石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

石井和義の流儀 月給11万円の指導員は突如クーデターを起こした

「アマチュアは勝利にこだわる。当たり前の事です。アマチュア競技は参加料を払って、競技大会に加わり、勝ち負けを競い、栄光の証としてトロフィーや賞状を授与される。勝利のために努力精進する過程において肉体と精神を鍛える それがオリンピック精神であります。しかし、プロ精神は違います。お客様を感動させ満足させて、いかに勝つか、いかに負けるかです。それが銭が稼げるプロ、プロは稼いでなんぼです」


「おい佐竹、なんか正道館っていう空手道場みたいなんやけど」
ある日、佐竹雅昭に友達が1枚のチラシを持ってきた。
それには『DO!エンジョイ空手』と書いてあった。
月謝は3000円。
しかも『今、入会すると、キックミットをプレゼント!』
「なにぃー!」
佐竹雅昭は、本屋で大山倍達の『大山カラテ もし戦わば』と出会い、トラを蹴る絵に腰を抜かし、牛の殺し方、ゴリラの倒し方、山籠りの効果、そのすべてを真に受け、「空手バカ一代」にドップリ浸かり、14歳で毎日、家の裏の公園の木を蹴り始めた。
そして学校では授業中は空気椅子、1時間目終わったら腕立て、2時間目終わったら腹筋、3時間目終わったら逆立ち、4時間目終わったら弁当食べて、昼休みは懸垂や蹴りの練習。
体育の授業は絶好のトレーニングタイムで必要以上に自分にノルマを課して頑張った。
これを中学から高校まで続けた。
高校生のとき、初めて空手道場に通った。
大阪の福島区にあった極真空手総本部直轄道場、師範は若獅子寮出身のごっつい体の人だったが、とにかく「押忍」の縦社会で、白帯は組手もやれなかった。
佐竹雅昭は、これでは強くなれないと感じ、道場に行かない日は、実家の裏にある吹田市北千里体育館内の1回50円のトレーニング場に通った。
その極真の道場の月謝は6500円だった。
佐竹雅昭は見学に行った。
庶民派の街、大阪天神橋商店街。
天満駅のホームから見える場所に正道会館総本部道場はあった。
中に入るとBGMが流れていた。
極真の道場ではありえないことだった。
「あ、見学? 
よく来てくれたねえ。
いやあ、君、大きいねえ。
まあ座って座って」
そういって出て来たのは石井和義だった。
そしてしばらく稽古をみていると中山猛夫が現れた。
第9回極真空手の全日本大会準優勝者である。
中山猛夫は極真空手を離れて正道に移っていた。
また正道会館は稽古方法も新鮮だった。
白帯でも組手をやっていた。
またグローブや脛パッドなどの防具の着用は、ケガを防ぎ、練習量を増やすという点で合理的だった。
その直後に正道館第1回全日本大会が行われ、佐竹雅昭は観に行った。
トーナメントを圧倒的な強さで中山猛夫が優勝した。
「これや!」
佐竹雅昭は感動した。
そして正道会館に通うようになった。
正道会館では、中山猛夫を筆頭に、今西靖明、川地雅樹ら強い先輩の指導を受けることができた。
また道場の雰囲気は明るく、ノリもよかった。
練習もキツかったが、強くなっているという実感があった。
中山猛夫は
「俺たちは拳ダコばっかり作ったって仕方ないやん」
「こんな拳にタコを作っても人は倒れん」
「俺たちは人を倒すのが仕事やろ。
だったら人で拳を鍛えればええねや。
だから組手や。
実戦経験積まなあかん」
「相手が痛がるような蹴りをするのは人で覚えろ」
「相手にタイミングよく当たる打ち方は練習でしか身に付かんで」
といい、その指導は合理的で実戦至上主義。
とにかく格闘技を強くなりたかったらスパーリング、組手。
実戦に対応するためには、道場以外で走ったり、ウェイトトレーニングするなど体力づくりをやる必要があるが、道場というのは対人練習の場。
正道会館は、そういう効率性と実戦性を重視した稽古が行われた。

独自路線の芦原空手

芦原英幸は
「実戦!芦原カラテ―ケンカ十段のスーパーテクニック」(1983年)
「実戦!芦原カラテ (2) 発展編」(1984年)
「実戦!芦原カラテ(3)基礎編 誰にでもできる空手 」(1988年)
というサバキの本を出版した。
この反響は大きく、全国で同好会をつくりたいという問い合わせが殺到した。
例えば東京の同好会は、最初は公共施設を借りて稽古していたが、たちまち人数が増え、新宿に専用の道場ができ350名の会員が通った。
こうして芦原空手は全国に広がっていった。
サバキは、ビデオ化もされた。
芦原カラテを基本編と応用編に分け3本のビデオが製作された。
それは国内のみならず英語版となって海外でも販売された。
そして海外からも修行者が訪れ、芦原空手は、アメリカ、オーストラリア、アジア・・・と世界に道場ができていった。
芦原英幸は、極真空手が既に実戦的ではないとアンチテーゼを投げかけた。
顔面殴打禁止
掴み禁止
金的攻撃禁止
武器の携帯禁止
競技化していく極真空手に反旗を翻し、髪の毛掴んで殴る、倒した相手の頭を踏む、壁に相手をぶつけるなど競技化出来ない技術をも体系化した。
芦原英幸は、イスラエル軍やイタリア警察、自衛隊のテロ対策警務隊にも指導を行った。
新しく開発した回転伸縮式トンファーを、ホルスターでぶら下げたまま飛行機に乗ろうとして捕まったこともあった。
また一切の他流試合を禁止し、他流試合に挑んだ者は破門し、マスコミへの露出も消極的だった。
芦原空手は競技化を完全に無視した「護身術」だった。
決められたルールで1対1でド突き合う空手ではなく、門下生は必死に練習しても大きな試合もなく評価されることもない。
それでも芦原英幸の強さはホンモノで、道場生にとってヒーローだった。
石井和義はプロモーターとしてK-1をはじめ数々の格闘技イベントを成功させた。
マスコミに派手に宣伝されたり誇張されるのを嫌い、あくまで仕事を持ちながらの空手、そしてど突き合いの試合ではなくサバキなど独特の技術を駆使し実戦空手の道を行く芦原空手。
大会場での試合、プロ化、エンターテイメントまで取り入れながら最強を目指す正道空手。
その方向性の違いは明確だった。

他流試合 常勝軍団

正道会館は「挑戦」をテーマに、他流派の空手トーナメントにも参戦し「他流試合」を行った。
他流派の試合に出て判定になると、どうしても勝ちにくい。
どれだけ圧倒していても良くて引分け、悪いと判定負けという苦い経験から
「じゃあ、倒せばいいんだ」
と「倒す空手」を追求。
白蓮会館の大会で優勝した松本栄治、柳沢聡行、士道館の大会で優勝した玉城厚志など、他流派の空手の試合に乗りこんで勝ち、「常勝軍団」といわれた。
そんな正道空手で、佐竹雅昭は、関西外語大学の1年生時に正道会館の全日本大会に初出場で4位。
2年で2位、3年で2位、4年で優勝と着実にレベルアップし、正道館空手最強の男となった。
大学在学中は、アルバイトをしていたが、引っ越しのアルバイトではエレベーターを使わず階段を使った。
プールの監視員のアルバイトでは、水中で走ったり、蹴りの練習をして
「監視員が暴れている」
と子供にチクられた。
やがて主任に昇格すると、正道会館の後輩を雇い入れ、自分は監視台に上がらずに交代でミットを持たせて練習した。
当時のフルコンタクト空手界は、まるで戦国時代で、各流派の選手たちは戦国武将のように互いをライバル視した。
特に最大にして最強、そして関東の極真空手と、そして関西の新興勢力正道会館の対立は、その最たるもので、佐竹雅昭も、街で極真の有名選手に出会ったら、その場でケンカをしてやろうと思っていた。
1988年、真のフルコンタクト空手日本一を決めるを決めるため、各流派のチャンピオンクラスを集めた「リアル空手トーナメント」 が行われた。
佐竹雅昭は勝ち進んだ。
そして決勝は、練習でも1度も負けたことがない後輩、柳澤聡行だった。
最初から押していき有効を2つとり、ラスト30秒で、とどめの刺そうと前に出たところにカウンターの跳び膝蹴りをアゴにもらい片膝をついて技ありをとられ逆転の判定負けをした。
その後、柳澤聡行はリング上で、UWFの前田日明への挑戦状を読み上げた。
前田日明が立ち上げたUWFは、従来のプロレスではない格闘技色の濃いプロレスで社会現象といわれるほど大きな支持を受けていた。

この敗戦でショックを受けた佐竹は、関西テレビへの就職を断りに行き、空手漬けの毎日を送るため正道会館の職員になることを決めた。
石井館長にそのことを伝えると
「ウチに来るならこれだけ出そう」
とパッと手を開き指を5本立てた。
佐竹雅昭は
(うわ、50万くれるんやあ)
っと思った。
そして最初にもらった給料袋の中身は5万円だった。
佐竹雅昭は、5万円の給料で、衣食住を行うために、足らない分はパチンコで稼いだ。
職員の仕事は、まず朝、道場に行き清掃。
そして事務仕事。
午後は「Bigin Sports」という正道会館の格闘技ブランドのサンドバッグやミット、グローブなど格闘技用品の梱包と発送。
夕方から空手の指導を行った。
当時は本革サンドバッグが20万もしたため高くて買えなかった。
だから石井和義はトラックのテント生地でオリジナルのサンドバッグを自作してみると、原価5千円でできた。
そして正道総本部道場には20本ぐらいサンドバッグが並んだ。
それを道場生が楽しそうに蹴って、稽古が終わっても帰らなかった。
くの字型のビッグミットやパンチンググローブ、スネガードなどをつくった。
防具をすることで痛くないから組手が楽しくなり、他流派が道場まで買いに来た。
これはビジネスチャンスと思い通販を開始。
本革20万のサンドバッグがテント生地だが19800円で手に入ると飛ぶように売れた。
「Bigin Sports」は後の東京進出の大きな原資となった。
結局、佐竹雅昭は正道会館の職員は6年続け、月給は13万円まで上がった。

打倒 極真

1988年、正道会館は全日本大会を一新させた。
まず畳の上だった試合場がリングになった。
これによって選手は畳の外に逃げることができず、よりアグレッシブで完全決着が期待される。
また本戦、延長戦、再延長戦を戦い差が出なかった場合、体重差10㎏以内であれば、グローブをつけて顔面パンチありで延長戦を行うことになった。
この大会で角田信朗は、2回戦まで本戦で判定勝ち。
3回戦は左ミドルキックでKO。
準々決勝で、1年前の同大会で背中をみせて屈辱の敗退を喫した今西靖明と対戦。
開始30秒、今西靖明のパンチが角田信朗の顔面をとらえダウンさせてしまうアクシデントがあった。
ドクターは止めようたが角田信朗が続行を懇願し、1試合挟んで改めて試合が行われた。
角田信朗は今西靖明の猛攻を体を捻って打点をズラシして殺し、必殺の左フックを右肩に叩き込んだ。
通称:肩パンチを嫌がって今西靖明が右のガードを開くと、角田信朗はそのガードの内側にパンチを入れた。
左ボディブローで一瞬、今西靖明の体が沈み、後退。
その後も角田信朗は今西靖明の攻撃に対して必ず左の肩パンチを返した。
そして試合はグローブマッチに突入。
角田信朗のパンチに今西靖明はそむけてしまう1年前の真逆の展開。
角田信朗はあらゆる角度からパンチを浴びせラッシュ。
技ありを奪い、そして最後は左フックで肩パンチと同じ反応を起こし右ガードが開いた今西靖明に右アッパーをねじ込み、再び閉じたガードの外から左フックでフィニッシュ。
今西靖明は鼻血を出しながら倒れていった。
昨年からの目標「打倒!今西先輩」を果たした角田信朗は、リングを降りると同時に倒れた。
今度こそドクターがストップしようとしたが、角田信朗は続行を望んだ。
「角田、わかった。
お前の骨は俺が拾ったる」
石井和義はそういって本部席に戻った。
準決勝の相手は佐竹雅昭だった。
心を鬼にした佐竹雅昭の容赦ない攻撃の前に角田信朗はマットに膝をついた。

正道会館のチャンピオンになった佐竹雅昭は、憧れの大山倍達の極真空手の大会で優勝するつもりだった。
これまで極真を破門された芦原英幸の弟子である石井和義の正道会館と極真会館と交流がなかった。
しかし大山倍達が
「空手界の大同団結」
を呼びかけたことにより、正道会館の選手の出場も認められ、1990年6月2日に行われる極真空手の第7回全日本ウエイト制大会には複数の正道会館の選手が出場申し込みを行った。
佐竹雅昭も重量級に申し込んだが、なぜか彼だけ書類不備となり出場できなった。
同じ重量級への出場が認められた角田信朗の心は燃え上がった。
夢の「地上最強の極真カラテ」に挑戦できるのである。
角田信朗は週3回は自分の道場である神戸支部、残り3日を大阪の総本部で稽古した。
会社のバックアップを得て大阪へ行く日は18時に仕事を終え、大きなバッグを抱えて阪急電車に乗り19時からの代表選手の特訓に参加。
正道会館の空手の試合のルールでは、片手による瞬間的な掴み・引っ掛けが許され、相手を掴んでの攻撃バリエーションが発達している。
しかし極真会館の空手の試合のルールでは「掴み」禁止されているため、このルールでの組手が延々と続いた。
そしてその後は一気に5連打する地獄のキックミット5連打。
最終電車に間に合うギリギリまで稽古は続いた。
通常ならJR環状線の天満駅から1駅乗って大阪駅までいき、神戸線に乗り換える。
角田信朗の家は阪急電車の王子公園駅から徒歩5分。
しかし阪急電車は終わっているので、JRで灘駅まで帰り、そこから家まで40分歩いた。
そして翌朝8時45分に出社した。
神戸支部での稽古を王子公園で陸上トレーニングに替えることもあった。
ウォーミングアップで、腕立て伏せ50回&ジャンピングスクワット50回×10セット。
それが終わるとインターバルダッシュ。
とどめは王子公園の入り口から山へ向かって伸びる500mの坂を地獄ダッシュ。
200mくらいで息ができなくなり、残り300mは無酸素状態。
ゴールするとよだれと鼻水だらけになった。
最初は1本もできなかったが、極真ウエイト制大会までに5本こなせるようになった。
1990年6月2~3日、極真会館が主催する第7回オープントーナメント全日本ウエイト制空手道選手権大会が大阪府立体育館で開催された。
他流試合において、すべての大会で上位を独占し「常勝軍団」といわれた正道会館だったが、極真空手は心技体共にレベルが違った。
軽量級、中量級、重量級の3階級に12名の選手を送り込んだが、2日目の準々決勝に進めたのは重量級にエントリーした柳澤恥行と角田信朗だけだった。
そして柳澤恥行は、この大会で優勝する岩崎達也に判定負け。
残るは角田信朗だけだった。
角田信朗の次の相手、準々決勝の相手は、井口勝利だった。
「ゼッケン210番!
角田伸朗選手!」
試合場に上がり正面を向くと大山倍達と目が合った。
大山倍達はニヤッと笑った。
試合が始まると井口勝利の蹴りに角田信朗はクイックローを返した。
蹴られたら蹴り返すような攻防が何度が続いた後、肩を狙った角田信朗の左のパンチが流れて顎に入り、井口勝利が倒れた。
角田信朗は頭を下げた。
再開後、ポイント勝ちも考え、手数重視となりつつある空手のトーナメントであるが、角田信朗と井口勝利は魂を込めて打ち合った。
井口勝利は100㎏を超える巨体からムチのようにしなった左ハイキックを出した。
角田信朗はそれを捌いて、井口勝利の体を時計回りに回した。
そして右フックをボディに打ちながら右足を外に踏み出した。
左半身に意識を集中させた井口勝利の右側の顔面に角田信朗は腰を残してヘッドを走らせた左ハイキックを叩き込んだ。
井口勝利は丸太のように倒れた。
強靭な精神力ですぐに立ち上がろうとしたが夢遊病者のようによろめいた。
劇的な1本勝ちだった。
角田信朗は試合場の上で泣いた。
この奇跡の一戦で気持ちが切れ抜け殻となってしまった角田信朗は準決勝で敗れた。
しかし他流派の選手が極真空手の全日本大会でベスト4に入ったことは快挙だった。
表彰式で大山倍達と握手を交わした。
「君ねえ、秋の無差別と世界大会にも出てこい!」

佐竹雅昭 vs ドン・中矢・ニールセン

1990年、佐竹雅昭に、前田日明と異種格闘技戦を行ったキックボクサー:ドン・中矢・ニールセンと試合をしないかと全日本キックボクシング連盟からオファーがきた。
これまで顔面パンチなしのフルコンタクト空手の試合をやってきた。
空手選手ならそれでいいだろうが、空手家を目指す佐竹雅昭にとっては、相手がキックボクサーでも戦い倒さなくてはならなかった。
だからこの試合を受け、ボクシングジムやキックボクシングジム、シュートボクシングジムに通い顔を腫らせた。
1990年6月30日、全日本キックボクシング連盟「INSPIRING WARS HEAT」で行われた。
ルールはキックボクシングルール。
佐竹雅昭は契約体重まで体重も落として前歯も4本抜いた。
試合はケンカとなった。
リング上でニールセンはヘラヘラ笑い佐竹をなめた態度をとった。
そして膝蹴りで佐竹の金的を狙った。
佐竹はこのケンカを買い、頭突きから右ストレートを叩き込んでニールセンを倒した。

佐竹雅昭 vs クマ殺し:ウィリー・ウィリアムス

1991年6月4日、 「USA大山空手vs正道空手5対5マッチ~LAST CHANCE」が代々木競技場第二体育館で行われた。
石井和義は、試合開催まで、毎週、大阪で夜の稽古が終わった後、東京までまで4時間半かけて車で走った。
夜中にカプセルホテルに入り4時間ほど寝て朝風呂に入り、演出、音響、会場設営、チケット販売の業者と打ち合わせや挨拶回りなどを行い、深夜、大阪まで車で帰った。
試合当日もルールやレフリー、選手のチェックを行った。
チケットは立見席まで完売し、2万円のリングサイドS席は2万円はダフ屋に20万円で販売された。
リングアナは、新日本プロレスの田中秀和。
USA大山空手の大山茂・泰彦の兄弟師範による真剣白刃取りの演武。
中堅戦で角田信朗はギャリー・クルグビッツを跳び膝蹴りでギャリー・クルグビッツはひっくり返し、大将戦では佐竹雅昭はクマ殺しのウィリー・ウィリアムスと対戦し判定勝ちした。
試合後、両チームは互いの空手着を交換し、ファンは拍手を送った。
東京での初めての大会を石井和義は成功させた。

RINGS(リングス)

佐竹雅昭は、お金がないことは大して気にならなかった。
しかし空手が世間から認知されないことには大きなフラストレーションを抱えていた。
同じ格闘技でも華やかな脚光を浴びているUWF、そしてそのエース格である前田日明がうらやましかった。
意を決した佐竹雅昭は、単身、東京の代々木第2体育館に行き、サンボの試合会場に来ていた前田日明に直接会いに行った。
当然、アポなしである。
会場につくと普通にチケットを買い入場。
まずサンボの試合をみて、トイレに立った前田日明に廊下で挨拶をした。
「あのー、前田さん、僕と戦ってほしいんですけど」
「そんなんいきなり無理や。
段取り踏んで来い」
そう冷静に返され、「プロになってから来い」ってことだろうと佐竹雅昭は解釈した。
そんなときにドン中矢ニールセン戦のオファーがあり、ケンカファイトの末にKOした。
そして「段取り踏んで来い」といわれてから2年後、佐竹雅昭は、UWF崩壊後、前田日明が立ち上げた総合格闘技「RINGS(リングス)」への参戦を決めた。
そのキャッチコピーは
「世界最強はリングスが決める」
最初、佐竹雅昭は、正道会館を離れ1人でリングスのリングに上がるつもりだったが、石井和義に
「お前だけやないやろ」
といわれ、リングス参戦直前には
「お前、アムステルダムに道場破りに行ってくれ」
と海外修行に出された。

1991年秋のカラテワールドカップ91(正道会館の第10回全日本大会、改名された)は、オランダのジェラルド・ゴルドーやピーター・スミット、ソ連のアマチュアボクシングスーパーヘビー級チャンピオン:スラブ・ヤコブレフなども参戦した。
佐竹雅昭は、ジェラルド・ゴルドーに試し割り判定で負け。
角田信朗は、大会直前、左膝の内側の靱帯を断裂し、右のローキックでスラブ・ヤコブレフを沈めた後、棄権した。
試合後、呼ばれていくと石井和義と前田日明がいた。
石井和義が唐突にいった。
「角田さぁ、12月にリングスさんの大会が有明コロシアムであるんやけど、出てみない?」
「押忍?」
「佐竹と一緒に。
いいよねえ。
返事しとくよ?」
こうして1991年12月7日、「RINGS(リングス) ASTRAL STEP FINAL BLAZE UP 炎上」(有明コロシアム)で佐竹雅昭と角田信朗が初参戦。
この後、柳沢聡行、アダム・ワット、後川恥之、玉城厚志なども参戦した。
石井和義はリング上で宣言した。
「極真空手の大山館長が少年マガジンの誌上で戦った世界中の強者と私たちは実戦で戦います」
佐竹雅昭は、リングスデビュー戦でハンス・ナイマンと正道会館空手ルールで2分5Rを戦い引き分け。
1992年1月12日、体重無差別、グローブによる顔面パンチあり、肘打ちあり、掴みありの空手大会「第1回トーワ杯争奪 カラテ・ジャパン・オープン」で優勝。
(翌1993年の第2回大会も制しV2)
1992年1月25日、リングスでジェラルド・ゴルドーと再戦し反則勝ち。
1992年3月5日、フレッド・オーストロンにKO勝ち。
1992年4月3日、ヘルマン・レンティングにKO勝ち。
1992年5月16日、バート・コップスJrにKO勝ち。
1992年6月25日、ウィリー・ピータースに時間切れ引き分け。
1992年7月16日、ピーター・ウラにKO勝ち。
1992年8月21日、ロブ・カーマンと時間切れ引き分け。
そして1992年10月29日、長井満也をKOしたが、長井満也が「拳で殴った(反則)」とアピール。
スロービデオでは佐竹の掌底が長井のテンプルを完全にとらえダウンを奪っている。
しかしよくみると、その前に1発だけ拳による打撃が当たっていた。
結局、佐竹雅昭は、この試合を最後にリングスを去った。
正道会館勢は突然、RINGS(リングス)から撤退した。
あまりに突然で、佐竹雅昭の最後の試合がモメたことが原因ではないかともいわれたが、本当の理由は「K-1」だった。
佐竹雅昭は、前田日明のことは好きだったし、RINGS(リングス)に参戦し続けいつか対戦もしたかったが、すでに石井和義から、
「フジテレビと組んで凄いことをやる」
とK-1の構想を聞いていた。
それ自体にすごい魅力を感じたし、石井和義がいろんな我慢や苦労をしているのを知っていたから
「館長を男にしたい」
という思いが強くリングスを離れた。
佐竹雅昭にとって石井和義は師だった。
その指導は理論的で、空手家としても芦原英幸から継承したサバキの技術は非常に高く、
「何人か乗るなら新幹線を使うより車のほうが安上がりや」
と東京大阪間を車で何往復もする館長が好きだった。

鉄人:アンディ・フグ

アンディ・フグは、第4回極真空手世界大会大会(1987年)で2位(外国人で史上初)となった。
第5回極真空手世界大会(1991年)で27歳のアンディ・フグは優勝候補だった。
そして「アンディ包囲網」と呼ばれた超大型選手に囲まれたトーナメントを90kg前後の体で勝ち上がっていった。
しかし4回戦に事件は起こった。
20歳のフランシスコ・フィリョが故意ではないが審判が試合を止めた後に繰り出した蹴りによって倒されてしまったのである。
フランシスコ・フィリョの反則負けかとも思われたが、審判委員長であり、アンディ・フグが世界で一番尊敬していた大山倍達は、
「たしかに試合はスポーツだが、それ以前に極真空手は実戦を想定した武道である。
武道である以上、たとえ第3者が「止め」を宣告してもスキをみせてはならない。
これは倒されているアンディの明らかな負けである」
としたことによりアンディ・フグの負けとなった。
試合後、人生で初めて失神KO負けしたアンディ・フグは控室にこもり、恋人のイロナ・フグは
「アンビリーバブル」
と泣き叫んだ。
世界大会終了後、28歳になったアンディ・フグは、同棲中のイロナとの結婚や、友人と共同経営していたスポーツショップ「Sports Freaks」の業績悪化など、いろいろな問題を抱えながらプロファイターの道を模索した。
アンディ・フグが極真を離れプロになりたがっているのをインタビューを受けていたフリーライターから聞いた石井和義は、ドイツ語が得意な後輩にスイスのアンディ・フグとコンタクトを取らせた。
そしてアンディ・フグは来日したが、飛行機が1時間も早く着いてしまい、真面目なアンディフグは1時間、ロビーで立ったまま出迎えを待った。
そして1992年7月30日、「格闘技オリンピックⅡ」で柳澤恥行と対戦。
踵落としで圧倒し、プロデビュー戦を勝利で飾った。
通常、フルコンタクト空手の試合は派手さが足りないため有料チケットを売ることは難しい。
しかしアンディ・フグは違った。
踵落としをはじめとする華麗で強烈な足技と鍛え上げられた肉体が発するパワーは観ているものを驚愕させた。

アンディ・フグの正道会館への移籍に大山倍達は怒り、極真会館は正道会館と絶縁した。
(大山倍達没後、解消)
絶縁して約1年後、石井和義から角田信朗に電話が入った。
「お前、スーツ持ってるか?」
「押忍」
「じゃあスーツに着替えて東京行きの新幹線に今からすぐ乗って、乗ったら電話してこい」
「お、押忍?」
(プーップーップーッ)
角田信朗は、わけもわからず着替えて新幹線に乗ってからかけ直した。
「押忍。
いま新幹線に乗りました。」
「あーそお、ご苦労さん」
「自分はどうさせていただいたらいいのでしょうか?」
「ホテルニューオータニでね、梶原一騎先生の7回忌の記念式典やってるんだけど、角田、俺の代わりに出席してきてよ」
「オッ、押忍!!!???」
「極真の人たちもみんな来てるらしいよ」
「押忍!!
館長!そんな大事な席に自分のような者では館長の代わりはつとまりません!!」
「なにいってんの。
みんなお前が来るの待っとるで」
「押忍!!
しかし館長!!
極真会館さんからは絶縁状が届いている状態なのに、そんなところへ自分が行って大丈夫なんでしょうか!?」
(プーップーップーッ)
悲惨だった。
東京駅からタクシーでホテルニューオータニへ。
遅れて会場に着いた角田信朗は恐る恐る会場のドアを少しだけ開けて中を覗いてみた。
すぐ目の前に極真会館の黄色のブレザーを着た50名ほどの屈強な男たちがビッシリと出席していた。
しかも正面で大山倍達が挨拶をしている最中だった。
(ヤバい)
角田信朗は静かにドアを閉めた。
(こんな敵陣に、絶縁状を回されている組織の幹部がノコノコ入っていったらどうなるのだろう?)
思案に暮れ、もう1度覗こうとしたとき、中からドアが押されて開き梶原一騎の弟:真樹日佐夫が出てきた。
「いやあ、角田君来てくれたのか」
その声に会場の中の全員が角田信朗をみた。
「ちょうどいい、大山総裁に紹介するよ」
「押忍。
いえでも・・・」
真樹日佐夫に押され角田信朗はズズッズズッと大山倍達の前まで来た。
「いやあ総裁。
紹介します。
正道会館の角田君」
「オ、押忍。
せ、正道会館の、か、角田であります。
ごぶたさ、いやご無沙汰しております」
大山倍達は右手で握手しながら左手で角田信朗の頬をパチパチ叩いた。
「いやあ!
もう1度会おう!」
(もう1度会おうか。
今会ってるのに)
角田信朗は心の中でツッコんだ。

芦原英幸 難病を発症

1992年、芦原英幸は自分の左のパンチに力が入らないことに気づいた。
2週間後には、ある人の名前をどうしても話せず、舌が動かないことに気づいた。
精密検査を受けて「ALS(筋萎縮側索硬化症、ホーキング病)」と診断された。
手や足、のど、舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気。
しかし筋肉そのものの病気ではなく筋肉を動かし運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害を受ける。
その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなり、力が弱くなり、筋肉がやせていく。
一方で通常、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれる。
1年間で新たにこの病気にかかる人は人口10万人当たり約1-2.5人という難病だった。
「俺、やっぱり死ぬわ。
最後には呼吸ができなくなるんだって」
芦原英幸は医師に入院を薦められても聞かなかった。
「ジタバタしても仕方がないわな。
2、3年か、人によっては10年以上生きることができる病気みたいだけど寿命だ。
寿命が決まっているんだから寿命が来るまでにやり残した仕事をやれるだけやってみるよ」
そういって黙々と仕事をした。
やがて言葉を発せられなくなり、文字盤を1文字1文字指して会話した。

K-1

正道会館の東京進出は、新宿区の上落合で20坪ほどの風呂屋さんの半地下の小さなスペースが東京道場となった。
石井和義は、その隅の一坪のスペースに机1つと折りたたみのイスを置いて仕事をした。
そしてK-1開催が決まると、高田馬場に移転させた。
来日したK-1ファイターは、この道場でトレーニング、調整して試合に出た。
1993年4月30日、代々木第一体育館で「K-1」という新しい格闘技イベントが誕生した。
打撃系格闘技世界最強の男はいったい誰なのか?
「空手」「キックボクシング」「拳法」「カンフー」など、代表的な立ち技・打撃系格闘技の頭文字「K」
その中の世界最強、真のNo.1を決めんとする「K-1 GRAND PRIX′93 10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント」
競技、団体、階級の垣根を飛び越え世界王者同士による夢の異種格闘技ワンデイトーナメント。
8オンスグローブを着用。
3分3R(ラウンド)、あるいは3分5R。
頭突き、肘撃ち、バックハンドブロー、目付き、金的、投げ技、関節技は禁止。
その他の打撃技はすべてOKという打撃系格闘技ルール。
出場選手の中には8年間無敗の記録を持つキックの帝王:モーリス・スミスがいた。
そのモーリス・スミスの無敗神話に終止符を打ったオランダの怪童:ピーター・アーツもいたし、この2人を破ったことがあるアーネスト・ホーストもいた。
佐竹雅昭は、UKFアメリカヘビー級王者、11戦11勝11KOのトド"ハリウッド"ヘイズを2R 0:45、右ローキックでKO。
ブランコ・シカティックの石の拳は、タイの英雄、最強のムエタイ戦士:チャンプア・ゲッソンリットをロープまでフッ飛ばした。
アンディ・フグは、この記念すべき第1回のK-1において決勝戦の前のスペシャルワンマッチで角田信朗と空手ルールで対戦し圧勝した。
そして30歳になるアンディ・フグはリング上で宣言した。
「来年、私はK-1グランプリのチャンピオンに、K-1ルールで挑戦します。」
決勝戦ではブランコ・シカティックのパンチがアーネスト・ホーストのテンプルを打ち抜き失神KO勝ち。
波乱万丈の展開に加え、全7試合中6試合がKO決着。
衝撃的なK-1誕生の瞬間だった。
この後、「K-1」は、空前の格闘技ブームを引き起こしていく。
大手スポンサーがつき、東京だけでなく名古屋、大阪、福岡、やがて海外でもイベントを開催。
会場は多数の芸能人が訪れ、チケットのとれないモンスターイベントとなっていく。

大山倍達 死去

1994年4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区の聖路加国際病院で大山倍達は死去した。
70歳だった。
大山倍達は遺言書で松井章圭を後継者に指名。
松井章圭は極真会館の館長となった。
大山倍達はあまりに偉大な存在だった。
極真のほとんどの支部長は大山倍達に憧れ、この道に身を投じた。
その絶対的存在、精神的支柱を失った極真は、この後、分裂を繰り返していく。
1994年6月、大山倍達の遺族が記者会見を行い
「遺言に疑問があるので法的手段にでる」
と発表。
彼女たちは大山倍達の本葬時にも抗議活動を行った。
そして5名の支部長がこれを支持し、松井章圭の下を離れ、大山智弥子未亡人を館長とする新組織を結成した。
これが「遺族派」、松井章圭を長とする組織は「松井派」と呼ばれた。
1995年4月、35人の支部長が「支部長協議会派」を結成。
松井派は一時、12名までに減った。
世界各地でも分裂が生じ、支部の取り合い選手の引き抜きが行われた。
8月、支部長協議会派と遺族派が合流。
「大山派(現:新極真会)」と呼ばれた。
極真空手の各種大会が、松井派と大山派(現:新極真会)によって開催されるようになる。
松井館派と大山派は、互いに正当性を主張し合った。

佐竹雅昭 脳ダメージで離脱

同時期、正道会館所属の植田修選手がキックボクシングの試合で受けたパンチが原因で亡くなった。
彼は1月にも空手の試合でダウンし、タンカで運ばれていた。
佐竹雅昭は、後輩の死に改めて頭部への打撃の怖さを思い知り、そして覚悟を決めた。
「K-1 GP94」では決勝でピーター・アーツと接戦した末に2位となった。
そして1995年3月3日、拳獣:サム・グレコにKO負け。
このときダウンしてからの記憶を失い気がつけば車の中にいた。
本人は
「大丈夫、大丈夫」
といっていたがその様子は全然大丈夫ではなかった。
深夜、病院に行き検査を受け、いったん東京に戻り、日大病院で再び検査を受けると脳の海馬がダメージを受けて血管が細くなっていることがわかった。
医者はいった。
「佐竹さん、このままでは、その若さでアルツハイマーになりますよ」
石井和義に報告したが、
「人にいうなよ」
とかん口令が出ただけで試合はドンドン組まれていった。
しかし肉体的にはタフで打たれ強い佐竹雅昭が頭を打たれるとすぐに倒れ始めた。
佐竹雅昭は試合は決まると、大阪の正道会館の宿泊施設に寝泊まりし、自分で洗濯などをしながら、朝は淀川沿いを走り、午後からはジムワーク、夜はウエイトトレーニングとマッサージという生活を続けた。
そして試合前には、頭のこともあるので何があってもいいように自分の部屋や仕事場を掃除し身辺を清めた。
1995年、K-1GP開幕戦で、総合格闘家:キモと対戦。
試合前、相手の呪いのパフォーマンスに十字を切って対抗。
そして2R 2:27、左ミドルキックでTKOした。
ただ佐竹はこの試合のことも覚えていない。
キモの投げ(反則)で頭を打ったショックで前後の記憶を失った。
1995年5月4日、K-1GP準決勝でジェロム・レ・バンナと対戦。
3R、左フックでKOされた。
この後、佐竹雅昭は少しの間、リングから消えた。
(復帰は1996年10月18日、K-1 STAR WARSで約1年半ぶりに試合復帰。
アンディ・フグとフルラウンド戦ったものの、消極的な試合姿勢で判定負け)

芦原英幸 死去


1995年1月15日、芦原英幸は息子であり2代目館長候補である芦原英典の技を2日に渡りチェックした。
それは目線から顔の位置の数㎜のズレを指摘する厳しいものだった。
そして同年4月24日、2年半の闘病の末、亡くなった。
50歳だった。
石井和義は、芦原英幸の葬儀にかけつけたが遺族に焼香は断られた。
生前、芦原英幸は
「石井を許すことはできない」
といっていたという。

極真との絶縁解消 

1996年7月、松井章圭、石井和義、フジテレビで会合が持たれた。
極真会館は、アンディ・フグの引き抜きに怒った大山倍達が絶縁して以来、正道会館との接触はなかった.
松井章圭は
「極真会館は、過去に行われた除名、破門、絶縁処分を解除する」
と宣言。
そして石井和義のオファーを受けて、フランシスコ・フィリョがK-1に参戦。
デビュー戦で、再びアンディ・フグを失神させた。
その後も連続KO劇を起こし「一撃」ブームを巻き起こした。

石井和義と佐竹雅昭 ケンカ別れ

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