツ州出身の新人のはずだったが、都合が悪くなって経験豊富な黒人ボクサー、ヘンリー・テッドに変更。
ロードアイランド州の州都、プロビデンスで黒人として初めてカトリック高校を卒業し、大学に進んだインテリで、188㎝、85㎏という見事な体格で、1年前に地方のアマチュア大会で準優勝していた。
対するロッキー・マルシアーノは、高校中退。
軍で6戦無敗という嘘の肩書をつけられたが、これがデビュー戦で、178cm、97.5kgという肥満体型。
試合は、4回戦(最長4ラウンドまで行われる)
開始のゴングが鳴るとロッキー・マルシアーノは、一直線に突進。
頭を下げてクロールのようなパンチを連発した後、足首付近からアッパー。
当たれば危険だったが、その大きなパンチはことごとくかわされ、空振りを繰り返したロッキー・マルシアーノは、すぐに疲弊し、ヘンリー・テッドの小さくて速いパンチを被弾。
2ラウンドが始まるとロッキー・マルシアーノは、ヨロヨロしながら接近し、KOパンチを狙った。
しかしラウンド途中、ロープ際で追い詰められ、連打されたとき、勝てないことを悟ると、ヘンリー・テッドの股間にヒザ蹴りを入れた。
レフリーは、ロッキー・マルシアーノを失格負けにした。

地元の声援を受けながら、絶対に負けたくなかったロッキー・マルシアーノは、知り合いには、
「足が滑って、偶然、膝が当たってしまった」
といいわけし、家族には
「どうすればよかったんだ?
負けろっていうのか」
と当たった。
ヘンリー・テッドは、この試合を最後にボクシングを引退し、原子力のエンジニアとなり、明るい未来を歩み出し、
「もう2度と人前で、あんな恥をかきたくない」
と痛感したロッキー・マルシアーノは、以後、トレーニングをせずに試合に出ることはなかった。
2人にとって、この試合は人生のターニングポイントとなった。


1946年5月、ワシントン州の基地に戻ったロッキー・マルシアーノは、それまでは野球チームに入ってファーストを守って試合に出場していたが、新たにボクシングチームに入った。
この基地のボクシングチームは強く、トップの4選手は、アマチュア大会である「ゴールデングローブ」で地元を勝ち抜いていていて、中でもフェザー級のサミー・ブテラは、105戦103勝100KOの猛者だった。
ゴールデングローブは、アメリカ最大のアマチュアボクシングの大会で、全米30カ所でトーナメントによる地方予選が行われ、勝ち上がればニューヨークで行われる全国大会に進出し、全米ナンバー1を決める。
ロッキー・マルシアーノは、タバコと酒をやめ、食べ物に気をつけて懸命に練習して減量。
サイのような体になって、夏までに5戦し、4勝3KO。
軍の新聞に自分の名前が載っているのをみて感動。
さらに同じワシントン州のタコマでスパーリングパートナーの求人広告を発見すると応募し、194㎝、102kgのビッグ・ビルに
「熊みたいだな」
といわれながら、恐れずに攻撃し、度胸をホメられた。

8月にオレゴン州で試合があり、同じ日に野球の試合もあったが、人生で初めて野球の試合を捨てて、ボクシングの試合に出場。
オレゴン大学で行われたAAU(アマチュア運動連合)の試合は、全国から100名以上が集まり、初日を勝ったロッキー・マルシアーノは、2日目にフレドリック・ロスを開始直後、右1発でKO。
あと2回勝てば、全米ジュニアAAUヘビー級チャンピオンだったが、次の日、再び右でロバート・ジャーヴィスをKOしたが、試合途中に左手の指を骨折。
上官に止められたが
「戦わせてくれ」
と頼み、2日後、決勝戦のリングに上がり、191㎝のジョー・ディアンジェリスと3Rを戦って判定負け。
翌日、ワシントン州の軍の病院に入院。
ボクサー生命を脅かすような重度の骨折だったが、日系アメリカ人の外科医、トム・タケタは、1週間、アイシングと牽引で腫れを引くのを待って、指にドリルを入れてステンレス製のピンで砕けた骨をつなぐ手術を行い、1ヵ月後の9月、レントゲン写真で拳が元通りになっていることが確認された。
12月、かつて不名誉除隊となったロッキー・マルシアーノは、名誉除隊となった。

23歳で兵役を終えたロッキー・マルシアーノは、ブロックトンへ帰り、年末を家族と過ごし、退役軍人として週20ドルの失業手当を受け取りながら、かつて試合を組んでもらった地元のプロモーター、ジーン・カッジャーノに声をかけ、地元のYMCでトレーニング。
1ヵ月後にはアマチュアボクシングのトーナメントに参加し、相手の攻撃を受けながら突進し、大きなパンチを振り回すという粗削りなスタイルで、

1月4日、ロン・スラッシャー KO勝ち
1月11日、ジム・コノリー KO勝ち

しかし1月17日、ボブ・ジラートに判定負けした上、左手の古傷が悪化。

4歳上の近所のお兄ちゃん、アリー・コロンボは、ブロックトンから160㎞離れた、同じマサチューセッツ州のホールヨークのボクシングプロモーターにロッキー・マルシアーノの試合を組むように依頼。
時給1ドルで側溝を掘る仕事を始めたばかりのロッキー・マルシアーノは、前座試合ながら報酬は50ドルといわれて歓喜。
食べ物に気をつけながら1日2度公園で走り、YMCAのジムで練習。
3月17日の月曜日、ガス会社の仕事を休んで列車でホールヨークに移動。
駅からアリー・コロンボの車に乗って、アリー・コロンボの友人の家に行き、ステーキとグリーンサラダを食べて、昼寝。
会場であるヴァレーアリーナに移動し、試合前の計量で対戦相手と初対面。
地元で働くヘビー級ボクサー、レス・エパーソンは、パワー、スピード、技術があり、将来を有望視されたプロ選手で、会場の観客からの人気も高かった。
一方、作業着姿で計量会場に入ったロッキー・マルシアーノは、これがプロデビュー戦だったが、試合を盛り上げるために17戦16勝という偽の戦績をつけられていた。
試合直前、アリー・コロンボがファイトマネーが50ドルであることを確認すると、プロモーターは、35ドルだといった。
プロの試合に出るためにマサチューセッツ州に15ドルを払ってでライセンスを申請し、ガス会社の給料を捨ててはるばるやってきたロッキー・マルシアーノは、それでは赤字になってしまうため、会場の声を聞こえる控室でプロモーターと交渉。
35ドルのファイトマネーは35ドルで、15ドルのライセンス料はプロモーターが払うということで落ち着いた。

レス・エパーソン vs ロッキー・マルシアーノは、第1試合に組まれていて、地元のヒーロー、レス・エパーソンがリングに上がると大きな歓声が上がったが、ロッキー・マルシアーノには、わずかな拍手だけ。
ゴングが鳴ると大ぶりのロッキー・マルシアーノの顔面にレス・エパーソンの左がヒット。
その後もロッキー・マルシアーノは、多くのパンチを空振りし、多くのパンチを浴びたが、とにかく前進。
2R、ロッキー・マルシアーノの強烈なボディが当たり、続いて顔面にもパンチがヒット。
3R、開始してすぐにロッキー・マルシアーノの右アッパーで
レス・エパーソンは倒れ、10カウントが数えられた。
ロッキー・マルシアーノは、腫れて膨らんだ顔で微笑んだ。
アリー・コロンボがファイトマネーを受け取りにいくと、係員に20ドルを渡されたので
「金額が違う」
といって突き返した。
すると係員は
「報酬は35ドルだが、そこからライセンス料15ドルを引いた」
アリー・コロンボは怒り、ロッカールームに戻ってロッキー・マルシアーノに説明。
するとロッキー・マルシアーノも激怒。
それをみてプロモーターは、警察に連絡。
2人の警官が来て
「帰ったほうが身のためだ」
といわれたので、アリー・コロンボが、
「20ドルを返してしまった」
というと
「受け取って帰れ」
といわれたので、係員のところへいって
「(プロモーターが)35ドルの支払いを認めた」
といって35ドルを受け取り、ロッカールームで警官と言い争うロッキー・マルシアーノをなだめ、そそくさと会場を後にした。
アリー・コロンボに35ドルを手に入れたといわれ、ロッキー・マルシアーノは笑顔になり、アリー・コロンボと、その友人と一緒にバーで祝勝会をして、35ドルのほとんどを使ってしまった。

ロッキー・マルシアーノは、プロボクサーとしてデビューした数週間後、仲良し3人組の1人、ユージン・シルベスターを含む3人の野球仲間と共に野球のトライアウトを受けるため、シカゴ・カブスの春季キャンプへ。
友人の車、1939年型ビュイックに乗って南下し、1泊。
そこからノンストップでシカゴ・カブスがキャンプを行っているノースカロライナ州ファイエットビルへ。
車を運転していた仲間は、他のチームのトライアウトを受けるために、ここで別れた。
テストは、最長で4週間にわたって行われるため、3人は、食事つきで50セントの下宿をシェアし、意気込むロッキー・マルシアーノは、ベッドの上で激しくトレーニングしてベッドを壊してしまった。
ロッキー・マルシアーノは、バッティングは抜群だったが、走塁が遅く、守備では、13人がテストを受け、4人が採用されるキャッチャーのポジションに入ったが、
「肩が弱い」
といわれ、続いてファーストに入ったが、ゴロを捕り損なって、走ってきたバッターに
「拾えよ」
といわれた瞬間、その顔面にパンチを入れた。
辺りに血が飛び散らせ、相手をプレー不能に追い込み、改めて打撃力が抜群であることを示したが、トライアウト3週目に2人の仲間と一緒に落とされ、ピッチャーのユージン・シルベスターだけが残った。
ロッキー・マルシアーノは、落ちた仲間と一緒に同じノースカロライナ州のDクラスのマイナーチームのテストを受けたが2人とも選外。
さらに南下し、ジョージア州の昼は仕事、夜は野球というチームのトライアウトを受けたが、数日後、帰るようにいわれた。
2人はヒットハイクでシカゴ・カブスのキャンプ地まで戻り、帰りの交通費出してもらい、北行きの列車に乗っった。

4月にメジャーリーガーになる夢を失ってブロックトンに戻ったロッキー・マルシアーノは、5月にジーン・カッジャーノからボクシングの試合に出てくれと頼まれた。
それはアマチュアの試合だったので、ロッキー・マルシアーノは、数ヵ月前にプロで試合を行い、もうアマチュアとして戦う資格がないことを伝えた。
しかしジーン・カッジャーノは、
「知りたくない」
といい、「経費」としてできるだけ多く支払うと約束。
ロッキー・マルシアーノは、ガス会社の仕事で側溝を掘りながら、YMCAでジーン・カッジャーノと練習。
この頃、ブロックトンの警官の1人娘、バーバラと出会い、交際をスタート。
仕事、ボクシングの練習に加え、デートもしながら、5月30日の試合で勝利すると、翌年2月に行われるアマチュアトーナメント、ゴールデングローブに出ることを決意。
バーバラは、ロッキー・マルシアーノよりも5歳下の19歳。
背が高く、高校時代は水泳部で市営プールでライフガードのアルバイトをし、大人になると両親と暮らしながら電話交換手の仕事をしていた。
バーバラは、プロレス観戦が好きというオテンバ娘で、ボクシングに対しても肯定的だったが、ロッキー・マルシアーノの母親は、
「よそ様の息子さんを傷つけるような残酷なスポーツはしてほしくない」
「医者か弁護士になってほしい」
「(勉強が嫌いだから向いていないというと)歌手かダンサーになったら?」
といってボクシングをやることに反対。
1度もロッキー・マルシアーノの試合を観たり、ラジオで聴くことは絶対にせず、試合中は教会で祈り、息子が家に帰ってくるとシャツをめくって傷がないか確認した。
父親は、母親を刺激しないようにしながら密かに長男を応援し、軍務を終えてブロックトンに帰ってきたアリー・コロンボも、ロッキー・マルシアーノをサポートした。

1948年2月9日、ゴールデングローブは、ブロックトンから80㎞離れたマサチューセッツ州北部、ローウェルで行われ、ロッキー・マルシアーノは4000人の観客の前でチャールズ・モーティマを3Rに左ボディーから右アッパーでKO。
準決勝の相手は、メイン州のチャンピオンだったが、妻の出産のために試合をキャンセルしたため、不戦勝。
決勝戦の相手は、ニューハンプシャー州チャンピオンのジョージ・マキニス。
身長190㎝の8戦連続KO中と勢いがあるマキニスは、ゴングが鳴るとすぐに攻勢に出て、ロッキー・マルシアーノも応戦。
1Rから激しい打ち合いになって観客は沸く中、ロッキー・マルシアーノの左ジャブでジョージ・マキニスは右目の上のカットし、出血。
ロッキー・マルシアーノは、同じ場所にジャブを5連発し、後退するマキニスにトドメの右。
レフリーが割って入り、傷を確認を試合をストップ。
1R、2分11秒、TKO勝ちとなったロッキー・マルシアーノは、3月にニューヨークで行われる東部ゴールデングローブ大会、そして4月に行われるAAU(アマチュア運動連合)の大会に出場することが決定。
もしこれらの全国大会で勝てば、夏に行われるオリンピックのアメリカ代表になれた。
しかしロッキー・マルシアーノは、ジーン・カッジャーノに
「金を稼げないからプロに転向したい」
と相談。
結局、春のAAUの大会の後、プロになることにした。

2月28日、ジーン・カッジャーノは契約書を作成。
プロになった後、ジーン・カッジャーノがマネージャーになって収益の1/3をもらうという内容だったが、ロッキー・マルシアーノは、サイン。
翌3月1日、他の階級の代表選手6人と一緒に特急列車に乗って、東部ゴールデングローブ大会が行われるニューヨークに出発。
ブルックリンのホテルに泊まり、翌日の午後、リッジウッドグローブアリーナで、優勝候補のコーリー・ウォレスと対戦。
コーリー・ウォレスは、まだ20歳ながら洗練されたボクシングでKOを重ね、「次なるジョージ・ルイス」と期待されている黒人だったが、24歳のロッキー・マルシアーノは、攻撃的なボクシングでウォレスのボディを連打し、観客を総立ちにさせた。
コーリー・ウォレスは、距離を取って戦うようになり、被弾は防いだが、ロッキー・マルシアーノにダメージを与えることができない。
最終3ラウンドは、ロッキー・マルシアーノがロープ際でコーリー・ウォレスに強打を食らわせたところで終了。
判定は割れたが、コーリー・ウォレスが勝利。
するとブーイングが起こり、リングにモノが投げ込まれ、ロープ際まで詰め寄る者も出て、騒動は15分以上続いた。
(コーリー・ウォレスは、トーナメントを勝ち抜いてゴールデングローブの全米ヘビー級チャンピオンとなり、その後、プロボクサーになった)

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