松井章圭  華麗な技と不屈と精神を併せ持った天才空手家

松井章圭 華麗な技と不屈と精神を併せ持った天才空手家

「一撃必殺」 数ある格闘技・武道団体の中でも超硬派に最強を追求し続ける極真空手。 独特の厳しい稽古により数々の猛者が排出されたが、中でも松井章圭は異色の存在。 突き(パンチ)と下段回し蹴り(ローキック)だけでなく、上段回し蹴り、中段回し蹴り、後ろ回し蹴りを多用する華麗な組手。 無表情な中にも、内に秘めた激情。 黒澤浩樹など科学的なトレーニングによるアスリート型の空手家が台頭していく中で、武道的、武術的な空手の強さを追求し体現した。 最年少黒帯。 最年少全日本大会出場。 全日本大会連覇。 100人組手完遂。 世界大会優勝。


「2倍も3倍も努力しなくては認めらない」

松井章圭は、「極真会館」ができる前年(1963年)に生まれた。
父親は、大韓民国(韓国)の済州島で生まれ、
「日本で勉強し、アメリカで実業家になる」
という志を立て、19歳のときに漁船に乗って広島県の尾道に渡った。
2年後、東京で愚連隊に因縁をつけられていたところを「松井」という親分に命を助けられた。
これをきっかけに日本での通名(外国籍の者が日本国内で使用する通称名)を「松井」にした。
その後、働きながら法政大学を卒業。
しかし朝鮮戦争勃発すると韓国人難民を装った北朝鮮のスパイの入国を危惧したアメリカが朝鮮人の入国を制限した。
そのため父は「アメリカで実業家になる」という夢を断念し喫茶店を始めた。
そして数年後には広い庭つきの2階建ての家を建てた。
しかし親戚の借金の保証人になったことで、数億円の借金を背負い、家も喫茶店もとられ、4畳半のアパートに移った。
その後、10年間、スナック、サウナ店、焼鳥屋、食堂と転々と経営し、13回も引越しをしながら、借金を返し続けた。
家を借金で失いアパートにうつったとき松井章圭は小学生だった。
体が小さく、色白でぽっちゃりし、勉強も体育も真ん中だったが、強い正義感を持っていた。
また偏見を持つ日本人から差別を受けた経験から自然と
「2倍も3倍も努力しなくては認めらない」
と認識していた。
学校で、女子につい傷つけるような言葉をいってしまったあとは自己嫌悪に陥り、その子のところにいって謝り
「これからは絶対に悪口をいわないからな」
といって握手した。
部活動で後片付けをサボっている上級生5人を
「みんなで後片付けをするのが決まりじゃないですか」
と注意すると、翌日、その5人に体育館の倉庫に連れ込まれ殴られ蹴り回された。
松井章圭は、悔しくて眠れなかった。
「正しいことを行うためには強くなければならない」

『つらい』『苦しい』『痛い』禁止

ある日、松井章圭は、「週刊少年マガジン」を立ち読みをしていると
「これは事実談であり、この男は実在する」
という引き込まれる見出しで始まるマンガに遭遇した。
「空手バカ一代」だった。
松井章圭は、大山倍達の超人追求物語をみて、まるで神の啓示に打たれたような心境になった。
その後、「空手バカ一代」だけではなく、大山倍達の著作も買って読破していった。
それらはすべて強くなるための方法が書かれたもので、すべて松井章圭のバイブルになり、本棚に並んでいった。
そして1人で極真空手の基本稽古、拳立て伏せなどのトレーニングをやり始めた。
それをみた父親のすすめで少林寺拳法の道場に入った。
しかし相手を叩きのめさない稽古に物足りず、稽古中につい
「極真はこんなものじゃないだろう」
といってしまい周囲をいやな空気にさせてしまったこともあった。
結局、この道場を半年でやめた。
1975年11月、東京体育館において極真空手の第1回世界大会が行われた。
これは「地上最強のカラテ」というドキュメンタリー映画となった。
松井章圭は映画館でそれを観た。
やがて電柱や壁など硬いものがあると拳を当てて鍛えるようになった。
そして隣町に極真の道場ができると親に通わせて欲しいと頼んだ。
母親は、800人中、300~400番くらいの成績だった息子に
「100番以内に入ったら許します」
といった。
すると60番まで上がった。

1976年6月12日、松井章圭は13歳で極真に入門した。
家からバスで30分のところにあった極真会館千葉北支部流山道場は、20畳ほどのプレハブ小屋で、指導していたのは加藤重夫だった。
加藤重夫は、155㎝50㎏。
160㎝60㎏の松井章圭より小さかった。
16歳のときに大山道場に入門。
高校卒業後、豊島区役所に勤務するも空手に熱中するあまり8ヵ月後に退職。
血まみれになりながら稽古を続けた。
そして相手の蹴りや突きを肘で受ける受け技「落とし」を体得。
国内だけでなく、オーストラリア支部へ派遣され指導を行った。
また映画「007は二度死ぬ」で、姫路城の屋根の上のシーンを演じた。
加藤重夫は松井章圭に入門の動機を聞いた。
「将来、空手家になりたいんです。
極真空手を一生続けていくつもりで来ました」
「よし、わかった。
それならば
お前は極真のチャンピオンになりたいんだな?」
「はい」
「よし、がんばれよ。
そのかわり今日から『つらい』『苦しい』『痛い』という3つの言葉だけは絶対にいうな。
できるか?」
「はい」

松井章圭はさっそく練習に参加した。
まず
「押忍」
という挨拶の仕方を覚えた。
そして稽古は神前への礼、師範への礼、門下生同士の礼から始まった。
準備体操が終わると拳立伏せ、腹筋、背筋などの補強運動。
そして基本稽古に入る。
正拳突き、裏拳、肘打ち、手刀、上段受け、中段外受け、内受け、下段払い、前蹴上げ、内回し蹴り、外回し蹴り、膝蹴り、金的蹴り、前蹴り、横蹴り、関節蹴り、後ろ蹴り、回し蹴り・・・
各30本、気合をかけながら行う。
その後は深く腰を落としたまま移動し、連続して基本の技を出す移動稽古。
「苦しいときこそ足の親指に力を入れろよ。
親指があらゆる技を出すときの源なんだからなあ」
加重夫の怒声に
「押忍」
と全員が答え、汗にまみれながら動いた。
「いいか、苦しくなってきてからの頑張り、すなわち一枚腰ってやつは誰だって持ってるんだ。
これを乗り越えて次にやってくる苦しさで半分のやつは音を上げるんだ。
ここまでが二枚腰ってやつだ。
さらに苦しさが増す。
だがさらに自分を追い込んで逃げないやつ。
根性で食らいついてくる人間。
こいつこそが三枚腰の人間なんだ」
「押忍」
移動稽古後は、2人1組で攻撃側、防御側に分かれて技をかけあう約束組手。
その後、さらに型の稽古を行う。
そしてやっと組手となる。
直接技を当て合う直接打撃制の組手を1~3分、相手を変えながら行う。
加藤重夫は、入ったばかりの松井章圭にも組手を命じた。
相手は緑帯を締めた同じ中学校に通う同級生だったが、松井章圭は突きで押しまくられ、鼻に蹴りをもらった。
鼻血を出して倒れたが、痛みや屈辱よりも
(やっぱり極真は強い)
という感動と興奮のほうが大きかった。
組手が終わると柔軟体操を行う。
そして正座して黙想。
全員、大きな声で道場訓読み、礼をして稽古は終わった。
その夜、松井章圭は自宅の鏡の前に買ったばかりの左胸に紺色の糸で「極真会」と刺繍された道着を着て立った。
「俺は絶対に黒帯になる」

20㎝の距離があればハイキックが蹴れる

厳しい極真空手の稽古に強くなりたいと門をくぐったはずの多くの人間が道場から遠ざかった。
しかし松井章圭は稽古を1日も休まなかった。
稽古時間の30分前に道場にいき個人稽古。
稽古中は、加藤重夫との約束通り、どんなつらい稽古にもキツい表情をみせず、やり抜いた後も得意がることなくポーカーフェイスで押し通した。
しかしその目は輝いていた。
通常の稽古が終わった後は居残り稽古。
そして帰宅した後は、夜の縄跳び1000回、風呂に入った後の入念なストレッチを欠かさなかった。
入門3ヵ月後、加藤重夫は松井章圭に、

・目隠しサークルシャドー
・合わせ技
・下段回し蹴り禁止

という3つの特訓を与えた。
目隠しサークルシャドーは、床にチョークで直径3mの円を描き、その中に目隠しした2人が入り、3分間、相手を想定したシャドー組手を行う。
これにより恐怖心の克服、高い集中力を養う。
合わせ技は、蹴り技で攻めてくる相手の軸足を蹴って倒すことで、相手が蹴り技を仕かけてくる瞬間、相手の技を読み切るのと同時に地を這うような蹴りで相手の軸足を蹴る。
スピード、フットワーク、瞬時に相手の技を読む力が要求される。
下段回し蹴り、つまりローキックは、フルコンタクト空手では主力の技だが、加藤重夫は、松井章圭に中段から上の多彩な蹴り技を完璧に身につけさせるために下段回し蹴りの使用を禁止した。
やがて松井章圭は、壁に向かって立って20㎝の距離があれば、左右の上段回し蹴りが蹴れるようになった。

極真史上最年少の黒帯

千葉県の一宮海岸で行われた夏合宿に参加したとき、松井章圭は神のように崇拝する大山倍達を初めて生でみた。
合宿2日目の夜、大山倍達は、サングラスに道着のズボン、白いランニングシャツで登場し講話を始めた。
白帯の松井章圭は最後列だったが、一言も聞き漏らさないように正座したまま話を聞いた。
「バシッ!」
技を説明するために大山倍達が左手に右肘を打ちつけると、全身が反応した。
「君たち、1度立ち会ったら1発で相手を倒さなければならないよ」
大山倍達の講話が終わっても松井章圭は正座を崩せなかった。
白帯の松井章圭が初めて昇級審査に参加したとき、再び神と遭遇した。
審査課題の中に「拳立て伏せ×50回」があったが、松井章圭は42回しかできなかった。
すると審査に来ていた大山倍達が声をかけた。
「君は何回やったんだね?」
「押忍、42回です」
大山倍達は激しく怒った。
「なんでそのあと8回ができないのか。
死ぬ気になればできるよ」
松井章圭は、落ち込んだ。
自分の取り組み方が甘かったと、夜の縄跳び1000回、風呂に入った後のストレッチに加え、腹筋、背筋、拳立て伏せも毎日行うようにした。
こういった得意な部分を伸ばすことよりも、自分の弱点の克服に全力を尽くす稽古の方向性も、松井章圭の特徴だった。
中学3年生になり茶帯の昇級審査を受けた松井章圭は、再び大山倍達に声をかけられるになる。
基本稽古、移動稽古の審査ではひときわ高く美しい蹴りを、組手の審査では、大人を相手に、跳び2段蹴り、後ろ回し蹴り、上段回し蹴りを連続的に繰り出して華麗な組手を行った。
「君、ほんとに14歳?」
「押忍」
「うーん」
と大山倍達は唸り
「君は必ず強くなるから頑張って稽古しなさい」
と励ました。
こうして入門1年という異例の速さで茶帯に昇級した。
極真空手の帯は、白帯から、青帯、黄帯、緑帯、茶帯と昇級していき、有段者になると黒帯となる。
黒帯の端には締めている者の段位を、初段なら1本というように金糸の線が刺繍され、段位が上がる度に1本ずつ増えていく。
この頃、黒帯になれるのは、門下生数百名に1人だった。

茶帯になった松井章圭は、加藤重夫に、大山倍達が直接指導し、圧倒的な強さを誇る総本部道場への出稽古を申し出て快諾された。
こうして許可を得た翌日、新しい茶帯を巻いた道着をもって電車で東京へ向かった。
地下のロッカールームで着替え、稽古が始まった。
加藤重夫の指導では、基本稽古は1つの技が30~50本だが、総本部は、そんな数では終わらず、最後の回し蹴りは500本だった。
組手稽古が始まると、最初の相手は、自分より体の小さな茶帯だった。
太鼓が鳴り構えた瞬間、右の顔面に衝撃が走り視界が曇った。
相手の左上段回し蹴りをもらっていた。
次の瞬間、体が宙を舞い背中に衝撃が走り息が詰まった。
相手は松井章圭の襟をつかんで体落としで床に投げつけていた。
「大丈夫か」
遠くに相手の声が聞こえた。
次の瞬間、腹部に強烈な痛みが走り完全に息が止まった。
相手は松井章圭の腹部に極めの足蹴りをめり込ませていた。
この後の組手でも、松井章圭は突かれ、蹴られ、投げられ、踏まれ続けた。
自分の技はまったく決まらず、逆に相手の技は1つ1つが、速く、痛く、重かった
当時の総本部の組手は、失神しても殴る、蹴るという激しさだった。
門下生は
「死んでしまうかもしれない」
という恐怖心に潰されるかバネにできるかだった。
やっと稽古が終わると、松井章圭は、逃げるようにして総本部を飛び出し電車に乗って帰宅を急いだ。
車中で涙が出た。
(もうやめようか)
入門以来はじめて極真空手をやめることを考えた。
しかし数ヵ月後の1977年10月、入門して1年4ヵ月の松井章圭は昇段試験を受け、合格し、黒帯になった。
まだ中学生の極真史上最年少の黒帯だった。

ワルにもガリ勉にもスポーツ系にも顔が利く優等生

黒帯になった松井章圭に対し、母親は高校受験のために半年間、極真空手の稽古をやめさせた。
しかし空手ができないことで逆に勉強に集中できず成績は落ちた。
志望校のランクを下げて受験するも不合格。
2次募集で東京の東洋大学京北高等学校へ進学し、在学中、成績は5番以内をキープした。
自分から極真空手の黒帯だということを話すことはなかったが、下級生をイジメていた上級生も松井章圭の前ではおとなしくなった。
進学校でありながらスポーツにも力を入れていた京北高校は、進学志望、スポーツ、ワルが混在していたが、
「まだ親に養われて自立もできていない奴が親に心配かけちゃいけない」
「靴の踵を踏んではいけない」
「制服の襟のボタンを外してはいけない」
「いいかげんな生活態度だと空手も強くなれない」
そんなことを平気でいい、すべての分野でトップクラスの松井章圭はいいまとめ役だった。
受験に成功し道場に復帰した松井章圭は、自分の修行を行いながら、道場に3人しかいない黒帯の1人として大人を含めた門下生の指導も行った。
いつもポーカーフェイスで、わかりやすく技を説明し模範を示す松井章圭だったが、ツッパリや不良が入門してくると組手で痛めつけた。
ただ同じツッパリや不良でも1人で大勢と戦うような人間は受け容れたが、ハッタリだけで威嚇するタイプの人間は容赦しなかった。
またたるんだ練習を行う人間にも厳しかった。
1978年10月、入門時160㎝60㎏だった体が174㎝80㎏になった松井章圭は初めての試合、第1回東北大会へ出場した。
極真空手の試合では、技のダメージで相手の動きを3秒止めると「1本」、一瞬でも止めると「技あり」、技あり2つで「1本」が宣告される。
また本戦で決着がつかなかった場合、2分間の延長戦が2回まで行われる。
これでも決着がつかない場合、体重差が10㎏以上ある場合は、軽いほうが勝ちとなる。
体重差がない場合、事前に行われる杉板の試し割りの枚数が多いほうが勝ちとなる。
1回戦、過度の興奮と緊張で、下段回し蹴りと合わせ技しか出せないまま、なんとか判定勝ち。
しかし右足の親指を骨折していた。
2回戦も何とか勝ったが、3回戦で後ろ蹴りを腹にもらって負けた。
骨折した箇所をかばいながら乗り込んだ帰りの電車は込んでいて、上野駅まで4時間、立ったままだった。

最強の中村誠

松井章圭は、加藤重夫の指示で、週2回、総本部で行われる黒帯研究会、通称「帯研」へ出稽古することになった。
帯研は、金曜日の夜と日曜日の昼に黒帯が集まる合同稽古で、指導は大山倍達が行った。
2年前、逃げるように帰った総本部の門を再びくぐった。
松井章圭を含めて支部からきていた黒帯は6名いたが
大山倍達は彼らに
「支部からきた黒帯は3ヵ月間は茶帯研究会の方で稽古するように」
と命じた。
松井章圭は、茶帯研究会の練習にはついていけた。
しかし総本部の茶帯の筋肉質な肉体には驚かされた。
また彼らは、たとえ組手で劣勢でも、決して弱気になることはなく戦い続けた。
3ヵ月後、帯研へ参加が許されたとき、6名いた支部から出稽古に来ていた黒帯は、松井章圭を含め2名になっていた。
このときの帯研は、第2回世界大会へ向けての強化合宿も兼ね、日本代表の選手が参加していた。
その中でも、全日本大会で優勝したばかりの中村誠の強さは群を抜いていた。
大山倍達は、中村誠に100人組手を命じた。
そして8月26日13時、中村誠は100人組手に挑戦。
松井章圭も、その相手となったが、中村誠は35人目で断念した。
しかし世界大会では中村誠は「重戦車」のような強さで優勝した。
100人組手の凄まじさを目の当たりにした松井章圭は、毎日やっていた自宅でのトレーニングを、ウエイトトレーニング器具を購入し、ベンチプレスを30㎏×1000回、腹筋×500回、背筋×500回にボリュームアップさせた。
また道場へは稽古開始1時間前を目標に行き、相手を見つけて組手を行った。
総本部の強さの理由の1つが「稽古量」にあると悟ったからである。
そして前年3回戦で負けた東北大会で5位に入賞した。

vs 緑健児

第1回千葉県大会で、松井章圭は、1、2回戦を判定で、3、4回戦を1本で勝った。
そして続く準決勝で、城南支部の緑健児と対戦した。
緑健児は、165㎝55㎏と体は小さかったが、その足技はパワフルでダイナミックだった。
試合は、蹴りが得意なもの同士、ハイレベルな足技の攻防となったが、松井章圭のハイキックに緑健児が前蹴りを合わせたとき、バランスを崩しクルっと1回転してしまった松井章圭は体勢を崩したままパンチを放った。
これが緑健児の顔面を直撃した。
この一撃にキレた緑健児は、冷静さを失いケンカ腰で前に出続けた。
そして松井章圭に前蹴りをボディに入れられ、苦しくて動けないところを容赦なく攻められサンドバッグ状態になった。
試合は松井章圭の判定勝ちだった。
決勝戦で松井章圭は、加藤重夫の道場の先輩で、プロのキックボクシングの試合にも出場していた五十嵐裕己に敗れた。
加藤重夫は手紙で、大山倍達に、高校3年生の松井章圭を全日本大会に出場させてほしいと頼んだ。
大山倍達は加藤重夫を呼び出した。
「高校生を出させてケガでもしたらどうするんだ」
しかし加藤茂夫は一歩も引かず、2時間の押し問答の末、大山倍達が折れた。
この手紙は大山倍達の死後も机の中にしまってあった。
そんな経緯を知らない松井章圭は、全日本大会出場を喜び、スタミナ不足という弱点を克服するため、毎日、3㎏のウエイトベルトをつけて5㎞を走り始めた。

最年少(17歳)全日本大会初出場 4位

1980年11月、第12回全日本大会に、松井章圭は最年少で出場した。
1回戦、右上段回し蹴りで1本勝ち。
2回戦、判定勝ち。
3回戦、跳び後ろ回し蹴りで技ありを奪って勝った。
4回戦、前年の全日本大会6位の三好一男に2回の延長戦の末、勝利。
準々決勝戦も2回の延長戦の末、判定勝ち。

準決勝は、第2回世界大会2位の三瓶啓二の下段回し蹴りの連打の前に本戦で判定負け。
3位決定戦でも集中的に下段回し蹴りで攻められ負けた。
しかし従来の突きと下段回し蹴り主体の空手ではなく、上段、中段蹴りで攻撃する松井章圭の組手スタイルは強烈なインパクトがあった。
大山倍達は
「あれが極真空手の目指す華麗な空手である」
と称えた。
全日本大会優勝を目標に松井章圭は計画を立てた。
(大学に進学したら東京でアパートを借りて総本部へ移籍する)
そして中央大学商学部経営学科への入学を決めた。
結局、松井章圭は13歳から18歳まで加藤重夫の指導を受け、18歳から総本部道場へ移り大山倍達の指導を受けた。

大学進学、総本部移籍

1981年の春、大学に進学した松井章圭は、西池袋に古い木造2階建てのアパートに引っ越した。
若獅子寮に住む内弟子と朝稽古と朝食を共にした後、大学に通い、授業のない日は昼間も稽古に励んだ。
1食で3人前を食う松井章圭の胃袋は、月10万円の仕送りをすぐに消化した。
お金があるときは、安いラーメン屋に通い、お金が減ってくると、そのラーメン屋でどんぶり飯だけ注文し塩コショウをかけた。
さらにお金が無くなってくると、インスタントラーメン。
たまに若獅子寮でご飯を盗み食いした。
「400㏄献血すると1万円もらえる」
といわれ採血され待っていると、慢性的なオーバーワークのため肝機能障害という検査結果が出たため、現金ではなく牛乳を1パックもらって帰ったこともあった。
着るものは、総本部に武道具メーカーやスポーツメーカーが持ち込んだ試供品で間に合わせ、冬はミズノのジャージ、夏はTシャツに道衣のズボンにサンダルでどこへでも出かけた。

在日であることを隠さず

松井章圭は、高校を卒業した後、大学へ進学と同時に極真会館の総本部に移籍したが、このときから「松井章圭」という通名(外国籍の者が日本国内で使用する通称名)ではなく「文章圭」という本名で大学へ通い出した。
黒帯の名前も「松井章圭」から「文章圭」にした。
偏見はびこる日本社会で、自らの出自を公にしたのだ。
また在日本韓国学生同盟に加盟し、同年代の同胞を交流を深めた。
中国に属国とされ、日本に植民地とされた歴史、中国の漢字を拒否しハングル文字をつくった誇り高き母国の文化、そして韓国語を学び始めた。

しかし大山倍達は、松井章圭に日本への国籍変更を求めた。
「どうして自分で自分の民族を否定するようなことをしなければならないんですか」
「そう深刻に考えることじゃないんだ。
日本に住んでいる以上、便宜上、日本の国籍を取得するだけなんだよ」
「便宜上であればなおさら日本の国籍を取得する必要はありません」
「君は将来、私の片腕となって働かなければならない。
そのときに韓国籍ではどうしても困るんだ」
その後もたびたび大山倍達は松井章圭に国籍変更を迫った。
松井章圭は、
「総裁は自分の国に生まれて自分の国の言葉を知っていて民族の習慣や歴史やすべてを身をもってご存知です。
総裁は中身の詰まった韓国人なんです。
ですから日本の国籍に変更するというのは、おっしゃる通り日本人の衣を着るということだけなのかもしれません。
けれども私は日本で生まれ日本の教育を受けて日本の名前で今まで生きてきたんです。
その私から国籍というものを除いたら一体何が残るんですか。
民族を証明する根拠そのものがなくなってしまいます」
松井章圭は、日本に住み日本で活躍する「在日」という生き方にこだわりと誇りを持っていた。
力道山は、プロレス界の英雄なのに朝鮮人であることを隠し続けた。
一方、張本勲は、韓国人2世であることを隠さずプロ野球で第一人者となり、日本でも韓国でも英雄になった。
松井章圭の理想は後者だった。

清濁併せ呑む

若獅子寮に住む内弟子の修業は、1000日行といわれ、1日24時間空手漬けの生活を3年間続けて卒寮となる。
総本部周辺の清掃の後、6時から5㎞のランニング。
このとき踏切などでは、腕立て伏せを行う。
その後は坂道ダッシュを数本。
縄跳び。
腹筋、背筋、拳立て伏せ、スクワット。
当番が朝食を作っている間、他の者は道場に整列し寮歌を合唱。
朝食後は、館内の清掃。
9時30分、整列して大山倍達を待って朝礼。
その後は昼まで、受け付け、電話番など各自の仕事を行う。
昼食後は、週2回、内弟子稽古。
深夜まで続く稽古が終了するのを見届け就寝する。
毎年、全国から100名の応募があり、約10名が選ばれ入寮するが、脱走者が続出し年末には3、4名になった。
卒寮すると国内や海外の支部道場に指導員として派遣された。

内弟子を含め、総本部で修行をする者は、厳しい稽古に耐えているという誇りがあった。
また比較的アットホームな雰囲気で修行する支部を見下す者もいた。
支部出身の松井章圭は、一部の総本部の先輩たちからかわいがりを受けた。
腕を組んで話を聞いていると殴られ、目をみて挨拶すると殴られた。
そして組手では全力で倒しに来られた。
松井章圭は、理不尽な行為も総本部の習いと受け容れた。
「逃げることは許されない。
強くなって年に1度の全日本大会で堂々と決着をつけてやる」
一部の先輩の私的な制裁に耐えながら、飲めない酒を無理に流し込んだり、雑念を払いのけようと稽古に励み、なんとか総本部に溶けこもうと努力した。
夏の合宿では腕相撲大会が行われ、松井章圭は、理不尽なイジメを行ってくる先輩と対戦。
双方、ケンカ腰で勝負し、松井章圭は、1勝2敗で敗れたが、精神的には一歩も退かなかった。
また総本部で松井章圭は、マンガや本を通して憧れていたスター空手家に接っすることが多かったが、虚像と実物のギャップに愕然とさせられることもあった。
松井章圭は
「人間には表と裏がある。
人間を理解するには『清濁併せ呑む』ということが大切」
と考えるようになった。
清濁併せ呑むとは、善人でも悪人でも、来る者はすべて受け入れるという度量の大きさのことである。

ウエイトトレーニング開始

松井章圭は、先輩から永田一彦トレーナーを紹介され、指導を受けるようになった。
永田一彦は、
パワーリフティングの日本記録者で、
「人間には計り知れない潜在的パワーが宿っている」
という信念を持っていた。
弱音を吐くジム生を3階のベランダの手すりにぶら下げ、泣いて救いを求められても、生まれて1度もできなかった懸垂ができるまで、冷ややかに眺めていた。
サーキットトレーニングなど合理的なメニューに加え、2時間ブッ通しのスクワット、腕立て伏せ300回×3セット、腕立て伏せの姿勢で何分耐えられるかなど一見不合理的なトレーニングも行い「鬼の永田」と呼ばれた。
筑波大学大学院体育研究科コーチ学を専攻しスポーツ医学学際カリキュラム修了、現在、Nメソッドネットワーク代表で永田式鍼灸柔整院院長である。
永田一彦のジム「ワークアウト」は山手線の五反田駅から徒歩5分のところにあるビルの3階にあったが、総本部に居場所がなかった松井章圭は、ジムの片隅のビニールマットで寝泊まりした。
また通常、ジムで必要なのは、ウェアとシューズとタオル、水分だけだが、松井章圭は、筆記用具と稽古&トレーニング日記を持っていた。

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生前は名作漫画『空手バカ一代』のモデル・大山倍達さんとも親交の深かった梶原一騎さん。今回の記事でご紹介するOVA版『新カラテ地獄変』は、そんな梶原一騎さん原作によるアニメ作品で、『空手バカ一代』の後に執筆されたコンテンツです。今回は、そんなOVA版『新カラテ地獄変』に焦点を当て、本編動画やストーリー・魅力を振り返っていきたいと思います。


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昭和へタイムスリップ!そごう横浜店で「昭和レトロ」特集開催。ナポリタンやプリンなど懐かしの味に再会

昭和へタイムスリップ!そごう横浜店で「昭和レトロ」特集開催。ナポリタンやプリンなど懐かしの味に再会

そごう横浜店では4月29日の「昭和の日」に合わせ、4月30日まで「昭和レトロ」特集を開催中。レストランやデパ地下で、クリームソーダやオムライス、ハムカツといった懐かしのメニューが登場します。また、4月28日からは縁日イベントも開催。親子三世代で楽しめる、心温まるレトロ体験を詳しく紹介します。


あの「デュード」がスクリーンに帰ってくる!『ビッグ・リボウスキ』全国リバイバル上映が決定

あの「デュード」がスクリーンに帰ってくる!『ビッグ・リボウスキ』全国リバイバル上映が決定

Filmarksのリバイバル上映プロジェクト「Filmarks 90's」第16弾として、コメディ映画の金字塔『ビッグ・リボウスキ』が2026年5月29日より2週間限定で全国公開されます。誤解から始まる騒動に巻き込まれながらも、マイペースを貫く男「デュード」の脱力系スタイルを劇場で体感する貴重なチャンスです。


祝6周年!「G-MODEアーカイブス」特別生放送が4月16日に開催、待望の新作も世界初公開へ

祝6周年!「G-MODEアーカイブス」特別生放送が4月16日に開催、待望の新作も世界初公開へ

ガラケーの名作を復刻する「G-MODEアーカイブス」が6周年!4月16日に開催される特別生放送では、ゲストにレトロゲームアイドル・村下小粒さんを迎え、ファン待望の「新作タイトル」を世界初公開します。デジタル遺産の保存に情熱を注ぐプロジェクトの節目を祝う、一夜限りの豪華放送の見どころに迫ります。


『To-y』連載40周年!上條淳士展示会「To-y ~帰郷~」が聖地・軽井沢で開催決定

『To-y』連載40周年!上條淳士展示会「To-y ~帰郷~」が聖地・軽井沢で開催決定

漫画家・上條淳士氏の代表作であり、音楽漫画の金字塔『To-y』。連載開始40周年を記念し、2026年4月27日より「SHARE LOUNGE 軽井沢T-SITE」にて展示会「To-y ~帰郷~」が開催されます。主人公・藤井冬威の故郷である軽井沢での初展示。貴重な原稿の公開や浅田弘幸氏を迎えたトークイベントなど、ファン必見の内容を詳しく紹介します。


昭和100周年の「昭和の日」に!懐かしのパッケージで楽しむ大人の辛口ベビースターが限定登場

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2026年の「昭和の日」に合わせ、おやつカンパニーが『ベビースターラーメン(辛口スパイシーチキン味)』を発売。1959年の誕生当時をイメージした昭和レトロな復刻パッケージが、かつての子供たちを「あの頃」へ誘います。おつまみにも最適な、大人向けの刺激的な味わいと懐かしさが融合した一冊です。