準決勝で増田章と対戦。
松井章圭の予想通り、増田章は突きの連打と左右の蹴りで直線的に攻め込んだ。
松井章圭は、前回の試合でカウンターをとった後ろ回し蹴りを放った。
しかし増田章の突進は止まらず、突きと下段回し蹴りでラッシュした。
本戦、延長戦、2度目の延長戦と引き分けたが3度目の延長戦の後の判定で松井章圭が勝った。
「負けなかった」
そうつぶやきながら松井章圭は、大きくうなずいた。
増田章の相手をねじ伏せて勝つ空手に対して、松井章圭は、それを受け返しする、負けない空手だった。
そして松井章圭は、一瞬でも隙があれば、上段への鋭い蹴りを放った。
これが判定ではポイントとなった。
決勝戦は、松井章圭 vs 黒澤浩樹となった。
松井章圭は
(黒澤の下段では自分は倒れない)
そう自分に言い聞かせ小走りで試合開始線に向かった。
試合が始まると、黒澤浩樹は左右の下段回し蹴りが松井章圭の急所に蹴り込まれた。
松井章圭は必死に返した。
黒澤浩樹の突進力がすごすぎるのか、そのプレッシャーに松井章圭が崩れたのか、試合中、2度も松井章圭の左の突きが黒澤浩樹の顔面に入ってしまう。
黒澤浩樹は口から血を流しながら下段回し蹴りの連続攻撃を仕掛ける
松井章圭は必死にそれを返すが、たびたび下段回し蹴りをもらい膝を内側に曲げられてしまう。
その下段回し蹴りの威力に何度も腰を落とした松井章圭だったが、すぐに体勢を立て直し反撃した。
合わせ技で黒澤浩樹のバランスを崩してから上段、中段へ蹴りを放った。
本戦は引き分けとなり、柔と剛の戦いは延長戦に入った。
延長戦も、黒澤浩樹は前進して下段回し蹴り、松井章圭は、合わせ技から大技へつなげるという展開だったが、やがて両者共にダメージと疲れで失速していった。
「ラスト20秒!」
セコンドの声で、まるでなにかにとりつかれたように松井章圭は身体をよじらせて左右の突きから左右の下段回し蹴りを連続で放った。
この連続攻撃に黒澤浩樹は下をみてしまった。
そして延長戦が終わり、1人の主審と4人の副審による判定が行われた。
そのとき
「赤ぁー」
という声が上がった。
そして赤い旗が5本上がり、5-0の判定で松井章圭が勝った。
声の主は、婚約者の韓幸吟だった。
(自分のこれまでの人生はこのときのためにあったんだ)
15歳から公式戦デビューし、17歳で(第12回、1980年)全日本大会出場し、21歳で念願の全日本大会で初優勝した松井章圭は、涙を流しながら大山倍達のもとへいき、礼をした後、差し出された右手を両手で握った。
しかしこの試合は、松井章圭は、2回、反則を犯した上、受けたダメージも明らかに上だった。
黒澤浩樹はほぼノーダメージのまま負けた。
だから後に
「黒澤浩樹は、試合に負けてケンカに勝った」
といわれた。
しかし一方で、圧倒的な強さを誇る格闘マシンに強い精神力で戦い、そして勝った松井章圭は
「Mr.極真」
と称賛された。
「黒澤にあれだけ下段を蹴られて、なぜ倒れなかったんだ?」
試合後、聞かれ、松井章圭は答えた。
「自分は60万在日同胞のプライドを背負って闘っているつもりですから」
1985年、加藤重夫は、極真会館の千葉北支部の師範代の任を辞し、埼玉県新座市に「藤ジム」というキックボクシングのジムを設立した。
後に魔裟斗を輩出した。
加藤重夫は、空手では松井章圭を、キックボクシングでは魔裟斗を育てたのである。
100人組手
全日本チャンピオンになった松井章圭の次の目標は、
・第18回全日本優勝、(全日本大会2連覇)
・第4回世界大会優勝、(世界チャンピオン)
だった。
また大学卒業後は、正式に総本部の指導員として就職することを決めた。
1986年2月、松井章圭は大山倍達に呼ばれ、いきなりいわれた。
「君、ところでいつやるんだね」
「なにをでしょうか」
「君、なにいってるのかね。
100人組手だよ」
「押忍、わかりました」
即座に答えた松井章圭だったが、1つだけ要求した。。
「3ヵ月だけ時間をください」
あの中村誠をはじめ自分が参加した過去3階の100人組手はいずれも真夏に行われていた。
猛暑も失敗の理由だと考えられたため、夏を避けたかったのである。
1986年5月18日、松井章圭の100人組手は、極真のドキュメンタリー映画の一部として使われるため、東映大泉撮影所のスタジオ内に総本部道場そっくりのセットが組まれ行われた。
巨大なスタジオの中にできた道場を、5台のカメラと撮影スタッフが囲んでいた。
スタジオは外部の音を遮断するために締め切られた。
空調も音がするという理由で切られた。
数百個のライトと200名近い人間の発する熱でスタジオ内はサウナ状態となり、松井章圭の計画は崩れた。
相手を務める100名の門下生が並んで正座し、松井章圭は最前列の右端に座った。
極真会館の昇段審査は、初段が1人2分ずつ10名と戦い、その半数以上に1本勝ちを収めなければならない。
2段なら20人、3段なら30人である。
100人組手は、それを100人行う。
過去に100人組手を完遂したのは2人。
ハワード・コリンズと三浦美幸だけだった。
近年では、世界大会2連覇の中村誠が35人で、全日本大会3連覇の三瓶啓二が49人で失敗していた。
極真の頂点を極めた者でも100人組手の壁は高く険しかった。
(2018年時点での100人組手の達成者は9名。
ハワード・コリンズ(1972年)
三浦美幸(1973年)
松井章圭(1986年)
アデミール・ダ・コスタ(1987年)
三瓶啓二(1990年)
増田 章(1991年)
八巻建志(1995年)
フランシスコ・フィリォ(1995年)
数見 肇(1999年)
アルトゥール・ホヴァニシアン(2009年)
タリエル・ニコラシビリ(2014年))
「ドン!」
開始の太鼓が打たれ
「はじめ!」
審判の声が響き渡った。
1人目は、後ろ回し蹴りで1本勝ち。
2人目は、上段回し蹴り、1本勝ち。
3人目、突きと下段回し蹴りで技あり2つをとって合わせて1本勝ち。
4人目、後ろ回し蹴り、1本勝ち。
5人目、足払いと中段回し蹴りで技あり2つ、1本勝ち。
次々かかってくる相手を松井章圭は華麗に退けていった。
しかし15人目の相手に、下段回し蹴りを合わされ、松井章圭は膝をついた。
「よし来い、コラ」
怒った松井は気合を入れて左右の突きの連打から上段回し蹴りで倒した。
16人目、後ろ回し蹴りで1本勝ち。
17人目、上段回し蹴り、1本勝ち。
スタジオ内の温度は40度を超え、松井章圭は肩が上下させて息をし、バケツの水をかぶったように汗をかいた。
21人目で初めて判例負け。
(まだ1/5なのに・・・)
松井章圭が30人目に判定勝ちすると、いったん中断され、冷房が入れられた。
松井章圭は、道衣を着換えた。
再開後、34人目に2度目の判定負け。
(まだ1/3なのに・・・)
46人目に金的に蹴りをもらい中断された後、右下段回し蹴りで技ありを奪った。
50人を超えると、相手の技が皮膚に触れるだけで全身が痛み、体はフラフラ、思考も途切れ途切れになった。
(もうダメかもしれない)
松井章圭は視線を落とした。
その瞬間、盧山初雄の怒声が響いた。
「松井、途中で止められると思うなよ」
59人目に判定勝ちし、開始線に戻った松井章圭は嗚咽を上げた。
75人目、左上段回し蹴りを出した松井章圭が腰から崩れ落ちた。
80人目、夢遊病者のようにフラつきはじめた。
85人目、上段後ろ回し蹴りを出すも崩れ落ちる。
90人目、腕は上げられず足も動かなかった。
意識は朦朧としている。
92人目に中段回し蹴りをもらった松井章圭はキレた。
「よしこい」
突きの連打で突進し頭突きをかました。
下がる相手をなおも追い回した。
もはや組手ではなかった。
相手を門下生たちが座っている中に突き倒し、倒れた相手にさらに攻撃を加えようとした。
主審が松井章圭の襟首をつかんで試合場の中央に投げ飛ばした。
松井章圭のうつろな目には狂気が宿っていた。
95人目、右上段回し蹴りで1本勝ち。
これが最後の1本勝ちとなった。
96人目から100人目まで、松井章圭は、格下の門下生に、ただ殴られ蹴られ、顔を歪めた。
(やっと終わった)
総時間、4時間、組手時間、2時間24分、75勝12敗13分、3人目の100人組手完遂だった。
松井章圭は救急車で病院に運ばれる途中、担架で嘔吐し、そのまま入院した。
拳、肘、つま先、足甲、脛、膝は、ドス黒くパンパンに腫れていた。
(やっぱり空手は肘から下、膝から下を徹底的に鍛えることが基本だな)
そう悟る空手バカだった。
全日本大会2連覇
1986年11月2~3日、第18回全日本が行われた。
黒澤浩樹は「打倒!松井」を目標に1年稽古を積んで出場していたが、2回戦で軽量級選手に跳び膝蹴りでKOされ大会1日目で姿を消した。
パワーアップし殺傷能力を増した格闘マシンの1番の敵は油断だった。
松井章圭は、1回戦を1本勝ち、2回戦を膝蹴りで技ありをとって勝ち、初日を終えた。
大会2日目、松井章圭は、4回戦を判定勝ち、準決勝は後に全日本大会で2度優勝、100人組手達成、世界大会でも優勝する八巻建志だったが、このときは5-0で松井章圭が判定勝ちした。