紫の肖像
メンバーはマシンヘッドのヒットにより、ライブに続くライブで、相当疲労が蓄積されて、演奏の調子も良くはなかった。そこを、イアン・ペイスによってライブ録音のミキシングが行われ、「ライブ・イン・ジャパン」が1973年初にリリースされた。
同時期に制作されたアルバムは、マシン・ヘッドに続く新作のスタジオ・アルバム「紫の肖像」。この評判は芳しくなく、最初にシングル・カットされた「ウーマン・フロム・トーキョー」も、かつてのブラック・ナイトやファイアー・ボール、ハイウェイ・スターなどと較べてヒットしたとは言えなかった。
メンバー間の覇権争い再燃
そこで、メンバー間の不仲とツアーの連続による肉体的疲労は、もはや修復が不能な段階まで来ていた。
まずグローヴァーがスケジュールの不満から脱退を口にし、同時期にブラックモアがギランのボーカルに不満をぶつけだした。
グローバーに次にギランも脱退を表明し、さらにブラックモアが脱退しかけるが、これはペイスとロードが説得し、ブラックモアはバンドに留まることになる。
ともあれ、ディープ・パープルの黄金期である5年続いた第二期はこれで崩壊した。1973年のことである。
ヴォーカルを変えて再出発のディープパープル
第3期(1973年 - 1975年) 紫の炎:BURN
紫の炎:BURN
第3期(1973年 - 1975年)のディープ・パープルのメンバーは、ジョン・ロード、リッチー・ブラックモア、イアン・ペイス、グレン・ヒューズ(ベース&コーラス)、デイヴィッド・カヴァデール(ボーカル)の5人。
紆余曲折はあるものの、ベースのヒューズはどうにか決まったが、ギランの後任がなかなか決まらずバンド解散寸前に陥ったところ、一般から募集することになり、4000人以上ともいわれる応募者の中から、当時はまったく無名だったカヴァデールが選ばれ、第3期ディープ・パープルがスタートする。
1974年2月、新メンバーによるアルバム『紫の炎』が発売された。
内部対立の再燃
第3期の勃興と崩壊への序曲 ブラックモアの独自路線に灯が着く
第2期のハード・ロック路線に加えて、グレン・ヒューズの主張が濃いとされるファンキー・サウンドには一定評がある。
この「紫の炎」の発売直後、ロスアンゼルスの「カリフォルニア・ジャム」に、日没後最初の出演バンド(エマーソン・レイク・アンド・パーマーの前)として登場し、約20万人と伝えられる聴衆の前で演奏を行った。これが大成功し、「トリ」のELPの演奏時間を短時間に追い込んだ。
その後にバンドには音楽上の路線対立が再び発生する。
特にハード・ロックを志向するブラックモアと、新加入の・カヴァデールやヒューズがディープ・パープルにソウル・ミュージックやファンキー・ミュージックの要素をなどを持ち込もうとし、ブラックモアの心がディープ・パープルから離れる。
いよいよ、ブラックモアの脱退がスクープされる。1975年4月8日のことであった。
伝説の1974年のカルフォルニアジャム
新メンバーで巻き返しも迷走を始める紫、失速へ
第4期(1975年 - 1976年)は、ブラックモアもギランも不在
批判と暴動と
第4期(1975年 - 1976年)はジョン・ロード、トミー・ボーリン(新ギター)、イアン・ペイス、グレン・ヒューズ、デイヴィッド・カヴァデールの構成。
ブラックモアの後任は難航し、元ハンブル・パイのデイブ・クレムソンがオーディションを受けたり、セッションはさすがに実現しなかっがジェフ・ベックが候補の名にあがるなど混乱の極みであった。
結果的に、元ジェイムズ・ギャングのギタリストだったボーリンが加入し、第4期のメンバーが決定。初めてのアメリカ人メンバーであった。
1975年10月、アルバム『カム・テイスト・ザ・バンド』が発表される。しかし、その音楽性の変転ぶりにディープ・パープルファンを混乱に陥れるには十分であり、多くの批判にさらされた。それでも11月のハワイでのコンサートを皮切りに、東南アジアまでを含めた大規模なツアーが敢行され、どこも盛況であったという。
しかし、ジャカルタでは2日目、約10万人の観客が集まり暴動にまで発展してスタッフの1人が殺害されるという悲惨な事件に発展。それでもツアーは続行され、1975年12月、3度目の来日が実現した。客席は超満員だったが、ボーリンが左手が不調で、ほとんど動かず、ボトルネックギターの演奏に終始するという不本意な結果に終わった。続くアメリカン・ツアーは問題無く終了するも、本国イギリス公演にてマスコミやファンに激しく叩かれた彼らは、やがて事実上の空中分解状態となった。
こうした混乱に過密スケジュールを背景に、まずカヴァデールが1976年5月に辞意を、さらに7月8日にボーリンが脱退。ヒューズも自バンドの再編を含め、やはり脱退の意思を表明した。
7月18日に、ロードは解散を決定。翌19日、イギリスの新聞デイリー・ミラーが“ディープ・パープル解散”をスクープ。こうして7月24日、事務所より解散が正式に発表された。
かくしてディープ・パープルは、1984年の再結成まで、音楽シーンから姿を消すこととなる
繰り返す迷走の末、黄金期の再結成
元祖「ヘビメタ」バンドとして、当面5年は安定
黄金期再結成のライブ