イベンダー・ホリフィールド  戦慄の忍耐力 オリンピック の悲劇  そしてヒーローに

イベンダー・ホリフィールド 戦慄の忍耐力 オリンピック の悲劇 そしてヒーローに

幼き日の聖書的体験。アメリカンフットボールとボクシングに熱中した少年時代。マイク・タイソンとの出会い。そしてオリンピックでの悲劇。


1955年12月1日、アメリカ南部アラバマ州、その州都、モンゴメリーで有名な事件が起こった。
その日、42歳の黒人女性、ローザ・パークスは、百貨店での裁縫の仕事を終えて帰宅するために市営バスに乗った。
アラバマ州を含むアメリカ南部は「人種分離法」が施行されていて、あらゆる場所で黒人と白人は隔離され、バスも前半が白人席、後半が黒人席と決まっていて、ローザ・パークスは黒人席の最前列に座った。
やがてバスが混んできて、立っている白人客が増えると、運転手は白人席を増やそうと黒人席の最前列に座る4人に席を空けるよう指示。
他の3人は従ったが、ローザ・パークスは応じず、運転手が
「なぜ立たないのか」
と詰問すると
「立つ必要は感じません」
と答えた。
運転手は警察に通報し、ローザ・パークスは市条例違反で逮捕された。
警察署で手続きが終わると一時、拘置所に入れられたが即日保釈され、やがて市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告された。
モンゴメリーの教会の牧師、26歳のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、それを知ると抗議のためにバス・ボイコットを呼びかけた。
肌の色を問わず多くの市民がこれに応じてバスを利用しなくなったことで市は経済的に大きな打撃を被った。
ローザ・パークスは、バス車内の人種分離の条例は違憲であるとして控訴。
事件から約1年後、連邦最高裁判所は違憲判決を出し、公共交通機関における人種差別は禁止され、381日間続いたボイコット運動は、判決の翌日に収束した。
これがきっかけとなって人種差別を撤廃するための「公民権運動」が全米で起こった。
ジョン・F・ケネディ大統領は、差別制度を禁止する立法を行った。

「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」から7年後、1962年の10月19日、「The Real Deal(真の男)」イベンダーホリフィールド(Evander Holyfield)は、アラバマ州アトモアで9人兄弟の末っ子として生まれた。
アトモアは、州都モンゴメリーとモービルを結ぶ幹線道路から少し離れた場所にあり、リスや鹿、ポッサム、キツネなどが走り回る、公民権運動やデモとは無縁の静かな村だった。
母親のアニー・ローラ・ホリフィールドは、元々、アラバマ州の隣、ジョージア州アトランタに住んでいたが、長女、ジョー、次女、エロイーズ、長男、ジェームス、三女、プリシラ、四女、アネットを産んだ後に離婚。
夫のジョセフは、ミシガン州で新生活を始め、アニーは、しばらくアトランタに住んでいたが、親戚から自分の母親(イベンダー・ホリフィールドの祖母)が重病だと知らされると看病するためにアラバマ州のアトモアへ。
祖母は脳卒中で重体だったが、介護のかいあって危機を脱した。
祖母、パーリー・ベアトリス・ハットンは、神への信仰と意志が非常に強い女性で、車椅子生活になりながらも家族のために家事をこなした。
すでにアトランタで仕事をしていた長女、ジョー以外の4人の子供を連れてアトモアにやってきた母親は、レストランでコックとして働き、やがてアイソン・コーリーに出会い、ウィリー、バーナード、イベンダーという3人の男の子を産んだ。
2人は結婚するはずだったが、許せない事が起こり、突然、終わりを迎えた。
だからホリフィールド家は、

祖母、ハットン
母親、アニー
次女、エロイーズ
長男、ジェームス
三女、プリシラ
四女、アネット
次男、ウィリー
三男、バーナード
四男、イベンダー

という9人家族だった。

母親のアニーは、並外れて勤勉で、車もバスもないので毎日、どんな天候でも朝早く片道45分歩いて通勤し、深夜近くに帰ってくるのが当たり前だった。
そして週6日働いた後日曜は教会へ通った。
イベンダー・ホリフィールドの兄や姉も、村の中で綿摘みやペカン(クルミの一種)の収穫、レストランのウエイトレスなどの仕事をしていた。
母親は、幼いイベンダー・ホリフィールドに、どうして朝から晩まで働くことができるのか聞かれると
「世の中は、いつも公平であるとは限らないのよ。
でもそれは耐えられないほどの公平ではないわ。
神様は私たちが耐えきれないような苦しみはお与えにならないのよ。
人生の中には苦いものも甘いものもあるの。
大事なことは甘いものと一緒に苦いものをどのようにして受け入れるかを学ぶことなの。
髪を愛し、神の目的に従って神のしもべを務める者には、すべてがうまくいくと神様自身がおっしゃっているわ。
人を愛していれば、早く起きて、遅く寝ることはつらいことではないのよ。
むしろ喜びなのよ」
と答えた。
イベンダー・ホリフィールドは、
「母親から強い労働倫理、逆境に直面しても辞めない姿勢、深いキリスト教信仰を植えつけられた。
自分の成功は、自分をこのような性格に育てた母親のおかげだ」
といっている。

イベンダー・ホリフィールドが1歳のとき、南部、テキサス州ダラスでケネディが暗殺され、副大統領だったリンドン・ジョンソンが第36代アメリカ合衆国大統領になった。
リンドン・ジョンソンは、ケネディの遺志を継ぎ、「Great Society(偉大な社会)」の実現を掲げ、黒人の社会的・経済的地位を向上させるために貧困問題や失業問題のために10億ドルを拠出し「公民権法」を成立させようとした。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師は、リンカーンの奴隷解放宣言100年を記念する集会をワシントンで行い、著名人を含む20万人を超える人と共に大行進。、
リンカーン記念堂の前で行った演説で、
「I Have a Dream」
という有名な言葉を世に放った。
2歳のときに「公民権法」成立し、その1ヵ月後、南ベトナムを軍事援助していたアメリカの駆逐艦が魚雷艇の攻撃を受け、直ちに北ベトナムを爆撃するという「トンキン湾事件」が発生。
リンドン・ジョンソン大統領は
「アメリカ軍に対する攻撃を退け、さらなる侵略を防ぐために必要なあらゆる手段をとる」
と宣戦布告し、アメリカはベトナム戦争に突入した。

ボクシングでは、WBA、WBC統一世界ヘビー級チャンピオン、ソニー・リストンが、カシアス・クレイ(モハメド・アリ)の挑戦を受けた。
ソニー・リストンは、服も靴も食べるものもなく、教育を受けることもなく、2人の妻との間に25人もの子供をつくったアルコール依存症の父親に虐待されながら育ち、暴力に耐えかね逃げ出した母を追うように家を出たが、読み書きができない黒人少年にまともな仕事はなく、10代前半で強盗団を組織し、武装強盗や警官襲撃などで19回逮捕され、刑務所で神父に教わってボクシングを覚えた。
身長184cm、213cmという長いリーチと周囲38cmという大きな拳、そしてすさまじい殺気を放つボクシングで世界ヘビー級チャンピオンとなり、
「最強」
と称えられるより
「最凶」
と恐れられていた。
一方、カシアス・クレイ(モハメド・アリ)は、ローマオリンピック、ライトヘビー級金メダリストで、プロ入り後、19連勝。
試合前にKOラウンドを予告するなどのビッグマウス、ヘビー級では珍しい華麗なアウトボクシングでファンを興奮させていた。
このときも試合前に
「お前は醜い」
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」
「8ラウンドで俺の偉大さを証明してやる」
などと挑発。
賭け率は、7対1でソニー・リストン有利だったが、6R終了時にパンチのダメージのために棄権し、TKO負け。
カシアス・クレイ(モハメド・アリ)は
「俺は王様だ」
「俺は美しい」
「俺は最高だ」
「俺は偉大だ」
と叫んだ。
イベンダー・ホリフィールドが3歳のとき、2人は再戦し、1R、2分12秒でカシアス・クレイ(モハメド・アリ)がKO勝ちした。

4歳のとき、1つ上の兄、バーナードと家の外の芝生の上で転げ回って遊んでいると庭の柵の向こうに背の低い見知らぬ男がきて
「ヘイ、坊主たち
こっちへ来いよ」
といわれた。
男は明らかに酔っぱらっていて
(知らな人と話してはいけない)
と思いながら無言で立ち尽くしていると無視されたと思った男は庭の中に入ってきた。
すると鎖でつながれた愛犬のラッシーが吠えはじめ、侵入者に向かって唸り、鎖をいっぱいに引っ張って飛びかかる動きすらみせた
ただならぬラッシーの吠え方に様子をみに出てきた姉、アネットが大声で
「出てってよ。
今すぐに。
聞こえたでしょ。
出ていきなさい」
といった。
酔っぱらいは、それを無視し、拳を振り上げながら鎖を伸びしたラッシーにギリギリまで近づいては離れ、近づいては離れを繰り返した。
悪質な挑発行為が1分ほど続き、ラッシーの怒りが爆発。
そのパワーで鎖が外れ、侵入者に向かって全力で突進。
酔っぱらいは甲高いを声を出しながら逃げ出した。
その表情をみて、兄弟は大笑い。
庭の外まで追っていったラッシーは、数分後、帰ってきた。
兄弟は、いつもの落ち着きと人懐っこさを取り戻したラッシーに鎖をつけ直し、水をあげた。

1時間後、男が保安官を連れて戻ってきた。
アネットは、
「この犬は弟たちを侵入者から守ろうとしただけで、いわば義務を果たしただけ」
と男が庭に侵入し、ラッシーをからかったと説明。
腕組みをしながら聞いていた保安官は
「この人から聞いた話と違う。
この人は道を歩いていたら、この犬がフェンスを飛び越えて襲ってきて、危うく噛まれそうになったといっている」
「彼はウソをついているわ」
アネットは男を鼻で指し、バーナードも
「その通りだよ、保安官。
この人は1時間半前には今みたいに紳士のようじゃなかった。
家の庭に入ってきてうちの犬をからかったんだ」
といった。
「もういい」
保安官は話を遮り、
「話は十分に聞いた。
どうやら犬は射殺しなければならないようだな」
兄弟は顔を見合わせた。
誰も、この決定が信じられず、
イベンダー・ホリフィールドは、
(これは絶対に間違っている)
は思った。
保安官は車から黒いショットガンを取り出し、イベンダー・ホリフィールドが目をいっぱいに開いてみつめる中、弾をこめ始めた。
そして銃を持った保安官は、そばを通ってラッシーがいる場所へ。
「早く家に入りなさい」
アネットは、弟たちに命令。
イベンダー・ホリフィールドたちは従ったが、家の中に入ると一目散に窓際へ。
ガラス越しに膝を折った姿勢で、軒下のラッシーに狙いをつける保安官を目撃。
自分たちの位置はラッシーの真上だったが、低い唸り声も聞こえた。
さらに吠えはじめ、
「ジャラジャラ」
と鎖の音が聞こえた後
「バーン、バーン」
っち2発の銃声がこだました。
恐ろしい反響音が消えると、保安官は何事もなかったように車に向かって歩き、エンジンをかけ、走り去った。
男も満足そうな顔で歩いていった。
イベンダー・ホリフィールドは兄と庭に走り出た。
軒下には黒い血だまりができていて、弾を撃ち込まれて蜂の巣のように無数の穴が開き、毛皮のようになったラッシーがいた。
正義の名のもとに行われた理不尽な出来事に兄弟たちの気持ちはおさまることはなく涙を流した。
やがて帰ってきた長兄、ジェームスと次兄、ウィリーもラッシーの死を聞かされて悲しみ、怒りに拳を握り締め、肩を震わせた。
彼らはティーンエイジャーだったが、村で働くことで、すでにいろいろな苦い経験をしていた。
ラッシーは祖母がつくったキルトの布に包まれ、庭に掘った穴に埋葬された。
ラッシーの悲劇は、イベンダー・ホリフィールドに厳しい現実を教えた。
そしてこのときの無力感が、真の強さを求める原動力となった。

1967年、WBA、WBC統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリがベトナム戦争への徴兵を拒否したため、ボクサーライセンスとタイトルを剥奪された。
ベトナムの戦費は年々増え続け、アメリカを圧迫。
また人道的見地からもアメリカ国内を含む世界中で反戦運動が起きていた。
一方、5歳のイベンダー・ホリフィールドは、この年、聖書的体験をした。
真夜中にトイレに行ったとき、キッチンに誰かいるような感じがしていってみるとテーブルのそばにハゲ頭の大男が立っていたのである。
驚いて無言で立っていると、男は笑みを絶やさずに話しかけてきて、数分間会話。
そして男が近づいてきて、頭を撫でられた。
イベンダー・ホリフィールドは走って眠っている母親の部屋にいき、キッチンに男がいると訴えた。
昼間の仕事で疲れている母親は
「そう、キッチンに男がいるの。
よかったね。
もういい加減にベッドに戻って寝なさい」
と本気にしてくれない。
イベンダー・ホリフィールドは薄暗い廊下を走って、自分たちのベッドに飛び込んで眠ってしまった。
それから毎日、真夜中になると勇気を出してベッドを飛び出しキッチンへ。
すると必ず背の高い男がいて、おしゃべりをし、母親の部屋にいって男がいると報告し続けた。

1週間後、男と話した後、母親の部屋にいったが相変わらず本気にしてもらえず、自分たちのベッドへ。
その後、母親は、連日の睡眠妨害に腹を立てながら起き出し、キッチンにいって冷蔵を開けた。
そしてミルクをコップに注ぎ、冷蔵庫を閉めた後、悲鳴を上げてコップを床に落とした。
その音で各部屋で人が起き、ドアが勢いよく開き、全員がキッチンに集合し、床のミルクとコップの破片を踏まないように立った。
母親は恐怖で震えながら
「お、男がいるわ」
エロイーズは、
「誰もいないわよ」
といったが、母親は
「背の高い、ハゲ頭の黒人の男が私に向かって笑いかけていたのよ!」
驚いて悲鳴を上げたら消えてしまったわ」
といった。
イベンダー・ホリフィールドは、自分がみた男を説明した。
他の兄弟たちから質問攻めにあっていると祖母が厳粛な声で
「その人は主がおつかわしになった天使だったのさ」
すると家族に静寂が流れ、祖母は、さらに
「天使が子供に手を差し伸べて頭を軽くなでてくれたことは神の聖別を与えてくださったことなのさ。
神の贈り物で祝福してくださったんだよ」
といった。
祖母は、このキッチン騒動以降、イベンダー・ホリフィールドを厳しく躾けるようになった。
「神に祝福された者たちに与えられる特別な者たち」
と信じ、最善を尽くそうと思ったのである。
一方、イベンダー・ホリフィールドは、騒動後も大男とキッチンで何度か会ったが、交わした会話は、何1つ覚えていないという。

この後、ホリフィールド家は、アラバマ州アトモアからジョージア州アトランタにある長女、ジョー・アン・の家に引っ越した。
ジョー・アンは、母親と兄弟がアトモアに行った後もアトランタの電話会社で働き続け、結婚もしていた
家には4つのベッドルームがあり5人(アン、夫、3人の子供)が住んでいたが、一気に9人増えて14人になった。
母親はシェフ、エロイーズは人材派遣会社、プリシラとアネットはレストン、ジェームズとウィリーは建設関係の仕事に出ると、家には祖母、アンの子供アントニー、アンジェラ、アリサ、バーナード、5歳のイベンダーが残った。
祖母は、イベンダー・ホリフィールドが何か間違いを犯せば、聖書の中の最も適切な章節を
「何々書、第何章の第何節だよ」
といって暗唱した後、
「お前たちがまいた種だ」
といいながら腕をつねった。
アトモアに比べ、アトランタはかなり都会で、イベンダー・ホリフィールドは、
「ユートピアだ」
と思った。
最初はフェンスに囲まれた家の敷地内で遊んでいたが、やがて道路に出て、近所の子供とフットボールやギャングごっこ、バスケットボール、かくれんぼなどをした。
しかし祖母は、
「道路に出てはダメ。
私の目が届かなくなるから」
と禁止。

その後、我慢できずに祖母の目を盗んで外に遊びに出たとき、見つかり、すぐに呼び戻され、居間のソファーに座らされた。
祖母は、表紙がボロボロになって、ページの余白に書込みやあちこちにアンダーラインが引いた愛用の聖書を持ち出し、孫が犯した過ちを探した。
「旧約聖書のでエジプト記の第20章、第12節にこう書いてある。
あなたの父と母を敬え。
これはあなたの神、主が賜る地であなたが長く生きるためである」
と話し始め、徐々に調子を上げていき
「これら恥ずべきことのうち、最悪のものが親の命令に従わないことだ」
と祖父母を含む親を敬うことの重要性を説明した。
この間、イベンダー・ホリフィールドは、説教を聞きながら、早く終わるように秘かに祈った。
祖母は、何がダメだったのか頭で理解させた後、体に罰を与えるため、イベンダー・ホリフィールドが差し出した腕を木の枝で打った。
「世の中にはよいことも悪いこともあるものだよ。
神様はお前たちが耐えられないような苦しみをお与えにならない。
物事はいつもうまくいくとは限らない。
でも神様を信じ、どんな苦しいことでも耐えて頑張れば、必要な強さを与えてくださる。
神様が苦しみをお与えになるのは、それだけの理由があるのさ。
お前たちに宿っている神様は、ほかの人たちの中に宿っている神様より優れている方だからね」
イベンダー・ホリフィールドは、そういわれても神の贈り物が何なのか理解できなかったが、やがて
「ハットンばあちゃんの厳しい指導に耐える力を与えてくれたのだろう」
と思うようになった。

イベンダー・ホリフィールドが6歳のとき、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が白人男性に撃たれ、39歳で死亡。
墓標には
「ついに自由を得た」
と刻まれた。
そしてメキシコシティオリンピック、ボクシング競技ヘビー級で、アメリカ代表のジョージ・フォアマンが金メダルを獲得した。、
決勝戦の相手は、ソ連代表のイチオス・チェピュリスで冷戦の真っただ中、米ソ対決を制したジョージ・フォアマンは、勝利したあと、四方に向け礼をするとき小さなアメリカ国旗を振った。
テキサス州ヒューストンの5番区、通称「血の5番区」で生まれ、父と母、4人の兄姉と2人の弟がいたが、自分だけが母親と浮気相手の間に生まれた子供で父親が違った。
朝、学校へ朝いくフリをして親が仕事に出た後、窓から家に入ってベッドで寝て、授業が終わる頃に学校にいき、友達と帰るという生活を繰り返し、単位が取れず留年し、年下の同級生と小学校を卒業。
中学ではアメリカンフットボールと出会い、高い理想を持つ指導者の下、186㎝84㎏の巨体で厳しい練習に耐え、レギュラーになったが、ある日、タバコをくわえているところを指導者にみつかってしまい、
「信頼を裏切ってしまった」
と自己嫌悪に陥って、その後、練習にも学校にも行かなくなってしまい、中学校を卒業できないまま義務教育を終えた。
その後、いくつか仕事に就いたが、飲酒が原因による無断欠勤などで長続きせず、13~15歳まで公園を1人で歩く男にタックルをして押さえつけ、仲間が財布を盗んで後で山分けにするということを続け、ケンカも絶対に負けず、気に入らない者がいればすぐさま殴り、自分をナメるとどうなるか教えた。
16歳で初めてヒューストンを出て、ジョンソン大統領の「Great Society(偉大な社会)」計画の一環である「職業部隊(Job Corps)」に入隊。
オレゴン州郊外にあるトレーニングセンターでボクシングに出会い、数週間後に行われた試合で海軍に所属する相手を、1RでKO。
勝ったとき、これまでこんなに誇らしく嬉しかったことは1度もなく、大声でわめき、リングを跳びはね、その後も試合で勝ち続けた。
2年間の職業部隊の期間を終えると実家へ戻り、身につけた技術を活かせそうな会社に書類を送った。
後は返事を待つだけだと2年間飲めなかった酒を飲み、女の子を口説いていると女の子のボーイフレンドと兄がやってきて、
「俺の彼女だぞ」
というので兄弟まとめて殴った。
そして告訴された。
母親は示談金を支払い、
「ジョージ、道は1つしかないわ」
といって職業部隊のボクシングコーチに電話。
ジョージ・フォアマンは職業部隊のトレーニングセンターに住み込みで働きながら、コーチにビシビシしごかれ、小学生から続けてきたタバコと酒を19歳で断つことに成功し、オリンピック、ボクシング競技のヘビー級のアメリカ代表となったのである。
(そして41歳のときにWBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級チャンピオンとなった28歳のイベンダー・ホリフィールドに挑戦する)


一方、6歳のイベンダー・ホリフィールドは、朝、アトランタのE・P・ジョンソン小学校に行き、放課後は教会で開かれる子供のための美術と手芸の教室で過ごすのが日課だった。
チャーチ・アット・ハート(心の教会)は、小さく貧しい教会で、信者が座るのはベンチではなくパイプ椅子。
ギャストン牧師の指揮と、その娘婿のひくピアノに合わせて手をたたき、足を踏み鳴らしながら「オー・ハッピデー」を歌い、
熱心なお祈りのために跳び上がって
「ハレルヤ!
イエス様、ありがとうございます」
と叫ぶ者もいた。
ある日、学校が終わった後、クラスメイトに
「ボーイズクラブに行ってみないか ?」
と誘われた。
「ウォーレン・メモリアル・ボーイズクラブ」に入るためには、会員になって毎月50セントを払う必要があり、イベンダー・ホリフィールドは母親の頼んだ。
母親は最初、乗り気ではなかったが、クラスメイトから
「スポーツだけでなく毎週土曜日の朝に聖書を学習するクラスもあるんです」
と聞くと気前よく1年間分6ドルを出した。
こうしてイベンダー・ホリフィールドは学校が終わるとクラブの名前が書かれた車の乗って通うようになった。
ウォーレン・メモリアル・ボーイズクラブは、2階建ての巨大な施設で、オリンピック規格サイズの室内プール、NBA規格のバスケットボールコート、ボクシングのリング、、ビリヤード、ピンボール、図書室、木彫り教室、絵画教室、屋外には野球場とサッカーとアメリカンフットボールを行うグラウンドもあり、2人の白人女性がいる入り口の受け付けで、自分が参加する種目を申し込むシステムだった。
どちらかといえば争いを避け、物静かで攻撃性のない少年だったイベンダー・ホリフィールドは、あるときあり余るエネルギーをボーイズクラブで発散させた。
はじめはいろいろなものを試したが、やがて心をとらえたのはフットボールだった。
アレックス・ストーンコーチが指導するチームに入り、オフェンスではフルバック、ディフェンスではミドルラインバックでプレー。
クォーターバックから即興的な動きと並外れたスピードで相手ディフェンスに穴をこじ開けて、すり抜けるのが得意だった。
熱心に練習し、毎年、クラブの最優秀選手に選ばれた。
アトランタファルコンズのファンで、憧れの43番、デーブ・ハミルトンと一緒にプレーすることが夢だった。

施設の中でいろいろなスポーツに参加したが、バスケットボールコートの裏側に普通の会員が入れないようにフェンスで覆われたエリアがあった。
そこにはウォーレン・メモリアル・ボクシングチームのパスを持っているものだけが中に入ることができた。
激しいアメリカンフットボールの練習に耐えた後、フェンスにもたれて休みながらみていると、この一般会員が入れない聖域には、見慣れない用具が並んでいて、選ばれし者たちが全身汗まみれになってパンチを繰り出していて、イベンダー・ホリフィールドは、その速さに驚嘆すると共に強い誘惑を感じた。
8歳のとき、ついに誘惑に耐え切れなくなって用事があるフリをして禁じられたゲートを通過。
中に足を踏み入れ、天井から吊り下がっているスピードバッグに近づいて、エネルギーを込めて右拳を突き出したが、見事に外れた。
「ヘイ、ユー。
何してる!
出ろ!」
ずんぐりした白人のコーチ、カーター・モーガンにドラ声で怒鳴られたので
「あれを打ってみたいんだ!」
と返した。
モーガンは首を振りながら近づいてきて
「スピードバッグはダメだ」
といって、ついてこいとジェスチャー。
天井からぶら下がるこげ茶色の皮袋を指し
「あの大きいやつを打ってみろ」
イベンダー・ホリフィールドは近づき、全身の力を込めて右拳を打ち込んだ。
ナックルが革のすり減った部分に命中した瞬間、右腕に鋭い痛みが走った。
50歳後半のモーガンは笑った。
イベンダー・ホリフィールドは痛みを隠しながら
「コーチ、ボクシングチームに入りたいです」
「若ぇの。
ボクシングチームに入るなら、本当にタフじゃないといけないんだぜ」
モーガンは、そういってクルリと向きを変えて去っていった。
(よし、俺がどれだけタフか、証明してやろう)
イベンダー・ホリフィールドは自分自身に言い聞かせた。
それから毎日、囲いで仕切られた場所にいき、カーター・モーガンが気付いてくれるのを待ち、
「ボクシングチームに入れてください」
と懇願。
何週間も頼み続け、ついにチームに入ることが許された。

8歳のイベンダー・ホリフィールドは、アメリカンフットボールとボクシングを併用し、アメリカンフットボール同様、ボクシングでも練習に打ち込んだ。
シャドーボクシング、ミット打ち、サンドバッグ打ち、縄跳び、ボクシングのトレーニングは、毎日毎日、同じことの繰り返しだった。
基本を習うと、すぐにヘッドギアと大きなグローブをつけたスパーリングや試合も行うようになった。
アメリカでは週末に各地でアマチュアのボクシング大会が開かれ、10歳未満の子供から30代の大人まで幅広い年齢層のボクサーが出場。
リングの周りに椅子とマットを並べられ、試合開始前のセレモニーでは国歌が流れ、出番を待つ選手たちの気持ちを高め、勝者にも敗者にも大小のトロフィーが手渡され、健闘を称え合ってリングを降りるとコーチと反省点を話し合い、翌日から練習をした。
イベンダー・ホリフィールドは、同世代の相手を打ち負かしたが、負けた相手が泣き出すのをみると気が滅入ってしまった。
負けるのはイヤだが、相手をケガをさせたり泣かしてしまうのも同じくらいイヤだった。
泣くヤツは顔面にパンチをもらった後、泣いていたので、
「もう顔は叩かない」
と決め、ボディばかり打った。
そんなことを知らない相手は、ポイントを上げた。
2ラウンド終了後、カーター・モーガンは、
「なんで頭にいかないんだ?」
と聞いた。
「顔を叩いたら泣いちゃうんです」
カーター・モーガンは、グローブを振り回しながら説明するイベンダー・ホリフィールドに
「オイッ、顔を叩かれて泣くんじゃないぞ。
負けたから泣くんだ。
みてみろ」
といって相手コーナーを指した。
「笑ってるじゃないか。
勝っているから笑ってるんだ。
さあ、どうする?」
3ラウンドが始めるとイベンダー・ホリフィールドは、その笑顔を連打。
相手は2度ダウンし、レフリーが試合を止めた。

その後、ある試合で強い相手を倒したとき、カーター・モーガンが
「お前はいつか世界チャンピオンになるよ」
といったので
イベンダー・ホリフィールドは、家に帰ると
「俺は世界チャンピオンになる」
といい、家族が
「なぜ?」
と聞くと
「モーガンさんがそう言ったから!」
と答えた。
いつも
「才能は神様がお与えになった贈り物なのだから、持ち主が才能の上にあぐらをかいたり怠けてはいけない。
神様はお前たちが時間を賢明に使って、神様の好意に報いるために、その才能を伸ばすことをお望みなのだよ。
神様は確かに贈り物をお前たちに下さったが、それを磨くのはお前たち自身なのだ。
お前たちがその才能を1日でも磨かないと、それだけ才能を失ってしまうのだよ」
といっていた祖母は、それを聞いて
「私のちっちゃなプロボクサー」
といって喜んだ。

その後、39歳の母親が倒れ、グラディメモリアル病院に運ばれた。
それまでに2回、心臓発作を、脳卒中を3回起こしていたが、精密検査の結果、静脈血栓と左心室に小さな穴があることがわかり、医師は直ちに手術が必要と告げた。
手術は、足から静脈の一部を切り取って、血栓でふさがっている場所を迂回するバイパスをつくるというものだったが、術後、母親は集中治療室で生命の戦いを続けた。
その間、心配する家族に祖母は
「死の天使が彼女を枕元に立って、彼女を私たちから奪おうとしている
でも神の選民である私たちが執り成しの祈りを続ける限り、神のご厚意が受けられるだろう
なぜなら正しい者の祈りは力があると聖書に書かれている」
といい、何が起こっているのか完全に理解することができない幼いイベンダーを抱きしめ
「今にすべてが良くなるよ。
ママはもうじき帰ってくるから」
教会では、祖母を先頭に数十名の信者がひざまずいて祈り、祖母が
「主よ、私の娘、アニー・ローラ・ホリフィールドをお治しください」
「主よ、彼女の子供たちが、まだ彼女を必要としています」
「主よ、死の天使を追い払って彼女を私たちにお返し下さい」
というと、続いて多くの
「アーメン」
がこだました。
ある夜、イベンダー・ホリフィールドは、トイレにいったとき、自室で祈りを捧げる祖母の声を聞いた。
「ハットンばあちゃんは、自分でつくり出した孤独の中で、周囲でささやかれる否定的な雑音を退け、彼女の内部にある強さにのみ精神を集中させていた。
世間から身を隠して神のみを求めていたのだ。
それは私が試合前に控室で行う精神集中と同じだ」
入院して3ヵ月後、祖母の予言通り、母親は退院し家に戻ってきた。

医師は、心臓発作の再発を危惧して母親が元の仕事に戻ることを禁止した。
家族会議が行われ、今までよりも多く働いて家計を助けることが決定。
イベンダー・ホリフィールドもポケットにあった2セントを提出し、空き瓶集めを開始した。
アスファルトの道路を歩いて道端に捨てられている空き瓶を探し、酒屋で1本5セントで交換してもらい、月に4~5ドルを家に入れた。
廃品回収を始めて間もなく、ホリフィールド一家は、ジョー・アンの家を出て、車で5分ほど離れた一軒家に引っ越し。
4つの寝室があるアンの家よりは狭かったが、人数が減ったせいで1つの部屋に4人ではなく3人で寝れるようになった。
イベンダーは自分たちの家をみて
「人生は予測のできない始まりと終わりの連続だ」
と思った。

引っ越し先の学区にある学校に転校すると、それまで聞いたことがなかった、
「人種差別」
とか
「オレたち」
「ヤツら」
などの新しい言葉に出会った
転校先のW・F・スレートン小学校は、公民権法(人種差別撤廃法)を施行されたことで人種共学の学校になったが、中には肌の色が異なる人間を嫌う人間もいた。
「みんないいたがらないけど、人種差別があるのは確かなんだ。
兄弟のように愛せよというイエス様の教えをみんなが守らないうちは、人種差別は決してなくならない。
でも人種差別に勝つ1番いい方法は、よく勉強して、どんなことでも、自分がこれと決めたことで1番になることなんだ。
そうすればいくら人種差別しても優秀な者には、そのうち頭を下げるようになる」
イベンダー・ホリフィールドは母親にそういわれたが、問題にぶつかることはなく、人種差別というものが何のことかわからなかった。
「隣のティモシーは白人だとか、通りの先の奴らはヒスパニックだとか、そいうことは考えたことがなかった。
みんな普通の友達だった。
私と同じように野球とアメリカンフットボールが好きな同じ年ごろの子供だった。
その面倒なことが何であれ、それは大人の問題であって、子供に関係ないことだけはハッキリしていた。
誰も肌の色の障壁など意識したことさえなかった」

イベンダー・ホリフィールドは、8歳からボクシングを始め、小学、中学の数年間を教科書と楕円形のボール、そしてグローブを巧みにやり繰り。
そして11歳までボクシングでは無敗、アメリカンフットボールでもタッチダウンとディフェンスでタックルを決めまくって最優秀選手に選ばれ、家にはたくさんのメダルやトロフィーがあった。
12歳のとき、WBA・WBC世界統一ヘビー級チャンピオン、ジョージ・フォアマンは、元世界ヘビー級チャンピオン:モハメド・アリと3度目の防衛戦を行った。
場所は、アフリカ、ザイール(現:コンゴ)の首都:キンシャサ。
その市外のジャングルを切り開き建てられたスタジアムで行われた。
ジョージ・フォアマンは25歳。
メキシコオリンピック、ヘビー級で金メダルを獲得し、プロ転向後、「象をも倒す」といわれるハードパンチで40戦40勝37KO無敗。
対するモハメド・アリは32歳。
ローマオリンピック、ライトヘビー級で金メダルを獲得し、プロ転向後、22歳で世界ヘビー級チャンピオンとなるも、ベトナム戦争への徴兵を拒否したことで王座を剥奪され、3年7カ月のブランクを余儀なくされた。
復帰後、プロ初ダウンと初黒星を喫し、46戦44勝31KO 2敗。
全盛期は過ぎたと思われるが、ファンはアリを「悲劇のヒーロー」「信念の人」と称賛し、不当に奪われたチャンピオンベルトの奪還を期待した。
ジョージ・フォアマンは、1Rから圧倒的に攻め続け、モハメド・アリを追い込んで強いパンチを打ち込んだ。
モハメド・アリは、ロープによりかかったり、弾力を利用して対応。
後に「ロープ・ア・ドープ(ロープ際のまぬけ)」作戦と呼ばれたが、ジョージ・フォアマンの突進力は弱まってくるとくとモハメド・アリは、ロープ際を離れて攻め始め、8R、コンビネーションパンチで大きくよろめかせ、とどめのパンチを放つとジョージ・フォアマンの巨体が、ゆっくり倒れていった。
この逆転KO劇は「キンシャサの奇跡」と呼ばれ、ジョージ・フォアマンが41戦目にして初めて敗れ、モハメド・アリが2度目の世界ヘビー級チャンピオンとなった。

イベンダー・ホリフィールドは、中学卒業後、高校に進学。
プロフットボール選手になるためには、高校と大学で活躍しなければならなず、アトランタファルコンズに入り、43番、デーブ・ハミルトンと一緒にプレーするのが夢だったイベンダー・ホリフィールドは、フルトン高校のレッドパーズの選考試験に合格すると、ボクシングはやめ、すべての練習に参加した。
シーズンに入ると毎週末、試合があったが、5フィート4インチ(162.56cm)、115ポンド(52.163kg)と体が小さいイベンダー・ホリフィールドが出してもらうことはなかった。
仲間がグラウンドで奮闘しているのをベンチで眺めるのは苦痛だったが、それでも出場をあきらめずに集中して相手チームの弱点を探し続け、練習でも大きな相手にタックルを決めるなどしてアピールした。
しかしそれでも試合に出させてもらうことはなかった。
「面白くない」
ベンチを温めれば温めるほどアメリカンフットボールに対する情熱は冷め、残るシーズンが3週間になったとき、家で母親に
「フットボールをやめる」
といった。
「なんだって?」
「やめるんだよ」
「どうして?」
「精一杯やったんだ。
もうこれ以上は無理だ。
できることは全部やった。
それでもダメなんだ。
プロになりたかったんだけど体が小さすぎるっていうんだよ。
だからやつらはオレをベンチに座らせておくんだ。
そんなの時間の無駄だよ」

母親は、
「やり始めたことは最後までやり遂げないとどうなるかわからないの?
チャンスを待つんだ。
チャンスが来るまでジーっと待つんだよ。
そしてチャンスが来たら、つかんで、絶対に離さないようにしなくちゃダメ。
体の大きさとか、見た目とかで決めつける人はいつもいる。
それが不公平なことは私もわかる。
だけど覚えておいて。
人は外見でみるかもしれないけれど神様は心をご覧になって判断を下される。
大事なのはお前の心なんだよ。
やめちゃいけない。
(手術の跡が残る胸を指しながら)大切なのはここ。
やめちゃいけない。
悪いことの中に良いことを見つけるんだ。
シーズンの最後までやりなさい。
全部の試合に出るつもりで一生懸命練習するんだ。
そうすればチャンスが来たときに、それがつかめる。
しっかりつかんで離さないで」
と諭し、イベンダー・ホリフィールドは、いわれた通りにした。
その後も控え選手のままだったが我慢し、練習も欠かさなかった。

「良いこと」は、シーズン最後の試合の第4クォータについにやってきた。
リードしているレッドパース対して相手が攻撃を行う場面で
「入れ」
といわれ、ポジションについた。
そして相手のクォーターバックがボールをフルバックに渡すフリをしてからハーフバックに投げるのをみると突進。
相手ハーフバックの両脚にショルダータックルを決めた。
次の攻撃で、相手フルバックが味方のラインを突破。
イベンダー・ホリフィールドは、突っ込んでくる自分よりはるかに大きい相手に対し、頭を下げ、脚に両手を巻きつけてねじ伏せた。
残り時間も、断固として自分の縄張りへの侵入を許さなかった。
こうして秋にアメリカンフットボールのシーズンは終了。
もう1年ベンチを温めるつもりはないイベンダー・ホリフィールドは、冬が来る頃には、ボーイズクラブの「カーター・モーガン・ボクシングチーム」ボクシングリングに戻った。
ファルコンズの夢は捨てがたかったが、体が小さくても夢が実現可能なボクシングはやりがいのあり、アメリカンフットボールの夢を失った絶望を癒すためにもうってつけだった。
60歳を過ぎたモーガンは、イベンダー・ホリフィールドの発達した筋肉に不屈の決意がみなぎっていることを感じた。
「改心して戻ってきやがったな」

イベンダー・ホリフィールドとカーター・モーガンは、まずは州南東部地区でトップになることを目標に挑戦を開始。
全国の各地域で

ライトフライ 49㎏以下
ライト級106ポンド 49㎏
バンタム級119 52㎏
フェザー級125 54㎏
ライトウエイト132 60㎏
ライトウェルター141 64㎏
ウエルターウエイト152 64㎏
ミドル165ポンド 69㎏
ライトヘビー75㎏
ヘビー201 81㎏
スーパーヘビー 91㎏以上

の各階級のトーナメントが行われ、勝てばリージョナル(地域)ディビジョン、ステート(州)ディビジョンと進んでいく。
そして最終的な頂点は、全米ナンバー1、ナショナルチャンピオンだった。


「明日はない」
が口癖のカーター・モーガンは、毎日、激しい練習メニューを課した。
ボクシングの技術を教えがらも
「戦いは10%の肉体と90%の精神」
と精神力の重要性を強調した。
イベンダー・ホリフィールドは、かつて母親が長くツラい1日を終えた後、ため息まじりで
「肉体は弱っても精神には力があるんだよ」
といっていたのを思い出し、
「どんな困難にも耐え抜こう」
と決めた。
毎朝、走り、学校にいって授業を受け、その後はボクシング。
朝の6時に通りを走る姿をみた同級生から
「透明人間にパンチ食らわせながら走ってる」
「イカれてんのか」
「何のマネだ」
とからかわれることもあったが相手にしなかった。
人との義理を欠こうと夢を胸に秘めボクシングを続け、学校では目立たなかった。


初試合は16歳のときだった。
黒いトランクス、規定のヘッドギアとグローブ、「カーター・モーガン・ボクシングチーム」と入ったタンクトップを身につけた67㎏のイベンダー・ホリフィールドは、ロープをくぐってリングに上がり、1R KO勝ち。
その後、数試合、相手を次々と片づけて、準決勝に進出。
相手のジャッキー・ウィンターズをみたとき、
「自分より大きくない。
ソワソワして自信がなさそう」
と思った。
1、2ラウンドとポイントで上回り、順調だったが、3ラウンド、一瞬、前触れもなく頭の横で大きな音がして、衝撃を感じると共に倒れていく自分をどうしようもできずにダウン。
レフリーは、腕を振りながらカウント。
カーター・モーガンは、ロープをつかみながら大声で
「立て!
根性をみせてやれ!
グローブを上げろ!
明日はないぞ!
立つんだ!
起きろォー!!」
イベンダー・ホリフィールドはノロノロと動き始め、やがて力強く立ち上がった。
ジャッキー・ウィンターズはトドメを刺そうと襲いかかり、ガードを固めるイベンダー・ホリフィールドと交錯。
クリンチ状態になり、イベンダー・ホリフィールドはマウスピースを吐き出して相手の肩を噛んだ。
ジャッキー・ウィンターズは、その痛さでクリンチを解いて後退。
ここでゴングが鳴った。
イベンダー・ホリフィールドは足を引きずりながら自陣のコーナーへ戻り、イスに座り、下を向いた。
(ヤロウ、見かけよりタフだな)
ジャッキー・ウィンターズのパンチより自分が初めてダウンをしたという事実の方がショックだった。
そして
(自分が最も嫌っている他人の行動を自分もやってしまった。
愚かだ)
と相手を外見だけで判断してしまったことを悔やんだ。
カーター・モーガンは、下を向いて物思いにふけるボクサーをみて
(自分のことや自分の評判のことばかり考えて試合のことを考えていない。
自分を憐れむのがすべての大失敗の原因だ)
と思い、気合を入れた。
「済んだことは済んだことだ。
考えるな。
先のことに目を向けろ。
問題は今だ。
次のラウンドなんだ。
明日はないんだ!
自信がないんならいくら考えたって仕方がない。
信念を持てば何も考えることはないんだ。
行け!
やっちまえ」
イベンダー・ホリフィールドはスッキリした顔で力強くうなずいた。
その後、試合は一進一退。
イベンダー・ホリフィールドは足元がフラついて判断が狂うのは初めてだったが、勇気と粘りを発揮して戦い抜いた。
そしてスプリット(ジャッジによって勝敗が分かれた)で判定勝利。
イベンダー・ホリフィールドといえば
「決してあきらめないボクサー」
として有名だが、初ダウンを喫したこの試合が、そのデビュー戦となった。

この頃、家は、多くの兄や姉が出ていき、祖母、母親、兄のバーナードと4人暮らしだった。
そしてバーナードも高校卒業後、陸軍に入隊したため、家が3人になるとイベンダー・ホリフィールドは、自分の部屋を手に入れた。
準決勝同様、決勝戦の相手、ロックデール群のセシル・コリンズも強敵にはみえなかったが、イベンダー・ホリフィールドは、
「何事も何物も何人も見かけ通りに受け取らない」
と慎重に心をコントロールしつつ、自信満々で試合に挑んだ。
1R、ゴングと共に2人は中央で激突し、ラウンド終了まであまり動かずに打ち合って好勝負を展開。
ジャッジのポイントは全く互角だった。
2R、イベンダー・ホリフィールドは、一気に出て懐に入って、大きなフックでセシル・コリンズをフラつかせた。
その手応えに満足し、間を置いた瞬間、セシル・コリンズがよろめきながら放ったフックをアゴにもらった。
これまで1発で決め、打ち返されたことがなかった自分のパンチが利かなかったことにショックを受けたイベンダー・ホリフィールドは、ラウンドが終わってコーナーに戻るとカーター・モーガンに
「アイツ、殴ったら殴り返してきました!」
「そうだな。
ようこそ、ボクシングへってなもんよ。
ところでやっつる気はあるのか?
あの白いヤツに勝たせる気か。
行け。
ヒドい目にあわせてこい」
3R、イベンダー・ホリフィールドは突進。
相手の腹に1発入れると、セシル・コリンズも打ち返してきた。
乱打すれば乱打され、パンチの応酬が続き、イベンダー・ホリフィールドはたまりにたまった欲求不満が爆発。
セシル・コリンズを抱えてリングに放り投げてしまった。
かけつけたレフリーは2人を引き離し、イベンダー・ホリフィールドに
「失格」
と言い渡し、セシル・コリンズの手を上げて勝利を宣言。
コーナーに戻ったイベンダー・ホリフィールドに、カーター・モーガンが
「何やってるんだ!」
と怒ると
「ヒドい目にあわせてこいっていったでしょ?」

セシル・コリンズとの再試合が決まるとイベンダー・ホリフィールドは
「汚名をそそぐ」
と勝利の決意を新たにしたが、結果は判定負け。
イベンダー・ホリフィールドは泣きそうになり、子供の頃、自分に殴られて泣いた相手の気持ちが初めてわかった。
カーター・モーガンは、
「世の中、タダのものはないんだ。
何かを手に入れたかったら、それに代わるものがいる。
どうしても欲しければ、それに見合うことをするんだ。
お前はコリンズに勝ちたいんだろ?
それなら努力しないといかん。
努力してこそ褒美があるんだ」
これ以上、どうしたらいいかわからなかったイベンダー・ホリフィールドは、その言葉を聞いて、
「この窮地から自分を救い出せるのは自分しかない。
最大の障害は自分だ」
と気づいた。

「人間は不思議なことに、良くなるとわかっていながら、それをしようとしない。
苦しいことが良い結果をもたらすとわかっていても、何とかしてその不快さを逃れようとする
世界チャンピオンになるためには、まずよりはるかに困難なこと、すなわち自分を征服しなければならない。
自分を征服することは世界チャンピオンになるより難しく、自分を征服してこそ、チャンピオンになれる」
悟ったイベンダー・ホリフィールドは、より練習の虫と化した。
早朝のランニング、高校の授業、ボクシングの練習と肉体的トレーニング。
1日が終わって体を休めるときも心は戦わなければならなかった。
深夜、自分の部屋で1人でいると勝ち名乗りを受けるセシル・コリンズの姿が浮かんでくる。
心は何度も敗北のシーンを再現し、答えのない疑問を繰り返し、一種の不眠症となった。

何度も記憶を巻き戻し、勝利の手がかりを漁る中、祖母が教えてくれた旧約聖書のダビデとゴリアテの戦いの話も思い出した。
それは10代の羊飼いの少年、ダビデは、自分の鎧や兜を貸してやろうといいう王様の申し出を辞退し、石投げ器と5つの滑らかな石、羊飼いの杖を持って、鎧と槍と剣と盾を身につけた巨人、ゴリアテと対峙。
そして素早くゴリアテに向かって走り、石投げ器の石1発でゴリアテを倒した。
イベンダー・ホリフィールドは無意識に妨げとなる雑音を締め出し、自分がやるべきことに集中しようとした。

相変わらず毎朝、走って、高校に行き、ゴリアテに勝つためにボクシングの練習をするという生活が続いたが、徐々に強がりが消え、熱くも賢明で謙虚な姿勢でボクシングができるようになった。
セシル・コリンズとの3戦目は、またもや打ち合いになった。
「心が『2度の敗北で被った痛手を思い出せ』とささやいたが耳を貸さなかった。
心の中の不安には耳を貸さず、理性を失うこともなかったし、今しなければならないこと以外に気を散らすこともなかった。
精神力、魂が導くがままに任せた」
というイベンダー・ホリフィールドは強気で勝負。
連打と強打の応酬となって互角の展開のまま終わったが、イベンダー・ホリフィールドが判定で勝った。
「肌の色で人を判断してはいけない。
外見をみただけでは、その人がどれほどタフなのかわからない。
外見で決めつけると痛い目にあうことになる。
私の腕はセシルより太い。
ヤツの肌は白い。
目はちょっと寄り目だ。
こんなのチョロい。
そんな私の思いとは裏腹に彼は私を2度も負かした。
本当にタフそうなヤツが大したことなくて問題にならないと思ったヤツがすごい勝負をするのを、私は何度も経験している。
人は外見で判断してはいけない。
外見や肌の色に関係なく、人は誰でも尊敬に値し、いつか親友や同僚になるかもしれないのだから」


16歳のイベンダー・ホリフィールドは、リージョナル(地域)ディビジョンを制し、ステート(州)ディビジョンが次の目標となった。
が、直後、カーター・モーガンが肺気腫によって入院。
息子で助手だったテッド・モーガンが代役を務めた。
やがてカーター・モーガンはジムに戻ってきて数回、イベンダー・ホリフィールドの指導を行ったが、その後、亡くなってしまった。
8年間、人生の半分の間、ボクシングを教えてくれたカーター・モーガンの死にイベンダー・ホリフィールドは激しく動揺した。
「モーガンさんがいなくなってどうして続けていったらいい?
モーガンさんなしにボクシングなんてできない。
もう終わりだ」
自暴自棄になり、一時は闘志を失ったが、
「明日はない」
という口癖を何度も思い出すうちにボクシングをやめることはカーター・モーガンを侮辱することになるように思え、気持ちを改めた。
「トレーニングしなきゃ。
今やめたら、これまでの自分の8年間学んだことが無駄になるし、ここで頑張らないとモーガンさんの努力も無になってしまう」

高校卒業後、アトランタのエップス空港に就職した。
朝4時に起きて仕事前にジョギングし、実家から空港に通勤し、自家用飛行機の給油の仕事を行い、夜はボクシングとトレーニング、休むのは日曜日だけという生活を続けた。
リージョナル(地域)ディビジョンとステート(州)ディビジョンの試合を確実勝ち続け、それを観に来た同僚、デビッドの
「すごい!」
という口コミが職場に広がって
「チャンプ」
と呼ばれるようになり、会社から支給される制服にも「チャンプ」と刺繍されるようになった。


ある日、仕事が終わって家に帰ったイベンダー・ホリフィールドが着替えるために押入れを開けるとワイシャツとスラックスがなくなっていた。
犯人は、すぐにわかった。
1人暮らしをしている長兄のジェームズが実家に帰ってくるといつも衣類を持って帰っていたからである。
怒ったイベンダー・ホリフィールドが母親に訴えると、
「兄弟なら分け合わないと・・・」
といわれ、
「分け合う?
アイツは勝手に欲しいものを持っていくんだ。
そんなの分け合うとは・・・」
とさらに声を荒立てたが、途中で口を閉じた。
母親に盾つくのはホリフィールド家では絶対に御法度だったからである。
おまけにホウキで叩こうとする母親を反射的にボクシングの動きでかわしてしまった。
さらに怒った母親は、再度、息子に向かってホウキを振り
、イベンダー・ホリフィールドは、それを受けた。
「この家のやり方に従えないなら、お前は家を出るときが来たのだろう」
母親にいわれ、イベンダー・ホリフィールドは、すぐに部屋に戻って荷物をまとめ、友人の部屋に転がり込んだ。

ある日、イベンダー・ホリフィールドは、50歳を過ぎた空港の先輩社員の給料を知って、驚いた。
その先輩社員の勤続年数、経験、資格と見合っているとは思えなかったのである。
「もっと頑張らないと・・」
ボクシングをするのにお金がかかるイベンダー・ホリフィールドは、以前、ボーイズクラブで取得した人命救助の資格を使って、週末だけトマスビルコミュニティープールで監視員の仕事をした。
プール監視員は、監視用の高い椅子に座って、プールの中と周辺の危険を少しも見落とせない緊張感のある職務だったが、普段、ボクシングしているイベンダー・ホリフィールドにとっては平穏な仕事だった。
そんな平和な雰囲気の中、女友達と一緒に遊びにきている。カラメル色の肌をした美人を発見。
イベンダー・ホリフィールドは、そばを通って、目が合えば微笑み、ナンパ男が群がり、彼女がそれを楽しんでいるのをヤキモキしながら見守った。
やがてイベンダー・ホリフィールドとポートレット・ガーデンは言葉を交わすようになり、その夏のうちに交際を始めた。
イベンダー・ホリフィールドにとって初めての彼女で、孤独な鍛錬の日々に現れたオアシスにように心が満たされた。

愛の戦士となり、1982年の州南東部地区大会で勝ち続けたイベンダー・ホリフィールドの次の目標は、インディアナポリス(インディアナ州中央部に位置する都市)で行われるアマチュアボクシング・フェデレーション・ナショナル(全米選手権大会)だった。
1戦目、2戦目は楽勝したが、ロニー・ヒューズ戦で判定負け。
「技術では負けていなかった。
敗北の原因は、スタミナ切れだっだ」
イベンダー・ホリフィールドは、トレーニング量を増やして時間を有効利用するためにスケジュール表を作成。
早朝ランニング、仕事、ウエイトトレーニング、ボクシングというこれまでのスケジュールに追加項目を書込み、上に
「実行」
と書いた。
ウエイトトレーニングのパワートレーニングのメニューを取り入れ、ボクシングの練習の後に1日300回の腕立て伏せを行い、生卵、牛乳、ハチミツを混ぜた「ロッキードリンク」を飲み始めた。
フェデレーション・ナショナル(全米選手権大会)と共に権威を持つナショナル・ゴールデングローブ大会(全米オープントーナメント)を目標に、遊ぶのはポートレットとファストフードを食べに行くくらいで、後は仕事かボクシングかジムでバーベルを挙げた。

ゴールデン グローブは、アメリカ最大のアマチュアボクシング大会で各地でトーナメントによる地方予選を行われ、勝ち上がれば、マジソン・スクエア・ガーデンで行われる全国大会に進出できる。
イベンダー・ホリフィールドは、ウォームアップとして小さな大会に出場した後、ナショナル・ゴールデングローブ大会で、世界ランキング1位のシャーマン・グリフィンと対戦。
ランキングに入っていないイベンダー・ホリフィールドは、第1ラウンド、第2ラウンド、第3ラウンドと各ラウンドで1回ずつダウンを奪った。
レフリーは、うち1つをスリップと判断したが、自分は1度も倒れることなく試合が終了。
イベンダー・ホリフィールドは、勝利を確信していたが、5人のジャッジの判定は割れ、レフリーはシャーマン・グリフィンの手を挙げて勝者とした。
会場はブーイングが起こって大混乱に陥り、翌日の新聞にも取り上げられた。
イベンダー・ホリフィールドは、
「ナショナルタイトルを強奪された!」
と思ったものの、まったく抗議はせず
「ノックダウンが十分でないならノックダウンの仕方を学ばなければならない」
とさらに一撃必殺の拳を磨くことを誓った。

1983年4月、キューバとの対抗戦に出るのアメリカ代表選手が負傷したため、イベンダーホリフィールドは代役としてコロラド州のオリンピックトレーニングセンターから招聘された。
この全国的に認められるチャンスにキューバ人選手との苛烈な試合を行い、勝ったと思ったが判定負け。
イベンダー・ホリフィールドは、機会を与えられたことに感謝し、潔く受け入れたが、勇猛果敢な戦いぶりが、オリンピックコーチ、ルーズベルト・サンダースの目に止まった。
「オイッ、お前、ファイターだな。
ランカーになれるぜ。
もう1回チャンスをやろう。
パン・アメリカン大会(Pan American Games、4年に1度開催される総合競技大会)だ。
お前をトレーニングキャンプに連れてっいてどれくらいやれるかみてやる。
だが負けたら家に帰る。
わかったな?」
イベンダー・ホリフィールドはうなずいた。
「きっと勝てる。
でももし勝てなかったら家に帰るんだ」
ルーズベルト・サンダースは念を押した。

ミズーリ州東部、セントルイスで行われたスポーツフェスティバルが、パン・アメリカン大会出場のテストとなった。
イベンダー・ホリフィールドは、以前に負けているシャーマン・グリフィン、ロニー・ヒューズと
「1発見舞ってやる」
と意気込んで対戦し、勝利。
次の相手は、世界ランキング1位のリッキー・ウォマックス。
おまけにトレーナーにエマニュエル・スチュワードがついていた。
自身、10代でボクシングを始め、ナショナルゴールデングローブ、バンタム級トーナメントで優勝。
経済的理由からプロの道は諦め、働きながらクロンク・ボクシングジム(Kronk Boxing Gym)で指導を始め、1980年に初めてヒルマー・ケンティを世界チャンピオンになり、その後も「ヒットマン」トーマス・ハーンズをはじめ複数の世界チャンピオンを輩出しているトレーナーだった。
シャーマン・グリフィンとロニー・ヒューズにリベンジを果たし、少し満足していたイベンダー・ホリフィールドは、あまりに豪華な肩書とセコンドを持つ相手に、
「不公平じゃないか」
と心の中で毒づいた。

第1戦、リッキー・ウォマックスに負けたイベンダー・ホリフィールドは、第2戦の棄権を真剣に考え、ルーズベルト・サンダースに電話。
「明日、試合できるかどうかわからないんです。
腕を痛めたんで・・・」
とウソを混ぜて報告したが
「ダメだ!
弁解するな!
腕が痛かったらもう一方でやれ!」
と怒鳴られた。
(そう簡単にやめられそうにない)
しかしイベンダー・ホリフィールドは、すでに勝つ自信も勝とうとする気持ちも失っていた。
どうしていいかわからず、ベッドから起き上がり、膝まづいて祈った。
すると迷いは消えた。
「神は自分をボクサーとして創造された。
ここで断念すれば全能の神に唾を吐くことになる」
興奮して立ち上がったとき、イベンダー・ホリフィールドは挑戦者の顔になっていた。
祈りは、この後もイベンダー・ホリフィールドの武器となった。
「すべてのボクサーが懐疑と倦怠に遭遇することから免れない。
それと戦う有力な武器がお祈りだ。
この超自然的な力が勝利と成功には絶対に欠かせない」

第2戦、第1R、イベンダー・ホリフィールドは突進し、明らかに打ち勝った。
第2ラウンドは、リッキー・ウォマックスに主導権を取り戻され、疲労困憊で自コーナーに戻り、イスに座ると、ひどい疲労を感じ、もう戦う気がしなかった。
第3ラウンド開始早々、気のないパンチを出すイベンダー・ホリフィールドを、リッキー・ウォマックスがコーナーに追い詰め、連打から強烈なパンチを頭部にヒットさせた。
疲れ切っていたイベンダー・ホリフィールドが、
(チャンスだ。
これで倒れれば試合が終わる)
と思ったが、前のめりになった瞬間、鼻にリッキー・ウォマックスの頭突きをもらった。
おそらく故意の頭突き(反則)で、イベンダー・ホリフィールドの疲労は激しい怒りによって消え失せ、猛烈なパンチを打ち返した。
リッキー・ウォマックスは、怒りのパンチを受けて、後退。
イベンダー・ホリフィールドは追い、数秒前には自分が追い詰められた場所にリッキー・ウォマックスを追い詰め、すさまじいパンチで圧倒。
一気に形勢は逆転し、そのままゴングが鳴り、イベンダー・ホリフィールドは、勝者となり、初めて全米ナンバーワンの称号を手に入れた。
「まずボクシングをやめることを許さなかった神に感謝した。
これ以上ないところまで落ち込んで不安と疲労を正面から見つめ、それからどれほどそれを克服したかを発見する。
ボクシングとは何かを示す瞬間だった」
リッキー・ウォマックスが繰り出した頭突きさえ、
「神が最善を尽くせと励ましてくれた手段」
といった。

パン・アメリカン大会出場の選考試合に勝利したイベンダー・ホリフィールドは、1度、ジョージア州へ戻り、ゴールデングローブ大会に出場するためにコロラド州、オリンピックトレーニングセンターへ。
ここで初めてマイク・タイソンに会った。
マイク・タイソンは、イベンダー・ホリフィールドより4歳下だが、歩んできた人生は対照的だが、ボクシングに対する姿勢は非常に似ていた。
イベンダー・ホリフィールドが田舎で生まれ育ったが、マイク・タイソンは、ニューヨーク生まれ。
黒人男性の平均寿命が25歳というアメリカ最悪のゲットー(Ghetto)、ブルックリン地区ブロンズビルのアンヴォイ通りにある集合住宅の2階で育った。

イベンダー・ホリフィールドは、アメリカンフットボールとボクシングをしながら小中と通い、高校からはボクシング1本に絞って、毎朝、走って、学校に行き、ボクシングの練習をするという生活が続けた。
マイク・タイソンは、小学校から学校にいかず、9~12歳の間に51回も逮捕され、13歳でニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監された。
そこで75㎏くらいの白人教官がボクシングを教えていて、マイク・タイソンは
「ボクサーになりたいんだ」
と頼み、1ヵ月後、許可が出て練習場にいくと
(やっと叩きのめせる)
と思いながら白人警官にスパーリングを申し込んだ。
そして打って、打って、打ちまくったがパンチはかすりもせず、わきをすり抜けられてボディにパンチをめり込ませられて呼吸困難になり、倒れ、吐いた。
「このまま息ができず、死んでしまうんじゃないかと本気で思った」
白人教官、ボビー・スチュワートは、アメリカゴールデン・グローブ大会ライトヘビー級で優勝した事のある元アマチュアボクサーだった。
その後、マイク・タイソンは、ボクシングを教わり、部屋に戻ってもずっと1人でシャドーボクシング。
ある週末、
「お前を伝説のボクシング・トレーナーのところに連れていってやる」
といわれ、ボビー・スチュワートの車に乗って少年院から南へ80kmのニューヨーク、キャッツキルへ。
そして町の警察署の上にあったジムで71歳のカス・ダマトに引き合わされた。
カス・ダマトはニューヨークでイタリア系移民の子として生まれ、幼少の頃にボクシングと出会い、街ではストリートファイトを繰り返し、12歳のとき、24歳の男とケンカをして凶器で殴られ片目の視力を失った。
22歳でマンハッタン14丁目のユニオン・スクウェアの近くにあったグラマシー・ジムでコーチを始めたとき、すでに白髪で、残った片目も色盲だった。
ボビー・スチュワートとマイク・タイソンのスパーリングをみて、カス・ダマトは
「未来の世界ヘビー級チャンピオンだな」
といった。

マイク・タイソンは、その後、毎週末、カス・ダマトのところで練習。
「つまるところ、ボクシングの究極の科学というのは、相手が打ち返せない位置からパンチを打つことだ。
打たれなければ試合に勝つからだ」
というカス・ダマトが教えるスタイルはオーソドックスではなかった。
通常、右利きならば左の腰と肩を前に出して、相手に対して斜めに構えるが、両脇をしめて両腕でボディと顔面をガードして、相手とほぼ正面に向き合って、頭を振って相手のパンチをかわして、飛び込んでパンチを叩き込むというピーカブー(Peekaboo、いないいないばあ)スタイルだった。
14歳になり仮退院になると、マイク・タイソンはカス・ダマトの家に住み、週7日、トレーニング。
腹筋は50回もできず、腕立て伏せも13回しか出来なかったが、カス・ダマトに
「Never Say Can't(できないっていうな)!!」
といわれ続けた結果、腹筋2000回、腕立て伏せ500回を毎日こなすようになった。

イベンダー・ホリフィールドは、高校卒業後、アトランタのエップス空港に就職。
朝4時に起きてジョギングし、実家から空港に通勤し、自家用飛行機の給油の仕事を行い、夜はボクシングとトレーニング、休むのは日曜日だけという生活を続けていたが、さらに日曜日もプール監視員のアルバイトを行い、ポーレット・ガーデンと出会って同棲を始めた。
一方、マイク・タイソンは、スポンサーがいてボクシングに専念。
あまりにパンチが強いためスパーリングパートナーに苦労したが、マイク・タイソンは20オンスという大きなグローブ、スパーリングパートナーは14オンスを着用し、週給1000ドル(約10万円)という賃金は、ビル・ケイトンやジム・ジェイコブスが負担した。
ボクシング界きっての篤志家であるビル・ケイトンは、マイク・タイソンのビジネスやマネージメントを担当。
ジム・ジェイコブスは、26000本ものボクシングフィルムを所有し、古今東西のボクサーを研究するマニアで、カス・ダマトとは古くから知り合いで協力者でマイク・タイソンを様々な面でサポートした。
「自分がそのファイターをAといい、ダマトがBといえば、そのファイターはBになってしまう。
ダマトは『マイク・タイソンこそ世界ヘビー級チャンピオンになる男だ』といった。
私はその考えに従うだけだ」
2人ともボクシング界とマイク・タイソンの未来に期待していた。

イベンダー・ホリフィールドのトレーナー、カーター・モーガンは、
「明日はない」
といいながら、毎日、激しい練習メニューを課し、 ボクシングの技術を教えつつ、
「戦いは10%の肉体と90%の精神だ」
と精神力の重要性を強調したが、カス・ダマトも同様で、マイク・タイソンに戦う技術だけでなく心を教えた。、
「高い次元においてリング上の勝敗を決するのは肉体のメカニズムではなく精神力である」
「ボクシングでは人間性と創意が問われる。
勝者となるのは、常により多くの意志力と決断力、野望、知力を持ったボクサーなのだ」
「勇者と臆病者には、大きな違いはない。
両者とも同じように倒されるのを恐れている。
英雄だって、皆と同じように怯えているのだ。
ただその恐怖に打ち勝つのが勇者、恐怖に負け逃げ出してしまうのが臆病者だ」
「自分の心は友達じゃないぞ、マイク。
それを知ってほしい。
自分の心と戦い、心を支配するんだ。
感情を制御しなくてはならない。
リングで感じる疲れは肉体的なものじゃない。
実は90%は精神的なものなんだ。
試合の前の夜は眠れなくなる。
心配するな、対戦相手も眠れてやしない。
計量に行くと、相手が自分よりずっと大きく、氷のように落ち着いて見えるだろうが、相手も心の中は恐怖に焼き焦がされている。
想像力があるせいで、強くもない相手が強く見えてしまうんだ。
覚えておけよ。
動けば緊張は和らぐ。
ゴングが鳴って、相手と接触した瞬間、急に相手が別人に見えてくる。
想像力が消えてなくなったからだ。
現実の戦い以外のことは問題でなくなる。
その現実に自分の意志を定め、制御することを学ばなければならない」

さて話をコロラド州、オリンピックトレーニングセンターに戻すと、イベンダー・ホリフィールドは、初めて会ったマイク・タイソンの練習をみて驚いた。
「俺も努力家だと自負している。
だがヤツがジムで練習するのを横目でみて驚いたよ。
コイツはやられたと思った。
まだ17歳の若造なのに・・・
俺以上に練習していたのはヤツだけだった。
タイソンほど一生懸命やるヤツはいない。
誰もかなわないと思ったよ。
それになんでも誰より速いんだ。
バッグを叩くときも誰よりも速く叩いたし、ロープを跳ぶときも誰よりも速く跳ぶ。
ヤツのやることは、なんでも人より速かった」
21歳、ライトヘビー級(-81kg)のイベンダー・ホリフィールド。
17歳、ヘビー級(-91kg)のマイク・タイソン。
2人は共にゴールデングローブ大会を勝ち進んだ。
1戦目、イベンダー・ホリフィールドがKO勝ちすると、それをみていたマイク・タイソンは同じように相手を片づけた。
2戦目、3戦目、2人は共にKO勝ち。
イベンダー・ホリフィールドは、絶対に負けない気持ちで4戦目もKO。
マイク・タイソンは、4戦目の相手が失格になったので勝つには勝ったがKO数で1つ後れを取った。
イベンダー・ホリフィールドは、第5戦もKO勝ちして、ゴールデングローブのライトヘビー級のチャンピオンに。
マイク・タイソンも、5戦目をKO勝ちし、ヘビー級のチャンピオンになった。
イベンダー・ホリフィールドは5勝5KOだったが、「最優秀ボクサー」に選ばれたのは5勝4KOのマイク・タイソンだった。

「この2人が戦ったらどうなるんだろう?」
周りが思うのは当然だった。、
ある日
「お前らがやるのをみたいもんだな」
といわれたイベンダー・ホリフィールドは、
「やってもいいよ」
と答え、隣に座っていたマイク・タイソンに
「やるか?」
と聞いた。
「イヤッ、お前は小さすぎる」
「じゃスパーリングしよう」
「俺と?
スパーリングを?」
「そうだ。
金はいらんぜ」
「ヨシッ!
でもお前が好きだから、片手だけ使おう」
「両手でやったほうがいいぜ。
それともノシてやろうか」
こうして2人のKOキングはリングに上がり、周囲には人が集まった。
ゴングが鳴り、2人はグローブを合わせると、すぐに戦いを開始。
188cm、オーソドックススタイルのイベンダー・ホリフィールドが小さな速い2、3発を打ち込むと、178㎝、ピーカーブースタイルマイク・タイソンは大きなのを狙って、数発出してたが、当たったのは腕をかすめた1発だけだった。
2人は、もう止まらない。
それはライトなものではなく、フルの試合のようなスパーリングだった。
そのときオリンピックコーチがやってきて、
「お前らのはスパーリングじゃない。
真剣勝負だ。
激しすぎる。
どちらかがケガをするぞ。
2度とやるんじゃない。」
と怒鳴り、スパーリングを止めた。
イベンダー・ホリフィールドは
(勝った)
と思ったが同時にマイク・タイソンを尊敬した。
乱暴者という世間の評判と違い、思いやりのある温かい人柄にも心を打たれた。

スポーツフェスティバル、ゴールデングラブと2大会連続で、全米ナンバーワンになったイベンダー・ホリフィールドの次なる目標は、オリンピック。
国の代表になり、金メダルを持ち帰りたいと思っていた。
それは実力的には十分可能に思えたが、金銭的なことが問題だった。
収入はエップス空港の給料だけで大会で休暇をとれば減ってしまうという状況で、ポーレット・ガーデンが3700gの赤ちゃんを産んだのである。
初めての子供は、イベンダー・ホリフィールド・ジュニアと名づけられたが、これで経済的な問題が決定的となった。
以前、イベンダー・ホリフィールドに数学を教えていた教師、ジョン・スミスは、全米ナンバーワンになった元教え子を連れて、オリンピック出場のためのスポンサーを探して、アトランタ中を回った。
実業家、建設業者、銀行など、さまざまな人に話を持ち掛けたが、乗ってくれる人はいなかった。
「なんでみんな、俺を信じようとしないんだ?」
イベンダー・ホリフィールドは失望した。

請求書が溜まっていく中、愛車、1968年型ダッジスタークが故障。
ポーレット・ガーデンに
「この車では子供を連れて病院に行けない」
といわれ、2000ドルを借りて、ビュイック (BUICK、ゼネラルモーターズ(GM)が製造・販売する乗用車のブランドの1つ) の代理店へ。
そこで1982年型、ビュイック・センチュリーが気に入った。
「今、2000ドル払います。
後は2ヵ月以内に全部」
「連帯保証人はいますか?」
「連帯保証人?
あの、なんとかならないでしょうか。
私は地元のアマチュアボクサーです。
今年のオリンピックチームに入れそうなんです」
「オリンピック?
それは大したもんだ」
イベンダー・ホリフィールドは、エップス空港の仕事のこと、オリンピックのこと、子供が生まれたことなど自分が置かれた状況を詳しく説明。
オーナーのケン・サンダースは、好奇心をそそられて熱心に話を聞いた。
そして連帯保証人なしで車を売り、その上、スポンサーを買って出た。
イベンダー・ホリフィールドは、新しい車に乗って家に帰り、スポンサーがついたことを話した。

1984年6月10日、オリンピック予選が、テキサス州フォートワースで行われた。
イベンダー・ホリフィールドは、アメリカ代表になるためには再びシャーマン・グリフィン、リッキー・ウィマックスと勝たなくてはならなかった。
シャーマン・グリフィンには勝ったものの、世界ランキング1位のリッキー・ウィマックスには負けてしまった。
しかしまだオリンピック出場の可能性は残っており、2ヵ月後に行われる選考会で、1位と2位が対戦することなっていた。
つまりリッキー・ウィマックスと再戦である。
だがナンバー1になるつもりだったイベンダー・ホリフィールドは落胆しながら、ケン・サンダースに電話した。
「負けました、ケン」
「知ってる。
みてたから。
だがあれくらいでガッカリしちゃいかん。
よくやったじゃないか。
誇りに思うべきだ。
オイッ、もっと自信を持て。
仕事が欲しいなら、ここにちょうどいいのがあるから心配するな。
だがお前はまだ戦える。
自分でもわかっているはずだ。
とにかくきっとうまくいく」
イベンダー・ホリフィールドは、言葉がなかった。


マイク・タイソンも初回にロープ際で右フックからの連打を決めてダウンを奪うもヘンリー・ティルマンに判定負けし2位。
アマチュアボクシングでは1発の有効打と1回のダウンが同じ1ポイント。
もちろん倒れた相手が10カウント以内に立てなければKO勝ちとなる、がアマチュアの厚いグローブでそれは難しく、相手のベルトラインより低いダッキングや、深い前傾姿勢で飛び込む行為がアマでは反則と取られやすいこともあり、常にノックアウトを狙う荒々しいマイク・タイソンのファイトスタイルはアマチュアに合わない面があった。
しかしマイク・タイソンも、まだオリンピック出場の可能性は残っており、2ヵ月後に行われる選考会で、ヘンリー・ティルマンと対戦することなった。



2ヵ月後、1984年7月7日、イベンダー・ホリフィールドは、選考会が行われるラスベガスのシーザースパレスへへ。
試合会場に入るとマイク・タイソンがいたので
「やあ」
と声をかけた。
イベンダー・ホリフィールドはリッキー・ウィマックスに負けたが、マイク・タイソンもヘンリー・ティルマンに負けていて、2人とも「負け組」と呼ばれるグループの一員だった。
「負け組」は2勝する必要があり、1戦目に勝てば、翌日、オリンピック出場をかけて翌日、もう1度戦うことになる。
もし1戦目で負ければ出場のチャンスは消える。
2人は一緒に練習し、一緒に試合を観戦。
イベンダー・ホリフィールドは、マイク・タイソンと一緒にいるのが楽しかった。

まずイベンダー・ホリフィールドがリッキー・ウィマックスと対戦。
夜の試合までベッドで横になってエネルギーを蓄えようとしたが、一定時間ごとに起き上って
「ジャブを続けるのを忘れるな」
「動き続けるんだ」
「ヤツはこうくる、オレはこう対処する」
自分にいいながら鏡に向かってパンチを繰り出した。
そして最後は膝まづいて祈った。
「私に最善を尽くさせてください」
「私とリッキーをお守りください。
2人とも大きなケガをしませんように」
祈りによって安らぎを得ると、後は自分の役目を果たすだけ。
「リングの外では膝まづくが、リングでは膝はつかない」
とすさまじい決意で戦いに入り、判定で勝利した。
その夜は、勝った後なのに
「オリンピックアメリカ代表まで、あと3ラウンド」
と思うと眠れなかった。
その10分足らずで今後、数十年の自分の人生が大きく左右され、ポーレットとジュニアをボクシングで養っていけるかどうかもかかっていた。
翌日、第2戦の開始のゴングが鳴ったとき、イベンダー・ホリフィールドの心構えは万端で、リッキー・ウィマックスの攻撃を軽快にさばいた。
俊敏に動くイベンダー・ホリフィールドにリッキー・ウィマックスは体力をロスし、ラウンドが進むにつれて失速。
最終ラウンド、イベンダー・ホリフィールドは打ち勝ち、試合は判定に。
レフリーが2人の間に立って、
「オリンピック代表は・・・・・・・・・」
アナウンサーが長い間をあけ、イベンダー・ホリフィールドは
(耐えきれない!!)
と思った。
「アトランタ出身・・・・」
(ウォマックはデトロイト出身だ!!)
「ジョージア州、イベンダー・ホリフィールド!!」
その瞬間、イベンダー・ホリフィールドは足をガクガクさせながら天を仰いだ。
(ありがとうございました、主よ)
そして外に出ると、プールに向かって疾走し、ヘッドギアをつけたまま飛び込んだ。

しかしマイク・タイソンは、ヘンリー・ティルマンに判定負け。
1戦目は裁定を潔く受け入れ、自分から進んでティルマンの手を挙げていたマイク・タイソンだったが、2戦目は思わず抗議。
長身のティルマンは、ジャブとフットワークで背の低いタイソンの接近をかわし、距離が潰れるとクリンチという戦い方だったので、勝者でありながら2戦ともブーイングを浴びた。
(ヘンリー・ティルマンはロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得)
「オリンピックには出られなかったが代表選考試合はいい経験になった。
ホリフィールドの戦い方は野心的で俺のスタイルと似ていた。
相手を軽くノックアウトする素晴らしいボクサーだった」
マイク・タイソンは、この後、プロに転向。
アマチュアボクシングの戦績は52戦47勝5敗だった。

その後、イベンダー・ホリフィールドはテキサス州ゴンザレスで行われたオリンピック強化キャンプに参加。
24人のボクサーは、人里から10マイル(16km)離れたキャンプ地に
「車持ち込み禁止」
で入場。
トレーニンググラウンドは巨大な農園の真ん中にあって、コーチは、
「農地にはたくさんのヘビがいるから気をつけろ」
と注意した。
宿泊所は2棟あって、それぞれで12名ずつ寝起き。
閉じ込められたボクサーは、厳しい練習を行い
夜は漆黒の闇となり、各棟に1台ある電話が、唯一の気晴らしとなった。
ある日の夜中の2時、イベンダー・ホリフィールドは電話だと呼び出されて出てみると
「ハットンおばあちゃんが死んだ」
といわれた。
オリンピックを前に休めるか心配だったが、帰ることができたイベンダー・ホリフィールドは、家族や友人と共に葬儀に参列し、兄弟で棺を担いだ。
「我々の人生の大半の間、祖母は私たちを支えてくれた。
いま私たちが祖母を支えている。
それを思うと心が張り裂けんばかりだった。
スポンサーが見つからなかったときもランキングボクサーになれなかったときもオリンピック出場の夢を追い続けた。
祖母の強さが私に力を与えたのだ」
その後、数日間、呆然と過ごし、
「これといって記憶がない」
というイベンダー・ホリフィールドは世界を相手に戦うことが決まったときに、1番の心の支えを失いながら、テキサス州に戻り、2週間行われたトレーニングキャンプを終了した。

1984年に行われたロサンゼルスオリンピックは、140ヵ国、男子5263人、女子1566人が参加。
4年前、1980年のモスクワオリンピックは、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議するために、アメリカ、日本、西ドイツ、韓国、サウジアラビア、トルコ、エジプト、インドネシアなどの国々が不参加。
その報復として今大会は、ソ連、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、ベトナム、モンゴル、北朝鮮、キューバ、エチオピア、アフガニスタン、アンゴラ、イランなどがボイコットしていた。
1984年7月29日~8月11日、ロサンゼルスオリンピックからスーパーヘビー級を加え12階級となったボクシング競技に、イベンダー・ホリフィールドライトヘビー級(-81kg)アメリカ代表としてエントリー。
空港で、たくさんの人に旗を振られ
「ビートルズになったような気がした」
というイベンダー・ホリフィールドは、その巨大な歓声に酔いながら英雄扱いされるのをできるだけ楽しもうといながらできるだけゆっくりと歩いた。
アメリカには、ラッシー事件のような黒人が無視され除外される人種差別が存在していたが、そこにはそんなものはまったくなかった。
また会場では世界各国から来た選手と一緒になり、YesかNo、そして笑顔とボディランゲージでコミュニケーションをとって不思議な連帯感を感じるなど、イベンダー・ホリフィールドは神聖な体験をした。
「優れた競技の技を追求するために集まっているのは、ただ1つ、人類でしかない!」

コーチには
「ここでおとなしくしていろ」
といわれたが、国から支給されたジャージを着てオリンピック村を抜け出し、ロサンゼルスの街へ繰り出し、人々から声援を受けた。
イベンダー・ホリフィールドは、それから毎日、午後に練習し、シャワーを浴びてから、仲間と一緒にディスコに行き、リラックス。
ソ連、東欧圏が出場しない中、開催国、アメリカは各競技で最大限に力を発揮していた。
ボクシング種目は男子のみで

ライトフライ級(– 48 kg)
フライ級(– 51 kg)
バンタム級(– 54 kg)
フェザー級(– 57 kg)
ライト級(– 60 kg)
ライトウェルター級(– 63.5 kg)
ウェルター級(– 67 kg)
ライトミドル級(– 71 kg)
ミドル級(– 75 kg)
ライトヘビー級(– 81 kg)
ヘビー級(– 91 kg)
スーパーヘビー級(+ 91 kg)

の12階級で行われたが、日本の柔道代表同様、金メダル獲得が義務づけられており、全員が強烈な重圧を感じていた。


24ヵ国、24名が参加するライトヘビー級のトーナメント戦は7月30日~8月11日に行われ、
イベンダー・ホリフィールドは、初戦でアフリカ代表を3RでKO
2戦目もイラクの選手をKO。
3戦目のケニア代表、シラヴァナ・スオケロは優勝股補だったので、
「気をつけろ」
KOばかり考えるな」
とアドバイスされたが
「全部KOで片づけたいんだ
そしたらどちらが勝ちかハッキリするからな」
といって1RでKOし、連続KOでベスト4に入り、世界中から注目を集めた。
「僕はアメリカのボクシング選手の中で最後に選考され、誰も僕がメダルをとれるとは思っていなかった。
ところが最初の3試合を全てノックアウトしてメダル候補になった。

準決勝の相手は、ニュージーランドのケビン・バリー。
これに勝てば決勝の相手は、ユーゴスラビア代表のアントン・ヨシポビッチだったが、どちらもイベンダー・ホリフィールドよりも格下に思われた。
準決勝、2Rまでイベンダー・ホリフィールドは技術とパワーで圧倒。
KOの機会をうかがいながら完全に試合を支配した。
2R残り20秒、粘るケビン・バリーは打ち合った後、イベンダー・ホリフィールドの頭を抱えてクリンチにいこうとした。
イベンダー・ホリフィールドは、頭を抱えられたまま、ボディにパンチ。
相手の頭を抱えたまま腹を叩かれて左右に体を振られるケビン・バリーをみて、フィニッシュを予感した観客の興奮はピークに達した。
そしてたまらずクリンチを外したケビン・バリーの顔面をイベンダー・ホリフィールドのパンチが打ち抜いた。
ケビン・バリーは、糸が切れた操り人形のようにダウン。
この時点で残り時間は13秒。
レフリーは、イベンダー・ホリフィールドにニュートラルコーナーに行くよう指示し、カウントを始めたがバリーは立ち上がれず、カウントアウト。
するとレフリーはイベンダー・ホリフィールドに向き直り、
「ストップを命じたのにパンチを出した」
といって
「失格」
を宣言した。

イベンダー・ホリフィールドは信じられなかった。
頭を抱えられていたし、歓声が大きかったせいでレフリーの声は聞こえなかった。
レフリーのグリゴリエ・ノヴィチッチは、
「ストップを命じたが2人は打ち合い、イベンダーがバリーをノックアウトしたときも打ち合いをやめさせようとしていた」
というが、2人の間に割って入ったり、体を触ったりせず、口頭のみで分けようとしたことにも問題があった。
「失格はおかしい」
とにかくひどい判定に観衆は怒り、会場は収拾のつかない大混乱となった。
リング上で勝者のコールを受けたケビン・バリーは、イベンダー・ホリフィールドと握手し、その手を高く挙げ、
「君は正々堂々と試合に勝った」
といっていた。
グリゴリエ・ノヴィチッチは、警備員にガードされながら退場。
それでも罵声を浴び、モノを投げつけられ、伸びてきた手に着衣を裂かれた。

イベンダー・ホリフィールドは、自信に満ちた何食わぬ顔で平然と試合場を出ていった。
アメリカのテレビ解説は
「ホリフィールドは冷静に耐えています」
と伝えたが、イベンダー・ホリフィールドは
「何とか怒りを抑え口から出そうになる言葉を飲み込んだ」
と文句もいわず判定を受け入れた。
本人は何もいわなかたが、アメリカアマチュアボクシング連盟会長、ロリング・ベーカーは抗議文を提出。
グリゴリエ・ノヴィチッチが、決勝進出を決めているアントン・ヨシポビッチと同じユーゴスラビア人だったことで大きな疑惑が起こった。
アマチュアボクシング規定でノックアウトされたボクサーは28日間試合をすることができないため、ケビン・バリーは決勝戦を戦うことができない。
すなわちアントン・ヨシポビッチは、戦わずして金メダルが決定したので、
「ホリフィールドはハメられた」
「ユーゴスラビアのレフリーによってユーゴスラビアの選手が金メダルをとった」
といわれた。

リングの上に表彰台を置いて行われた表彰式で、首に銅メダルをかけてもらったイベンダー・ホリフィールドは、笑顔で持っていた小さなアメリカ国旗を振って歓声に応えた。
金メダルを首にかけ、1番高い場所に立っていたアントン・ヨシポビッチは、イベンダー・ホリフィールドに手を差し出した。
イベンダー・ホリフィールドが握手に応じると、その手を握ったまま、自分の立っている場所にイベンダー・ホリフィールドを引き上げ、2人は肩を組んで手を挙げた。
最終的に男子ボクシング競技は、12階級中、9階級でアメリカが金メダルを獲得。
しかし1番人気者になったのは、1番無名だった21歳のイベンダー・ホリフィールドだった。


自己主張の国に生まれ、人種差別のつらさを経験して育ちながら、オリンピックという人生の大舞台で不公平なジャッジを受けても全体の調和のために甘受するイベンダー・ホリフィールドを人々は称えた。
イベンダー・ホリフィールドは、
「こういう悪いことがあった後は、飛び切りいいことがあるんだ」
とおどけたが、無名のボクサーから一躍有名人に。
オリンピック後、イベンダー・ホリフィールドは他の選手と一緒にホワイトは椅子に招待されて、ロナルド・レーガン大統領に会った。
アメリカ国内5都市で行われたパレードにも金メダリストと一緒に招待された。
彼は銅メダリストだったが、誰もが金メダリストの実力があることがわかっていて、
「愛してる」
「アメリカの誇りだ」
「君は真の金メダリストだ」
などとと声をかけた。
生まれて初めて人々に称えられ、イベンダー・ホリフィールドは失望を癒された。
家に戻ると郵便受けは、世界中から電報やハガキ、手紙でいっぱいだった。
郵便物はオリンピック後、数週間続き、イベンダー・ホリフィールドは、祖母のいっていたことを思い出した。
「神様を愛し、神様の思し召しで召された者には、どんなことでも一緒になっていい方向に働いてくれるんだよ」

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