カーニバルで2人が出会った3年後、ボクシングが合法化されるとアル・ワイルは、すぐにセコンドとマネージャーのライセンスを取得。
ジャック・デンプシーが所属していた名門、スティルマンズジムで次々とスター選手を誕生させた後、同じニューヨークにあるCYOジムに移籍してボクサーたちを指導をしていたチャーリー・ゴールドマンに
「パートナーになろう」
といった。
チャーリー・ゴールドマンは、
「人が良くて、やり手で、とても聡明」
と思っていたアル・ワイルの提案に合意。
2人は、ビルの一室を貸り、
「ワイル&ゴールドマン ボクシングマネージャーズ」
という看板を掲げた。
アル・ワイルは、ボクサーのマネージメントとマッチメイクを担当。
ボクサーたちを家族と考え、溺愛する一方で、支配的になったり、ビジネスに徹することもあって
「暴君」
と呼ばれることもあったが、刺激的な試合を組んで興行を大成功させ、ボクシング界屈指のマネージャー兼マッチメイカーになった。
チャーリー・ゴールドマンは、トレーナーに専念し、アル・ワイルが送ってくるボクサーを教え、次々にチャンピオンを輩出。
タイトル戦の翌日でさえ、必ずジムに顔を出して練習を行う職人肌で、身につけている貴金属は父親からもらった金の指輪だけ。
代わりにいつも湿布、ワセリン、気つけ薬、テーピング、ハサミ、綿棒などの商売道具を黒いバッグに入れて持ち歩いていたが、そのバッグはボクサーから感謝の印にプレゼンとされたものだった。
「1番好きなことは未熟者が成長していくのを目にすること。
それはまるで片方のポケットに25セント硬貨を入れると、もう片方から1ドルが出てくるようなもの」
というチャーリー・ゴールドマンは、選手の弱点を手帳に書き、忍耐強く、修正していった。
そんな師匠の姿をみながら一緒に仕事をしていた若手トレーナー、アンジェロ・ダンディ-は、後にモハメド・アリのトレーナーになった。
アル・ワイルから電話をもらった数日後、ロッキーマルシアーノとアリー・コロンボは、ニューヨークへ向かった。
55歳のアル・ワイルのオフィスは、電話がひっきりなしに鳴り、スタッフが対応していた。
ソファーで対峙したアル・ワイルは、背が低く、2重アゴの肥満体にチョッキを着ていて、ベッコウのメガネをかけていた。
「お前は戦えるといったのは誰だ?」
ロッキー・マルシアーノをみながらズケズケというアル・ワイルに、アリー・コロンボは
「彼は出た試合の全部で勝っています」
「アマチュアで何試合やったんだ?」
「12戦くらいです」
「パンチは打てるのか?」
「それはもう」
「右手だけ?」
「いえ両方です
彼は両方の手でパンチが打てます」
するとアル・ワイルは、電話をかけ始めた。
「チャーリー、新しい若者が来てるんだ。
ヘビー級だ。
誰か相手を用意してくれ。
何ラウンドかみてみたい。
エッ、誰もいない?
ゴドイはいるか?
・・・・・
じゃあゴドイにちょっと待っててほしいと伝えてくれ。
コイツの動きをみたいんだ」
ゴドイとは、世界ヘビー級チャンピオンであるジョー・ルイスに2度挑戦(それぞれ15R判定負け、8RTKO負け)した、チリ出身の白人ボクサー、アルトゥーロ・ゴドイ。
アル・ワイルと一緒にタクシーでチャーリー・ゴールドマンのジムへ向かうとき、ロッキー・マルシアーノは、
「あのゴドイとやるのか!?」
と思うと興奮し、心臓はバクバクしていた。
ジムに着くとボクサーたちが縄跳びをしたり、シャドーボクシングをしたり、サンドバッグを打ったり、スピードボールを打ったり、リングでスパーリングをしていて活気に満ちていた。
その中心にいたのが、年齢60歳、身長155㎝、ダービーハット(山高帽)をかぶり、角縁の眼鏡をかけたチャーリー・ゴールドマンだった。
ロッキー・マルシアーノにサンドバッグを打たせて、
「両足は開きすぎ、頭は高すぎ、両腕も開きすぎ。
パンチを打つのではなく、襲いかかっている」
と思ったチャーリー・ゴールドマンは、アルトゥーロ・ゴドイとスパーリングをさせず、翌日、また来るように告げた。
その日、ロッキー・マルシアーノとアリー・コロンボは、ホテルに宿泊。
翌日、ジムへ行くと、アル・ワイルとアルトゥーロ・ゴドイがいた。
しかしチャーリー・ゴールドマンは、ウエイド・チャンシーとスパーリングするように指示。
ゴドイのスパーリングパートナーで、すでにプロで12戦していて、ジョー・ルイスの試合の前座を務めたことのある有望選手だった。
スパーリングが始まるとロッキー・マルシアーノは、前進して大きなパンチを振り回したが、ことごとくかわされ、反対にジャブをもらった。
チャーリー・ゴールドマンは、
「腕の振りが遅すぎる」
「フットワークがムチャクチャ」
「左ジャブは手のひらが上を向いている」
と気がついたことを手帳にメモ。
顔面に飛んでくるパンチは両腕を上げてディフェンスするが、ボディへのパンチは、まったくガードしないロッキー・マルシアーノが連打をもらったところで、不思議に思ったチャーリー・ゴールドマンは、スパーリングをストップ。
ボディをガードしない理由を聞き、ロッキー・マルシアーノに、
「顔が傷ついて母傷にみられるとボクシングを辞めさせられてしまうから、相手が疲れるまで殴らせておけと・・・」
といわれると大笑いした。
2R、ウエイド・チャンシーのガードが下がった瞬間、ロッキー・マルシアーノの右が顎の炸裂。
ウエイド・チャンシーがロープまでよろめくと、アル・ワイルが、
「倒せ!
倒すところを見せてくれ!!」
と叫んだが、チャーリー・ゴールドマンは、スパーリングを終わらせた。
誰もがロッキー・マルシアーノの大ぶりの右フックをラッキーパンチだと思ったが、チャーリー・ゴールドマンだけは、
「稲妻のようなパンチだった。
技術を教えることはできるが、あんなパンチを身につけさせることはできない」
と肯定的に評価した。
アル・ワイルとチャーリー・ゴールドマンは話し合い、
「置いておこう」
「何の損はないからな」
ということになった。
ロッキー・マルシアーノがプロボクサーとして成功できるか聞くとチャーリー・ゴールドマンは、
「簡単なことじゃない。
大変だよ。
やらなければいけないことはたくさんあって、犠牲もたくさんあって、たくさん殴られる。
だが君はやっていけるんじゃないかと思う。
君は強くて熱心だ。
戦うことが好きだとわかる。
好きじゃなきゃ、この世界に住んでいられない」
オフィスに戻るとアル・ワイルは
「すべてチャーリーのいう通りにするんだ。
それから何試合か4回戦を手配してやる」
といい、さらに
「マー・ブラウンの下宿に住んでゴールドマンとトレーニングすればいい」
といった。
チャーリー・ゴールドマンは、マー・ブラウンという気難しい高齢女性が経営するアパートに妻と一緒に暮らしていて、何人かのボクサーも同じアパートに住んでいた。
ロッキー・マルシアーノが、
「自分の稼ぎの10%をアリーに渡したい」
というと、アル・ワイルは、
「なんだと?
お前、誰に言ってるんだ?
お前は、まだ金をもらうのにふさわしいことはなにもしていない」
と激怒。
アリー・コロンボが
「ロッキーには仕事がなく、ニューヨークで暮らす金がないんです」
というと、アル・ワイルは
「それは残念だ」
といった後、少し考えてから、
「ロードアイランド州のプロビデンスはブロックトンから近いか?」
と聞き、それほど離れていない(約48㎞)ことがわかると
「家に戻ってトレーニングし、準備ができたら俺に知らせろ。
プロビデンスで試合を手配するから」
といった。
話しが終わり、ロッキー・マルシアーノが帰るためにエレベーターで降りようとすると、アル・ワイルは、
「おい、戻ってこい」
といって、20ドルを渡した。
内心、アル・ワイルの態度に怒っていたロッキー・マルシアーノは、お礼をいって受け取り、アリー・コロンボと一緒に昼食。
そして別のマネージャーに会った。
ジャック・マーティンは、元マサチューセッツ州知事の息子でヘビー級ボクサーのピーター・フラーのマネージャーを務めていて、2人の話を聞いて、
「アル・ワイルと契約にサインした?」
と聞いた。
「してない」
「俺といくらで契約したい?」
アリー・コロンボが
「1000ドル」
というとマーティンは、
「OK。
明日、電話する」
といった。
しかしジャック・マーティンから電話はかかってこず、ロッキー・マルシアーノとアリー・コロンボは、ブロックトンに帰った。
ロッキー・マルシアーノは、ブロックトンに戻ると、すぐにトレーニングを開始。
毎朝、ボクシング経験のないアリー・コロンボと一緒に走り、ボクシングをやったことのない友人、トニー・タルタリアとスパーリング。
週1日は休んでバーバラと過ごしたが、22時には別れ、22時半には就寝。
数週間後、プロビデンスでの試合が1948年7月12日に決まった。
試合前日、母親は、改めてボクサーになることを反対。
ロッキー・マルシアーノが
「ケガをしないようにする」
というと、母親は
「帰ってきたら体をチェックする」
といった。
試合当日の午後過ぎ、ロッキー・マルシアーノ、アリー・コロンボ、トニー・タルタリアはプロビデンスに到着。
計量の後、トニー・タルタリアの妹がプロビデンスに住んでいたので、ロッキー・マルシアーノは、そこで昼寝をして、ステーキを食べて出陣。
セコンドの2人がボクシングの経験がなかったため、バンテージは、他の選手のセコンドに巻いてもらった。
この日は5試合が行われ、メインはキューバのフェザー級チャンピオンで世界ランキング3位のミゲル・アセペドとブロックトンのボクサー、テディ・トップの10回戦(最大10ラウンドまで行う)
ロッキー・マルシアーノの出番は、第1試合。
試合は4回戦で行われ、相手は、3歳下の21歳、1年前に世界ライトヘビー級チャンピオンになったハリー・ビラザリアンだった。
20時半、1ドル25セントの自由席、3ドル50セントのリングサイド席に、まだ客がまばらな中、リングへ。
相手を格下とみなしたハリー・ビラザリアンは、ゴングが鳴ると猛然と襲いかかったが、ロッキー・マルシアーノは、それをかわし、ボディに数発入れた後、右を顔面に叩きこんでダウンを奪った。
。
相手がカウント9で立ち上がってくるとラッシュ。
右が炸裂すると、ハリー・ビラザリアンは背中から倒れて転がり、うつ伏せに。
レフリーは、カウントを数えずに試合をストップ。
1分32秒、TKO勝ちしたロッキー・マルシアーノは、40ドルを受け取り、母親のチェックも無事にパスした。
1週間後、再び、プロビデンスのリングに立って、ジョン・エドワーズをわずか1R、1分19秒、右でKO。
7月12日、7月19日と2連続で1RKO勝ちしたロッキー・マルシアーノは、8月9日にボビー・クインと対戦。
15勝0敗14KO、経験で優るボビー・クインは、2Rまで試合を支配し、ロッキー・マルシアーノは一方的に打たれた。
しかし3R、攻めてくるボビー・クインの側頭部に膝の辺りから放った大きな右がヒットし、3R 23秒、KO勝ち。
2週間後の8月23日、25勝0敗23KOのエディ・ロスと対戦。
1R 1分3秒、ロッキー・マルシアーノの右でエディ・ロスは、マウスピースをリング外に飛ばし、リングに倒れる前に気を失った。
これでロッキー・マルシアーノは、4連続KO勝ち。
体が小さく、動きはぎこちなく、よくパンチをもらうが、パンチを当たれば、それですべて片がつくという一撃必殺の豪快なボクシングで観客を興奮させた。
ロビデンスのプロモーターは、1度も試合を観に来ないアル・ワイルに、
「ジャック・デンプシーやジョー・ルイスよりもパンチ力がある」
と伝えた。
ロッキー・マルシアーノが4連続でKO勝ちし、40ドルの賞金を4回もらった後、アマチュア時代のマネージャーであるジーン・カッジャーノは、電話をかけ、自分がマネージャーであり、収益の1/3をもらうという権利がある主張。
しかし以前に報酬をごまかされたときからジーン・カッジャーノを信用していないロッキー・マルシアーノは、
「そんなこと知ったことか。
今度お前を見かけたら1発食らわせてやる」
といってハッキリと拒否。
するとジーン・カッジャーノは、契約違反と脅迫でロッキー・マルシアーノを訴え、この件が解決するまでロッキー・マルシアーノが試合に出られないようにする禁止命令を求めた。
裁判所は、その要求は退けたが、裁判は続行した。