ロッキー・マルシアーノ 24歳で本格的にボクシングを始めるまで

ロッキー・マルシアーノ 24歳で本格的にボクシングを始めるまで

179㎝、84㎏。スピードも、テクニックもなく、不屈のブルドーザーのように突進するファイトスタイルで49戦49勝43KO、引き分けさえない全勝無敗のパーフェクトレコードを持つ世界ヘビー級チャンピオン。


レス・エパーソン vs ロッキー・マルシアーノは、第1試合に組まれていて、地元のヒーロー、レス・エパーソンがリングに上がると大きな歓声が上がったが、ロッキー・マルシアーノには、わずかな拍手だけ。
ゴングが鳴ると大ぶりのロッキー・マルシアーノの顔面にレス・エパーソンの左がヒット。
その後もロッキー・マルシアーノは、多くのパンチを空振りし、多くのパンチを浴びたが、とにかく前進。
2R、ロッキー・マルシアーノの強烈なボディが当たり、続いて顔面にもパンチがヒット。
3R、開始してすぐにロッキー・マルシアーノの右アッパーで
レス・エパーソンは倒れ、10カウントが数えられた。
ロッキー・マルシアーノは、腫れて膨らんだ顔で微笑んだ。
アリー・コロンボがファイトマネーを受け取りにいくと、係員に20ドルを渡されたので
「金額が違う」
といって突き返した。
すると係員は
「報酬は35ドルだが、そこからライセンス料15ドルを引いた」
アリー・コロンボは怒り、ロッカールームに戻ってロッキー・マルシアーノに説明。
するとロッキー・マルシアーノも激怒。
それをみてプロモーターは、警察に連絡。
2人の警官が来て
「帰ったほうが身のためだ」
といわれたので、アリー・コロンボが、
「20ドルを返してしまった」
というと
「受け取って帰れ」
といわれたので、係員のところへいって
「(プロモーターが)35ドルの支払いを認めた」
といって35ドルを受け取り、ロッカールームで警官と言い争うロッキー・マルシアーノをなだめ、そそくさと会場を後にした。
アリー・コロンボに35ドルを手に入れたといわれ、ロッキー・マルシアーノは笑顔になり、アリー・コロンボと、その友人と一緒にバーで祝勝会をして、35ドルのほとんどを使ってしまった。

ロッキー・マルシアーノは、プロボクサーとしてデビューした数週間後、仲良し3人組の1人、ユージン・シルベスターを含む3人の野球仲間と共に野球のトライアウトを受けるため、シカゴ・カブスの春季キャンプへ。
友人の車、1939年型ビュイックに乗って南下し、1泊。
そこからノンストップでシカゴ・カブスがキャンプを行っているノースカロライナ州ファイエットビルへ。
車を運転していた仲間は、他のチームのトライアウトを受けるために、ここで別れた。
テストは、最長で4週間にわたって行われるため、3人は、食事つきで50セントの下宿をシェアし、意気込むロッキー・マルシアーノは、ベッドの上で激しくトレーニングしてベッドを壊してしまった。
ロッキー・マルシアーノは、バッティングは抜群だったが、走塁が遅く、守備では、13人がテストを受け、4人が採用されるキャッチャーのポジションに入ったが、
「肩が弱い」
といわれ、続いてファーストに入ったが、ゴロを捕り損なって、走ってきたバッターに
「拾えよ」
といわれた瞬間、その顔面にパンチを入れた。
辺りに血が飛び散らせ、相手をプレー不能に追い込み、改めて打撃力が抜群であることを示したが、トライアウト3週目に2人の仲間と一緒に落とされ、ピッチャーのユージン・シルベスターだけが残った。
ロッキー・マルシアーノは、落ちた仲間と一緒に同じノースカロライナ州のDクラスのマイナーチームのテストを受けたが2人とも選外。
さらに南下し、ジョージア州の昼は仕事、夜は野球というチームのトライアウトを受けたが、数日後、帰るようにいわれた。
2人はヒットハイクでシカゴ・カブスのキャンプ地まで戻り、帰りの交通費出してもらい、北行きの列車に乗っった。

4月にメジャーリーガーになる夢を失ってブロックトンに戻ったロッキー・マルシアーノは、5月にジーン・カッジャーノからボクシングの試合に出てくれと頼まれた。
それはアマチュアの試合だったので、ロッキー・マルシアーノは、数ヵ月前にプロで試合を行い、もうアマチュアとして戦う資格がないことを伝えた。
しかしジーン・カッジャーノは、
「知りたくない」
といい、「経費」としてできるだけ多く支払うと約束。
ロッキー・マルシアーノは、ガス会社の仕事で側溝を掘りながら、YMCAでジーン・カッジャーノと練習。
この頃、ブロックトンの警官の1人娘、バーバラと出会い、交際をスタート。
仕事、ボクシングの練習に加え、デートもしながら、5月30日の試合で勝利すると、翌年2月に行われるアマチュアトーナメント、ゴールデングローブに出ることを決意。
バーバラは、ロッキー・マルシアーノよりも5歳下の19歳。
背が高く、高校時代は水泳部で市営プールでライフガードのアルバイトをし、大人になると両親と暮らしながら電話交換手の仕事をしていた。
バーバラは、プロレス観戦が好きというオテンバ娘で、ボクシングに対しても肯定的だったが、ロッキー・マルシアーノの母親は、
「よそ様の息子さんを傷つけるような残酷なスポーツはしてほしくない」
「医者か弁護士になってほしい」
「(勉強が嫌いだから向いていないというと)歌手かダンサーになったら?」
といってボクシングをやることに反対。
1度もロッキー・マルシアーノの試合を観たり、ラジオで聴くことは絶対にせず、試合中は教会で祈り、息子が家に帰ってくるとシャツをめくって傷がないか確認した。
父親は、母親を刺激しないようにしながら密かに長男を応援し、軍務を終えてブロックトンに帰ってきたアリー・コロンボも、ロッキー・マルシアーノをサポートした。

1948年2月9日、ゴールデングローブは、ブロックトンから80㎞離れたマサチューセッツ州北部、ローウェルで行われ、ロッキー・マルシアーノは4000人の観客の前でチャールズ・モーティマを3Rに左ボディーから右アッパーでKO。
準決勝の相手は、メイン州のチャンピオンだったが、妻の出産のために試合をキャンセルしたため、不戦勝。
決勝戦の相手は、ニューハンプシャー州チャンピオンのジョージ・マキニス。
身長190㎝の8戦連続KO中と勢いがあるマキニスは、ゴングが鳴るとすぐに攻勢に出て、ロッキー・マルシアーノも応戦。
1Rから激しい打ち合いになって観客は沸く中、ロッキー・マルシアーノの左ジャブでジョージ・マキニスは右目の上のカットし、出血。
ロッキー・マルシアーノは、同じ場所にジャブを5連発し、後退するマキニスにトドメの右。
レフリーが割って入り、傷を確認を試合をストップ。
1R、2分11秒、TKO勝ちとなったロッキー・マルシアーノは、3月にニューヨークで行われる東部ゴールデングローブ大会、そして4月に行われるAAU(アマチュア運動連合)の大会に出場することが決定。
もしこれらの全国大会で勝てば、夏に行われるオリンピックのアメリカ代表になれた。
しかしロッキー・マルシアーノは、ジーン・カッジャーノに
「金を稼げないからプロに転向したい」
と相談。
結局、春のAAUの大会の後、プロになることにした。

2月28日、ジーン・カッジャーノは契約書を作成。
プロになった後、ジーン・カッジャーノがマネージャーになって収益の1/3をもらうという内容だったが、ロッキー・マルシアーノは、サイン。
翌3月1日、他の階級の代表選手6人と一緒に特急列車に乗って、東部ゴールデングローブ大会が行われるニューヨークに出発。
ブルックリンのホテルに泊まり、翌日の午後、リッジウッドグローブアリーナで、優勝候補のコーリー・ウォレスと対戦。
コーリー・ウォレスは、まだ20歳ながら洗練されたボクシングでKOを重ね、「次なるジョージ・ルイス」と期待されている黒人だったが、24歳のロッキー・マルシアーノは、攻撃的なボクシングでウォレスのボディを連打し、観客を総立ちにさせた。
コーリー・ウォレスは、距離を取って戦うようになり、被弾は防いだが、ロッキー・マルシアーノにダメージを与えることができない。
最終3ラウンドは、ロッキー・マルシアーノがロープ際でコーリー・ウォレスに強打を食らわせたところで終了。
判定は割れたが、コーリー・ウォレスが勝利。
するとブーイングが起こり、リングにモノが投げ込まれ、ロープ際まで詰め寄る者も出て、騒動は15分以上続いた。
(コーリー・ウォレスは、トーナメントを勝ち抜いてゴールデングローブの全米ヘビー級チャンピオンとなり、その後、プロボクサーになった)


ブロックトンに帰ったロッキー・マルシアーノは、2週間後、ジーン・カッジャーノが主催するボクシングの試合に出場。
ジーン・カッジャーノに収益の10%を支払うといわれ、アリー・コロンボと一緒に1枚1ドル25セントのチケットを600枚売り、イス並べなどの設営も手伝い、試合は、1ラウンドKO勝ちで盛り上げた。
しかし試合後、ジーン・カッジャーノから40ドルを渡され、100ドルはもらえると思っていたロッキー・マルシアーノは激怒し、40ドルを突き返した。
1週間後、AAUの大会に出るためにアメリカ北東部のニューイングランドに移動。
するとジーン・カッジャーノがやってきて、セコンドをやらせてくれといったので、ロッキー・マルシアーノは、許可。
準決勝でフレッド・フィッシュラを2ラウンドでKOしたが、そのときに古傷がある左拳を痛めてしまう。
それでもその日の夜に行われた決勝戦に強行出場し、1ヵ月前にKO勝ちしているジョージ・マキニスに右手1本で2度ダウンを奪って判定勝ち。
この勝利でAAUの全国大会への出場権を獲得。
そこでもし優勝すれば、夏のオリンピック出場も夢ではなくなる。
しかしグローブを外すと左手の親指が2倍ほどに腫れていた。
医師は骨折と診断し、ギブスを装着した。

医師に4~6週間は使うことができないといわれたロッキー・マルシアーノは、AAUの全国大会出場を断念。
さらにガス会社に出社すると
「こんな状態じゃ、お前は使えない」
といわれてクビになり、通院していると高校時代のアメリカンフットボール部の監督の妻が看護師をしていて
「なんのためにボクサーをしてるの?」
といわれた。
数ヵ月後には25歳になるロッキー・マルシアーノは、仕事もスポーツもトレーニングもできず、フラストレーションを溜めた。
ある日の深夜、友人とブロックトンのレストランにいると隣のテーブルから酔った2人の海兵にからまれ、最初は我慢していたが、友人が
「オカマ野郎」
といわれた瞬間、左手にギブスをはめたまま、右手で1人の顔面を殴ってノックアウト。
逃げた1人を追って、路上で倒すと、レストランに戻ったが、そのとき友人によると
「ロッキーは、明らかに元気になっていた」

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1948年3月にガス会社を解雇されたロッキー・マルシアーノのために、本人、アリー・コロンボ、父親、叔父のジョニー、警官であるバーバラの父親、そしてマックス・シュメリングと戦ったことのある元ヘビー級ボクサーでブロックトンでビールを売っているジョー・モンテが集まって会議を行った。
ジョー・モンテは、プロボクシングの世界は、実力や才能と同じくらいコネクションがモノをいうと説明し、ロッキー・マルシアーノにニューヨークへ行くことを勧め、まだ荒削りなボクシングに磨きをかけるトレーナーと大きな試合を獲ることができるマネージャーが必要だといった。
アリー・コロンボは、AAUの試合会場でエディ・ポランドというトレーナーに出会い、ジョー・モンテ同様、ロッキー・マルシアーノはニューヨークに行くべきだといわれ、数名のマネージャーの名前を教えてもらっていた。
その中に、アル・ワイルがいた。
ルー・アンバースをライト級チャンピオンに導き、チリのヘビー級ボクサー、アルトゥーロ・ゴドイを2度、ヘビー級チャンピオンであるジョー・ルイスに挑戦させ、「マネージャー・オブ・ザ・イヤー」に選出されていた敏腕マネージャーだった。
5月、アリー・コロンボは「ザ・リング:レコードブック&ボクシング百科事典(The Ring Record Book and Boxing Encyclopedia)」で、アル・ワイルの住所を調べ、手紙を書いた。
6月、ロッキー・マルシアーノとアリー・コロンボが野球の試合をしていると、アリー・コロンボの妹が走ってきて、アル・ワイルから長距離電話がかかってきているといった。
キャッチャーをしていたアリー・コロンボはスネ当てをしたまま、走って家に帰り、受話器を取ると
「君のボクサーを連れてニューヨークに来れるか?」
といわれた。

アル・ワイルは、フランスで生まれ、13歳でアメリカに移住。
1年後、父親は帰国したが、1人残り、多くのダンスコンテストに出場して賞金を獲得。
プロのダンサーとして活躍しながら、ダンスイベントのプロモートを行うようになった。
アンディ・ブラウンというボクサーとルームシェアしているとき、セコンドを頼まれ、何も知らないままコーナーにつき、そこでボクシングの魅力にハマってしまう。
ボクシングの試合とダンス大会が同じ場所で行われることが多く、たくさんのボクサーや関係者と知り合いになったアル・ワイルは、ボクサーのマネージメントを始め、1916年に初めてニューヨークに来た「拳聖」ジャック・デンプシーの試合も観に行った。
13人兄弟姉妹の9番目に生まれたジャック・デンプシーは、16歳で家を出て、貨物列車の無賃乗車と野宿で各地を放浪しながら、酒場で相手を募って、金を賭けてケンカ。
ボクシングを始めて2年後、初めてニューヨークに来たジャック・デンプシーは金がなく、試合前夜、公園で寝て、アル・ワイルの観ている前でジョン・レスター・ジョンソンと10ラウンドを戦い、肋骨を3本折りながら引き分けた。
(そして3年後、世界ヘビー級タイトルに王座に初挑戦。
相手は、黒人初の世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・ジョンソンを破った身長2mのジェス・ウィラード。
185㎝のジャック・デンプシーは、1Rに7度のダウンを奪い、ジェス・ウィラードは、顎、頬、歯、肋骨を折られて、4R開始に応じられず、TKO負け。
「トレドの惨劇」と呼ばれた)
ジャック・デンプシーがニューヨークにやってきた年、波止場でカーニバルがあり、アル・ワイルは、「ハイストライカー」というゲームを出店。
1回10セントで重りを高く投げるという力試しのゲームで、
「彼女に力を証明してみろ」
などといいながら客引きしていたが、このときルーレットゲームの屋台をしていたチャーリー・ゴールドマンに出会った。

アル・ワイルより5歳上のチャーリー・ゴールドマンは、元ボクサー。
ポーランドの首都、ワルシャワで生まれ、幼少期にニューヨークのブルックリンに移住。
治安が悪い街で自然と拳の使い方を学び、小学校4年生のときに学校で教師に殴られて、殴り返した後、教室を飛び出し、学校教育を終了。
バンタム級とフェザー級で世界チャンピオンになったハードパンチャー、テリー・マクガヴァンがトレーニングするジムが新たな教室になった。
1900年代初頭、ボクシングの試合は、野蛮な見世物として行うことが禁止されていたため、人目のつかない倉庫や空き地、酒場の奥やダンスホール、会員制のクラブなどで密かに行われていた。
そんな中でチャーリ・ゴールドマンは、16歳のときに、155㎝、48㎏の小さな体でデビュー戦を行った。
場所は、ブルックリンの酒場で、相手のエディ・ガードナーは、10歳以上も上。
どちらかが立たなくなるまで続けるというルールの下、3時間以上殴り合い、第42ラウンドに突入したとき、警官が入ってきたため、チャーリー・ゴールドマンは観客と一緒に逃亡。
試合の主催者も消えてしまい、ファイトマネーをもらい損ねたチャーリー・ゴールドマンは
「警察に漏らしたのはアイツだ」
と思った。
この後、バンタム級で400戦以上戦い、何度も手と指を骨折して変形し、耳もカリフラワーのようになったチャーリー・ゴールドマンは、ボクシングを始めて8年間後、初めて世界タイトルマッチに挑み、判定負け。
そしてボクシングを始めて10年後、26歳で選手を引退し、トレーナーになった。
直後、教え子のアル・マッコイが世界チャンピオンのジョージ・チップに挑戦。
チャーリー・ゴールドマンに
「右で誘っておいて腹に左を打ち込め」
と指示されたアル・マッコイは、1R45秒でKO勝ちし、時番狂わせで世界ミドル級チャンピオンとなった。

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