第5期(1984年4月 - 1989年5月)
第5期ジョン・ロード、リッチー・ブラックモア、イアン・ペイス、ロジャー・グローヴァー、イアン・ギラン
8年間のブランクをの後再結成。折しも世界的なヘビーメタルが勢いを持ち始め、ディープ・パープルは元祖「ヘビメタ」バンドとしての勲章を授かる。
ところで、ディープ・パープル黄金期の再結成は、様々な犠牲を生み出したことで有名である。
特にメンバーを引き抜かれたバンドは致命的な被害を被った。まず、リーダーのブラックモアを抜かれたレインボーは解散をせざるを得なくなり、やはりホワイトスネイクもロードを失い大ひんしゅく。
黄金期再結成のディープ・パープルは、1984年11月、「パーフェクト・ストレンジャーズ」をリリースし、内容的にも高評価を受けた。しばらくして1987年にハウス・オブ・ブルー・ライト」、1988年にはライブ・アルバム「ノーバディーズ・パーフェクト」 をリリース。5年余りは内部対立もなく活動が続いていた。
重なる路線対立の再燃
第6期(1989年12月 - 1992年8月)内紛の再噴出
第6期で突如、メンバー間で対立が表面化し、問題児ギランが脱退。メンバーは、ジョン・ロード、リッチー・ブラックモア、イアン・ペイス、ロジャー・グローヴァー、ジョー・リン・ターナー(ボーカル)の5人編成。
ブラックモアは二度とディープ・パープルのリードを務めることはなくなった
米人リードギタリスト=ジョー・サトリアーニ登場
ジョー・サトリアーニ時代のディープ・パープル
第7期(1992年8月 - 1993年11月)は、ブラックモアが再度脱退。メンバー:ジョン・ロード、ジョー・サトリアーニ(新ギター)、イアン・ペイス、ロジャー・グローヴァー、イアン・ギラン(出戻り)。
当初は第6期のメンバーで作成していたものの、ターナーが脱退(今度はターナーと他のメンバーの間に確執が発生。後任のシンガー探しに紆余曲折あったが、バンド結成25周年の名目でギランが復帰。しかしギランとブラックモアの不仲は決定的になり、ブラックモアが脱退した。
さらに、ブラックモア脱退の時点でツアーが目前に迫っていたため、代わりに米人ジョー・サトリアーニが正式な後任が見つかるまでのツアーサポートとして参加(サトリアーニは実際、義理堅い男であり、テクニックも申し分ないギタリストであった。G3といわれ、スティーブ・ヴァイとイングウェイ・マルムスティーンとならんで21世紀に入って新「3大ギタリスト」ともいわれる存在)。
残念ながら、そのサトリアーニがリードギターを務めたのスタジオ・アルバムはない。
第8期(1994年11月 - 2002年2月)以降現在まで、リードギターはモーズで固定
ギタリスト;スティーブ・モーズ加わる
第8期(1994年11月 - 2002年2月)はジョン・ロード、スティーヴ・モーズ(新ギター)、イアン・ペイス、ロジャー・グローヴァー、イアン・ギランによるメンバー。
7期後半に、ギターがサトリアーニ(米人)に代わって以来、二度と再びブラックモアがディープ・パープルのギタリストを務めることはなかった。
ディキシー・ドレッグスやカンサスなどで高い評価を得ていたスティーブ・モーズ(米人)。ディープ・パープル以外の活動を認める、という条件で加入。1996年2月には「紫の証」を、さらに1998年6月にはアバンダン」をリリース。
深紫の終盤か?キーマン=ジョン・ロードの死、とわの分かれ
それでもディープ・パープルの不死鳥のごとく続く
古希を迎えたギランとグローバーとともに
第9期(2002年3月 - 現在)の最終メンバーは、ドン・エイリー(キーボード)、スティーヴ・モーズ、イアン・ペイス、ロジャー・グローヴァー、イアン・ギラン
肉体的な問題からジョン・ロードが脱退(内紛という説も)、ロードの代わりは、コロシアムII、レインボーやオジー・オズボーン・バンドなどの活動で有名なドン・エイリーが加入し現在に至る。
これでとうとう、ディープパープルの顔であった両巨頭のロードとブラックモアのいないディープ・パープルとなった。
そうこうしているうちに、2012年、ジョン・ロードが膵臓癌の闘病中に肺塞栓症との合併症を引き起こし、逝去。享年71歳。
2013年には、「ナウ・ホワット」がリリースされ、2014年4月には、日本武道館公演を含む来日公演が組まれた。2016年には、5月になって再び日本武道館を含む、全国7か所でのツアーを敢行。ギランと・グローバーは70歳。古希を迎えての来日公演となった。